しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

2011年05月07日 | 大阪歴史散策

ゴールデンウィークの道路渋滞を避けて、一般道を通って大阪の北端にある能勢町に行って来た。能勢町はとてものどかな雰囲気で、美しい山並みと田園風景に結構癒される場所である。

大阪の都心や住宅地で滅多に見られなくなった「鯉のぼり」も、この時期にここまで来るといくつも泳いでいる。昔懐かしい茅葺の家も点在している。



茅葺屋根の民家の庭に「鯉のぼり」が泳いでいるのを見ると、数十年前にタイムトリップしたような気分になって、思わず何枚も写真を撮った。上の画像は蛙の鳴き声の聞きながら、「大日堂」の近くの民家を撮影したものだが、こういう景色はこれからもずっと残しておいてほしいものだ。

能勢町には結構歴史の古い寺があるが、無人の寺もあるようだ。昨年に能勢町野間西山「今養寺」という寺で、国の重要文化財である平安時代の仏像「木造大日如来坐像」が盗まれたそうだが、この「今養寺」は無人なのだそうだ。
次のURLで盗難された文化財のリストが出ているが、仏像の盗難は全国で毎年30件近く発生しているのは驚きだ。
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/tonan.html

上の鯉のぼりの画像を撮った民家の近くにあった「大日堂」も無人の寺で、仏像を拝することは叶わなかったが、ここには平安時代の大日如来坐像と二天像が安置されているはずだ。江戸時代に、この場所より西側の「堂床山」という山の荒廃したお堂に雨ざらし状態にあった仏像を移してきたためにかなり傷んでいるそうだが、三像とも一木彫の仏像であるらしい。



上の画像は「月峰寺」境内にある「阿弥陀坐像石仏」である。制作は文安四年(1447)で、作者は不明である。
「月峰寺」は7世紀の推古天皇の時代に開創されたという伝えのある古い寺院で、開創のころは剣尾山の山頂近くの山岳寺院であった。最盛期には四十九もの院坊が存在したそうだが、天文14年(1545)丹波城主波多野氏の兵火により全焼してしまい、天文18年三好長慶や片桐勝元が再興を計るもならず、寛文四年(1664)観行上人が山上を去り、麓の現在地に再建したのだそうだ。
お願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、釈迦如来坐像(鎌倉末期~室町初期)、木造聖徳太子孝養像(南北朝~室町時代)という古仏があるそうだ。



「玉泉寺」というお寺にも行って来たが、ここは先程の月峰寺の坊寺の一つとして剣尾山の山頂近くにあったのだが、戦火にあった後現在の場所に移ったのは宝永五年(1708)なのだそうだ。
ここもお願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、平安時代の薬師如来座像(能勢町指定文化財)や江戸時代の仏師「湛海」の傑作とされる木造不動明王坐像(大阪府指定文化財)などが安置されているそうだ。

能勢に来たら必ず立ち寄ってほしい場所が、国指定天然記念物の「野間の大ケヤキ」。



樹齢は千年とされ高さが30m、幹回りが14m、枝は東西に42m、南北に38mもある大変な巨木で、凄いオーラを感じて眼を釘づけにさせる樹だ。ケヤキの木としては全国で4番目の大きさで「新日本名木100選」や「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうだ。

説明板によるとこのケヤキを中心とする一角の地は、鎌倉時代の承久二年(1220)に創建された「蟻無宮(ありなしのみや)」と呼ばれる神社の境内だったそうで、この木はその神社のご神体だったと考えられている。しかし、明治45年に蟻無宮は近くの野間神社に御祭神が合祀されて、今はこのケヤキが残されているだけだ。ボランティアの人によると新緑の今頃が一番美しいとのことだ。

あと能勢町は、江戸時代の文化年間に始まり200年の歴史がある人形浄瑠璃(大阪府指定無形民俗文化財)が有名だ。能勢町役場の近くに「浄るりシアター」があるが、全国の人形浄瑠璃が衰退していく中で、この町では伝統を継承して今も200人の語り手がいるというからすごい。

「食べログ」で調べると食事をする場所はよさそうなところがいろいろあるのだが、今回は「Soto Dining」でランチをしてきた。



この店は景色も良ければ建物の外観も店内の雰囲気も良い。不便な場所にあるのだが、11時ごろのオープン前から20人近くが並んでいて、12時前には満席になっていた。



画像は鶏のトマトソースだが他にもハンバーグデミグラソースとサーモンのクリームソースがランチのメニュー。こんなお店で能勢の山々の景色を見ながら美味しい食事ができるのは嬉しい。

他にも食事をする場所はいくらでもある。先日行った「若田亭」の蕎麦も良かったし、食べログを見ると、まだまだ素敵な店がいくつもありそうだ。



野菜なら道沿いにいくつも小さな販売所があるが、まとめ買いする時は「道の駅くりの郷」(能勢町観光物産センター)で買う。近隣で採れたばかりの野菜や特産品が豊富にそろっている。米も精米したてのものを販売してくれて、精米のレベルまでも選ぶことができる。もちろんどんな農産物もスーパーで買うよりも美味しくて割安だ。

会社の同僚の話だと、この道の駅の近くで特別天然記念物のオオサンショウウオを見たというのだが、調べると能勢町の川にはオオサンショウウオが多数生息しているようだ。

能勢町の魅力は山や川が美しいだけでなく、このように昔のままの自然と文化と生活が残されているところにある。こんな町が大阪の都心部から近い所にあることが嬉しい。

しかしながら、もしこの能勢町に大手のチェーン店が大型店舗をいくつも構えるようなことになれば、町の中での微妙な経済循環が崩壊して多くの農家や店舗が疲弊し、それがきっかけになってこの町の魅力を支えてきたものが少しずつ崩れいって、どこにでもあるような普通の田舎地方になってしまうような気がする。

いままで町を支えてきた人々の収入が減れば、若い人々は町を去ることになる。そうなれば、有名な野間神社の秋の例大祭や浄瑠璃などの文化の担い手も先細りになってしまうし、お寺や神社を支える檀家や氏子からの収入が減少すれば、いずれ多くの文化財が維持できなくなってしまうだろう。

今多くの地方で高齢化が進み、その地方の文化財に充分な修理がなされず、地方特有の文化が充分に継承されないまま何れは消滅してしまいそうな危機にあるが、その危機を逃れるためには能勢町のように、その地方の住民の中で経済がうまく循環して住民が生活できかつ地元に蓄えが残る仕組みを維持することが重要なのだと思う。

能勢町が田舎の魅力を持ち続ける限り私はこれからも訪れたいし、秋祭りや人形浄瑠璃の公演にも、ぜひ足を運びたいと思っている。
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BLOGariコメント
 
大阪にもいいところがあるんですね。大きなケヤキの木は魅力ですね。さぞかしランチは美味しかったのではないでしょうか。

 道の駅も頑張っておられますね。言われるように「直販」できればそれにこしたことはないですね。

 「3・11」以降大きな流れが今後できるとすれば。「つながり」を求める動きになるのではないでしょうか。今までは「お金で」なんでもできる社会が、良い社会であると私達は勘違いしてきました。

 ただそうやって「つながり」を新たにこしらえたらいいのか、正直わかりません。連休の合間にも考えましたが、「時間切れ」状態です。正直困りました。

 仁淀川町との関係をどうこしらえるのか。昨日朝日新聞の記者の取材を受けました。しばらく雑談して記者さんにも考えてもらいましたが「前例がないから面白い」と言われます。

 その末端の当事者の1人として、悩みは尽きないのです。
 
 
「消費者の利便性の向上」という心地よい言葉に騙されて、多くの地域が、大型チェーン店の参入を歓迎しましたが、それぞれの地域は豊かになったのでしょうか。地域の住民の「つながり」という、かけがえのないものを喪失し、かって賑わっていた駅前の商店街はどこもシャッター街と化しています。
そもそもその地域となんの縁もない資本が、投資をして店舗を作っても、その地方の産品を買うわけでもなく、利益は地域に再投資されるわけではなく、その本社に富が吸われて行くだけで、地域にはほとんど何も残りません。

これから必要となるのは、都市住民と田舎住民との「つながり」ではないかと思っています。都市生活者が田舎の産品を直接買い、農作業の支援やお祭りの支援や動員、子供のイベント企画などで強固な繋がりを作り、会員同士は大手チェーンを利用しない方向に舵を切れば少しずつ世の中が変わっていくのではないでしょうか。もちろん、いざという時の避難場所の確保や投資も必要だと思います。 



隠れ切支丹の里

2009年12月04日 | 大阪歴史散策

171号線の中河原交差点から忍頂寺福井線に入り、履正社茨木グラウンドから山道に入る。サニータウンを抜け大岩郵便局を過ぎると暫く樹木のトンネルのようなところを走る。そこを過ぎると、棚田が広がるのどかな田園風景になり、しばらく行くと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。案内通り左折するとその資料館(茨木市大字千提寺262)がある。思ったよりも小さい資料館だった。


キリスト教がフランシスコザビエルによって天文18年(西暦1549年)に伝えられたことは、小学校や中学校や高校で習ったし、教科書や参考書にはザビエルの肖像画が必ず掲載されていた。神戸市立博物館で本物も見たことがあるが、今まで何度写真でみたかわからないあのザビエル像が、この茨木の山奥から出てきたことはここの展示物を見て初めて知った。


資料館のパンフレットによると、キリシタン大名として有名な高山右近は、永禄6年(1563年)11歳の時に洗礼を受け、その後天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間三島地方(現在の摂津市・茨木市・高槻市・吹田市・島本町)はキリシタン宗の一大中心地となるのだが、天正15年(1587年)豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、同様に徳川家康もキリシタン禁教令を発し、高山右近は慶長19年(1614年)に信者達とともにルソン島のマニラへ追放され、他の信者たちは死罪・流罪等の厳しい刑に処せられることになる。

そこで信者達は、表面上は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるように信仰していたのだが、大正8年(1919年)に、キリシタン研究家の藤波大超氏によりキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されたとのことである。資料館では、元信者の子孫に当たる方からの説明を受けることができる。

このような山奥であったからこそ細々と信仰が続いたことは理解できるが、なぜこれだけ急激に、また激しくキリスト教を禁じることになった経緯が長い間腑に落ちなかった。

3年ほど前にインターネットで、秀吉が何故禁教令に踏み切ったかがスッキリ分かる解説を見つけた。日本の教科書では西洋人に都合の悪いことは書かないことになっているのでしょうか。一度読めば、誰でも秀吉の英断に納得できるのではないでしょうか。

興味のある方は、是非このサイトをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400

日本人が奴隷となって海外に売られた話は当時の宣教師の記録や伴天連追放令の11条などでも確認できます。

スペイン人がインディオを奴隷にして絶滅させたように、またポルトガル人がアフリカ原住民をその代わりの奴隷にしたように、当時の西洋では奴隷は普通の商品でした。西洋人が日本に来て、日本人を奴隷にしようという魂胆と日本を植民地化する野心を理解しなければ、秀吉や家康が何故禁教令を出し伴天連を国外追放にしたかが見えてきません。

多くの教科書では、異教徒を弾圧したくらいのことしか書かれていませんが、これでは歴史のリアリティを感じることができません。
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