しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

祖谷のかずら橋

2010年03月29日 | 徳島歴史散策

ずっと前から、徳島県祖谷(いや)地方に行ってみたいと思っていた。どうせ行くのなら、桜の咲きそうな季節にと思い、3/27から2日間家内と祖谷地方から金毘羅さんを巡るドライブ旅行に行ってきた。

早朝に吹田の自宅を出て11時ごろ大歩危近辺にあるもみじ亭で「祖谷そば」を食べ、大歩危の「まんなか」という旅館から出航する大歩危峡遊覧船に乗って吉野川の激流が2億年もの時を経て大自然が作り出した渓谷美を楽しむ。大歩危あたりは比較的吉野川の流れはゆったりとしており期待したほどのスリルはなかったが、景色は充分楽しむことができた。新緑の時期、秋の紅葉期などはもっと素晴らしいことだろう。



祖谷地方に行くには大歩危から山道をさらに20分程度走らなければならない。
祖谷地方は日本の三大秘境の一つに数えられている場所である。三大秘境とは岐阜県白川郷、宮崎県椎葉村とこの祖谷を指すが、祖谷については別に「日本のチベット」とも言われており、平家の落人が住み着いて様々な文化を残している地として以前から興味があった。

今回は日本三大奇橋の一つである「祖谷のかずら橋」の事を書いておきたい。

まず、日本の三大奇橋と言われている場所の確認だが、困ったことにこの橋の中身は諸説あるようだ。

山梨県の猿橋、山口県岩国の錦帯橋の2つはいずれも一致しているが、3つ目は栃木県日光の神橋、徳島県祖谷のかずら橋、富山県黒部川愛本橋とわかれておりどれが正しいというものでもなさそうである。

この橋がいつからできたかについても、弘法大師が架けたとか平家の落人が架けたとか諸説がある。後者に説に関して言うと、平家の落人がこの地に住み着いたことは事実で平家屋敷が数軒残されていることは次回に書く予定だが、かずら橋は源氏の追っ手を防ぐようにかけたという説は確かに説得力がある。

記録では正保3年(1646)の「阿波国図」にかずら橋が7つ存在したと記録されているそうだ。また寛政5年(1793)の「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には13のかずら橋があったとされている。



上記の図は、弘化3年(1846)に出版された「阿波名所図会」に書かれているかずら橋の絵だ。

明治44年の「美馬郡郷土史」には8本のかずら橋があった旨の記録があるそうだが、大正時代に危険防止のために全てのかずら橋をワイヤーの吊り橋に架けかえられてしまったらしい。しかし昭和2年に当時の三好郡池田町長が観光客を集めるためにかずら橋を復活すべきと考え、昭和3年に昭和のかずら橋が完成し、現在にいたっているとのことである。(危険防止のため、針金で補強されている)

現在祖谷地区にかずら橋は3つあるのだが、奥祖谷にある二重かずら橋は通行できるのは毎年4月から11月なので今回の旅行では行くのをやめた。



写真のかずら橋は西祖谷山村善徳にあるもので長さが45mあり、祖谷の3つのかずら橋の中では最も大きく、現在重要有形民俗文化財に指定されている。通行料は通常500円だがJAF会員の10%割引があった。

はじめは簡単に渡れるつもりで軽い気持ちで渡り始めたが、橋の床の部分は板が半分、隙間が半分で14m下の谷底が丸見えで、橋全体がゆらゆら揺れるのは結構怖く、カメラのシャッターを押すのに冷や汗が出た。

今もかずら橋は3年に一度架け替えられているのだが、橋に使うシラクチカズラが10年以上前から不足するようになってきたらしい。

以前はシラクチカズラは祖谷の山に沢山あったのだが、植林したスギやヒノキに絡みついて成長を妨げるとして切られるようになったため、急に少なくなったそうである。

何年か前にシラクチカズラの試験栽培を始めるとの記事を読んだことがあるが、うまくいっているのだろうか。祖谷の象徴ともいえるかずら橋はいつまでも残しておいてほしいものだ。



かずら橋を渡るとすぐ近くに琵琶の滝がある。落差30mの結構大きな滝で、かって平家の落人たちがこの場所で都を偲んで琵琶を奏でて慰めあったとの言い伝えがあるそうだ。
*****************************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
     ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

2010年03月25日 | 廃藩置県

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。



最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり) 

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
https://www.library.pref.iwate.jp/aboutus/kanpo/kanpo160/160_07-08.pdf


石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://nanyanen.jp/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm 
****************************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
      ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

BLOGariコメント

しばやんさん
こんにちは。

ご存知かも知れませんが、私の地元佐賀県について少し補足させて下さい。

1871年の廃藩置県で佐賀藩(肥前藩、鍋島藩)に初め佐賀県が置かれましたが、佐賀県はその後伊万里県→佐賀県→三潴県を経てなんと長崎県と変わり、地元の名士らの懸命な努力により、その後長崎県から分離して現在の佐賀県が誕生しています。

従って薩長土肥の雄藩の一つであった佐賀藩は、「冒頭にその藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側」と記されていますが、唯一雄藩の中でこの命名規則の例外になった可能性がありました。

私は伊万里県でも長崎県でもない現在の佐賀鍋島藩36万石の城下町『佐賀県佐賀市』出身である事を誇りに思いますね。
 
 
ゆうじさん、コメントありがとうございます。

「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-92.html
で、明治4年の第一次府県統合で、「富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が…存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。」と書きました。
県の名前が復活したドラマの記事をシリーズで書くつもりでしたが、奈良県と宮崎県以外のネタがあまり見つからなかったので断念した経緯にあります。
おそらく、県を復活せるのにそれぞれ大変な苦労があったのだと思いますが、佐賀県についてはその経緯を詳しく記したデータが見つかりませんでした。

ゆうじさんは佐賀県佐賀市出身なのですね。県の中心地に生まれたことがわかる地名ですね。
ところが、兵庫県神戸市兵庫区とか神奈川県横浜市神奈川区というのが存在します。ちょっと変ですね。 



「おはぎ」と「ぼたもち」の違い

2010年03月21日 | 日本の四季の行事と伝統文化

最近いろんなお店で、「おはぎ」が沢山店頭に並べられている。今日は「お彼岸の中日」で、彼岸の時期に「おはぎ」を食べるのは日本古来の伝統である。



私の京都の実家はお寺で、春や秋の「お彼岸」の法要には毎年沢山の檀家の方々が集まり、昔は集まった皆さんのお昼の食事を、婦人会の方々が手分けして作って振る舞われておられたことを良く覚えている。

そしてこの時期に必ず用意されるのが粒あんで丸く作られた「おはぎ」なのだが、子供のころにこれを「おはぎ」と言うと婦人会の人に「ちがう、『ぼたもち』や」と言いかえられたか、「ぼたもち」と言って「ちがう、『おはぎ』や」と言いかえられたかどちらか記憶が定かではないが、とにかく「おはぎ」と「ぼたもち」とはどこがどう違うのかが良く分からなかった記憶がある。

子供の時にきちんと婦人会の人に聞いておけば良かったのだが、だんだん聞くのが恥ずかしいような年齢になってしまって、良くわからないまま過ごしてきた。

誰でも疑問に思いながら、大人になると聞くことが恥ずかしくなって、知らないままに過ごしていることがいくつかあるのだと思うのだが、こういうことは今はパソコンで検索すれば恥ずかしい思いをしないでいろんなことを容易に知ることができる便利な世の中になっている。

私が「おはぎ」と「ぼたもち」との違いを正しく知ったのは最近の事なのだが、正解は春のお彼岸に食べるのは「ぼたもち」で秋のお彼岸に食べるのは「おはぎ」で、ただ季節により呼び方が変わるだけである。

両者の違いは、外側の餡が粒餡かこし餡かの違いだとか、中が搗いた餅かどうかの違いだかいろんな説明を聞いたことがあったが、子供の時に実家の婦人会の方に作っていただいた「おはぎ」と「ぼたもち」は外見も中身も全く同じあったので腑に落ちなかった。

最近になって、たとえば次サイトの文章を読んでようやく永年の疑問が解消した次第である。
http://allabout.co.jp/career/dictionary/closeup/CU20010905/index.htm

上記の文章によると、「おはぎ」は萩、「ぼたもち」は牡丹が咲く季節と関係している。また、夏や冬にはまた別の名前があることも紹介されている。夏は「夜船」、冬は「北窓」とい言い、いずれも「搗きしらず」、すなわちいつ作ったのか分からないことをひっかけて名づけられているのだが、詳しくは是非上のサイトを参考にしてください。

昔の人は季節の野菜や果物を食し、お菓子まで季節によって名前を変えて、季節の風情を味わっていたということは素晴らしいことではないか。

しかしなぜお彼岸に「おはぎ」や「ぼたもち」を食べるようになったのか。

いろいろ調べると、永田久さんが「年中行事を「科学」する」という本の中で、次のように説明しておられることがわかった。

「ぼた餅」は、日本古来の太陽信仰によって「かいもち」といって、春には豊穣を祈り、秋には収穫を感謝して、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日に神に捧げたものであった。それが、彼岸の中日が春分、秋分であるいう仏教の影響を受けて、彼岸に食べるものとなり、サンスクリット語のbhuktaやパーリ語のbhutta(飯の意)が、「ぼた」となり、mridu、mude(やわらかい)が「もち」となって「ぼたもち」の名が定着したのである。(日本経済新聞社刊 P97)

なんと「ぼたもち」とは日本語ではなく、サンスクリット語やパーリ語だったとは面白い。

こんなことを調べながら、今日のドライブで立ち寄った亀岡市内の店で買ってきたのは本来は「ぼたもち」と呼ぶべきなのだが、パックには「おはぎ」と書いてあった。
日本全国で「おはぎ」と「ぼたもち」の違いが伝承されておらず、季節をめでる風習が消えかかっていることを痛感しつつも、日本茶とともにいただいた手作りの亀岡の「おはぎ」は旨かった。
*******************************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
      ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



「お彼岸」で先祖を祀るのは仏教以前の風習か

2010年03月17日 | 日本の四季の行事と伝統文化

もうすぐ春分の日だが、この日を挟んで前後三日ずつの一週間を「春のお彼岸」といい、今年の春の「彼岸の入り」は3月18日で、「彼岸の明け」は3月24日だ。
同様に秋分の日を挟んだ一週間を「秋のお彼岸」と言い、今年の秋の「彼岸の入り」は9月20日で「彼岸の明け」は9月26日となる。

「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉だが、仏教では煩悩を脱した悟りの境地に達した事を言い、煩悩や迷いに満ちた現世の事を、こちら側の岸「此岸(しがん)」という。

何故「お彼岸」に仏事をするようになったのだろうか。この時期に仏事を行うのは仏教国多しといえど日本だけだそうだ。

春分の日や秋分の日は丁度昼夜の長さが同じで太陽が真西に沈む。仏教の浄土思想では「西方極楽浄土」といって阿弥陀様が治める極楽浄土は西方のはるかかなたにあると考えられている。そこで、太陽が真西に沈むこの時期に、遥かかなたの極楽浄土に思いをはせたのが、「彼岸会」の始まりと説明されている。

しかし、何故日本だけなのだろうか。何故御先祖様をこのお彼岸の間にお参りするのだろうかと考えると、よくわからなくなってくる。何となく太陽信仰のようなものを感じたりもする。



では、「彼岸会」はいつごろから始まったのであろうか。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると「推古天皇の時(593)、聖徳太子が四天王寺を建立されて、東門より西門を通じて極楽浄土を欣求する道を開かれたことにはじまるといわれています」(P341)とある。仏教伝来が538年とか552年とか言われているが、日本しか行われていない「彼岸会」が始まった時期にしては少し早過ぎはしないか。ひょっとしたら、日本の古来から春分の日や秋分の日にこのような風習があったのではないか、と思ってネットで調べてみると、いろいろ面白い記事が見つかる。

たとえば、「西野神社社務日誌」にはこんなことが書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070920

「…日本では大陸から仏教が伝来する以前から、固有の信仰(神道)によって御先祖様をお祀りする年中行事が営まれており、特に彼岸には太陽を崇拝する行事を行う所が多かったと云われています。例えば、丹後(京都府)や但馬・播磨(兵庫県)などの地方では、春分の日の朝は「日迎え」といって東の堂に集まり、昼は南の堂に移動し、夕方には「日送り」といって西に集まって拝むという風習がありました。つまり、一日中太陽のお供をして歩くのです。

また、熊本県や鹿児島県では「彼岸籠もり」といって、春・秋それぞれの彼岸の頃に山登りを行って御先祖様をお祀りするという風習があり、秋田県でも、子供が山に登って「万灯火」という火を焚いて御先祖様をお迎えするという風習があります。これは、山という所が、田の神が下界へ降りてきたり帰っていったりする神聖な場所であると同時に、御先祖様の霊が宿っている所であるとも考えられていたからです。…(引用終わり)」

と、なかなか面白いことが書いてある。

また別のサイトでは、「彼岸」は「日願」という説もあると書いてある。
http://www.ffortune.net/calen/higan/higan.htm

しかし、この時期に先祖をおまいりするのが日本古来の風習だとするならば、何故正月や節分のように神社でずっと行事が執り行われてこなかったのか。「彼岸会」が一般民衆に広がって各地の寺院で法要が営まれるようになったのは江戸時代だといわれているが、それまでは先祖をどのようにお祀りしていたのであろうか。



毎年春分の日や秋分の日には、毎年宮中の皇霊殿で歴代の天皇の霊を祀る春季皇霊祭や秋季皇霊祭を執り行われ、全国の神社で皇霊遥拝式がなされるが、この儀式は明治政府が明治11年に廃仏毀釈の流れの中で始められたものであり、それほど古い歴史があるわけではない。
神道の考え方では死とは穢れであり、神の聖域である神社で先祖の霊を祀る発想は明治まではなかったのではないか。神葬という神道の葬式が始まったのは明治五年だ。その2年後に明治政府は寺院の葬式を禁止しているが、さすがにこのことは徹底できなかった。

彼岸で先祖を祀るのは本来神社の行事と考える人もいるようだが、この考え方には無理がある。日本古来の風習がそのまま仏教にとりこまれたのではないだろうか。民衆は太陽に祈って、長い間先祖をお祀りしてきたのかもしれない。

これからも、祖先を敬いなくなった人を偲ぶ日本の良き伝統は、末永く続いてほしいと思う。 
*****************************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
      ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



醤油の歴史と本物の醤油の見分け方

2010年03月12日 | 和歌山歴史散策

醤油のルーツは古代中国から伝わったと言われているが、 いつの時代に伝わったかは良く分からない。
大宝律令には宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤(ひしお)」が作られていたと書かれているそうだ。当時の「醤」は今の醤油と味噌の中間のようなものだったそうだ。

今の醤油はいつごろ生まれたかと言うと諸説があるようだが、湯浅で聞いた話では、鎌倉時代の中頃に紀州の禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明国師」が、当時は南宋と呼ばれていた中国から伝えた嘗味噌(なめみそ::経山寺味噌、現在は金山寺味噌と呼ばれている)の醸造法をならって帰国し、その味噌に瓜・茄子などの野菜を漬け込んで発酵させ精進料理としたのだが、その金山寺味噌の製造工程で、樽にたまった汁で食べ物を煮るとおいしいことが発見され、それが「醤油」の起源となったとのことである。

紀州湯浅で生まれた醤油の製法はその後も発展し、天正年間(1580年頃)には日本で最初の醤油屋さんと言われる玉井醤が、味噌・醤油業を開始したとされる。



19世紀初頭に出版された「紀伊国名所図絵」にも、湯浅醤油が日本の醤油の起源として紹介され、玉井醤については「村中大阪屋三右衛門店にて製す。経山寺味噌の類なり。…実に未曾有の味なれば、紀州経山寺の稱、遍く他邦にも聞こえたり。」と記されている。

湯浅の醤油は各地からの引き合いもあり藩も手厚く保護して、江戸時代に湯浅で千戸あった家のうち醤油屋が92軒もあったそうだ。
しかし明治以降は藩の保護もなくなり、大手メーカーの進出により多くの醤油屋が廃業し、今では一部の会社が伝統の製法を守っている。



ここが玉井醤本舗だが、ここの金山寺味噌は今でも有名で、毎年夏の時期にだけ仕込んで無くなり次第販売終了となる貴重な味噌だ。米、麦、大豆になす、しそ、ショウガなどを加え、塩以外の添加物を一切含まないとのことだが、私が2年前に行った時には5月だったので買えなかった。

湯浅で昔ながらの醤油屋を見るのだったら「角長(かどちょう)」。



今も江戸時代の天保年間に作られた蔵を用いて、今も昔と同じ製法で伝統の醤油が作られ、もちろん販売もしているし、平日あるいは土曜日に行くと従業員により、湯浅醤油の歴史や伝統的な製造法について説明を受けることができる。

伝統の製造法で原料となるのは大豆と小麦と塩と水だけで、それらが麹菌、乳酸菌、酵母による発酵過程をへて醤油が出来上がる。醤油の色は発酵させれば「メイラード反応」により自然に赤褐色になるのであって、本物の醤油は一切着色料を使わないということだ。
ちなみにスーパーなどで売られている醤油の原料を見れば、原料にいろいろなものを使っている。大豆も「脱脂加工大豆」という油の搾りかすを原料にしていることが大半だ。
角長の従業員によると「脱脂加工大豆」では醤油独特の色が出ないために着色料を用いざるを得ないし、香りも味わいも乏しくなるから香料を用いているところが少なくないそうだ。



角長では原料にもこだわりがあり、大豆は岡山産、小麦は岐阜産、仕込みの際の塩水はオーストラリア産の天日塩が用いられている。加熱には一切ガスや電気を使わず薪を用い、桶は吉野杉の木桶を今も使っているとのことだ。

伝統的な製造法では「こいくちしょうゆ」の場合、大豆と小麦の分量は大豆5割、小麦5割と決まっているそうだが、この角長では大豆6割、小麦4割で作っているとの話で、昔からの製法を愚直に守ってきた姿勢に感激して、お土産用に一杯醤油を買って帰った。実際使ってみて、大手メーカーの醤油とは香りが全然違う。それ以来、醤油は本物しか買わないことにした。

地方に旅行に行った時に地元産の醤油の原料を確認することがあるが、多くの場合は大豆以外に「脱脂加工大豆」を原料とし、着色料などを使っているのをみてがっかりすることがある。大手メーカーのまねをしてコストを下げたところで、結局は販売力の差では零細企業は勝てないだろう。小さい企業であれば、そこでしか作れないものにチャレンジしてこそ生きる道があるのだと思う。 
***************************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
      ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



東大寺二月堂のお水取り

2010年03月08日 | 奈良歴史散策

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。



「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

旧暦の二月はインドの正月にあたるので、仏への供養を行うと言われているが、外国には修二会はなく、本当の起源ははっきりしていない。仏教伝来以前からの作法がかなり色濃く残されているとも言われ、神仏習合の不思議な世界を見ることのできる行事である。 東大寺のHPなどに書かれてあるが、修二会は良弁僧上が始めて以来過去一度も途絶えることなく続けられ、今年は1259回目になるそうだ。

しかし、東大寺は過去堂宇が焼失した歴史が何度かある。また以前ブログに書いたように明治初期の東大寺は収入源の大半が断たれ、傷みのひどかった大仏殿を長い間修復できなかった経緯にある。また太平洋戦争の時は多くの僧侶が徴兵されて戦場に行ったり空襲を警戒して灯火管制も厳しかったはずである。

これだけ長い期間にわたって途絶えることなく続けるということには大変な苦労があったことは容易に想像がつく。

いろいろ調べていくと、最大の危機は治承5年の時だそうだ。東大寺は前年の治承4年(1180)の12月に平重衡の兵火によって大仏殿が焼け落ち、大仏も上半身を失い、講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼けたが、二月堂は類焼を免れた。この時は、東大寺当局は「寺が復興したらまたやればよい」として「お水取り」の中止を決定したのだが、練行衆達が「大事な法会を、寺を修理してから元に戻して何の甲斐があるか」と反対し、東大寺当局とは関わりなく有志15人でこの行事を行ったとの記録があるとのことだ。

永禄10年(1567)の三好・松永の兵乱によってまた伽藍の多くを失ったが、この時も二月堂は類焼を免れている。この兵乱で焼失した大仏殿が再建されるのは140年後とのことで、その間は大仏様は露座のまま座っていたということだそうだ。

寛文7年(1667)2月に二月堂は満行に近い2月13日早朝に失火で焼失(明治以前は旧暦の2月1日~14日に行われていた)、現存の二月堂は、寛永9年に再建されたとある。この時は三月堂で「お水取り」が行われた記録がのこっているとのことだ。(「二月堂修中練行日記」) 

明治時代の廃仏毀釈の頃は僧侶も人数も減り東大寺の存立そのものが危ぶまれたのだが、修二会は規模を縮小して守られ続けたそうだ。今は連行衆11名が二週間勤めているが、この人数は廃仏毀釈以降のことで、江戸時代は26人の連行衆がいて前後半それぞれ13人ずつだったそうだ。

太平洋戦争の時は、修行中の練行衆に召集令状が来て人手が足りないことがあったが、別の宗派のお坊さんが練行衆に加わってなんとか乗り切ったそうである。

しかし僧侶だけが時代の節目節目で苦労したのではない。この修二会は良質の竹やヒノキ材や菜種油などが入手できなければ成り立たない行事である。

京都新聞の「ふるさと昔語り」によると、竹は山城地域の竹が使われ、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていたそうである。

戦国時代の天正年間の文書を読むと、山城地域で二男、三男を東大寺の僧にする大農家があり、大農家にとっては家の名誉になり、東大寺にとっては金銭や物資の仕送りが期待できるという関係にあったそうだ。

また江戸初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が各地に作られたという。 民衆のこのような素朴な信仰心が、僧侶達のモチベーションを高めて、いかなる困難をも乗り越えて、この修二会を長い間継続させてきた原動力になったのではないだろうか。

山城地区の竹送りは風水害などが原因で戦後いったん途絶えたが、昭和53年に復活し、今も、山城松明講によって、京田辺市の竹林から切り出された7本の竹が、毎年二月堂に運ばれているそうだ。
「京都新聞 ふるさと昔語り」
http://kyoto-np.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080208.html
「奈良日日新聞 竹送り700人が街道練る」
http://web1.kcn.jp/tsuzaka-silver-bbc/page221.htm 
***************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
      ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち

2010年03月05日 | 廃仏毀釈・神仏分離


私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。
このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」という本の著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、一人の先生を除いて他の先生はすべて寺院を軽蔑し、…学校へ行くのがつらく、中学時代は、自分が寺などにどうして生まれたのだろうと、自分の出生をのろったものです。」と子供の頃を振り返っておられる。



この著書の中で佐伯氏は、このように僧侶を馬鹿にするような風潮は廃仏毀釈以降の事だと記されており目からウロコが落ちた。

少し長いがしばらく引用させて頂く。(同書p23-24) 
「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者からの布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職と言う名の乞食でした。生活の保障はなかったのです。しかも明治22年6月以来被選挙権は奪われ、同27年2月には選挙運動を禁止され、同34年11月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。」
「一夜にして神職は国家官吏となり、住職は(収入源を)剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧と言わずして何と言えるでしょう。」
「寺院から菊の紋章を取り外し(明治2年)、寺領を没収し(同4年)、僧侶に肉食妻帯させて(同5年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同5年)、傍らでは神職に給料制度をしき(同6年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同6年)、学校から神道以外の宗教教育を締め出し(同39年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。しかし、これはもう誰も知りません。教育とは恐ろしいものです。…」(引用終わり) 

紹介した部分は、同書のサワリの部分で、本文にはもっと詳しく書かれている。

たとえば、
「明治27年(1894)日清戦争開始の年。
<僧侶の参政権剥奪>
○二月、(神官)僧侶の議員選挙に関するを禁ず。(内務省訓令)」
※…神官は国家的に保証された官吏ですので、この訓令も実質的には僧侶のみに発せられたものです。婦人参政権の事もありますが、僧侶は婦人なみに取り扱われたのです。僧侶は選挙運動もできなかったのです。…以来昭和20年まで約50年間それは続きました。(同書p311)」

佐伯氏のこの本には「明治政府がこんなことまでしたのか」と驚くようなことがいっぱい書かれており、しかも政府の通達の番号などの根拠まで明示されている。しっかりと事実を踏まえた寺院の立場からの歴史記述に、私の明治の歴史の見方を一変させてくれた。収入源を大きく断たれ、大変厳しい生活を余儀なくされ、社会的地位や基本的な権利も剥奪された僧侶が大変な思いをして、信者の力も得て、今の多くの寺院は守られてきたのである。 

普通の歴史の書物には明治政府は廃仏毀釈とは関係がないような書き方がされており、私もこの本を読むまではそう理解していた。しかしよくよく考えると、いつの時代においても、いかなる国においても為政者にとって都合の悪いことは正史から消される可能性が高いのである。何故ならば、時の為政者を批判する歴史が正史であれば、国政が常に批判されて政治が安定するはずがないからである。(但し今の日本昭和史は例外)

しかし、今の時代に明治政府にとって都合の悪い事実を隠す理由がどこにあるのだろうか。太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまっている。
幕末から明治にかけての歴史を、いい面も悪い面もバランス良く書けないものであろうか。今のようなキレイゴトだけの正史で明治時代を理解することが続けば、いずれ文化財を博物館でしか守れない時代が来るような気がする。
*****************************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
     ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

コメント
こんにちは。

とっても、内容の濃いブログですね。
なので、時間を見つけてゆっくりと拝見させていただきます。
写真もお上手のようですし。

どうぞよろしくお願いいたします♪
【すぎ】
 
 
【すぎ】さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

当初は軽いものを書くつもりで日記風のブログ名をつけてしまいましたが、歴史の話題を書きだすといろいろ調べたくなってきて、「硬い」内容のものが多くなってしまいました。

【すぎ】さんのブログも覗かせていただきましたが、確かに日本語は難しいですね。私も、普段から間違った使い方をしていることも多いのだと思いますが、【すぎ】さんのブログで勉強させていただきます。
 
 
おはようございます!!
初めまして!!

歴史プログランキングで、いつも前後におられるので、読みにまいりました。
同じプログでも、「中身の濃さと有益さ」が違いますね。
脱帽です!!
私の家にも「廃仏毀釈」の難を逃れたのであろう大切な仏像があったんですが。(寺から預かったであろう)
残念なことに、太平洋戦争で焼失してしまいました。
ですから、本当にこの政策には「怒り」を覚えます。

明治新政府は、寺社奉行のもと「江戸幕府の権威」がお寺を通して民衆に浸透していたのを切り離したかったのだと思います。
それまでは「神仏習合」で、日本は、良い文化をうんでいたのに。私の地域には、珍しい「神仏習合」のお寺&神社がありますよ。
このような愚行・文化破壊・信仰心の破壊を行ったことが、「戦争への道」「軍国主義」につながったのだと思います。

昔の歴史事典には、載っていたんですが。
地蔵さんの首を切ったり、山頂のお堂を破壊したり。

大変に勉強になりました。ありがとうございました。
では、お元気で!!
 
 
ろくまつせんじょうさん、コメントありがとうございます。

ご自宅に難を逃れた仏像があったというのはすごいですね。
戦争で焼けてしまったのは残念ですが…。

梅原猛さんが、もし日本に廃仏毀釈がなければ今の国宝は3倍くらいは残っているという趣旨の発言をされたそうですが、確かにこの施策により、多くの文化財を失ってしまったたことは非常に残念なことです。

しかし、当時の日本を取り巻く環境を考えると、ロシアなどの諸外国から侵略される可能性が少なからずありました。日本文化を守ることよりも富国強兵で国の力を高める明治政府の施策は基本的には正しかったと思いますが、少し文化の犠牲、特に仏教界の犠牲が大きかったように思います。
とは言いながら、もし日本が外国から侵略されていたら、この程度の文化財破壊や流出では済まなかったはずですね。

地味なブログですが、これからも時々覗いてみてください。
ろくまつせんじょうさんのブログも、これからちょくちょく覗かせていただきます。
 
 
初めてコメントさせて頂きます(^人^)
廃仏毀釈について、調べていると、先生のブログに出会いました!
早速、佐伯先生の「廃仏毀釈百年」を入手し、読みました。

第四章 (二)神社の開基はみんな僧侶である
      (四)結婚式は仏式が元祖である

等を読み、Wikiで調べてみましたが、全く出てきません。
色々な文献に当たられた先生に、是非お伺いしたいのは、

これは、(二)一部の神社の開基は、僧侶であった
     (四)ある一部の地方では、披露宴は仏式だった

ということだったのでしょうか?
それとも、佐伯先生の説が、正しいのでしょうか?

アドバイス!どうぞ、宜しくお願い致しますm(_ _)m 合掌
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。

仏教の伝来についてはいろいろ説がありますが、6世紀には蘇我氏と物部氏との間に仏教を受容するかどうかについて論争がありました。確実に言えることは、それ以前は仏教はわが国には存在しなかったということになります。

おそらく神道はもっと古くから存在していたので、佐伯氏の言葉をそのまま受け取ることは出来ないでしょう。仏教伝来以前に、結婚式がなかったということも考えにくいところです。

但し、仏教が入ってから神道の行事や建物が、仏教の影響をかなり受けたことは間違いがないと思います。
 
 
どうも有難うございます。

先生の研究成果を参考にさせて頂いて、
「仏教と神道」の歴史的な関りを、
Youtube動画でUPさせて頂きたいと存じます。

本当に、よい出会いを賜りました。心から、感謝致します!
これからも、勢力的なご研鑽!期待しています!(^人^)namo!
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。気に入っていただき嬉しいです。動画が出来ましたら案内してください。

廃仏毀釈は私が歴史に興味を覚えたきっかけになったテーマです。
このブロガリでは容量がいっぱいになったので、昨年初にFC2ブログに移転しましたが、FC2でもこのテーマでいろいろ書いていますので、良かったら覗いてみてください。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/
 
 
>動画が出来ましたら案内してください。
先生に、ご覧頂けるなんて、光栄です(^人^)。

前作は、「マンガで綴る! 日本の仏教」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=_h7Tl1Rcojg

> FC2でもこのテーマでいろいろ書いていますので
有難うございます。早速、読ませて頂きます。

また、アドバイス、どうぞヨロシクお願い致します。
 
 
以前、お話ししておりました、「日本の神さま仏さま」動画の第1話の試作品が完成しました。
お忙しいとは存じますが、先生の忌憚のない、ご意見、ご指摘を頂けましたら、無上の光栄でございます(^人^)

https://youtu.be/4tbS8RZ0Z_w
 
 
7676amidaさん、わかりやすくてよく出来た動画ですね。史実を押さえて、なかなか説得力があります。感心しました。
拙ブログが少しでも役に立ったようで、うれしいです。

廃仏毀釈はまだまだ一般的には知られていないので、講演に来られた方がどのような反応をされたか知りたいところです。続編も楽しみにしています。


ご返信ありがとうございます。

動画「日本の神さま仏さま」 公開バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=R8Uur3in538

先生のお蔭で、神道と仏教の関係が立体的に分かるようになりました。
現在編集中の「廃仏毀釈 編」も、皆さん、ビックリしながら、
お聞きくださいました。

より多くの方に、知って頂くために、先生のブログのアドレス・映像等を
載せさせて頂いてよろしいでしょうか?
どうぞ!ご一考下さい(^人^)
 
 
7676amidaさん、コメントありがとうございます。

専門家から見れば誤ったことを書いている部分があるかもしれませんが、こういう見方もあるということで紹介していただければ嬉しいです。

私のブログの名前やURL、画像などは使って頂いて結構です。
ただこのブログは、2年前にFC2に古い記事も大半を移転させましたので、できれば現在利用中のブログURL(下記)で紹介いただくとありがたいです。
「しばやんの日々」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/
 
 
ご快諾!心から感謝いたします(^人^)。

了解いたしました。 先生のご厚情!心から、心から感謝いたします(T人T)namo…
 
 
しばやん先生 明けまして おめででとうございます(^人^)

お蔭さまで『日本の神さま仏さま その二 廃仏毀釈』が出来ました。
https://www.youtube.com/watch?v=Yiarkjcvi6M

注意点その他、頂けましたら、早速編集しなおしまして、
UPさせて頂きたいと存じます。

どうぞ、今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m。
 
 
7676amidaさん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

よく出来ていますね。あまりうまく語られるのに感心してしまいました。良く読んで頂いただけでも嬉しいですが、7676amidaさんが独自で調べられたこともあり、勉強になります。
話がお上手なので、かなり反響があったのではないでしょうか。

1か所だけ、2分と18分ごろに出てくる画面の「廃仏希釈とは?」は「廃仏毀釈とは?」の誤りですね。修正された方が良いと思います。

天皇暗殺説まで話されるのは意外でしたが、私が初めてこの事を書いたときは、いやがらせのようなコメントが何件か届きました。今は、この程度なら大丈夫なのでしょうか。


2016年01月06日(水) 22:45 by 7676amida  コメント削除
お褒めの言葉!恐縮ですm(_ _;)m。

はい!先生のご研究の成果のお蔭で、大反響を頂きました。

> 「廃仏希釈とは?」は「廃仏毀釈とは?」
ありがとうございます(^^;)。 早速直します~♪

> いやがらせのようなコメント
やはり!それ以外は、文句の付け様がないのだと思われます。
この説は、証拠が曖昧なので、突っ込み所ですよね!
また、HPやブログとちがって、まだまだ開拓途上の動画の部門だけに、嫌がらせコメも来ると思います。

ただ一つ…、先生のURLを貼り付ける事で、先生にご迷惑が掛かるのではないか…?それだけが心配でございます…m(_ _;)m。

お忙しい中、お時間をとって頂き、貴重なアドバイスを頂き、心から感謝致します(^人^)。
本当~に、お世話になりました!有難うございます(^人^)namo~♪