しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

2011年05月02日 | 平安時代

藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。



教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。

道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。

一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。

1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し、翌年に敦良親王(あつながしんのう)も生まれた。 1011年には一条天皇は病に倒れ、崩御されたために、居貞親王が即位され三条天皇となられた。

道長の次女の藤原妍子(けんし:994-1027)は、1004年に居貞親王(三条天皇)に入内させ、1012年に三条天皇(976-1017)の皇后(号は「中宮」)とした。

三条天皇にも先立の后(娍子:せいし)がいて、多くの皇子女が生まれていたが、道長は再度一帝二后を強行した。 三条天皇は天皇親政を行おうとし道長と長らく対立したが、1016年には道長からの圧力に屈して退位し、道長の長女の彰子の子で、わずか9歳の敦成親王が即位した。(御一条天皇:1008-1036)

道長の四女の藤原威子(いし:1000-1036)は、1018年に8歳も年下のこの幼い後一条天皇(1008-1036)の女御として入内させ、その年に「中宮」とした。

この威子が后となる日に道長の邸宅で祝宴が開かれて詠まれたのが、有名な
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(『小右記』、原文漢文)なのだそうだ。

道長の六女の藤原嬉子(きし:1007-1025) も将来の皇妃となるべく、道長の長女の彰子の子で、2歳年下の敦良親王(後の後朱雀天皇:1009-1045)に1021年に尚侍として侍した。

後一条天皇も敦良親王も藤原道長にとっては孫であるが、道長は自分の二人の娘(威子・嬉子)を、それぞれ自分の孫と結婚させたことになる。

藤原家が「摂政」や「関白」として天皇を補佐する立場で国家権力を掌握した「摂関政治」の全盛期が藤原道長藤原頼通親子の時代だが、調べると藤原道長は関白にはなっておらず、摂政となったのも後一条天皇を補佐する立場で1016~1017年のわずか1年だけというのは意外だった。



道長が摂政を退位した後は26歳の嫡男の藤原頼通(上画像)を摂政につけて自らは後見人となって後継体制を固め、以降頼通は摂政職を3年、関白職を48年務めている。

藤原道長は、国家の実権を掌握し栄華の絶頂に達して頼通へ権力の承継も成功した。しかしながら、その生涯を調べると道長の晩年はまるで怨霊にたたられたかのように悲劇的なものであった。

有名な望月の歌を詠んだ年の夏に、道長は胸部に激しい痛みを覚え、一時意識もうろうとなり、さらに視力も低下してしまう。当時の人々は「怨霊」の存在を真剣に信じていた時代であったので、道長も自分の病は自分が追い落としていった者の怨念に違いないと考え、ともかく呪いから遁れるために道長は髪をそり落として祈り続け、ある程度健康は回復するのだが、今度は災いは道長の娘たちを襲っていった。

最初の不幸が道長を襲ったのは、万寿二年(1025)7月の三女寛子(かんし:999-1025)の死だった。寛子は、道長により皇太子を退かされた小一条院敦明親王に嫁がされたが、親王にはすでに藤原顕光の娘・延子と結婚し六人の皇子・皇女がいた。夫を奪われた延子は病死し、父親の顕光も道長・寛子親子を激しく呪って死んだ。その二人の死霊が寛子に取り憑いたということが「栄花物語」に書かれているそうだ。

そして寛子が亡くなった1ヶ月後の8月に、今度は六女の東宮后嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を生んで2日後に亡くなってしまう。これも、顕光・延子の霊によるとされた。

さらに万寿四年(1027)5月に三男の顕信が病死で亡くなった後、9月には次女の皇太后妍子の命も奪ってしまう。わが子を相次いで失った道長はすっかり心身を衰弱させて病にかかり、11月には危篤に陥り背中には大きな腫物が出来て言語も不明瞭になったという。

さすがの親族も、命は長く持たないことを悟り、道長を(法成寺)阿弥陀堂に運び込んで、九体の阿弥陀如来像の前に寝かせ、各阿弥陀の手から伸ばした五色の糸を道長の手に握らせて、読経が続けられる中、12月3日に道長はとうとう息を引き取った。62歳だった。

道長が大往生した場所である法成寺は、東西2町南北3町に及び、豪壮な伽藍であったそうだが、1058年の大火で堂宇を全焼し、頼通が再建するも1219年に再び全焼し、廃絶されたそうだ。



上の画像は先日行ってきた世界遺産の宇治平等院。もともとは、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となる。そして長男の藤原頼通が永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めたのが平等院のはじまりで、その翌年に阿弥陀堂(現鳳凰堂)が建立されたそうだ。



平等院には大きな藤棚が2ヶ所あり藤の名所としても有名だが、先日行った時は日当たりのよい表門の藤棚でやっと咲き始めたばかりだった。もう少し花房が伸びて見頃を迎えるが、観音堂の横の藤棚はまだまだ蕾が固かった。平等院のHPで、桜と藤の満開時期が案内されているので次回行くときは参考にしたい。
http://www.byodoin.or.jp/ 

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BLOGariコメント

しばやんさん、こんばんは。

わが居住地=宇治に来てらっしゃったんですね(笑)
ちなみに、十円玉の平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)を撮る絶好のポイントは塔ノ島から望遠で撮った方がおススメです。

さて、道長よりももっと憐れなのは息子の頼通かと思われます。頼通が入内させた娘は一人も皇子を産みませんでしたから…

摂政と関白の職務の場合、天皇が幼少なら摂政に就くことができ、成人していれば関白に就くわけですが、権力の幅に大きな違いがあるんですよね。

例えば、図式で表現すると、「摂政=天皇、関白<天皇」という事になり、摂政は自分の発言、イコール天皇の発言になるのに対し、関白では自分の発言が天皇に拒否される場合があるわけです。

それ故、摂関政治期も、のちに上皇や法皇が真似た院政期も矢継ぎ早に幼帝をにすげ替えたんですね。
 
 
御堂さん、コメントありがとうございます。

48年も摂政・関白の地位にいた頼通が入内をさせた娘には皇子が出来なかったこと、関白では自分の発言が天皇に拒否される場合があるということは初めて知りました。

これまでは摂政も関白もどちらも良く似たものだと思っていましたが、権力の実質的な幅が随分違うのですね。勉強になります。




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