しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

伝説の美女・小野小町とその後の伝承

2011年05月28日 | 平安時代

紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。



紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。

たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。
小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」
(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。) 

「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。

また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。
この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。



昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。
しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。

実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。

たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。
紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。

Wikipediaによると、小野小町は「生没年不詳」としながらも「数々の資料や諸説から生没年は天長二年(825)から昌泰三年(900)頃と考えられている」と書かれているが、この説はどこまで信用できるのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA

南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。



小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。

小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。
小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程のWikipediaによる小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。

また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41~49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。

となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。

出生地を調べるとこれも諸説ある。
秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。
小町の墓所も全国に点在している。
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。

若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。

小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。次のURLで「卒塔婆小町」のあらすじが読める。
http://www.asahi-net.or.jp/~HF7N-TKD/explanationJ/Jsotoba.html 



上の画像は「卒塔婆小町」で使われた能面である。

夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。

滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。



京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻が画像と共に次のURLで紹介されている。
http://hiratomi.exblog.jp/4036054/ 

晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。

若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。

今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
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BLOGariコメント

はじめまして

「わびぬれば 身を浮き草の 根を絶えて 

           誘う水あらば いなむとぞ思ふ」

誘って下さるならどこにでもついて行きましょうという小町の伝説が各地に残るのも面白いですね。
小町の代名詞的な市女笠を被った女性を「小町のようだ」と思った人々によって小町伝説が生まれたともいいます。

小町伝説は、うつろう儚さを感じますね。
 
 
きせきさん、はじめまして。

きせきさんのブログも拝見させて頂きました。家紋の世界は未知の世界なので、これから時々遊びに行って勉強させて頂きます。

小町の歌は私は教科書に載っていた程度しか知らないのですが、きせきさんはいろいろ良くご存知ですね。

「小町伝説」も、下品なものまでいろいろあって、ほとんどが小町を蔑むものになっているのは、能・狂言で脚色されて全国で演じられた影響があったのかもしれませんね。

人生は無常であり、素晴らしい時はすぐに過ぎていくというテーマは、いつの時代も観客を魅了するのでしょうね。

桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

2011年05月20日 | 平安時代

前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。
長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。



ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。

次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html 

光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年(784)に平城京から長岡京に遷都したのだが、これだけ大きな都を建設しながら、そのわずか10年の延暦13年(794)に平安京に遷都してしまっている。
なぜ、そんなに短い期間で都を移すことになったのか。今回は桓武天皇について書くことにしたい。

少し時代は遡るが、671年に天智天皇が没したのち、その子である大友皇子と大海人皇子との間に皇位継承争い(壬申の乱)があり、大海人皇子が勝利して天武天皇となるのだが、それ以降の歴代の天皇はしばらく天武天皇系から出ていたことが系図を見ればわかる。



しかし天武系に男子の血統が絶えてしまって、宝亀元年(770)に天智天皇の孫にあたる62歳の白壁王が即位し光仁天皇となっている。

光仁天皇には皇后である井上内親王とその子・他部(おさべ)親王がいたが、宝亀三年(772)に藤原氏の陰謀によりそれぞれ皇后・皇太子の地位を剥奪されたのちに幽閉され、それから二年後に二人とも同時に亡くなってしまう。おそらく藤原一族の手で暗殺されたのだろう。

そこで光仁天皇は、自分と百済系の渡来人の系列の高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた山部親王を皇太子としたのち、天応元年(781)に山部親王に皇位を譲って桓武天皇が即位することとなる。下の画像は桓武天皇だ。



桓武天皇は平城京を捨てて、延暦3年(784)に山城国乙訓郡で建築中の長岡京に遷都する。

桓武天皇が平城京を離れて都を遷そうとしたのは、教科書などでは「奈良の仏教界からの決別」にあったという記述が多いのだが、天智系の桓武天皇にとって平城京は、関祐二氏の言葉を借りれば「『祟る天武』の亡霊の巣窟」でもあり、自分の異母兄(他部親王)やその母(井上内親王)が殺された場所である。この魑魅魍魎の住む世界から一日も早く離れたかったということなのであろう。

しかし、ここで事件が起こる。
延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺されてしまった。
犯人は、桓武天皇の(同母の)弟であり皇太子である早良親王(さわらしんのう)と大伴家持とされ、早良親王は捕えられて、乙訓寺で幽閉されその間無実を主張して抗議の断食をし、淡路国へ流される途上で三十六歳の若さで亡くなってしまう。

藤原種継暗殺の犯人については諸説がある。奈良仏教の勢力や藤原家の関与を疑う説もあれば、早良親王説もあり、桓武天皇自身が怪しいという説まである。



奈良仏教勢力説は教科書などで出てくる説なので省略するが、早良親王説は、親王は桓武天皇の即位の以前は僧侶であり、奈良の東大寺など南都寺院とつながりがあるということで疑わしいとする説で、奈良仏教勢力説に近いものである。
また桓武天皇説というのは、桓武天皇が桓武天皇の第一皇子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継承させるために、早良親王を排除したという説である。早良親王を排除することの最大の受益者が桓武天皇ではないかという観点からは説得力があり、今では結構有力な説になっているようだ。確かにその後の桓武天皇の行動を考えるとその可能性を強く感じるのだが、決定的な証拠があるわけではない。

早良親王が亡くなられた後に、桓武天皇の身の回りや都に、良くないことが相次いで起こっている。この点は前回の菅原道真や前々回の藤原道長のケースとよく似ている。

桓武天皇の夫人である藤原旅子が延暦7年(788)に30歳の若さで亡くなり、翌年の延暦8年(789)には桓武天皇の母親である高野新笠が亡くなり、その翌年延暦9年(790)には皇后の藤原乙牟漏(おとむら)も31歳の若さで亡くなり、都では天然痘が大流行する。
延暦7-9年(788-790)には旱魃のために大凶作となり、延暦9年(790)には都で疫病が大流行となり、早良親王を廃したのち皇太子とした安殿親王(あてしんのう)も病に倒れてしまう。また延暦11年(792)には、桂川が氾濫し長岡京に大きな被害が出た。

これらすべては早良親王の祟りであると考えた桓武天皇は、怨霊のゆかりの地である長岡を退去することを決意し、延暦12年(793)に遷都を打ち出し、延暦13年(794)には平安京に都を移されてしまう。

桓武天皇は平安遷都後も早良親王の怨霊におびえ続け、早良親王の霊を祀り、延暦19年(800)には早良親王に崇道天皇を追号し、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復もはかっている。

お彼岸の時期に祖先の墓参りをするのは日本特有なのだそうだが、歴史的には大同元年(806)の三月に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために各地の国分寺で7日間「金剛般若経」を読経して供養がなされた記録が「日本後紀」にあり、これが日本で最初のお彼岸の祖先供養の記録なのだそうだ。そしてその年に桓武天皇は崩御されている。

ところで、陰陽道で「北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)」が最良の土地だとする「四神相応」という考え方があり、平安京はその考え方に基づいて造られているそうだ。



即ち北には船岡山があり、東に鴨川があり、南に巨椋池があり、西には山陰道があるという場所である。上の画像は船岡山から見た東山連峰(比叡山から大文字山)である。

桓武天皇は結果として山紫水明の地の京都を都として選び、京都はその後4世紀近くにわたって平安京繁栄の礎を築き、その後も日本文化の中心地として発展して、多くの文化財を今も残してくれている。



もし桓武天皇が長い間怨霊に脅え続けるようなことがなければ、京都に遷都されることはなかったであろうし、そうなれば今の京都も、その後の仏教の発展も、随分異なったものになっていてもおかしくなかったと思う。
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BLOGariコメント

当時絶大な力を持っていた桓武天皇がそのまま長岡京を都に定め、ずっと継続されていたら歴史が変わっていたことでしょう。

 しばやんさんの記事でそのことが良くわかりました。
昔は権力者の意向で、結構簡単に都が遷都されたようですね。

 原発災害が終焉しそうもない状態なので、東京も遷都を考えるべきではないかなと思います。

 大阪にと橋下知事などは張り切っていますが、どうでしょうか。大阪も災害に強い都市ではありません。

 敦賀や福井の原発の脅威がなくなれば、案外京都が日本の首都でいいのかもしれません。
 
 
いつもコメントありがとうございます。

「京都遷都論」はいいですね。桓武天皇の最大の貢献は、災害に強い「京都」という場所を都に選んだという事なのかもしれません。確かに京都は歴史的に見ても天災には強かった印象があります。

「都」といっても、昔は天皇家の御所と政治と経済の中心地はほぼ同じでしたが、今は天皇家と政治と経済とを分けて考えも良いような気がしますね。

ただ、経済に関して言えば東京一極集中は明らかに行きすぎでしたから、徐々に地方分散を図るべきだと思います。
 
 
そうですね。原発の脅威(福井の10の原発)がすべてなくなれば、京都へ遷都すべきです。

 副首都を盛岡か会津か遠野に置けばいいのではないかと思います。災害の恐れのない内陸部ですね。

 地震の活動期です。日本列島沿岸部はどこも危険です。沿岸部は海で遊ぶときぐらいにしたいものです。
 
 
東京に皇室、政治、経済、文化のすべてを集中させることは、東京でもし何かがあると国全体の機能の大半を失うリスクがあるだけでなく、政治と経済の癒着、マスコミと経済の癒着などの問題を避けることが難しいと思います。

政治の中心が経済の中心であることはいい面もあるのですが、政治やマスコミが経済のけん制機能を失うことは好ましいものではないことが、東電などの問題を見ても良くわかります。

政治や文化の中心は経済の中心から離れた場所に置き、天皇陛下は日本文化の中心である場所に移られて、経済については一極集中を避けるのが個人的にはベターだと思うのですが、いざ決めるとなると百家争鳴で大変なことになりそうですね。
 
 
今でも日本の都は京都だという論がありますよね。
古代の遷都であれば詔(みことのり)があるのが普通なのですが、明治維新の東京遷都の場合は天皇の詔も政府の布告も何もなかったそうです。
昭和 16年に文部省がつくった「維新史」という史料では、「東京奠都(てんと)」という言葉が使われていて、「遷都」とはいっていないそうです。
実際に日本の首都は東京だとする法的根拠は存在せず、桓武天皇の「平安遷都の詔」を廃止した記録もありません。
つまり、天皇はあくまで行幸中(140年も経ちますが)であると・・・。
まあ、屁理屈ではありますが、実際に明治天皇が京都を離れる際には、反対派を牽制するためあくまで行幸というかたちをとったのは事実で、その後、法律で東京を首都と定めた事実が存在しないことも本当のようです。
であれば、天皇が京都に戻っても何ら問題ないかと・・・(笑)。

ただ、先の大戦の東京大空襲のおり、天皇を安全な場所に移すという当時の政府の意向に対し、国民が危険にさらされている状況で、自分だけ東京を離れることを昭和天皇は頑なに拒んだと聞きます。
未だ災害の危険が消えない関東地方ですが、この状況で東京を離れることは、天皇陛下はきっとしないんじゃないでしょうか。
 
 
坂の上のヒゲおやじさん、コメントありがとうございます。

ご指摘の通りですね。「遷都ではない」として東京に行幸されたのち、新政府の官省を移し、陛下がそのまま東京に居座るかたちで、実質的には遷都したと言えばいいのでしょうか。

三条実美が「国家の興廃は関東人の向背にかかっている」と主張し、天皇陛下を東京に移すことで新政府が関東の人々の心をつかむ事が出来ると考えたようです。明治政府が安定するためには、京都や大阪よりも、関東から東北をしっかり押さえることの方がはるかに重要だったのでしょう。

確かに天皇陛下のお考えは仰る通りで、この状況下で東京を離れる選択はなさそうですね。
 
 
しばやんさん、こんにちは!

私は再び京都への遷都にはチョット反対しちゃうんですよね。

首都機能を有するって事は現在の東京周辺部を見た限りでは自然破壊につながるし、ましてや、首都であるがために、あの9-11NYテロのような被害は起きて欲しくない―と考えちゃうからです。(今の日本に遷都するだけの経済力があるとは思いませんので、安心ですが…)

さて、山城国は渡来系氏族の住まう場所で、太秦地域や稲荷山周辺部には中国系の秦氏が、木津川や宇治川周辺部には朝鮮系の狛氏が根付いていました。

そして、これらの地域は藤原種継など藤原式家の一族の勢力範囲だったんですね。

渡来系氏族の血をひく桓武天皇と、地盤がある藤原式家との利害が一致したため、山城国が選定されたといえるでしょうね。

ところで、「四神相応」の考え方で、一般的な「北→山、東→川、西→道、南→池」に例えると、

北-船岡山
東-鴨川
西-山陰道
南-巨椋池

となるのですが、南の例えとして、赤池だったのでは?という説もありますよ。(平安京=一条から九条って事を考えた時、巨椋池は離れすぎているので…)
 
 
「都」という意味が不明確なまま「遷都論」が語られているようなところがありますね。

「都」とは政治の中心地なのか、経済の中心地なのか、文化の中心地なのか、単に天皇陛下の御所なのか。すべてを1箇所にしていいのか、それぞれ分散させるべきではないのかなどいろんな考え方があるようです。

アメリカの首都はワシントンですが、経済の中心地はニューヨークです。日本も「都」を機能別に分散化させることを考えてもいいような気がしています。今は、あまりにも多くの機能を東京に集中させ過ぎて、もし東京で大地震や大火災がおこれば、国全体が機能しなくなるリスクが大きいと思います。

私は「京都遷都」を本気で考えているわけではないですが、御堂さんも、実現可能性はともかくとして、経済の中心を京都にするのでなければ、必ずしも反対されないように思います。

「赤池」の話は初めて聞きました。どこにあった池なのでしょうか。よろしければご教示ください。
 
 
しばやんさん、こんばんは!

「赤池」という場所は、住所表記で言えば「京都市伏見区中島」に当たります。

名神高速道路・京都南ICを降り、国道1号線(京阪国道)を南下して2つめの信号のある交差点を「赤池交差点」と呼び、東西の通りの名として「赤池通り」と呼んでいます。

この「赤池」の地名の由来は、平安時代後期、、北面武士だった遠藤盛遠が従兄弟の渡辺渡の妻となっていた従姉妹の袈裟御前に横恋慕してしまいます。

その執拗さに困惑した袈裟御前は、夫の寝込みを襲うように盛遠に言い含め、盛遠は渡辺渡の寝込みを襲ったのです。

しかし、そこには夫の身代りになって死ぬことを選んだ袈裟御前の姿が…

盛遠がその袈裟御前の首を池で洗った際、池が血で真っ赤に染まったので事から「赤池」と呼ばれるようになります。

やがて、盛遠は自分の行為の愚かさを恥じ、妻の死に悲嘆に暮れる渡辺渡の許に出向いて罪状を自白し、殺すように嘆願しますが、渡辺渡は生き地獄を味わせるのです。

盛遠は出家をし、文覚(もんがく)と名乗り、袈裟御前の菩提を弔うために恋塚寺(京都市伏見区下鳥羽城ノ越町)という寺院を建てました。その場所は「赤池」から南下した場所にあります。
 
 
御堂さん、赤池の話ありがとうございます。

城南宮には行ったことがありますが、その近くにそんな伝説のある場所があるのは初めて知りました。

「赤池」が残っていないのは残念ですね。
このあたりはコンクリートで固められた施設が多くて、歴史的な雰囲気があまり感じられない場所になってしまっています。

話は戻りますが、「四神相応」の考え方で南を「巨椋池」というのは離れ過ぎているのではないかというのは、確かにそうですね。
 
 
この時代は不可解な死が起こると祟りとされる傾向が強いようですが、恐らくその殆どの要因は権力絡みの暗殺でしょうね。

歴史は偶然ではなく、仕組まれていると考える方がより納得できます。

P.S
京都は30回以上訪れてはいるのですが、長岡京は実は未だ行った事がありません。比較的近くだと岩清水八幡宮かな?
機会があればこの記事に起因して歩いてみますね。
 
 
記録では「病死」でも、本当の事の多くは隠されているので実際は何人かは殺されたのかもしれませんね。

しかし桓武天皇が早良親王の「祟り」を恐れていたことは歴史的事実のようです。「祟り」を恐れるのは心にやましいことがあるからなのであって、桓武天皇がそこまで「祟り」を恐れさせた原因は桓武天皇自身にあるという説になんとなく説得力を感じています。

長岡京市は光明寺、善峰寺などいいお寺がいろいろあります。京都市内とは一味違う良さがありますよ。 



菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

2011年05月12日 | 平安時代

菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。



菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。



どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。
https://nikkan-spa.jp/1262989



「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。

しかし、なぜこれだけ多くの神社で菅原道真が祀られることになったのかについて興味を覚えたので、菅原道真について調べてみた。

菅原道真は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮し、30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進している。

しかしながら学者同士の対立もあり、道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったようだ。後ろ盾ともいうべき父親を失ったのち、仁和2年(886)から道真は4年間地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになる。しかしその後に道真に転機が訪れる。



当時は藤原氏が政治の実権を掌握していたが、それを快く思わなかった宇多天皇<上画像>は律令政治に精通する道真に目をつけ、道真は天皇に請われて帰京し、寛平3年(891)に蔵人頭(くろうどのとう)に就任する。蔵人頭とは勅旨や上奏を伝達する役目を受け持つなど天皇の秘書的役割を果たす要職である。

道真は、寛平5年(893)には参議に列せられ翌年には遣唐使の廃止を提言するなど、宇多天皇のもとで政治手腕を存分に発揮し、その後中納言、大納言と順調に出世していく。

寛平9年(897)に醍醐天皇が即位し、父親の宇多天皇は上皇となった。関白・藤原基経の子の藤原時平が左大臣に就任し、道真は宇多上皇の意向で右大臣に抜擢された。事実上朝廷のNo.2への昇格であった。

藤原時平は道真の出世を快く思っていなかったし、醍醐天皇も宇多上皇の影響力の排除を考えていた。宇多上皇は藤原氏の血を引いていなかったが、醍醐天皇の母親は傍流ではあるが藤原氏であったこともポイントである。醍醐天皇は昌泰4年(901)、時平の「道真が謀反を企てている」との讒言を聞き入れて、父の宇多上皇に相談もせず、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)として北九州に左遷してしまった。

道真は京都を去る時に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と詠んだ歌を残している。

菅原道真は北九州に左遷された二年後の延喜三年(903)に大宰府で死去し同地(現大宰府天満宮)で葬られたのだが、その後、京で異変が相次いで起こっている。

まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(913)には道真の後任の右大臣源光が死去。
延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。
極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。

道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。
延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。



朝廷はこれらはすべて菅原道真の祟りだと考えたが、確かにこれほどいやなことが続くと、誰でも自然にそう信じてしまうのではないか。一度そう信じてしまうと、祟りがますます怖くなって、心身ともに衰弱してしまうことも理解できる話だ。上の図は国宝の「北野天神縁起絵巻」の一部で、清涼殿に雷が落ちた絵が描かれている。 
道真はずっと以前に死んだにもかかわらず、延喜23年(923)には道真を従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈られたのを初めとして、正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣となり、火雷天神が祭られていた京都の北野には、道真の祟りを鎮めようと北野天満宮が建立されたという。

以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、道真を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていったのだそうだ。今では災害の記憶が風化してしまい、今では天満宮は学問の神様から受験の神様として厚く信仰されている。

ゴールデンウィーク中に阪急電車に乗って「長岡天満宮」に行って来た。この周辺は菅原道真公の所領であったところで、生前に在原業平らと共に、しばしば詩歌管弦を楽しんだ縁のある場所だそうだ。



正面の大鳥居を抜けると参道には有名な霧島ツツジが丁度見ごろを迎えていた。このツツジの樹齢は100~150年といわれており、高さは2m以上ある。



現在の御本殿は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領し移築したもので朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築したものだそうだ。(平成10年竣工) 



八条ケ池を取り入れての数寄屋造りの建物は「錦水亭」という料亭で、明治14年1881)創業の老舗だ。名物のたけのこ会席は自店の山より掘ったばかりの筍を料理することで有名なのだが、コースで12千円からの高級料亭は庶民には少し入りづらい。



仕方なく駅前のお店で筍ご飯を昼食にいただいてこの日は満足して帰った。
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BLOGariコメント

あまりの出世ぶりをねたむのは世の常。男の嫉妬心は根深く、恐ろしいという事例ですね。

 実力も能力もあった人でしょうが、権力が「縁故」で決まる社会はある意味キツイとも思えますね。

 道真さんも地方へ左遷されて、優雅に歌を詠むとかはしなかったんでしょうか。なんか両者ともどろどろしておぞましい限りです。

 そのどろどろの執念深い人が、「学問の神様」になるのは、ずいぶん月日が経過してからのことなんでしょうか。なんとも不思議な取り合わせです。
 
 
菅原道真は代々続く学者の家に生まれて、優秀であったがゆえにどんどん出世して行きましたが、宇多天皇に認められたとは言え、低い身分から右大臣にまで上り詰めたのは実力なくしてはあり得なかったと思います。
しかし彼が左遷されたのは、嵯峨天皇と藤原時平が結託して道真に濡れ衣を着せたのか、道真自身が本当に謀反を企てたのかという議論があります。
近年の研究では、道真が謀反を企てていたという説もあります。道真は自分の立場を利用したかどうかはわかりませんが、自分の娘を醍醐天皇の弟(斉世親王)に嫁がせています。もし斉世親王が皇位につけば、道真は外祖父としての地位を確立できたことになります。その動機が道真にあったという説ですが、おもしろいですね。
 
 
 なるほどそういうことがあったのですか。ありえますね。そこまで「権力の蜜の味」を知れば、当然考えることでしょう。

 そうなると権力闘争に敗れたということだけかもしれませんね。
 
 
御指摘の通りということになりますね。しかし、権力闘争の勝者側が、道真の怨霊に悩まされ続けます。

日本の歴史には、「祟り」や「怨霊」が政治に大きな影響を及ぼしていたことが少なからずありますが、一神教の世界では「神」の絶大な力を信じますのでこのようなことはありえないという話を聞いたことがあります。

日本人が「和」を求めるのは、死者の霊を鎮める考え方と無関係ではないのかもしれません。日本人は問題の根本原因を深く追求せず、いやな事は早く忘れて、ひたすら祈ることで心の平安を得ようとするところがありますね。

逆に西洋社会に「祟り」や「怨霊」の考え方があれば、日本に原爆を落とすようなことは考えなかったかもしれませんね。
 
 
今でも建物を建築する場合は、地鎮祭をします。自宅を建築したおりも、潮江天満宮の神主がやってきて、神事をしました。この神社も菅原道真にゆかりがあるのでしょうか。

 日本に原爆を落として平気な国アメリカ。やはりどこかで、相容れないところはありますね。

 権力闘争に敗れた敗者も、後日神社になり奉られるというのも考えてみれば不思議な国なのかもしれません。
 
 
潮江天満宮の主祭神は菅原道真・高視親子になっているようですね。
「天満宮」「天神」という名前のついた神社で、祭神が道真でないケースもないわけではありませんが、ほとんどの神社の祭神は道真と考えていいと思います。

過去のいがみ合いをすっかり忘れて、平和に暮らそうとする国は本当に数少ないですね。今世界を牛耳っている国は、過去のことを充分な検証もしないままいつまでも口にして、日本から金をどれだけ巻き上げるかしか考えていませんね。
日本人の美徳が悪い形で利用されています。日本人は謝ればすむものだと考えがちですが、多くの国では謝れば誤りを認めたことになり謝罪と賠償を要求されてしまいます。だから他国は容易には謝りません。
 
 
へーそうなんすか-^^b
勉強になりましたなぅ(笑)
 
 
こもじゃさん、ありがとうございます。

「通史」というものは、つまるところ勝者にとって都合のよい歴史なので、敗者側の言い分を知ると、また別の歴史の見方があることを知ることが出来ます。正史が必ずしも正しいわけではなく、正史が採り上げなかった歴史の中に、社会を見るヒントがあり、現代を見るヒントも沢山ちりばめられていると思います。
 
 
2012年10月04日(木) 21:44 by 通りすがり
正史といえば時平が道真のうちだした政策を歴史から消し自分がその政策をうちだしたことにしたみたいな説もあります。消された政治家菅原道真って本に書いてあったとおもいます。
 
 
文春新書にその題名の本が出ていますね。
書評では「道真こそ、破産寸前の日本を改革し、古来のシステムを変えた人物。なのに、その功績は奪われ抹殺されたのだ」と書かれています。
まだ読んでいませんが、権力闘争ではそのような話はどこの国でもいつの時代も、大いにありうる話だと思います。 

 



能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

2011年05月07日 | 大阪歴史散策

ゴールデンウィークの道路渋滞を避けて、一般道を通って大阪の北端にある能勢町に行って来た。能勢町はとてものどかな雰囲気で、美しい山並みと田園風景に結構癒される場所である。

大阪の都心や住宅地で滅多に見られなくなった「鯉のぼり」も、この時期にここまで来るといくつも泳いでいる。昔懐かしい茅葺の家も点在している。



茅葺屋根の民家の庭に「鯉のぼり」が泳いでいるのを見ると、数十年前にタイムトリップしたような気分になって、思わず何枚も写真を撮った。上の画像は蛙の鳴き声の聞きながら、「大日堂」の近くの民家を撮影したものだが、こういう景色はこれからもずっと残しておいてほしいものだ。

能勢町には結構歴史の古い寺があるが、無人の寺もあるようだ。昨年に能勢町野間西山「今養寺」という寺で、国の重要文化財である平安時代の仏像「木造大日如来坐像」が盗まれたそうだが、この「今養寺」は無人なのだそうだ。
次のURLで盗難された文化財のリストが出ているが、仏像の盗難は全国で毎年30件近く発生しているのは驚きだ。
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/tonan.html

上の鯉のぼりの画像を撮った民家の近くにあった「大日堂」も無人の寺で、仏像を拝することは叶わなかったが、ここには平安時代の大日如来坐像と二天像が安置されているはずだ。江戸時代に、この場所より西側の「堂床山」という山の荒廃したお堂に雨ざらし状態にあった仏像を移してきたためにかなり傷んでいるそうだが、三像とも一木彫の仏像であるらしい。



上の画像は「月峰寺」境内にある「阿弥陀坐像石仏」である。制作は文安四年(1447)で、作者は不明である。
「月峰寺」は7世紀の推古天皇の時代に開創されたという伝えのある古い寺院で、開創のころは剣尾山の山頂近くの山岳寺院であった。最盛期には四十九もの院坊が存在したそうだが、天文14年(1545)丹波城主波多野氏の兵火により全焼してしまい、天文18年三好長慶や片桐勝元が再興を計るもならず、寛文四年(1664)観行上人が山上を去り、麓の現在地に再建したのだそうだ。
お願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、釈迦如来坐像(鎌倉末期~室町初期)、木造聖徳太子孝養像(南北朝~室町時代)という古仏があるそうだ。



「玉泉寺」というお寺にも行って来たが、ここは先程の月峰寺の坊寺の一つとして剣尾山の山頂近くにあったのだが、戦火にあった後現在の場所に移ったのは宝永五年(1708)なのだそうだ。
ここもお願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、平安時代の薬師如来座像(能勢町指定文化財)や江戸時代の仏師「湛海」の傑作とされる木造不動明王坐像(大阪府指定文化財)などが安置されているそうだ。

能勢に来たら必ず立ち寄ってほしい場所が、国指定天然記念物の「野間の大ケヤキ」。



樹齢は千年とされ高さが30m、幹回りが14m、枝は東西に42m、南北に38mもある大変な巨木で、凄いオーラを感じて眼を釘づけにさせる樹だ。ケヤキの木としては全国で4番目の大きさで「新日本名木100選」や「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうだ。

説明板によるとこのケヤキを中心とする一角の地は、鎌倉時代の承久二年(1220)に創建された「蟻無宮(ありなしのみや)」と呼ばれる神社の境内だったそうで、この木はその神社のご神体だったと考えられている。しかし、明治45年に蟻無宮は近くの野間神社に御祭神が合祀されて、今はこのケヤキが残されているだけだ。ボランティアの人によると新緑の今頃が一番美しいとのことだ。

あと能勢町は、江戸時代の文化年間に始まり200年の歴史がある人形浄瑠璃(大阪府指定無形民俗文化財)が有名だ。能勢町役場の近くに「浄るりシアター」があるが、全国の人形浄瑠璃が衰退していく中で、この町では伝統を継承して今も200人の語り手がいるというからすごい。

「食べログ」で調べると食事をする場所はよさそうなところがいろいろあるのだが、今回は「Soto Dining」でランチをしてきた。



この店は景色も良ければ建物の外観も店内の雰囲気も良い。不便な場所にあるのだが、11時ごろのオープン前から20人近くが並んでいて、12時前には満席になっていた。



画像は鶏のトマトソースだが他にもハンバーグデミグラソースとサーモンのクリームソースがランチのメニュー。こんなお店で能勢の山々の景色を見ながら美味しい食事ができるのは嬉しい。

他にも食事をする場所はいくらでもある。先日行った「若田亭」の蕎麦も良かったし、食べログを見ると、まだまだ素敵な店がいくつもありそうだ。



野菜なら道沿いにいくつも小さな販売所があるが、まとめ買いする時は「道の駅くりの郷」(能勢町観光物産センター)で買う。近隣で採れたばかりの野菜や特産品が豊富にそろっている。米も精米したてのものを販売してくれて、精米のレベルまでも選ぶことができる。もちろんどんな農産物もスーパーで買うよりも美味しくて割安だ。

会社の同僚の話だと、この道の駅の近くで特別天然記念物のオオサンショウウオを見たというのだが、調べると能勢町の川にはオオサンショウウオが多数生息しているようだ。

能勢町の魅力は山や川が美しいだけでなく、このように昔のままの自然と文化と生活が残されているところにある。こんな町が大阪の都心部から近い所にあることが嬉しい。

しかしながら、もしこの能勢町に大手のチェーン店が大型店舗をいくつも構えるようなことになれば、町の中での微妙な経済循環が崩壊して多くの農家や店舗が疲弊し、それがきっかけになってこの町の魅力を支えてきたものが少しずつ崩れいって、どこにでもあるような普通の田舎地方になってしまうような気がする。

いままで町を支えてきた人々の収入が減れば、若い人々は町を去ることになる。そうなれば、有名な野間神社の秋の例大祭や浄瑠璃などの文化の担い手も先細りになってしまうし、お寺や神社を支える檀家や氏子からの収入が減少すれば、いずれ多くの文化財が維持できなくなってしまうだろう。

今多くの地方で高齢化が進み、その地方の文化財に充分な修理がなされず、地方特有の文化が充分に継承されないまま何れは消滅してしまいそうな危機にあるが、その危機を逃れるためには能勢町のように、その地方の住民の中で経済がうまく循環して住民が生活できかつ地元に蓄えが残る仕組みを維持することが重要なのだと思う。

能勢町が田舎の魅力を持ち続ける限り私はこれからも訪れたいし、秋祭りや人形浄瑠璃の公演にも、ぜひ足を運びたいと思っている。
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BLOGariコメント
 
大阪にもいいところがあるんですね。大きなケヤキの木は魅力ですね。さぞかしランチは美味しかったのではないでしょうか。

 道の駅も頑張っておられますね。言われるように「直販」できればそれにこしたことはないですね。

 「3・11」以降大きな流れが今後できるとすれば。「つながり」を求める動きになるのではないでしょうか。今までは「お金で」なんでもできる社会が、良い社会であると私達は勘違いしてきました。

 ただそうやって「つながり」を新たにこしらえたらいいのか、正直わかりません。連休の合間にも考えましたが、「時間切れ」状態です。正直困りました。

 仁淀川町との関係をどうこしらえるのか。昨日朝日新聞の記者の取材を受けました。しばらく雑談して記者さんにも考えてもらいましたが「前例がないから面白い」と言われます。

 その末端の当事者の1人として、悩みは尽きないのです。
 
 
「消費者の利便性の向上」という心地よい言葉に騙されて、多くの地域が、大型チェーン店の参入を歓迎しましたが、それぞれの地域は豊かになったのでしょうか。地域の住民の「つながり」という、かけがえのないものを喪失し、かって賑わっていた駅前の商店街はどこもシャッター街と化しています。
そもそもその地域となんの縁もない資本が、投資をして店舗を作っても、その地方の産品を買うわけでもなく、利益は地域に再投資されるわけではなく、その本社に富が吸われて行くだけで、地域にはほとんど何も残りません。

これから必要となるのは、都市住民と田舎住民との「つながり」ではないかと思っています。都市生活者が田舎の産品を直接買い、農作業の支援やお祭りの支援や動員、子供のイベント企画などで強固な繋がりを作り、会員同士は大手チェーンを利用しない方向に舵を切れば少しずつ世の中が変わっていくのではないでしょうか。もちろん、いざという時の避難場所の確保や投資も必要だと思います。 



栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

2011年05月02日 | 平安時代

藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。



教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。

道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。

一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。

1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し、翌年に敦良親王(あつながしんのう)も生まれた。 1011年には一条天皇は病に倒れ、崩御されたために、居貞親王が即位され三条天皇となられた。

道長の次女の藤原妍子(けんし:994-1027)は、1004年に居貞親王(三条天皇)に入内させ、1012年に三条天皇(976-1017)の皇后(号は「中宮」)とした。

三条天皇にも先立の后(娍子:せいし)がいて、多くの皇子女が生まれていたが、道長は再度一帝二后を強行した。 三条天皇は天皇親政を行おうとし道長と長らく対立したが、1016年には道長からの圧力に屈して退位し、道長の長女の彰子の子で、わずか9歳の敦成親王が即位した。(御一条天皇:1008-1036)

道長の四女の藤原威子(いし:1000-1036)は、1018年に8歳も年下のこの幼い後一条天皇(1008-1036)の女御として入内させ、その年に「中宮」とした。

この威子が后となる日に道長の邸宅で祝宴が開かれて詠まれたのが、有名な
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(『小右記』、原文漢文)なのだそうだ。

道長の六女の藤原嬉子(きし:1007-1025) も将来の皇妃となるべく、道長の長女の彰子の子で、2歳年下の敦良親王(後の後朱雀天皇:1009-1045)に1021年に尚侍として侍した。

後一条天皇も敦良親王も藤原道長にとっては孫であるが、道長は自分の二人の娘(威子・嬉子)を、それぞれ自分の孫と結婚させたことになる。

藤原家が「摂政」や「関白」として天皇を補佐する立場で国家権力を掌握した「摂関政治」の全盛期が藤原道長藤原頼通親子の時代だが、調べると藤原道長は関白にはなっておらず、摂政となったのも後一条天皇を補佐する立場で1016~1017年のわずか1年だけというのは意外だった。



道長が摂政を退位した後は26歳の嫡男の藤原頼通(上画像)を摂政につけて自らは後見人となって後継体制を固め、以降頼通は摂政職を3年、関白職を48年務めている。

藤原道長は、国家の実権を掌握し栄華の絶頂に達して頼通へ権力の承継も成功した。しかしながら、その生涯を調べると道長の晩年はまるで怨霊にたたられたかのように悲劇的なものであった。

有名な望月の歌を詠んだ年の夏に、道長は胸部に激しい痛みを覚え、一時意識もうろうとなり、さらに視力も低下してしまう。当時の人々は「怨霊」の存在を真剣に信じていた時代であったので、道長も自分の病は自分が追い落としていった者の怨念に違いないと考え、ともかく呪いから遁れるために道長は髪をそり落として祈り続け、ある程度健康は回復するのだが、今度は災いは道長の娘たちを襲っていった。

最初の不幸が道長を襲ったのは、万寿二年(1025)7月の三女寛子(かんし:999-1025)の死だった。寛子は、道長により皇太子を退かされた小一条院敦明親王に嫁がされたが、親王にはすでに藤原顕光の娘・延子と結婚し六人の皇子・皇女がいた。夫を奪われた延子は病死し、父親の顕光も道長・寛子親子を激しく呪って死んだ。その二人の死霊が寛子に取り憑いたということが「栄花物語」に書かれているそうだ。

そして寛子が亡くなった1ヶ月後の8月に、今度は六女の東宮后嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を生んで2日後に亡くなってしまう。これも、顕光・延子の霊によるとされた。

さらに万寿四年(1027)5月に三男の顕信が病死で亡くなった後、9月には次女の皇太后妍子の命も奪ってしまう。わが子を相次いで失った道長はすっかり心身を衰弱させて病にかかり、11月には危篤に陥り背中には大きな腫物が出来て言語も不明瞭になったという。

さすがの親族も、命は長く持たないことを悟り、道長を(法成寺)阿弥陀堂に運び込んで、九体の阿弥陀如来像の前に寝かせ、各阿弥陀の手から伸ばした五色の糸を道長の手に握らせて、読経が続けられる中、12月3日に道長はとうとう息を引き取った。62歳だった。

道長が大往生した場所である法成寺は、東西2町南北3町に及び、豪壮な伽藍であったそうだが、1058年の大火で堂宇を全焼し、頼通が再建するも1219年に再び全焼し、廃絶されたそうだ。



上の画像は先日行ってきた世界遺産の宇治平等院。もともとは、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となる。そして長男の藤原頼通が永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めたのが平等院のはじまりで、その翌年に阿弥陀堂(現鳳凰堂)が建立されたそうだ。



平等院には大きな藤棚が2ヶ所あり藤の名所としても有名だが、先日行った時は日当たりのよい表門の藤棚でやっと咲き始めたばかりだった。もう少し花房が伸びて見頃を迎えるが、観音堂の横の藤棚はまだまだ蕾が固かった。平等院のHPで、桜と藤の満開時期が案内されているので次回行くときは参考にしたい。
http://www.byodoin.or.jp/ 

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BLOGariコメント

しばやんさん、こんばんは。

わが居住地=宇治に来てらっしゃったんですね(笑)
ちなみに、十円玉の平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)を撮る絶好のポイントは塔ノ島から望遠で撮った方がおススメです。

さて、道長よりももっと憐れなのは息子の頼通かと思われます。頼通が入内させた娘は一人も皇子を産みませんでしたから…

摂政と関白の職務の場合、天皇が幼少なら摂政に就くことができ、成人していれば関白に就くわけですが、権力の幅に大きな違いがあるんですよね。

例えば、図式で表現すると、「摂政=天皇、関白<天皇」という事になり、摂政は自分の発言、イコール天皇の発言になるのに対し、関白では自分の発言が天皇に拒否される場合があるわけです。

それ故、摂関政治期も、のちに上皇や法皇が真似た院政期も矢継ぎ早に幼帝をにすげ替えたんですね。
 
 
御堂さん、コメントありがとうございます。

48年も摂政・関白の地位にいた頼通が入内をさせた娘には皇子が出来なかったこと、関白では自分の発言が天皇に拒否される場合があるということは初めて知りました。

これまでは摂政も関白もどちらも良く似たものだと思っていましたが、権力の実質的な幅が随分違うのですね。勉強になります。