しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

2011年03月04日 | 大航海時代の西洋と日本

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。



松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。



「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55) 
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。



キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71) 

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。



ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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 明治の初期の廃仏毀釈もキリスト教的な世界観の影響なのではないでしょうか?

 明治以降の天皇制や大日本帝国憲法も、ドイツ帝国とバチカンを意識してこしらえたのではないかと思います。

 政府首脳は2年間にわたり欧州諸国を丹念に視察し、真似をする制度を研究していたはずです。

 豊臣秀吉の功績を正当に評価しないといけないですね。
 
 
次のURLは「浦上四番崩れ」と呼ばれる幕末から明治にかけてのキリスト教弾圧事件の解説ですが、こを読むと明治政府も江戸時代からのキリスト教禁止令をそのまま引き継いでいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

明治政府がキリスト教の禁止令を解くのは明治6年(1873)ですが、岩倉使節団が欧米諸国を視察し、キリスト教を禁止したままでは条約改正が困難であることを認識したことによります。

廃仏毀釈は隠れキリシタンが多くいた地域だけで起こったものでもなく、全国的なものですから、これは平田神道の影響によるものと考えられます。 

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

2011年02月25日 | 大航海時代の西洋と日本

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html



最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があることを記事に少しだけ触れておいた。

その異説とは、松永久秀の敵方である三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けたという説なのだが、その記録が今まで何度か紹介させていただいたルイス・フロイスの「日本史」の中に出ているのである。

この時代の歴史に興味を持ったので、ルイス・フロイスの本を取り寄せて、どこに書いてあるか調べたところ、意外と早く該当箇所を探しあてることが出来た。

中公文庫の「完訳フロイス日本史」第1分冊の第20~22章(原書では第1部59~61章)に、ルイス・デ・アルメイダ修道士の書簡が紹介されていて、22章に東大寺に関するアルメイダの記述がなされている。

文章を引用する前に、ルイス・デ・アルメイダについて簡単に紹介しておく。



アルメイダは1525頃にポルトガルのリスボンに生まれ、1552年に貿易目的で来日したが、医師の免許も持っていて西洋医学を日本に導入し、大分に日本で最初の病院を建てた人物でもある。上の写真は大分市にある西洋医術発祥記念像で中央の人物がアルメイダである。 彼は学識もあったことから、僧侶など知識人の欲求に良く答えて改宗に導き、医師として貧しい人を助けたので多くの信者を獲得したと言われている。

アルメイダ修道士は、永禄10年に大部分が焼失する前の東大寺を訪れ、東大寺に関して様々なことを書いているが、内容の多くは建物の大きさや仏像の大きさ、梵鐘の大きさなどで、大仏に関しては次の様な感想を書いている。

「…私達は、日本のあらゆる遠隔の地方から人々がこの寺院に参詣する盲目さ、ならびに彼らが拝む悪魔や偶像によるほかになんの救いもないかのように、こうして誤った救いを渇望している有様に接しては、涙し、同情せずにおれません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見出す事なのです。」(中公文庫「完訳フロイス日本史」第1分冊p279) 
とあるように、キリスト宣教師にとっては異教である仏教の仏像は、いかなるものも排除すべき対象物であるにすぎないのだ。

この文章に続いて鐘楼の鐘の大きさについて驚いたとの記述があり、そこで一旦アルメイダの書簡の引用を中断し、ルイス・フロイス自身が次の様な文章を書き込んでいる。

「今から二十年くらい以前のことになるが、ルイス・デ・アルメイダ修道士が下(シモ:九州)へ帰った数年後に、(松永)弾正殿は、同修道士が先に述べた、かの豪華な城で包囲された。その多聞山城(タモンヤマ)を包囲した軍勢の大部分は、この大仏の寺院の内部とこの僧院(東大寺)のあらゆる場所に宿営した。その中には、我らイエズス会の同僚に良く知られていた一人の勇猛な兵士もいたのであるが、彼は、世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心なあまり、誰かにたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く離れた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘楼以外はなにも残らず全焼してしまった。丹波および河内の国では、同夜、火の光と焔が大和国との間に横たわる山々の上に立ちあがるのが見られた。」(同書p279-280) 



永禄10年(1567)の松永弾正と三好三人衆・筒井順慶連合軍との戦いは、「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれ、通史では松永弾正が、東大寺に布陣している三好三人衆・筒井順慶連合軍に夜襲をかけて、その時に東大寺に火を付けたのは松永弾正軍だということになっている。

では、通史で松永弾正軍が火を付けたという根拠は何なのか。
前回でも紹介したが、興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」の口語訳がWikipediaに紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻に は大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

と、ここには松永弾正軍がやったとは書かれていない。



午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また『東大寺雑集録』によると、

「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」

と記されているのだが、普通に読めば松永軍が火を放ったとなるので、これが通説の根拠であろう。しかし、これを書いた僧侶は誰かが東大寺に火を放った現場を見たのであろうか。

ルイス・フロイスが書いているように、三好三人衆側のキリスト教徒が「自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った」のであれば、どちらが火を放ったかがわからず、恐らく攻めてきた側の松永軍が多分火を付けたと考えただけだと思われる。

紹介したWikipediaの記事では、日本側の記録も紹介している。

『大和軍記』という古文書には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されているそうだし、『足利李世紀』という古文書には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されているそうだ。
とすれば、松永弾正が東大寺を焼失させたという通説はおかしい、ということになる。

確かに松永弾正軍は過去も火を用いて寺を焼いたことがあり、将軍足利義輝の暗殺も主導した人物でもあり、その連想から松永軍が火を放ったと思われても仕方がなかった面もあるが、史料を読む限りでは松永弾正は、東大寺に関しては無実である可能性が高いと思われる。

しかしながらなぜ通史では、ルイス・フロイスが「日本史」に三好軍のキリシタンが火を付けたとわざわざ書き込んでいることを無視し、「大和軍記」や「足利李世紀」の記述をも無視するのか。私にはこのことは非常に不自然に思える。
せめて教科書や通史には両論を併記すべきではないのかと私は思うのだが、皆さんはどう思われますか。

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 そういえば7年ほど前にバーミアンの巨大な仏教史跡をイスラム原理主義者のタリバンが爆破したことがありました。

 身勝手な1神教の宗教者にとっては、異教徒の巨大な偶像は破壊しないといけないと思うのでしょう。

 やはり異教徒に寛大でない1神教が世界宗教として布教されるということは、世界中に戦争のタネをまいていることになります。

 しばやんさんご指摘のように、松永弾正は無実でしょう。粋な文化人であったとも言われておりますから。

 まんがで読んだので、史実かどうか不明ですが、松永弾正は信長をたびたび裏切りました。信長か「お前の持っている貴重な茶器を渡せば命は助けてやる」との申し入れ。

 「笑止千万」と茶器とともに爆死しました。その人物が東大寺大仏殿を軍事的な目的だけで放火したりはしないでしょう。

 やはり狂信的なキリスト教徒のしわざであると思います。
 
 
実は松永軍にも三好軍にも多数のキリシタンがいました。
この時期に多くの寺社が焼かれたのは、そのことと無関係ではないのではないかと考えています。

次回にその記事が書ければと思い調べています。
 
 
>実は松永軍にも三好軍にも多数のキリシタンがいました。

やはりそうでしたか。異教徒を認めないキリスト教徒であれば、さもありなんです。

 焼けたお寺の多くは、後年豊臣秀吉が再建したのでしょうか?信長が焼き討ちした比叡山も再興したのは秀吉でしたでしょうか?

 本願寺が東と西に分離されたのはいつ頃だったんでしょうか?

 今から思いますに、キリスト教が当時の日本で「根絶やし」にされたことは、良かったなと。かなりの行動や焼き討ちをしたので、過酷に取り締まりもされたことであると思いました。

 不思議なのは、明治以降に信仰の自由が保証されても、キリスト教は日本人に蔓延しなかった不思議です。

 隣国韓国は近代以降に信者が爆発的に増加したというのに。

 やはり儒教とキリスト教の「1神教」との相性が良かったからなのでしょうか。同じアジアでも不思議であると思いました。
 
 
松永弾正も三好三兄弟もキリシタンではないのに、臣下にはキリシタンの武士がかなりいたのは間違いありません。次回はその点について書いてみたいと思っています。

焼けたお寺の再建ですが、ネットで調べると、延暦寺は豊臣秀吉と徳川家康によって再建され、東大寺は大仏殿は天平期の3分の2のスケールに縮小されて、再建されたのは宝永6年(1709)といいますから、随分長い間大仏は露座で雨ざらしの状態だったようです。

本願寺の東西分裂は徳川家康の時代ですね。

キリスト教は基本的に排他的な宗教ですから、最高権力者が布教を推進するか禁止するかの違いではないでしょうか。わが国にはどんなに高価な貢物があっても、国のためにならないことを見抜いた最高権力者がいたが、韓国にはいなかったということなのでしょうか。 

 

 



戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

2011年02月19日 | 大航海時代の西洋と日本

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。



今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12]) 

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14) 

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23) 



寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209) 

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。



フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
https://himawari-kankou.jp/learn/000546.php

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。



ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。 
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2011年02月20日(日) 16:02 by けんちゃん  コメント削除
宣教師にすれば「未開の地」日本のはずが、国民は知的水準が高く、当時の西欧に負けない軍事力まで持っていた。驚いたことでしょう。

 むき出しの侵略の意図を秀吉は見抜き、キリスト教宣教師を処刑し、永久追放したのであると思います。良くやったと思います。

>他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

 まさに今中東ーアラブ世界で起きていることそのものです。西欧諸国は「民主国家」の顔をしていますが、やっていることは「ダブル・スタンダード」そのもの。

 抑圧された市民側がイスラム原理主義に共感しているので、余計にこじれてしまいます。

 近世の問題が、今の現代史を読み解く鍵にもなっているんですね。


2011年02月20日(日) 19:06 by しばやん
秀吉は「伴天連追放令」を出しましたが、南蛮貿易を統制する意思はなく、宣教師の完全追放までは至りませんでした。
サンフェリペ号事件や26人の宣教師の処刑はその大分あとの話です。

エジプトの問題もそうですが、日本でもアメリカが永年にわたり市場開放や様々な規制緩和を強要してきたことについても同様な話だと思います。
西洋諸国に対しては、我が国はもっと主張すべき事をすぐにしっかり言っておくべきで、何も言わないで問題を先送りすると、どんどん既成事実化して二進も三進もいかなくなります。

 

2011年02月21日(月) 20:00 by けんちゃん  コメント削除
>キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

最近のアメリカやイギリスの振る舞いを観察すると、まさにそのとうりです。

 アメリカ大統領3年目の年には不況はないといわれています。それはなぜか?

 アメリカは戦争をするからだ。と言われています。

 しかしイラクやアフガニスタンで足元をすくわれている内に、親米国のエジプトでムバラク独裁政権が倒れました。アメリカには大きな誤算だったことでしょう。

 更にバーレーンまで倒れると、湾岸の海軍基地を失うことになり大事になります。

 いつまでアメリカは「民主主義国家」のふりができるのか。
我慢比べですね。イランと。

 日本の場合は、欧州が1000年間宗教戦争して、ようやく「政教分離」したことを織田ー豊臣ー徳川の50年間でやってしまいました。それもとても上手に。

 一番の功績は侵略主義的な当時のキリスト教を日本で布教させなかったことでした。これはとても大きな歴史的なことです。

 まさに日本の独自性はここにあると思います。

 21世紀も宗教戦争時代ですが、多様性のある日本とインドが主導していかないと世界は平和になれないと思いました。

 


2011年02月21日(月) 23:28 by しばやん
2/14の新聞にこんな記事が出ていました。

「民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する『小沢一郎政治塾』で講演し、今後の国際社会に関し 『キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている』と指摘した。
 一方で「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。 悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。」(産経)
となかなか本質をついたことを言っています。

私も、一神教の宗教を奉ずる国が世界のリーダーでは、世界は争ってばかりで、決してまとまらないように思います。
かといって今の日本から世界をリードするような政治家が出てくるとも思えず、ただ将来に期待しているだけです。

すくなくともこれ以上、一神教同士の紛争に付き合わされて、我が国の富を搾り取られることは勘弁願いたいものです。

 


2011年02月22日(火) 08:22 by けんちゃん  コメント削除
 しばやんさんの推薦図書である「閉ざされた言語空間」(江藤淳・著)を読みました。

 江藤淳については、右翼のファシストという印象がありましたが、それだけではなく、彼は真剣に9ヶ月間米国のメリーランドの資料館に通い、文献を調べていました。

 米国占領軍が、検閲を執拗にやり、その事実を巧みに粉飾するだけでなく、「日本人の報道陣、文化人にまで根づかせ」、自主規制するようにしたことです。

 特に歴史教育や日本文化において、戦後の日本人が気づかぬまま、右翼や左翼の行動をしていても、すべて「アメリカの意向」が刷り込まれているようでした。

 そのおぞましい「洗脳」のやりかたには唖然としました。

 一神教の思想で世界を指導することは、対立と戦争を生み出すだけです。

 アメリカでも欧州でもロシアでも中国(共産党1神教国家)でも駄目です。

 日本とインドにその資格はあります。

 吉田松陰などの思想を検証しながら、アメリカの毒素を解毒したいと思うようになりました。

 そのきっかけをこしらえていただいた、しばやんさんには感謝しています。ありがとうございました。

 今後も検証作業はやりたいと思います。

 


2011年02月22日(火) 22:03 by しばやん
日本人の多くは、広島長崎の原爆投下について、「第二次世界大戦を早く終わらせるためにやむを得なかった」と教育されて、いまだにそう思い込んでいます。これなどは洗脳の典型ですね。

大手メディアではアメリカや戦勝国を批判することはいまだに控えられて、日本を貶めることばかりに熱心です。
その問題に斬りこむ論客はいつも「右翼」のレッテルを貼られて、その影響力を殺がれてしまいます。

日本の政治家やマスコミはアメリカの意向を無視しては活動が出来ないような状態を早く脱却しないといけないのですが、まずは日本人自身が洗脳されていることに気付くことが必要ですね。

 


2011年02月23日(水) 08:36 by けんちゃん  コメント削除
わたしはしがない零細企業の親父です。社会的な影響力はなく、毎日大きな企業に翻弄され、へこへこ生きています。

 超高齢の両親と同居していることもあり、行動の自由もありません。

 でも幕末期に吉田松陰は、牢獄にいても世界を動かす思想を確立し、現実に動かしました。あの世界観、あの自信はどこから来るのでしょうか?

 戦後日本が堕落したのは、米国占領軍の「仕掛け」と「毒」であったのです。わたしもようやくわかりました。

 解毒作業はとても辛いことです。「依存症」からの脱却は苦しみがともなうからです。

 でも庶民レベルでそれをしないと日本は変りません。

 わたしの40年来のテーマである「連合赤軍と新自由主義の総括」もめどがたちました。

 それはしばやんさんの教唆におかげです。

 


2011年02月23日(水) 21:48 by しばやん
「洗脳」というものは、洗脳されている者が自分が洗脳されているという意識がないというやっかいなものであるために、日本人の洗脳を解くことは容易ではありません。

次のURLは是非読んで頂きたいのですが、アーネスト・ヒルガードという世界的に著名な洗脳の専門家が2001年に亡くなった時のスタンフォード大学の追悼文の中に、「戦後日本の教育の非軍事化のため」にGHQの要請で来日した、という文章があるそうです。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080415

ヒルガードによる日本人の洗脳は、今も有効に機能しているとスタンフォード大学が評価しているから追悼文の中に書かれているわけですが、日本人はその言葉の意味をもっと考えないといけません。

 


2011年02月24日(木) 07:18 by けんちゃん  コメント削除
 「洗脳」を解く作業はとても辛いことですね。
 薬物中毒やアルコール依存症の禁断症状はとても辛いと聞いています。まさにそれです。

 苫米地さんの文章も読みました。なるほど同感します。

 最近私は塩野七生さんの「絵でみる十字軍物語」を読みました。1神教同士出なければ、決してありあない戦争であったと塩野さんは書かれていました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-7a83.html

 今中東で起きている「革命」は、アメリカ支配、かつては英国支配からの脱却であり、アメリカの追放までいくのではないかと思います。

 十字軍の歴史をなぞってみても、最終的には十字軍の敗退で戦争は終わるからです。

 中東地域で欧州人が勝利したのは、アレキサンダー以外はない・ということをアメリカもかみしめるべきだ。と塩野七生さんは言っています。

 結局十字軍で敗退した欧州のキリスト教徒は、海を利用し、南北大陸やアフリカ、アジアへ侵略してきました。戦国時代に日本まで到達してきたのです。

 昔の日本史の大事な箇所も曇りない目で見るためには、GHQの洗脳を説かないと見えないと思いました。

 今その作業に熱中しています。

 


2011年02月24日(木) 19:51 by しばやん
けんちゃんさんの反応は凄く早いですね。驚きました。

私の場合それ程勉強したわけではないので、「洗脳」度合いが低かったから、取り組みやすかったのかもしれません。

日本歴史教科書で一番歪められているのは明治以降の歴史だと思いますが、日本人を洗脳しようとするアメリカ人の立場に立ったとして、日本人が二度とアメリカと戦わせないためにどういう歴史叙述が望ましく、どのような叙述が望ましくないと考えるかという視点で歴史を見直すと、占領軍が日本人に知らしめた歴史叙述の歪みが見えてきます。

右寄りの人にとっても左寄りの人にとっても、明らかなる歴史的事実を突きつけられれば誰しも否定はできません。「右翼」というレッテルを貼られた論客が、どのような歴史的事実をどう評価しているかを知ることが、私の場合は非常に勉強になりました。

 


2011年02月25日(金) 10:57 by けんちゃん  コメント削除
 読んでいて江藤淳や小林よしのりなどは「右翼」であるとは思いません。それなりの見識がある「愛国者」ではないかと思っています。

 ただその論点に賛同するかどうかはまた別のもんだいです。

 ようやく素案ができました。

連合赤軍と新自由主義の総括 素案

1)ベースにある1神教であるキリスト教世界観の毒素の検証

 共産主義も1神教的な、世界観に基づいている。
 レーニンの考案した「民主集中制」は、秘密警察と強制収容所、言論抑圧、検閲がセットになっている。

2)身勝手な市場原理主義の検証

  「プロテスタンチズムと資本主義の精神」を逸脱した市場原理主義こそ、人類破滅の原理である。

  小さな政府の幻想。減税は新たな搾取形態とセットでなければ実現できない。」

3)「自由」を標榜するアメリカ帝国主義の検証

 GHQによる敗戦日本に対する検閲体制の検証。いかに自主規制が確立されたのか。

 「親米愛国」「親米反戦」は理論として成り立たない。

 米国ー官僚(親米派官僚)ーマスコミ(GHQの自主検閲を規範とする連中)の
  三位一体の親米従属国家体制の検証。

4)日本史の再検証 

  何故戦前の日本帝国は破滅したのか?世界観の誤りと戦略の検証。

5)1神教国家の世界制覇の危険性 (アメリカVSイスラム原理主義の戦争)

 アメリカ・ロシア・中国・英国・フランスを加えた国連常任理事国では世界平和を担保することは出来まい。1神教国家の破綻。

6)多神教国家による世界平和(対立の解消策)

  日本とインドを基本ー基礎とした「他者の存在を認める」寛容な世界づくり

 


2011年02月26日(土) 08:52 by しばやん
「身勝手な市場原理主義の検証」が二番目に挙げられているのは新鮮味がありますね。

アメリカがどこまで意図して行ったことなのかは良くわかりませんが、アメリカに押し付けられた経済自由主義、規制緩和は、生活が出来なくなった地方の若い世代を大量に都心部に移動させ、結果として共同体としての家族や地域をズタズタにしてしまいました。この家族や地域共同体の力が、日本の強さの源泉だったように思います。

地域共同体や家族による世代間の交流があって、我が国は地域特有の文化や日本の古い伝統を継承してきました。それが次第に失われていくことは仕方がないことかもしれませんが、そもそも地域や家族がバラバラで人間の幸福がありうるのかということを考えています。

普通の人が、普通の努力をして普通の生活が出来る社会の実現。そのためには地方や地域の経済循環を残すための規制も必要だと考えています。

 


2016年08月21日(日) 14:21 by ただ暮らすことの難しさ
絶対価値の勢力は、地ならしのための破壊の担い手は誰でも良く、今も日本に仕掛け続けているように思います。
日本は戦後日本人に主導権がありません。
これからの日本が心配です、いまの日本は、コエリョのやり口を拒否した豊臣秀吉のような在り方は糾弾対象のように編集されつつあります、諸外国からの便利な介入の口実にもなりましょう、ですが、じわじわやられて行けばやはり日本はなくなります、昨今のグローバカル化と開国が大村純忠の長崎領に重なってしまいます。

 


2016年08月25日(木) 06:49 by しばやん
ただ暮らすことの難しささん、コメントありがとうございます。

ご指摘の点は良く分かりますが、最近はネットで様々な情報が流れて、マスコミや学校などで流されている歴史叙述に疑問を感じる人が急増しています。いくつかの史実を知れば、わが国で戦後広められてきた戦勝国にとって都合の良い歴史は嘘だらけであることは誰でもわかります。
少しでも多くの方に、このような観点からの歴史を広めていけば、いずれ日本人の歴史観は変わるときがくるのではないでしょうか。そのことを信じてブログを続けていますが、私のようなブロガーは沢山いると思います。

実はこのブログは、ブログサービス会社のブロガリの都合により2017年の1月末に閉鎖されることが決定しています。
このブログは容量が少ないので、2014年にFC2ブログを立ち上げて、このブログの主要記事を移し、今も毎週記事を書き続けています。
最近は戦国時代に行なわれた乱妨狼藉のことを書きましたので、読んで頂ければ幸いです。
移転先のブログのURLは以下の通りです。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/




秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

2011年02月13日 | 大航海時代の西洋と日本

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。



フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、以前Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれていたが、今はその部分は削除されている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。



口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」) 

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文) 

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。



ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。


<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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BLOGariコメント

しばやんさん渾身のレポートです!凄いです!

 なるほど人身売買、雑兵の戦国史という観点も必要ですね。

 今年の大河ドラマ「江」にも野武士という形で出てきて、明智光秀さんは手やりで落ち武者狩りの雑兵に討たれます。

 九州を中心にした人身売買。それとキリスト教国。秀吉の存在とキリスト教の禁教の理由。なるほどそうでしたか。

 「世界観」が変るレポートでした。ありがとうございました。
 
 
過分なお言葉をいただき、有難うございます。

ちょっと重たいテーマをやっと書きあげて、肩の荷がおりたような気持ちです。

去年からずっと秀吉の「伴天連追放令」が気になっていて、買った側の事情や日本人奴隷の実態はわかっても、売る側の事情が今まで腑に落ちませんでした。

フロイスの「日本史」と藤木さんの「雑兵たちの戦場」を読んで、自分としては日本人奴隷が売られた流れを理解したつもりなのですが、今まで学んできた歴史では、私のような素人が原典を調べればわかるような事がずっと長い間封印されてきているように思います。

おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

こんなブログを書き始めていなければ、私もここまで調べることはなかったと思いますが、私も今回の3回の記事を書きながら戦国時代を見る眼が変わりました。

 本当に粘り強く調査されておられます。その姿勢に敬服いたします。

>おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

 敗戦後にGHQが焚書をし、言論統制をしていた意味は、共産主義の弾圧だけではなかったんですね。それがよく理解できました。

 むしろ当時の左翼の連中のほうが、「西洋史観」「日本悪者説」を振り回しておりましたから。ばかげたことでした。

 歴史の再検証が本当に必要であることをしばやんさんに思い知らされました。
 
 
実はGHQは左翼の本を殆ど焚書扱いにしていません。宮本百合子、堺利彦、野坂参三、尾崎秀実、河上肇、滝川幸辰、美濃部達吉、横田喜三郎、大内兵衛は一冊も焚書になっていないのです。

GHQの思想統制のターゲットは左翼にあったのではなく、また右翼だけが対象になったわけでもなく、西洋の世界侵略の実態を書いた本や、日本の良さを書いたような地味な本が、かなり焚書対象になっているようです。

この時に焚書になった本を何冊か手に入れましたが、結構面白い本があります。GHQの思想統制の目的は、日本人の洗脳、すなわち、二度とアメリカやキリスト教国と闘わないために、徹底して「西洋は正しく、日本が犯罪を犯した」と信じさせることにあったのだと考えています。今の教科書も、マスコミの論調も、すべてその観点で過去が語られるようになっていますが、これでは国や郷土を愛する気持ちが育つはずがありません。

これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。
 
 
>これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。

しばやんさんのご指摘で新たな観点が得られました。

 私自身高校生時代からの「宿題」を抱えています。
それは「連合赤軍と新自由主義の総括」というテーマです。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 いままでは社会運動面と社会思想面での検証ばかりしてきました。半分ぐらいは解明しましたが、今ひとつでした。

 歴史的な観点と宗教的な観点が必要ではないのか。しばやんさんのレポートでそれに気づかされました。

 つまり極端な共産主義思想も、凶暴な金融資本主義も、ベースに独善的な1神教としてのキリスト教世界観の毒が盛られているのではないのか。ということです。

 他者や異論を一切認めない。自分たち以外はすべて敵であり、いくら殺害しても罪に問われない。服従したものはドレイにしてもかまわないという思想。

 まさにアジア侵略してきたキリスト教のやってきたことと同じではありませんか。そう思います。

 「日米同盟だ」「米海兵隊は抑止力で沖縄駐留が不可欠」とかいう論理が、アメリカー官僚ー大手マスコミが三位一体となって世論を形成していて独自の日本の国益や国防を考えられないのも、これは一種の「洗脳」であると思います。

 しばやんさんのとりくまれている「キリシタン禁令」の歴史の総括に、「西欧信仰」の洗脳を脱却する鍵があるように思います。
 
 
解答になるかどうかわかりませんが、「共生」という考え方がどこか欠落した宗教や思想が世界で支配的になっているところからさまざまな問題が派生しているような気がしています。

世の中にある様々な信仰や考え方を許容し、その違いを乗り越えて共存共栄をはかるようにできないものでしょうか。
日本人が自国の歴史に自信を持って、そのような考え方で世界のリーダーシップを取る時代が来て欲しいものです。

「洗脳」を解く鍵は私も、西洋信仰に疑問を持つことと、日本の歴史を見直すことにあると考えています。
 
 
 最近の鳩山由紀夫前首相の「海兵隊抑止力・方便論」で、関係者がえらい怒っています。

 そのなかで沖縄タイムズの社説はとても冷静で、歴史的な観点から解説していました。

 「[「抑止力は方便」]これが前首相の発言?」

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-14_14545/

 長いですが論説を以下に引用します。

 「最低でも県外」「常時駐留なき安保」「対等な日米関係」「政治主導」。いずれも鳩山氏の政治家としての信念に根ざした主張だった。

 実行に移そうとすれば、米国との摩擦、官僚との摩擦は避けられない。

 鳩山前首相はその備えもないまま米国や官僚と相まみえ、壁にぶつかっては跳ね返され、閣内をまとめることもできず、迷走を続けた。

 鳩山政権の動きに警戒感を募らせた米国は硬軟織り交ぜ、さまざまな圧力を新政権にかけた。

 全国紙の米国特派員は「米国が怒っている」という類いの記事を流し続けた。外務省や防衛省の官僚は非協力的だった。

 「鳩山の失敗」に身震いした菅直人首相は、米国にも官僚にも逆らわず政権を長続きさせるという道を選んだ。政権交代時に掲げた理念の大幅な後退である。

 2009年9月に鳩山首相が誕生してから今日に至るまで、普天間問題の節目節目に浮かんだ言葉がある。

 西郷隆盛と西南戦争について取り上げた「丁丑(ていちゅう)公論」の中で福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と指摘した。

 政治学者の丸山真男は、日本の新聞社の「政治部」について「『政界部』というふうに直した方がいい」と批判した。

 大ざっぱな言い方をすれば、米国と官僚と全国メディアは鳩山政権誕生以来、三位一体の連携で辺野古移設を主張してきた、といえるのではないか。鳩山前首相はこの強固な壁に押しつぶされ、あえなく「憤死」したのだ。
 
 
 続きです。


 総理の強いリーダーシップと閣内の結束、党内の一致協力があれば、状況は変わったかもしれない。」とあります。

 感情的な反発(琉球新報はそうでした)よりも、歴史的背景や政治的なバランスを読んでコメントした沖縄タイムズの記事は秀品です。

 沖縄が「戦略的に重要である」と真剣に1番思っていたのはアメリカでした。ペリーの時代から軍事占領を考えていましたから。2ヶ月に渡り沖縄全島の測量までしていましたから。

 沖縄を軽視したのは旧日本帝国でした。陸上兵力や、航空兵力を台湾へ避難させ、劣悪な装備で米軍に対抗しようとしたのです。それは沖縄の民間人を巻き込んでしまう作戦でした。

 鳩山氏はその沖縄への思いがあったんでしょう。少なくとも「三位一体」グループのように沖縄に米軍基地を固定化するには反対していましたから。

 日本人は、国際情勢(尖閣・沖縄・朝鮮・竹島・北方領土)と向き合うためには、正確な歴史を知ることです。

 そのためにはしばやんさんご指摘の{GHQ史観」の克服、洗脳史観からの解脱が日本人各位には必要なのです。
 
 
鳩山さんは、代替案も固めず、アメリカとの調整もできていないのにに「最低でも県外」と言うのは政治家としてセンスがなさすぎますね。アメリカに国防を委ねる姿勢のままで、アメリカと対等の関係を構築できると考えるのも外交センスを疑います。

口先だけでは政治はできません。言ったことに責任を持ってもらわなければ、政治家として落第です。

好むと好まざるにかかわらず、いずれは自国は自らで守る気慨が必要です。その覚悟のない国に、アメリカの機嫌をとっていれば困った時に米軍が助けてくれると考えるのも幻想のように思います。その幻想を持ち続けるために、どれだけの富をアメリカに貢いでいるかと思うとぞっとします。

秀吉が今の政治家よりもはるかに外交力を発揮できたのは、つまるところ、以前鉄砲の記事で書いたように、日本の武器に優位性があり、武力が海外よりも勝っていたからだと思います。
西洋が世界を侵略していた時代がもし日本の平安時代だったら、日本はこの時に白人が支配する国になっていてもおかしくなかったと考えています。
 




秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

2011年02月09日 | 大航海時代の西洋と日本

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」



手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。



「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。


<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている> 

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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BLOGariコメント

キリスト教の独善的な世界観と、異教徒なら殺しても奴隷にしてもかまわないという考え方は、十字軍以来なんら変わってはいないようですね。

 この時代は十字軍での東方侵略が破綻し、イスラム勢力(トルコ)にシルクロードを押さえられた欧州のキリスト教国が、いわゆる「大航海時代」を経て、世界に植民地支配を行った時期なのでしょう。

 宣教師はまさにその先兵。しばやんさんんがレポートされているように異教徒は人間扱いしていません。

 このあたりも日本史できちんと教えないといけないと思いました。そうでなければ秀吉は無謀な侵略者にすぎないからです。
 
 
仰る通りで、私も秀吉は無謀な侵略者で、キリスト教を弾圧した程度のことしか学んだ記憶がないのです。しかし、いろいろ調べているうちに、秀吉のやったことは間違っていないと確信するようになりました。

戦後GHQが8000冊近い書物を本屋の書棚から撤去させ焚書にしましたが、西洋にとって都合の悪いことが書かれた書物は、たとえ事実を丹念に調べたものであってもその時に焚書処分になっているようです。それ以来、西洋の奴隷制を語ることが日本ではタブーのようになってしまい、史料となる書物もほとんど目にすることがありません。

焚書の目的は、西洋社会が善であり、日本軍が悪かったということを日本人に洗脳して、占領軍支配をやりやすくするという意図が少なからずあったのではなかったかと考えています。
 
 
>焚書の目的は、西洋社会が善であり、日本軍が悪かったということを日本人に洗脳して、占領軍支配をやりやすくするという意図が少なからずあったのではなかったかと考えています。

 まさにそうではないでしょうか。

 アメリカや西欧諸国(キリスト教国)は、エジプト騒乱をどう落とし前をつけるつもりなのでしょう。

 ムバラクの強権独裁体制を手厚い経済支援と軍事支援で30年間も支えたのですから。イスラエルの存続と、中東域での利権の維持そのものでした。

 アラビアのロレンスのいい加減さも身勝手さも同様です。

 秀吉の時代のキリスト教徒はより野蛮で戦闘的でした。中南米やアジアの当時の過酷な植民地支配を少しみればわかります。

 アメリカが「民主主義を定着させる」と、イラクやアフガニスタンで定着できないのは、己の身勝手さを棚に上げて押し付けるからで、当時も今も変りません。

 アメリカが「民主主義国で素晴らしい国」なんて思い込んでいるのは、世界で人好しの日本人だけかもしれませんね。
 
 
戦後GHQは新聞の徹底的な検閲を行い、都合の悪い記事を削除して、日本人をまず洗脳に必要な「情報遮断」の状態に置き、さらに焚書を敢行し、「真相箱」のようなアメリカを擁護し日本軍部を徹底批判する番組を公共の電波で垂れ流して、日本人はいつのまにか、「日本が悪かった」と洗脳されてしまい、そのために米国、中国やロシア、韓国・北朝鮮から日本はいつまでもタカられている存在になってしまっています。

教科書的、マスコミ的な歴史観は占領軍にとって都合のよい歴史に過ぎず、これではこの洗脳が解かれることがないような気がします。まずはこのような歴史観や価値観のおかしなところに気付き、さらに真実を追究することが必要で、真実を知ることによってのみ、他国の情報操作を受けずに、日本は対等の立場で議論し交渉できる立場に立てるのだと思います。

日本人奴隷のことを日本人がもっと知ることも、洗脳を解くためには大切なことだと思っています。 



秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

2011年02月05日 | 大航海時代の西洋と日本

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。



まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者) 

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。


<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ) 

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208) 

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211) 
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215) 

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。


<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4_%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。


<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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BLOGariコメント

キリスト教は1神教で異教徒との融和を図らない原理主義的な宗教です。欧州は非寛容なキリスト教社会になっており、1000年以上、異教徒との戦争や魔女狩りや、異端裁判を繰り返してきました。

 宗教戦争の最中に、アジアや日本へ進出してきました。宣教師が侵略の先兵であったことを秀吉はいろんな情報から見抜いたのでしょう。

 欧州が1000年かかってようやくやりとげた、「政教分離」を織田信長は比叡山焼き討ちと一向一揆の撲滅によって、極めて短時間にやりとげました。

 江戸時代に仏教が檀家制度で経済的基盤を保障される代わりに、キリシタン狩の役目も与えたのではないでしょうか。

 仏教が現世の政治世界から分離され、葬式仏教になり、江戸時代に既に、日本人にとって宗教は「絶対」ではなくなりました。

 教会で結婚式を挙げ、葬式は仏式。初詣は神社へ行くd譜代多数の日本人の生活習慣の基礎は、秀吉の時代に形成されたと思います。
 
 
キリスト教徒からすれば、異教徒は家畜同然に考えていたのでしょう。彼等にとっては、キリストを信じない異教徒は駆逐されるべき存在であり、奴隷にすることも、虐殺することもそれほどの罪の意識はなかったと思われます。

聖書のレビ記25章には、異教徒を奴隷にして買うことも、財産として所有することも容認することが明確に書かれています。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

秀吉が、「伴天連追放令」を出してキリスト教と距離を置く政策を出したことは、結果として多くの日本人を救ったのだと思います。
 
 
 現在のエジプト情勢は、今後の世界史に与える影響が極めて大きいと思います。

 西欧のキリスト教国は、ムバラク大統領の独裁をやめて、民主化し、「親米・親イスラエル路線」の継続をのぞんでいます。

 しかしその政治信条は、多数のエジプト国民から遊離しています。イランの聖職者がエジプトの反政府運動を支持表明しました。

 彼らは反米・反イスラエルですから。エジプトの場合は宗教が政治を媒介しています。対応を誤れば、大変なことになるでしょう。

 エジプトが反米国家になれば、隣国サウジや湾岸諸国も吹っ飛びますね。イラクもアフガンもアメリカの思惑どうりに行かないです。

 イスラエルはますます先鋭化し、ますます不安定になります。嘆かわしいことです。

 野蛮な十字軍が時代が下って秀吉時代に日本へ来たのです。全く迷惑な話でした。

 秀吉は朝鮮に侵略するのではなく、マカオのキリスト教の拠点を攻撃し、アジアの人達をキリスト教の「魔の手」から解放すべきでした。そうなれば世の中も変わっていたことでしょう。
 
 
秀吉が朝鮮に出兵したのはバカなことだったという話を学生時代から何度か聞かされていましたが、最近になって、秀吉の朝鮮出兵を、日本が植民地化されないために必要であったと評価する説が結構出てきていることを知りました。そのこともいずれ、書きたいテーマの一つです。

キリストとイスラムという一神教は、他の価値観に対して寛容ではないために、過去もそうであったように今後も争いを繰り返すような気がします。

何度も争って血を流し戦うことに疲れた時に、いずれは価値観の違う他国の人々の文化や生活を尊重する時代が来るのかもしれませんが、あと何十年・何百年かかるかわかりませんね。
 
 
なるほど~。
そういうことだったのですね。
 
 
近くの図書館にて「絵で見る十字軍物語」(塩野七生・著・新潮社・2010年刊)を読みました。

 精密なキャスターバ・ドレの挿絵に描かれている十字軍の絵は、戦闘場面や異教徒の虐殺場面が多くおぞましい。

「神がそれを望まれている」と宣教師が煽動し、エルサレムの奪還を名目に、欧州各国の諸侯がパレスティナの地の侵略戦争に参加しました。

 戦闘でなくなれば天国へ行ける。異教徒は家畜以下であり、いくら殺害しても罪に問われない。よいことであると教会は言い続けました。

 侵略されたイスラム側も,ジハード(聖戦)を宣言し、双方の妥協のない戦争が200年も続きました。結果はキリスト勢力は敗退し、イスラムに圧倒されます。

 その歴史の下地があるために、アジアへ来た宣教師も戦闘的で侵略主義的であったのでしょう。野蛮な宗教から解放するために来たと宣教師は信じていました。

 ただ日本の先進性や国民の優秀さには腰を抜かしたといいます。当時から日本は「一筋縄ではいかない」国として欧州各国に認知されていたようですね。
 
 
西洋が世界を植民地化していた時代に日本は戦国時代であり、西洋に武力では負けない時代であったことは幸運でした。

以前紹介したフランシスコ・ザビエルもポルトガル神父に宛てて、「日本人はたいへん好戦的で強欲ですから、メキシコからたくさん船が来ても、すぐに捕獲してしまうでしょう。」と書いた書簡を送っています。

しかし、もし西洋が世界を植民地化していた時代が日本の平安時代だったら、日本は簡単に飲み込まれていたと思います。
また戦国時代にもし秀吉や家康のような人物がいなければ、西洋勢力と結託した切支丹大名に国が支配されて日本の文化・伝統が破壊されて西洋の植民地になり下がり、世界中がいまだに西洋の植民地であり続けていたかもしれませんね。
 



400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと

2011年01月30日 | 大航海時代の西洋と日本

ブラジルサンパウロ州サンパウロ市で発行されている、日系人や駐在員向けの日本語の新聞で「ニッケイ新聞」という新聞がある。この新聞はネットでも読む事が出来るが、その新聞に2年前に連載された記事を見つけたときに衝撃を受けた。

その記事とは、フランシスコザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた時期から1600年頃までの約50年間に大量の日本人が南米に渡っている記録がいくつか残されているという話なのだが、それも主体的に日本人が海を渡ったというのではなく、むしろポルトガル人によって連れて行かれたと言うべきで、もっと端的に言うと、日本人が奴隷として売られていったということである。

このニッケイ新聞の記事を読むと、「アルゼンチン日本人移民史」(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)という本の中に、アルゼンチンの古都コルドバ市の歴史古文書館で日本人奴隷を売買した公正証書が発見されたことが書かれているそうだ。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090409-61colonia.html

上記のURLの記事には、
「1596年7月6日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている。
 その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」(同移民史十八頁)とある。残念ながら、日本名は記されていない。」
と、書かれている。

この青年は裁判で勝訴し二年後に自由の身分となるのだが、ほかにも1965年に大学生の研究グループが、同古文書館から奴隷売買証書を発見し、コルドバ大学から「1588年から1610年代迄のコルドバにおける奴隷売買の状態」(カルロス・アサドゥリアン著)という書物にまとめられて出版されているそうだ。

ブラジルについては奴隷に関する一切の公文書が1890年に焼却されたので検証できないが、ペルーにも1614年に行われたリマ市人口調査に20人の日本人がいたことが確認できるそうだ。


<ブーランジェ 『奴隷市場』>

日本人奴隷については、わが国では新聞や雑誌などで語られることはほとんどないが、戦前には西洋の世界侵略の実態については様々な研究があり多くの書籍があったようである。しかし昭和21年~23年にかけてGHQによって市中に出回っていたその種の書籍がほとんど焚書扱いとされ本屋の書棚から消え、今ではわが国で西洋の侵略や奴隷制をわが国で語ること自体がタブーのようになってしまった。
わずかに、戦後活字となった研究書はいくつか存在するがマスコミが取り上げる事はなく、中南米の日系社会のメディアがこういう話を伝えているだけというのは淋しいかぎりである。

つぎのような記述を読めば、日本人の多くは絶句してしまうだろう。日本人にはなぜこのような歴史が知らされないのだろうか。

【以下引用】
日本人奴隷に関し、…(中隅哲郎さんは)…『ブラジル学入門』の中で、「日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」(百六十四頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から次の引用を紹介している。

 「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数より日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」

 中隅さんは書き進め、「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。



 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、p158~160)には、次のような記述もある。

「1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
【引用終わり】
http://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090410-62colonia.html

Wikipediaによるとザビエルが日本を去ってからの話であるが、イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えて、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を要請したそうだ。
そして1571年に国王セバスティアン1世から、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功したのだが、それでもポルトガル人による奴隷貿易はなくならなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

そのために、天正10年(1582)の遣欧少年使節で4人の少年がローマ教皇のもとに派遣された際に、4人は各地で日本人奴隷と遭遇するにいたった。調べると、4人のうち有馬晴信の従兄弟にあたる千々岩ミゲルは後にキリスト教を捨てているが、旅先で奴隷を見たことの影響が少しはありそうだ。

ちなみにこの4人の会話は「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著/雄松堂書店)にでているが、この会話の部分の翻訳文を次のURLで読む事が出来る。千々岩ミゲルの発言に注目したい。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060313#p2 

最初に紹介したニッケイ新聞の記事には日本人奴隷に関する多くの書物が紹介され、引用されている内容は興味深いものばかりである。その当時奴隷として売られたのは黒人をはじめ中国人、韓国人、日本人、インド人、ジャワ人など様々であったこともわかる。

では、結局どの程度の日本人が奴隷として売られたのだろうか。鬼塚英昭氏は「天皇のロザリオ」という本の中で50万人と言う説を立てているそうだが、このレベルの数字は当時の日本の人口が1200万人程度だから、あまりにも多すぎる。いろんな人がいろんな説を立てているが、数千人から数万人の間というのが常識的な数字だと思う。

こういう暗い話は知る必要がないと考える人もいると思うが、こういう史実を知らずして、なぜキリスト教が禁止され、なぜキリスト教信者が弾圧されたかを正しく理解できるとは思えないのだ。

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BLOGariコメント

ポルトガルやスペインなどによって多数の日本人が拉致され、奴隷として連れ去られていた史実は知りませんでした。

 それが史実どうりであれば、秀吉はキリスト教を禁教し、後の江戸幕府も禁教した合理的な理由もわかります。

 侵略され、自国の文化も言語も宗教も奪われた国民が、後々まで悲惨であることは中南米の歴史のなかでも現れているようです。

 知人がそのあたりに詳しく、以前お話を聞く機会がありました。


http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/whatnew1/yano/yano3.html

 キリスト教は「人道普及」の道具として語られることは多いと思います。しかし歴史では侵略者の先兵として宣教師は登場していることもまた間違いありません。

 しばやんサンの今回のレポートで400年以上前に日本人が南米に連れ去られ、奴隷として働かされていたことにも驚きました。

ブラジルやパラグアイ、ドミニカなどに父方の親戚が戦前移民し苦労してきた歴史は聞かされてきました。

 タレントのマルシヤだどもその一族の子孫でありました。

 日本人移民の歴史は、学校の事業で習い、またブラジルの都市との姉妹都市交流などで知ることもありました。

 それ以前の歴史についてのことは全く知りませんでした。

 詳しいレポートありがとうございました。
 
 
いずれ記事にするつもりでいるのですが、日本側にも史料があります。

ただ、日本人奴隷として南米やインドに売りつけるために、女子供を「拉致」したという言葉を使うことは正確ではありません。
史料では「買取」という表現になっていますので、日本人の中に売った人物もいるわけですが、親に対して正当な対価が払われたかどうかはわかりません。
そのことについては次回以降に書いてみたいと思います。

しかし一神教というものは怖いですね。彼等にとってはキリスト教を異教徒の間に広める事が正しい事なのですから、異教徒を減らすことも異教徒の文化を破壊することも、正しいことだと考えたのでしょう。
多神教の日本人なら、ここまではやらないと思います。
 
 
ブラジル人やボリビア人のDNA鑑定をしたところ、日本人にとても似ている民族がいるという話を聞いたことがあります。
案外、その奴隷たちの血脈だったりするかもしれませんね。

ヨーロッパにおけるアジア人の奴隷売買はそれ以前からも行われていたようで、先日の拙稿でも名前を出したフェルディナンド・マゼランが世界一周の航海をしたときも、フィリピンからスペインに連れてこられた奴隷が乗船していたそうです。
マゼランはフィリピンで命を落としたため世界一周は果たせませんでしたが、このとき解放されたフィリピン人の奴隷たちは、マゼラン隊の一員として太平洋を越えてフィリピンについた時点で世界一周旅行を成し遂げていたというわけです。
世界で初めて世界一周を果たしたのは、実はフィリピン人の名もなき奴隷たちだった・・・という、暗い話の中に隠れた面白いエピソードでした(笑)。

前稿、前々稿のザビエルの話から通して読ませてもらいました。
とても極め細やかに調べておられ、頭が下がります。
 
 
コメントありがとうございます。

坂の上のヒゲおやじさんのブログを読ませていただいて驚いたのですが、マゼランは地球一周を果たす直前で殺されたとは知りませんでした。なのになぜ、「マゼランは地球一周を果たした」なんて言うのはおかしいですね。

この歳になって急に歴史に興味を持ちだして、学生時代に腑に落ちなかったことを重点的に調べると、「通史」と呼ばれる歴史におかしなことが一杯あることに気付きました。

日本人には知らされていない歴史が数多くあり、その中身を知ることの中に、日本人の、今後の世界における立ち位置があるような気がしています。
 
しばやんさん
こんにちは。

日本人奴隷の存在自体は知っておりましたが、宣教師らによって遠く南米や印度まで連れて行かれてこの様な扱いをされている事実は知りませんでした。

日本での報道や文献が少ない事が大きな原因ですね。
布教活動に熱心なカトリック信者はこの様なことから侵略の足がかりをして日本人の感覚からすると厄介です。

もし宜しければ参考になります日本の文献を幾つか紹介いただけますと嬉しいです。
 
 
ゆうじさん、コメントありがとうございます。

日本人奴隷のことを詳しく書いた本が存在するかどうかはわかりませんが、「ニッケイ新聞」の深沢正雪記者の連載記事は良くできています。次のURLがこの連載記事の目次になります。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa3.html

「ニッケイ新聞」で紹介されていた「ブラジル学入門」と「近代世界と奴隷制」という本を入手しましたが、それぞれ3ページ程の記述があるだけでした。そのポイントとなるところは、上記の連載記事に引用されています。
 
 
>日本人にはなぜこのような歴史が知らされないのだろうか。

現権力者(薩長)に都合の悪いことは隠される、からではないでしょうか。
明治(薩長)マンセーが酷すぎると思います。

戦後を批判する人々が多いですが、戦前にこそ、もっといえば明治維新にこそ問題の本質がある、とつくづく思う今日この頃です。
 
 
anti-meijiさん、コメントありがとうございます。

戦前における我が国の歴史叙述において、薩長を中心とする勢力にとって都合の悪いことが隠ぺいされていたことは一般論としていえると思いますし、明治維新に問題の本質があったという記述も理解できます。

が、この記事に関するコメントとしては薩長とはあまり関係がなさそうに思います。 



フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2

2011年01月26日 | 大航海時代の西洋と日本

前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。



ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。


前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。

ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。

「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.100) 

「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」(同p.101) 

「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」(同p.101-102) 

かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。

周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、御奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。

当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。

山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。


大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。

「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」(同p.105) 

大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。

山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。



岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名) 
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。

ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。

「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」(同p.137) 

1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。



(「ザビエルの死」ゴヤ画)

ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。

なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。

私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(同p.119-120) 

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120) 

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。

皆さんはどう思われますか。

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 やはりしばやんさんが書かれているように、恐ろしき、おぞましい地獄観では、日本人の感性にはなじまないでしょう。

 日々の生活で絶望的な生活を過ごすことの多い庶民大衆にとっては、死んだら極楽へいけると言われたほうが励みになります。

 「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と言われるほうが説得力があったと思います。

 キリスト教の排他的、独善的な世界観が日本人にはなじまないと思います。
 
 
ザビエルからすればキリスト教の教えがすべてですから、そう説明するより仕方がなかったのでしょうが、その考え方が日本人の感性には合わないということには考えが及ばなかったように思います。

私もキリスト教の排他的・独善的な世界観が、日本人にはなじまなかったのではないかと考えています。
 
 
輪廻転生というのでしょうか、生老病死という考え方を仏教ではするのではないのでしょうか。

 たまにキリスト教の葬式に行きまして、牧師の説教を聴きましても、すべて聖書の引用と解釈にすぎません。面白くもなんともないのです。

 祖母宅にあった振り仮名をふってあった」お経のほうが読んでいて面白いと感じていました。

 異教徒に対して寛容さの無い宗教は、日本では広まらないと思います。

 100年前に高知出身の幸徳秋水らが大逆事件で処刑され、韓国が日本い併合されました。

 それ以後日本はいわば1神教の「神の国」になりましたが、末路は悲惨な敗戦であり、国土は焦土になりました。やはり日本には1神教はなじまないのです。

 キリスト教の習慣では、クリスマスだけが定着しました。あとはバレンタイン・デーでしょうか。いずれも菓子メーカーの戦略なんでしょう。

 僧侶の子息で、仏教大学へ進学し、跡継ぎになった同級生は、バレンタインで義理チョコをもらって喜んでいましたから。

「お前は異教徒の習慣でチョコレートもらっておかしいとおもわないのか」と言いますと、

「そんなもん関係ない。嬉しいからいいんだ。」と彼は言いました。今は念仏系のお寺の住職です。

 年末にはクリスマスケーキを食べ、大晦日にはお寺に参拝。年始には神社へ初詣する普通の日本人。

 その姿をサビエルさんがみたら、「なんとおぞましき日本人」と思われることなのでしょう。

 「ええとこどり」する日本人こそ、今後の世界をリードできる民族であると私は思います。
 
 
私の実家がお寺であることは何度か書きましたが、私の子供の頃もクリスマスの日に子供のために父が枕元にこっそりプレゼントを置いてくれました。
父に直接聞いたことはありませんが、友達がみんなプレゼントを貰っているのに、自分の子供だけがみじめな思いをさせたくないという親の気持ちだったと思っています。

バレンタインデーには私も義理チョコを貰って喜んだクチでした。そういういい加減さは私だけではなくて、日本人全体が異文化に対して寛容なところがあり、結構うまく取り込んで楽しんでいるようなところがあるように思います。

その一方で、キリスト教国は異教徒の文化をほとんど自国に取りこんでいないのではないでしょうか。

また私も、キリスト教の牧師さんの説教を若いころに何度か聞いたことがありますが、私もけんちゃんさんと同様な印象を持ちました。牧師のレベルに問題があったのかもしれませんが、若い頃の私の心に感動を与えるどころか欠伸が出るような内容でした。

そういえば、中国のマカオへ行ったときも、ザビエルの遺跡があったような記憶があります。(随分前に行きましたのであいまいなんですが)

 ザビエルのキリスト教はインドでの布教の成果はどうだっあんでしょうか?

 インドも多神教のヒンズー教が優勢な国のようですから。ザビエル以後か、その前かわかりませんが、イスラム教がはいってきて、結果国が分裂することにもなりました。

 韓国でもキリスト教の信者が30%はおられるとか。日本は1%程度。つくづく日本はユニークな国であると関心しています。

 21世紀をリードするのは、アメリカと中国ではなく、日本とインドのような気がするのです。
 
 
記事にも書きましたが、ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績があるとのことですので、日本よりかははるかにイエズス会は布教の成果を挙げていたはずです。

今のインドは78%がヒンドゥー教でイスラム教が13.4%、キリスト教徒は2%程度なのだそうです。

21世紀のリーダーがどこになるかは正直なところ良くわかりませんが、アメリカや中国が自分の価値観を押し付けて世界をリードすることが難しくなるのではないかと考えています。
 
 
おじゃまします
ザビエルに関して詳しくは知りませんが、堺にザビエル公園がありますね。あれはザビエルの公園。ということは堺にも来たのでしょうか?
アメリカの飛行学校で教官が同じだったスペイン人にXavierという男性がいて(ザビエと呼んでいました)「大阪の堺にザビエル公園がある。日本に来た有名なキリスト教の宣教師の名前の公園だけど、あなたと何か関係あるのかな?」って聞いたら、「多分その公園は有名な宣教師の名前から来たんだと思う。そして僕の名前もその人から来た。だいたいスペイン人特にバスク人は、みんな有名な宣教師の名前から名前をもらう。」ということでした。ずっと後で調べたら、ザビエルもやはり彼が言ったようにバスク人でした。バスク語と日本語は言葉が似ていると聞いたこともあります。ザビエルだけが有名なのも日本とバスク、何か深い関係があるのかもしれませんね。
その学校にはもうひとりマドリッド出身のスペイン人も来ていて、彼の名前はズバリ「ジーザス」と書きます。スペイン語ではジーザスをヘシウスと発音し、ジーザスと英語読みせず「ヘシウス」と呼んでいました。それにしても大胆な名前ですね。珍しい名前でもないらしくて、大胆なスペインと奥ゆかしいバスクの違いを感じました。


あまり詳しいことは知らないのですが、1550年の12月に堺の豪商であった日比谷了慶が屋敷でザビエルを手厚くもてなしたと言われています。公園は了慶の屋敷跡に作られたようですね。

フランシスコ・ザゴエルがバスク人ということは、Bruxellesさんのコメントで初めて知りました。
「ザビエル」はバスク語で「新しい家」という意味だそうです。

貴重な情報をありがとうございました。
 
 
お返事ありがとうございました。
堺という町は、キリスト教、茶の湯、そして大富豪たち、この3点から見直す必要があると感じました。
マドリッド出身のスペイン人に関しては、瞬間的な記憶の出し間違いで、ヘシウスではなく、ヘススでした。訂正させていただきます。何か湿気た線香花火のような音だと思ったことを思い出しました。フランス語ではイエス・キリストはジェズュクリ、音的には小さな甘いお菓子のような感じでしょう?ジーザスが一番かっこいいですね。
wikipediaによりますと「イエスは、イエースース(古典ギリシア語再建音)の慣用的日本語表記である。現代ギリシア語ではイイススとなる。」とありました。慣れているからいいものの、英米人が聞けば、「はい」ですからイメージの狂う音なんでしょうね。昔のクリスチャン、私の祖母などが言うとイが消えて「エス様」に聞こえました。
名前の持つ音と実態とは元々関係んないんでしょうね。そこに存在する山は、山と呼ばれようが、マウンティンと呼ばれようが、そこに存在する事実の前では、何の関係もないようにね。しかし現実では、言葉、付けられた名前、その音、によってほとんど実態やイメージが決してしまいますね。
言葉というのは、混沌とした世界を引き寄せて論理を持って秩序だてるための人間の武器だとは思いますが、言葉から見れば人間はまだ猿なのかもしれませんね。
ごめんなさい、話がそれてしまいました。キリスト教がもし受け入れられていたらどうなっていたでしょうね。ふと思ったのですが天守閣(天主閣)という言葉、恐れを知らない言葉ですね。


堺には他には大きな古墳も数多く々ありますね。充分観光資源があるのですが、あまり観光者が訪れません。
堺市の取組み方に工夫が足りないのでしょうか。
昔、キリスト教の神父の話を聞いたことがありますが、キリストのことを「イエズス・キリスト」と呼んでいました。いろんな呼び方があるようです。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1

2011年01月22日 | 大航海時代の西洋と日本

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたポルトガルの宣教師である。


大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.html



こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。
この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。

ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。
ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。
この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。

岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。

ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。

「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」(岩波文庫p.27) 

と、日本人の優秀さを絶賛している。



<上の画像は鹿児島市のザビエル上陸記念碑>

キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。

「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」
「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」(p.30) 

と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。



<上の画像はジンナロ編「東洋の使徒ザビエル伝」より>

またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。

「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)
「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」(p.30) 

と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、

「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」(p.31) 

と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。 

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しばやんさんはご存知であると思いますが、土佐沖に漂着したスペインの商船サン・フェリッぺ号。乗組員たちの「キリスト教の布教はスペインの領土拡大に貢献した」という発言を秀吉が重視したと思われます。

 信長ー秀吉時代になると、一向一揆や石山本願寺を制圧しますと、対抗勢力としてのキリスト教徒の利用価値が下がったこともあると思います。

 それに当時の国際情勢を知らなかったはずは無く、東南アジア方面でのスペインやポルトガルの悪行の数々は秀吉などの耳にも入っていたと思います。

 ザビエルさんも戦国時代の日本へ入ってきて、展望を見たとは思いますが、他のアジア諸国のようにはいきませんでした。

 信仰の自由が保証された現在の日本でも、キリスト教徒は人口の1%程度です。

 日本人の気質として、1神教は流行しないと思います。共産主義も一時期流行しましたが、定着しませんでした。

 八百万の神の日本人の感性は、優れものであると感心しています。異質なものを排除しない姿勢は必要です。

 ただ秀吉時代のキリスト教は侵略の先兵でした。結果的に秀吉は良い選択をしたと私は思います。
 
 
結果的に秀吉が伴天連を追放したことは、ヨーロッパの侵略から国を守る観点からは良い選択であったと思いますし、秀吉がサンフェリペ号事件で更に態度を硬化させたことも理解できます。但し26人の宣教師を処刑したのはやり過ぎだったような気がしますが、もう少し調べて、いずれは書いてみたいと思っています。

サンフェリペ号事件の前に伴天連追放令が出ていますが、その背景については秀吉の側近の記録では、日本人が奴隷として売られていた事実を知って秀吉が激怒したということが書かれているようです。

信徒を奪われる立場の仏教僧侶からも相当な情報が秀吉に伝えられていたはずで、秀吉もスペインやポルトガルの悪行は認識していたと考えています。

ただ、ザビエルの本を読んでいると、当時の日本の仏教界には腐敗した部分が少なからずあったようで、キリスト教を民衆が受け容れて広まっていく余地は、それなりにあったと思っています。 



鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

2011年01月11日 | 大航海時代の西洋と日本

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。

前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63) 

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64) 


最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター) 
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」) 

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。


慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1. 日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。) 
2. 日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3. 日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4. 外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5. 刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。


この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。


その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。


そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。
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日本が主導して「核軍縮」が可能にするためには、周辺技術で日本が圧倒的な優位に立ち、日本なくしては核開発は不可能と周辺諸国に(アメリカも含め)思わさない限り不可能でしょう。

 つまり核ミサイルの制御技術や探索技術になる周辺の科学技術を豊富に有し、それなくしては軍事力が保持できない状態にするしか方法はないでしょう。

 いくら核兵器やミサイルがあっても、打つ前に位置を探索され、基地が丸裸に瞬時になる、世界に公開される状態になれば、誰も核兵器を使用することをしません。

 江戸時代のように鉄砲を放棄する。現在なら核兵器開発を放棄すると同じことになると思うからです。

 それにはきちんとした国家戦略が必要であり、100年の計がなければ到底できるものではありません。

 リーダーと国民の本気度が問われる課題であると思います。
 
 
今の日本の技術では、日本が軍事大国を主導して「核軍縮」を誘導するのは難しいと思いますが、その方向を目指すのであれば可能性はあると思います。

しかし、それだけでは、夢の実現は難しいような気がします。
その努力も必要でしょうが、一番軍事大国にダメージを与えるのは、そのような兵器を未だに開発している国は「野蛮国」であることを世界世論レベルに高めることのような気がしています。

世界各国が、アメリカや中国やロシアのように大量殺人兵器をまだ増やそうとしている国々は軽蔑すべき野蛮な国であることを世界各国が言い出し、貿易に制限をつけるようなことがあれば、軍事大国が主導して核軍縮を進めていくことがありうるかもしれません。

昔、スペインがインディオを虐殺した残虐非道な行為を告発したラス・カサスの小冊子が、スペインの征服の歴史を変えたということを読んだことがありますが、そのような世論が世界で広がると、核軍縮の歴史が動くことにはならないでしょうか。夢のような話かもしれませんが。
 
 
>その努力も必要でしょうが、一番軍事大国にダメージを与えるのは、そのような兵器を未だに開発している国は「野蛮国」であることを世界世論レベルに高めることのような気がしています。

 そうであると思います。原爆を日本に落としたことを反省もしない、謝罪もしない。むしろ誇らしげに歴史を偽造するアメリカと日米同盟とはなんとも情けない。

 しかしロシアや中国はまだ酷い強権国家。日本はとても環境のなかにいます。凶暴な隣人だらけです。

 そのことを日本国民は冷静に自覚し、生き残る道を模索し、確立することです。それには覚悟がいります。

 それをすることが日本の発展になることですので。
 
 
2012年03月01日(木) 01:27 by 通りすがり
>何故鉄砲を捨てたのか

ひとつ抜けている点があると思うのですが、「欲の制御」が明治以前の日本ではできていたのではないでしょうか。仏教により、特に権力者側で。

この観点から、核廃絶を世界的規模で行うのは絶望的だと思う次第です。
 
 
通りすがりさん、コメントありがとうございます。

「欲の制御」という言葉が適切かどうかはともかく、秀吉にせよ家康にせよ、西郷にせよ大久保にせよ、我が国の歴史に残る多くの為政者が国全体の幸せのためにどうあるべきかという視点を持っていたように思います。
それが仏教の影響なのか、あるいは日本古来の考え方なのか、意見は様々ありうると思います。

核廃絶は確かに簡単ではないでしょう。世界のリーダーたる国がその気になればできる可能性があるのでしょうが、その気にならなければいつまでたってもできませんね。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1

2011年01月06日 | 大航海時代の西洋と日本

中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。
例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。

鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶応11年(1601)に書いた「鐡炮記(てっぽうき)」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。

その記録によると、
天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。
下の画像は種子島にある時尭の銅像である。

種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。
そこで、翌年来航した外国人から矢板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。
その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊(すぎのぼう)や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。

最初に種子島に漂着した船にいた「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した海賊の王直の号であり、王直は中国安徽省出身であったこともわかっているそうだ。王直はその後、鉄砲に不可欠な火薬の燃料である硝石を中国やタイから日本にもたらして、交易で巨利を得たという。

鉄砲の製造と使用は急速に広まり、1570年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は8000挺の銃を用いたといい、1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍は1,000挺ずつ三隊に分かれて、一斉射撃を行って武田の騎馬隊を打ち破ったことは有名な話である。

米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)という本にはこう書いてある。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」(p35)

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」(p38-39)

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」(p63)



「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」(p160-161)
「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」(p162)

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多かったのだ。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで書いてある。


鉄砲だけではない。刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験した人がいるそうだ。 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」(p41)

この本を読むと、日本が西洋の植民地にならなかった理由が見えてくる。
前々回の記事でこの当時日本に滞在したイエズス会の宣教師が日本を絶賛した記録が残っていることを書いたが、この本にも当時に日本に派遣された外国人が、日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。

「十六世紀後期に日本に滞在していた…宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろんルネッサンスの絶頂期にあった。前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチと同様の結論であった。…」(p45)
と、著者が根拠とした文献とその何ページにそのことが記載されているかについて詳細な注が付されている。
この本の巻末には、著者の注だけで24ページ、参考文献のリストに11ページも存在し、ノエル・ペリンだけが特異な意見を述べているのでないことがわかる。世界にはこの時期の日本の事が書かれた書物が色々あるようなのだが、参考文献のほとんどが邦訳されていないのが残念だ。

この本を読んでいくと、この時代において鉄砲でも刀でも文化でも日本に勝てなかった西洋諸国に、日本を征服できることは考えられなかったことが見えてきて、日本人なら少しは元気になれるというものだろう。

しかしこの本のような記述は、私が学生時代以降に学んできた歴史の印象と随分異なる。戦後日本の歴史教育は、日本の伝統技術や文化水準に正当な評価を与えているのであろうか。この本のように当時の日本のことを丁寧に調べた書物ですら、我が国であまり注目されていないのは随分おかしなことだと思う。

私は、戦後の長い間にわたって、自虐史観に合わない論文や書物が軽視され続けてきたという印象をもつのだが、ペリン氏がこの著書で参考文献に挙げた海外の書物が邦訳されるのはいつのことなのだろうか。
<つづく>
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 しばやんさんご指摘のように、戦国ー織田ー豊臣ー徳川幕府時代の日本は間違いなく世界の軍事大国でした。

 日本同様の島国のフィリピンやインドネシアが欧米列強に侵略され、後にはアジアの超大国のインドや中国までが植民地化されていくなかで、日本は独立を守ることができたのも軍事力のおかげであったと思います。

 また土佐沖に難破したイスパニアの船員の会話から、報告を受けた豊臣秀吉は、「キリスト教は国民を骨抜きにし、植民地化するための道具である。」と鋭く見抜いて、キリスト教の布教を以後禁止しました。

 「鎖国」も秀吉の路線の延長上のことであり、それが可能であったのは、帆船の軍事力だけでは日本を侵略できなかった。また当時の日本の軍事力で海からの侵略に十分対抗できたからでしょう。

 「鉄砲を捨てた」のも、海外へ打って出て植民地経営を放棄したこと。徳川幕府の治世の安定化には、鉄砲の進化は必要なかったことが原因ではないでしょうか。

 戦闘部隊の武士階級は、江戸時代は「読書階級」になり、給与を貰えない、貰えても僅かな収入の下級武士は寺小屋を開いて、庶民の初等教育を担いました。

 儒学が江戸時代の主要な学問でしたが、朝鮮のように中国の模倣にとらわれず、実践的な解釈で現状を見る、行動する儒学者が結構多くいました。

 朝鮮では「読書階級」であったヤンバンという貴族階級が、儒学の枝葉末節にとらわれ、国難に十分に対処できなあkったので、秀吉の軍事侵攻を受けたり、20世紀には植民地化されたりしました。

 日本は鉄砲こそ放棄しましたが、現実をどう解釈し、いかに行動するのかという学問が盛んでした。吉田松陰に象徴される読書階級が明治維新の原動力になりました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-05fe.html(「吉田松陰」を読んで)

 幕末期に、吉田松陰や村田蔵六、その他実践的な学者や読書階級の行動的な集団がいくつも存在し、行動したのは「世界史的な奇跡」であると私は思います。
 
 1000字以内と言うことなので、続きの投稿です。

 しばやんさんご指摘の「自虐史観」でもなく、最近台頭している「自慢史観」でもなく、左右の稚拙なイデオロギーの呪縛から離れた歴史の解釈が必要であると思います。

 韓国の近代史は日本の植民地からはじまります。韓国の歴史教科書の記述の半分が豊臣秀吉の侵略と、植民地支配で占められています。(1990年に訪問した韓国の中学校で見せてもらいました。)

 中国も近代化はアヘン戦争からです。その後の欧米列強の侵略と植民地化、日本による侵略戦争の歴史と国共内戦に勝ち抜いて現代の中国はあります。

 現代の中国国歌は抗日戦争時の行進曲です。文化大革命時代には禁止されていました。

 1989年の民主化の動きを封じるには、日本を仮想敵国、歴史的な悪者にして青少年を教育してきたのが江沢民です。民主化をそらすための政治教育が中国の歴史教育なのでしょう。

 話が飛んでしまいましたが、結論は左翼の「自虐史観」でもなく、右翼の「自慢史観」でもない、歴史観を各人が持ち、韓国や中国の歪んだ歴史観を正していくことで、本当の近隣諸国との対話ができると思います。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。とても勉強になります。

ブログの吉田松陰の記事読ませていただきました。

地域を活性化させるためには「現世代だけでなく、現世代の子孫にわたって同じ”生きがい”と”死にがい”を感じることが必要だ」という言葉はいい言葉ですね。
昔の人は、その地域に「骨をうずめるつもり」で頑張ってきたのだと思います。そのがんばりが魅力のある地域文化と地元の繁栄をもたらしたのだと思います。

戦後の日本は経済合理主義的な経済政策が行き過ぎて、途中で地域社会との共生を忘れてしまったように思います。結果として地域の職場を奪い、地域の若い人材を首都圏に集めて、地域の老齢化させ疲弊を招きました。

地域の活性化のためには、その地域に「骨をうずめるつもり」の人がもっと出て来なければ始まりません。そのためには、地域の繁栄に貢献した人々の努力の歴史を知り、その地域を愛することから始まるのだと思いますが、そのことは国レベルでも同じことが言えると思います。いつの時代も、国民に健全な愛国心が育たなければ国を守れないし、地域の人々に愛郷精神がなければ地域が守れません。

このブログを始めて1年を過ぎましたが、次第に正しいことを知りたくなりました。
いわゆる「通史」と呼ばれるものは、多くの場合時の権力者によってかなり歪められ、戦勝国によって書き改められてきました。
けんちゃんさんのコメントの通り、私も「自虐史観」でも「自慢史観」でもない真の歴史を知りたいと思っています。自分の価値観や感性を信じて、自分が真実と納得できるものを少しずつ探し当てていきたいのですが、長い間正しいものと信じてきた通史の呪縛を解くのに、当面苦労しそうです。
 
 
「鉄砲を捨てた国」といえば、同時代に琉球王国がありました。しかし1615年頃に徳川家康の許可を得た、薩摩藩が軍事侵攻してきて、従属を余儀なくされました。

 最大の同盟国、宗主国の明は当時秀吉の侵攻で朝鮮を救援したことや、女真族の反乱などで衰退し、滅亡寸前。琉球を助ける余力はありませんでした。

 家光時代に明が滅亡。残党が台湾に逃れ、大陸反抗を企てていました。徳川幕府への救援支援があったそうです。

 幕府は慎重に協議しましたが、結局支援軍を出しませんでした。

 鎖国が先だったのか、支援要請が先だったのかはわかりません。

 当時の日本は海外からの侵略を跳ね返すだけの軍事力と組織があったということです。琉球王国や朝鮮国にはそれはありませんでした。

 鎖国で鉄砲を捨てても、学問や組織力はきちんと残したのではないでしょうか。
 
 
日本だけでなく、琉球も鉄砲を捨てたことは初めて知りました。秀吉の朝鮮出兵の影響で明が琉球を援ける余力がなかったというのも、台湾が徳川幕府に増援要請があったというのも初耳です。情報ありがとうございます。

どの国も自分の国は自分で守れるだけの軍事力が必要なことはいつの時代にも言えることだと思うのですが、軍縮が出来る国というのは軍事力を少々削っても、他国からの侵略を防げるだけの軍事力を保持できる国しかありえないのではないかと考えています。

日本は軍縮後も海外の情勢をよく知っていたことは御指摘の通りですね。