しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行

2010年12月16日 | 奈良歴史散策

以前、このブログで正岡子規俳句を紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

「秋風や 囲いもなしに 興福寺」

阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治の廃仏毀釈の時に僧侶130人が春日神社の神官となり、明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の地であったのだ。当時の奈良県知事が興福寺の土塀は「往来の妨げになる」との理由ですべて撤去させたという経緯を知らなければ、この句の理解はとてもできないだろうということを書いた。



正岡子規は明治28年(1895)10月26~29日に奈良を訪れて、他にも当時の奈良を書いた句を多く残している。子規が残した俳句は、次のURLで紹介されている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_index.html

明治28年の秋の作品をいろいろ読んでいくと、
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は教科書にも出てくる有名な句だが、

「秋風や 奈良の仏に 札がつく」
「行く秋や 奈良の小店の 古仏」 

というような奈良の廃仏毀釈を知らなければとても理解できない句がいくつか掲載されている。子規が奈良を旅行した頃は、廃仏毀釈で廃寺となった寺の仏像があちこちの古美術商で売られていたような時代であったことが見えてくる。

「柿食えば…」の法隆寺の句も、正岡子規訪れる数年前の法隆寺は相当荒れていたはずで、ようやく古美術の保存に関する関心が高まってきて明治26年頃から堂宇の修繕が国庫の補助金を得て着手されたばかりであった。

句の中に地名が書かれていないのでよくわからないが、これも廃仏毀釈の傷痕を見て作った句なのだろうか。

「堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花」
「明き寺や 取り乱したる 萩の花」 

廃仏毀釈の話題はこれくらいにして、次に別の視点から子規の生涯を振り返ってみよう。 

最近知ったことなのだが、正岡子規は平成14年(2002)1月に「野球の殿堂」の新世紀特別表彰として加えられている。長い間闘病生活をした子規がなぜなのだと興味を覚えたので、奈良に旅行した経緯もふくめて少し調べてみた。

正岡子規は慶応3年(1867)に、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれ、幼名は升(のぼる)といった。



政治家を志して明治16年(1883)、17歳の時に松山中学を中退して上京し、秋山真之と共に東京大学予備門を目指して翌年に合格してから、明治18年(1885)に俳句を作り始め、明治19年(1886)ごろからベースボールに熱中し、子規の随筆「筆まかせ」には明治23年(1890)に3月に上野公園博物館横空き地で試合を行ったことが記されており、その時のポジションは捕手だったそうだ。

そもそも「野球」は明治4年(1871)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成学校予科(現在の東京大学の前身)で教えたと言われているが、正岡子規がベースボールを始めた頃はこのスポーツを知る人は少なく、守備位置やルールなどは英語のままで使っていたようである。これを子規が日本語に翻訳したそうである。



子規が訳した野球用語のうち「直球」「打者」「走者」「死球」「飛球」は今も使われているが、使われなくなったものも少なくない。次のURLで子規が翻訳した野球用語が紹介されているが、ピッチャーを「投者」、キャッチャーを「攫者」、バットを「棒」、ベースを「基」等と呼ぶのは面白い。https://blogs.yahoo.co.jp/eru27_hawks/26834248.html


ネットでいろいろ調べると子規がベースボールを解説している明治29年の新聞記事が見つかった。この文章の中に、子規の考えた野球用語の翻訳が出ている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_baseball.html

上記の新聞記事の最後に子規が「ベースボール未だかつて譯語あらず」と書いているように、ベースボールをはじめて「野球」と翻訳したのは正岡子規ではなかった。



「野球」という訳語を初めて使ったのは第一高等中学で「ベースボール部」の選手として活躍した、鹿児島県出身の中馬庚(ちゅうまんかなえ:上の画像)で、第一高等中学を卒業する際にベースボール部の部史執筆を依頼されて、明治27年(1894)にベースボールを「野球」と命名したのが最初だそうだ。この中馬庚は、子規よりも速く昭和45年(1970)に野球の殿堂入りを果たしている。

しかし、実は「野球」という言葉を考案したのは中馬庚よりも正岡子規の方が4年も早かった。正岡子規は明治23年(1890)に、「野球」をベースボールの訳語としてではなく自分の雅号として用い、幼名の「のぼる」にちなんで「野球(のボール)」と読ませたそうだ。よほど子規はベースボールが好きだったようだ。

正岡子規は明治22年(1889)に初めて喀血をして以降、療養が続いて落第を繰り返し、明治25年(1892)に東京帝国大学を退学している。
その後新聞社に入社し、肺結核を患いながら日清戦争の従軍記者として中国に赴くも、船中の喀血で瀕死の状態となり、治療の後しばらく故郷松山に戻っている。

次のURLに子規の年表がまとめられているが、ここには奈良の旅行の事は記されていない。しかし奈良に旅行した日が明治28年(1895)10月26~29日であることはわかっているので、子規が奈良に訪れたのは、松山から上京する途中で立ち寄ったということになる。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

それ以降子規は7年にわたり闘病生活を過ごしており、奈良の旅は子規にとって人生最後の旅行となったそうだ。子規の観た当時の奈良は、私の知る限り廃仏毀釈で相当荒れた状態であり、のんびりと古刹を巡って昔を偲ぶようなものではなかったのではないか。

東京に戻り、病魔と闘いながらも子規は多くの作品を残しているが、明治29年(1896)の句のなかに、ベースボールを題材にしたものを見つけてしまった。

「若草や 子供集まりて 毬を打つ」
「草茂み ベースボールの 道白し」  

子規の野球に対する熱い情熱が伝わって来る。子規はもっと健康な体でいて、もっともっと野球がしたかったのだろうと思う。
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BLOGariコメント

明治22年に子規が松山に帰郷したおり、当時はまだ東京圏でしか知られていなかった野球を、松山中学の学生だった河東碧梧桐らに教え、それをきっかけに、松山では野球が非常に盛んになったと聞きます。
その流れで、のちに始まった全国高校野球大会創生期の大正から昭和初期にかけて、愛媛県勢は全国屈指の強豪校揃いだったとか。
いまでも愛媛県はレベルが高いですね。
中でも松山商業高校は、夏の甲子園では公立高校として最多の勝利数を誇り、高校野球史上唯一の大正・昭和・平成の各元号下で全国制覇を果たしています。
子規の功績ですね。
スミマセン・・・高校野球が好きなもので(笑)。

何年か前に、松山球場の愛称を「松山坊っちゃんスタジアム」と名づけられましたが、どうせなら漱石ではなく子規ゆかりの愛称にしてほしかったですね。
「松山ホトトギススタジアム」・・・とか(笑)。
 
 
ありがとうございます。

確かに愛媛県は昔から野球の強い高校が多いですが、ここで正岡子規の名前が出てくるとは思ってもみませんでした。

3年前に道後温泉に泊まって松山を観光しましたが、「坊っちゃんスタジアム」に「坊っちゃん劇場」に「坊っちゃん列車」で、夏目漱石の「坊っちゃん」のイメージが強烈でした。

東京都台東区の上野恩賜公園に「正岡子規記念球場」というのがあるそうですが、松山にあってほしいような名称ですね。
「ホトトギススタジアム」だと、ちょっと閑古鳥が鳴いていそうですね(笑)。 



世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像

2010年11月12日 | 奈良歴史散策

奈良県にある吉野山は古来桜の名所として有名で、三年前の桜の時期にバス旅行で行った時はものすごい人だった。吉野に来たほとんどの観光客が最初に訪れる世界遺産の金峯山寺(きんぷせんじ)は、明治7年に修験道が禁止されて一時的に廃寺となり、国宝の蔵王堂などは強制的に神社にされてしまったことは以前このブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html



上の画像は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」だが、これを見ると江戸時代はこの山に多くの僧坊があったことがわかるが、その多くが廃仏毀釈により消滅してしまっている。



上の図は正徳3年(1713)に描かれた「和州芳野山勝景図」の蔵王堂の近くを拡大したものだが、蔵王堂のすぐ近くにあった多宝塔や、後醍醐天皇の行宮となった實城寺も明治期に破壊されてしまったようだ。

明治19年(1886)に金峯山寺が神社からお寺に戻った経緯は以前書いた記事を読んで頂くこととして、前回に訪れた時は蔵王堂内陣の巨大な厨子に安置される3体の蔵王権現像(重要文化財)は公開されていなかったので見ることが出来なかった。
この仏像は今まで滅多に公開されることのない秘仏で、最近では吉野・大峯の史跡が世界遺産に登録された6年前に1年近く公開されたのち、3年前に5日間だけ公開されたそうだが、今年は奈良遷都1300年のイベントの1つとして9月1日から12月9日まで公開されている事を新聞で知り、どうしても見たいと思って先週の6日に行って来た。



駐車場に車を置き、黒門を過ぎてしばらく歩くと、四天王寺の石の鳥居、厳島神社の朱の鳥居とともに日本三鳥居の一つとされる「銅(かね)の鳥居(重要文化財)」が見えてくる。以前このブログで「鳥居は神社のものなのか」という記事の中でこの鳥居を紹介したが、鳥居は神社だけのものではないのだ。探せば大分県の富貴寺や岩戸寺など結構お寺に鳥居が存在する。佐伯恵達氏によると、画像のように鳥居に丸い台座のあるものは仏教信仰によるものだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html



銅の鳥居から少し歩くと、金峯山寺の仁王門(国宝)が見えてくる。重層入母屋造,本瓦葺の楼門で康正2年(1456)の再建である。左右にある仁王像は鎌倉末期の仏師康成の作だそうだ。



そして仁王門を登るとすぐに国宝の蔵王堂が見えてくる。この建物は天正19年(1592)の豊臣家の寄進で建立されたもので、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそうだ。



中に入ると、内陣の厨子の扉が開けられており、巨大な蔵王権現像(ざおうごんげんぞう:重要文化財)を拝むことができた。この仏像は木造で、制作されたのは天正19年(1592)頃と言われているのだが、保存状態はかなり良好で青黒い彩色が今も色鮮やかである。秘仏なので写真を撮ることは許されないのでネットで見つけた画像を添付したが、この画像で本物の迫力がどの程度伝わるだろうか。

寺伝では中央の像が釈迦如来(7.3m)、向かって右が千手観音像菩薩(6.1m)、左の像が弥勒菩薩(高さ5.9m)を「本地」とするもので、それぞれ過去、現世、来世を象徴していると言われている。

「本地」という言葉を理解するには、学生時代に学んだ「本地垂迹説」という言葉を思い出す必要がある。
神道と仏教を両立させるために神仏習合という信仰行為を理論づけし、整合性を持たせるために平安時代に成立した「本地垂迹説」、をわかりやすく説明すると、「本当は仏教の仏(本地)で、日本では神道の神としてやっています(垂迹)」ということ。「権現」とは仏が神の形をとって仮の姿で現れたということを意味している。

この大きな権現像が安置されている厨子の近くに、特別拝観期間中だけのためにいくつか仕切られた特設スペースが設けられていて、正座しながら蔵王権現像を目の前で見ることが出来た。これだけ近づくと外陣から見るよりもはるかに大きく、その存在感に圧倒されてしまう。

火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開き、右足を高く上げて虚空を踏む。
右手に持つ法具は三鈷(さんこ)といい、煩悩を打ち砕くものだ。左手は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣を持ち、左足で地下の悪魔を押さえ、右足は天地間の悪魔を払う姿だという。青黒い色は仏の慈悲、赤い炎は偉大なる知恵を表すもので、蔵王権現像は神も仏も自然も一体になった日本独自の存在だそうだ。



悪を払うという怒りの形相は今の世の中を怒っているのか、それに対して何もしていない私のことを怒っているのか。じっと見ているうちに次第に自分を奮い立たせて、励まされているような気分にもなる。
普通の寺院の仏像なら、柔和な表情で鑑賞するだけで穏やかな気分になるのだが、蔵王権現像はむしろ見ているだけで力がみなぎり、自然に背筋が伸びるような思いがする。しばらくこの仏像に釘付けになってしまった。



金峯山寺は白鳳年間(7世紀末)に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行され、蔵王権現を感得し、そのお姿を桜の木で刻み、蔵王堂を建ててお祀りしたのがはじまりだそうだが、その時代は様々な悪事がはびこり、悪を調伏させるためにこのような蔵王権現像を作ったと言われている。

ならば今の時代にこそ、憤怒の形相の蔵王権現像が必要なのではないか。
今の政治家や企業経営者、教育者、公務員など、国家や社会や組織のリーダーたるべき立場の人間が、本当の「悪」と戦っているのか。戦うどころか、自己の利益や保身ばかりを優先し問題を先送りして、結果として大きな「悪」をのさばらせてはいないだろうか。そのことが、真面目に働き真面目に学ぶ人々を苦しめてはいないか。

日本人は争いごとを好まず、怒りは抑えて表に出すことが少ない民族だと思うのだが、怒らないから多くの問題が先送りされて、なかなか問題が解決されない側面もある。
日常生活の中で人の怒りを感じることが少ないからこそ、神や仏の怒りと対峙して自分を謙虚に振り返り、自分に関係する様々な問題を見つめる機会を持つことが、現代社会に生きる多くの日本人にとってきっと必要な事だと思うのだ。

圧倒的な存在感で怒りを感得できる素晴らしい秘仏の特別公開も、残すところあと1ヶ月を切ってしまったが、この機会に「蔵王権現像」を出来るだけ多くの人に見てもらいたいものだと思う。 
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2010年11月18日(木) 23:52 by 大絶賛ぜっひ皆さん行ってください 川越歴史博物館はか20年以  コメント削除
大絶賛ぜっひ皆さん行ってください 川越歴史博物館はか20年以上運営している3F立て博物館です。
武具甲冑関しては古い物で現存数が極めてすくない鎌倉時代のウブ星兜鉢・鎌倉末期の筋兜など室町後期の変り兜・安土桃山期の変り兜や南北朝時代の軍陣鞍鐙・室町末期頃の馬鎧・室町中期木製盾などなど中世~慶長元和期まで室町戦国桃山時代の資料が中心に所蔵され全てウブのまま展示されています 年間定期ごとに展示変えされていますがいまだに20年以上展示ししけれない兜具足腹巻胴丸や刀剣類が展示しけれない物が沢山あるそうです。今は国立博物館・外国・私立美術館博物館などに貸し出しはしていないそうですが全て写真撮影できます  

東大寺大仏のはなし

2010年06月13日 | 奈良歴史散策

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。



聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グループが調査した大仏の補修個所が修理時期別に色分けされておりわかりやすい。



では東大寺の大仏はどういう経緯で修理されることになったのか。いろいろ調べると、東大寺大仏が破壊されたのは三度もあるのだ。

江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が3回落ちたということを書いているそうだが、それによると、その時期は
斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)だそうだが、その時にいったい何があったのか。

最初の斎衡2年は地震が原因らしい。全国で貴賎を問わぬ修復費用の調達が行われて、この時は貞観三年(861)に開眼供養会が行われたようだ。

二度目の治承4年は有名な平重衡による南都焼討である。この時は東大寺だけではなくて、興福寺も焼かれてしまっている。

平治元年(1159)の平治の乱の後、大和国が平清盛の知行国となったが、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視したことに対して南都寺院側は強く反発し、特に東大寺、興福寺は僧兵と呼ばれる武装組織を背景に、強く平氏に反抗していたのだが、治承4年(1180)5月の以仁王の乱を契機に、園城寺や諸国の源氏とも連携し反平氏活動に動き出す。

12月に平重衡(平清盛の五男)が園城寺を攻撃して焼き払い、奈良については当初は平和的解決を目指して清盛はまず使者を送るのだが、南都の僧兵により60人の使者の首が切られてしまう。

激怒した清盛は、南都攻撃を命令しその際に奈良の主要部を巻き込む大火災が発生し、特に東大寺は法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外はすべて焼け落ち、興福寺も三基の塔の他、金堂・行動・北円堂・南円堂など38の施設を焼失してしまう。

この時の大仏がどうなったかについては、『平家物語』巻第五「南都炎上」の段には「御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあいて山の如し」とあり、大仏の頭は下に落ち、体は熱で溶けて山の塊のようになったと書いてある。

東大寺の復興事業は平家政権によって始まり、俊乗坊重源が造営勧進となり大仏は運慶らの制作によりまず大仏が完成し、文治元年(1185)8月28日に後白河法皇を導師として大仏様開眼供養が行われている。壇の浦の戦いは3月なので、平家滅亡の後のことである。

ところが肝心の大仏殿の建築は用材の調達に支障がありなかなか進まず、上棟式が行われたのは建久元年(1190)で大仏殿が完成し落慶供養が行われたのは建久六年(1195)で、その時は後鳥羽上皇や源頼朝が臨席したとの記録が残っている。源頼朝は奈良の復興を鎌倉幕府の最重要の政策とし、巨額の再建資金を支援したそうである。

三度目の永禄10年は、戦国時代の真っただ中の永禄10年(1567)の10月10日で、この時も大仏は火災で鎔けて首が落ちている。

松永久秀と対立していた三好三人衆・筒井順慶が奈良に侵入し東大寺や興福寺に陣を構えたなかで、松永久秀が三好三人衆の本陣のある東大寺大仏殿に夜襲をかけたとされるのだが、この経緯はWikipediaにかなり詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」にはこの日のことを、次のように記載されているという。

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

しかし、誰が東大寺に火をつけたかについては諸説がある。当時日本で布教していたイエズス会のルイス・フロイスは「日本史」という著書を残しているが、そこにはイエズス会に入信していた三好方の誰かが夜分、本陣のあった東大寺を警護している時にひそかに火をつけたと書いている。

ルイス・フロイスは火をつけた者の名前までは明記していないが、フロイス自身がイエズス会に不利なことを書いていることを何故注目しないのかは良く分からない。ここではその可能性もあるとだけ書いておこう。

とにかくこの兵火のために東大寺は、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院などは残ったものの、大伽藍の大半を再び焼失させてしまっている。

元亀元年(1570)、朝廷は京都の阿弥陀寺の青玉上人に、大仏の修復のための諸国勧進を行うべしと命じ、織田信長や武田信玄へも勧進への協力が命じられたようだが、当時はなかなか資金が集まらなかったようである。

天正6年に鋳物師の弥左衛門久重が起用され大仏が修復されたが、頭部は銅板で仮復旧したままの状態だったらしい。大仏殿も仮堂で復興したがそれも慶長15年(1610)に大風で倒壊し、大仏は無残な姿のままで数十年雨ざらし状態だったことになる。

万治3年(1660)東大寺の公慶上人が立ち上がり、奈良の町人に大仏殿再建のための勧進を呼び掛け、江戸をはじめ遠い国からの勧進も盛んになった。

貞享3年(1686)から大仏の本館修復が始まり、元禄5年(1692)には露座の大仏開眼供養が行われ、全国から20万人を超える参詣人が集まったと言われている。下の図は東大寺に残されている「開眼供養屏風」で、露座のままで法要が行われているところが描かれている。



そして大仏殿は宝永6年(1709)に完成し、落慶法要には24万人が詰めかけたというのだが、 三好・松永の戦乱で焼けて以来大仏が修復され、立派な大仏殿の屋根の下に納まるのに142年もかかっているのだ。



今我々が目にすることのできる東大寺の盧舎那仏像は、このようにさまざまな人々の努力により残されてきた貴重な文化財であることを忘れてはならない。この仏像は国宝に指定されているが、ただ古いから国宝であるのではなく、その時代時代の最高の技術で修復されてきたからこそ国宝なのである。

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2010年06月15日(火) 02:09 by キャビのお友達
東大寺大仏さんの含蓄ある内容ありがとうございます
今現存する大仏さんの歴史的経緯
やはり 建造と損傷そして修復を繰り返しし
その時代時代の最高の技術をもって修復されてきたんですね
大仏さんは50トンも水銀を使用、 金を水銀に溶かしてできた、やわらかい金アマルガムをバーナーで焼くと、水銀が蒸発して金だけが残される。
蒸発した水銀で病気になった人が多発したそうです。
建造や修復にあったって多くの人が犠牲になったのも事実
 大仏さんを見るたびに そういった歴史背景を感じる私ですが
 
 
キャビのお友達さん、コメントありがとうございます。

確かに、塗金作業を行った際に水銀を使って病人が出た記録がありますね。
使った水銀量は2.5tで金が0.5tと書かれているサイトもありますが、実際に大仏全体を塗金するのに必要な金量は48.4kgという数字もあります。

病気が水銀が原因とするものであることを、当時つきとめて対策を講じ、5年もかけて作業をしているようです。

次のサイトは参考になります。

http://www.tmk.or.jp/history_06.html



天平彫刻の宝庫、東大寺三月堂の解体修理

2010年04月16日 | 奈良歴史散策

東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われたが、奈良時代の建物としては転害門(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)と三月堂(法華堂)が残されている。

そして三月堂(法華堂)は東大寺大仏殿が建立された時代よりも前に建てられた東大寺最古の建物で、創建は天平12年(740)から19年(747)の間と言われている。



東大寺は何度か行っているのだが、この三月堂(法華堂) には高校の頃に行ってから40年近く行っていない。ここには本尊の不空羂索観音立像(国宝)のほか、日光・月光菩薩立像(国宝)、執金剛神立像(国宝)、金剛力士立像(国宝)、四天王立像(国宝)など合計16体の仏像が安置されており、そのうち天平時代に制作されたものが14体(内国宝12体、重要文化財2体)もあるので、ずっと前からもう一度じっくり参拝したいと思っていたのだが、この三月堂が工事に入るとの報道があった。

東大寺のホームページによると、鎌倉時代に作られたとされる板張りの須弥檀がシロアリの被害などで傷みが激しく、地震対策のなどのために三月堂が5月から3年間の予定で本格的解体修理に入るために5月18日から7月31日までは拝観停止になり、全仏像が一時的に移動される。

8月から入堂拝観が再開されるそうだが内陣の中には入れず礼堂からの参拝となり、堂内に残る仏像も弁才天(重要文化財)、日光菩薩・月光菩薩(国宝)、帝釋天(国宝)、梵天(国宝)、地蔵菩薩(重要文化財)、不動明王(重要文化財)の7体が予定されているだけだ。

そして3年後の修理完成後は塑像の日光・月光菩薩立像(国宝)と弁財天堂(重要文化財)、吉祥天像(重要文化財)の4体は、南大門近くで建設されている寺総合文化センターに半永久的に移されると書いてある。

ということは、16体の仏像が須弥檀に林立する姿があとおおよそ1ヶ月で見られなくなってしまうのだ。

というわけで先日、桜の咲く東大寺大仏殿を横目に、家内と朝一番で東大寺三月堂へ行って来た。よほど人が多いかと思っていたのだが、修理されることがあまり知られていないのか、拝観料(@\500)を払ってすぐに内陣に入ることができたのは意外だった。



中に入ると、林立している16体の巨大な仏像の神々しさにまず圧倒される。また、本尊の不空羂索観音像をはじめとする16体の仏像それぞれが素晴らしく、それらの仏像が醸し出す荘厳な空気が、観る人をいにしえの時代にいざなっていく。

ここは博物館ではない。仏像と観光客とは空間を共有し、遮るものは何もない。建物も、仏像も、1250年近く古いものが今も残されて目の前に祈りの対象として存在し、観光客も千年以上前と同じ状態の仏像に手を合わせて参拝することができるのだ。

度重なる兵乱や地震や台風や廃仏毀釈などの大変な危機を乗り越えて、これらの仏像が今も残されている。素晴らしい仏像を制作したことも凄いことなのだが、私は1250年近く守られて、今も信仰の対象であることに日本人の凄さを感じている。

三月堂のパンフレットには、これらの仏像を制作した仏師の名前は記されていないが、田中英道氏は、「国民の芸術」という著書の中で不空羂索観音立像(国宝)や日光・月光菩薩立像(国宝)を制作したのは国中連公麻呂(くになかむらじきみまろ)と推定している。国中連公麻呂は東大寺大仏を制作したことでも有名であるが、三月堂の秘仏である執金剛神像や東大寺戒壇院にある四天王像も公麻呂の制作だとされ、それらの仏像の質的レベルの高さから、田中英道氏は公麻呂のことを「天平のミケランジェロ」と呼んでいる。

ミケランジェロもすばらしい作品を残しているが、お寺で生まれ育った私には西洋彫刻に精神性の高さがあまり感じられず、個人的にはミケランジェロよりも天平仏の方が好きなのだ。

京都出身でありながら、仏像は奈良のものが以前から好きだったのだが、私が写真などで見て好きだった奈良の仏像の多くが、公麻呂の制作によるものであることに気がついた。、奈良の仏像が好きだったのは公麻呂の仏像が好きだったということなのか。

仏像は本来祈りのためにある。お寺の建物の中で参拝者と空間を共有できてこそ祈りの対象となりうるのだが、三月堂の14体もの天平仏を参拝できるのはあと1ヶ月が残されているだけである。 
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東大寺二月堂のお水取り

2010年03月08日 | 奈良歴史散策

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。



「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

旧暦の二月はインドの正月にあたるので、仏への供養を行うと言われているが、外国には修二会はなく、本当の起源ははっきりしていない。仏教伝来以前からの作法がかなり色濃く残されているとも言われ、神仏習合の不思議な世界を見ることのできる行事である。 東大寺のHPなどに書かれてあるが、修二会は良弁僧上が始めて以来過去一度も途絶えることなく続けられ、今年は1259回目になるそうだ。

しかし、東大寺は過去堂宇が焼失した歴史が何度かある。また以前ブログに書いたように明治初期の東大寺は収入源の大半が断たれ、傷みのひどかった大仏殿を長い間修復できなかった経緯にある。また太平洋戦争の時は多くの僧侶が徴兵されて戦場に行ったり空襲を警戒して灯火管制も厳しかったはずである。

これだけ長い期間にわたって途絶えることなく続けるということには大変な苦労があったことは容易に想像がつく。

いろいろ調べていくと、最大の危機は治承5年の時だそうだ。東大寺は前年の治承4年(1180)の12月に平重衡の兵火によって大仏殿が焼け落ち、大仏も上半身を失い、講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼けたが、二月堂は類焼を免れた。この時は、東大寺当局は「寺が復興したらまたやればよい」として「お水取り」の中止を決定したのだが、練行衆達が「大事な法会を、寺を修理してから元に戻して何の甲斐があるか」と反対し、東大寺当局とは関わりなく有志15人でこの行事を行ったとの記録があるとのことだ。

永禄10年(1567)の三好・松永の兵乱によってまた伽藍の多くを失ったが、この時も二月堂は類焼を免れている。この兵乱で焼失した大仏殿が再建されるのは140年後とのことで、その間は大仏様は露座のまま座っていたということだそうだ。

寛文7年(1667)2月に二月堂は満行に近い2月13日早朝に失火で焼失(明治以前は旧暦の2月1日~14日に行われていた)、現存の二月堂は、寛永9年に再建されたとある。この時は三月堂で「お水取り」が行われた記録がのこっているとのことだ。(「二月堂修中練行日記」) 

明治時代の廃仏毀釈の頃は僧侶も人数も減り東大寺の存立そのものが危ぶまれたのだが、修二会は規模を縮小して守られ続けたそうだ。今は連行衆11名が二週間勤めているが、この人数は廃仏毀釈以降のことで、江戸時代は26人の連行衆がいて前後半それぞれ13人ずつだったそうだ。

太平洋戦争の時は、修行中の練行衆に召集令状が来て人手が足りないことがあったが、別の宗派のお坊さんが練行衆に加わってなんとか乗り切ったそうである。

しかし僧侶だけが時代の節目節目で苦労したのではない。この修二会は良質の竹やヒノキ材や菜種油などが入手できなければ成り立たない行事である。

京都新聞の「ふるさと昔語り」によると、竹は山城地域の竹が使われ、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていたそうである。

戦国時代の天正年間の文書を読むと、山城地域で二男、三男を東大寺の僧にする大農家があり、大農家にとっては家の名誉になり、東大寺にとっては金銭や物資の仕送りが期待できるという関係にあったそうだ。

また江戸初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が各地に作られたという。 民衆のこのような素朴な信仰心が、僧侶達のモチベーションを高めて、いかなる困難をも乗り越えて、この修二会を長い間継続させてきた原動力になったのではないだろうか。

山城地区の竹送りは風水害などが原因で戦後いったん途絶えたが、昭和53年に復活し、今も、山城松明講によって、京田辺市の竹林から切り出された7本の竹が、毎年二月堂に運ばれているそうだ。
「京都新聞 ふるさと昔語り」
http://kyoto-np.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080208.html
「奈良日日新聞 竹送り700人が街道練る」
http://web1.kcn.jp/tsuzaka-silver-bbc/page221.htm 
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若草山の山焼き

2010年01月24日 | 奈良歴史散策

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。

ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早目の夕食をとったが、ついでながらこのお店の「奈良茶めし」は素朴な味でとても気にいった。茶粥も有名なようで、また奈良に行くときは立ち寄りたい店だ。

この「茶坊ゆうすい」から20メートル程下ると、山焼きの松明が点火される場所があることをお店の従業員から聞き、早めに店を出て、松明点火場で陣取りをする。5時5分からこの場所で春日大社の聖火が点火される予定だが4時45分頃に着いた時にはまだ人は少なく、良い場所がキープできた。

5時過ぎに雅楽道楽―僧兵―奈良奉行所役人―法螺衆―興福寺―東大寺―春日大社の順に総勢30名の行列が点火場に到着。



用意されていた小さな火床に聖火が点火されると、次第に炎は大きくなり、そして松明の点火がはじまる。



松明の火の勢いが強くなると、行列は若草山に向かって進みだす。点火場にいた人たちも行列とともに若草山に進む。若草山のふもとにはすごい数の人が集まっていた。外国人もかなり来ている。



5時半ごろ行列は若草山麓にある野上神社に到着し、そこに用意されていたかがり火に点火してから、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が始まる。僧侶も山伏も柏手を打ち、玉串奉奠をするところがなんとなく面白い。続いて東大寺、興福寺による般若心経の読経がはじまり、かがり火から大きな松明に火が移されていく。



松明の火が勢いを増すと、松明を先頭に行列は野上神社を出て、山麓中央に設けられた大かがり火に進み、そのかがり火に火をともすと、炎が次第に大きくなり周りの人々の顔を赤々と照らす。

6時頃になると、中腹から花火が次々と打ち上げられる。
6時15分ごろ、花火が終わるといつのまにか、消防団が大かがり火から松明に火を移して若草山の正面の何か所かに火を運んで待機していた。



法螺貝の合図とともに、若草山に一斉に点火されると、あっという間に火は拡がり、しばらく火の美しさに引き込まれてしばらく動けなかった。火は見る人の心を一つにして時間を止める。なんとなく京都の大文字の送り火を思い出した。

ところで、この山焼きはどういう経緯でいつから始まったのか。

「若草山焼き2010ガイドブック」によると、若草山の「三重目の頂上は前方後円墳の巨大な鶯塚古墳で、江戸末期頃までは、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、ここからでる幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌1月頃までに焼かねば、翌年に何か不祥事が起こるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こりました。」
「元文3年(1738)12月に、奈良奉行所は…放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てましたが、…その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになりました。」
「それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべき供養のためでもありました。」
とあり、「山焼きは社寺の境界争いのためと一部伝わっていますが『俗説』です。」と、境界争い説を明確に否定している。

しかし、このガイドブックの説明で、今まで何百年もあいだ、奈良の奉行所と興福寺、東大寺、春日大社が、毎年人と資金を出して協力して山焼きを続けてきた理由として、どれだけの人が納得できているのだろうか。

少し気になったのでネットで調べると、2007年の秋までの奈良県のホームページでは「領地争いが元」と書かれていたらしく、それを春日大社や東大寺、興福寺が訂正要求を出したために奈良県が修正した経緯のようだ。ということは、それまでは若草山焼きの由来は領地争いと考えるのが通説だったということだ。
産経ニュース2007.12.5の記事が以前は読めたのだが、今はリンクが切れてしまっている。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071205/trd0712052153013-n1.htm 

次のサイトを読むと、鎌倉時代の「南都年代記」という書物に建長7年(1255)、東大寺と興福寺との間で領地争いがあった記録などの紹介があり、それから以降も東大寺と、興福寺・春日大社との領地争いがあった物証があり、私は3社寺の間の領地争いが由来と考えることの方が自然だと考えますが、皆さんはどっちの説が正しいと思われますか。

「奈良歴史漫歩No.047」
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html 
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BLOGariコメント

おはようございます。
私は、20数年奈良に住んでいて当時の住まいから遠くに山焼きを見たことがありますが、現場で見る迫力は素晴らしいと思います。
奥様とご一緒、羨ましい限りです。
 
 
神戸の頑固おじさん、こんばんわ。

奈良の自宅から見る山焼きもきっと素敵だったのだと思います。

私の実家は大文字山の近くでしたが、残念ながら家からは大文字山が見えなかったので、いろんな場所へ大文字焼きを見に行ったことがあります。
その中でも私が一番迫力を感じたのは、小学校の時に大文字山に登って山焼きを見た時だったので、今回の若草山も、つい山のふもとの方に行ってしまいました。

ガイドブックでは、点火場所が良く分からなかったのですが、たまたま入った「茶亭ゆうすい」の近くだったので、いい写真を撮ることができたのはラッキーでした。

これからも時々覗いてみてください。じいさんのブログも覗かせていただきます。