しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

お寺に「神棚」がある不思議

2010年06月26日 | 廃仏毀釈・神仏分離

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。



そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322) 
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A



宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。



上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p) 
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」



「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm 

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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