しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3

2011年06月17日 | 兵庫県歴史散歩

お昼に鱧料理を堪能し、再び淡路島のドライブを続ける。

つぎに紹介したいのは淡路島の伝統芸能である人形浄瑠璃だ。大阪の文楽や徳島の阿波人形などのルーツだと言われており、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

淡路島人形浄瑠璃の歴史は南淡路市のHPに簡記されている。
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/jyoururi/ningyo.html
が、もう少し詳しく知りたい人は、次のサイトが詳しい。

淡路人形座
http://awajiningyoza.com/study/history/

淡路人形浄瑠璃生年研究会
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htm 



それぞれ微妙に内容が異なるが簡単にまとめると、淡路人形の発祥は今から500年余り前に、西宮の戎神社に仕えていた百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(くぐつし:人形遣い)が、現在の南淡路市三原町市三條に来て人形の使い方を伝授したことに始まると言われている。
細川家の衰退とともに、それまで神事に舞楽奉仕を行うことを職業としていた楽人たちは、新たな神事芸能を創造すべく上方から伝えられた「式三番叟(しきさんばそう)」の奉納を人形操りによって行いました。これが淡路人形浄瑠璃のルーツとなる。

続いて今から約400年前、慶長年間(1596-1614)に、京都で始まっていた三味線を伴奏楽器とする古浄瑠璃と人形操りとが提携して人形浄瑠璃が成立したと言われているが、江戸中期の『和漢三才図会』という百科事典には、最初に古浄瑠璃と提携した人形繰り師として淡路島出身の第二代引田源之丞の名前が書かれているのだそうだ。

その後淡路人形浄瑠璃は阿波の殿様(淡路国の領主でもある)の保護を受けて発展し、江戸中期には淡路に40を超える人形座が出来、それに携わる人が900人余りもいて、東北から九州にかけて広く芝居の巡業をしていたそうだが、その後人形座は次第に減少して、今は「淡路人形座」と「市村六之丞座」の二つだけだという。

「淡路人形座」は、鳴門海峡の近くの大鳴門記念館にある「淡路人形浄瑠璃館」では毎日公演がなされているが、この公演は数年前に見ているので今回は淡路人形浄瑠璃発祥の地の南淡路市三原町にある「人形浄瑠璃資料館」に行ってきた。この資料館は南あわじ市三原図書館の二階にあり、「市村六之丞座」の人形や衣装や台本など古い資料が展示されており、スタッフの丁寧な説明を受けることができるうえ、再現された舞台でビデオの鑑賞も出来る。



上の画像は「式三番叟」の人形だが、現在でも三番叟は、人形座が各地で公演を行う前に、無事安全を祈願して奉納が行われているそうだ。YouTubeで探すと5年前の正月に「淡路人形浄瑠璃館」座員によって三条八幡神社脇宮戎社に奉納された、三番叟奉納の動画が見つかった。
http://www.youtube.com/watch?v=q0ITUqyUmJY 

人形浄瑠璃といえば「文楽」の方が今は有名だと思うのだが、もともと「文楽」は淡路出身の浄瑠璃語り植村文楽軒(1751-1810)による人形芝居が大阪で人気を博して広まったものだそうだ。文楽も淡路人形浄瑠璃も三人で人形を操るのは同じだが、決定的に異なるのは技芸員は文楽は男性だけなのに対し淡路人形浄瑠璃の場合は太夫や三味線に女性が多いことと、人形が文楽と比較してかなり大きいことだという。淡路人形浄瑠璃は人形が大きいゆえに表情がわかりやすく、素朴で迫力があると海外でも評価が高く、海外公演も何度も行われているようだ。

地元の三原高校には創部60年近い歴史を誇る「郷土部」があり、淡路人形浄瑠璃の伝統の継承に取り組んでいる。ネットで調べると、ハンガリーやカナダ、台湾、フランスと計4度の海外公演も経験し、卒業生のなかには「淡路人形座」でプロとして活躍して者もいるという。




資料館を出るとすぐ横の畑で玉葱の収穫をされていた。淡路島は玉葱の名産地だが、これだけ大規模な玉葱畑の収穫を初めて見た。

淡路島に来れば必ず玉葱を買うのだが、いつも買う場所は決めている。今回も予定通り、県道31号からウェルネスパーク五色に行く坂道の途中にある「菜の花農園」という直売所に行く。



農業を営むオーナー夫妻が米や野菜を販売しているが、ここの名物おばちゃんとの会話が実に楽しい。話しているうちに、淡路島でしか出回らない「七宝大甘(しっぽうおおあま)」1箱を勧められて買ってしまった。



今回買ったもので直径が12-14cm程度だが、以前はもっと大きいものを買ったことがある。 この品種はちょっと割高だが、甘みがあって辛みがなく、サラダで食べるのに最高の玉葱だ。

このブログで時々書いているが、私は車を走らせては野菜や果物を産直販売所で買ったり農家から直接買ったりすることが多い。野菜や果物の本物の味はこういうところのものを買わないと味わえないし、生産者の地元で買うことが地元にとっても良いことだと思うからだ。

大手スーパーは、流通コストを下げ、廃棄を減らすために、腐らないよう、傷まないよう、運びやすいように、農家には農薬を使って実が熟さない段階で大量に刈り取り出荷することを指導してきた。だから都会の消費者の大半は、本物の野菜や果物の美味しさを忘れてしまっているか知らないままでいるのが現状だ。
また、今のやり方では、大半の農家は大手流通に買いたたかれて利益はほとんど残らない。利潤を蓄積していくのは、主に大手流通業者だろう。農業では生活ができないために田舎で若者は都会に出て働くこととなり、そのために田舎は高齢化・過疎化が進んでいくばかりだ。

何百年もかけて固有の文化や伝統を培い継承してきた地域は淡路島に限らず全国各地にあるが、多くの地域でその文化や伝統を支えてきた仕組みが崩れてきている。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、都会資本の企業に席巻されて多くの商店や製造業者は廃業し、多くの農家は後継ぎが都会に定住して戻ってこない。この流れを放置したままで、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。
文化や伝統だけでなく文化財も同様だ。檀家や氏子が減っていくばかりの寺社がどうやって、古い建築物や仏像などの文化財を守れるのかと思う。

田舎の高齢化・過疎化が更に進んでいけば、水源の維持管理や治安や防災や道路の維持管理から文化財の修理や管理などの大半のコストを、いずれは都市住民が負担せざるを得ない時代が来ることになってしまうだろう。個々の企業が利潤を追求することを放置したままでは、この流れが止まることはないのだと思う。

しかし、都会の消費者が田舎に行って地域の農産物や特産品を買ったり、ネットで地元の農家に注文して買うなどして、直接地方の生産者や地元業者から一次産品や加工品などを買う人が増えれば増えるほど、その地域は潤う。少しでも多くの都会の消費者がそういう行動をとることによって、田舎の高齢化・過疎化や地方文化の消滅の危機が少しは解消方向に向かうことにはならないのだろうか。補助金などをもらって生きるのではなく、生産したものが売れて生計がたてば、田舎で生活することに誇りが持てる効果もあるだろう。

東日本大震災を機に、高知県で津波の怖れのある都市部と高齢化で悩む山間部とがタッグを組んで共存共栄を図る動きがあることを知ったが、このような動きが全国で拡がっていけば、地方に若い世代が家業を継いで、地域の文化と伝統を守ることにつながるのではないかと期待している。

話が随分飛んでしまったが、地域の伝統文化を守るためにはそれを支える人々の経済をも配慮する必要があり、地元で若い人が残って文化が継承されるようにしていくことが大切だということが言いたかった。要するに三世代同居の家のない地域に文化の継承は難しいのだ。

「菜の花農園」の名物おばちゃんに別れを告げてさらに坂を登ると、「ウェルネスパーク五色」があり「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」がある。



この資料館は幕末の英雄・高田屋嘉兵衛の業績や生涯を紹介する施設で、高田屋嘉兵衛がはじめて持った船である辰悦丸を2分の1のサイズに復元した模型や、当時の船に使われた道具、蝦夷地の地図などの北方資料や高田屋の経営文書などが展示されている。

高田屋嘉兵衛の話は長くなるので、もう少し勉強してからいずれチャレンジすることにしたい。

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BLOGariコメント

しばやんさん「仁淀川町ー二葉町交流会」のことも朝日新聞の記事をご紹介戴きありがとうございました。

 仁淀川町にも、(わたしは見たことはありませんが)「秋葉祭り」という伝統的なお祭りがあるそうです。

http://www.town.niyodogawa.kochi.jp/

 徳島県が人形浄瑠璃が盛んで、徳島市にも記念館が確かありました。後継の育成にも熱心で、高校生たちが取り組んでいました。

 淡路島にも歴史があったことを知りました。

 わたしたちは地方や地域の歴史に、あまりに無関心であったと思います。今後は地域の歴史に関心を持たないといjけないなと思いました。
 
 
阿波人形浄瑠璃のルーツも淡路人形浄瑠璃で、元和元年(1615)大阪夏の陣で徳島藩主の蜂須賀至鎮の働きが認められ、淡路国を与えられることとなり、当時淡路島で盛んであった人形浄瑠璃が徳島でもさかんになったことのようです。
http://www.pref.tokushima.jp/docs/2009090300326/

価値のある文化を持つことは地元で生きる人々の誇りとなり、それが世代を超えて地域の人々の絆を強める仕組みの一つになっていたと思います。

地域間の絆を強める活動は、いずれはお互いの歴史や文化伝統を知り、その継承のために協力することも大切なのかもしれませんね。 



「国生み神話」ゆかりの神社を訪ねて、昼は鱧料理のフルコース~淡路島文化探訪の旅2

2011年06月11日 | 兵庫県歴史散歩

淡路島は「国生み神話」の舞台でもある。
高校時代に日本神話を学んだときは、史実でもない作り話にほとんど関心を持たなかったが、この歳になって実際に「古事記」や「日本書記」を読んでみると、結構面白いのだ。

「国生み神話」は「古事記」と「日本書紀」とは微妙に異なるところがあるが、たとえば「古事記」にはこのように書かれている。

「そこで天の神様方の仰せで、伊耶那岐の命(いざなきのみこと)・伊耶那美の命(いざなみのみこと)お二方に、『この漂っている国を整えてしっかりと作り固めよ』とて、りっぱな矛(ほこ)をお授けになって仰せつけられました。それでこのお二方の神様は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかき廻して引きあげられた時に、矛の先から滴る海水が積もってできた島が淤能碁呂(おのごろ)島です。その島にお降りになって、大きな柱を建て、大きな御殿をお建てになりました。」(新訂「古事記」:武田祐吉訳 角川ソフィア文庫p.209) 



「…そこで伊耶那岐の命が仰せられるには、『わたしのからだは、できあがって、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして国を生み出そうと思うがどうだろう』と仰せられたので、伊耶那美の命が『それがよいでしょう』とお答えになりました。そこで伊耶那岐の命が『それならわたしとあなたが、この太い柱を廻りあって、結婚をしよう』と仰せられてこのように約束して仰せられるには『あなたは右からお廻りなさい。わたしは左から廻ってあいましょう』と約束してお廻りになる時に、伊耶那美の命が『ほんとうに立派な青年ですね』といわれ、その後で伊耶那岐の命が『ほんとうに美しいお嬢さんですね』といわれました。それぞれ言い終わってから、その女神に『女が先に言ったのはよろしくない』とおっしゃいましたが、しかし結婚をして、これによって御子水蛭子をお生みになりました。この子は葦の船に乗せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の数にははいりません。」(同書p.210) 

「かくてお二方でご相談になって、『今わたしたちの生んだ子がよくない。これは天の神様のところへ行って申し上げよう』と仰せられて、ご一緒に天に上って天の神様の仰せをお受けになりました。そこで天の神様の…仰せられるには、『それは女の方が先に物を言ったので良くなかったのです。帰り降って改めて言いなおした方が良い。』と仰せられました。そういうわけで今度は伊耶那岐の命がまず『ほんとうに美しいお嬢さんですね』とおっしゃって、後に伊耶那美の命が『ほんとうにりっぱな青年ですね』と仰せられました。かように言い終わって結婚をなさって御子の淡路の穂の狭別(さわけ)の島をお生みになりました。…」(同書p.210) 

この「淡路の穂の狭別の島」が現在の淡路島で、伊耶那岐と伊耶那美は続いて伊予の二名の島(四国)、隠岐の三子の島(隠岐)、筑紫の島(九州)、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま:本州)を生んでいくのだ。



キリスト教の世界では神が天地を創造し、アダムを創造したのだが、アダムが一人でさびしそうにしているので神が、アダムを慰めるためにアダムの肋骨からイブを作ったとしている。

いずれも作り話なのでとうでもいいと考える人が多いとは思うのだが、国民の誰もが子供のころから知っているような宗教や神話のストーリーが、男女の関係についての考え方に与える影響が小さいはずがないのではないかと思う。

日本神話では男神と女神とが共同ですべてを創造し男神がリードしながらも男女が相互補完する関係を描いているが、キリスト教の男女の関係は圧倒的に男性優位の描き方のように思える。日本では紫式部や清少納言らが活躍していた時代に、キリスト教世界では女性で活躍した人物が誰もいないのは、旧約聖書における男女観と無関係ではないように思うのだ。

淡路島の旅行の話に戻そう。前回は弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護の寺として開祖した東山寺(とうさんじ)の仏像のことを書いた。
東山寺の次の目的地は「伊弉諾神宮」だ。

「日本書記」によると、国生みの大業を成し遂げた伊弉那岐が、御子神である天照大御神に国家統治を任せて、淡路の地に幽宮(かくれみや)を構えて余生を過ごしたことが記されている。その場所が「伊弉諾神宮」なのだそうだ。

Wikipediaによると、この神社は古代には淡路島神、津名神、多賀明神などと呼ばれていたのだそうだが、正式に「伊弉諾神宮」と言われるようになったのはいつ頃のことなのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BC%89%E8%AB%BE%E7%A5%9E%E5%AE%AE



上の画像が「伊弉諾神宮」の鳥居だが、淡路国一宮だけのことはあって想像していた以上に大きな神社だった。



上の画像は本殿で、明治15年(1882)に建築されたものだ。



境内には樹齢900年の「夫婦大楠」がある。これは2株の樹木が、成長するにつれて合体して1株になったというもので、兵庫県の天然記念物に指定されている。

最初に紹介した「国生み神話」の最初のところで矛の先から滴る海水が積もってできた「淤能碁呂(おのごろ)島」という島があった。この島がどこにあったかは諸説があるようだ。



上の画像は、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社(おのころじまじんじゃ)の大きな鳥居だ。この鳥居は厳島神社、平安神宮の鳥居とともに日本三大鳥居のうちの一つとされているそうだが、社殿はけっして大きなものではなかった。

「古事記」や「日本書記」を普通に読むと、「淤能碁呂(おのごろ)島」は「淡路島」と別の島のはずなのになぜここが「淤能碁呂島」なのかと思うのだが、南あわじ市のHPによると、「数千年前の縄文時代には、三原平野の低い所が入江であった(縄文海進)とされていることから、また、水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたことからも、むかしは、海の中に浮かぶ小島であったと考えられて」いるのだそうだ。
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/shoukou/onokorojima-jinjya.html
淡路島の南に沼島(ぬしま)という小さな島があり、この島が「淤能碁呂島」という説もある。この島に渡るとここにも「おのころ神社」があるそうだが、一日10便の船で渡るのは諦めた。



この時期(6-8月)の沼島は鱧料理が有名だ。自宅にあった「るるぶ淡路島」に沼島の鱧を料理してくれる「文治」というお店が福良にあることが載っていたので昼食の予約をしていたが、この時期はさすがに満席だった。



鱧料理と言っても、いままでは「湯引き」したものを梅肉や三杯酢で食べたことしかなかったが、朝まで生きていた新鮮な鱧で作った鱧のあぶり、鱧の湯引き、鱧のてんぷら、鱧すき、特性のダシで煮込む鱧すきとその後の福良産のそうめんなど、何を食べても旨かった。写真の左の器にあるのは鱧の肝と卵だが、この味が忘れられないのでまた行くことになりそうだ。

<つづく> 

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BLOGariコメント

かすかにこの神社は記憶にありますね。淡路島は歴史的史跡はあまりないのかなと思っておりましたが、水上交通の要綱であったから、史跡があるのですね。

 今まではどうしても、蛸と玉葱と、おサルという印象が強すぎました。

 ご紹介ありがとうございました。
 
 
淡路島の旅行案内書の様なものを昔買いましたが、リゾートの島として淡路夢舞台やあわじ花さじき、ファームパークやイングランドの丘のような施設と食べるものばかりが目立つ内容でした。

確かに花は綺麗ですが、花なら大阪でもそういう施設はいくらでもあります。古い寺社にはそこにしかない歴史があるのですから、そういう歴史を広めて、興味を覚えた人が旅行に行きやすくするための投資をもっとすればよいのにと思います。

淡路島は毎年テニスで来るのですが、食べるものは美味しいですね。今回もたくさん玉ねぎを買って帰りました。
 
 
2013年04月04日(木) 21:58 by 日本刀剣の記憶


「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」(古今和歌集仮名序)
あらかねとは通常、土の枕詞であり、この文章は、
「(和歌はこの日本の)地においては須佐之男命の時から詠まれはじめた。」
となる。
しかし、出雲国風土記で意宇郡安来郷の地名由来には「スサノオノ命が、ここに来て、こころが安らかになった。だから安来とつけた。」あり定住を決めた発言とも読める。
記紀においてはヤマタノオロチを倒した後、稲田姫命をめとり「八雲立つ出雲八重垣妻篭めに、八重垣つくるその八重垣を」と日本最初の和歌を出雲で詠んで定住を開始したという。
古代より、鉄の産した安来の地のことを「あらかねのつち」=(新しい金属(鋼)を産する地)と訳せばあらゆることに説明がつくのである。
 
 
日本刀剣の記憶 さん、ありがとうございます。

2年ほど前に書いた記事ですが、アクセスしていただいただけでもうれしいところをコメントまでいただき恐縮です。

日本神話の知識が乏しくて、的確なコメントをお返しできないのが残念です。安来は一度旅行に行きましたが、スサノオと関係があったのですね。神話の世界も勉強したいと思います。 

淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

2011年06月07日 | 兵庫県歴史散歩

淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。
この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。
6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなところを巡りながら食事を楽しむ日帰り旅行を計画し、先週行って来た。

最初に訪ねたのはもちろん東山寺である。

東山寺の事を書く前に、石清水八幡宮護国寺について書いておこう。

以前このブログで、明治初期の廃仏毀釈までは、京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山全体が「男山四十八坊」と言われるように圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
その男山全体の中心施設が「護国寺」であった。



上の図面は「城州八幡山案内絵図」に描かれた護国寺と琴塔の付近のもので、中央の大きな屋根の建物が「護国寺」で、その上に描かれているのが石清水八幡宮の本殿である。他の建物などと比較しても「護国寺」はかなり大きなお寺であったことが分かる。

「石清水八幡宮護国寺」の歴史を調べると、石清水に八幡神が遷座される以前に「石清水寺」という寺院があったということが社伝にあるそうだが、平安時代の貞観4年(862)に「石清水寺」を「護国寺」と改号したらしい。
康和5年(1103)に大江匡房が十二神将を寄進したという記録も残されている。また本尊の薬師如来は石清水八幡宮が八幡大菩薩を遷座する以前から石清水寺の本尊であり、平安期初期の制作だそうだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu2.htm

明治の廃仏毀釈により石清水八幡宮護国寺の堂宇は破壊されてしまい、仏像・仏具などの大半は焼却・廃棄あるいは売却されたのだが、その最も重要な仏像がいったいどういう経緯で淡路島の山奥の東山寺に遷されたのか。そこには東山寺復興に至るまでの壮絶なドラマがあるのだが、この点については淡路市がが制作した動画をyoutubeでみることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=2UtegnDXZbU



東山寺の歴史と、石清水八幡宮寺の仏像が遷った経緯を簡単に記しておこう。
東山寺は嵯峨天皇の弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護と庶民信仰の中心として開祖した由緒ある寺院であったが、戦国時代に全焼したのち、弘安8年(1286)に現在の地に再興されたが、徳川時代中期以降に寺運が衰えていき、幕末の時期には廃寺同然となってしまう。ドラマはその時期に東山寺にやってきた尼僧:佐伯心随と勤王の志士との出会いから始まる。
当時の淡路島は尊王攘夷運動の一拠点となっていて、反体制を掲げた多くの勤王の志士たちが淡路島に来島しており、特に山深い東山寺はいつしか彼らの密会の場所となって、梁川星巌や頼三樹三郎らが頻繁に出入りしていたそうだ。(庫裏には志士達の刀痕が残されているそうだ)



勤王の志士同志で島外の仲間との重要な情報伝達には密使が必要で、佐伯心随尼に白羽の矢が立ち、心随尼は志士達の要請を受けて石清水八幡宮護国寺の別当であった道基上人に何度か密書を届けるようになる。道基上人もまた尊王攘夷運動の重要人物であった。

やがて江戸幕府が大政奉還し明治の時代を迎えると、今度は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、日本各地で仏教施設や仏像が破壊されるようになった。
道基上人の石清水八幡宮護国寺も例外ではなく、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像も男山にうち捨てられてしまったが、道基上人は平安時代から人々の信仰を集め、多くの人々によっ守られてきたこれらの仏像がこのまま雨ざらしで朽ちていくことには耐えがたく、淡路島で東山寺の復興のために頑張っていた佐伯心随尼にこれらの仏像のすべてを託すことによって、少しでもこれらの仏像を後世に残すことを決意したのである。
明治2年(1869)6月12日にこれらの仏像は、人目を避けるようにして運び出されてこの東山寺に遷され、その後東山寺は佐伯心随尼により復興を遂げることになった。
一方道基上人は、その後淡路島に移り住み、永寿寺という小さなお寺の住職となるが、東山寺の復興を見届けた後、明治22年(1889)に生涯を終えたとのことである。

東山寺は北淡ICから7km程度の距離ではあるが山深い場所にあり、途中からは私の車のカーナビでは認識しないような道を走ることになる。道幅も3m程度とかなり狭いので運転には注意が必要である。



上の画像が東山寺の山門である。この山門は室町時代に淡路守護職であった細川頼春から寄進されたもので、淡路島に現存する最古の木造建築だそうだ。



上の画像は東山寺の本堂で、本尊の千手観音が安置されている。



石清水八幡宮護国寺から遷された13体の仏像は、以前は木造の薬師堂に安置されていたのだが、昭和40年の台風で裏山が崩れ危険な状態になったので、コンクリートの薬師堂が建設されて今はこの建物の中にある。やや高めの拝観料(700円)だが国指定の重要文化財の仏像を13体も見ることができると思えば価値がある。

中に入ると、目の前でこれら重要文化財指定の仏像を見ることができる。撮影はできないのでネットで入手した画像を添付しておくが、なかなか見ごたえのある仏像である。



薬師如来像は9世紀前半から半ばにかけての制作で、かっては「男山の厄除け薬師」と言われて人々の信仰を集めていた有名な仏像だったそうだ。



また十二神将像は当時九州で活躍していた仏師・真快の11世紀末期の作品と言われている。
これらの仏像が男山にどのくらいの期間打ち捨てられていたかは不明だが、やや変色しているものの全般的に保存状態は良好であった。

これらの仏像の来歴について知れば知るほど、今も残っているのが奇跡のように思えてくる。
記録では石清水八幡宮寺は、14世紀と15世紀の二度にわたり火災を経験しており、この時もこれらの仏像は人々の手により運び出されて難を逃れているのだ。
また明治の廃仏毀釈の危機も、佐伯心随尼、道基上人がいなかったら、また東山寺が幕末の志士達の密会所にならなかったら、以前このブログで書いた香川県琴平市の金刀比羅宮の仏像のように朽ち果てていてもおかしくなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

自宅に帰ってから「東山寺」のパンフレットを読んでいると、なぜかこの13体の仏像のことも石清水八幡宮護国寺や道基上人のことも書かれていないことに気が付いた。
パンフレットには「讃岐の人 佐伯心随尼が大師仏縁の故をもって尋ねて来往、大いに復興に努められました」と「幕末安政の頃、勤王の志士梁川星厳・頼三樹三郎・伊藤聴秋、幕府の目を逃れるに最適の地として此処で謀議をこらしたことがあり、これ等志士の詩や、憤怒のあまり振った刀尖の痕と認められるものが今に残っています。」と書かれているだけなのだ。
明治時代の廃仏毀釈の話を書かずしては説明できないことを初めから省略してしまっては、パンフレットを読んでも、なぜ東山寺に本尊とは別に重要文化財の仏像があるのかが誰も理解できないし、歴史のロマンを感じることもできないだろう。 

明治の廃仏毀釈については、教科書ではせいぜい「国学や神道の思想に共鳴する人々の行動が一部で過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度の記述しかない。東山寺や教科書だけでなく、多くの有名社寺のパンフレットやHPにおいても、廃仏毀釈のことを書いていることを見かけることは滅多にない。

廃仏毀釈を語ることが長い間タブーのようにされてきたのは、それを詳しく知らしめることが明治政府の施策やそれを支える思想を批判することにつながると考えられたのではないだろうか。
しかし明治の時代は遠く過ぎ去り、戦後66年もたったのだから、そろそろ真実をありのままに語ることぐらいは許されてよいと思うのだ。
幕末から明治の時代はきれい事だけの歴史の叙述ではとても理解が出来ないのだが、東山寺で起こった出来事を知るだけで、その時代の雰囲気を身近に感じることができる。東山寺の仏像を見るだけで、多くの人々が時代を超えて文化財を守ってきたことを知ることができる。
東山寺の仏像が私には随分輝いて見えて、密度の濃い時間を楽しむ事が出来た。
歴史の好きな人には是非お勧めしたい寺院である。

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BLOGariコメント

日本でも中国の文化大革命のような廃仏毀釈がされていたのですね。日本史で習いましたが、それほど激しく破壊的であるとは思いませんでした。

 またしばやんさんの今回の記事で、淡路島が討幕運動の拠点であったことも初めて知りました。そうですね。海上交通の要所ですからね。淡路島は。

 明治の初期に神社を系列化し、統廃合して地域のコミュニティの象徴であった神社もまた破壊したのでしょう。「近代的な」神道を国民統合の国家原理にするための作業であったのではないでしょう。

 「村の鎮守の神様」であったはずの神社が、国家統合のための政治的な道具として活用されたのでしょう。靖国神社もその頂点近くに位置づけられたのでしょう。創立が明治2年ですから新しい神社です。

 当時のお寺の人たちが決死の思いで守り抜いた仏像の存在は貴重な歴史資源なのですね。
 
 
 
廃仏毀釈は鹿児島、宮崎では相当激しかったようです。高知も多くの寺院が破壊されたのではないでしょうか。

梅原猛さんが、廃仏毀釈によって全国の寺院の約半分が廃絶されたが、もし廃仏毀釈がなければ日本の国宝は今の3倍はあっただろうという趣旨のことを書いておられるのを読んだことがあります。明治政府は多くの寺院を廃絶させましたが、神社には手をつけず、むしろ着々と新しい神社を作って仏教勢力が身動きが取れないようにしています。

また、何故淡路島が尊王攘夷運動の一拠点になったかについては、当時の淡路島を治めていたのが、徳川家の親族であったので幕府もむやみに取り締まれなかったという事情があったそうです。
当時の阿波藩主蜂須賀斉裕は第11代将軍徳川家斉の第22男で、蜂須賀家に婿養子としてやってきた人物です。

若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

2011年06月02日 | 自然災害

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。

記事によると、
「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」
「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。

早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。



該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。
少し長くなるが、重要な部分であるので紹介したい。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、…突如大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫p196-197) 

とここまでは、フロイス自身が体験した地震のことを書いている。フロイスは主に堺に居住していたので津波については体験していない。この文章に続いて、フロイスらが目撃者などから聞いた近江や京都や若狭や美濃や伊勢などの情報が付記されている。

それぞれ興味深いのだがすべてを引用すると長くなるので、若狭の津波に関する記録だけを紹介したい。
「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198) 

東京大学の「大日本史料総合データベース」にアクセスすると、同時期の様々の史料を記録された日付けを絞込んで読む事が出来る。この地震の記録は新聞で紹介された「兼見卿記」だけではなく多くの史料で確認できるので、もし興味のある方は次のURLで確認することができる。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
このデータベースで、フロイスがイエズス会のインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡が「イエズス会日本書簡集」にでているが、ほぼ上に紹介した「フロイス日本史」と同様の文章だ。フロイスは地震の日付けを11月1日と書いているが訳注では(11月29日の誤記)と書かれ、若狭の記述部分の「長浜」は「(小浜」の誤記か)と訳注が付されている。

Wikipediaによると、この日の地震は「天正大地震」とよばれ、震源地は岐阜県北西部でマグニチュードは7.9~8.1と推定されている。現在の愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する地域に跨って甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、この地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。
具体的な被害として紹介されているのは、越中国木舟城が倒壊、飛騨国帰雲城が山崩れで埋没、美濃国の大垣城が全壊焼失、近江長浜城が全壊など城郭の損壊が中心である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87



フロイスの若狭国についての文章に戻るが、この現象は地震による「津波」であることは、誰でもわかる話だと思う。しかし、関西電力はこの記録が存在するのを知りながら「信憑性がない」と社内で判断し、地元民には「若狭湾は、津波による大きな被害の記録がない」と説明して、14基もの原子力発電所若狭湾に建設してしまった。
これでは関西電力は、近隣住民の安全よりも、原子力発電所を建てることにすべてを優先させたと言われても仕方がないだろう。また建設を許可した国にも、このような重要な史実を看過した責任はないのだろうか。



若狭湾に限らず、他の原発においても今後何も起こらないという保証は何もない。本来原子力のような、万が一の事態が発生した場足に国全体あるいは世界全体に多大な影響を及ぼすような物質を扱う場合には、過去の地震や津波などの記録を調査してそのレベルの災害にも耐えられる設計をしておくことが基本だと思うのだが、どこの原発も充分な検証がなされているのか。 過去の自然災害が耐えられる設計がなされていたとしても、もし「想定外」の地震や津波や火災があった場合においても、住民に被害を及ぼさないための二重三重の安全対策がなされているのだろうか。

今年度における政府全体の原子力予算は4330億円で、内約2300億円が研究開発などの原子力推進のために使われ、その内の核燃料サイクル関連の予算は520億円。一方で安全関連の予算は570億円なのだそうだが、この数字を見ても原子力推進にお金をかけ過ぎているように見える。

以前、他国と日本の原子力関連予算を調べて驚いたことがある。



原子炉の数が多い国は①アメリカ104基②フランス58基③日本54 基の順なのだが、原子力を考える会の「よくわかる原子力」というHPを見ると日本の原子力関連研究開発予算が他国比突出している。何故原子炉の多い国よりも日本の予算がべらぼうに多いのか。次のデータはやや古いが、日本の予算はアメリカの約8倍、フランスの約7倍もあるのだ。
http://www.nuketext.org/mondaiten_yosan.html

慶応大学の岸博幸氏は、今回の福島の原発事故については東電に責任があることは言うまでもないが、政府にも重大な責任があり、双方の責任を安易な電気料金の値上げや増税で処理するのではなく、東電は徹底的なリストラをし、政府も今まで蓄積してきた「原子力埋蔵金」を放出して返済原資に充てるべきであると説いている。
http://diamond.jp/articles/-/12124



その「原子力埋蔵金」は岸氏によると、「政府が原子力推進を当面の間棚上げにすれば、そして特にもんじゅや六ヶ所村再処理工場に代表される“核燃料サイクル”を断念すれば、数兆円単位の資金」があるのだそうだ。ほかにも「(財)原子力環境整備促進・資金管理センターには、電力会社が積み立ててきた2種類の積立金(再処理積立金、最終処分積立金)が合計約3兆5千億円」あり、さらに原子力関連の独立行政法人や公益法人は様々あって、それら法人の剰余金は賠償金に使えるとしている。

岸氏は続けて「甚大な原発事故が起きた以上、国民感情を考えれば原子力推進などとても無理なはずですので、予算の執行を停止して、原子力推進のための予算のうち全額は無理でも例えば半分を賠償に転用するのは、原発事故の責任を負うべき政府として当然の対応ではないでしょうか。」と説いているが、全く正論だと思う。

今回の原子力災害に関しては消費者には何の責任もなく、ただの被害者にすぎない。したがって、電力料金の値上げや増税で被災地の被害者の賠償金原資の捻出をはかるというの議論はどう考えてもおかしい。
ペナルティを課すべき対象は、第一義的には原子力推進を図って来た東電や政府ではないのか。この際原子力利権そのものに大きなメスを入れなければ、問題解決をすることにはならないと思う。
岸氏が主張する通り、政府さえその気になれば数兆円単位の賠償原資の供出が可能であり、東電も役員報酬や管理職の給与カットや厚生施設売却などまだまだやるべき事がある。また、既存の原発の安全対策にも大きな追加投資が早期に必要なはずだ。
そういう議論をほとんどせずして、電気料金の値上げや消費税増税の議論が先行すべきではないと思う。

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BLOGariコメント

しばやんさん、こんばんは!

今回の『兼見卿記』における天正大地震の際の若狭湾での津波発生の記事は、決して鵜呑みにはできない情報ですね。
私自身、ちょうど天正大地震の事も調べていたので、今回のこの情報は地震の範囲や規模を改めて認識させてくれる大きな要因となっています。

さて、しばやんさんは『大日本史料総合データベース』を上げておられましたが、私も入手した情報から

[古代・中世] 地震・噴火史料データベース(β版)
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/

というのを照会させて頂きます。古代から中世までですので、江戸時代初期までのデータベースですが、ご参考まで!
 
 
御堂さん、貴重な情報ありがとうございました。

いろんなデータベースがあるのですね。驚きました。歴史家が何年も史料を読んでやっと得られる情報が、素人でも即座に分かるのは凄いことです。データベースを公開してくれた静岡大学に感謝ですね。

『大日本史料総合データベース』と取扱っている史料が異なるようなので、両方を併用すればかなりの事が見えてきそうです。
 
 
しばやんさん、こんばんは!

追加の情報を1つだけ…

若狭・小浜地方に室町時代から活躍した豪商の組屋が代々残していた『組屋家文書』という史料があります。

組屋自身、日本海側の海運業を営んでいたはず、もしかすれば天正大地震の情報や被災状況を事細かに記載していたりするのではないでしょうか。

この時期の当主は組屋六郎左衛門宗円という人物です。

たぶん、『小浜市史』などに収載されているかもしれません。
 
 
御堂さん、これも貴重な情報ありがとうございます。

朝からネットで調べてみましたが、「組屋家文書」のテキストは見つかりませんでした。秀吉の頃から活躍した人物のようですが、天正地震の頃はどの程度活躍したか、文書はいつの時代から残されているか、どこに住んでいたかすら良くわかりませんね。
もし、天正地震の前から豪商として活躍していたら、海に近い商業の中心地は津波で流されて、文書も残されなかったかもしれません。

フロイスが津波らしき記録を残している「長浜」という地は「小浜」の誤りとされていますが、もしそれが正しかったとしても、地図で見る小浜は内外海半島と大島半島にはさまれて、津波の入り口は狭く湾が広いので、今回の東北のような大きな津波被害はなかったのかもしれません。

組屋家文書は小浜市が管理しているようですが、テキストを一度読んでみたいですね。
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekaiisan/Japanese/data/246.htm
 


日本は自分で国を守れないから、アメリカにたかられ、中国、ロシア、果ては韓国にまでいびられるわけでなぜ核武装しないんだろうって思っていました。 しかし、石破さんのTVでの発言をきいて、ちょっと考えが変わりました(どの番組だったかよく思い出せないのですが。。) 日本が核武装を目指すというと、ウランを売ってもらえなくなる、というのです。もし、ウランや石油を売ってもらえなくなってしまうと確かに日本は追い詰められますね。太平洋戦争前の日本の再現です。現在、ウランを燃やしてできたプルトニウムを再利用するべく大量に溜め込んでいるわけですが、これは諸外国の意向に左右されないエネルギー政策をとるのに非常に重要な役割を果たすと考えられているようです。太陽光発電など自然エネルギーが実用化されるまでのつなぎとして、核燃料サイクル(MOX燃料の使用)という考えがあってもいいんじゃないかという気がしています。
私もこの分野は知らないことが多すぎて、自分の考えに確信が持てないのですが、日本人は今回の原子力発電所の事故で、二度と原子力発電所は新設できないような気がしていますし、核燃料サイクルも同様ではないかと思います。
「絶対安全だ」と東電がいくら主張してもこれからは誰も信用しないでしょうし、それだけ安全というのなら東京で作れと言われても仕方がないと思います。そうなると東京の住民は反対するに決まっています。
万が一のことがあれば、何世代にもわたって住めなくなったり、賠償金を払い続けることを考えれば、別の方法で発電する方が正しいと思います。
日本列島の廻りには良質なメタンハイドレードがありますし、オーランチオキトリウムも有望ではないかと思います。
いずれも、発電コストはそれほど高くなくCO2の排出も多くはありませんし、現状の火力発電所の設備がそのまま使えるメリットもあります。その利用の目途がつくまでは、安全度の高い一部の原発の稼働を再開する程度の事は必要だと思いますが、政府はその移行スケジュールを明らかにすべきだと思います。
 
 
今後については、確かに原発の新設は難しいんでしょうね。ただ、MOX燃料の利用については、既存の原発でも計画されていました。WikipediaのMOX燃料の項にも記述があります。そのため白紙に戻していいかについては慎重な議論があっていいと思います。
今後の代替エネルギー資源の開発はもちろん、重要だと思います。しかし、そのどれも実用レベルになっていない以上、そのつなぎの技術として原子力に頼る部分があってもやむをえないのではないでしょうか。今後、何が有望かは私にもよくわかりません。
メタンハイドレードももちろん、今後、開発していく必要のある資源ではありますが、研究も始まったばかりで実用化にはまだまだ時間がかかると思います。
オーランチオキトリウムに関しては、私も最初、聞いたときはこれが実用化されればと思いましたが、計算してみると原料になる有機物がまったくもって足りないんですよね。日本全国の下水から有機物を回収してオーランチオキトリウムで石油を生産させたとしても輸入している石油の3%程度の資源回収にしかならない。それで筑波大学の渡邉先生に直接、メールをして聞いてみたんですが、ご心配は全くそのとおりです、という答えが返ってきてしまったんですよね。それで、渡邉先生からの回答では有機物はほかに植物を培養して得ることを考えているという話だったんですが、エネルギー保存則がなりたってますから、同じ太陽光からエネルギーを得るのなら、太陽光エネルギーを光合成をして有機物をつくり、有機物を分解して石油をつくり、石油から電力を作る、という周りくどいことをやるより太陽光エネルギーを直接、電力に変えたほうがロスが少ないと思われます。そのため、おそらく将来にわたってもオーランチオキトリウムによる石油生産が主要な電気エネルギー源になることは無いと思います。ただし、ジェット燃料などの高級燃料の代替としては希望がもてると思います。なにしろ量は少ないにせよ、今まで下水処理場で微生物に分解させて捨てるだけだった有機物を活用できるわけなので。
 
 
よく勉強しておられるのであまり議論にならないかもしれませんが、太陽光発電に関しては、変換効率がまだまだ低いので効率が良くないと言うことではなかったかと思います。
個人的には、福島県の一部のようにで放射能汚染数値の高い地域では当面農業生産も困難なので、電力会社が土地を買うなり借り入れて太陽光発電プラントを設置し、放射能汚染数値が低レベルになるまで電力生産して、被災地の地主に地代を払うかたち等で被害地域の人々の生活を援けるようなことができないかと考えています。
MOX燃料の件は、政治家がどう国民を説得することが出来るかがカギですね。他国の息のかかったマスコミも曲者です。

オーランチオキトリウムはテレビでは日本の石油需要を賄うレベルに持ち込むには遊休田の一部を利用する程度だとの説明ではなかったかと記憶していますが、藻に与える栄養素までは考えていませんでした。
太陽光発電の変換効率が低いのはおっしゃるとおりで、まだまだ研究レベルの段階で補助金で量産化を助成する段階ではないと思っています。いくつか参考になるサイトをご紹介します。 NEDOと呼ばれる組織が、エネルギー自給率を高めるための研究資金を提供しています。そこの報告書などに、現状や将来、どのようにエネルギーを賄う予定でいるのかについて書かれています。
NEDO再生可能エネルギー技術白書
http://www.nedo.go.jp/library/ne_hakusyo_index.html
技術戦略マップ2010
http://www.nedo.go.jp/library/roadmap_index.html
太陽光発電ロードマップ
http://www.nedo.go.jp/library/pv2030_index.html
彼らのロードマップでは、2030年で7円/kWh程度(これは現在の原子力発電のコスト6円/kWhに肉薄します)を目指すそうです。実際、理論上は75%まで効率をあげられることを示した最近の研究も存在します。
http://www.qdot.iis.u-tokyo.ac.jp/press.html
http://www.nanoquine.iis.u-tokyo.ac.jp/newspaper/news2011/news20110425-1.pdf

エネルギー密度が低いのは確かで、ケンブリッジ大のDr.Mackayの試算によると、 イギリスのすべての家屋・建物の南側の屋根に太陽光パネルを設置(1人あたり10m^2、20%効率の太陽光パネル)したとしても、 一人当たり1日5kWhの発電しかできないそうです。イギリスはピーク時(真冬)の電力消費は一人当たり1日24kWhとなるため、効率がたとえ倍になってもまだ足りません。イギリス全土の電力を賄うには膨大な面積の土地が必要になりそうです。日本はイギリスよりやや南側に位置していますが状況は似たようなものでしょう。 http://www.withouthotair.com/download.html

オーランチオキトリウムは、おっしゃるとおり休耕田(の一部)で培養できればという仮定の上での話しなので、培養に必要な有機物の調達については述べていないことに注意する必要があります。
 
 
詳しい情報ありがとうございます。

原子力のコストは含まれないコストが相当あるので私はあまりあてにはしていません。今回の原子力災害の様な事があっても債務超過にならないようにある程度引当を当てていなければ経営とは言えないでしょう。今回の損害賠償コストや除染コストや、廃炉コストなどを発生確率で乗じて原子力発電のコストに入れれば、火力発電や水力発電よりも高くなるのではないでしょうか。

太陽光発電も安くなればいいですね。今の効率と価格では、面積を食うばかりであまり魅力を感じません。
何度もすみません。いちおう、原子力発電にかかるコストに廃炉コストは含められていますよ。原子力資料情報室という原発反対側の人が計算した発電コストでは、原子力部会の計算で6円/kWh程度だったものが7円/kWhになっていますが、そう変わりません。火力と比較を難しくしているのは、燃料となる石油の価格、原子力発電所を何年で廃炉にするか、稼働率をどうするかに依存するからです。
http://cnic.jp/files/cost20060612main.pdf
日本は、安全管理が妙なところで厳しくって毎年、何度もいろんな部分を分解して定期点検する必要があり稼働率が低いそうです。妙なというのはその安全点検をやっても安全性に寄与しないと思われているからです。また原子炉の耐用年数も短いです。一方、アメリカは60年に延ばすことを決定しています。

今回の被害で4兆円の補償が必要になったと政府が試算しているそうですが、毎年、4兆円の補償が必要だとして、発電単価を計算しなおすと12円/kWh(太陽光発電の発電単価並み)になるそうです。また、この4兆円は大きく見積もられ過ぎではないかというふうにも書いてあります。福島県の農業産出額は年間2450億円でしかありませんし、4兆円という額は10万人に一人4000万円の慰謝料を出せるだけの金額だからです。
http://agora-web.jp/archives/1363422.html

それと、原子力発電所(3割→0)を停止して、火力発電所(6割→9割)を再開させると、大気汚染による死者が3000人、生じるという試算があります。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51817203.html
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51842863.html

太陽光発電は、基本的に屋根の上の3分の1ぐらいの面積にとりつけることが試算されていますが、それでも将来的には発電全体の2割以上を賄える量になるので、期待しています。蓄電も基本的には、水の電気分解で水素を作って高圧タンクに貯めておけば、燃料電池として利用できるはずなので発電コストが下がれば、いろいろな問題が解決するのではないかと思います。
 
 
原子力発電のコストはいろんな人が書いているのですが、私はもっと高いのにもかかわらず、安く見えるように操作されている印象を持っています。
次のURLでは20円/kWhを超えています。

https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B1xBQ3bNCL-XNDJhOGY1YjgtZjQ4Zi00ZjM1LTljMzctMGY0ZDZiYzk1ZTcw&hl=ja

それと、火力発電と水力発電のコストは、今までは稼働率がかなり低く抑えられていたので、減価償却費のウェイトが高くなっており、コストが高めに見積もられています。稼働率が7~8割であれば、もっと低くなるはずです。

原子力発電のコストの話にもどりますが、この損害賠償コストはもっと高くなってもおかしくありません。
農家は除染が完了しない限り、農産物は今後数十年間作れません。7年程度では済まないでしょう。
また今回の事故でいままでどれだけの国費が投入されたでしょうか。そのコストは加算されていません。
さらに、放射能汚染は魚にも影響が出る可能性があります。
岸博幸氏は海外から賠償請求されることを懸念しています。
以上を考えていくと、原子力のコストはもっと跳ね上がるのではないでしょうか。

次のサイトをぜひ読んでみてください。
http://diamond.jp/articles/-/13837
 
 
ご紹介いただいたリンク先に損害賠償の話がありましたが
同じ論法で、日本は大気汚染による損害賠償を求めることができます。
外国のほうが同じ火力発電でも、日本ほどの環境技術を用いていないのできれいな排気になっていませんし、
中国は特に大気汚染がひどい石炭による発電を行っています。
WHOの報告によると毎年100万人から300万人(そのうち火力発電が3割)が大気汚染が原因で死ぬと見込まれているそうです(2004年で世界174カ国の死者数が「年間」110万人。 http://apps.who.int/ghodata/?vid=34300# )。
その一方、チェルノブイリ事故による「将来にわたった」死者数は、
IAEA チェルノブイリ・フォーラム(2005) 3940人 (60万人中) (0.11/SV)
WHO(世界保健機構)(2006) 9000人 (740万人中 ロシア、ウクライナ、ベラルーシ) (0.11/SV)
IARC(国際ガン研究機関)(2006) 16000人 (5億7千万人中 ヨーロッパ全土) (0.1/SV)
NGOキエフ会議(2006) 3万~6万人 (全世界) (0.05~0.1/SV)
グリーンピース(2006) 9万3千人 (全世界) (0.15/SV)
と推定されています(http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/kek07-1.pdf)。
各団体の見積もる数字は違いますが、それは主に考える母集団の違いに依存しています。
上記の一番、右の数字は1シーベルトの被曝によって将来的に死ぬリスクを表しますが、
この数字は、各団体の間でそれほど違いがありません。
NGOキエフ会議の見積もりの6万人としても、火力発電所が原因の大気汚染による「年間」死者数30万人より少ないですね。
また、被曝による被害をいうのであれば過去の核実験による損害賠償も求めることができるでしょう。
http://search.kankyo-hoshano.go.jp/food/dekigoto.html
1986年のチェルノブイリ事故時と、それ以前のフォールアウトがかなり多いことがわかります。今回の事故でも放射性物質を撒き散らしましたが、放出量はチェルノブイリ事故の10分の1とみられています
 
 
原子力発電所のコスト計算を読んでみましたが、これは計算がひどいと思いました。
なぜ原子力発電所の発電コストの計算に、揚水発電所の建設費用を含めるのでしょう?
べつに使用済み核燃料の生成と再処理するMOXの燃料の数を等しくしなければならない理由はないと思います。
中間貯蔵施設で貯蔵しておけばよいでしょう。
それなのに再処理工場は2つ作ることにして、さらに再利用の難しいMOX燃料を使用した後の燃えカスからも燃料を取り出す前提で計算しています。
そもそも、これらの取り出した燃料は使うことなく、最終処分する計算を行っています。
使わないのであれば、最初から最終処分する価格だけを費用として計算すれば良いはずです。

また、どういうわけかガラス固化体にする価格が1本3530万円ではできないとし、1本2.5億円かけて作る計算を行っています。
明らかにおかしな数字です。ガラス固化体は、ステンレス製の容器に使用済み燃料を
ガラスを混ぜて保存するもので、1本500kg程度のものです。
どこに2.5億円かかるのかがわかりませんでした。
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011062000979041-1.jpg
また、この日本の試算しているガラス固化体にして最終処分するのにかかる費用は、
諸外国の試算と比べても決して少ない金額ではありません。
http://www2.rwmc.or.jp/pub/hlwkj201102ed-1.pdf
なぜその7倍もの価格を設定するのかの根拠が不明であり、その価格が妥当に思える合理性が見えてきません。

電源交付金も発電コストを大幅に上昇させる要因にはなりません。
Wikipediaに書いてありますが、出力135万kWの原子力発電所(環境調査期間:3年間、建設期間:7年間、建設費:4,500億円)の立地にともなう財源効果は、環境影響評価開始の翌年度から運転開始までの10年間で合計約391億円、その後運転開始の翌年度から10年間で合計約502億円。20年間では、電源立地地域対策交付金が545億円、固定資産税が348億円で、合計約893億円になると見積もられています。
これによる値上がりは、数十銭/kWhのレベルです。
 
 
福島の農林水産物が数十年間、食べられないのでは?、とのことですが、福島の農林水産物は9割がたは問題なく食べることができます。
ふくしま新発売。というページで調べられた検査結果が掲載されています。

基準値を超えたもの全リスト
http://www.new-fukushima.jp/result.php?start_year=2011&start_month=1&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=over&x=76&y=25

検査された全リスト
http://www.new-fukushima.jp/result.php?start_year=2011&start_month=7&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=78&y=10

牛肉が汚染されていたという報道がありました。
確かに汚染された牛肉は見つかっています。
クリでも汚染が見つかっています。このリストの中で1件だけあります。
http://www.new-fukushima.jp/result.php?kind_detail%5B%5D=%E3%82%AF%E3%83%AA&start_year=2011&start_month=3&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=79&y=15

しかし、例えば、モモでは1件も見つかっていません。
http://www.new-fukushima.jp/result.php?kind_detail%5B%5D=%E3%83%A2%E3%83%A2&start_year=2011&start_month=1&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=49&y=22

福島県が正直に全ての出荷物の検査をしているかどうかはわかりません。
しかし、福島市でも伊達市でも検出限界レベル以下の放射能しか帯びていない農産物がたくさん存在することは確かだろうと思います。
安全基準も暫定値のレベルが高いといいますが、もともと危険性に関して無知であったため高く設定されていたと思います。世界には年間10ミリSVの自然放射線被曝がある場所もあります。そういうところでも昔から住民が住み続けていて問題がないことはわかっています。また現在では、1945年の広島・長崎の例のほか、1986年のチェルノブイリ事故、1970年代から商用利用されたX線CT検査などの例からかなり正確に危険性を見積もることができます。我々はチェルノブイリ事故のときと比べると遥かに多くの知見を得ています。その知見をもとに基準を設定することは科学的で合理的であると言って良いと思います。

日記本文と関係のないコメントを長々とすみませんでした。
 
 
deepwaterさん、コメントありがとうございます。

放射能の問題は、私も正直言って何が正しいのかよくわからなくなってきています。飛行機に乗ればもっと放射能を浴びているそうですし、少量の放射能であれば、健康に良いというデータもあります。私も多分そうなのだと思っています。

政府や東電の初動がいかにも重要な事実を隠しているようだったので、誰もがその発表内容を信用できなくなっています。そのためにテレビや雑誌でいろいろな説が垂れ流されて風評被害は拡がるばかりです。
たとえ福島県の農産物は食べても安全という数字が出たとしても、放射能汚染は同じ町内でも高い場所と低い場所があることは誰でも知っています。そう考えると、子供を持つ親の多くは福島県の農産物は避けようとしてしまいますし、流通業者は大量廃棄に廻る可能性が高い農産物を仕入れられません。結果福島県の農家は大被害を受けます。その被害は、東電や政府が補償しなければならなくなります。

風評被害を止めるのは政治家の役割が大きいのだと思いますが、今までの対応を見ていると、風評被害をむしろ拡大させたように見えます。風評被害を消す方法は、今となれば東電など今まで原子力を推進してきた人たちが、率先して福島の農産物を買って生産者を援け、食べても大丈夫であることをアピールするしかないと考えています。政治家が東電に買い取らせて彼らが食べるか、捨てるかで世論がきっと動きます。
 
 
私も同感です。政府が大規模停電や原子力事故で予想されるパニックを恐れて情報をわざと隠蔽しようしたのは事実だと思います。しかし、そんな小手先の隠蔽をやっても、パニックは防げるものではないと思います。
放射線を測る装置は、福島第一原発だけにあるわけではないです。
大学や国の研究所、民間の会社、研究所、病院、発電所で常時、測っていますし、
それをネット上にリアルタイムで更新しているサイトもいくつもあります。
それに、IAEAや米軍なども放射線量をはかっていました。
それらの全ての数字と整合性をとるようにストーリーをでっち上げることは不可能です。
逆に言えば、政府がどれだけ信用できなかったとしても、その周辺に漏れ出た放射線量の測定値をみれば
政府の言っていることが本当かどうかはすぐにわかります。
国内だけでなく世界中の研究者が各地の放射線量をみて、事故の規模を予想し、ブログ、Twitterなどでも情報を流していました。
原子力発電所での爆発も、観測する人や機械が無数にある現状では隠しようがありません。
その現状に即するならば、情報を隠蔽しようとして人々の信用を失うほうがパニックを誘発しやすいため、
道義的な問題だけなく、実際上も、情報をオープンにするのが一番、良いのではないかと思います。
実際、国民に全く信用されていない中国では、政府がとめようとしても塩の買い占めパニックを早期に収束させることができませんでした。
 
 
スリーマイル島の事故を起こしたアメリカは強い反対運動の中、事故後も原子力発電所の発電量は増大させていますし、
産油国のサウジアラビアでさえも原子力発電所を建設する計画があります。
そういう事実に基づけば、原子力発電所が火力発電所に比べてコスト高で割りに合わないという
話しは専門的な知識がなくとも説得力にかけると思うのですが、そういう話でさえも一般に流布するというのは
それだけ今の日本政府が国民の信頼を失っていることの証拠だと思います。

ふくしま新発売。のようなサイトは、国が立ち上げるべきだったと思います。
国が大規模な検査施設・検査体制を作って公開するべきです。
(東京都は、情報を公開するサイトが早い段階で作られていました。石原都知事の指導力は評価されて良いと思います。
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor08
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor07
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor06 )
どういう形で検査を行っているかを明確にして検査過程を透明化し、
どういう形で検査済みであるかどうかを保証するかを考えて、消費者に安全を担保できるかを明確にするべきだと思います。
その上で、霞が関の食堂なんかで福島の農林水産物を優先的に使用するようにすれば、ずいぶん、風評被害も減るのではないかと思います。
これは、福島の農林水産物だけでなく、海外への輸出品についてもいえることで、同様な情報公開が重要だと思います。補償の金額についてあれこれ議論する前に、どうすれば失った信頼を取り戻せるのか、真剣に議論してもらいたいです。
 
 
同感です。

誰が何を言っても信用されなくなっている事態を収拾するためには、原子力を推進している人々が、率先して東北の農産物を買い、率先して食べる以外に道は開かないように思っています。

「補償」という加害者・被害者の関係でものを考えるのではなく、風評被害で売れなくて困っている農産物や地方の食料品などを買うことから始めて行くべきです。国や電力関係者がそういう取り組みをすれば、世論の風向きは変わるはずです。
汚染がひどくて当面使えない土地は、風力発電や太陽光発電用の土地として借りて地代を払うなど、地震の影響で打撃をこうむった人々に少しでも収入が入る方法をもっと政府や東電は検討すべきだと思います。