しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

「一休寺」と、自然野菜の手作り農園料理「杉・五兵衛」

2010年09月20日 | 京都歴史散策

前回は、御香宮神社と大倉記念館のことを書いたが、この日はそれから寺田屋を見た後、「一休さん」で有名な「一休寺」に向かった。

一休

とんち話で有名な「一休さん」はテレビアニメにもなって日本人なら誰でも知っていると思うのだが、その「一休さん」こと一休宗純禅師が晩年を過ごした「一休寺」というお寺が京都府京田辺市にあることを知ったのはつい最近のことである。友人からも勧められていて、ずっと前から行ってみたいと思っていたので、今回伏見の名所を廻ってから一休寺に行くコースを組んだ次第である。
寺田屋近辺から一休寺まで15kmくらいで、35分くらいで一休寺に着いた。

一休寺は、鎌倉時代の正応年間(1288-1293年)に開かれた妙勝寺が前身で、この寺が元弘年間(1331-1334)に兵火にあって衰退したのを、一休禅師が康正2年(1456)に草庵を結んで中興して「酬恩庵」と号し、その後、一休禅師は88歳で亡くなるまでここで過ごしたそうである。



上の画像は「都名所図会」巻之五にある「酬恩庵」の図会である。(名所図会では「妙勝禅寺」と書かれているが本文に「酬恩庵と号す」と付記されている。今は「一休さん」が有名になり過ぎて「一休寺」と呼ばれてはいるがこれは通称で、正式名称は「酬恩庵」である。) 



門をくぐると参道は非常にきれいに手入れがされていて気持ちが良い。残暑が厳しい日ではあったが、木々の緑が日差しを遮って心持ち涼しく感じられた。秋の紅葉の時期はきっと美しいだろう。



参道を右に曲がると一休禅師の御墓がある。お墓といってもちょっしたお堂であるが、この門には菊の御紋が彫られている。門の左に建てられた木の立札は宮内庁のもので「後小松天皇皇子 宗純王墓」と書かれていた。

はじめは、別のお墓が二つあるのかと思ってあまり深く考えず先に進んでしまったが、良く考えるとお寺に宮内庁の立札があるのは違和感がある。自宅に帰ってから調べて驚いた。一休和尚は第100代後小松天皇の落胤だったという説が有力なのだそうだ。

一休寺のパンフレットには小さく「禅師は人皇百代後小松天皇の皇子であるので御廟所は宮内庁の管轄である」と書いてあるのに気がついたのは家に帰ってからだが、自宅で一休寺のホームページを辿っていくと、一休禅師の墓の説明の部分で、「一休さんは、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。」と書いてある。
http://www.ikkyuji.org/keidai_annai/ikkyu_haka/ikkyu_haka.html 

Wikipediaによると、東坊城和長の「和長卿記」という本の明応3年(1494)8月1日の条に、「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」と書かれているほか、「一休和尚行実」「東海一休和尚年譜」などの伝記類においても、出自を後小松庶子としていることなどが書かれている。但し、母親については諸説があるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94 



中に入ると方丈を囲んで見事な枯山水庭園が広がる。この庭は松花堂弁当で名高い松花堂昭乗と佐川田喜六、石川丈山の三氏合作と言われている。上の画像は方丈から眺めた南庭で、白砂が鮮やかで美しい。庭から屋根が見えるお堂が一休禅師の御廟所である。



この画像は方丈で重要文化財に指定されている。中に一休禅師の木造(重要文化財)が安置されている。



上の画像は方丈から眺めた北庭で枯滝落水の様子を表現したものだそうだ。



方丈を出て本堂に進む。入母屋造の桧皮葺でこれも重要文化財に指定されている。
内部には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩を祀っているとのことだが、あまりよく見えなかった。

すぐ近くに宝物殿があり、重要文化財の「一休禅師頂相」や、一休禅師の墨跡やゆかりの品が展示されている。

平日であったこともあると思うが観光客は少なく、古刹と素晴らしい庭の景色をほとんど独占出来て大満足だった。

ところで、一休禅師は77歳の時に森(しん)という若い女性と恋に落ちる。彼女は生まれつきの盲目で、身寄りもなく謡を歌って金品を貰って生活する日々を過ごしていたのを一休禅師は哀れに思い、庵に連れて帰るのだがやがてそれが愛情に変わっていく。
一休禅師が森女との愛欲にまみれた生活を隠さずに漢詩で書いた「狂雲集」という詩集があり、次の「里山のフクロウ」というサイトでいくつか現代語訳が紹介されているが、かなりエロチックな内容に誰しも驚いてしまうだろう。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2010/09/---ebc9.html 

一休寺を後にして、昼食を予約した農園・杉・五兵衛に向かう。ここは、農園で育てた無農薬野菜や地鶏を料理して出す農園料理が売りだ。次のURLが杉・五兵衛のHPである。
http://www.sugigohei.com/ 



昼食を予約したのはここの本館の農園会席料理で、価格はやや高い気がするがこんなに静かで落ち着ける場所で、新鮮な食材の手作り料理が頂けるのは価値がある。



私が家内と案内された部屋はこんな部屋なのだが、とても落ち着けて、ゆっくりおいしい食事を楽しむ事が出来た。
おつまみ、前菜、メインディッシュ、手作り豆腐、炊き込みご飯と吸い物、デザートの順に運ばれてくるが、下の写真はメインディッシュである。



右上の黄色い花は「花オクラ」というもので、花びらが食用になっている珍しい植物だ。私は生のままで頂いたが、花びらにほのかな甘みが感じられた。
野菜中心のメニューなのだが、充分おなか一杯になって大満足だ。 


最後のデザートは自家製の巨蜂と柿のシャーベットとその上に自家製のアイスクリーム。どれもとてもおいしかった。

この施設は本館以外に、テラスハウスやパン工房や売店がありそこでも食事をすることが可能だ。 また売店では、農園で作られた野菜や果物、ジュースやジャムや菓子類やパンなどを買うことが出来る。
農薬や化学肥料を使わず、残飯を餌にしてロバや鶏を買い、糞は畑の肥料にする自然循環農法を営んでおられる。園内で動物と遊ぶこともできるし果物や野菜を収穫するイベントも行われているようだ。広さは5haで甲子園球場の敷地くらいの広さはあり、散策しても楽しそうだ。

自宅に帰っていろいろ調べると、昨年の7月18日付の「日経プラスワン」の「何でもランキング 夏休みに行きたい農園レストラン」で、この農園・杉・五兵衛が大阪で唯一全国ベスト10(第9位)に入っていたそうだ。近畿圏では和歌山であと1件入っていたようだが、大都市近郊でこんなに広い農園が残っていたこと自体が奇跡のように思える。

この杉・五兵衛の園主がHPで書いていることが良い。
「農耕とは自ら種を播き、耕し、育てそしてそれを食した。その育てるという過程におのずと教育が生まれ、花が咲き実がつくことにより情操が生まれる。さらに収穫したものをいかに蓄え活かし食するかという中に文化が芽ばえる。
農業という産業に分化してからは、いかに多くの金銭を得るかとする事ばかりに重点が置かれ、農の楽しみがなくなり教育や文化迄もが衰退してしまっている。」
そして、農園の経営とは「農業として潤し、かつ教育、情操、安らぎ、文化をも含み、経済の奴隷にならず大地に働く誇りを持った営みと考えます。」と、実に立派な経営者だ。この考え方が農業従事者に浸透していたら、こんなに日本の農業が衰退することはなかっただろう。

しかしどんなにいいお店でも、お客様が来店されてお金を落としてくれなければ生き延びることができない。これからも杉・五兵衛に時々足を運んで応援することにしたい。
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こんにちは。
一休寺は、子供達の大学受験の時に、比較的近かくに住んでいましたので、良くお参りに訪ねました。
懐かしいです。
 
 
こんばんわ。

京田辺市は今年は全国で一番暑い日が2日連続したりしましたが、一休寺に行った時は暑いのを覚悟して行ったのですが、木々の緑が太陽を遮り、また土壁の伽藍の中は涼しくて快適でした。

ブログの記事にはなりませんが、また秋にでも行ってみたいと思います。

私も、京都府下や大阪、兵庫の古いお寺や神社は知らないところがいっぱいありますので、もしこの辺りでお勧めの所があれば御教示頂くと幸いです。 



京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館

2010年09月16日 | 京都歴史散策

前回は寺田屋に行ったことを書いたが、寺田屋の近くには見逃せない観光スポットがいくつかある。
寺田屋が開くのが10時なので、この日は寺田屋を行く前に2か所ばかり観光をしてきた。今回は、私が見学してきた寺田屋近辺の観光地のことを書こう。

最初に訪れたのは御香宮(ごこうのみや)神社である。

平安時代の貞観4年(862)に、この神社の境内から「香」の良い水がわき出たので、清和天皇から「御香宮」との名前を賜ったが、それ以前は「御諸神社」と称していたらしい。

その後豊臣秀吉が伏見城を築城する際に鬼門除けの神として勧請され伏見城内に移されたが、徳川の天下となって家康が慶長10年(1605)に元の位置に戻したそうだ。



上の画像は御香宮神社の表門だが、これは元和8年(1622)に徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して御香宮に寄進したものとされ、国の重要文化財に指定されている。



上の画像は拝殿だが、これは寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進によるもので京都府指定文化財である。平成9年に極彩色が復元されて美しく、良く見ると右側に鯉の滝登りが、左側には仙人が描かれている。



本殿は慶長10年(1605)徳川家康の命により建立されたもので、昭和60年に国の重要文化財に指定されている。本殿も平成2年より着手された修理により極彩色が復元され、屋根の桧皮葺も美しい。



本殿の横にこの神社の名前の由来となった「石井の御香水」が湧き出ている。明治以降は涸れてしまっていたらしいが、昭和57年に復元され昭和60年に環境庁により「名水100選」に選定されている。一口飲んでみたが、なかなか美味しい水である。もしここへ来られる場合は、ペットボトルを用意されればよい。もちろん持ち帰りは無料である。

この神社に来られた時に是非立ち寄っていただきたいのが、社務所の奥にある小堀遠州ゆかりの石庭。社務所の座敷に進んで、石庭を眺めながらくこの庭の由来についてのテープの説明を聞いたが、この内容がなかなか面白かった。



小堀遠州は茶人、建築家、作庭家として有名な人物だが、元和9年(1619)に伏見奉行に任ぜられた時に庁舎の新築を命ぜられ、寛永11年(1634)上洛した三代将軍家光を新築の奉行所に迎えた時に、家光は立派な庭に感心して褒美として五千石を加増し、遠州は伏見奉行の庭で出世の糸口を掴んで大名となったという。



ところが伏見奉行所は、明治以降は陸軍工兵隊となり、太平洋戦争後は米軍キャンプ場となってすっかり庭はひどく荒されてしまったそうである。その後昭和32年市営住宅になったのを機に、奉行所の北にある御香宮に庭を移すことになり、中根金作氏(中根造園研究所長)が庭石や藤の木などを移して復元されたものだそうだ。なかなかいい庭で、秋の紅葉時はもっと美しいだろう。



御香宮の境内に「明治維新 伏見の戦跡」と書いた石碑がある。その横に元首相の佐藤栄作が鳥羽伏見の戦いを解説した文章が書かれた案内板がある。
それによるとこの御香宮の東側の台地に薩摩軍の大砲が備え付けられて、鳥羽方面からの砲声を合図に、薩摩軍が伏見奉行所に陣取る新撰組に砲撃を開始したことから鳥羽伏見の戦いが始まったとのことである。
しかし、圧倒的に優勢だったはずの幕府軍がなぜこの戦いに敗れたのか。このテーマはいずれまた書くことにしたい。



御香宮から車で3分も走れば、月桂冠大倉記念館に着く。白壁土蔵の立派な建物が立ち並ぶ街並み自体が素晴らしく、タイムスリップしたような気分になる。


中には、昔の帳場を復元したものや、昔の酒造用具などが展示されている。
入場料は300円だが、お土産にワンカップの特級の日本酒が付いてくる。電車で行けば利き酒コーナーでいろんなお酒が楽しめるのだが、この日は車で行ったので美味しいお酒を飲み損ねてしまった。

伏見のお酒は「御香宮」の名水に代表される地下水が酒造りに最適と言われ、「月桂冠」の他に、「黄桜」、「松竹梅」、「玉乃光」など40近いメーカーがこの近辺にあるそうだ。



大倉記念館のすぐ南に十石船の乗り場がある。春の桜や秋の紅葉の季節は、古い街並みや酒蔵を見ながらの観光は素晴らしいだろう。ブログでいろんな人が感想を書いているので乗ってみたい気持ちもあったのだが、この日はこれから寺田屋に行き、枚方で昼食を予約していたのであきらめた。

大倉記念館から寺田屋へは歩いて5分程度。途中で月桂冠を創業した大倉家の本宅(文政11年[1828]築)や大正8年築の旧本社などを見ることが出来る。

先程の十石船の乗り場を流れる濠川は、大倉記念館の裏を通って寺田屋の近くを流れている。



「都名所図会」の巻之五に「伏見京橋」の絵が載っている。地図を見ると寺田屋からあと80mも西に行けば伏見区京橋町となる。

「都名所図会」が出版されたのは安永9年(1780)で、龍馬がお龍と出会うのは元治元年(1864)だが、当時は物流を船に頼っていた時代である。このような景色は明治になって鉄道網が発達する頃まではあまり変わらずに続いたと思われる。
龍馬が寺田屋に行く時は図会に描かれた中央辺りで船を下り、宿の近くで見た景色はこのようなものであったのだろう。

「都名所図会」の本文にはこう解説されている。

「京橋の辺は、大阪より河瀬を引登る舟着にて、夜の舟昼の舟、あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟、かずくこぞりてかまびすしく、川辺の家には旅客をとゞめ、驚忽なる声を出して饗応けるも、此所の風儀なるべし。」

なんだか、船頭の声や旅館の客引きの声が聞こえてきそうな情景だが、今の観光地よりも昔の方がはるかに活気がありそうだ。
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はじめまして。 天輪0416と申します。
管理人さんのブログを拝見させていただきました。
本格的な歴史ブログですね。思わず人気ブログランキングを押していまいました。私はブログを作り始めたばかりです。写真も素人の映像です。これからもよろしくお願いします。また来ます。
 
 
天輪0416さん、はじめまして。
また、応援もしていただき恐縮です。

はじめはネタが切れて、1年も持たないかもしれないと思っていましたが、いろんな読者の方から励まされ、書いている本人もいろんなことに興味を持つようになって調べているうちに、こんどはいろんなことが書きたくなってきました。

学生時代に学んだ歴史は、ただ覚えるだけで、いろんな事件などの原因を深く考えることもなかったのですが、この歳になってそういうことを考えながら歴史を調べることの楽しさがわかってきました。

これからも時々覗いてみてください。
私も「歴史散歩、感動の旅、戦国&幕末etc」を時々覗かせていただきます。



全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」

2010年09月11日 | 京都歴史散策

9月5日の「龍馬伝」は第36回「寺田屋騒動」だった。
京都に生まれ育ったものの、寺田屋は遠かったので行ったことがなかった。こういう番組を見てしまうと急に行きたくなって、たまたま10日が振替休日だったので、平日の方が観光客が少ないかと考えて出かけてきたが、朝10時のオープンを待つ人が随分大勢並んでいたのに驚いた。観光バスのツアーで来ておられる人も少なからずいたようだ。



中に入ると龍馬やお龍、お登勢の写真から、幕末の志士の写真や手紙等のコピーなどが所狭しと飾られている。


いつ誰が付けたかよくわからないが刀痕のある柱もあり、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせた時に登ったという階段や、昔の風呂桶なども残されている。


多くの観光客は、龍馬のいた時代のままで残されているものと錯覚してしまう。

展示物の中にはいくつか新聞の切り抜きの様なものがあり、その中に京都新聞の『「幕末の寺田屋」焼失確認』という記事のコピーが目に止まった。この記事を読むと、どうやら寺田屋は2年前に京都市から展示内容が見学者に誤解を与えないようにとの指導を受けていたようなのだ。幕末の寺田屋が焼失したのが事実ならば、刀痕や風呂桶は一体何なのだ。

こういうことを調べることは大好きなので、早速自宅に戻ってからいろいろパソコンで調べてみた。

当時の新聞記事検索はリンクが切れてしまっているが、Wikipediaでは産経新聞の当時の記事が、Web魚拓で紹介されていた。
http://megalodon.jp/2008-0925-2222-53/sankei.jp.msn.com/life/trend/080925/trd0809252043008-n1.htm    

京都新聞の記事を探したが2年前の記事は見つからず、社会部の佐藤知幸記者の「取材ノート」というコラムは、リンクが切れておらず誰でも読む事が出来る。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2009/090519.html 
ここでは佐藤記者は寺田屋の営業行為を「歴史に対する裏切り」とまで書いている。

京都市は、寺田屋は慶応4年の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったと結論し、寺田屋は「今も一部が焼失しただけ」と考えて今まで通り営業活動を続けるが、市の見解も伝えるように努力するとのスタンスだそうだ。館内に京都新聞の記事を展示したのは、京都市の見解を見学者に伝えなければならないので、こっそりと貼り出したものだろう。

寺田屋は全焼したのか、あるいは一部焼失だったのか、ここがポイントである。

この問題に最初に火をつけたのは「週刊ポスト」2008年9月1日号だそうで、この雑誌には寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼したと書かれていたらしい。
その記事の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課は、週刊ポスト誌に対し調査を約束し、京都市歴史資料館にその調査を依頼したところ「寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失した」ことが史実であるということとなり、それを各報道機関に配布したことが当時の新聞で採り上げられて、先程紹介した産経新聞の記事はその一例である。

では、寺田屋が全焼したという根拠はどこにあるのか。
この点については、なかさんのサイトに非常に詳しく書かれている。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-546.html 

詳しくは、上記のサイトに根拠となる史料まで添付されているので興味のある方は確認していただきたいが、一部を紹介すると
① 鳥羽伏見の戦いで焼けた地域の瓦版が京都市歴史資料館に残されていて、3つの史料から寺田屋のあたりは焼失地域であることが確認できること。(紹介したサイトで画像が確認できます。)
② 現在の寺田屋の東隣にある空き地に明治27年(1894)に建立された「薩藩九烈士遺跡表」という碑が立っている。
この碑文の文言の中に、「寺田屋遺址」という言葉があり、寺田屋のあったこの場所に碑を建てたという趣旨が書かれていること。



③ 昭和4年の「伏見町誌」に「寺田屋遺址 字南濱に在り,現在の建物の東隣を遺址とす」と書かれていること。
④ 西村天囚という漢学者が明治29年に寺田屋を訪問し、「紀行八種」という本の中で、「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と書いていること。
あたりを読めば納得していただけるのではないだろうか。
以上を総合すれば、今の寺田屋は明治になって建て替えられ、幕末の寺田屋はその東隣の土地だったということになる。

Wikipediaによると、現在の寺田屋の建物の登記は明治38年(1905)だそうだし、湯殿のある部分は明治41年(1908)だそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

また、大正年間に、現在の寺田屋の土地建物は幕末当時の寺田家のものではなくなったらしく、昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたとも書いてある。その人物とは幕末の寺田家とは関係がない人物というのだ。

寺田屋のパンフレットでは、「当時の状況を、第14代寺田屋伊助の考証により復元したものである」として宿の1階と2階の間取りが立体的に描かれており、この部屋は龍馬が襲われた部屋だの、この階段は龍馬に知らせようとお龍が裸のまま駆けあがった階段だのと説明書きがいくつもされている。



このパンフレットであれば、「今の建物の説明をしているのではなく、当時の建物はこうだったとして書いています」という言いわけが出来てしまうだろう。こう書けば、京都市の指導をうまく逃れることができるとでも考えたのであろうか。

そもそも、「考証」したという人物が「第14代寺田屋伊助」である。この人物をネットで調べると、昭和37~38年頃にこの古い建物を買取って旅館経営に乗り出し、本名は「安達清」といい、元は警察官で幕末の寺田屋の寺田家とは何の縁もゆかりもないようだ。7年前に亡くなられたそうだが、そんな人物が「考証」したとする図面をそのまま信じていいのだろうか。現在の寺田屋に近い図面をパンフレットに載せただけなのではないだろうか。

司馬遼太郎が産経新聞に「竜馬が行く」の連載を始めたのが昭和37年6月だが、その時期にこの人物は旅館業を始め、当時の龍馬ブームに乗っかって営業を軌道に乗せたのだろう。 なによりも腹立たしいのは、幕末の寺田屋が焼失したこととこの建物が明治になって改築されたものであることを一言も説明せず、入口にもパンフレットにも堂々と「史跡」と書いていることである。

観光客は本物を求めている。そのために時間をかけ、お金を使って見学に来ている。どれが本物か、どれがレプリカであるかがせめてわかるように展示してほしい。旅行業者も旅行に関する書籍の出版社も、本物かどうかは見極めたうえでキチンと書くべきである。言いたいことは、ただそれだけである。
寺田屋の今の営業のやりかたは見学者を欺くものであり、「観光地偽装」と言われても仕方がない。模造品のコレクションとはいえ、それなりに珍しいものが展示されているのだから、誤解されるような展示手法はやめていただきたい。

寺田屋だけではないと思うのだが、歴史ブームに乗っかって、歴史の事実を曲げてまで、利益のためなら何でもやるような商売のやり方がまかり通らないようにしてほしいものだと思う。
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BLOGariコメント

はじめまして。
「よっぱ、酔っぱ」のnaka です。
拙ブログをご紹介いただきありがとうございます。

寺田屋再建に関する報道は下記エントリーで掲載しています。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-535.html
 
 
nakaさん、はじめまして。

寺田屋のことを調べていたらnakaさんのサイトに辿り着きました。
良く調べておられるし、説得力があり、読んで感激しました。
内容だけでなく、論理構成も含めて非常に勉強になりました。

過去の記事を見ても、面白そうなテーマがいくつもあり、これから時々訪問させていただきます。

僭越ながらnakaさんのサイトを私の「リンク集」に入れさせて頂きました。

今後ともよろしくお願いいたします。
 
 
もし勘違いさせてしまったならお詫びいたします。
ご紹介頂いたページの検証は、京都歴史資料館の調査報告書で歴史調査担当課長である伊東宗裕さんが作成されたものです。

これだけの調査が行われたからこそ京都市の名誉を回復できたにも係わらず、報道資料であるとの理由で京都市の WEB SITE には一切掲載されませんでした。

そこで京都市観光局に抗議する意味も含めて京都歴史資料館で頂いた資料を公開しています。

> 僭越ながらnakaさんのサイトを私の「リンク集」に入れさせて頂きました。

ありがとうございます。こちらこそ今後とも宜しくお願いします。
 
 
nakaさんの、いくつかのページを読んで良く調べておられるなと感心しました。京都歴史資料館まで行って担当課長に会われて、資料を入手されたところが凄いと思います。

しかし、京都市観光局は歴史資料館にそこまで調べさせたのならせめて市のWEBSITEには載せ、隣の旧寺田屋跡地にある京都市の「寺田屋騒動跡」の観光案内の立札に、「幕末の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼し、隣の寺田屋は明治時代に再建されたものである。」くらいのことは書き加えて欲しいところですね。
 
 
 やはりそうでしたか。

 取引先の企業グループ業者会主催で「龍馬ゆかりの京都、寺田屋、近江屋跡、霊山護国神社と琵琶湖クルージング旅行」の案内が来ていました。

 往復バスで、1泊2日のツアーです。

 息子は「寺田屋はないはず。おかしいぜよ。」と言っておりました。しばやんさんの記事でやはりそうだったのかと納得しました。

 貴重な情報ありがとうございました。
 
 
息子さんはしっかりしておられますね。学校ではキチンと教えているのでしょうか。

重要な史跡には、京都市の観光案内の立札が建つのですが、寺田屋の隣に「寺田屋騒動址」の案内立札が建っています。

その立札が今の寺田屋に近すぎるのを利用して、寺田屋がその立札のすぐ下にちゃっかり寺田屋の営業時間の案内立札を出しています。寺田屋の隣の土地(幕末の寺田屋の跡地)は京都市の所有のはずなのですが、京都市の指導は甘すぎますね。
 
 
こんばんは、しばやんさん。

寺田屋の件、まったく同感です。
ここらは大坂街道=京街道のひとつ、伏見宿なので わたしも昨年の夏頃でしょうか、大阪高麗橋から数日かけて歩いていきました。
あまりに商売気が満々で、怒りを通り越して失笑ものでした。

http://blog.zaq.ne.jp/rakugo/article/1105/

寺田屋あたり、こんな記事にしていますので ご笑覧ください。
 
 
順ちゃんの夫さん、こんばんわ。

紹介いただいた記事を事前に読んでいたら、寺田屋にはきっと行かなかったとおもいます。

ブログには書きませんでしたが、私も最初に寺田屋の表札に「坂本龍馬」と書いてあるのを見て、強い違和感を感じました。

振り返ってみれば、寺田屋の展示物はどこかで見たような写真の複製が大半でした。
刀やピストルは何の解説もなかったので、おそらくどこかの骨董屋で買ってきたのでしょう。

いろんな手紙や書状も、「龍馬」という字はありましたが、本人が書いたものであればもっと大事にして展示していたはずですね。

途中から「何かおかしい」と思い始めて、京都新聞の記事のコピーが貼ってあるのを見つけて、確信した次第です。

ところで、順ちゃんの夫さんは京都も随分廻っておられるのに驚きました。カテゴリで、地域を追加していただくと有難いです。
 
 
2011年04月05日(火) 21:41 by こもりともこ
はじめまして。

貴重な情報を提供してくださり感謝致します。

これからも拝見させていただきます。
 
 
こもりともこさん、コメントありがとうございます。

私が寺田屋に行った時は「龍馬伝」の佳境に入った時で、観光バスで来た団体客もあって凄い混雑でした。入るなり、同じような複製写真が一杯並び、上手くもなく古そうにも見えない書の掛け軸にすごく違和感を感じて、いろいろ調べてほとんどが偽物であると理解しました。

寺田屋の営業姿勢に疑問を感じてこの記事を書きましたが、読んで頂いて嬉しいです。
このブログで、龍馬やお龍のことなどをいろいろ書きましたので、また時々覗いてみてください。
 
 
初めまして。
当方のブログ文中にリンクさせて頂きました。
問題がありましたら御一報下さい。
大変、勉強になり感謝しております。
 
 
バジコさん、有難うございます。
この記事を書いてから一年近く経ちましたが、読んで頂いて嬉しいです。
 
 
歴史というものは、どれも正しくはありません。

殆どが後から創作されたものです。

「史実」は「真実」とは異なる。

歴史は全て「伝」を付けて見なければなりません。

「寺田屋」が本物かどうかが問題ではなく、

現地に行って幕末の偉人達の息吹を感じる事に意義があります。

大学の歴史学ならいざしらず、

重箱の隅をつつく事に何の意味もないと思うのですが・・・。
 
 
竜馬さん、コメントありがとうございます。

文化財を出来るだけ昔のままの姿で見たい人と、模造品でも良い、バーチャル体験でも良いという人と、見る人によってさまざまだと思います。

ただ、本物でないものを本物であるように見せることは、本物を求めてわざわざ訪れた観光客にとっては、嬉しいものではないと思うのです。むしろ正直にその旨を明記してもらった方が良いと考える人は少なくないのではないでしょうか。

もちろんあとで本物でないとわかっても満足する人もいるとは思いますが…。
 
 
昨日、寺田屋を見学してきたのですが、後から再建さらた物と知り、がっかりすると共に腹が立ちました!

再建なら再建したと、もっとはっきり提示するべきです。

いかにも本物がそのまま残っているかと思わせる様なあざとさを感じます。弾痕後や刀傷なんて嘘っぱちという事ですよね。詐欺ですね。京都市の観光協会にクレーム電話しました。

真実を教えて下さってありがとうございます。
 
 
ポッポさん、コメントありがとうございます。
5年半程前に書いた記事が未だに読まれているのは嬉しい限りです。

以前、某大手SNSでこの記事を載せたところ、数年前に公知の事実になっているのでぶり返すな、騙される方にも問題があるなどと、随分多くのコメントが返ってきていちいち返事をするのが嫌になったことがあります。

営業するために捻じ曲げられた歴史は、正すことが容易でないことを悟るきっかけになりましたが、民間レベルで正しいことを広く拡散させて、観光行政を変えるくらいにならなければならないのでしょうね。



武士であることを捨てた弓の名人、那須与一

2010年09月07日 | 源平の戦い

元暦2年(1185)2月19日、平家軍は四国屋島の入江に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えるも、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、陸から大軍が来たかに見せかけて浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけた。世にいう「屋島の戦い」の始まりである。平家軍は船で海に逃れるも、源氏の兵が少数であることを知り、態勢を立て直した後、海辺の源氏と激しい矢戦となる。



夕暮れになって休戦状態となると、沖から一層の小舟が近づき、見ると美しく着飾った若い女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。

義経は弓の名手・那須与一を呼び、「あの扇の真中射て」と命ずる。平家物語巻第十一の「扇の的」の名場面である。



「…これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思しめ召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。輿一鏑を取つて つがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵といふ條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦響く程に長鳴りして、あやまたず扇の要際、一寸許りおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉み二揉みもまれ て、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷(ふなばた)をたたいて感じたり。陸には源氏えびらをたたいて、どよめきけり。…」

平家軍の挑発を断れば源氏軍の士気は下がり、射損じては逆に平家軍を勢いづかせてしまう。失敗が許されない緊迫した場面で、那須与一は見事に扇の的を射抜くという話なのだが、この話を高校の古文の授業で読んだ時に、「本当にこんな話があるのだろうか」と疑問に思った。すでに屋島の戦いは始まっており、もう何人も討ち死にしている状況下にもかかわらずである。

また平家物語では与一と扇の的までの距離は「七段ばかりあるらんとこそ見えたりけれ」とある。
1「段」は6「間」で、1「間」は6「尺」。1「尺」は30.3cmであるから、7段は76.35mという計算になるが、こんな距離で波に揺られて動く的を射ぬけるのだろうか。 この問題については、中世の頃の一段は9「尺」であったという説もあり、この説であれば19.09m程度の距離となる。
どちらが正しいかよくわからないが、現在の弓道競技では遠的競技の射距離は60m、近的競技の射距離は28mなので、76.35mとすればかなり長く、一方19.09mでは近すぎて挑発にもならないような気がするので、射距離の問題は私は前者に軍配を上げておこう。



しかし、そもそも何人も犠牲者の出ている戦いの最中に、こんな悠長な場面がありうるのだろうか。

あまり知られてはいないが、平家物語では那須与一が扇の的を射抜いた後、その船の上で踊り始めた平家の武士をも射ぬいてしまうのだが、何故平家軍はこの時に那須与一に復讐をしなかったのか。

Wikipediaによると、那須与一の名前は後世の「軍記物」である「平家物語」や「源平盛衰記」には出てくるものの、「吾妻鏡」など同時代の史料には名前は出て来ないために、学問的には与一の実在すら証明できないと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%8E%E4%B8%80 

私には、「平家物語」の那須与一の物語そのものが、後世の創作のように思えるのだ。那須与一が描かれている「平家物語」の成立時期は通説では1230年代とされ、作者すらわかっていない「平家物語」は「物語」ではあっても決して歴史書ではない。
「吾妻鏡」にも書かれていない内容を、「平家物語」や「源平盛衰記」にあるからと歴史的真実だ考えることは危険ではないのか。

ところで、平家物語巻第十一には、屋島の戦いの「扇の的」の場面で、那須与一は「二十許んの男子なり」と書かれている。いくら「物語」だとしても、年齢までは創作することはないだろう。
那須与一という人物が源氏方の軍人にいたことは間違いないのだろうと思うが、それから後の那須与一についてはどうなったか。

Wikipediaの記事を読むと、「頼朝の死後に赦免され那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年あまり続けた」と書いてあるところに非常に興味を覚えた。なんと弓の名手は仏門に入ったのである。

いろいろネットで調べてみると、那須与一は浄土宗開祖法然の弟子になっていることが分かった。

例えば、PHP文庫の『歴史の意外な結末:事件・人物の隠されたその後』という本の一部がGoogleブックスで読める。そこにはこう書かれている。

「『那須記』の「那須与一」の項に、「落髪申致上洛…」と、出家して京都に行ったことが伝えられており、京都府ニ尊院所蔵の『源空七箇條起請文』という古文書に、那須与一が、「源蓮(げんれん)」という名で記されているという。 彼は、1202(建仁2)年、34歳で出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りし、その2年後には、早くも法然の高弟となったというのである。」

 https://books.google.co.jp/books?id=7EaMb7HehQcC&pg=PT10&lpg=PT10&dq=%E3%80%8E%E6%BA%90%E7%A9%BA%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%A2%9D%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87%E3%80%8F&source=bl&ots=xJPXpF8a3_&sig=Ochgy3PvQwByYoMYxUPhTFC5gHg&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwijvNvw9onaAhUIOrwKHX_oDTwQ6AEIKzAB#v=onepage&q=%E3%80%8E%E6%BA%90%E7%A9%BA%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%A2%9D%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87%E3%80%8F&f=false




ちなみに浄土真宗を興した親鸞は同じ書に「綽空(しゃくくう)」という名で記されており、親鸞は与一の前年に法然のもとに入門しているので、与一とは一年違いの兄弟弟子にあたる。

では、なぜ与一は仏門に入ったのであろうか。

彼は義経の軍勢で活躍したが、義経は平家滅亡後に頼朝と不和になる。しかも、頼朝の腹心・梶原景時に攻撃された時は幕府軍を退け、有利な条件で和睦に持ち込んでいた。こうした経緯から、与一は武士として生きることをあきらめざるを得なくなり出家を選んだのだと考えられる。
幕府軍と戦って退けたことから、武士としても一流の人物であったことは確実だ。

神戸市須磨区に北向八幡宮という神社があり、与一はこの地で64歳で大往生を遂げたという。
墓所は京都の即成院だそうだが、那須氏の菩提寺である玄性寺(栃木県大田原市)にも分骨され、那須氏ではこちらを本墓としているそうだ。
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う

2010年09月01日 | 江戸幕末期の出来事

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。

「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。

http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html 

もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。

孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。



孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。

第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。

第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。



上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。

しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。 

たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には



「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。

通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。

中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。



孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。

ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。

専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。

疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。

「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。

しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。

孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。

いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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BLOGariコメント

暗殺説は有望であると思います。

 このところ幕末期の歴史本を読んでいますが、ことごとく当時の孝明天皇に批判的であります。

 公武合体ではなく、王政復古を前提に薩長を中心とした新政府にとっては邪魔な存在であったからでしょう。

 このあいだ読んだ本では「暗愚」という表現までありました。

 逆に言えば存在感が珍しくあつた天皇であったと思います。

 そういえば明治天皇はいつ頃から表舞台にでてきたのでしょうか?よくわかりません。
 
 
明治天皇にも暗殺説があります。

教科書などでよく見た明治天皇とは全く別のよわよわしい男性の写真が子供の頃の明治天皇の写真として残されていて、一度私のブログで紹介したことがあります。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/37/

明治天皇はすり替えられて南朝の末裔の大室寅之祐が、その後の明治天皇となったという説ですが、この説も調べるとなかなか面白いですよ。

参考になるサイトのURLも、その記事に載せていますのでよろしかったら覗いてみてください。
 
 
はじめまして
もう少し前にこれを読んでいれば、拙記事の文中にリンクできたのですが。8月19日の「たかじんの...」で竹田宮の口から孝明天皇暗殺の話が出そうになりましたね。
南朝の末裔の大室寅之祐、ということになっていますが、ほかの説もありますよね。そもそも「南朝の末裔」自体の検証も必要ですね。
この辺はいろいろ不都合があって、有耶無耶がベストなのかもしれませんが。
明治維新は意外と現代の見えない政治動向まで、地下水脈でつながっているような気もします。
明治維新にかんしては、見えない部分の方が大きいような気もします。


Bruxelles さん、古い記事にアクセスいただき、コメントまでいただき、ありがとうございます。

いつの時代もどこの国でも、時の権力者が歴史を編纂して国民を洗脳し、権力者の正当性を伝えようとします。

明治以来の権力者と地下水脈で繋がっている人物がいるかも知れませんね。

実際は何があったかは、証拠となるものがほとんど残っていないので、想像するしかありませんが、何もなかったということは嘘であるとは言えると思っています。