しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

お寺に「神棚」がある不思議

2010年06月26日 | 廃仏毀釈・神仏分離

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。



そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322) 
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A



宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。



上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p) 
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」



「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm 

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

2010年06月19日 | 廃藩置県

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html 

奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。
また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合が行われて3府35県まで整理され、明治14年の堺県の大阪府編入で3府34県となっている。(第二次府県統合) 

3府34県というと、現在の都道府県数よりも随分少ないことが誰でも気がつく。
復活された県が奈良県以外でもかなりあったことがわかる。



上の図はネットでみつけた明治12年の頃の日本地図である。
結論から言うと、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が、この地図では存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。
奈良県の事例から容易に想像できるように、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったはずである。奈良以外の県ではどのようなドラマがあったのか。

今回は東国原知事で一躍注目され、現在口蹄疫問題に苦しむ宮崎県のことを話題にしてみたい。



宮崎県は、7世紀に成立した「日向国」がルーツで、「日向国」は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であった。8世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は、明治初期まで日向国の領域は変化がなかったらしい。

南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例にたがわず群雄割拠の時代となり土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配するようになるが、1587年の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されてしまう。

江戸時代には、日向国には天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割され、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。



上の図は江戸時代の延享4年(1747)の旧日向国の地図だが、こんなに小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれている。その理由は、江戸幕府が島津家の反乱に備えたためと言われており、幕府領の飛び地があるだけでなく島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置している。

明治に入って廃藩置県当初は延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県(おびけん)が設置されるが、明治4年(1871)の府県合併によって美々津県、都城県に再編され、その後明治6年(1873)にほぼ旧日向国の領域をもって宮崎県が誕生した。

しかしながら、その3年後の明治9年(1876)に宮崎県は鹿児島県に合併されてしまっている。鹿児島県は明治新政府の改革に対する士族の不満が大きく、下野していた西郷隆盛の周辺に士族たちが集まり、明治政府にとっては難治県となっていたのに対し、宮崎県は士族が多かったにもかかわらず、政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収させることで、鹿児島の士族の不満が和らぐとの考えがあったと言われている。当時の県令であった福山建偉(鹿児島出身)は宮崎のことを「人民が蒙昧であり…自由の権利と義務を了解せず、旧習を墨守し文化の何たるかを知らない民」(「宮崎県史」より)と評していたそうだが、随分宮崎県民を愚弄したものの言い方だ。

しかし翌年に西南戦争が勃発し、宮崎からも多数の士族・農民たちが西郷軍に加わり、宮崎でも激戦が繰り広げられる。

西郷軍が敗れた後は、専制政治に対する批判は言論によるものが中心となり、全国で自由民権運動が展開されていくことになるが、宮崎地区では納税に見合うだけの投資やサービスがなく、鹿児島地区に予算配分が偏重しているとの不満から、次第に分県が主張されるようになる。

ここから後のことは、次の「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/kawagoe/index.html
その当時県会議員であった川越進が、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」が結成して会の代表となった川越は同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した渡辺千秋県令に「分県請願書」を提出するが、県令は実現困難だと門前払いにしたそうだ。明治14年(1881)当時の鹿児島県議会は鹿児島出身の議員が36名、宮崎出身の議員が17名で、当時の議会では分県の建議すらも受け入れられないような状況であったのだ。

日州親睦会のメンバーたちは宮崎地区各地を訪ねて、「宮崎県」の再設置を住民に訴えて運動の輪を広げる一方、川越進と藤田哲蔵の二人が上京して在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩種の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知る。
また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷する。

川越進らは翌明治15年(1882)の3月の県会に「日向国分県建議案」を提出。この建議案は賛成多数で成立するのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議所上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されてしまう。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分権運動がさらに盛り上がることとなる。

翌明治16年(1883)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、3月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、4月に参事院で認定されて5月9日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの3年に及ぶ努力が実を結び、7年ぶりに宮崎県が復活するのである。



上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。

川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。



その後彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその銅像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうだ。

地方では若い人の働く場所が少なすぎて、若い世代の流出が止まらない。これでは地方は老齢化が進み衰退してしまうばかりではないか。特に宮崎県はバカな大臣の対応のまずさで口蹄疫の大打撃を蒙ってしまった。これから宮崎の畜産業は立ち直れるのだろうか。

都会も地方もバランスよく発展させ、若い世代が地方でも普通の生活が出来るようにすることを、国家レベルで考えることが必要だと思う。そうしなければ、郷土を愛し、郷土の将来のためにに尽くす人がいなくなってしまう。工場誘致も必要だが、農業などの第一次産業や地場の産業などをあまり軽視してはいけないのだと思う。
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東大寺大仏のはなし

2010年06月13日 | 奈良歴史散策

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。



聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グループが調査した大仏の補修個所が修理時期別に色分けされておりわかりやすい。



では東大寺の大仏はどういう経緯で修理されることになったのか。いろいろ調べると、東大寺大仏が破壊されたのは三度もあるのだ。

江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が3回落ちたということを書いているそうだが、それによると、その時期は
斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)だそうだが、その時にいったい何があったのか。

最初の斎衡2年は地震が原因らしい。全国で貴賎を問わぬ修復費用の調達が行われて、この時は貞観三年(861)に開眼供養会が行われたようだ。

二度目の治承4年は有名な平重衡による南都焼討である。この時は東大寺だけではなくて、興福寺も焼かれてしまっている。

平治元年(1159)の平治の乱の後、大和国が平清盛の知行国となったが、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視したことに対して南都寺院側は強く反発し、特に東大寺、興福寺は僧兵と呼ばれる武装組織を背景に、強く平氏に反抗していたのだが、治承4年(1180)5月の以仁王の乱を契機に、園城寺や諸国の源氏とも連携し反平氏活動に動き出す。

12月に平重衡(平清盛の五男)が園城寺を攻撃して焼き払い、奈良については当初は平和的解決を目指して清盛はまず使者を送るのだが、南都の僧兵により60人の使者の首が切られてしまう。

激怒した清盛は、南都攻撃を命令しその際に奈良の主要部を巻き込む大火災が発生し、特に東大寺は法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外はすべて焼け落ち、興福寺も三基の塔の他、金堂・行動・北円堂・南円堂など38の施設を焼失してしまう。

この時の大仏がどうなったかについては、『平家物語』巻第五「南都炎上」の段には「御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあいて山の如し」とあり、大仏の頭は下に落ち、体は熱で溶けて山の塊のようになったと書いてある。

東大寺の復興事業は平家政権によって始まり、俊乗坊重源が造営勧進となり大仏は運慶らの制作によりまず大仏が完成し、文治元年(1185)8月28日に後白河法皇を導師として大仏様開眼供養が行われている。壇の浦の戦いは3月なので、平家滅亡の後のことである。

ところが肝心の大仏殿の建築は用材の調達に支障がありなかなか進まず、上棟式が行われたのは建久元年(1190)で大仏殿が完成し落慶供養が行われたのは建久六年(1195)で、その時は後鳥羽上皇や源頼朝が臨席したとの記録が残っている。源頼朝は奈良の復興を鎌倉幕府の最重要の政策とし、巨額の再建資金を支援したそうである。

三度目の永禄10年は、戦国時代の真っただ中の永禄10年(1567)の10月10日で、この時も大仏は火災で鎔けて首が落ちている。

松永久秀と対立していた三好三人衆・筒井順慶が奈良に侵入し東大寺や興福寺に陣を構えたなかで、松永久秀が三好三人衆の本陣のある東大寺大仏殿に夜襲をかけたとされるのだが、この経緯はWikipediaにかなり詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」にはこの日のことを、次のように記載されているという。

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

しかし、誰が東大寺に火をつけたかについては諸説がある。当時日本で布教していたイエズス会のルイス・フロイスは「日本史」という著書を残しているが、そこにはイエズス会に入信していた三好方の誰かが夜分、本陣のあった東大寺を警護している時にひそかに火をつけたと書いている。

ルイス・フロイスは火をつけた者の名前までは明記していないが、フロイス自身がイエズス会に不利なことを書いていることを何故注目しないのかは良く分からない。ここではその可能性もあるとだけ書いておこう。

とにかくこの兵火のために東大寺は、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院などは残ったものの、大伽藍の大半を再び焼失させてしまっている。

元亀元年(1570)、朝廷は京都の阿弥陀寺の青玉上人に、大仏の修復のための諸国勧進を行うべしと命じ、織田信長や武田信玄へも勧進への協力が命じられたようだが、当時はなかなか資金が集まらなかったようである。

天正6年に鋳物師の弥左衛門久重が起用され大仏が修復されたが、頭部は銅板で仮復旧したままの状態だったらしい。大仏殿も仮堂で復興したがそれも慶長15年(1610)に大風で倒壊し、大仏は無残な姿のままで数十年雨ざらし状態だったことになる。

万治3年(1660)東大寺の公慶上人が立ち上がり、奈良の町人に大仏殿再建のための勧進を呼び掛け、江戸をはじめ遠い国からの勧進も盛んになった。

貞享3年(1686)から大仏の本館修復が始まり、元禄5年(1692)には露座の大仏開眼供養が行われ、全国から20万人を超える参詣人が集まったと言われている。下の図は東大寺に残されている「開眼供養屏風」で、露座のままで法要が行われているところが描かれている。



そして大仏殿は宝永6年(1709)に完成し、落慶法要には24万人が詰めかけたというのだが、 三好・松永の戦乱で焼けて以来大仏が修復され、立派な大仏殿の屋根の下に納まるのに142年もかかっているのだ。



今我々が目にすることのできる東大寺の盧舎那仏像は、このようにさまざまな人々の努力により残されてきた貴重な文化財であることを忘れてはならない。この仏像は国宝に指定されているが、ただ古いから国宝であるのではなく、その時代時代の最高の技術で修復されてきたからこそ国宝なのである。

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BLOGariコメント

2010年06月15日(火) 02:09 by キャビのお友達
東大寺大仏さんの含蓄ある内容ありがとうございます
今現存する大仏さんの歴史的経緯
やはり 建造と損傷そして修復を繰り返しし
その時代時代の最高の技術をもって修復されてきたんですね
大仏さんは50トンも水銀を使用、 金を水銀に溶かしてできた、やわらかい金アマルガムをバーナーで焼くと、水銀が蒸発して金だけが残される。
蒸発した水銀で病気になった人が多発したそうです。
建造や修復にあったって多くの人が犠牲になったのも事実
 大仏さんを見るたびに そういった歴史背景を感じる私ですが
 
 
キャビのお友達さん、コメントありがとうございます。

確かに、塗金作業を行った際に水銀を使って病人が出た記録がありますね。
使った水銀量は2.5tで金が0.5tと書かれているサイトもありますが、実際に大仏全体を塗金するのに必要な金量は48.4kgという数字もあります。

病気が水銀が原因とするものであることを、当時つきとめて対策を講じ、5年もかけて作業をしているようです。

次のサイトは参考になります。

http://www.tmk.or.jp/history_06.html



鳥居は神社のものなのか

2010年06月07日 | 廃仏毀釈・神仏分離

鳥居は神社の入り口にあるもので、お寺に鳥居などはあるはずがないものだと子供の頃から思ってきたのだが、その考え方が正しくないことが分かってきたのはつい昨年のことだ。 

たとえば、聖徳太子の創建である大阪の四天王寺に行くとこのように西の入口に石の鳥居が建っている。



この鳥居は永仁2年(1294)に再建された、日本最古の石造りの大鳥居とされ、国の重要文化財に指定されている。



扁額には「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心」と書かれているが、この意味は「お釈迦さまが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である」という意味である。
この扁額は見るからに新しく制作されたものであるが、ここに書かれている文字は昔から同じもののようだ。「法然上人行状画図」という本の第十六に四天王寺の鳥居が書かれており、扁額には、今と全く同じ文字が書かれているらしい。

以前このブログにも書いたが、吉野の蔵王権現堂の近くに鳥居が建っている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html



上の画像が有名な「銅(かね)の鳥居」で、日本最古の銅製の鳥居でこれも国の重要文化財に指定されている。高さが7.6m、柱の径が1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った銅を用いたという言い伝えもある。また鳥居の柱は、仏の台座である蓮華座の上に立っているそうだ。
この鳥居の扁額には「発心門(ほっしんもん)」と書かれているが、この字は弘法大師の筆によるものと伝えられている。



この鳥居は聖地への入り口であり、俗界と聖地との境界を象徴する。
大峯山に入る修験者は、この門に手をかけて廻りながら、
吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」
との讃仏歌を三度唱えて修行の心を新たにして出発するそうだ。



日本の三大鳥居は安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)と大阪四天王寺・石の鳥居、吉野・銅の鳥居であることを最近知ったのだが、3つのうち2つがお寺に関わるものなのである。

地図記号で使われる鳥居は神社を意味するのだが、そもそも鳥居とは何なのか。

鳥居の起源についてネットで調べるとWikipediaにかなり詳しく書かれているが、結論としては「諸説あるが、確かなことはわかっていない」のだが、延暦23年(804)に書かれた「皇太神宮儀式帳」という文献によると鳥居は「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」として、「奈良時代から神社建築の門の一種としている」ようで、「8世紀頃に現在の形が確立している」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85 
では鳥居の起源について「諸説」としてどんな説があるのかというと、

インドの仏教やヒンドゥー経寺院に見られる門である「トラナ」が狛犬などと同じく仏教に付随して伝来したという説。

Wikipediaには「トラナ」の写真が出ていたが、これは確か鳥居に似ていると言えば似ている。



この画像は紀元前2世紀から紀元前1世紀頃に建設されたサンチのトラナだが、獅子像などが彫り込まれている。

また、中国で宮殿や陵墓へ続く参道の入り口に入口両側に置かれる「華表」が鳥居の起源であるという説もある。




上の写真はWikipediaの「天安門前の華表」の写真である。

中国には「牌坊(はいぼう)」という伝統的建築様式の門がある。神戸や横浜の中華街に、このような建物が確かにあった。




上の画像は、香港西貢区の「海鮮街」にある「牌坊」である。

他には日本古来のものだという説もあり、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)にちなみ、神前に鶏の止まり木を置いたという説や、現在の雲南省とビルマとの国境地帯にすむアカ族の「精霊の門」には、上に木彫りらしき鳥が置かれたりしていることから、これが日本の鳥居の起源であるという説まである。



子供の頃に山で良く友人と遊んで仲間同士で陣地のようなものを作って入口に門らしきものを構えたのだが、陣地の中に入るメンバーを絞る目的で門らしきものを作る発想はどこの部族でもするのではないかと考えてしまう。

このような諸説がまじめに議論されているのなら、インディアンのトーテムポールが鳥居の起源だという説が出てきてもおかしくないではないか。
「皇太神宮儀式帳」の原文は誰でも次のURLで読む事が出来るが、7/76面の5行目に出てくる「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」のところは、その大きさが書かれているだけのことである。
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0007.html

この資料では、四天王寺吉野蔵王権現堂に鳥居があることを納得させるものではない。いずれも神仏習合以前に作られた寺院はであるが、なぜお寺に鳥居を建てたのだろうか。この2寺院にかぎらず、ほかにも鳥居のある寺院はいくつも存在するのだ。

つまるところ、鳥居とは「於不葺御門」、つまり屋根のない門と考えれば良いだけのことではないか。そう理解すれば、お寺に鳥居があっても何の不思議もない。

そういえば「門」という字は鳥居に似ているような気がする。

鳥居のことをいろいろ調べていると、青い鳥居のある神社が存在するようだ。ネットで画像を検索するといろんな神社が出てくる。この画像は、知多半島にある恋の水神社の鳥居だが、ちょっとチープな印象を受けるのは私だけだろうか。



やはり鳥居は朱色が良く似合うと思う。
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Coach Outletさん、はじめまして。

振り返れば大学時代が私の英語力のピークでしたが、その時ですら読むほうも書く方もダメでした。それから社会人になって、英語を使う仕事はほとんど経験しなかったので、英語の力は落ちる一方です。
せっかく書き込んで頂いたのですが、前半の意味はわかっても後半の文章の意味はあまりよくわかりません。

こんな短い文章ですらまともに読めない私に、英語のサイトはとても読む力がありませんので、とてもCoarch Outletさんのご期待に添えそうもありません。
どんなカタコトでもいいですから、日本語でコメントしていただければなるべくわかりやすく、コメントをお返しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。 



高知からの帰路は讃岐うどん目当てに屋島と栗林公園へ~~四国旅行3日目

2010年06月03日 | 香川県歴史散策

松葉川温泉で朝食後、窪川あたりで大変お世話になった親戚と別れて、高松に向かう。 
予定では昼前に高松に着いて昼食はもちろん讃岐うどんだ。

讃岐うどんは有名な店が多すぎて行くところを迷ったが、昼頃に到着する計算になるのでどこに行っても混む時間帯に入ってしまう。駐車場のない店や狭い店舗は待ち時間がもったいないので、観光地に近くて駐車場の大きいうどん屋を選ぶしかない。高松の観光は初めてなので、まず屋島にいくこととして、屋島の近くで駐車場が大きくて評判の良さそうな店を旅行前にネットで検索して「わら屋」に行くことにした。

  「わら屋」は四国の古い民家を集めた「四国村」の門前にあり、「わら屋」の建物も、本棟は徳島県西祖谷山村から、東棟は香川県内から移築してきたかやぶき屋根の民家である。ここの駐車場は「四国村」の駐車場も兼ねているものの、200台近くのスペースがあることも安心感がある。



「わら屋」の入口は上の画像の通りで、このような雰囲気で讃岐うどんが楽しめるのが良い。有名な店だけあって、お遍路さんも何人も食事しておられた。

この店は釜揚げうどんが評判で、周りを見ると大きなたらいに10玉入った「家族うどん」にチャレンジしているグループが多かったが、こちらは家内と二人なので単品ずつの注文。いつも食事が運ばれてきたらブログ用に写真を撮るのだが、この時はうどんが来るなりすぐに食べだしてしまった。打ち立ての麺はコシがあって、だしも旨くてすんなり胃袋に収まった。

「わら屋」の食事の後は、屋島ドライブウェイを走って屋島寺に向かう。ドライブの途中で源平の古戦場が見渡せるところがある。



「屋島の戦い」で平家は、この入江の入口に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えたと伝えられるが、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、大軍が来たかに見せかけ、浅瀬を渡って奇襲攻撃をしたとされる。
「平家物語」では平家は安徳天皇と建礼門院を奉じて、船で壇ノ浦に逃げて最後は二位の尼とともに入水することになるのだが、3月に旅行した祖谷には安徳天皇や平家が隠れ住んだとされる武家屋敷などがいくつも残されていることをこのブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html 

祖谷の伝説では屋島の戦いの後、平国盛一族は安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国吉野川に出て南岸に渡り、祖谷に辿り着いたとされているが、安徳天皇については、祖谷以外でも四国や九州を中心に全国で20箇所ほどの伝承地がある。大阪にも能勢の来留見山の山頂に安徳天皇の陵墓があるそうだ。

源氏と平家の情報戦であるから、どれが真実か、どれが替え玉かはさっぱり分からない。鎌倉幕府が編纂した歴史書である「吾妻鏡」には、壇ノ浦の戦いについて安徳天皇のことは何も書かれておらず、通説は「平家物語」の内容をそのまま採用しているが、これは平家滅亡後数十年後にまとめられた「物語」にすぎず、真実も含まれるが創作が多いと考えてよい。

頂上の駐車場に車を止めて、四国霊場第84番札所の屋島寺に進む。 この寺は天平勝宝6年(754)に来日した鑑真が、大宰府から難波に向かう途中で屋島の山上に瑞光が見えたので船を止めて屋島の北嶺に登り、仏像や経典を納めて開基し、後に弟子の恵運律師が堂宇を整備して初代の住職になったとされる。



弘仁6年(815)にこの地を訪れた弘法大師は、嵯峨天皇の勅願により一夜のうちに本堂を建立し、十一面千手千眼観世音を刻んで本尊として安置したとされる。その後山岳仏教の霊場として栄えたが、戦乱で衰退し、歴代の藩主の尽力により修復され現在にいたっている。



写真の本堂は鎌倉時代末期に建立されたとされ、国の重要文化財に指定されている。また本尊は十一面千手観世音菩薩でこれも国の重要文化財だ。

屋島寺宝物館にも入ったが、ここには源平盛衰記絵巻物、屋島合戦屏風や平安時代の薬師如来坐像などが展示されていた。

屋島を抜けて、最後の観光地である栗林公園に向かう。
栗林公園はもともと当地の豪族であった佐藤氏によって元亀・天正の頃(1570年代)から築庭されたのにはじまると言われ、その後寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642)入封した松平頼重公に引き継がれ、以来5代100余年の間、歴代藩主が修築を重ねて延享2年(1745)に完成した回遊式庭園である。 
明治4年に高松藩が廃され、新政府の所有となり、明治8年に県立公園として一般公開され、現在にいたっている。

さすがに旅行3日目で疲れていたので、讃岐民芸館などの展示物は見ずに、60分モデルコースを早足で歩くこととした。
園内の広さは23万坪で、国の特別名勝に指定されている公園の中では最も広いそうだ。



松の緑濃い「紫雲山」を背景に、6つの池と築山を巧みに配しており、歩きながら少しずつ変化する景色を楽しむ事が出来る。高松市の中心部にあることを忘れ、美しい山と池と木々の緑を見るだけで充分に癒される時間だった。


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