しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

七夕の由来

2010年07月06日 | 日本の四季の行事と伝統文化

いよいよ明日は七夕の日だ。



子供の頃に五色の短冊に願い事を一生懸命書いたが、折角作った短冊が何度か雨で濡れてしまい、楽しみにしていた星空を見ることができなかった記憶が何度かある。よくよく考えると、七夕の日に梅雨が明けていることは考えにくく、この日に雨がよく降って星空の見える日が少ないのは当然のことである。

しかし仙台では8月6~8日に七夕祭りがある。仙台に限らず北海道や関東では1カ月遅れで七夕を祝う地域が多いようだ。なぜ同じ行事を異なる時期に行う地域があるのだろうか。



それは、我が国が明治6年に太陰暦から太陽暦に切り替えられた際に、この行事を新暦で行うか旧暦のその日に近い日を選んで行うか、地域によって分かれたということがその理由のようだ。

七夕についていろいろ調べていくと、明治政府が面白い布告を出している。
ちょうど太陰暦から太陽暦に変わった明治六年の1月4日の太政官布告で
「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」と七夕を廃止して神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日:11月3日)を祝日とすると記されている。

「五節」とは「五節句」のことで、人日(じんじつ:1月7日)、上巳(じょうし:3月3日)、端午(たんご:5月5日)、七夕(たなばた:7月7日)、重陽(ちょうよう:9月9日)を指すが、毎年これらの日は季節の節目として、古くは朝廷にて「節会(せちえ)」と呼ばれる行事が行われ、江戸時代には幕府が公的な行事・祝日と定めていたのだが、これを明治六年の太陽暦導入とともに廃止したということである。

公式行事や祝日として七夕はなくなってしまったが、もともと民衆の間に根付いたものはそう簡単にはなくならず、この時期に新暦の7月7日で行うこととした地域と、旧暦の7月7日に近づけるために1か月遅れで実施する地域とに分かれたということなのだ。

ところで「七夕」は俳句では秋の季語であるのだが、このことは旧暦を知らなければまず理解できない。
旧暦の7月7日は太陽暦の8月半ばに相当し、立秋を過ぎている時期になることを知ってはじめて秋の季語であることが腑に落ちる話だ。(ちなみに、今年の「旧暦の7月7日」は8月16日。太陰暦では七夕の日は毎年上弦の月となる) 

太陽暦しか知らない我々には、旧暦を使っていた時代の俳句や和歌の季節や情景を誤って理解してしまっていることが少なくない。
たとえば松尾芭蕉の有名な「五月雨を集めて早し最上川」は、旧暦の五月は梅雨の時期であることを理解しないと、芭蕉の伝えようとした情景が伝わらないのではないか。「五月晴れ」という言葉も、今は快晴イメージが強いが、旧暦では梅雨の晴れ間を意味する言葉なのだ。

太陽暦の採用は、日本の伝統行事に様々な影響を与えたことは想像に難くない。あまり知られていないが、「お盆」は、明治5年までは太陰暦の7月15日が「お盆」だったようだ。ということは、七夕とお盆とはわずか8日間の違いしかないことに気付く。
太陰暦の時代では、七夕が終わればすぐにお盆という感覚であったはずなのだが、こんなことは調べて初めてわかる話だ。Wikipediaでは、太陰暦の時代は、七夕はお盆の行事の一環であったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95 

「七夕」は「棚幡」とも書くが、そもそも七夕の日の夕方には故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡を拵えることから、「棚幡」がいつしか「七夕」に転じたとも言われる。またお盆の間に、僧侶に読経してもらい報恩することを「棚経参り」というが、これは精霊棚で読むお経が転じて棚経というようになったそうだ。

しかしながらこの「七夕」の説明は、現代人の知る「七夕」とは内容が違いすぎる。織姫と彦星の七夕伝説や五色の短冊に願い事を書くのとどう結びつくのか。

ネットでいろんな人が解説している内容をまとめると、七夕伝説は日本に古くから伝わる棚織津女(たなばたつめ)の物語と、中国の牽牛星と織女星の伝説が合わさってできたと考えられる。
日本の棚織津女(たなばたつめ)の物語とは、村の災厄を除いてもらうために、棚織津女が機屋(はたや)にこもって、天から降りてくる神の一夜妻になるという巫女の話。
中国の伝説は、夫婦であった牽牛と織女が天帝の機嫌を損ねて、天の川をはさんで引き離されてしまい、一年に一度だけ天の川にかかる橋で会うことを許されたという話である。

この機織りに秀でた織女にあやかり、織女星に機織りや技芸の上達を願い、庭に祭壇を設け、糸や針、布などを備えた「乞巧奠(きっこうてん)」という行事が奈良時代に中国から伝えられたらしく、この行事に用いられたと思われる大きな針が、正倉院の宝物に残されているそうだ。また万葉集にも山上憶良をはじめ七夕を歌った歌が132首もあり、その頃はすでに七夕伝説は一般に知られていたことは明らかである。

京都の冷泉家では今なお王朝の名残をとどめる七夕行事が行われておりその写真が次のURLで紹介されているが、今の七夕行事とは随分異なることがわかる。
http://www.iz2.or.jp/rokushiki/7.html 



写真は冷泉家が毎年旧暦7月7日に庭に設ける「星の座」である。笹は使うようだが、五色の短冊で飾るのではなさそうだ。

このような宮中の行事であったものが、一般庶民に広がっていくのは江戸時代の半ばごろと言われている。織物などの手習い事に長けていた織姫にあやかろういうことで、手習いごとの願掛けとして広がっていったそうだが、このような風習は日本だけのものだそうだ。その頃に、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を仕掛けるような知恵物が日本にいたのだろう。



上の絵は安藤広重の「名所江戸百景」にある「市中繁栄七夕祭」である。制作年代は安政3~5年(1856~1858)で、幕末に近い頃の江戸の風景であるが、当時の七夕飾りは随分大きい竹を使っていたことに驚いてしまう。願いが天まで届けと、どこの家も大きなものを用意したのであろうか。

子供の頃に五色の短冊にいくつもの願い事を書いたことを覚えているが、自分なりに一生懸命綺麗な字を書こうとしたし、友達に笑われないよう、願い事に何を書くかもそれなりに考えたと思う。七夕の伝統を「非科学的な話」と切り捨てるのは簡単だが、子供が本気になって綺麗な字を書こう、自分の夢を書こうとする機会をなくしてしまうにはもったいない話である。こういうおおらかな行事を失ってしまえば、子供にとっては幼いころからギスギスした競争社会ばかりになってしまう。

残念ながら、大気汚染や夜の照明で、天の川どころか星も見えない空になってしまった。ミシンやパソコンや電卓などの普及で、「習い事」の多くが消えてしまった。住宅地から自然が消えて笹や竹が手に入りにくくなり、学校の近くにあった文房具屋の多くが廃業して、子供が「色紙」を買うのも簡単ではなくなった。
いずれは衰えていく運命にある風習なのかもしれないが、子供のために、長く残していきたいと思う。 
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BLOGariコメント

こんにちは。

久しぶりです。いつも為になる話を楽しく読ませていただいています。

これで判りました。そうだったのか!!

毎年、盂蘭盆会大施餓鬼法要にお寺に行っていました、今年ももうすぐです。供養の食べ物の周りに新盆を迎える方の位牌を並べ、四方に竹に短冊を付けた飾りを立て、まるで「七夕飾り」のようだと思っていました。
七夕とお盆は密接な関係が有ったのですね。

今年も行きます。もっと良く見てこようと思いました。
 
 
いつも良く読んでいただき、ありがとうございます。

私も七夕とお盆とが日が近い事に最近になってやっと気がついて、調べると関係があることがわかったのですが、施餓鬼法要もお寺によって7月に行うところと、8月に行うところがあるのも七夕によく似ています。旧暦の時代には施餓鬼法要は7月15日と決まっていた行事です。

hansanさんのブログもたいへん素敵なブログですね。以前は関東で勤務したこともありましたが、子供が小さかったので遊びに行くといっても、公園のようなところが多かったと思います。神社仏閣はほとんど行きませんでしたが、神奈川県にもいいところがいっぱいありそうですね。

これからもhansanさんのブログを時々訪問して勉強させていただきます。 

 



葵祭りの由来について

2010年05月14日 | 日本の四季の行事と伝統文化

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。



上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html 

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html 

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/ 

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。



平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。) 

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。


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端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か

2010年05月03日 | 日本の四季の行事と伝統文化

端午の節句が近づくと、どこのスーパーに行っても「ちまき」と「柏餅」が店頭に並べられる。



子供の頃端午の節句の日に友達の家に遊びに行って「ちまき」をごちそうになって帰ることがあった。京都にある実家は忙しくて「ちまき」を作ることは一度もなかったが、当時は近所で「ちまき」を作る家が結構あって、お裾分けしていただくことがよくあった。

しかし、小さい頃に京都で私が端午の節句で食べたのは「ちまき」が大半で、「柏餅」を食べるようになったのはもう少し大きくなったからのような気がする。

そもそも端午の節句に「ちまき」や「柏餅」を食べるようになったのはいつの時代からなのだろうか。またその由来は何なのかがちょっと気になって調べると、次のサイトなどに結構詳しく書いてある。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20080421A/index2.htm
しばらく引用すると、
「今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われ…国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったそうです。その日が5月5日です。」



「国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(*れんじゅ)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。(引用終わり)」
(*楝樹とはセンダンという香りの強い木らしいが、日本では今では「ちまき」は笹で巻かれている。) 

これが「ちまき」の始まりとなって、中国では5月5日に「ちまき」を作って災いを除ける風習ができ、端午の節句となって「ちまき」とともに日本に伝来したらしい。

Wikipediaによると平安時代中期に編纂された辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「和名知萬木」と言う名の記事があり、もち米を植物の葉でつつみ、これを灰汁で煮込むという製法が記載されており、当時は灰汁の持つ殺菌力や防腐性をもちいた保存食であったようだ。これが長い年月をかけて次第に変化していったもののようである。

また江戸時代の元禄10年(1697)に書かれた「本朝食鑑」には4種類の「ちまき」が紹介されており、そのうちの1種類は和菓子としての「ちまき」の原型と考えられている。いずれにせよ中国から伝わった「ちまき」が、国内でかなり変化遂げながら、端午の節句に食べる伝統のお菓子としての「ちまき」を食べることが続いているということで、昔のものがそのまま伝わっているわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

では柏餅はどうかというと、これは日本独特のもので、江戸時代の江戸に生まれたものだ。

柏餅を包む柏は新しい葉が生えないと古い葉が落ちないことから、「子供が生まれるまでは親は死なない」すなわち「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びついて、男の子のお祝いである端午の節句に縁起のいい食べ物となったということだそうだ。

というわけで、江戸文化を反映して全国に柏餅が広がっていき、上方では伝統を重んじて「ちまき」が伝承され、江戸時代の幕末には関西で「ちまき」、関東で「柏餅」を食べることがほぼ定着し、今でも関西で「ちまき」、関東で「柏餅」が親しまれる傾向にあるというのである。

これで私の子供の頃に京都の実家で端午の節句に「ちまき」を食べることが多かった謎が解けた。

関西と関東の文化が融合して、最近ではどこのスーパーでも「ちまき」と「柏餅」が店頭に並ぶようになった。グルメの私にとっては東西文化の融合は大変ありがたく、今年も両方をいただくことにしよう。
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BLOGariコメント

おはようございます。
「ちまき」と「柏餅」のルーツが良く分かりました。
私は東北生まれの関西育ちですが、どちらかと言うと柏餅の方が好きですね。
 
 
やまちゃんさん、コメントありがとうございます。

ゴールデンウィークも今日が最終日なりました。昨日はちまきを食べて、今日は柏餅を買ってきました。

子供のころ京都ではちまきをいろんな家で頂いて、一人で毎年何本も食べましたので、ちまきには愛着があります。
確かに柏餅の方が、餡が入っていて美味しいですね。 



端午の節句と「鯉のぼり」

2010年04月29日 | 日本の四季の行事と伝統文化

もうすぐ端午の節句(5月5日)だ。子供の頃、4月の下旬にもなると、自宅近隣のあちこちの家で「鯉のぼり」が屋根の上を泳いでいた。



私の実家のお寺も、この時期は祖父や父が、何年も使ってきたであろう太くて長い竹を取り出して、毎年兄と私のために大きな「鯉のぼり」を毎日立ててくれたことを思い出す。

子供のためとはいえ、大きな鯉のぼりを毎朝立てて毎夕片づけることは簡単なことではなかったはずである。雨が降りだせばあわてて片づけなければならなかったので母も大変だったと思うが、近所の家のどこよりも大きく、どこよりも高く「鯉のぼり」が毎日泳いでいることが、子供の頃の私にとっては誇らしく思えた。

言葉をあまり使わないで、鯉のぼりや兜などで喜ばせながら子供をたくましく育てていく日本の伝統や風習の良さを感じて、最近になって端午の節句の由来を調べた時は驚いてしまった。

端午の節句は男子のお祭りとして相当古くから続く伝統行事だとばかり思っていたが、もともとは女の子のお祭りだったらしいのだ。

飯倉晴武氏の「日本人のしきたり」という本によると、「…田植えが始まる前に、早乙女と呼ばれる若い娘たちが、「五月忌み」といって、田の神のために仮小屋や神社などにこもってケガレを祓い清めていたのです。つまり、この日は、田の神に対する女性の厄払いの日だったのです(68p)」とある。

面白そうなので、ネットで「五月忌み」を調べると、結構詳しく書かれたサイトが見つかった。
http://www.bite-japan.com/kako/saijiki05-j.html 

「稲作が生活の中心だった当時の日本では、田植えは1年の中で最も重要だと考えられていました。その頃、田植えを行うのは生命を産み出す女性の役目で、田植えが始まる前の晩には早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘達が、仮小屋や神社などにこもって、田の神様(稲の神様)のために穢れ(けがれ)を祓い(はらい)、身を浄(きよ)めたと言われています。こうした儀式を「五月忌み(さつきいみ)」とか「忌みごもり(いみごもり)」と呼ぶんだそうです。

このような風習はおそらく、桜の咲く頃に山から里に降りて来た山の神様(田の神様、稲の神様)を、田植えを前に田んぼに招き入れるための儀式だったのではないでしょうか。その頃、山の神様は春になると里に降りて来て田の神様、あるいは稲の神様になり、秋になって田に実りをもたらした後、再び山に帰って山の神様になり、冬の間は山で過ごすと信じられていました。こうした田の神様(稲の神様、山の神様)の崇拝(すうはい)は、サ神(サガミ)信仰と呼ばれるものだと考えられています。…」とある。

「サ神信仰」とは原始宗教の山岳信仰のことでいわゆる「山の神」のことである。話が長くなるので、参考までに参考になるサイトを紹介しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/540040751aa668cc19ed07a4eb379a6d 

女性の厄払いとしての端午の節句が男子の伝統行事になっていったのは平安時代の頃らしい。

平安時代には宮中では馬の上から矢を射たり、競べ馬などの勇壮な行事が行われていたが、端午の節句で厄除けに使われていた菖蒲(ショウブ)が、武事を尊ぶ「尚武」や「勝負」に通じることから、男の子が菖蒲を使って兜を作ったりして遊ぶようになって、女の子のお祭りであった五月忌みが男の子のお祭りになっていったそうである。

また、家の中に飾る五月人形は、元々は雛人形と同じように、穢れを移して川に流すための紙人形であったが、江戸時代に武士たちの間で鎧や兜などの武具を飾り立てるのがひろがり、また「鯉のぼり」は江戸時代の中頃には登場していたようで、家の中に五月人形を飾り、外には鯉のぼりを飾る風習が武士階級だけではなく商人たちの間にも次第に広まっていったそうだ。

では何故「鯉のぼり」を立てるようになったのか。中国の「龍門を登って鯉が龍になった」という登竜門の故事にあやかって、子供の出世を願うために鯉のぼりをたてるようになったのが全国に広まっていったということらしい。



上の絵は歌川広重による名所江戸百景の「水道橋駿河台」であるが、江戸時代の鯉のぼりは黒一色だったようだ。明治時代になって緋鯉と対に掲げられるようになり、子鯉も一緒に掲げられるのは昭和になってからだそうだ。

最近では、この時期に鯉のぼりを見ることが随分少なくなった。今日、通勤途上で「鯉のぼり」を探してみたのだが、マンションのベランダに立てかけられた小さいものをひとつ見つけただけだった。

大きな家が減り、核家族になって若い世代がマンションや団地に住み、少子化が進んでいるうえに共稼ぎの世帯が増えれば仕方のないことかも知れないが、私の場合は鯉のぼりを通じて親の愛情を感じ、雄々しく泳ぐ鯉のぼりを見て感じるものがあったような気がする。

親ならば誰しもわが子が健康でたくましく育ち、将来は大きく出世してほしいことを願う。しかしそのことを言葉で何遍言っても子供が育つものでもなく、親の気持ちが伝わるものでもない。ましてお金を子供に与えたのではそのような大事なものはますます伝わらなくなるのではないか。子供に与えるべきものは大きな希望であり夢であり智恵であって、断じてお金ではない。

言葉では伝えにくいものをさりげなく小さい子供に伝えていくヒントが、日本の伝統行事や風習の中に沢山ちりばめられているような気がするのだが、戦後になってこのようなものを切り捨て過ぎてはいないだろうか。

以前にも書いたが、長い年月をかけた成功体験の蓄積により培われた日本の伝統や風習を、もう少し振り返るべき時期が来ていると思う。



家庭では鯉のぼりを使わなくなって、このように観光地などで活用されている。活用されることは悪いことではないが、このような田舎の地で鯉のぼりを屋根より高く泳がすことのできる場所であるならば、親の心と幼い子供の心とをつなぐものを家庭に残して、次の世代のために引き継いでいってほしいものだ。
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「おはぎ」と「ぼたもち」の違い

2010年03月21日 | 日本の四季の行事と伝統文化

最近いろんなお店で、「おはぎ」が沢山店頭に並べられている。今日は「お彼岸の中日」で、彼岸の時期に「おはぎ」を食べるのは日本古来の伝統である。



私の京都の実家はお寺で、春や秋の「お彼岸」の法要には毎年沢山の檀家の方々が集まり、昔は集まった皆さんのお昼の食事を、婦人会の方々が手分けして作って振る舞われておられたことを良く覚えている。

そしてこの時期に必ず用意されるのが粒あんで丸く作られた「おはぎ」なのだが、子供のころにこれを「おはぎ」と言うと婦人会の人に「ちがう、『ぼたもち』や」と言いかえられたか、「ぼたもち」と言って「ちがう、『おはぎ』や」と言いかえられたかどちらか記憶が定かではないが、とにかく「おはぎ」と「ぼたもち」とはどこがどう違うのかが良く分からなかった記憶がある。

子供の時にきちんと婦人会の人に聞いておけば良かったのだが、だんだん聞くのが恥ずかしいような年齢になってしまって、良くわからないまま過ごしてきた。

誰でも疑問に思いながら、大人になると聞くことが恥ずかしくなって、知らないままに過ごしていることがいくつかあるのだと思うのだが、こういうことは今はパソコンで検索すれば恥ずかしい思いをしないでいろんなことを容易に知ることができる便利な世の中になっている。

私が「おはぎ」と「ぼたもち」との違いを正しく知ったのは最近の事なのだが、正解は春のお彼岸に食べるのは「ぼたもち」で秋のお彼岸に食べるのは「おはぎ」で、ただ季節により呼び方が変わるだけである。

両者の違いは、外側の餡が粒餡かこし餡かの違いだとか、中が搗いた餅かどうかの違いだかいろんな説明を聞いたことがあったが、子供の時に実家の婦人会の方に作っていただいた「おはぎ」と「ぼたもち」は外見も中身も全く同じあったので腑に落ちなかった。

最近になって、たとえば次サイトの文章を読んでようやく永年の疑問が解消した次第である。
http://allabout.co.jp/career/dictionary/closeup/CU20010905/index.htm

上記の文章によると、「おはぎ」は萩、「ぼたもち」は牡丹が咲く季節と関係している。また、夏や冬にはまた別の名前があることも紹介されている。夏は「夜船」、冬は「北窓」とい言い、いずれも「搗きしらず」、すなわちいつ作ったのか分からないことをひっかけて名づけられているのだが、詳しくは是非上のサイトを参考にしてください。

昔の人は季節の野菜や果物を食し、お菓子まで季節によって名前を変えて、季節の風情を味わっていたということは素晴らしいことではないか。

しかしなぜお彼岸に「おはぎ」や「ぼたもち」を食べるようになったのか。

いろいろ調べると、永田久さんが「年中行事を「科学」する」という本の中で、次のように説明しておられることがわかった。

「ぼた餅」は、日本古来の太陽信仰によって「かいもち」といって、春には豊穣を祈り、秋には収穫を感謝して、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日に神に捧げたものであった。それが、彼岸の中日が春分、秋分であるいう仏教の影響を受けて、彼岸に食べるものとなり、サンスクリット語のbhuktaやパーリ語のbhutta(飯の意)が、「ぼた」となり、mridu、mude(やわらかい)が「もち」となって「ぼたもち」の名が定着したのである。(日本経済新聞社刊 P97)

なんと「ぼたもち」とは日本語ではなく、サンスクリット語やパーリ語だったとは面白い。

こんなことを調べながら、今日のドライブで立ち寄った亀岡市内の店で買ってきたのは本来は「ぼたもち」と呼ぶべきなのだが、パックには「おはぎ」と書いてあった。
日本全国で「おはぎ」と「ぼたもち」の違いが伝承されておらず、季節をめでる風習が消えかかっていることを痛感しつつも、日本茶とともにいただいた手作りの亀岡の「おはぎ」は旨かった。
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「お彼岸」で先祖を祀るのは仏教以前の風習か

2010年03月17日 | 日本の四季の行事と伝統文化

もうすぐ春分の日だが、この日を挟んで前後三日ずつの一週間を「春のお彼岸」といい、今年の春の「彼岸の入り」は3月18日で、「彼岸の明け」は3月24日だ。
同様に秋分の日を挟んだ一週間を「秋のお彼岸」と言い、今年の秋の「彼岸の入り」は9月20日で「彼岸の明け」は9月26日となる。

「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉だが、仏教では煩悩を脱した悟りの境地に達した事を言い、煩悩や迷いに満ちた現世の事を、こちら側の岸「此岸(しがん)」という。

何故「お彼岸」に仏事をするようになったのだろうか。この時期に仏事を行うのは仏教国多しといえど日本だけだそうだ。

春分の日や秋分の日は丁度昼夜の長さが同じで太陽が真西に沈む。仏教の浄土思想では「西方極楽浄土」といって阿弥陀様が治める極楽浄土は西方のはるかかなたにあると考えられている。そこで、太陽が真西に沈むこの時期に、遥かかなたの極楽浄土に思いをはせたのが、「彼岸会」の始まりと説明されている。

しかし、何故日本だけなのだろうか。何故御先祖様をこのお彼岸の間にお参りするのだろうかと考えると、よくわからなくなってくる。何となく太陽信仰のようなものを感じたりもする。



では、「彼岸会」はいつごろから始まったのであろうか。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると「推古天皇の時(593)、聖徳太子が四天王寺を建立されて、東門より西門を通じて極楽浄土を欣求する道を開かれたことにはじまるといわれています」(P341)とある。仏教伝来が538年とか552年とか言われているが、日本しか行われていない「彼岸会」が始まった時期にしては少し早過ぎはしないか。ひょっとしたら、日本の古来から春分の日や秋分の日にこのような風習があったのではないか、と思ってネットで調べてみると、いろいろ面白い記事が見つかる。

たとえば、「西野神社社務日誌」にはこんなことが書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070920

「…日本では大陸から仏教が伝来する以前から、固有の信仰(神道)によって御先祖様をお祀りする年中行事が営まれており、特に彼岸には太陽を崇拝する行事を行う所が多かったと云われています。例えば、丹後(京都府)や但馬・播磨(兵庫県)などの地方では、春分の日の朝は「日迎え」といって東の堂に集まり、昼は南の堂に移動し、夕方には「日送り」といって西に集まって拝むという風習がありました。つまり、一日中太陽のお供をして歩くのです。

また、熊本県や鹿児島県では「彼岸籠もり」といって、春・秋それぞれの彼岸の頃に山登りを行って御先祖様をお祀りするという風習があり、秋田県でも、子供が山に登って「万灯火」という火を焚いて御先祖様をお迎えするという風習があります。これは、山という所が、田の神が下界へ降りてきたり帰っていったりする神聖な場所であると同時に、御先祖様の霊が宿っている所であるとも考えられていたからです。…(引用終わり)」

と、なかなか面白いことが書いてある。

また別のサイトでは、「彼岸」は「日願」という説もあると書いてある。
http://www.ffortune.net/calen/higan/higan.htm

しかし、この時期に先祖をおまいりするのが日本古来の風習だとするならば、何故正月や節分のように神社でずっと行事が執り行われてこなかったのか。「彼岸会」が一般民衆に広がって各地の寺院で法要が営まれるようになったのは江戸時代だといわれているが、それまでは先祖をどのようにお祀りしていたのであろうか。



毎年春分の日や秋分の日には、毎年宮中の皇霊殿で歴代の天皇の霊を祀る春季皇霊祭や秋季皇霊祭を執り行われ、全国の神社で皇霊遥拝式がなされるが、この儀式は明治政府が明治11年に廃仏毀釈の流れの中で始められたものであり、それほど古い歴史があるわけではない。
神道の考え方では死とは穢れであり、神の聖域である神社で先祖の霊を祀る発想は明治まではなかったのではないか。神葬という神道の葬式が始まったのは明治五年だ。その2年後に明治政府は寺院の葬式を禁止しているが、さすがにこのことは徹底できなかった。

彼岸で先祖を祀るのは本来神社の行事と考える人もいるようだが、この考え方には無理がある。日本古来の風習がそのまま仏教にとりこまれたのではないだろうか。民衆は太陽に祈って、長い間先祖をお祀りしてきたのかもしれない。

これからも、祖先を敬いなくなった人を偲ぶ日本の良き伝統は、末永く続いてほしいと思う。 
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節分の不思議

2010年02月03日 | 日本の四季の行事と伝統文化

子供の頃に家族と京都にある吉田神社の節分に行ったことがある。私の実家はお寺なのだが、節分の日は行事らしきものがなかったので、それ以来長い間、節分は神社の行事だと思っていた。
高校の時に、壬生寺などお寺で節分の行事を行うところがあることを知った。京都では壬生寺の他にも、六波羅蜜寺、廬山寺などのお寺で節分の行事がとりおこなわれている。一方、神社では、吉田神社、上賀茂神社、下鴨神社、伏見稲荷大社などでも節分の行事が行われている。
「節分」はなぜ、お寺でも神社でも行われているのか興味を覚えていろいろ調べたことがあったがその時はあまりよくわからなかったし、節分行事に神道とも仏教とも異質なものを感じた。

「節分」について、どこにでも書いてある内容は、
「節分」とは季節の変わり目のことで、正しくは立春・立夏・立秋・立冬の前日の4回あること。
各季節の終わりの18日間は「土用」と言われ、季節の変わり目で体調が不安定になりやすく、特に冬の時期は鬼門が開くと言われて、鬼が出没して人間界に悪さをすると考えられてきたこと。
これを封じるために、豆まきをして鬼を追い払い福を招く、あるいは鰯の頭を柊の枝にさして門戸に立てて邪気の侵入を防ぐというのだが、古代中国の「追儺(ついな)」といわれる厄祓いの行事が、日本に入って宮廷の越年行事として迎えられ、朝廷での追儺は陰陽師によって行われたということなどである。

古代中国では「鬼」が出てくることはないが、なぜ日本の行事では「鬼」が出てくるのか。なぜ「豆」が出てくるのか。なぜ、神社でもお寺でも行事が行われるのか。

中国の「五行説」によると季節と方角との関係が記されており、冬と春の間の「節分」は方角で言うと東北を指すそうだが、東北の方角は日本では「鬼門」と言われるので、鬼が出てきたという説もある。では、何故東北の方角を「鬼門」と呼ぶようになったのかがわからない。

また何故炒った豆を撒くことが、邪気を追い払うことにつながるのか。「豆」は「魔目」あるいは「魔滅」と解釈し、豆を持って鬼の目を潰し魔を滅するという説が有力だそうだが、どうもしっくりこない。何故年齢の数プラス1個の豆を食べるのかもよくわからない。

何故神社でもお寺でも行事が行われるのかについては、明治以前は、神社もお寺も神仏習合で境目がなかったと理解すれば少しは理解しやすい。旧暦で言えば、「節分」は「正月」と同じようなものだ。正月にお寺に初詣する人は神社ほどではないが、少なからずおられる。それと同じだと考えれば良いのではないか。

しかしながら、「鬼は外、福は内」などというのは、仏教の考え方とは何か違和感があるような気がする。仏教の考え方では、簡単に福が来るのではなく、それなりの努力をして福が来るとするのが普通ではないかと。

そんなことを考えて色々調べると、成田山新勝寺では「福は内」だけを唱えて、「鬼は外」を言わないらしい。東京の亀戸天神では逆に「鬼は外」しか言わないとのことである。雑司ケ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」、奈良県吉野山の蔵王堂では「福は内、鬼も内」、京都福知山の大原神社では「鬼は内、福は外」と言うそうで、どういう経緯でそう唱えるかはよくわからないが、日本全国のお寺や神社でいろんな節分があるようである。 
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コメント
おはようございます。
さすがですね。
私は、ただ単に巻き寿司を西南西の方を向いて齧り付いただけでした。
勉強になりました。
 
 
いつも大変興味深く読ませてもらっています。

「福は内」のほかに「鬼は内」など有るのですか。全く知りませんでした。
関東でも、最近は恵方巻を食べるようになりましたが、これも何か因縁が有るのでしょうね。
 
 
神戸の頑固じいさん、こんばんわ。
コメント頂き、ありがとうございます。とても励みになります。
お孫さんとても可愛いですね。

hanasanさん、はじめまして。
コメント、ありがとうございます。熱海ではもう桜が満開なのですね。

恵方巻きの話題がでましたが、子供の頃に節分で恵方巻きをかぶりついた記憶は私にはなくて、大阪出身の家内にもそのような習慣はなかったようです。

いろいろ調べると、大正期に大阪の花街で流行ったことが、何度か復活し、昭和52年に海苔業界がイベントを組んだことがマスコミで取り上げられてから年々拡大していったようです。
コンビニが売り出したのは、平成元年ですからかなり最近ですね。(他にもいろんな説があるようですが、要するにバレンタインのチョコレートと同じようなものですね。)

こんなサイトが参考になると思います。

http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20060124A/index2.htm

http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20070123A/index.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86

これからも、よろしくおねがいします。
 
 
返信ありがとうございます。

恵方巻は関西でも新しい習慣なのですね。

いろいろと珍しい話題をありがとうございます。

私の方のblogも見ていただきありがとうございます。