しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)

2011年04月25日 | 自然災害

前回は関東大震災時における火災のことを書いたが、被害は火災ばかりではなかった。

震源に近い三浦半島から伊豆半島にいたる相模湾沿岸では、地震そのものによる家屋の被害のみならず、山崩れや土石流及び津波の大きな被害も記録されている。

まず、山崩れや土石流による被害はどうであったか。



神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)の根府川集落で、白糸川上流で発生した土石流により64戸の家屋が埋没し、406人が死亡したそうだ。上は、土石流により倒壊した根府川集落の写真である。
また、近くの熱海軽便鉄道の根府川駅では背後の山が崩れて、停車中の列車を海中に押し流して死者が300人出たそうだ。
他にも足柄下郡米神で土石流による民家埋没で死者62人、横須賀でがけ崩れによる民家埋没で100人を超えるなどの記録があるが、伊豆半島では伊豆山は山崩れでその七分を失い、多賀村、網代村の被害は激しかったとする記録だけで死者についてはよくわかっていないようだ。実際は、関東大震災による山崩れ・土石流に起因する死者が1000人近くいたと考えられている。



現在のJR根府川駅近くの岩泉寺というお寺に『大震災殃死者供養塔』が大正14年に建立されそこには
「大正十二年九月一日午前十一時五十八分俄然大震災アリ同時ニ山津波起リ老若男女二百餘人殃死セリ甚タ悲惨ノ至リニ堪ヘス茲ニ遺族一同共ニ丹梱ヲ協セ殃死者菩提ノ為大供養塔ヲ建立シ以テ永ク精霊ヲ祭ル者也」
と彫られているそうだが、死亡者数が「二百餘人」というのは、他の記録と比べれば少なく見える。また、なぜ伊豆半島の被害については記録らしいものが残されていないのが意外である。この問題はあとで考察することにして、次に津波のことを書こう。

この時の津波の高さは沿岸部一帯で低い所で2~4m、神奈川県の逗子で6~7m、静岡県の伊東で5~7m、熱海で12mとの記録があり、東京湾の津波は0.3~0.8m程度だったそうだ。

東京では津波襲来の流言が想像以上の早さで流布してパニック状態になった話を昔読んだことがあるが、結果として東京湾の津波は小規模で良かった。
津波の被害が大きかったのは東京都よりも神奈川県や静岡県である。

以前このブログで紹介した山下文男氏の著書『津波てんでんこ』に、『神奈川県震災誌』という本が紹介されている。

「津波は地震後約二十分後に鎌倉町、腰越津村、川口村の海岸を襲い、鎌倉町乱橋材木座に於いて家屋三十戸、長谷稲瀬川川尻に於いて二十四戸、同坂ノ下に於いて二十六戸流出し、以上の各所を通じて溺死三十名を出せり。なお当時は由比が浜海岸に於いて海水浴をなしいたる者百名内外ありしが、その生死は明らかならず。腰越津村には、七里ガ浜県道護岸十町が震災により大破し、更に海嘯の襲来を受けて壊滅し、これがために民家の倒壊せるもの少なからず。川口村には片瀬の山本橋及び江ノ島橋の流出あり。江ノ島及び片瀬に於いて溺死七名の外、当該桟橋を通行中なりし約五十名は橋梁とともに流されて行方不明となれり」(『神奈川県震災誌』) 

これによると津波の被害者がかなり出たことは確実で、地元の鎌倉市がまとめた『鎌倉震災誌』という本には、「理学博士・中村左衛門太郎」氏の「発表」として、由比が浜の海水浴客についてはこう書いている。

「この日天候不良のため海水浴をする者ほとんどなく、また海岸にいたものも地震に脅え、引き続く海嘯の襲来を予知することができたので、何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった。」(『鎌倉震災誌』) 

同じ場所で起こったことを書いているはずなのだが、なぜ『神奈川県震災誌』と『鎌倉震災誌』の記述内容が異なるのか。

別に『大正震災誌』という本には「折から海水浴に出かけていた老若男女三百名は波にのまれて行方不明になった」と書かれており、『藤沢市史』でも、「…大つなみの襲来は、湘南海岸各村に深刻な被害をもたらした。鎌倉、腰越とともに川口村もその対象となり、江ノ島桟橋の通行者約五〇名と、片瀬海岸での遊泳者七名が犠牲になった。」と書いてあり、『鎌倉震災誌』のこの部分はどう考えても不自然だ。

『鎌倉震災誌』には、鎌倉町の被害は全壊1455戸、半壊1549戸、埋没8戸、津波流失113戸、全焼443戸、半焼2戸、死者412名、重傷者341名なのだが、震災前の鎌倉町の全戸数は4183戸というから大変な被害だ。



ネットで津波被害を受けた由比が浜の写真(鎌倉市中央図書館蔵)が見つかったが、この津波で江の電長谷駅や由比ヶ浜駅以南はほとんど崩壊してしまったという話はこの写真で納得できる。記録によると、鎌倉大仏で有名な高徳院にも津波が押し寄せて庫裏が全壊し、長谷寺も庫裏や大黒堂・阿弥陀堂・念仏堂・書院などが全壊したそうだ。



鎌倉の大仏は今でこそ露座の仏像であるが、当初は文永5年(1268)に完成した大仏殿の中にあった。その後何度か倒壊・再建を繰り返し、明応7年(1498)の大地震と津波で大仏殿が倒壊した後はずっと露座になった状態だったのだが、関東大震災の津波で大仏像が35.8cm前に仏像が移動した記録があるそうだ。津波は何度も鎌倉を襲っているのだ。

鎌倉町の地域別被害の実数と鎌倉大仏の被害の写真を次のURLで見ることができるが、由比ヶ浜地区の住民が74名も亡くなっているのに、由比が浜の観光客が避難して全員無事であったということはありえない。
http://www.kcn-net.org/oldnew/sinsai02.html 

もう一度『鎌倉震災誌』を良く読むと「死者・行方不明になった者は全くなかった」と書いているのではなく「…何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった」と表現しており「死者がいないとは書いていない」と言いわけが出来る文章になっている。もし、そう言うつもりで書いたのであれば、「公式記録にバカなトリックは使うな」と言いたいが、被害を小さく見せるために何らかの圧力がかかったのかと勘ぐりたくなる。

鎌倉町の津波の高さは約三〇尺(約10m)であったのだが、この高さでこれだけの被害が出ている。ならばそれよりも津波が高かった熱海(12m)の被害はどうだったのか。

静岡県の被害については『静岡県震災誌』という本が作られたそうなのだが、被災状況については具体的な数字が書かれていないようである。でもかなり死者があったはずだが、記録が残されていないようなのである。たとえば熱海についてはこんな具合である。

「…海浜に避難せる者は、再び山の手方面に逃れんとして、溺死を遂げたるもの少なからず。熱海町新浜、清水、和田の家屋は全部が海上に漂い、あるいはこれに縋り、あるいは樹木に取り付き、救助を求めるもの海陸相応じ、阿鼻叫喚の声に満つ。…また伊豆山は山崩れのために埋没してその七分を失い、多賀村、網代村もまた被害激甚を極めたること、熱海、伊東に異なることなし。」とどこにも数字がない。

以後の災害対策を考える上では、市町村の地域別に被害世帯数、犠牲者数等の正確な記録を残すことは一番大切なことだと思うのだが、なぜこの程度の記録しか残っていないのか。 以前紹介した『津波てんでんこ』で、著者の山下文男氏はこのように書いておられる。

「関東大震災の際の津波による死者数や地すべり被害=山つなみによる死者数の記録は、概して不確かなものばかりであまり明確にはされていない。
 例えばここに『土方梅子自伝』(早川書房)というのがある。これによると、当時の華族・近衛秀磨の鎌倉の自宅で、子息の英俊が「家もろともに津波に呑まれてなくなられた」との知らせがあったと記されている。こうした犠牲者は他にもかなりあったと思うのだが、それらが果たして津波による犠牲者として数えられているのかどうか?いろいろと考えざるを得ない。」

「最近は熱海の海岸などにも「津波注意」のパネルや看板が見られるようになったが、この地域が鎌倉、熱海、伊東という、全国的な温泉地であり、観光海岸であることも、長い間「津波」を語り難くし、風化を早める原因の一つになっていたように思う。1984年のことだが、筆者が「関東大震災と津波」(『暮らしと政治』)という論考を書いた折にも、熱海の観光業者の方から抗議めいた手紙をもらっている。」

あまりに多くの焼死者が出たために、火災ばかりが注目されてしまい津波や土石流の被害者の事実が注目されなかったという面もあるのだろうが、一方で津波の真実を広められては困ると考える人が少なからずいて、そういう調査をすること自体を望まなかったし、津波対策のために移転することも望まなかったのではないか。

しかし、そのために被害の大きかった地域のほとんどが、たいした津波対策がなされないまま危険な地域にびっしり家屋や商業施設などが建てられてしまっている。
直接大きな被害があった地域ですらこんな状況なのだから、他の地域も同様に、大きな津波が来ることは「想定外」で開発がなされてきたのだろう。これでは有効な地震対策をとることは困難であり、結果として数十年単位で同じ誤りを繰り返すことになるのだと思う。

大きな災害を経験した国民はこの国で未来を生きる人々に対する責任があるのだと思うのだが、関東大震災を経験した世代は火炎旋風の怖さや津波の被害の事実をどれだけ我々に伝えてくれたのだろうか。どんな教訓を残し、それが今の町づくりにどれだけ活かされているのかと思うと、今の世代にはほとんど何も伝えられていないのではないかと不安になってくる。
せめて今回の東日本大震災を機に、それぞれの地域で過去の震災被害を学び、どうすれば被害が小さくできるかのか、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考えて、できることから実行してほしいものだと思う。
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BLOGariコメント

 なるほど今になって思うとよくわかります。

 わたしは東京で勤務していたときに、ある塗料メーカーの営業担当者で神奈川県を巡回していました。

 トタン用ペイントの販売が他の関東近県より神奈川、とくに鎌倉・藤沢。などで多いのでした。理由を先輩に聞くと「関東大震災の関係で日本瓦屋根がすくないのよ。それで民家はほとんどトタン屋根だよ。東北地方同様にトタン用ペイントの需要はあるね・」とのことでした。

 担当区域が湘南でしたからそれはなるほど確認しました。一方当然津波も襲来していたはずなのに、記録が殆どありませんし、親しくしていた人たちからも聞いたことがありませんでした。

 やはりなんらかの「圧力」があったんでしょう。でも命があっての観光。何かが間違っていますね。
 
 
コメントありがとうございます。神奈川県で日本瓦屋根が少なくトタン屋根が多い事は初めて知りました。

関東大震災では、観光業者などが風評被害を抑えこむために情報の公開や調査を隠そうとしたようなところがあったと考えています。

しかし今回は、政府や保安院や東電が自らの保身のために情報を隠ぺいしたり誤った情報を伝えることが、農業・漁業をはじめあらゆる生産業者、旅館などのサービス業者に必要以上の風評被害を与えてしまっています。

今回は放射能問題が余計でした。無能な政府を選んでしまったために、安全な地域までGWにもかかわらず観光客が激減しています。今の政府がやるべき事は、ほとんどの地域は安全であることを全世界にアピールし、放射線の高い地域は土壌改良を急ぎ、人々が一日も早く普通の生活ができる基盤を取戻すことに全力を尽くすことだと思います。
 
 
 しばやんさん今度鎌倉へ行かれる機会があれば、民家を観察してください。相当古い民家でも(戦前建築されたような洋館)や日本家屋でも、殆どがトタンや屋根です。

 関東大震災は、東京での火災の被害が印象に残っていますが、実は神奈川県一帯の被害が甚大であったと思われます。確か鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居も崩れたと思います。大屋根も倒壊したのではないでしょうか。

 湘南地域の塗装屋さんは日本1豊かでした。トタン屋根の民家は10年に1度くらいは塗り替える必要があるからです。海に近いので錆も来ます。

 横須賀などは戦前は海軍工廠があり、敗戦後は米海軍基地になりましたので、基地での仕事がたくさんありました。

 それと鎌倉文士といわれるように文化人やお金持ちが多く住んでいました。それと昭和40年代以降は日本を代表する大企業がたくさん工場を作りました。

 関東大震災から随分月日が経過しました。震災を知る人はいなくなり、伝承は消えました。

 神奈川県のトタン屋根にその影響を見ることだけになりました。

 東海・東南海。南海地震が起きれば、今回の東日本大震災クラスの地震です。大津波は静岡県御前崎の浜岡原子力発電所を破壊するでしょう。横須賀の米軍基地も壊滅します。全然津波対策してません。

 みなとみらい地区もそうです。横浜市の市街地は壊滅しますね。横浜市役所も神奈川県庁も海に近く、海抜も低いので、壊滅状態になると思います。

 関東大震災から何も学ばず都市づくりをしています。
 
 
いつもコメントありがとうございます。
ネットで調べると、関東大震災で鶴岡八幡宮の楼門が倒壊した写真が見つかりました。楼門だけでなく下拝殿も二ノ鳥居も三ノ鳥居も倒壊し、死者も出ているようです。旅館も多数倒壊しています。
http://www.kcn-net.org/oldnew/sinsai07.html

結局、観光に携わる人の多い地域は、前と同じ場所で前と同じ場所に戻すこと以外に考えたくなかったのではないでしょうか。観光産業は場所を変えては成り立たない産業なので気持はわからないでもないですが、結局ほとんど何の対策もとらずに現在にいたっていることは知るべきですね。
 
 
 ご紹介のサイトの画像を見ました。鎌倉は地震での倒壊被害だけでなく、津波でも大きな被害が出ています。

 小町や材木座など、お世話になった人の店舗と住宅のある地域です。まさに壊滅的な被害を受けています。

 結局もとの同じ場所に、店舗や住宅を建てたので、それを知らない人が移住してまちを形成したのです。お世話になった人も60年ほど前に、品川から鎌倉へお父さんが移住し、店舗を開きました。

 私が住んでいる高知市二葉町も同じことです。人間はどこも同じ事をするもんです。つくづくそう思います。
 
 
抜本的な対策はよほど大きな被害を受けて地域住民の意思が一つにまとまらなければできないのでしょうが、観光地や商業地のようにその場所でなければ生活が成り立たないような職業を生業とする人々が多い場所は、住民の考えを一つにまとめるということがかなり難しいことだと思います。
誰しもどうあるべきかという理想は分かっても、政府や自治体が目先の生活が出来る展望を住民に明確に提示出来なければ、抜本策を進めることは難しいでしょう。

せめて三陸海岸沿岸部の漁業中心の町はなんとかいい形でまとまって欲しいものだと思います。新しい街づくりのための事業に被災された人を優先雇用して生活できるようにした上で、危険な地域は国が買い上げ、一部の地域は私権を制限するなどの緻密なグランドデザインを考えて欲しいと思います。
 
 
 NHKのニュースで鎌倉の津波跡を検証する早稲田大学の教官の行動を追っていました。

 しばやんさんの記事のとうり鎌倉大仏殿まで津波が来ていたのです。現在の鎌倉市の中心市街地も壊滅しています。 
 湘南海岸は休日ともなれば、サーファーが1000人程度海岸に繰り出し、沖合いでは関東一円尾大学ヨット部の艇が100艇は帆走しています。

 仕事で江ノ島や葉山、油壺や厨子や佐島のマリーナを巡回しましたが、津波対策の表示はなかったと思います。

 やはり防災対策は神奈川でも必要です。
 
 
鎌倉や熱海などの観光地の関係者は、抜本的な津波対策をされると観光地としての価値が減じてしまうことを恐れたのでしょう。だから、以前のままに近い状態で建てなおし、詳しい記録は風評被害を生むので残さないようにしたのだと思います。

せめて今回の東日本大震災の被災地は、少しでも津波対策を立てて力強く復興してほしいですね。
 
 
 私がヨットを始めるきっかけになったのが、仕事で巡回していた湘南のマリーナでした。

 でも過去に津波被害があったのに、それを抹消し、同じ場所に市街地を復旧してしまったのです。

 それは現在の高知市二葉町も同じことです。そのことを調査もせず、31年前に土地建物を購入し、しかも建て替えまでしたのですから。

 東日本大震災は、そうした人間の浅知恵をすべて押し流しました。自然の猛威には人間はどうすることもできません。

 自分たちの愚かさと、人知を超える東北の被害を見ると、とても他人事とは思えません、

 しかし仕事の上でも、家族の生活も他に優先事項がいくつもあり、地震対策に集中できないもどかしさがあります。そのことがなかなか集中できない。精神が今ひとつ安定しない要因であると思います。
 
 
「浅知恵」ということになるのでしょうが、住民全てが納得できるような不公平のない案は誰も作れないし、作ろうとしても時間がかかりすぎるし、抜本的な対策工事がなされている間に住民の収入がなければ生活することもかないません。

場所を変えて同じ仕事で、今までと同様の収入が得られて生計が立つ保証もなく、かといって抜本策が出るのを待っていても、義捐金はそのうち入らなくなり、政府や地方公共団体もいつまでも税金で面倒を見てくれるはずがありません。

「理想」と「現実」のギャップはあまりにも大きく、結局ほとんどの地域で、一番安易な「原状復帰」の選択をしたということなのだと思います。 

 


関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1

2011年04月21日 | 自然災害

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。



多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、とても正視できるものではない。
http://ktoh-n.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16-1 

なぜそんなに火災による死者が多かったのかというと、お昼頃であったために多くの家庭で主婦が炊事のために竈(かまど)で火を使っているところに多くの木造家屋が倒壊したこと。さらに具合が悪いことに、この日は能登半島近くの台風の影響もあり、関東地方の風がかなり強かったという。

多くの焼死者が出た東京本所被服廠跡とは今の横網町公園のことだが、地震のあった前年に被服廠は赤羽に移転し、跡地を東京市が買い取って公園として整備したそうだ。

近くの人々がこの場所を絶好の避難場と考えて家財道具を背負って集まってきたのだが、午後4時ごろにこの公園に地震の火災が「火災旋風」となってこの公園を襲い、人々が持ちこんだ家財道具にも飛び火して、人々は逃げ場を失って焼死してしまった。

火災旋風」とは、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで局地的に生じる上昇気流のことで、Wikipediaによると、

「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」とある。

また「個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、 被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%97%8B%E9%A2%A8



上の画像はネットで見つけたイギリスの火災旋風の画像だが、関東大震災の時の火災旋風の大きさは100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後と推測されている。またこの風により、何百人もの人々が空中に巻き上げられ、石垣に顔と歯が叩きつけられたりしていたという証言もがあるようで、この現象は想像を絶するエネルギーを伴うものであり、「旋風」というよりも「竜巻」と表現した方が適切のような気がする。
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h2108/2108_24.pdf 



上の図は関東大震災の翌日の午前九時の段階で焼失した場所を赤く塗りつぶしたものである。焼失地域はこの日のうちに更に拡大したのだが、黒い○で囲った場所は焼けなかった。 この場所は神田和泉町と佐久町なのだが、この町内の人々は避難することよりも共同で消火活動に当たることで、町を火炎から守ったのだ。

『被害の激しかった下町地区の中で、ぽっかりと島のように白く浮かび上がる地域がある。一日午後四時ごろ、南風に煽られて神田方面から燃えてきた火は神田川南岸に及び、佐久間町一帯にも盛んに火の粉を振りまいた。この時町内の人々は結束して、避難よりも延焼を防ぐ努力を優先した。続いて夜八時ごろ、秋葉 原駅方面から襲ってくる火に対してもひるむことなく消火活動を続け、二日午前一時ごろには火をくい止めた。更に二日午前朝八時には蔵前方面から猛火で延焼 の恐れが出てきたが、長時間にわたる必死の消火活動の末、午後六時ごろまでに完全に消し止めた。実に丸一日以上に及ぶ町内の人々の努力が実り、この町を火災から守ったのであった。』(「新編 千代田区史」) 

この防火活動の感動的な物語が、「関東大震災のちょっといい話」というサイトに詳しく出ている。
http://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki2.html

町の大人たちが頭から水を浴び、ガソリンポンプ車を使って徹夜で火を食い止めた物語は多くの人に読んで欲しいと思う。こんな大規模な火事になれば電気はもちろんのこと、水道も断水して使えない。消防車も使えなくなる条件下で、住民がこのように団結して火と格闘して町を守ったことは、教科書に載せるなどして後世に伝えられるべきではないかと思う。



神田和泉町にある和泉小学校の脇には、この時の町の人々の消火活動を讃えた「防火守護地」と書いた石碑が建てられているそうだ。

関東大震災時に「火災旋風」により東京だけでなく横浜でも同様に多くの焼死者が出たのだが、詳しい事は良くわからなかった。



この時の横浜の火災区域の地図が見つかったが、横浜の市街地の大半が焼けていることがわかる。
次のURLでは東京と横浜の火災旋風の発生起点とその移動を示した図面が紹介されているが、「発表禁止」という赤い文字が横浜の図面にあるそうだ。おそらく長い間公表されてこなかったのではないだろうか。真実を一般に公表しないのは、昔も今も良く似ている。
http://www.ailab7.com/senpuu.html 

以上かけ足で関東大震災における火災を振り返ってみたが、今のわが国の都心部でこの大震災の教訓がどれほど活かされているかと考えると不安な気持ちになってしまう。
日本人の悪い癖で、嫌な思い出はなるべく早く忘れてしまおうとして、大きな被害が出た原因が充分に追及されないまま何世代かが入れ替わってしまって、今では、ほとんどの人は普段から何の準備も対策もしていないのが現実ではないか。

大正期よりかは家屋が燃えにくくなっているという人もいるかもしれないが、阪神大震災の時にも神戸市長田区で小規模ながら火災旋風が見られたらしい。
もし関東大震災のような地震が風の強い日に発生し、古くて木造の家屋が密集している地域の家屋を多数倒壊させたとしたら非常に怖い事が起こる。消防車は全国平均で人口10万人当たりに4.7台、東京では2.5台なのだそうだが、この台数では大規模火災の鎮火は難しいのではないか。

昔はいざという時に使える貯水池や貯水槽などがあったし、井戸のある家も少なくなかった。地域の消火用具も持っていたし、なによりも地域共同体が健全に機能して住民の団結があり、地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めるために機能することが期待できたが、それらのほとんどを喪失してしまった今は、住んでいる街をどうやって火災から守ることができようか。

大火災が発生すれば停電や断水が起こる可能性が高いし、消防署は一部を消火する能力しかない。水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために必要となり、水量不足となって蛇口からちょろちょろと出るだけでは使いものにならないだろう。
そのような悪条件下でも、住民が団結して、自主的に消火活動ができる地域が都心部にどれだけ存在するのだろうか。

先程のWikipediaには、最後に非常にいやなことを指摘している。

「東京湾を震源とする南関東直下地震が、 夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく 発生する可能性がある。」

今回の東日本大震災で東北地方の人々は何度も津波を経験し、同じ過ちを繰り返してきていると思った人がいたとしても、それは東京も横浜も同じなのである。また、関東大震災の被災経験から学ぼうとしない他の大都市も同じである。

東日本大震災を機に、都市の防災対策はどうあるべきか、あまりにもわが国の重要機能が集中している首都圏の脆弱さをどう改善させていくか、首都圏の機能分散化も含めて考えるべきだと思う。

次回は、関東大震災と津波などについて書いてみたい。

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コメント
 東京下町の町内会は凄いですね。自力で町内への類焼を食い止めましたから。「町民力」「市民力」と言うのでしょう。

 それをひるがえって今の自宅のある二葉町で考えてみても実に難しい。うちには91歳と85歳の両親がいるし、そちらのケアで手一杯です。息子の自宅は隣町ですので。

 「防災マップ」で消火栓の位置を表示しましたが、地盤沈下で水没すれば、無意味なこと。当時より耐火建築仕様になってはいますが、古い木造家屋も多いのは事実です。

 とても難しい。防災世帯調査をしましても、非協力的な世帯は町内会へも入会していないし、無関心。そういうひとたちまでどうこうという余裕は今の私にはありませんね。

「おせっかい」な下町の人情は、いざというときに役にタッ店エスね。うらやましい限りです。
 
 
大正期ならどこにも「地域共同体」と呼ぶべきものが存在していましたが、今はどの程度機能しているのでしょうか。東京の下町も昔のようにはいかないのではないような気がします。

自宅のすぐ近くで働ける場所が激減し、ほとんどが電車に乗って遠くにある企業に通勤し、またマンションなどが建って外からいろんな人が住みだして、今は都市部では「地域共同体」はほとんど消滅してしまったのではないでしょうか。

地方ではまだ商店街や地元の企業が共同体を支えているところがありますが、都市部において「地域共同体」が残っているのは岸和田だんじりや祇園祭など有名なお祭りを伝承しているような地域や、地場産業が強いような地域などに限られているような気がしますが、昔程の結束力があるでしょうか。

住んでいる地域に大きな火災が発生しても、人々が地元を愛しかつ結束力がないと、共同して火を消すこともできず、被災しても小さな利害対立が全面にでてきて、なかなか再興が前に進まないような気がします。

昭和の高度成長期に日本人は確かに豊かになったのですが、人々が和やかにかつ安心して住むために永年築いてきた世代間伝承の仕組みを喪失してしまったのかもしれません。
 
 
 「きずなの再生」というのが、3・11以降の日本社会のテーマかもしれません。

 ドアを閉めれば隣が何者か知らなくても社会生活ができるという、身勝手な都市生活が賞賛される時代から、再び「きずな」を深める時代になりつつあるかなとも思います。

 しかし実際には防災世帯調査に非協力的な人たちは町内には存在しているので、そういう傾向がでてきても、身勝手な都市市民の生活は変らないかもしれません。
 
 
けんちゃんさんも私と同じ事を考えておられるようです。私の言葉では「地域共同体」の復活ということになりますが、私の子供の頃には間違いなく存在した地域の人々との有機的なつながりがなぜ壊れてしまったのか。

一つはけんちゃんさんが指摘される、イオンなどの巨大商業施設。小売業の大幅な規制緩和がそれまで地域で循環していた経済を根こそぎ破壊して、今まで地域のお祭りやお寺や神社を支えてきた人々を経済的に疲弊させたこと。

一つは大企業優先の経済施策が地方の零細企業を疲弊させ、若い人の働く場所がほとんどなくなったために、地方から都心への人口移動が起こり、地方の高齢化が進んだこと。また地方に進出した大企業があっても、地方行事などとの関わり合いに消極的であることが大半であること。

もう一つは巨大マンションの建設ラッシュ。地域と関係のない人々が大量に流入し地域との関わりのない生活を始めていること。

穿った見方かもしれませんが、戦後GHQが一番破壊したかったのは、この地域住民の絆だったのかもしれません。この絆を崩壊させれば、国民から郷土愛を奪い愛国心を弱めていくことは容易なことですから。



龍野公園と龍野城の桜を楽しむ

2011年04月13日 | 兵庫県歴史散歩

しばらく地震の記事ばかり書いていたら、ブログ仲間から桜の写真を催促されてしまった。

桜の時期になると毎年どこかへ桜を見に行くのだが、ブログを書き始めてからどこに行くか随分迷うようになったし、どこの写真を撮るにしてもアングルなどに随分こだわるようになった。

有名なところはどこへ行っても人が多いのでゆっくり景色を楽しめず、余程早くいかないと人や車や電線など余計なものが写ってしまう。マイクを使ってイベントをやっていたり、露店が所狭しと出ているようなところはなるべく避けたいと思うと、行くところはかなり絞られてしまう。昨年も何箇所か行ったのだが、ブログに使ったのは東大寺の桜だけだ。

今年は京都にも行ったが、播磨の小京都とも言われる兵庫県龍野市の桜がなかなかうまく撮れたので、今回は龍野の桜を紹介したい。
とはいっても、龍野のことをあまり詳しく知っているわけではないので今回は写真を中心にして、文章はWikipediaなどを参考にして簡単に場所を案内するにとどめたい。



最初に訪れたのが「龍野公園」。JR姫新線「本龍野」駅から、歩いて35分くらいで辿り着く。この場所は桜だけでなく秋の紅葉も美しいらしい。



龍野市に生まれた三木露風(明治22年~昭和39年)は、北原白秋とともに日本詩壇に「白露時代」を築き上げた詩人で、有名な童謡「赤とんぼ」の作詞者で知られる(作曲は山田耕筰)。たつの公園の中に「赤とんぼの歌碑」があり歌詞が刻まれている。近くに三木露風の銅像もある。



この赤とんぼ歌碑から、数奇屋風の建築が残る聚遠亭(しゅうえんてい)に通じる桜道は「文学の小径」と呼ばれて、このあたりの桜もなかなか美しい。



聚遠亭は龍野藩主であった脇坂氏の上屋敷跡に建築されたもので、池の上に建っているこの茶室は江戸時代の末期の建築である。「聚遠亭」という名前は庭園からの眺望をたたえた松平定信が「聚遠の門」と呼んだことから名づけられたそうだ。このあたりは特に桜が多く、鶏籠山(けいろうざん)の眺めもすばらしい。



ここから東に向かって歩くと龍野城の隅櫓が見えてくる。桜が青い空と白壁に映えて特に美しいスポットだ。



坂を上ると復元された裏門がある。



再建された裏門を抜けて隅櫓に向かう。このあたりの桜は本当に美しい。

龍野城は、明応8年(1499)年に赤松村秀が鶏籠山に築き、江戸時代の万治元年(1658)に破却されたが、寛文12年(1672)脇坂安政によって龍野城が再建され、この時に山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭となった。



これは本丸御殿だが、これは昭和54年(1979)に再建されたものである。



上の写真は埋門とその近くの桜、下の写真は埋門を正面から写したものである。



近くに龍野歴史文化資料館がある。当日は展示品の入れ替えのために戦国時代以降の資料があまり展示されていなかったのは残念だった。



桜をメインに観光したのであまり見ることができなかったが、龍野市には武家屋敷や白壁土蔵など古いものが古いままに残されており、新しい建物も街並みと調和するように工夫されていて市街地を歩くのは楽しかった。

龍野の有名なお土産は手延べそうめんの「揖保の糸」。それと醤油のもろみを買って帰った。今度来るときは武家屋敷や醤油資料館や寺院などを見て歩きたいと思った。
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BLOGariコメント

以前、龍野市の観光PR用のパンフレットのデザインを依頼されたことがあり、そのときに一度取材したことがあります(私、そういう仕事なんです)。
ですので、紹介されている写真はどれも見覚えのある景色ばかりです。
聚遠亭の茶室の前の桜は、私が行ったときはもっと枝ぶりの良い大きな木だったと記憶しているのですが、切ってしまったのでしょうか(写真を見ると、折れているようにも見えますね)。
一昨年に兵庫県を襲った台風によるものかもしれませんね(あのとき、被害の大きかった佐用町が目立っていましたが、龍野市も多少被害を受けたと聞きます)。

私がパンフレットのデザインを依頼されたときは、ちょうど大河ドラマで宮本武蔵をやってきたときで(2003年)、PRの主眼は武蔵と龍野の繋がりについてでした。
宮本武蔵は若き頃、龍野の城下にある圓光寺で修行を積んだという伝承があります。
武蔵の生涯は不明なところが多く、その生年や出生地については諸説ありますが、有名な「五輪書」の「序」の中に、「生国播磨の武士新免武蔵藤原玄信 年つもりて六十」とあり、その中の説のひとつで、圓光寺多田家系図やその住持多田半三郎頼祐の名が記された圓明流伝書などから、武蔵が圓光寺に滞在し、修行しつつ弟子たちに指南したといわれています。
圓光寺には、「宮本武蔵修練之地」と記された碑が、平成14年に建てられています。

ちなみに2005年の市町村合併により、今は龍野市ではなく「たつの市」ですね。
 
 
いつもコメントありがとうございます。

記事には「龍野市」と書きましたが、「たつの市」とか「竜野市」とかいろんな書き方があるので、どれが正式名称か良くわかっていませんでした。市町村合併で「たつの市」と名称が変わったことは初めて知りました。

しかし、これだけ歴史的遺産を残している市なら、「龍野」という名前の方が私はいいような気がします。

聚遠亭の茶室の前の桜は何も思わなかったですが、確かに写真で見ると幹が折れたような跡がありますね。さすがに良く覚えておられるので感心しました。

駅の案内書でもらった地図には、圓光寺が「武蔵修練の地」と書かれていました。ちょっと覗いてみただけで終わりましたが、武蔵のことも調べたら面白そうですね。
 
 
桜綺麗ですね。

たつの市は私の好きな街の一つです。
特に醤油の印象が良かったです。

このたつの市を訪れてから私の愛用の醤油はヒガシマルの薄口醤油となりました。

本丸御殿、龍野城も散策で思い出深い場所です。
今回の記事を見てまた訪れたくなりました。ありがとうございました。
 
 
ゆうじさんは海外だけでなく日本の各地も良くご存知ですね。

写真は、いつもゆうじさんのブログで綺麗な画像を楽しませて頂いています。

龍野はちょうどいいタイミングで訪れて、満開の桜の写真が撮れました。なるべく車や人や電線や電柱を避けようと意識しましたが、天気が良かったのが一番ですね。

龍野の旧市街地には新しい建物も古い建物と調和するように建てられていて、とてもいい雰囲気の街でした。私も、また行ってみたいと思いました。
 
 
お城と桜って本当に素敵ですよね☆
 
 
白壁と桜はほんとに良く合いますね。
古い建物は桜だけでなく新緑も紅葉も素晴らしいです。 

「昭和三陸津波」の記録を読む

2011年04月09日 | 自然災害

昭和8年(1933)3月3日の午前3時ごろ、東北地方の日本海沿岸に震度5の地震が襲った。 震源は日本海海溝付近でマグニチュードは8.1と記録されている。

これといった地震の被害はなかったが、この地震から20分から40分後にまたもや大きな津波が沿岸を襲い、被害は岩手県中心に流失全半壊、焼失約六千戸、死亡・行方不明が三千人以上と言われている。この地震は前回書いた明治29年(1896)の大津波からわずか37年後のことであった。



前回の記事で紹介させていただいた「津波てんでんこ」(新日本出版社:山下文男著)に、「岩手県昭和震災誌」という本の文章が引用されている。

「人々は夢もなかばに驚いて起き出て、あるいは陰惨の空を仰いで、あるいは海を臨んで天災のなきかを懸念した。しかし、暫くして余震はおさまり、天地は再びもとのひっそりした夜にかえった。ようやく胸を安んじてまた温かな床に入り、まどろみかかろうとする時、海上はるかに洶湧(きょうゆう)した津波は、凄まじい黒波をあげわが三陸地方を襲った。

 見よ!ほのぼのと明けはなれゆく暁の光の下に展開された光景を。船端を接して停泊せる大小一万の船舶は、今やその片影さえとどめていない。軒を連ねて朝に夕に漁歌に賑わいし村落は、ただ一望、涯なき荒涼の砂原である。亘長八〇里(314㎞)、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の眺め豊かな海浜には哀れ幸いなくして死せる人々の骸(むくろ)が累々として横たわり、六親を奪われ、家なく、食なき人々の悲しい号哭(ごうこく)の声に満ちた」

では、この昭和8年の三陸大津波の波の高さはいか程だったのか。

前回書いた明治三陸大津波の時に最も大きい波を記録した岩手県綾里村の白浜の津波の高さは38.2mであったが、この時の記録は28.7mとかなり下回るが、やはり大きな数字である。
単純に双方の津波の高さを割ると昭和8年の津波の高さは明治29年の記録を100とすると75程度という計算になるが、山下文男氏によると他の被災地も波の高さの関係はその数字に近い値になるという。
例えば、田老村では明治が14.6mに対し昭和が10.1m、重茂村では18.9mに対し12.4m、釜石では7.9mに対し5.4mという具合である。

また山下文男氏は、浸水を除いた被災戸数についても、明治の数字を100とすると75程度の数字になるそうなのだが、死者数についてはどうかというと、これは津波の高さや被災戸数を考えると異常に少ないことを指摘しておられる。
明治の津波の死者は前回の記事で書いたが2万1千人であったが、昭和の津波では約3千人であった。確かに死者の数は、津波の高さや被害戸数の割には、幸いにも大きく下回っている。

死者の数が少なかったのは「不幸中の幸い」とも言えるが、この経緯について山下文男氏はこう書いている。

「明治の大津波から既に三七年も経って風化しかけてはいたが、それでも、ほとんどの家に、一夜にして家財を烏有に帰し、先祖の命を奪った津波の恐怖についての悲しい『津波物語』があって、親子の間で語り合われることが少なくなかった。…

 その体験者や津波の恐ろしさを聞き知っている賢い大人たちが、地震の後、氷点下4度から10度という厳寒の明け方にもかかわらず、自ら海岸に下がって海の様子を監視していた。そして異常な引き潮を見ると同時に、大声をあげたり、半鐘を叩いたりして集落に危急を告げて住民たちの避難を促した。この危急を告げる叫び声や半鐘の早鐘で、どれだけ多くの命が救われたか数知れない。」(「津波てんでんこ」p.89) 

「大船渡町では、消防の夜警たちが、震度5の地震の後、津波が来るかもしれないと直感、海岸通りを走って避難を呼び掛けている。そのためもあって大船渡では、明治の津波の時の死者110人に対して、55分の1の2人にとどまっている。」(同書p.90) 

一方、明治の津波の時に死者769人を出した唐丹村(現釜石市唐丹町)の本郷という地区では、325人もの死者を出している。
「何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしかその原因を探るに、本郷には明治二十九年の津波の遭遇者が少なく、ために海岸に下りて警戒する者少なく、大概平然として就床しあり、あるいは談笑しあり…。あの大地震の際不安を感じ、家財を背追いて高台に逃れしも、一度家へ来たりし時、古老曰く『晴天に然も満潮時に津波来るものにあらず』と頑迷なる言により安心をなし床にもぐりしと。警戒者も少なく(その後、引き潮を見て津波の襲来を教えてくれた人がいたけれども)寝つきし人なれば聞こえざりきか」佐々木典夫編「津波の記録」-昭和八年の三陸津波  (同書p.91) 

また、明治の津波で1800人以上が溺死した田老村(現宮古市田老町)も津波監視活動が見られず、昭和の津波でも900余人の死亡・行方不明者を出した地域だ。この地域では、明治三陸津波の体験談として「津波の前には井戸水と川の水が引いて空っぽになる」という話がまことしやかに伝承されていたらしい。そのために、昭和の津波の時に、せっかく逃げる準備をしながら、わざわざ井戸と川の様子を見に行って、変化がないのを確認して油断したという話が残っているそうだ。

岩手県は明治・昭和の津波襲来の浸水線を標準として、それ以上の高所に住宅を移転させることを決定し、津波後わずか二年そこそこの間に、岩手県だけでも集団的移転を含む約3000戸の高所移転が実現したそうだ。

例えば先程紹介した釜石市唐丹町本郷はこの時に山を崩して団地が作られ、この高台に移転した住宅は先月の東日本大震災の津波でも無傷だったようだ。ところが、土地がないためにその後低地に住宅が開発され、その50戸近くは今回津波の被害を受けたが、津波警報を受けてほとんどの住民が高台に避難し、犠牲者は1名が出ただけだ。



写真では高台にある住居は無傷で、低地の家が全壊している。



しかし現宮古市田老町は、昭和の地震の後、住宅の高所移転よりも防潮堤の建設という独自の道を選択した。戦争による工事の中断はあったが、昭和33年(1958)に、高さ10m、全長1350mという大防潮堤が完成。その後2433mまで延長されたのだが、先月の津波は非情にもその防潮堤の高さを超えて、田老町はまたもや大きな被害が出てしまったようだ。



今回の地震で田老町の津波の高さは37.9mというとんでもない高さだったそうだが、過去の記録では明治29年が14.6mに対し昭和8年が10.1mとなっていたので、10mの堤防を作ると言う選択は正しかったのか。
どんな大きな津波が来るかはわからないのだから、防潮堤などの施設だけでは津波を防げないと考えて行動すべきなのだろう。

漁業を営む人々にとっては、海に近い方が楽であることはわかるのだが、すべてを一瞬にして失う津波の怖さを思えば、野中良一前田老町長の提言のとおり「生産と生活の分離」「(土地利用の)規制」は必要なことだと思う。また、今回の津波で判明した特に危険な場所は、「規制」するだけでは遠い将来にわたって徹底することに限界があるので、国や地方が土地を買い上げるということも検討すべきではないだろうか。

今度こそ、数百年後に大きな津波が来ても人的被害がほとんどない町づくりを目指してほしいと思う。
そのためには住居や主要施設は高台に作ることを徹底し、低地は公園の他、一部の施設は残るも、津波に対して強い構造であり屋上や最上階に避難が出来る施設とし、津波避難シェルターも何箇所かに設置すべきだろう。
その上で津波の怖さと、そして津波の時にどう行動すべきかを、今後数百年にわたって新しい世代に伝承していく仕組み作りと、津波発生後の地域別の波の高さ、到達時刻の予測精度の向上が不可欠だと思う。
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NHKも東北の次は南海地震だということで、執拗に取材をしてきます。私の自宅と会社がある高知市二葉町は地震が来れば水没するどうしようもない地域だからです。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ced5.html

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat5681894/index.html

 まだ東北は逃げ込める自然地形の高台や山があります。二葉町には自然の高台は皆無。耐震の公共建築物も皆無です。

 その絶望的な地域ゆえに自主防災会を4ね年前に結成したときも苦労しました。結局町内の4階建て以上のマンションのオーナーと直談判し、協定を結びました。「災害時(津波)一時待避所」として、マンションの階段や廊下に近隣住民が24時間退避させていただくことです。

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat11908619/index.html

 1番新しい町内の穴吹工務店のマンションの管理組合はその退避を拒絶してきました。理由は「汚れるし治安に不安がある」ということ。呆れました。関係は断絶しています。

 なんとか町内に10箇所の一時待避所と、国道の橋を災害時要支援者待避所として認めてもらいました。

 NHKは「二葉町は地盤沈下して長期浸水するのにどうされるのでしょう」と執拗に聞きます。その問題は行政の対応の問題だと思います。ただこれからの話しですが、山間部の仁淀川町と連携しようと思っています。具体的な話はこれからですが、仁淀川町の野菜を二葉町で販売する。間伐ボランティアにいく。住んでいない家屋を借りる・などです。疎開先を日頃の交流でつくろうというものです¥」と言いました。

 月曜日にうちへ取材に来るそうです。そして22日の高知ローカルの番組で放映するようです。

 なかなか前途は多難なんです。東北のほうはある意味簡単です。高台があるし、奥尻島のように高台に住居をこしらえ、海で仕事をする体制にすればいいのですから。       
 二葉町の場合は街全体の移転を考えなければ根本的な解決にはなりませんから。
 
 
二葉町の位置を地図で確認しましたが、深刻に考えておられる理由が良くわかりました。

高知の事を何も知らない自分に、自信を持って言えるようなことはありませんが、山間部の仁淀川町と連携することは非常にいいことだと思います。仁淀川町の農産物は優先的に買って、間伐のボランティアという関係は素晴らしいです。

今回の地震で福島県や宮城県の農地の1割以上が耕作不能になったにもかかわらず、政府はどこにも米や農作物の増産指示を出していません。もうすぐ田植えの時期でありながら、これはおかしなことです。このままでは秋には国内で食糧が大幅不足になって、TPPの承認やむなしという方向に世論誘導がされることを懸念しています。

日本の農業を救うためには、都市生活者が農業生産者を理解してその活動を支援する。農業生産者は、良い状態で生産できた作物を協力者が中心に直接販売し、大手の流通ルートには良質な製品は流さないようにすることが一番いいと思っています。
また田舎の人々はなかなか都会で買い物をする機会がありません。高知市内の商店が共同で、仁淀川町の住民から電話やFAXの注文を受けてまとめて商品を届けるような仕組みを作ることも喜んでもらえるのではないでしょうか。
そのような都市と田舎との関係が日本各地で拡がれば、イオンのような業態は良質な農作物が入らず、客が激減して店舗の収支が成り立たなくなるはずです。

仰る通り、地盤沈下などの問題は行政の問題ですね。だけど行政に任せてもいつになるかわからないし、町毎移転するような話は難しい。いざという時に頼りになる地域と関係を構築することが民間でできるベストの選択だと思います。そのことが田舎を活性化させることにもなります。


自主防災会関係ブログには以下のことを書かせていただきました。

 仁淀川町と二葉町との交流事業について

 CSA農業支援事業。田舎の農業を都市部がサポート(直接野菜などを購入など)
文部科学省支援事業を活用しながら高知版CSAモデルにする。

 災害時の避難先・疎開先の確保も目的。費用はかからない。承認を受ければ、NPO法人土佐の森救援隊の中嶋健造氏が仲立ちすることになっています。。

 西森二葉町町内会長(酒屋・米屋)は「うちの店舗に仁淀川町の農産物を置き、販売することは可能です。ぜひ協力したい」とのこと。また森自主防災会会長も「うちの弁当屋で使用することも可能です。」と言われました。会議の参加者一同関心が深く、既に間伐ボランティアで荒木副会長や、福留幹事は仁淀川町とご縁があります。

 より親密な交流をしていこうと合意が得られました。具体的な交流の方法については、中嶋健造さんに連絡をし、交流していこうということになりました。

 同じ発音の福島県双葉町は原発にあまりに依存しすぎたまちづくりでした。まちづくりは「みのたけ」にあったことをしないと破綻します。

 CSAはコミュニティが農業をサポートするというしくみで、もともと日本から発祥しましたが、いまではアメリカが盛んで,逆輸入された考え方です。

 しばやんさんが言われるように、消費者がスーパーへ行くことを少し控えることです。知り合いのJASS認定有機栽培農薬農家も人も、スーパーに販売しているために、野菜を洗ったり、袋詰する作業に追われるとか。本末転倒なんですよ。

 ハゲタカ.イオンなんぞに優良野菜を販売する必要がないように市民が力を持たないといけないですね。
 
 
どんな生産者にとっても、消費者の顔がわかり、その喜びがわかるところに販売したいと思っています。もし田舎の生産者が都市住民とそのような関係が築くことができれば、大手流通対応に余計な手間をかけた上に安価に買い叩かれることもありません。

多くの都市住民が同様な関係を田舎と結ぶようになれば、大手流通に致命的なダメージを与えることは確実です。

イオンと言っても営業利益率は2%台です。仮に売上が1割でも低下すれば、赤字に転落する店舗が続出します。けんちゃんさんの嫌いなハゲタカを退散させることは、消費者の一部でも生産地と関係性を強化すれば、意外と簡単に実現できるような気がします。

前回コメントに書きましたが、今の流れでは政府の無策から秋以降に食糧不足になると思います。日本の製品を求める消費者が地域単位で生産地で繋がっていけば、大手流通は良質な農産物が一般消費者に供給できなくなりますし、売上はさらに縮小します。

地方の疲弊の問題の多くは、大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊するところにありました。消費者が前述した行動をとれば、世の中が大きく変わるきっかけになるのだと思います。
 
 
心強い励ましありがとうございます。
 出口のない防災対策をいくら考えても答えはなく、みなムードが暗かったんですが、「仁淀川町疎開案」「そのための日頃からの交流案」は、防災会役員の賛同があっさり得られ驚きました。

 案外進展するかもしれません。4月末から具体化しますが、なんだか少し希望がわいてきました。

 戦争中の疎開先を町ぐるみでこしらえる。町民同時の顔が見える交流でそれが実現すればそれにこしらことはありませんから。
 
 
防災対策は、自分の住んでいる地域を守るという対策と、自分の住んでいる地域にもしものことがあったらどうするのかという対策との両方が不可欠ですが、前者の対策に偏り過ぎればいくらコストがかかるかわかりませんし、他の地域とバランスがとれずになかなか意見がまとまらないでしょう。

他の地域と連携し、お互いの心配事を共有しお互いが助け合うことの方が、コストもかからず精神衛生上もいいような気がします。

どの地域も前者の対策にこだわってしまうのは、他の地域との交流がないために不安を覚えるからではないどしょうか。交流すれば、そのような不安は解消していくと思います。
 
 
こんにちは。
震災後の稿を続けて読ませていただき、三陸海岸の津波の歴史がよくわかりました。
私は「阪神・淡路大震災」を経験しており、この度の地震の映像を見ていると、地震そのものの“揺れ”の激しさだけを見れば、「阪神」の方が大きかったのではないかと思えました。
しかし、これほどたくさんの犠牲者を生んでしまった・・・津波に関しては、スマトラのときに見た映像は衝撃的でしたが、今回改めて、津波というものが如何に恐ろしいものかということを知りました。
前稿の明治29年の大津波が、実は震度3程度だったという話は驚きです。
おっしゃるように、歴史に対する認識が備わっていれば、助かっていた命はたくさんあったでしょうね。

前稿で紹介されていた、釜石市の小学生については、昨日の記事でより詳しく紹介されています。
http://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1104/13/news069.html
地域によっては、しっかりと歴史に学んで防災教育がなされていたんですね。
それが全ての地域ではなかったというのが、残念な限りです。

今回、被災者の方々が撮影された津波の映像がたくさんTVで映しだされ、その映像によって私たちも津波の恐ろしさを知ることができたわけですが、中にはかなり近くで撮影したものもあり、そう考えれば、他にも津波を甘く見て逃げずに撮影していて津波に巻き込まれた人もたくさんいたのではないか・・・と思ったりします。
ああいった映像が多く流されるというのも、考えもののような気がします。
 
 
津波は怖いものだと漠然と思っていましたが、自分があの時に北陸地方にいたとした場合に、とっさに高台に避難して助かっていたかというと、あまり自信がありません。
私も津波の怖さを甘く考えていたところがあり、もし現場にいたら、どちらかというと怖いもの見たさで津波を間近で見たいという衝動を持ったかもしれない性格なのですが、今回の映像を見て「逃げるしかない」ことを十二分に悟ることができました。

紹介いただいた釜石市の小学生のように防災知識を、今後何世代にもわたって叩きこむ教育がとにかく重要ですね。今回の大災害の経験を、決して風化させてはいけません。



震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波

2011年04月02日 | 自然災害

明治29年(1896)6月15日の三陸地方の夜は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎えて多くの村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわであった。またこの日は旧暦の5月5日でもあり端午の節句を親戚家族で祝う家が多かったという。
その日の夜7時32分頃に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表によれば震度2~3程度のもので、この地震に気がつかなかった人が多かったそうだ。しかし揺れは5分近く続いたという。

地震としての被害は全くなかったそうなのだが、地震後30分を過ぎた午後8時頃に、北海道から宮城県に至る太平洋岸一帯に突如として大津波が襲う。



この津波が北陸地方を中心に大被害をもたらし、この時の死者は岩手県で18,158人、宮城県で3,452人、青森県で343人、北海道で6人と合わせて22,000人近い数字にも及んだ。

津波の高さは、岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現・宮古市)で14.6m、同郡船越村(現・山田町)で10.5m、同郡重茂村(現・宮古市)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現・釜石市)で8.2m、気仙郡吉浜村(現・大船渡市)で22.4m、同郡綾里村(同)で21.9mと軒並み10mを超える到達高度を記録したという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87



岩手県綾里村の津浪は、38.2mという想像を絶する高さであったそうだ。
ネットで探した綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告) 

「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。晩暮帰潮に随って湾上に揚るもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり子の骸を抱き慟哭するものあり、多くは死体変化し父子だも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり。」



改めて書くが、これだけの大津波の被害が出ておりながら震度は2~3だったと言うのだ。 大きな揺れではなかったから、人々は津波を警戒しなかったところにとんでもない津波が来たために大きな被害が出たのだ。

山下文男氏の「津波てんでんこ」という本を読むと、津波の後、岩手県の釜石町長が郡役所に提出した報告書には「起災前、一、二回の震動アリタリト云フガ、甚ダ微弱ニシテ、知覚セザルモノ多キニ居レリ」と書かれているそうだ。(p.33) 
また当時の文書や記念碑の記述を見ると、事前の地震について記述しているものは大変少なく、いきなり津波の記述になっているものが大半だそうだ。このことは、地震の揺れそのものは大したことはなかったことを意味している。

こんな小さな地震でも大きな津波が来ることがあることを今回調べて初めて知ったが、明治の三陸大津波の時の地震の震度がこんなにレベルであったことをどれだけの人が知っているのだろうか。

このように、地震の規模に比して不相応に大きな津波を発生させる自信を「津波地震」と呼ぶそうだが、どうしてそのような事象が起こるのだろうか。

Wikipediaによると、こう説明がなされている。
「海底において地震が発生し、海底面に地震断層による地殻変動が現れると、それは海水の上下動を呼び起こし、津波を発生させる。通常は、津波を発生させる地震は大規模な地震であり、体感もしくは強震動地震計などにより、津波を引き起こした地震による揺れ(地震動)を感知することができる。一般的に断層運動の大きさ(モーメントマグニチュード)が大きいほど、地震動も津波の規模も大きくなる。
しかしながら、断層運動によって、地震動(揺れ)と津波(海底面の地殻変動に よる海水の上下動)がそれぞれ生じるのであって、地震動が津波を引き起こすわけではなく、地震動と津波は原因は同じだが別の現象であるともいえる。よって 地震動と津波の大きさがリンクしない場合もあり、極端なケースになると、体感もしくは地震計によって観測した地震動は比較的小規模であるにも関わらず、大きな津波が発生する場合もある。このタイプの地震を津波地震と呼称する。」

「大きな地殻変動が通常の地震よりも長い時間をかけて発生することで、有感となるような短周期の地震動をあまり生じさせることなく大きな津波を発生させるこ とで、津波地震となる。一般に地震断層の破壊伝播速度は、通常の地震ではおおむね秒速2.5~3km程度であるとされる。しかし津波地震では秒速1km程度の場合が多い。このような地震では強震動をあまり生じさせないが、津波の波源域は津波が拡散するよりも早く数分以内の短い時間で広がるため、津波が大きくなる。破壊伝播速度がこれよりさらに十分遅い場合は、津波の波源域が広がる前に津波が拡散してしまい、大きな津波も発生しなくなる。」

私は長い間「震度」と「マグニチュード」とは良く似たものだと解釈していたが、調べると「震度」とは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」で尺度は何種類かあるようだが、日本では気象庁が定めた尺度を用いているそうである。
ということは、同じマグニチュードの地震であっても、震度の測定地点が震源からその地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わると言うことである。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/sindo.htm 

もし震源地の地盤が軟らかければ、大きなマグニチュードの地震であっても震度が低くなることがあるということは重要なことだと思うのだが、あまりこういう事実は伝えられていないような気がする。
冒頭に書いた明治三陸大津波をもたらした地震の震度はわずか2~3程度であったのだが、マグニチュードは8.6程度と推定されているそうだ。「津波地震」の怖さは、もっと良く知られる必要があると思う。

「津波地震」の事例としては、この明治三陸地震津波のほかに、慶長10年(1605)駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフを震源とする慶長大地震もそうらしいのだが、この地震の記録は残念ながらほとんど残されていない。

はじめに「津波てんでんこ」という本を紹介したが、この「てんでんこ」という言葉は、「てんでばらばらに」という意味だそうだ。では「津波てんでんこ」というのは、津波が来た時は、家族や友人のことは一切構わずに、一刻も早く逃げなさいという教えなのだそうだ。 多くの災害では親は子を助けたり子が親を助けたりするのだが、津波の時はそのような行動をとると共倒れになるケースが多い。地域単位で犠牲を最小限にするためには、一人ひとりが「てんでんこ」になって少しでも高い所に逃げることによって、共倒れの悲劇を防ぐことがベストの選択になると言う昔からの言い伝えなのだ。

時事ドットコムニュースに、この「てんでんこ」の考え方で釜石市の小学生が高台に登って助かったとの3/11付けの時事通信社の記事が掲載されている。
https://www.jiji.com/jc/d4?p=flo100-jlp10703948&d=d4_quake


今回の東日本大震災で多くの犠牲者が出たが、もしマグニチュードが同程度でありながら震度が3程度の「津波地震」であったとしたら、どれだけの人々が高台に逃げようとするだろうかと考えるとぞっとする。



津波の画像を何度かテレビで見たが、津波のスピードはかなり早く、津波に気付いてから高台に登るのでは間に合いそうにない。

地震予知が正確にできる時代が来れば話は簡単だが、当面そのような時代が来そうにない。ならばせめて、海面や海中や海底のどこが適切かよくわからないが、海にいくつかのセンサーを設置して、津波の発生をとそのエネルギーや津波速度等を測定して、どの程度の津波がいつ頃どこに到達するかを正確に予想することが出来ないものだろうか。それが出来れば、多くの人の命を救うことが出来るのではないか。

次のURLを読むと、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に「大津浪記念碑」が建てられているそうだ。

写真の記念碑にはこう書かれている。

「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に 家を建てるな。
 明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来ては全滅し、生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。」
http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-1606.html 

明治29年、昭和8年の大津波の生存者が後世のためにこのような石碑を建てたにもかかわらず、津波を知らない世代がこの場所より下に家を建てていく。そして今回もまた大災害が繰り返されてしまったのだ。

これからは被災地の復興がわが国の課題となるが、今度こそはこの石碑を建てた先人の警鐘を受け止めて住民が安心して暮らせるよう、高台に学校や役場や住宅を建てて海の近くに低地は公園のほか農業用地、太陽光発電プラント、漁業関係者がいざという時に避難可能な高層の津波シェルターなどを配置するなどの再興プランをしっかりと立てて、今後もし津波が来ても、それが津波地震による津波であったとしても、後の世代がこのような悲惨な結果にならないように智恵を絞ることが、この怖ろしい津波を体験した世代の責務だと思う。
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BLOGariコメント

 津波てんでんこは先人の知恵でしょう。高知の海岸にも各地に津波の慰霊碑や、到達点の碑があります。

 私がヨットで活動している香南市夜須でも、20メートルの高さに津波が来たという神社があります。江戸時代のことだそうでした。

 津波は難しいです。昨年などチリの地震の時に、津波警報が出るのが昼であると聞いていたので、午前中は海で遊べると思いぎ装してました。アホーです。

 結局9時半に津波警報が出ましたので慌ててぎ装解除したぐらいです、いかに自分が「おろかであったと思います。

 でも今回あの映像を焼き付けておけば、津波の怖さが皆わかったことでしょうから。

 でも揺れが小さいのに大津波が来ることは怖いです。対策のたてようがありません。
 
 
リアス式海岸や遠浅の海岸は津波に弱いと言われますが、高知県で20mの高さの津波の記録があるとは知りませんでした。江戸時代というと前々回の記事で書いた安政南海地震なのでしょうか。

私も、今回地震の映像を見て、想像していたよりも津波がはるかに怖いものであることを思い知りました。
また、揺れが小さくともとんでもない津波が生じることがあるということも、今回調べて初めて知りました。こんな津波を逃れるためには、人間の感覚や直感だけでは限界があります。

素人のくせに偉そうなことを書いてしまいましたが、地震の予測はできなくとも、地震が起こってからの津波の予測はもっと正確に出せるのではないかと以前から思っていました。それが出来れば、適切に避難命令が出せて津波の被害を最小限にできるはずです。若い地震学者や物理学者らにチャレンジしてほしいものです。

 高知県や徳島県の海沿いの市町村には、かつての南海地震での大津波の形跡を示す碑やいましめる碑が多くあります。図書館で「歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて 石碑・古文書に残る津波の恐怖」(毎日新聞高知支局・2002年刊)を読みました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-f3d0.html

 10年ほど前の出版物でしたが、先人のいましめを軽視せず、きちんと検証しなkればいけないとつくづく思いました。

 福島原発は先人の戒めを軽視した結果の大事故となったのです。
 
 
 香南市夜須町の神社に残る津波の慰霊碑へ行きました。3年半前に行ったようでした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2320.html

 この種の碑は高知県の各地にあるようです。
 
 
三陸海岸だけでなく高知にも同様な石碑があるとは知りませんでした。

大津波を経験し九死に一生を得た名もなき人々が、被災して多くの資産を失いながら、後世の人々に警鐘を鳴らすために私財を費やして建てた石碑の意味をもっと噛みしめないといけませんね。

そのうえで、津波の怖さを次の世代にきちんと伝えていくことと、津波が来ても少ない被害で済む町づくりを推進していくことが重要だと思います。
 
 
 技術者というか科学者であるヨット仲間の先輩は、福島第1発電所の罹災の報道に、即座に「これはチャイナ.シンドロームになるよ。」と言われました。

 結果はそのとうりに。しかもスリーマイルやチェルノブイリは原子炉が1つの罹災でしたが、「福島第1原子力発電所は、GE製の性能のよくない原子炉が狭い敷地に並んでいる。1つの原子炉のトラブルが6倍になるわけで、設計思想が間違っていますね。」

「しかも津波の予想を異常に低く見ていた。これは技術者として失格。なんか絶対に津波は来ないという根拠のない自信にとらわれていたのでしょう。それだけで失格。」

「地下に電源を設置するのもおかしい。そうであれば防水処置はできたはず。原子炉自体は地震では安全に停止したのだから。それはいいが、冷却装置が破損すれば原子炉が危機に成るシナリオは原発設計者や運転者にはなかったようですね。完全な技術的な欠陥以外何者ではない。」

「ロボットをドイツから借りるそうだが、原子炉作業は危険なので開発してなかったことが信じられない。下請け、孫受けの原発労働者を安く雇用できるので、開発を怠っただろうね。怠慢以外ないね」といわれました。

 彼によれば「想定外」ということはありえない。大津波が仮に来ても冷却装置が破損しない工夫は可能であったはず。技術的な失敗を隠すための言い逃れに過ぎない。」といわれました。

 「1000年に1度の地震や津波」に日本の原子力発電所は耐えられるのか?検証を至急すべきでしょう。検証の結果耐震補強が無理であれば、原子炉を廃棄していくしかありません。

 思い上がった技術屋が昔の人たちの「言い伝え」を一笑に付し「原子力発電は120%安全」と強弁した結果が、今の悲惨な事態を招きました。本当に許されないことです。
 
 
中部大学武田教授がテレビでわかりやすく説明しています。
はじめから原子力発電所が安全性に万全を期して建設されているわけではないことは浜岡原発の立地を見れば明らかですし、今回のケースでも事故が起こった場合のことをそもそも想定していないことがよくわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=gW8pfbLzbas&feature=related
 
 
武田教授の説明わかりやすかったです。さっそくわたしの個人ブログにも貼り付けました。

 わたしのヨット仲間で、元国立大学教授の人がいます。専門は原子力ではありませんが、武田教授とほとんど同じ事を言われていました。

 科学者に「想定外」なんてことはありえないと。昔の古文書に大津波の記録があるならば、当然それを「想定した施設の設計をするのが科学者だろうにと。変な自信と思いあがりがあったんだろうね・と。

 しばやんさんが言われるように、昔の人が津波の記録を後世に残し、戒めとしたのに、現在の私達がないがしろにすればいけないのです。
 
 
今回のことで恐らく政府は、ほとんど東電に責任をかぶせるのでしょうが、想定津波2mレベルでの設計を許可した国の責任が一番重たいはずです。

武田教授の説明を聞いて、原子力発電推進派の無責任体質に腹が立ち、いくら日本の技術が優秀でも、こんな連中に原子力の許認可や推進を任せるわけにはいかないという気持ちになりました。

この連中の思考の原点はつまるところ自己保身で、自分に責任が及ばないように逃げることばかり考えている。
連中を全員福島に強制的に居住でもさせなければ本気で現地住民の安全性の確保を考えてくれそうにありません。
 
 
 関西は福井県にたくさん原子力発電がありますね。あそこは地震の巣。直下型地震の発生地域になります。

 今後日本では原子力発電は震度7で、30メートルの大津波でも耐えられる条件でなければ、稼働を許可しないようにしないといけないでしょう。でもそれでも100%安全ではありません。

 今回の事故では、テロリストに格好の材料を提供しました。原子炉がいかに丈夫でも、冷却水と電源を断てば原子炉はメルトダウンすることがわかりましたから。ミサイルで攻撃しなくても簡単に破壊できます。 

 地震・津波・テロには原子力発電所は弱いと思いました。
 
 
福井県よりも浜岡の方が危険という人もいますが、どちらも海から近く、海抜の低い位置に重要施設が設置されているという点は同じです。

大きな津波であっても、水深が深い位置で操業していた漁船が被害に合わないケースが多いように、深い海では高さ30mの波と遭遇するわけではありません。
三陸海岸で津波被害が多いのは、つまるところリアス式海岸の地形であることと関係があります。
今回の津波で被害の大きかったところは、陸に深く入り込んだ入り江でのような地形のところや、海の深さが急激に深くなるような場所がほとんどですね。

ですからそのような危険な地形でなければ、必ずしも30mの津波までの想定が必要なわけではないと思いますが、炉だけでなく非常用電源や冷却装置などはすべて安全な高さに設置されていることが必要ですね。
非常用電源の移設が望ましいと考えられる発電所は早目に工事をお願いしたいところです。

それができなければ、通産省の天下り役員は全員原発の近くに住ませれば効果てきめんだと思います。
 
 
現実論でいくと原子力発電をただちにすべて廃炉にすることはできないことでしょう。でも存続させるためには、1000年に1度の大地震と津波に耐えられる補強ができるところはとりあえず残し、無理なところは廃炉にする。          
 原子力安全委員会が権限がないのが問題。厚生労働省や環境省からも人員を出し、委員長に共産党の国会議員である吉井英勝氏(京大工学部原子核工学卒)の人を任命することをしないといけないでしょうね。

 吉井氏の話はとてもわかりやすい。原子力といっても「湯川秀樹博士にあこがれていた」という人だけに、冷静沈着に話されるのでとても落ち着いて話が聞けます。

 何を言っているのかいまだにわからない原子力学者をTVに出さないでほしい。
 
 
廃炉は簡単ではないですね。廃炉してからも安全になるまで、何十年も管理する必要がありますし莫大なコストがかかります。
そもそも原子力発電所は将来廃炉を検討されるような場所に作ってはいけないものであったにもかかわらず、危険な場所にいっぱい作ってしまいました。しかも、需要地とは関係のない場所に作ってしまうというのは一番危険な発想です。東北の方はほんとうにお気の毒です。

もし、東電が千葉県や茨城県に発電所を作る場合なら、万が一の場合は首都圏にまで影響が及びます。その時はガチガチの安全対策を施さなければ作れないでしょう。それと同じ思いで、福島の原発を作るべきだったのです。地域住民と運命を共同にする覚悟なしでは、どんなメンバーでも信用されないでしょう。

危険な場所から遠く離れた安全地帯でいくら議論がされても地元の人は信用できないでしょう。保安院も、安全委員会も原子力施設の中にでも作って、メンバーも地元民と共に住むくらいの覚悟がなければ、前に進まないような気がします。

東日本大震災直前まで、TVや新聞媒体を活用した電力会社や電気事業連合会の宣伝量は物凄いものでした。

 有名タレントや評論家(勝間和代など)を動員し、「原子力は環境にやさしく安全」「オール電化住宅は環境にやさしい」「経済のことを考えたら原子力発電でしょう・」と夜遅くのTV番組などほとんどこの種のCMでした。

 福島第1原子力発電所の大事故は未だに収拾のめどさえたちませんが、タレントも評論家も姿が見えなくなりました。歯切れの悪かった民放TV局も最近はようやく原発災害問題を本気で取り上げるようになりました。

 先人の諌めや教訓を無視した開発がいかに被害をもたらしたのか。あまりにも大きな犠牲でした。

 他人事ではなく、南海地震を迎えなければならない高知市に住むわたしなどどうすればよいのか思案中です。
 
 
高知市に限らず、東京も大阪も、低地に住宅が密集しています。日本の都市の多くは津波を想定せずに開発が進められていると言っていいでしょう。

かといって、今の大都市に設備投資して津波に強い町に変えることはほとんど不可能です。できることは、津波が来た時に、どの場所なら避難可能かを予め知ることと、20分以内にその場所に逃げることしかできません。避難場所は自然の高台だげではなく、ビルの4~5階以上のスペースや屋上を含むことになると思います。

収容可能なスペースがどれだけ存在し、それを近隣住民と近隣の勤務者とどう配分するかを予め決めることが必要な地域もあるかもしれませんね。