しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像

2010年11月12日 | 奈良歴史散策

奈良県にある吉野山は古来桜の名所として有名で、三年前の桜の時期にバス旅行で行った時はものすごい人だった。吉野に来たほとんどの観光客が最初に訪れる世界遺産の金峯山寺(きんぷせんじ)は、明治7年に修験道が禁止されて一時的に廃寺となり、国宝の蔵王堂などは強制的に神社にされてしまったことは以前このブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html



上の画像は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」だが、これを見ると江戸時代はこの山に多くの僧坊があったことがわかるが、その多くが廃仏毀釈により消滅してしまっている。



上の図は正徳3年(1713)に描かれた「和州芳野山勝景図」の蔵王堂の近くを拡大したものだが、蔵王堂のすぐ近くにあった多宝塔や、後醍醐天皇の行宮となった實城寺も明治期に破壊されてしまったようだ。

明治19年(1886)に金峯山寺が神社からお寺に戻った経緯は以前書いた記事を読んで頂くこととして、前回に訪れた時は蔵王堂内陣の巨大な厨子に安置される3体の蔵王権現像(重要文化財)は公開されていなかったので見ることが出来なかった。
この仏像は今まで滅多に公開されることのない秘仏で、最近では吉野・大峯の史跡が世界遺産に登録された6年前に1年近く公開されたのち、3年前に5日間だけ公開されたそうだが、今年は奈良遷都1300年のイベントの1つとして9月1日から12月9日まで公開されている事を新聞で知り、どうしても見たいと思って先週の6日に行って来た。



駐車場に車を置き、黒門を過ぎてしばらく歩くと、四天王寺の石の鳥居、厳島神社の朱の鳥居とともに日本三鳥居の一つとされる「銅(かね)の鳥居(重要文化財)」が見えてくる。以前このブログで「鳥居は神社のものなのか」という記事の中でこの鳥居を紹介したが、鳥居は神社だけのものではないのだ。探せば大分県の富貴寺や岩戸寺など結構お寺に鳥居が存在する。佐伯恵達氏によると、画像のように鳥居に丸い台座のあるものは仏教信仰によるものだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html



銅の鳥居から少し歩くと、金峯山寺の仁王門(国宝)が見えてくる。重層入母屋造,本瓦葺の楼門で康正2年(1456)の再建である。左右にある仁王像は鎌倉末期の仏師康成の作だそうだ。



そして仁王門を登るとすぐに国宝の蔵王堂が見えてくる。この建物は天正19年(1592)の豊臣家の寄進で建立されたもので、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそうだ。



中に入ると、内陣の厨子の扉が開けられており、巨大な蔵王権現像(ざおうごんげんぞう:重要文化財)を拝むことができた。この仏像は木造で、制作されたのは天正19年(1592)頃と言われているのだが、保存状態はかなり良好で青黒い彩色が今も色鮮やかである。秘仏なので写真を撮ることは許されないのでネットで見つけた画像を添付したが、この画像で本物の迫力がどの程度伝わるだろうか。

寺伝では中央の像が釈迦如来(7.3m)、向かって右が千手観音像菩薩(6.1m)、左の像が弥勒菩薩(高さ5.9m)を「本地」とするもので、それぞれ過去、現世、来世を象徴していると言われている。

「本地」という言葉を理解するには、学生時代に学んだ「本地垂迹説」という言葉を思い出す必要がある。
神道と仏教を両立させるために神仏習合という信仰行為を理論づけし、整合性を持たせるために平安時代に成立した「本地垂迹説」、をわかりやすく説明すると、「本当は仏教の仏(本地)で、日本では神道の神としてやっています(垂迹)」ということ。「権現」とは仏が神の形をとって仮の姿で現れたということを意味している。

この大きな権現像が安置されている厨子の近くに、特別拝観期間中だけのためにいくつか仕切られた特設スペースが設けられていて、正座しながら蔵王権現像を目の前で見ることが出来た。これだけ近づくと外陣から見るよりもはるかに大きく、その存在感に圧倒されてしまう。

火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開き、右足を高く上げて虚空を踏む。
右手に持つ法具は三鈷(さんこ)といい、煩悩を打ち砕くものだ。左手は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣を持ち、左足で地下の悪魔を押さえ、右足は天地間の悪魔を払う姿だという。青黒い色は仏の慈悲、赤い炎は偉大なる知恵を表すもので、蔵王権現像は神も仏も自然も一体になった日本独自の存在だそうだ。



悪を払うという怒りの形相は今の世の中を怒っているのか、それに対して何もしていない私のことを怒っているのか。じっと見ているうちに次第に自分を奮い立たせて、励まされているような気分にもなる。
普通の寺院の仏像なら、柔和な表情で鑑賞するだけで穏やかな気分になるのだが、蔵王権現像はむしろ見ているだけで力がみなぎり、自然に背筋が伸びるような思いがする。しばらくこの仏像に釘付けになってしまった。



金峯山寺は白鳳年間(7世紀末)に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行され、蔵王権現を感得し、そのお姿を桜の木で刻み、蔵王堂を建ててお祀りしたのがはじまりだそうだが、その時代は様々な悪事がはびこり、悪を調伏させるためにこのような蔵王権現像を作ったと言われている。

ならば今の時代にこそ、憤怒の形相の蔵王権現像が必要なのではないか。
今の政治家や企業経営者、教育者、公務員など、国家や社会や組織のリーダーたるべき立場の人間が、本当の「悪」と戦っているのか。戦うどころか、自己の利益や保身ばかりを優先し問題を先送りして、結果として大きな「悪」をのさばらせてはいないだろうか。そのことが、真面目に働き真面目に学ぶ人々を苦しめてはいないか。

日本人は争いごとを好まず、怒りは抑えて表に出すことが少ない民族だと思うのだが、怒らないから多くの問題が先送りされて、なかなか問題が解決されない側面もある。
日常生活の中で人の怒りを感じることが少ないからこそ、神や仏の怒りと対峙して自分を謙虚に振り返り、自分に関係する様々な問題を見つめる機会を持つことが、現代社会に生きる多くの日本人にとってきっと必要な事だと思うのだ。

圧倒的な存在感で怒りを感得できる素晴らしい秘仏の特別公開も、残すところあと1ヶ月を切ってしまったが、この機会に「蔵王権現像」を出来るだけ多くの人に見てもらいたいものだと思う。 
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2010年11月18日(木) 23:52 by 大絶賛ぜっひ皆さん行ってください 川越歴史博物館はか20年以  コメント削除
大絶賛ぜっひ皆さん行ってください 川越歴史博物館はか20年以上運営している3F立て博物館です。
武具甲冑関しては古い物で現存数が極めてすくない鎌倉時代のウブ星兜鉢・鎌倉末期の筋兜など室町後期の変り兜・安土桃山期の変り兜や南北朝時代の軍陣鞍鐙・室町末期頃の馬鎧・室町中期木製盾などなど中世~慶長元和期まで室町戦国桃山時代の資料が中心に所蔵され全てウブのまま展示されています 年間定期ごとに展示変えされていますがいまだに20年以上展示ししけれない兜具足腹巻胴丸や刀剣類が展示しけれない物が沢山あるそうです。今は国立博物館・外国・私立美術館博物館などに貸し出しはしていないそうですが全て写真撮影できます  

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

2010年11月07日 | 坂本龍馬

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)



前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。

「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」

  「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ今井氏は、それはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名 前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。
思うに、今なおある一 部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。
今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることにな り、惜しんでも惜しみきれないものである)」(引用終わり) 

と、今井から出てきたのは戊辰戦争で死んだ2名の名前だけである。あと一人は、「生きている」ということしか言っていない。
しかし、結城が「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評がある」と書いている点に注目したい。事件から33年も経過したにもかかわらず、龍馬暗殺は明治政府の高官が関与していたという風評が存在したのである。



今井信郎は明治2年(1869)に函館戦争で新政府軍に捕らえられ、降伏人として兵部省の訊問を受け、その際に仲間とともに坂本龍馬殺害を自白したために翌年身柄を刑部省に移され取り調べを受けた。その調書によるとメンバーは7名で「佐々木唯三郎(明治元年没)を先頭に、後から直ぐに桂隼之助(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)、渡辺吉太郎(同左)、高橋安次郞(同左)が2階へ上がり、土肥仲蔵(明治元年自刃)、桜井大三郎(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)と私は下に控えていた二階に上がった」と書いてある。
メンバーの数が違うのが気になるが、この時も死んだ仲間の名前だけを出すことで生きている仲間を守る意図があったようにも読める。そもそも今井信郎の言っている事はどこまで信用できるのだろうか。

ところが、今井に関する「近畿評論」の記事が出てから15年後の大正4年(1915)に、元見廻組肝煎であった渡辺篤という人物が死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。



この渡辺篤という人物は、今井が口述した桑名藩の渡辺吉太郎とは別人である。

また渡辺篤は、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言している。その記事が渡辺篤の死後に朝日新聞に掲載されたが、これは新聞記者の創作部分がかなり多いので省略する。

渡辺篤本人が書いた『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』という遺書は明治44年(1911)8月19日の日付となっており、「近畿評論」よりも11年後に書かれたということになるが、この原文は以前は次のURLで読む事が出来たがものの今ではリンクが切れてしまっている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000007.php 

そこで渡辺は
「…(慶応三年)11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、 横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。…」と書いており、現場に残されていた刀の鞘は世良敏郎のものだというのだ。

世良敏郎という人物は実在したようなのだが、渡辺は「書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。」と書いている。

こんな人物が刺客として送り込まれたことにやや違和感があるが、実在の人物を語っている点は注目して良い。渡辺篤の言うとおり今井信郎、世良敏郎と自分の3名でやったことが正しければ、今井信郎の証言は、生きている者に影響が及ばないために戊辰戦争で死んだメンバーの名前を挙げて、渡辺篤と世良敏郎を秘匿したということになる。

こんなことを考えていろいろ調べていると、暗殺の時刻も本や史料でバラバラであることがわかった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では事件が起きた時間を慶応3年(1867)11月15日の午後9時と書いている。これは通説に従ったのだろうが、この事件は龍馬が峰吉という書生にシャモを買いに行かせている間に起こっている。しかし、当時はほとんどの店舗が夕食時間の前に売りきって商売を終えていなければならない時代だった。常識的に考えて、冷蔵庫もなければ電気もないような時代に、いくら京都でもこんな時刻にシャモが買えるような場所があったのだろうか。

ところで今井信郎は「五ツ頃」と明治3年(1870)の「刑部省口書」で述べているが、江戸時代の刻(とき)では五ツとは午後8~9時頃を意味する。
http://www.viva-edo.com/toki.html 
今井を取材して結城礼一郎が書いた明治33年(1900)の「近畿評論」の記事では「晩」とだけ書かれている。

また明治45年(1912)の谷干城の遺稿では、中岡が坂本を訪ねたのが「今夜」で、龍馬と話している最中に何者かが訪ねてきて二人を斬った。龍馬が死んだのは事件翌日の午前1~2時頃と書かれている。

渡辺篤は、先程引用した文章では龍馬の宿に踏み込んだ時刻を「夕暮れ時」と書いているが、渡辺篤の死後に渡辺の証言の記事を書いた朝日新聞では「未明」と書かれている。朝日の記者は渡辺についての記事を書きながら、何故渡辺の文書に書かれた時刻を無視したのだろうか。

ネットでいろいろ調べると、事件とは直接関係のない土佐藩士の寺村左膳という人物が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺の件を日記に書き留めているのが見つかった。その日記に書かれている暗殺時間はやはり夕刻なのだ。
この日記には、「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたとあり、寺村左膳は龍馬の暗殺された11月15日は昼から芝居見物をしており夕方五時頃に芝居が終わって帰ると、家来が両名の暗殺のことをあわてた様子で伝えたと記されている。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/d3a14b234de2ce9fe1a3f790c60d5230

となると時刻は渡辺篤の遺書に書かれているのが正しいということになるのだが、この『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』は何故かあまり重視されていない。

もし夕刻の時刻が正しいのならば、京都の中心部で人通りも多く、旅館の主人も女中も宿の中にいたはずだから、もっと多くの証言が得られてもおかしくない。
しかし、同じく近江屋にいたはずの書生の証言もなければ、近江屋の主人や女中の証言すらないことが不思議であるが。そのような者の証言は、本で探してもネットで検索しても見当たらず、存在しない可能性が高そうだ。
当初から新撰組が夜に暗殺したことにストーリーを決めて、そのストーリーに合わない証言ははじめから取る意思がなく、関係者に緘口令を敷いたことは考えられないか。

最初に紹介した「近畿評論」で結城礼次郎がいみじくも書いているように、「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評」が明治33年頃にも根強くあったのであれば、もっと以前からそのような風評があったと考えるのが自然である。

もし武力討幕派あるいは明治政府の中に龍馬暗殺に関与する者がいたとしたら、谷干城はその風評を少しでも打ち消そうと考える立場だ。
坂本龍馬・中岡慎太郎が斬られたと聞いて真っ先に近江屋に駆け付けたのが谷であったのも何かひっかかる。谷は穏健派の龍馬と違い武力討幕派で中岡と同じ考え方だ。



谷干城が語った中岡慎太郎から聞いたという話は、倒幕派が疑われないために、かなり谷の創作がなされてはいないか。また本当に中岡慎太郎は一部始終を語れるような状態だったのだろうか。中岡の状態が話が出来るようなものであったとしても、その話を聞いたのが武力討幕派の数人であれば、いくらでも創作が可能であったはずだ。
以上の理由から、私には谷の言っている事は、一部真実が含まれるとしても、全体的にはあまり信用できないのではないかと考えている。

龍馬暗殺についての通説について、重要な部分で引っかかるところが他にもいくつかある。
ひとつは、龍馬や中岡が知らない人物を、何故、宿の中に入れてしまったのかという点。
今井信郎の証言では松代藩士、谷干城(中岡慎太郎)の証言では十津川藩士だが、素性のわからない人物は警戒して当たり前ではないのか。中に入れるとすれば、龍馬か中岡のいずれかが知っている人物しかあり得ないのではないか。



その点に注目して、下手人は京都見廻組ではなく土佐藩や薩摩藩が直接やったという説もある。あるいは、中岡慎太郎が京都見廻組を呼び込んで龍馬暗殺に関わっていたという説もある。後者の場合は龍馬と中岡が斬りあったことになり、目撃者を消すために藤吉も斬られたということになる。

もう一つ引っかかるところは、もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬や中岡を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしくないかという点である。
だから、幕府方が関与したとする説は私にはピンとこないし、明治政府が新撰組を犯人として近藤勇を処刑したこともおかしなことである。



結局前回書いたのと結論は同じだが、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕派の中におり、おそらく大久保利通、岩倉具視あたりが中心メンバーにいるのではないかと考えている。確たる証拠はないが、証拠がないのはどの説をとっても同じことである。

武力討幕派は後の明治政府の中心勢力となり、谷干城もそのメンバーの一人である。 また今井信郎も新聞も、権力批判に繋がることは軽々には語れなかったし、書けなかった。 だから信頼できる資料が何も残らない状況になってしまった。
そのために、坂本龍馬の暗殺については様々な説が出ており、将来決着するとも思えない。しかしよくよく考えると、誰が犯人かがわからないような状況の方が、明治政府にとっては望ましかったのではなかったか。

もうすぐ「龍馬伝」が終了する。
天下のNHKが、通説を覆すようなストーリーを書くようなことはおそらくないだろう。 今井信郎は出てくるそうだが、黒幕については様々な可能性を匂わすようなナレーションが入る程度で終わるのではないだろうか。

小説やドラマで多くの人が歴史に関心を持つことは非常に素晴らしいことなのたが、小説やドラマで描かれるたびごとに、真実と異なる歴史が拡がって定着していくようなことはないようにして頂きたいものである。
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コメント
その3でも書きましたが、「大久保利通と岩崎弥太郎」でしょう。維新後の癒着は目に余るものがあるからです。

 明治維新前は1番目ざわりであったのは坂本龍馬。

 その「政治的な大きさ」に、当事者の龍馬は自覚がなく、関心もなかったようでした。もっぱら直近の関心ごとは新政府の経済政策。ここでも大久保ー岩崎とは対立する。

 テロへの警戒心がなかったのが致命的でした。

 革命家は暗殺されてはいけないのです。

 極悪非道なレーニンのように「右手で握手して、左手に石を持て」という気持ちでいませんと。いざとなったら握手している相手の頭を勝ち割る気概が革命家には必要です。

 その点、大久保と岩崎は「非常」な点では、同類で覚悟もありましたね。龍馬はその点甘かったのが残念です。
 
 
この記事を書くときにいろんな人のサイトを覗きましたが、それほど古くない龍馬暗殺事件に関して、事件直後からよくこれだけの説が出てきたものだと思いました。中には千葉佐那説やお龍説までありましたが、これだけ様々な説が出るということは、直感的に明治政府の要人が臭いと思いました。
いろいろ調べると「近畿評論」で結城礼次郎が、当時「政府高官が関与したという風評」があったと書いているのを読んで驚きました。

記事にはあまり書かなかったのですが、京都見廻組が実際に関与したかどうかも正直確信が持てません。ひょっとすると、新撰組にアリバイがあったことから新撰組下手人説が崩れてしまったので、あくまでも幕府方からの指図があったと世間に思わせるために京都見廻組の今井に自供の演技をさせたのかもしれません。

大久保や岩倉が臭いと思ったのは私の直感だけで何の根拠もありません。
岩崎も確かに臭う人物ではありますが、その当時において龍馬に殺意を持つほどの状態であったか、大久保と陰謀事を相談するほどの関係であったかどうかはよくわかりません。

もし岩崎が誰かと組んではかりごとを練るとすれば、当時だったら後藤象二郎の方が、可能性があるのではと個人的には思います。
 
 
こんばんわ。
その1から4まで読ませていただいて、とても詳細にわかりやすくまとめておられるのに感心しています。

龍馬暗殺の諸説については、私も何冊かの本を読みましたが、その事実検証についてはどれも概ね差異はなく、あとは著者の推論にゆだねるしかないのですが、検証していくと、どうしても薩摩黒幕説というのは避けて通れないようですね。
その点は私も否定するところではありませんが、大久保黒幕説には同意しかねます。
よしんば大久保が関与していたとしても、西郷不承認の大久保単独犯説はあり得ないと思います。
良くも悪しくもこの時期の薩摩武力討幕派の中心は西郷でした。
彼の了承なしに大久保の一存で事を成すということは、少なくともこの時期はなかったと思います。
岩倉に至っては、大久保以上にその信頼を寄せていたのが中岡慎太郎でした。
中岡の死は、岩倉にとって痛恨の事件だったと思います。

後世に人格者として名高い西郷ですが、幕末のこの時期の西郷は冷酷なマキャべリストでもありました。
幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いを数々行ったのもこの時期です。
龍馬の死後、小御所会議の場において慶喜を擁護する山内容堂に対して、「短刀一本でかたがつくこと」といって脅し、決着をつけた話は有名ですが、この逸話でもわかるように、目的を果すためなら、相手が殿さまでも殺すことも辞さないといった西郷にとって、一浪士に過ぎない龍馬の命など虫けら同然だったでしょう。
 
 
続き。

一方、後世にダーティーなイメージが残る大久保ですが、彼のそのイメージは、西郷を人格者と崇める者たちが、その対比として作った虚像だと私は思っています。
孝明天皇の毒殺という話にしても、なんの根拠もない話ですし、江藤新平のそれも、自身の目的のために斬首したという見解は、かなり片方からだけ見た論だと思います。
前の稿でのコメントの方が、岩崎弥太郎と大久保の癒着について述べておられましたが、確かに岩崎は私腹を肥やしたかもしれませんが、大久保個人への見返りは何もありませんでした。
大久保は金銭には潔白で私財をなすことをせず、逆に予算のつかない必要な公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるような、そんな清廉潔白な人物でした。
彼の死後、家族がどれほどの財産が残っているかと調べたところ、多額の借金しか残っていなかったという話は有名です。

話がそれてしまいましたが、大久保黒幕説というのは、西郷を黒幕と考えたくない後世の者たちが作り出した説で、明治の時代には大久保を黒幕とする見解は存在しませんでした。
とかくダーティーなイメージでとられがちな大久保ですが、私が思う大久保は、龍馬と並んで幕末維新が生んだ最高傑物だと思っております。

長々とスミマセン。
 
 
坂の上のヒゲおやじさん、コメントありがとうございます。

龍馬暗殺について残された関係者の証言は、それぞれが誰かを守るためあるいは自己保身のために真実を歪めている可能性を強く感じます。おっしゃるとおり、最後は著者それぞれの直感的な推論に委ねるしかないようです。

坂の上のヒゲおやじさんとの結論の違いは、ひょっとすると大久保がダーティーなイメージで捉えるかどうかにかかっているのかも知れません。
コメントの中で「孝明天皇の毒殺は、何の根拠もない話」と書いておられますが、私は以前このブログで書いた通り、当時の記録や疱瘡の病状の記録からして毒殺の可能性がかなり高いと考えています。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/81/

岩倉も大久保も私にとってはダーティーな存在なので、龍馬暗殺の黒幕ではないかと書きましたが、西郷を黒幕から外したことには確たる根拠はありませんし、私のイメージに近いものだと思います。
仰る通り当時の薩摩武力討幕派の中心に西郷がいたことは理解しています。しかし岩倉や大久保がすることにいちいち西郷の了承が必要であったかは私にはよくわかりません。私は、西郷は龍馬暗殺に積極的関与はしていなくとも、少なくともそのような計画があることくらいは知っていたのではないかと思っています。

大久保はダーティーといっても私利私欲のために手段を選ばなかったということではなく、自分が正しいと考える国のありように変えるために手段を選ばなかったわけで、ある意味では清廉潔白でした。その点では西郷も龍馬も全く同じで、日本の国をどういう国にするか、どういう手順・手段でそうするかという点では意見が合わなかったということだと考えているだけで、大久保の明治政府における活躍までをも否定するものではありません。
 
 
こんにちは。
すみません、言葉足らずでした。
私が根拠がないと述べたのは、孝明天皇の毒殺説そのものではなく、その首謀者が岩倉・大久保という話です。
これも、竜馬暗殺の黒幕説と同様、確たる証拠のない推論に過ぎません。
その推論からいうと、岩倉説には頷ける点が多いものの、そこになぜ大久保が絡んでくるのかが疑問なんです。
武力討幕を進めるにあたって孝明天皇の存在が邪魔だった、というのがその理由だと思いますが、この時期の薩摩藩は長州藩とは違い、まだ武力討幕に対して半身の姿勢でした。
孝明天皇の死が、もう数ヶ月後だったら、大久保の関与も頷けるんですけどね。

大政奉還のおり、1日違いで紙切れとなった、偽物と言われる討幕の密勅が、岩倉と大久保で画策したものというのがほぼ通説となってますよね。
後年の岩倉自身が、「幕末、大久保と共同で人に言えないことをたくさんした。」と語っていますが、それは暗にこのことを言ったもので、しかしこの言葉が勝手に独り歩きして、「岩倉・大久保=陰謀家」というレッテルになっているように思えてなりません。
龍馬暗殺の時期、たしかに大久保は歴史の表舞台に出てきましたが、それまでの薩摩の外交担当は西郷、大久保は主に内政担当でした。
薩摩藩黒幕説を考える場合、まずは西郷を疑うべきだと私は思います。

とは言うものの、先日も申し上げたとおり、単に見廻組単独犯説も十分あり得ると思ってるんですけどね。
史実とは、後世の学者さんたちが深読みするほど複雑なものではなく、案外単純なものだったりするのでは・・・と。
コメント欄をたくさん汚してスミマセンでした。
 
 
もし孝明天皇が毒殺されたと考えた場合、黒幕は岩倉具視がからんでいる可能性が高いことは誰でも理解できると思いますが、なぜ大久保については名前が出てくるかについては、その根拠が私も良くわかりませんでした。

こういう時によく大久保の名前が出てくるのは、御指摘のあった岩倉自身の「幕末、大久保と共同で人に言えないことをたくさんした。」という発言に起因するものだと思います。私が大久保の名前を考えたのは、変な事件は岩倉と大久保とが共謀してやったというイメージからです。

龍馬暗殺事件に話を戻すと、もし謀があったとすれば、黒幕の人間は、誰がその指示を出したかをわからないようにするものだと思います。薩摩藩の外交担当の西郷が如何にも臭いと思われるような方法を選択することはないのではないでしょうか。別のルートを使って、いかにも幕府方が指示をしたように見せかけるものだと思います。

幕府方が暗殺の指示をしたことにしたいので、現場にわざと刀の鞘と下駄を残させて、新撰組の仕業ということにして言いふらした。しかし新撰組にはアリバイがあって反論されて薩摩が疑われた。
これではまずいので、戊辰戦争で捕まえた京都見廻組の生き残りの今井に自分がやったと言わせた…ということも考えられます。

本当に今井が龍馬暗殺にかかわったなら、無罪放免されるのはどう考えてもおかしく、明治政府から命を助けるのと引き換えにこう証言せよとの裏取引があったことも考えられると思います。

私は今井の証言も、谷の証言も、黒幕の人物をかばうための嘘がかなりあるのではないかと考えています。

単純に京都見廻組単独犯行なのかもしれませんが、それならば正当な業務であり「暗殺」ではなく、公的な記録に残っているべきだと思うのです。また今井が戊辰戦争で捕えられた時の証言や、近畿評論の結城に語った内容、渡辺篤の遺書の記述がもっと一致していないとおかしいと考えます。

私は単純に、事実を捻じ曲げ世論を誘導することのできた当時の権力者が一番臭いと考えてしまう方なのですが、ちょっと複雑に考え過ぎているのかもしれませんね。仰る通り、事実は案外単純なものかもしれません。

しばやんさん、こんにちは。

お世話になっております。
以前、京都で龍馬コーナーを作ることについて相談させていただいた者です。

おかげ様で、、もう少しで完成させることができそうです。
そこで、読み物の最後に、しばやんさんからご協力をいただいたことを書かせていただきたいのですが…いかがでしょうか。
「この読み物を作るにあたり、大阪府の「しばやんさん」からご協力をいただきました」というような形にさせていただきたいと思っています。
ご迷惑でしたらおっしゃってください。

あと、図々しくて申し訳ないのですが、
しばやんさんが桂浜で撮られた龍馬の銅像の写真、
使わせていただいてもよろしいでしょうか。空がとてもきれいですし、すごく素敵な写真だと思っています。
ぜひお願いします。
 
 
Yさん、頑張っていますね。
私が撮った写真はどうぞ使ってください。
私のブログの名前を出していただくことも、もちろんOKです。
趣味でやっていることとは言え、いろんな人に読んでいただけることは私もうれしいし、とても励みになります。
 
 
しばやんさんこんばんは。

Yです。
お気遣いありがとうございます。
幕末にそれほど興味がなかった私が、すっかりはまって
しまい、書いているうちに明け方になっていた、なんてことがありました。
しばやんさんのブログがとても面白いからです。

ありがとうございます。
お言葉に甘えて、使わせていただきます。
 
 
Yさん、龍馬コーナーが完成したらお店の場所を連絡くださいね。きっと見に行きますから。