しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説

2010年04月01日 | 徳島歴史散策

前回はかずら橋のことを書いたが、祖谷(いや)は平家落人伝説でも有名な場所でもある。 屋島の戦いで敗れた平国盛率いる残党がこの祖谷に住んだと言われているのだ。

Wikipediaによると、平家の落人が住み着いたと言われている地が全国で132ヶ所もあるらしい。脚色された信憑性の薄いものもかなりあるそうだが、祖谷地区には何軒も平家の末裔の住んでいた武家屋敷が残されており、平家の赤旗なども残されている。平家の末裔が住んでいたことについては確実だろう。

しかし、祖谷地区の平家伝説では安徳天皇がここで生きていたことになっている。平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそのように書かれている。



祖谷の伝承では「屋島の戦いに敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国の吉野川に出て南岸に渡った。」ことになっているのだが、実は安徳天皇に関しては祖谷をはじめ、鹿児島県三島村や対馬など全国で20か所ほど安徳天皇が隠れ住んだと伝承されている場所があるという。

安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させてわずか2歳の時(治承4年:1180)に天皇に即位している。もちろん政治の実権は清盛が握ったのだが、その年には源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破り、翌年に平清盛が死んでからは平家は源氏との戦に敗れ続けていくのである。

屋島の戦いが文治2年(1185)の2月、壇の浦の戦いが3月だが、屋島の戦いに敗れて平家軍の一部が天皇を連れて陸路で祖谷に向かうということは充分考えられることだ。

将来平氏を再興させ一族郎党を再結集させるためには、平清盛の孫である安徳天皇はなくてはならない存在であることは誰でもわかる。当時はカメラも何もなかったのであるから、源氏も平家も天皇の顔がわかる人は少数であったはずである。だから、良く似た子供を探して衣装を替えて本人とすり替えても源氏の兵士にはまずわからないし、「実は安徳天皇は生きている」と言い続ければ相手を撹乱し、同時に味方を引き付けることができる。

全国各地に安徳天皇が生きていたという伝説が残っているのは平家側が情報戦をかけた結果なのではないか。あるいは本当に安徳天皇が生きていて、どこにいるかわからないように工作したことも考えられる。
一方源氏側では、安徳天皇が死んでしまったことを広めて、平家勢力の再結集を防ぎたい。だから、平家物語にも書かせ、源平盛衰記にも書かせ、安徳天皇陵を下関に作り、琵琶法師に平家物語を語らせた。これらは源氏側の情報戦とは考えられないか。

そもそも鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には壇の浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」としか書かれていない。あまりにも簡単すぎる。

二位の尼と安徳天皇が入水したことや平家の武将が次々と入水したようなことは後世の作り話の可能性があるのではないか。平家物語も源平盛衰記も平家滅亡から相当後に書かれた物語で、これだけの作品が書かれた時期も作者も明記されていないのはどこか奇妙でもある。この物語の記述をそのまま鵜呑みにして歴史的史実としていいのだろうか。

祖谷の話に戻ろう。前回に大歩危峡遊覧船の事を書いたが、そこから車で10分程度走ると平家民俗資料館という所がある。


この屋敷は安徳天皇の御典医であった堀川内記とその子孫が代々住んでいた。中には平家の軍旗である赤旗や武具や生活用具、農機具などが展示されている。JAF会員の1割引もある。

ここからかずら橋を見て、それから東祖谷歴史民俗資料館に立ち寄った。ここでも赤旗や生活用具や農具などが展示されている。ビデオによる解説も興味深い。

次に、祖谷地区で最も大きい武家屋敷である喜多家を目指す。この屋敷は平家の末裔である小野寺氏を祖にする家柄で、今の建物は宝暦13年(1763)に建てられたものである。


この建物は公開が毎年4月1日から11月末日までと聞いていたのだが、近くにある樹齢800年の県下一の杉の巨木である「鉾杉」が見たくて立ち寄った。


これが鉾杉だが高さが35m、幹の周りが11mもあるのだそうだ。
たまたま喜多家は公開に向けての準備中で、運よく無料で見学させていただいたが、写真にはビニールシートが写ってしまった。

この喜多家は道幅3メートル程度の狭い山道を5㌔以上走らないとたどり着けない。退避所が何か所かあるが、観光シーズンに車がすれ違うのは大変だと思う。帰り道で運悪くトラックと出合い、細いS字カーブをバックで退避所まで辿り着くのには冷や汗ものだった。

最後に、祖谷渓の奥にある「小便小僧」を見に行く。このように深い谷が10km近く続き、谷は深い所で100mを超え、まさに深山幽谷と呼ぶべき場所である。



夕刻5時頃にホテル「秘境の湯」に到着。このホテルは施設も食事もお風呂もサービスも良好で、気持ち良く過ごすことができた。


平家一族の歴史ロマンを感じさせる楽しい一日であった。
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祖谷のかずら橋

2010年03月29日 | 徳島歴史散策

ずっと前から、徳島県祖谷(いや)地方に行ってみたいと思っていた。どうせ行くのなら、桜の咲きそうな季節にと思い、3/27から2日間家内と祖谷地方から金毘羅さんを巡るドライブ旅行に行ってきた。

早朝に吹田の自宅を出て11時ごろ大歩危近辺にあるもみじ亭で「祖谷そば」を食べ、大歩危の「まんなか」という旅館から出航する大歩危峡遊覧船に乗って吉野川の激流が2億年もの時を経て大自然が作り出した渓谷美を楽しむ。大歩危あたりは比較的吉野川の流れはゆったりとしており期待したほどのスリルはなかったが、景色は充分楽しむことができた。新緑の時期、秋の紅葉期などはもっと素晴らしいことだろう。



祖谷地方に行くには大歩危から山道をさらに20分程度走らなければならない。
祖谷地方は日本の三大秘境の一つに数えられている場所である。三大秘境とは岐阜県白川郷、宮崎県椎葉村とこの祖谷を指すが、祖谷については別に「日本のチベット」とも言われており、平家の落人が住み着いて様々な文化を残している地として以前から興味があった。

今回は日本三大奇橋の一つである「祖谷のかずら橋」の事を書いておきたい。

まず、日本の三大奇橋と言われている場所の確認だが、困ったことにこの橋の中身は諸説あるようだ。

山梨県の猿橋、山口県岩国の錦帯橋の2つはいずれも一致しているが、3つ目は栃木県日光の神橋、徳島県祖谷のかずら橋、富山県黒部川愛本橋とわかれておりどれが正しいというものでもなさそうである。

この橋がいつからできたかについても、弘法大師が架けたとか平家の落人が架けたとか諸説がある。後者に説に関して言うと、平家の落人がこの地に住み着いたことは事実で平家屋敷が数軒残されていることは次回に書く予定だが、かずら橋は源氏の追っ手を防ぐようにかけたという説は確かに説得力がある。

記録では正保3年(1646)の「阿波国図」にかずら橋が7つ存在したと記録されているそうだ。また寛政5年(1793)の「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には13のかずら橋があったとされている。



上記の図は、弘化3年(1846)に出版された「阿波名所図会」に書かれているかずら橋の絵だ。

明治44年の「美馬郡郷土史」には8本のかずら橋があった旨の記録があるそうだが、大正時代に危険防止のために全てのかずら橋をワイヤーの吊り橋に架けかえられてしまったらしい。しかし昭和2年に当時の三好郡池田町長が観光客を集めるためにかずら橋を復活すべきと考え、昭和3年に昭和のかずら橋が完成し、現在にいたっているとのことである。(危険防止のため、針金で補強されている)

現在祖谷地区にかずら橋は3つあるのだが、奥祖谷にある二重かずら橋は通行できるのは毎年4月から11月なので今回の旅行では行くのをやめた。



写真のかずら橋は西祖谷山村善徳にあるもので長さが45mあり、祖谷の3つのかずら橋の中では最も大きく、現在重要有形民俗文化財に指定されている。通行料は通常500円だがJAF会員の10%割引があった。

はじめは簡単に渡れるつもりで軽い気持ちで渡り始めたが、橋の床の部分は板が半分、隙間が半分で14m下の谷底が丸見えで、橋全体がゆらゆら揺れるのは結構怖く、カメラのシャッターを押すのに冷や汗が出た。

今もかずら橋は3年に一度架け替えられているのだが、橋に使うシラクチカズラが10年以上前から不足するようになってきたらしい。

以前はシラクチカズラは祖谷の山に沢山あったのだが、植林したスギやヒノキに絡みついて成長を妨げるとして切られるようになったため、急に少なくなったそうである。

何年か前にシラクチカズラの試験栽培を始めるとの記事を読んだことがあるが、うまくいっているのだろうか。祖谷の象徴ともいえるかずら橋はいつまでも残しておいてほしいものだ。



かずら橋を渡るとすぐ近くに琵琶の滝がある。落差30mの結構大きな滝で、かって平家の落人たちがこの場所で都を偲んで琵琶を奏でて慰めあったとの言い伝えがあるそうだ。
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