しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

伝説の美女・小野小町とその後の伝承

2011年05月28日 | 平安時代

紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。



紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。

たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。
小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」
(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。) 

「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。

また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。
この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。



昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。
しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。

実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。

たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。
紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。

Wikipediaによると、小野小町は「生没年不詳」としながらも「数々の資料や諸説から生没年は天長二年(825)から昌泰三年(900)頃と考えられている」と書かれているが、この説はどこまで信用できるのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA

南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。



小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。

小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。
小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程のWikipediaによる小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。

また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41~49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。

となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。

出生地を調べるとこれも諸説ある。
秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。
小町の墓所も全国に点在している。
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。

若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。

小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。次のURLで「卒塔婆小町」のあらすじが読める。
http://www.asahi-net.or.jp/~HF7N-TKD/explanationJ/Jsotoba.html 



上の画像は「卒塔婆小町」で使われた能面である。

夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。

滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。



京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻が画像と共に次のURLで紹介されている。
http://hiratomi.exblog.jp/4036054/ 

晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。

若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。

今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
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BLOGariコメント

はじめまして

「わびぬれば 身を浮き草の 根を絶えて 

           誘う水あらば いなむとぞ思ふ」

誘って下さるならどこにでもついて行きましょうという小町の伝説が各地に残るのも面白いですね。
小町の代名詞的な市女笠を被った女性を「小町のようだ」と思った人々によって小町伝説が生まれたともいいます。

小町伝説は、うつろう儚さを感じますね。
 
 
きせきさん、はじめまして。

きせきさんのブログも拝見させて頂きました。家紋の世界は未知の世界なので、これから時々遊びに行って勉強させて頂きます。

小町の歌は私は教科書に載っていた程度しか知らないのですが、きせきさんはいろいろ良くご存知ですね。

「小町伝説」も、下品なものまでいろいろあって、ほとんどが小町を蔑むものになっているのは、能・狂言で脚色されて全国で演じられた影響があったのかもしれませんね。

人生は無常であり、素晴らしい時はすぐに過ぎていくというテーマは、いつの時代も観客を魅了するのでしょうね。


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