しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

一度神社になった国宝吉野蔵王堂

2010年02月21日 | 廃仏毀釈・神仏分離



3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。



ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。



上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。



このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること) 

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。



この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。 
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