しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

悲しき阿修羅像

2009年12月29日 | 廃仏毀釈・神仏分離


今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html



その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。



興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が解説されており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=OauBe4jYhCQ

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。 
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 コメント
 
だれの責任というものではないのかも知れませんが、
破壊行為によって時代刷新の機運が盛り上がるというのは、
寂しいですね。
文化財の海外流出を目論んだ情報操作が行なわれたということはないのでしょうか?
 
 
ならばさん、私がこのブログを書き始めたときに一番興味を持っていたのが廃仏毀釈でした。それまでは、日本人はずっと古い仏像を信仰して大事に守られてきたものとばかり思っていましたが、明治時代にわが国は歴史ある寺院の建物や仏像の多くを失いました。

奈良や京都もかなり被害がありましたが、多くの寺院があったので残った寺院も多かっただけです。しかし残された寺院も、収入を絶たれて大変な苦労があったはずです。
この時に明治維新の中心藩だった薩摩ではほとんどの寺院が破壊されています。

海外流出の情報操作のようなものはありませんでしたが、収入がなくなったために僧侶の生活のためにやむに已まれず売却された美術品はかなりあったはずです。

明治新政府は天皇を中心とした中央集権国家を作り国家神道を国の宗教と定めて、仏教は不要だと考えました。廃仏毀釈は明治政府が関与しているはずなのですが、いつの時代も勝者にとって都合いい事だけが残され、都合の悪いことは残されていません。

かみがもばなし

2009年12月20日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。

この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。

当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。




(以下引用) 
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。

ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、

「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」 

と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。

そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。

むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。

ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。 

明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。

ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。

上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり) 

「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。

そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm

以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。

中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。 
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日本の歴史を変えた紀伊大島の人々

2009年12月18日 | 和歌山歴史散策

前回はエルトゥールル号事件のことを書いたが、その事件の4年前の1886年10月24日に、やはり紀伊大島で日本の歴史を変えるきっかけとなったノルマントン号の遭難事件が起こったことも書いておきたい。この事件を最初に発見したのは紀伊大島樫野崎灯台の灯台守と記録にあるので、遭難場所はエルトゥールル号の遭難場所にかなり近かったはずである。



記録によると発見した灯台守の連絡により百四十人余りの漁師がただちに海に乗り出して、海上を漂っていたボートから、船長ドレイク以下27人を救出した。

ところが、ここで問題が起こった。

このノルマントン号には23人の日本人船客も乗っていたのだが、日本人は誰一人として救出されずに全員水死し、ボートで船長が救出したのは一人の中国人コックを除いてすべてイギリス人ばかりだったのである。

この事件に関して、当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり、この領事による海難審判で船長ドレイク以下全員に無罪判決が下ったのだが、審判長も陪審もすべてイギリス人によって下されたこの審判に対する日本国民の怒りは大きく、日本政府は改めて船長を殺人罪で告訴し横浜領事裁判所で裁判することになるのだが、ここで出された判決も「陪審員は、船長ドレイクが殺人を犯したと判断する」としながらも、禁固三ヶ月程度で賠償を一切却下され、不平等条約の悲惨さを天下に知らしめることとなった。



この事件を機に国内で不平等条約改正の世論が盛り上がり、日本政府も国内の法典の整備をし、欧風化を推進するなど努力をして、この事件の8年後の1894年に陸奥宗光がイギリスとの交渉により、領事裁判権の撤廃などを含む新条約締結に成功することになったのである。

ノルマントン号のイギリス人を救ったのも、エルトゥールル号の遭難者を救出したのも同じ紀伊大島の人たちで、エルトゥールル号事件の時は、4年前に起こったノルマントン号事件を恐らく経験したか少なくともその顛末を知っていたものと考えられる。それにもかかわらず、大島の人々は村中で一丸となってエルトゥールル号の遭難者を救い出したのである。

その献身的な島民の行為が、トルコとの友好のきっかけとなったことは前回記したが、ノルマントン号事件の時も、もし紀伊大島の人々がイギリス人の救出にあたらなかったら、条約改正を求める国内世論があれほどは盛り上がることはなかったし、イギリスもそう簡単には条約改正に応じることはなかったと思われるのだ。

いずれの事件も、大島の人々の献身的な行為が日本の歴史を動かす大きなきっかけとなったのである。



前回書き漏れたが、紀伊大島の岩礁が多く、波は非常に荒く、島全体がテーブル状になっていて海から島に入ることは容易ではない。特に樫野崎近辺は海抜60メートル近い断崖絶壁で、ボートに乗ったイギリス人を救うことも、海に漂うトルコ人を救うことも命がけの行為であったはずである。 

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紀伊大島の樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、海金剛など

2009年12月16日 | 和歌山歴史散策

前回串本で無量寺に行って萬口の鰹茶漬けに感激したことを書いたが、串本の旅行の当初の目的はそこからくしもと大橋を渡って紀伊大島に行き、樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、トルコ記念館、海金剛を見ることがメインだった。 



実はこの場所をずっと前から見たいと思ってきたのだが、その理由は10年前にインターネットで次の文章を読んで感激してしまったからである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog102.html

親善訪日施設としての役目を終えて、トルコの軍艦エルトゥールル号は帰国の途に就くのだが、1890年9月16日に紀伊大島の樫野崎で台風による強風にあおられ岩礁に激突して沈没し、587名が死亡または行方不明となる大惨事となった。 



ここが有名な海金剛とよばれるところ。島の右端にみえるのが樫野崎灯台である。エルトゥールル号遭難場所はこの近くだが、遭難当時樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、この高さ60メートル近い断崖絶壁を這い登って灯台守に遭難を知らせたそうだ。
通報をうけた樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱にあたり、非常用のニワトリを供するなど生存者の健康回復に努め、69名が日本海軍の戦艦によって1891年1月2日に晴れて母国に帰ることができたのだが、詳しくは是非紹介したサイトの記事を読んで頂きたい。この文章を読めば、何故トルコが今なお親日国家であり、何故イランイラク戦争の時になぜ孤立した日本人のために救援機を出してくれたのかを理解することができる。 



ここが遭難慰霊碑。今でも5年おきに串本町とトルコ大使館共催で慰霊祭が行われている。下はトルコ記念館だ。 



この遭難事件の事はトルコの教科書にも永年記述されてきたらしいが、日本人はいいことも悪いことも忘れることが少し早すぎるのではないだろうか。昔の日本人の素晴らしい話を末長く記憶に留めておく努力が少しくらいは必要だと思う。
この日は、串本海中公園を見てから太地に向かい夕食は旅館のクジラ料理で大満足。翌日の昼食はマグロ料理を食べて帰ったことは言うまでもない。 

ちなみに、私が泊まった宿はここです。

太地温泉 花いろどりの宿 花游

太地温泉 花いろどりの宿 花游




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虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け

2009年12月14日 | 和歌山歴史散策



年賀状を準備する季節になってきた。といっても、15年ほど前からずっとパソコンで年賀状を作っているのでポイントはどの図柄を選ぶかなのだが、虎の絵なら今年見てきた無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」が素晴らしかったのでこの虎の顔を拡大して年賀状に使うことにした。

今年の9月に南紀方面の旅行を計画していた時に、無量寺というお寺が串本にあることを知って旅程に組み入れたのだが、実際に訪れてみると小さいお寺ではあるが、境内に日本で一番小さい美術館と言われる「串本応挙芦雪館」があり、江戸時代の画家円山応挙とその高弟長沢芦雪の素晴らしい襖絵の実物を見ることができる。

無量寺は1707年の宝永地震の津波によって全壊・流出してしまうのだが、その80年後に愚海和尚によってこの寺が再建され、和尚が京都にいたときの友人であった円山応挙がその祝いとして障壁画を12面を描き、高齢のために高弟であった長沢芦雪を南紀に呼んで残りの障壁画が作成されたとのことである。 



応挙の「波上群仙図」も良いが、芦雪の「龍虎図」が強く印象に残った。
「龍虎図」は名前の通り、龍の絵と虎の絵が対になっているのだが、とにかく「虎」の絵が気に入った。

虎は実は龍を睨んでいる構図なのだが、こちらを睨みつけて今にも襲いかかってきそうなすごい迫力のある絵で、この虎の絵の前でしばらく釘づけになってしまった。芦雪はこの虎の絵を、猫をモデルにして描いたと言われているが、小さい猫を見て虎のしなやかな肢体と野性味を墨と筆だけで存分に引き出しているのは本当にすごいと思う。 



串本は本州の最南端に位置する市だが、いろいろ見るところがあって面白いし、食べるものもおいしい。今回は、お昼のお勧めスポットを書いておきたい。

無量寺を見てから、お昼は萬口(0735-62-0344)というお店で有名な鰹茶漬けを食べることにしたが、開店前から10人以上の列ができていた。もし人が並んでいなかったら入るのをやめていたかもしれないほど、外見は相当ボロボロの建物だったが、食べてみればこれだけの列ができる理由はよくわかる。病みつきになりそうな味だ。 



一杯目はごはんの上に特製のごまだれで漬け込んだ薄切りの新鮮な鰹を並べて海苔をのせてたれを少し使って海鮮丼風に食べるのだが、二杯目は同様に鰹を並べて海苔をのせて残りのたれを使ってお茶をかけてお茶漬け風に食べる。こんな鰹茶漬けを出してくれる店が大阪にあれば喜んで食べに行くのだが、どなたかご存知でしたら教えてください。 
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大山崎美術館と宝積寺

2009年12月12日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。

大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが京都府からの要請もあり、天王山山麓の景観を保全するためにこの山荘を買い上げ、1996年に美術館として再生したというものである。 


その後建物の文化的価値が認められ2004年に国の有形文化財として登録されている。
旧館はレトロな雰囲気がよく、棟方志巧や河合寛次郎の作品がよく似合う。
2階にはカフェがあって、そこから眺める庭園や山の景色もよいし、木々の間から隣の宝積寺の三重塔も見える。

私が訪問した日は紅葉には早い時期だったが、庭の紅葉は素晴らしいそうだ。ネットで調べると、昨年の秋の美しい景色の写真が出ている。 
http://www13.plala.or.jp/chisoku/yamaza.htm

また新館は安藤忠雄氏の設計によるモダンな建物で、モネの作品などが展示されている。

時間があったので、美術館のすぐ近くの宝積寺にも立ち寄った。このお寺はあまり観光案内などには書かれていないお寺だが、三重塔をはじめ8つの仏像などが重要文化財に指定されている。何故観光地としてあまり知られていないのが不思議なくらいである。 


ボランティアの人が、本堂・閻魔堂の案内をしてくれた。閻魔堂は閻魔大王をはじめとする五体の鎌倉時代の仏像のために新しく建てられたものだが、間近で見る閻魔大王像をはじめとする仏像の迫力のある表情に圧倒されてしまった。これだけ明るい場所で近寄って重要文化財級の仏像を見せてくれるお寺はあまりないのではないだろうか。 


説明によるとこれらの仏像は、すべて明治初期の廃仏毀釈の時に廃寺となった大阪府島本町の西観音寺というお寺から移されてきたものとのことである。石清水八幡宮が廃仏毀釈で堂宇や仏像などを撤去された話を知ったばかりだけに、少しばかり複雑な思いがした。

歴史には書き残されていないものの、時代に抗って文化財を守ろうとした人々が各地にいたからこそ、日本に多くの古い寺院や仏像などが残っているのだと思う。 
この日は予定外に素晴らしい仏像を拝見できて満足だった。 

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石清水八幡宮と松花堂弁当

2009年12月09日 | 廃仏毀釈・神仏分離

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。

石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所だったらしいのだ。


当時の絵図をネットで見つけたが、男山には大塔や八角堂などの多くの仏教施設が書き込まれている。下は地図で場所を復元した図である。 


ところが明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。またこの時期に阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財も少なくなかったらしい。

京都で生まれ育ちながら石清水八幡宮へは一度も行ったことがなかったのだが、いろいろ調べると興味を覚え急に行ってみたくなり、石清水八幡宮から松花堂庭園を歩いて松花堂弁当を食べにいくコースを思いつき、先日夫婦で歩いてきた。

大山崎ICから神社の一の鳥居近くの駐車場に車を止め、京阪八幡市駅前の観光案内所でガイドマップをゲットしてから、参道を進み始める。

一の鳥居を抜けるとすぐに頓宮があり、次いで高良神社がある。 徒然草では「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」と書いてあり、この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら肝心の本殿のある山に登らずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所である。

古い絵図と見比べると、今の頓宮あたりが「極楽寺」であることがわかる。また高良神社は思いのほか小さい社だったが、以前はかなり大きい建物だったらしい。

二の鳥居を過ぎて七曲りを抜けて、裏参道に入り江戸前期に松花堂昭乗が隠棲した跡地を見たのち、石清水社の湧水石清水井を見る。さらに登ってやっと男山の山頂となり、南総門を通って本殿を参拝した。 


本殿は八幡造といわれる建築様式で、丹漆塗りの立派な建物であるが、残念ながら平成の大改造中で一部がシートで覆われていた。 


本殿の西側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。 

そこから山を下りて、「松花堂弁当」名前の由来となった松花堂庭園で昼食。ランチで税込3859円はやや高いが、それだけの価値はある。 


松花堂庭園の中に室町期の建築である松花堂書院(京都府登録文化財)があるが、これは男山にあった泉坊(男山四十八坊の一つ)の客間を移築したものでかなり立派なものであった。当時はこのような建物が男山にいくつもあったかと思うと、残念でならない。

京都には古い寺院がいくつも残っているが、廃仏毀釈で失われた文化財も測り知れない。「廃仏毀釈」という言葉は以前から知っていたが、このすさまじさは通史を読むだけでは到底理解できないものだ。 
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隠れ切支丹の里

2009年12月04日 | 大阪歴史散策

171号線の中河原交差点から忍頂寺福井線に入り、履正社茨木グラウンドから山道に入る。サニータウンを抜け大岩郵便局を過ぎると暫く樹木のトンネルのようなところを走る。そこを過ぎると、棚田が広がるのどかな田園風景になり、しばらく行くと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。案内通り左折するとその資料館(茨木市大字千提寺262)がある。思ったよりも小さい資料館だった。


キリスト教がフランシスコザビエルによって天文18年(西暦1549年)に伝えられたことは、小学校や中学校や高校で習ったし、教科書や参考書にはザビエルの肖像画が必ず掲載されていた。神戸市立博物館で本物も見たことがあるが、今まで何度写真でみたかわからないあのザビエル像が、この茨木の山奥から出てきたことはここの展示物を見て初めて知った。


資料館のパンフレットによると、キリシタン大名として有名な高山右近は、永禄6年(1563年)11歳の時に洗礼を受け、その後天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間三島地方(現在の摂津市・茨木市・高槻市・吹田市・島本町)はキリシタン宗の一大中心地となるのだが、天正15年(1587年)豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、同様に徳川家康もキリシタン禁教令を発し、高山右近は慶長19年(1614年)に信者達とともにルソン島のマニラへ追放され、他の信者たちは死罪・流罪等の厳しい刑に処せられることになる。

そこで信者達は、表面上は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるように信仰していたのだが、大正8年(1919年)に、キリシタン研究家の藤波大超氏によりキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されたとのことである。資料館では、元信者の子孫に当たる方からの説明を受けることができる。

このような山奥であったからこそ細々と信仰が続いたことは理解できるが、なぜこれだけ急激に、また激しくキリスト教を禁じることになった経緯が長い間腑に落ちなかった。

3年ほど前にインターネットで、秀吉が何故禁教令に踏み切ったかがスッキリ分かる解説を見つけた。日本の教科書では西洋人に都合の悪いことは書かないことになっているのでしょうか。一度読めば、誰でも秀吉の英断に納得できるのではないでしょうか。

興味のある方は、是非このサイトをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400

日本人が奴隷となって海外に売られた話は当時の宣教師の記録や伴天連追放令の11条などでも確認できます。

スペイン人がインディオを奴隷にして絶滅させたように、またポルトガル人がアフリカ原住民をその代わりの奴隷にしたように、当時の西洋では奴隷は普通の商品でした。西洋人が日本に来て、日本人を奴隷にしようという魂胆と日本を植民地化する野心を理解しなければ、秀吉や家康が何故禁教令を出し伴天連を国外追放にしたかが見えてきません。

多くの教科書では、異教徒を弾圧したくらいのことしか書かれていませんが、これでは歴史のリアリティを感じることができません。
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