しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

2011年01月15日 | 戦国武将

毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。



元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話だ。



この「三矢の訓」の話はテレビでも何度か子役が出てくるのを見たような記憶があり、人形や絵などでも見たことがあるので私も長い間本当にあった話だと信じていたが、最近になって友人からこの話は、時代背景からあり得ないことを教えてもらった。

まず、毛利元就がなくなったのは元亀二年(1571)で、享年75歳であった。
長男の隆元は、それより8年前の永禄六年(1563)に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいる事はあり得ない。
また、元就の臨終の時に、次男の元春は41歳、三男の隆景は38歳の壮年ということになる。三本の矢を折れないのが少年であれば理解できるが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうだろう。
だから、毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話である。

また毛利元就の子供は3人ではなく実は12人いた。男10人女2人の子沢山である。なぜ、「三本の矢」なのかと、調べるといろんな疑問が湧いてくる。

では、このような作り話がいつ頃から流布したのだろうか。
ネットでいろいろ探すと、中国新聞の特集記事が見つかった。この話が広まったのはどうやら明治時代の教科書がきっかけらしいのだ。
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97041801.html 
このサイトを読むと、明治15年(1882)編纂の道徳教育書「幼学綱要」にこんな話が登場していると書いてある。

毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…」。
と、ここでは矢の話が出てくるが兄弟の人数も名前も記されていない。

また大正8年(1919)文部省編纂の「尋常小学読本」にも良く似た話が出てくるのだが、ここでは「父のおしえ」と言う表題で、毛利元就の名前も記されていないそうだ。
中国新聞のこの記事ではこの話が、長男隆元、二男元春、三男隆景に矢を折らす「三矢の訓」に変化したかははっきりしないと書いてある。

自宅の本棚から小学館文庫の「精選『尋常小学修身書』」を取り出して確認すると、昭和9年の「尋常小学修身書」が掲載されていて、ここではこうなっている。

「…元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも『三人が一つ心になって助け合うように。』といましめて居ましたが、或る時、三人に一つの書き物を渡しました。…」(p337) 

と、今度はどこにも矢の話が出て来ないのだ。「三矢の訓」は明治時代の「幼学綱要」から大正・昭和の「尋常小学校修身書」が混ぜ合わさったような話になっていることがわかる。

昭和9年の「尋常小学修身書」に書いてあることは、概ね史実に基づいたものである。
毛利元就は弘治三年(1557)11月25日に隆元・元春・隆景三兄弟の結束を説く14ヶ条からなる教訓状を残しているのだ。



この「三子教訓状」は国の重要文化財に指定されていて、現在山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。

原文は次のURLで、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/sengoku/tegami/m405.htm 
現代語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

これを読むと、毛利元就が言っている事は、矢の話はないものの、「三矢の訓」に近い内容であることがわかる。

(口語訳) 
「第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表わせぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ 元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。


第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。…」

次男の小早川隆景には子供がなく、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊が養子となり小早川秀秋をなのるも嗣子なくして病没し小早川家は断絶したのだが、毛利元就が第六条で述べたとおり毛利家も吉川家は戦国時代から江戸時代、明治時代を生き抜き今も続いている。毛利元就の想いが子孫に伝わったということなのか。

三矢の訓」は誰が聞いてもいい話で、わかりやすくて含蓄がある。
しかし、子供に道徳を教えるためにいい話をわかりやすくしようとして、明治時代に史実を曲げてしまったことは良くなかった。教科書で一度でもそういうことをすると、長い間に史実でないことが日本人の常識となってしまう。



広島県安芸高田市吉田町の「少年自然の家」の敷地は毛利元就の居館跡と伝えられているが、この場所は以前大江中学校(昭和43年[1968]に廃校)の敷地であった。

校地内に毛利元就の居館があったことから、当時の中学校生徒会の手で昭和31年に「三矢の訓跡」の碑が建てられてそれが今も残っている。



サッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」というチーム名は、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語の「矢」を意味し、この「三矢の訓」にちなんだものであることは言うまでもない。

「三矢の訓」が作り話であることがわかっていれば、大江中学校の生徒会が碑を作ることもなかったであろうし、広島のサッカーチーム名も異っていたことであろう。 史実と異なる話を創作して伝えたことの罪は本当に重いと思う。
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コメント
 400年前の「逸話」でありますし、真実でなかったとしても、良いのではないかと思います。

 いかにも「老成の武将」であった毛利元就なら言いそうだからです。

 織田信長は「三本の矢」なんて言うようなキャラクターではありません。秀吉も、家康も言いそうもありません。

 若い頃から、尼子氏と大内氏の大国の間でうだつの上がらなかった毛利元就であったこその逸話であると思うからです。

 今の年齢なら75歳以上の後期高齢者に近い年齢(50歳を超えていたはず)で、厳島の合戦で陶氏を打ち破り、ようやく「頭角を現しました。

 「謀略こそ我が命」と信じていた毛利元就ゆえに、子や孫の行く末に気を配り、他国からの働きかけで兄弟が離反しないように、対立することで勢力が分断されないように細心の注意を払ったもではないでしょうか。

 「謀略活動」は天性のセンスがいりますし、学問で身につくものではありません。相続できないと元就は考えたと思います。

 確か「毛利は地域政権(中国の覇者)にはなるが、天下は狙わない」という家訓を残したのも、老成して元就はようやく尼子氏と大内氏を押しのけて中国地方の覇権を打ち立てたからでしょう。

 毛利元就には、信長のような地の利もなく、年齢的にも寿命がこの先ないことがわかっていたのでしょう。元就と同じ謀略のセンスを持った後継者が出ないことも知っていたのです。

 息子たちには中国の覇者としての「守成」を第1義にした経営理念を教え込もうとしたのではないでしょうか。

 しかしながら後年、孫の代になって毛利輝元が、石田三成にそそのかされ、関が原の戦の総大将に祭り上げられました。大将の器でもなかったのにそうなったのは、毛利家の「家訓」を逸脱した行為でありました。

 吉川元春は早くから徳川家と密接に繋がっていましたし、その功績(助命嘆願もしたのでしょう)で毛利家は領土を削られても、防・長2国に押し込められても取り潰しは免れたのです。
 
 
  1000字以上のコメントゆえ続きです。

 以後長州藩の馬揃えの行事では、「いざ東への征伐は」と部下が聞くと、藩主は「まだそのときではない」と答えるのがきまりであると、出展は忘れましたが読んだことがありました。

 江戸幕府開幕から約260年後に、ようやく倒幕の兵をあげ、幾度か敗れながらも、薩摩と結託して、遂に江戸幕府を倒したのですから。

 四国ブロックの覇者・高知の長宗我部元親は、もともと信長ー秀吉とは敵対し、明智光秀や徳川家康と結託していました。

 しかし後継者の長宗我部盛親が、関が原で状況判断を誤り、戦場で戦をしなかったにもかかわらず取り潰しになりました。薩摩は脱出するために死に物狂いで、藩主を生かすために奮戦したことが、藩として生き残ったのです。

 話がそれましたが、創業者や中興の祖の「家訓」が3代以上伝達されることは難しい。

 今回の逸話も毛利家が関が原の誤った判断でありながら、辛くも生き残り、幕末維新期に活躍し、明治政府の中枢を担ったゆえの「歴史の上書き」行為ではないのかと私は憶測しています。

 吉田松陰が「棒のような男」と称した山県有朋が明治政府の元老で権勢を長くふるっていたことも関係があったのかもしれませんね。
 
 
しばやんさん、こんにちは。

「三矢の訓」教えは毛利にとっての基本ですね。

私なども毛利シンパ(=長州びいき)なので尊い教えの一つです(笑)

さて、この書状が書かれたのが元就が61歳の時である弘治3年(1557)ですから、その時点で元就の子で成人している男子は隆元、吉川元春、小早川隆景の3人のみで、残る弟たちで生まれていた穂井田元清=6歳、椙杜元秋=5歳、出羽元倶=2歳などは海の者とも山の者とも分からないので、書状をしたためたと元就も述べていますね。

実際にこの後、3兄弟よりも後の弟たちが戦場で活躍する舞台が関ヶ原の前哨戦ともいうべき、大津城の戦いですが、この時点での元就の子で、毛利家の重鎮を担ったのは元就の八男の末次元康と九男の小早川秀包のみ。

でも意外に頑張ったんですよね(笑)。元就さんが生きてたらどう感じた事でしょう?
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。

真実でなかっても、いい話であれば良いではないかという意見はは、多くの人が支持されるかもしれません。

しかし私は、いい話であっても史実と違うことを教科書に載せるという行為は、史実でない悪い情報を流して歴史的な評価に値する人物を貶める事にも繋がっていきますし、とんでもない人物が作り話によって国民的英雄になることにもつながることになります。

あってはならないことですが、将来日本が中国の支配下になったとして、昨年尖閣事件で中国の国益を利した政治家が作り話で日本の英雄に祭り上げられたとすれば、今の時代に生きている人であれば馬鹿バカしいと思うでしょうが、数十年もたってから、教科書に載って子供が本気で英雄だと思えばどうなるでしょうか。

教科書はある意味で、子供を洗脳させる手段としても使いうる教材です。現に拉致問題で話題になっている国の元首様は、その国の教科書では今も英雄扱いです。

私はいい話であっても悪い話であっても、史実を曲げて、それをあったかの如くに教える事は良くないと考えています。小説ならやむをえないとしても、少なくとも教科書には載せるべきではないと思います。

御堂さん、コメントありがとうございます。

なるほど、毛利元就が「三子教訓状」を書いた時に成人しているのは三人だけだったのですね。なぜ三人なのかがスッキリしました。

しかし、さすがに広島県立博物館ですね。「三子教訓状」を広島弁で訳した展示は素晴らしいと思います。

どこの地方の博物館も、そういう展示をすればスッと内容を理解して、見学者も親しみを感じるのではないでしょうか。


以前広島に住んでいた影響もあってこの件は知っていました。

その時もそうでしたが、人生50年の時代に中年の息子3人に今更何をあらためて伝えるのか?
大の大人なら3矢くらい折れるだろうと不思議に思い、臭過ぎるこの逸話に何故周りの人は不自然に感じず、自慢げにこの事を信じて話すのか疑問でした。

広島人は変に地元愛が強い事もあり、嘘や誤報でもちょっと自慢できると思うと、他県の人間に優位に立って誇ろうとする節が見られ、嫌悪感を抱いたのを良く思い出します。
 
 
ゆうじさん、コメントありがとうございます。

子供の頃に見たテレビの画像では、親の元就が小さい子供3人に諭している場面だったので、てっきり真実だと信じ込んでいながらも、自分だったら絶対3本とも折ってやると思いました。

元就が臨終の時に諭したというのであれば、三人の子供は壮年で、どう考えても話が不自然なのですが、教科書に書いてあることはすべて真実だと単純に考える人があまりにも多すぎますね。