しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

2010年11月07日 | 坂本龍馬

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)



前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。

「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」

  「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ今井氏は、それはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名 前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。
思うに、今なおある一 部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。
今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることにな り、惜しんでも惜しみきれないものである)」(引用終わり) 

と、今井から出てきたのは戊辰戦争で死んだ2名の名前だけである。あと一人は、「生きている」ということしか言っていない。
しかし、結城が「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評がある」と書いている点に注目したい。事件から33年も経過したにもかかわらず、龍馬暗殺は明治政府の高官が関与していたという風評が存在したのである。



今井信郎は明治2年(1869)に函館戦争で新政府軍に捕らえられ、降伏人として兵部省の訊問を受け、その際に仲間とともに坂本龍馬殺害を自白したために翌年身柄を刑部省に移され取り調べを受けた。その調書によるとメンバーは7名で「佐々木唯三郎(明治元年没)を先頭に、後から直ぐに桂隼之助(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)、渡辺吉太郎(同左)、高橋安次郞(同左)が2階へ上がり、土肥仲蔵(明治元年自刃)、桜井大三郎(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)と私は下に控えていた二階に上がった」と書いてある。
メンバーの数が違うのが気になるが、この時も死んだ仲間の名前だけを出すことで生きている仲間を守る意図があったようにも読める。そもそも今井信郎の言っている事はどこまで信用できるのだろうか。

ところが、今井に関する「近畿評論」の記事が出てから15年後の大正4年(1915)に、元見廻組肝煎であった渡辺篤という人物が死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。



この渡辺篤という人物は、今井が口述した桑名藩の渡辺吉太郎とは別人である。

また渡辺篤は、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言している。その記事が渡辺篤の死後に朝日新聞に掲載されたが、これは新聞記者の創作部分がかなり多いので省略する。

渡辺篤本人が書いた『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』という遺書は明治44年(1911)8月19日の日付となっており、「近畿評論」よりも11年後に書かれたということになるが、この原文は以前は次のURLで読む事が出来たがものの今ではリンクが切れてしまっている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000007.php 

そこで渡辺は
「…(慶応三年)11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、 横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。…」と書いており、現場に残されていた刀の鞘は世良敏郎のものだというのだ。

世良敏郎という人物は実在したようなのだが、渡辺は「書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。」と書いている。

こんな人物が刺客として送り込まれたことにやや違和感があるが、実在の人物を語っている点は注目して良い。渡辺篤の言うとおり今井信郎、世良敏郎と自分の3名でやったことが正しければ、今井信郎の証言は、生きている者に影響が及ばないために戊辰戦争で死んだメンバーの名前を挙げて、渡辺篤と世良敏郎を秘匿したということになる。

こんなことを考えていろいろ調べていると、暗殺の時刻も本や史料でバラバラであることがわかった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では事件が起きた時間を慶応3年(1867)11月15日の午後9時と書いている。これは通説に従ったのだろうが、この事件は龍馬が峰吉という書生にシャモを買いに行かせている間に起こっている。しかし、当時はほとんどの店舗が夕食時間の前に売りきって商売を終えていなければならない時代だった。常識的に考えて、冷蔵庫もなければ電気もないような時代に、いくら京都でもこんな時刻にシャモが買えるような場所があったのだろうか。

ところで今井信郎は「五ツ頃」と明治3年(1870)の「刑部省口書」で述べているが、江戸時代の刻(とき)では五ツとは午後8~9時頃を意味する。
http://www.viva-edo.com/toki.html 
今井を取材して結城礼一郎が書いた明治33年(1900)の「近畿評論」の記事では「晩」とだけ書かれている。

また明治45年(1912)の谷干城の遺稿では、中岡が坂本を訪ねたのが「今夜」で、龍馬と話している最中に何者かが訪ねてきて二人を斬った。龍馬が死んだのは事件翌日の午前1~2時頃と書かれている。

渡辺篤は、先程引用した文章では龍馬の宿に踏み込んだ時刻を「夕暮れ時」と書いているが、渡辺篤の死後に渡辺の証言の記事を書いた朝日新聞では「未明」と書かれている。朝日の記者は渡辺についての記事を書きながら、何故渡辺の文書に書かれた時刻を無視したのだろうか。

ネットでいろいろ調べると、事件とは直接関係のない土佐藩士の寺村左膳という人物が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺の件を日記に書き留めているのが見つかった。その日記に書かれている暗殺時間はやはり夕刻なのだ。
この日記には、「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたとあり、寺村左膳は龍馬の暗殺された11月15日は昼から芝居見物をしており夕方五時頃に芝居が終わって帰ると、家来が両名の暗殺のことをあわてた様子で伝えたと記されている。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/d3a14b234de2ce9fe1a3f790c60d5230

となると時刻は渡辺篤の遺書に書かれているのが正しいということになるのだが、この『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』は何故かあまり重視されていない。

もし夕刻の時刻が正しいのならば、京都の中心部で人通りも多く、旅館の主人も女中も宿の中にいたはずだから、もっと多くの証言が得られてもおかしくない。
しかし、同じく近江屋にいたはずの書生の証言もなければ、近江屋の主人や女中の証言すらないことが不思議であるが。そのような者の証言は、本で探してもネットで検索しても見当たらず、存在しない可能性が高そうだ。
当初から新撰組が夜に暗殺したことにストーリーを決めて、そのストーリーに合わない証言ははじめから取る意思がなく、関係者に緘口令を敷いたことは考えられないか。

最初に紹介した「近畿評論」で結城礼次郎がいみじくも書いているように、「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評」が明治33年頃にも根強くあったのであれば、もっと以前からそのような風評があったと考えるのが自然である。

もし武力討幕派あるいは明治政府の中に龍馬暗殺に関与する者がいたとしたら、谷干城はその風評を少しでも打ち消そうと考える立場だ。
坂本龍馬・中岡慎太郎が斬られたと聞いて真っ先に近江屋に駆け付けたのが谷であったのも何かひっかかる。谷は穏健派の龍馬と違い武力討幕派で中岡と同じ考え方だ。



谷干城が語った中岡慎太郎から聞いたという話は、倒幕派が疑われないために、かなり谷の創作がなされてはいないか。また本当に中岡慎太郎は一部始終を語れるような状態だったのだろうか。中岡の状態が話が出来るようなものであったとしても、その話を聞いたのが武力討幕派の数人であれば、いくらでも創作が可能であったはずだ。
以上の理由から、私には谷の言っている事は、一部真実が含まれるとしても、全体的にはあまり信用できないのではないかと考えている。

龍馬暗殺についての通説について、重要な部分で引っかかるところが他にもいくつかある。
ひとつは、龍馬や中岡が知らない人物を、何故、宿の中に入れてしまったのかという点。
今井信郎の証言では松代藩士、谷干城(中岡慎太郎)の証言では十津川藩士だが、素性のわからない人物は警戒して当たり前ではないのか。中に入れるとすれば、龍馬か中岡のいずれかが知っている人物しかあり得ないのではないか。



その点に注目して、下手人は京都見廻組ではなく土佐藩や薩摩藩が直接やったという説もある。あるいは、中岡慎太郎が京都見廻組を呼び込んで龍馬暗殺に関わっていたという説もある。後者の場合は龍馬と中岡が斬りあったことになり、目撃者を消すために藤吉も斬られたということになる。

もう一つ引っかかるところは、もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬や中岡を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしくないかという点である。
だから、幕府方が関与したとする説は私にはピンとこないし、明治政府が新撰組を犯人として近藤勇を処刑したこともおかしなことである。



結局前回書いたのと結論は同じだが、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕派の中におり、おそらく大久保利通、岩倉具視あたりが中心メンバーにいるのではないかと考えている。確たる証拠はないが、証拠がないのはどの説をとっても同じことである。

武力討幕派は後の明治政府の中心勢力となり、谷干城もそのメンバーの一人である。 また今井信郎も新聞も、権力批判に繋がることは軽々には語れなかったし、書けなかった。 だから信頼できる資料が何も残らない状況になってしまった。
そのために、坂本龍馬の暗殺については様々な説が出ており、将来決着するとも思えない。しかしよくよく考えると、誰が犯人かがわからないような状況の方が、明治政府にとっては望ましかったのではなかったか。

もうすぐ「龍馬伝」が終了する。
天下のNHKが、通説を覆すようなストーリーを書くようなことはおそらくないだろう。 今井信郎は出てくるそうだが、黒幕については様々な可能性を匂わすようなナレーションが入る程度で終わるのではないだろうか。

小説やドラマで多くの人が歴史に関心を持つことは非常に素晴らしいことなのたが、小説やドラマで描かれるたびごとに、真実と異なる歴史が拡がって定着していくようなことはないようにして頂きたいものである。
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コメント
その3でも書きましたが、「大久保利通と岩崎弥太郎」でしょう。維新後の癒着は目に余るものがあるからです。

 明治維新前は1番目ざわりであったのは坂本龍馬。

 その「政治的な大きさ」に、当事者の龍馬は自覚がなく、関心もなかったようでした。もっぱら直近の関心ごとは新政府の経済政策。ここでも大久保ー岩崎とは対立する。

 テロへの警戒心がなかったのが致命的でした。

 革命家は暗殺されてはいけないのです。

 極悪非道なレーニンのように「右手で握手して、左手に石を持て」という気持ちでいませんと。いざとなったら握手している相手の頭を勝ち割る気概が革命家には必要です。

 その点、大久保と岩崎は「非常」な点では、同類で覚悟もありましたね。龍馬はその点甘かったのが残念です。
 
 
この記事を書くときにいろんな人のサイトを覗きましたが、それほど古くない龍馬暗殺事件に関して、事件直後からよくこれだけの説が出てきたものだと思いました。中には千葉佐那説やお龍説までありましたが、これだけ様々な説が出るということは、直感的に明治政府の要人が臭いと思いました。
いろいろ調べると「近畿評論」で結城礼次郎が、当時「政府高官が関与したという風評」があったと書いているのを読んで驚きました。

記事にはあまり書かなかったのですが、京都見廻組が実際に関与したかどうかも正直確信が持てません。ひょっとすると、新撰組にアリバイがあったことから新撰組下手人説が崩れてしまったので、あくまでも幕府方からの指図があったと世間に思わせるために京都見廻組の今井に自供の演技をさせたのかもしれません。

大久保や岩倉が臭いと思ったのは私の直感だけで何の根拠もありません。
岩崎も確かに臭う人物ではありますが、その当時において龍馬に殺意を持つほどの状態であったか、大久保と陰謀事を相談するほどの関係であったかどうかはよくわかりません。

もし岩崎が誰かと組んではかりごとを練るとすれば、当時だったら後藤象二郎の方が、可能性があるのではと個人的には思います。
 
 
こんばんわ。
その1から4まで読ませていただいて、とても詳細にわかりやすくまとめておられるのに感心しています。

龍馬暗殺の諸説については、私も何冊かの本を読みましたが、その事実検証についてはどれも概ね差異はなく、あとは著者の推論にゆだねるしかないのですが、検証していくと、どうしても薩摩黒幕説というのは避けて通れないようですね。
その点は私も否定するところではありませんが、大久保黒幕説には同意しかねます。
よしんば大久保が関与していたとしても、西郷不承認の大久保単独犯説はあり得ないと思います。
良くも悪しくもこの時期の薩摩武力討幕派の中心は西郷でした。
彼の了承なしに大久保の一存で事を成すということは、少なくともこの時期はなかったと思います。
岩倉に至っては、大久保以上にその信頼を寄せていたのが中岡慎太郎でした。
中岡の死は、岩倉にとって痛恨の事件だったと思います。

後世に人格者として名高い西郷ですが、幕末のこの時期の西郷は冷酷なマキャべリストでもありました。
幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いを数々行ったのもこの時期です。
龍馬の死後、小御所会議の場において慶喜を擁護する山内容堂に対して、「短刀一本でかたがつくこと」といって脅し、決着をつけた話は有名ですが、この逸話でもわかるように、目的を果すためなら、相手が殿さまでも殺すことも辞さないといった西郷にとって、一浪士に過ぎない龍馬の命など虫けら同然だったでしょう。
 
 
続き。

一方、後世にダーティーなイメージが残る大久保ですが、彼のそのイメージは、西郷を人格者と崇める者たちが、その対比として作った虚像だと私は思っています。
孝明天皇の毒殺という話にしても、なんの根拠もない話ですし、江藤新平のそれも、自身の目的のために斬首したという見解は、かなり片方からだけ見た論だと思います。
前の稿でのコメントの方が、岩崎弥太郎と大久保の癒着について述べておられましたが、確かに岩崎は私腹を肥やしたかもしれませんが、大久保個人への見返りは何もありませんでした。
大久保は金銭には潔白で私財をなすことをせず、逆に予算のつかない必要な公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるような、そんな清廉潔白な人物でした。
彼の死後、家族がどれほどの財産が残っているかと調べたところ、多額の借金しか残っていなかったという話は有名です。

話がそれてしまいましたが、大久保黒幕説というのは、西郷を黒幕と考えたくない後世の者たちが作り出した説で、明治の時代には大久保を黒幕とする見解は存在しませんでした。
とかくダーティーなイメージでとられがちな大久保ですが、私が思う大久保は、龍馬と並んで幕末維新が生んだ最高傑物だと思っております。

長々とスミマセン。
 
 
坂の上のヒゲおやじさん、コメントありがとうございます。

龍馬暗殺について残された関係者の証言は、それぞれが誰かを守るためあるいは自己保身のために真実を歪めている可能性を強く感じます。おっしゃるとおり、最後は著者それぞれの直感的な推論に委ねるしかないようです。

坂の上のヒゲおやじさんとの結論の違いは、ひょっとすると大久保がダーティーなイメージで捉えるかどうかにかかっているのかも知れません。
コメントの中で「孝明天皇の毒殺は、何の根拠もない話」と書いておられますが、私は以前このブログで書いた通り、当時の記録や疱瘡の病状の記録からして毒殺の可能性がかなり高いと考えています。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/81/

岩倉も大久保も私にとってはダーティーな存在なので、龍馬暗殺の黒幕ではないかと書きましたが、西郷を黒幕から外したことには確たる根拠はありませんし、私のイメージに近いものだと思います。
仰る通り当時の薩摩武力討幕派の中心に西郷がいたことは理解しています。しかし岩倉や大久保がすることにいちいち西郷の了承が必要であったかは私にはよくわかりません。私は、西郷は龍馬暗殺に積極的関与はしていなくとも、少なくともそのような計画があることくらいは知っていたのではないかと思っています。

大久保はダーティーといっても私利私欲のために手段を選ばなかったということではなく、自分が正しいと考える国のありように変えるために手段を選ばなかったわけで、ある意味では清廉潔白でした。その点では西郷も龍馬も全く同じで、日本の国をどういう国にするか、どういう手順・手段でそうするかという点では意見が合わなかったということだと考えているだけで、大久保の明治政府における活躍までをも否定するものではありません。
 
 
こんにちは。
すみません、言葉足らずでした。
私が根拠がないと述べたのは、孝明天皇の毒殺説そのものではなく、その首謀者が岩倉・大久保という話です。
これも、竜馬暗殺の黒幕説と同様、確たる証拠のない推論に過ぎません。
その推論からいうと、岩倉説には頷ける点が多いものの、そこになぜ大久保が絡んでくるのかが疑問なんです。
武力討幕を進めるにあたって孝明天皇の存在が邪魔だった、というのがその理由だと思いますが、この時期の薩摩藩は長州藩とは違い、まだ武力討幕に対して半身の姿勢でした。
孝明天皇の死が、もう数ヶ月後だったら、大久保の関与も頷けるんですけどね。

大政奉還のおり、1日違いで紙切れとなった、偽物と言われる討幕の密勅が、岩倉と大久保で画策したものというのがほぼ通説となってますよね。
後年の岩倉自身が、「幕末、大久保と共同で人に言えないことをたくさんした。」と語っていますが、それは暗にこのことを言ったもので、しかしこの言葉が勝手に独り歩きして、「岩倉・大久保=陰謀家」というレッテルになっているように思えてなりません。
龍馬暗殺の時期、たしかに大久保は歴史の表舞台に出てきましたが、それまでの薩摩の外交担当は西郷、大久保は主に内政担当でした。
薩摩藩黒幕説を考える場合、まずは西郷を疑うべきだと私は思います。

とは言うものの、先日も申し上げたとおり、単に見廻組単独犯説も十分あり得ると思ってるんですけどね。
史実とは、後世の学者さんたちが深読みするほど複雑なものではなく、案外単純なものだったりするのでは・・・と。
コメント欄をたくさん汚してスミマセンでした。
 
 
もし孝明天皇が毒殺されたと考えた場合、黒幕は岩倉具視がからんでいる可能性が高いことは誰でも理解できると思いますが、なぜ大久保については名前が出てくるかについては、その根拠が私も良くわかりませんでした。

こういう時によく大久保の名前が出てくるのは、御指摘のあった岩倉自身の「幕末、大久保と共同で人に言えないことをたくさんした。」という発言に起因するものだと思います。私が大久保の名前を考えたのは、変な事件は岩倉と大久保とが共謀してやったというイメージからです。

龍馬暗殺事件に話を戻すと、もし謀があったとすれば、黒幕の人間は、誰がその指示を出したかをわからないようにするものだと思います。薩摩藩の外交担当の西郷が如何にも臭いと思われるような方法を選択することはないのではないでしょうか。別のルートを使って、いかにも幕府方が指示をしたように見せかけるものだと思います。

幕府方が暗殺の指示をしたことにしたいので、現場にわざと刀の鞘と下駄を残させて、新撰組の仕業ということにして言いふらした。しかし新撰組にはアリバイがあって反論されて薩摩が疑われた。
これではまずいので、戊辰戦争で捕まえた京都見廻組の生き残りの今井に自分がやったと言わせた…ということも考えられます。

本当に今井が龍馬暗殺にかかわったなら、無罪放免されるのはどう考えてもおかしく、明治政府から命を助けるのと引き換えにこう証言せよとの裏取引があったことも考えられると思います。

私は今井の証言も、谷の証言も、黒幕の人物をかばうための嘘がかなりあるのではないかと考えています。

単純に京都見廻組単独犯行なのかもしれませんが、それならば正当な業務であり「暗殺」ではなく、公的な記録に残っているべきだと思うのです。また今井が戊辰戦争で捕えられた時の証言や、近畿評論の結城に語った内容、渡辺篤の遺書の記述がもっと一致していないとおかしいと考えます。

私は単純に、事実を捻じ曲げ世論を誘導することのできた当時の権力者が一番臭いと考えてしまう方なのですが、ちょっと複雑に考え過ぎているのかもしれませんね。仰る通り、事実は案外単純なものかもしれません。

しばやんさん、こんにちは。

お世話になっております。
以前、京都で龍馬コーナーを作ることについて相談させていただいた者です。

おかげ様で、、もう少しで完成させることができそうです。
そこで、読み物の最後に、しばやんさんからご協力をいただいたことを書かせていただきたいのですが…いかがでしょうか。
「この読み物を作るにあたり、大阪府の「しばやんさん」からご協力をいただきました」というような形にさせていただきたいと思っています。
ご迷惑でしたらおっしゃってください。

あと、図々しくて申し訳ないのですが、
しばやんさんが桂浜で撮られた龍馬の銅像の写真、
使わせていただいてもよろしいでしょうか。空がとてもきれいですし、すごく素敵な写真だと思っています。
ぜひお願いします。
 
 
Yさん、頑張っていますね。
私が撮った写真はどうぞ使ってください。
私のブログの名前を出していただくことも、もちろんOKです。
趣味でやっていることとは言え、いろんな人に読んでいただけることは私もうれしいし、とても励みになります。
 
 
しばやんさんこんばんは。

Yです。
お気遣いありがとうございます。
幕末にそれほど興味がなかった私が、すっかりはまって
しまい、書いているうちに明け方になっていた、なんてことがありました。
しばやんさんのブログがとても面白いからです。

ありがとうございます。
お言葉に甘えて、使わせていただきます。
 
 
Yさん、龍馬コーナーが完成したらお店の場所を連絡くださいね。きっと見に行きますから。 



坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

2010年10月31日 | 坂本龍馬

以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。

そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。

明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。

この内容はたとえば木村幸比古著『龍馬暗殺の謎』などで紹介されている。次のURLで、その一部を読むことが出来る。




今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく。

「6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」 と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。」(引用終わり) 

かなり具体的に書いており、本人でなければわからないような生々しさがある。 しかしながら、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた土佐出身の谷干城は、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っている。

谷干城は明治39年(1906)11月に「近畿評論を駁す」と題する演説を行ったそうだが、谷干城の遺稿の中にその演説内容が書き込まれている。



以前はネットで全文が出ていたのだが、今はリンク切れになってしまっている。以前存在したサイトから、谷干城が暗殺現場で見た龍馬と中岡について述べているところを引用させていただく。

旧(http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000005.php )


「坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬ら れ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。」

「一体どういう状況であったかと(中岡に)聞いてみると、…(中岡が)坂本を訪ねて談話していると、『十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい』と何者かが訪ねてきた。
そこで取次の従僕(藤吉)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。」

「この人(今井信郎)の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この 2つがまず致命傷だった。」

「傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。」

「今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。」(引用終わり) 

では、谷干城は暗殺の仕掛け人は誰と考えているかというと、「この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。」と、書いているのだ。

今井は実行犯として、谷は最初に現場に行きまだ生きていた中岡から一部始終を聞いた人物として語った内容が書かれているはずなのだが、なぜこんなに話が違うのか。
最初に龍馬を斬ったのか、中岡を斬ったのか。体のどこを斬ったのかということからして一致していない。「近畿評論」の記事のとおりに中岡慎太郎が脳天を三度も斬られたのなら、中岡が谷干城に事件の一部始終が語れることはなかっただろう。

いろいろ調べると、「近畿評論」の掲載記事を寄稿した結城礼一郎が、大正13年(1924)になって、この記事の一部は捏造したものであることを認めた『お前たちのおぢい様』という手記を書いている。次のURLに全文が出ている。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/yuukiojiisama.txt

そこには
「…今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。…本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。」と、正直に書かれているが、自分が記事を書いてから24年間も黙っていたのは卑怯なことだと私は思う。

とにかくこれで、龍馬暗殺の一部始終については「近畿評論」よりも谷干城の言っていることの方が信憑性がありそうだということははっきりしたが、次の疑問は『お前たちのおぢい様』で結城が書いているように、なぜ谷干城が「近畿評論」を読んでムキになって、今井信郎を「売名の徒」とまで罵ったのだろうか。

谷干城は事件当初から坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与したのは新撰組が実行犯、黒幕は紀州藩と考えていたようだ。
また翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で捕えた元新撰組長の近藤勇の処遇をめぐり薩摩藩と対立し、谷の強い意向でその年に近藤勇は斬首され、その後に京都三条河原でさらし首にされたとされている。



近藤勇の斬首を強く主張したのは谷干城ではなく徳川家側という説もあるようだが、いずれにしろ、坂本龍馬暗殺を新撰組実行犯と考えていた谷にとっては、この事件に関しては近藤勇の斬首により心の整理がついて終わったものになっていたのに、それから32年もたって京都見廻組のなかから実行犯と名乗る人物が出てきたのを頭から認めたくなかったから、「近畿評論」の記事を読んでムキになったということか。

しかし、谷干城がなぜ新撰組実行犯と考えたかという部分についてはあまり論理的ではなく、ほとんど初めから犯人を決めつけているようにも読める。事件直後なら新撰組を疑うのもわかるが、新撰組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。
薩摩と土佐は最後まで新撰組説を唱えたといわれるのだが、ひょっとすると、犯人を新撰組だということにしたかったのかも知れない。薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から遮断しようとしたことは考えられないか。

谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い武力討幕を密約しているのだが、坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、薩摩藩や谷の考え方とは異なる。武力討幕派にとっては、徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府のリーダーシップを握られてしまうことを懼れて、龍馬を排除しようと動いたのではないだろうか。

もし坂本龍馬の暗殺に薩摩藩が黒幕で関与していたという説が正しければ、彼らにとってはいろは丸事件にからめて紀州と新撰組を結びつけ、新撰組を龍馬暗殺の犯人に仕立て上げて処刑まで行えば将来にわたって陰謀が暴かれることはない考えたのではないか。

しかしながら薩摩関与説は、龍馬暗殺直後から噂され、その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」という記述があるそうだが、事件後1ヶ月も経っていないのに公文書で薩摩関与説の記録が残っているのはもっと注目して良いと思う。

ところで、谷干城が慶応3年(1867)5月の武力討幕の密約で会った大久保利通は、坂本龍馬とはあまり接点がなかったのか、性格的に合わなかったのか良くわからないが、大久保利通の日記には龍馬についての記録が全くないらしい。
その大久保が、龍馬・中岡が暗殺された翌日から4日連続で岩倉具視に手紙を書き、龍馬や中岡が死んだことや、下手人が新撰組らしいということを伝えているそうだが、これはちょっと不自然だ。



大久保利通は自らの目的のために、江藤新平、西郷隆盛などを葬り去った男だ。孝明天皇の死にも岩倉具視とともに関与していた疑いももたれているのは以前にも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html 

黒幕は、武力討幕派の中でも薩摩藩が一番臭うのだが、西郷は龍馬を評価し、龍馬との接点も多い人物で黒幕の中心にいたとは考えにくい。
龍馬と接点が少なくお互い評価もしていなかった大久保利通こそが龍馬暗殺の黒幕の中心ではないかと考える人もいる。動かぬ証拠があるわけではないが、この説は私にはかなりの説得力を感じている。
大久保が中心でないとしても龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、彼らのメンバーの多くが後の明治政府の中枢部にいた。だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、できなかったのだと考えている。 
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BLOGariコメント

興味深く読ませて頂いています。竜馬がこの世から消えるこ
とによって恩恵をこうむるのは誰か?という観点からすると、
黒幕大久保説は有力な論考の一つだと思いました。
 
 
コメントありがとうございます。
龍馬暗殺の話は前回までの2回で終わらせたつもりだったのですが、いろいろ気になって調べているうちに、大久保説に辿り着きました。岩倉具視も中心メンバーの一人だったような気がします。
幕末から明治にかけての歴史を学生時代に学んだ時は、良くわからないまま通説を記憶しただけだったのですが、こんなブログを始めてから昔の当事者の証言や日記なども読んで、通説は異なる世界が見えるようになり、この頃の歴史が面白くなってきました。
 
 
 わたしも大久保利通が黒幕ではないかと思います。

 かつての同士の西郷隆盛を追い詰め、江藤新平を斬首した大久保ならありえることです。

 それに岩崎弥太郎と大久保利通は大変親しく、利害も一致していたようです。龍馬が邪魔だと考えてもおかしくはありません。

 先日「吉田松陰」(童門冬二・著)の伝記を読みました。

そのなかで吉田松陰は「高杉晋作と久坂玄瑞穂を高く評価していました。伊藤博文は「周旋活動が向いている」と評し、山県有朋は「棒のような人物」と評していました。

 龍馬をはじめ、活躍を期待されていた高杉や久坂も維新前に亡くなり、維新後の内ゲバで西郷も亡くなり、大久保も暗殺されました。

 残ったのは「棒のような」山県有朋であり、周旋屋が向いているといわれた伊藤博文でしたから。

 法外な賠償金を取られた紀州藩も龍馬を恨んでいたことでしょう。

 独創的な政権構想だっただけに、坂本龍馬は身近なところからも敵が多かったのではないかと思います。
 
 
意見が一致しましたね。大久保だけでないとは思いますが、武力討幕派はかなり怪しいと思います。

事件から30年以上経過してから事実を語る人物が出てくるようなケースは、関係者が生存し要職についており、真実を述べるとまずいことになるようなケースに限られると思います。

もし徳川幕府が新撰組や京都見廻組に命じて龍馬を斬ったのであれば、表の記録に残るはずです。まして龍馬は徳川慶喜を新政府に迎え入れる考えであったのですから、幕府が龍馬を狙う理由はありません。ありうるとすればいろは丸の遺恨で徳川御三家の紀州藩が裏から手を回すぐらいでしょう。

岩崎弥太郎と大久保利通との接点の事はあまりよく知りませんでした。最後は両人とも龍馬を消すことで利害が一致したのかもしれませんね。
 
 
 大久保の後ろ盾が会ったからこそ、三菱が急速に大きくなり発展したのです。それは弥太郎と大久保利通との癒着というほどの関係があったからです。

 西南戦争の政府兵糧や武器弾薬の運搬を三菱が請負、大きな利益を受けました。台湾出兵の時もです。

 その前に明治政府になる前に、確か、江戸時代の各藩の藩札を兌換するとかいう太政官布告があり、岩崎弥太郎は政府筋からその情報を事前に聞いており、大儲けしたとか。

 その情報提供者が大久保ではないかとわたしは思います。いわば国家レベルのインサイダー取引でした。

 明治以降それほど癒着関係になる岩崎弥太郎と、大久保利通。坂本龍馬の描く政権構想や経済社会構想が「合わない」ことは明白です。

 龍馬は暗殺される直前に福井藩を訪ね、経済政策についてのアドバイスを由利公正(三岡八郎)に受けていました。確か新政府が紙幣を発行し、混乱を静める方策やに思います。

 龍馬の構想が新政府で実現されたら自分たちの活路がない。大久保や岩崎がそう考えてもおかしくはない。

 それで最もリベラルな坂本龍馬を暗殺したと思います。

 大久保利通は開発独裁的に改革を断行していきました。独裁を実行するために、司法制度の確立を目指していた江藤新平を斬首し、西郷隆盛も亡き者にしました。

 桂小五郎は維新後はうつ病状態でぱっとしませんでした。

 西郷亡き後、板垣退助や後藤象二郎たちが自由民権運動を展開しましたが、しょせんは苦労知らずの上士出身者。岩崎弥太郎に買収されてしまいました。大久保の敵ではない。

 吉田松陰に「棒のような男」といわれた山県有朋と「周旋屋」といわれた伊藤博文で、明治政府が歪められたのもいたしかたないところでしょう。
 
 
Wikipediaなどでは岩崎弥太郎にインサイダー情報を流したのは、後藤象二郎だと書いていますが、こういう話はほとんど記録に残らないので本当は誰かは良くわかりません。大久保の可能性もあるでしょう。

この時代は幕府を倒すことまでは多くの志士たちが賛同していたのですが、幕府を倒してからどういう制度にし、国として何を目指すかは、志士の間でもかなり違っていたのでしょう。

大久保は明治6年頃からは暗殺されるまでの時代は、大久保利通が全権力を掌握したので、「大久保政権」とも呼ばれています。その間岩崎弥太郎はうまく権力者に取り入って大儲けしました。空気を読む才能はすごいですね。

しかし、明治の時代がそれほど悪い時代であったとも思えません。龍馬が生きていて、徳川慶喜が内大臣に座っていたとしたら、江戸時代とそれほど変わらないか、いずれまた内乱となったかもしれませんね。

領土を奪われそうになっても何も動かない今の政治よりもはるかにましだと思います。
 
 
しばやんさん、こんにちは!

龍馬暗殺に関しては、大久保黒幕説が一番妥当かもしれませんね。

だいたい、大久保の日記って、誰に見られても構わない様に自分の本心を書かないでいたという、史料として全く価値のないものとして有名で、自作自演で脚色だらけ、なんですよね。

江藤新平の件でも、日記だけ見れば、江藤の人間性ってこういう人物だったのか、とこちらがはき違える程、大久保は巧妙に書き記していますからね…
 
 
「大久保利通日記」は結構高価なのでとても買う気にならないのですが、史料として価値がないなら読んでも仕方がないですね。ネットで探してもなかなか原文が見つかりませんでした。
龍馬暗殺後の大久保利通の4日連続の岩倉具視への書簡は、ネットで探せば出てきます。例えば、
http://www.togyo.net/cgi-bin/togyo/ryoma/index.php?c=1-2

大久保が評価もしていなかったと思われる龍馬が死んだことを「実ニ以可慨可惜事ニ奉存候(マコトニモッテガイスベキオシムベキコトニタテマツリゾンジソウロウ)」と嘆き、犯人は新撰組だ、近藤勇だと言っているところがとても怪しく感じられます。

これも「自作自演の脚色だらけ」の文章の様な気がしますね。
 
 
大久保黒幕説には反対です。根拠は彼自身が暗殺されているからです。反対者を暗殺したのなら、自分が権力者になったとき暗殺を当然警戒するはずです。紀尾井坂での暗殺の時、防備は手薄でした。坂本龍馬の暗殺現場では京都の町屋の二階ですし示現流は相打ちになる可能性あり不向きです。やはり定説の京都見廻組が実行犯、指示者は松平容保もしくは幕府高官だと思います。佐々木只三郎は小太刀の名人とされていましたので至近距離から致命傷を与えられる実力者だと思います。
 
 
大久保が暗殺されたのは龍馬が暗殺されてから11年もたっていますし、加賀藩の島田一良らの大久保暗殺の理由は龍馬の暗殺とは全く関係なく、「大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いた」というものでした。

実行犯は定説の京都見廻組かもしれませんが、今井の証言や渡辺の遺書に矛盾が多すぎます。また暗殺を指示したのが松平容保だとすれば、京都の治安維持業務の中で倒幕勢力を討つということですから記録に残らないこと自体が不自然だし、龍馬と中岡を討ったことを隠す理由がなく、自ら名乗り出てもおかしくない話です。また明治政府が今井を釈放するのも不自然だし、下手人も指示者も幕府勢力であるならば明治政府が本気で捜査すれば事件が完全に解明できたはずなのにそれができなかった。

明治政府で解明が出来なかったことに焦点を当てると、別の結論の可能性がいろいろ出てくることになりますが、いずれにしても確たる証拠はありません。



龍馬の二番目の姉・栄はなぜ「龍馬伝」に出てこなかったのか

2010年10月15日 | 坂本龍馬

今年の五月に高知方面を旅行したときに、龍河洞の帰りに「龍馬歴史館」を訪ねて、坂本龍馬の一生の出来事を蝋人形で再現させた展示物を見てきた。



その中で、「龍馬脱藩・姉栄の自殺」という展示があった。
姉の栄が刃物で自殺をしようとする人形で、解説にはこう書いてあった。



「…兄の権平は龍馬の不穏な空気を怪しみ、万一過激な行動を取ったら家を危うくする恐れがあると心配して龍馬から刀を取り上げ『龍馬が何を言ってきても相手にならないように』と親戚にも警戒を呼びかけた。

武士が丸腰で道中できない。このとき、焦る龍馬に次姉栄は家伝の刀肥前忠広を与えた。
龍馬は勇躍して沢村とともに脱藩したが、栄は責任を取ってその夜のうちに自殺した。

大きく羽ばたいて土佐を出た龍馬の陰に悲劇の女性がいたことを忘れることはできない、3月24日の出来事であった。

龍馬に刀を与えたのは栄ではなく乙女だったという説もあり、この話は今も謎に包まれている。」(引用終わり) 

しかし、大河ドラマの「龍馬伝」では龍馬が脱藩した後にこのような場面はなかったはずだ。そもそも、NHKの「龍馬伝」のオフィシャルサイトでは、次女の栄がキャストから欠落している。
https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=taiga49


なぜこのような重要でドラマチックな事件を、なぜストーリーから削ってしまったのかとその時は思った。

栄の自害の話は、司馬遼太郎の「竜馬が行く」の第二巻にも書かれている。


ここでは、栄は龍馬に、嫁ぎ先であった柴田家伝来の陸奥守吉行の刀を渡し、その後それが問題になり栄は責任を取って自害したこととなっているが、「龍馬歴史館」の解説とは刀や自殺の時期は異なるものの栄が責任を取って自害したことは同じである。

高知旅行の二日目は桂浜の近くの「坂本龍馬記念館」を訪ねたのだが、その横に龍馬の姉の坂本栄の石碑があり、右に「龍馬脱藩に刀を与えて自決した次姉」と書いてあった。


石碑の建立は昭和62年の春で、字は高知県出身で元日本芸術院長の有光次郎氏の筆によるものである。

NHKが歴史を捻じ曲げることは昔から良くあることなので、旅行の時はそれ以上深くは考えなかったのだが、最近このブログで龍馬やお龍の事を調べているうちに、姉の栄のことが分かってきた。

結論から言うと、NHKの「龍馬伝」の脚本には何の問題もなく、間違っているのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や「龍馬歴史館」などの方である。次女の栄が龍馬に刀を渡した後に自害したというのは後世の作り話であった。

ではどうして、これが作り話と言えるのか。

この件について書いているサイトはいろいろあるが、たとえば「龍馬堂」というサイトがわかりやすい。
http://ryomado.in.coocan.jp/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-18.html


龍馬の父親は坂本八平で、母親との間に子供が五人いたことは坂本家の家系図でわかっている。
坂本八平の子供(龍馬の兄弟・姉妹)を年齢順に書くと、
長男:権平、長女:千鶴(高松順蔵妻)、次女:栄(柴田作衛門妻)、三女:乙女(岡上樹庵妻 後離別)、次男・龍馬となる。

昭和63年3月に高知市山手町丹中の竹藪の中で栄の嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせに発見された墓石が、龍馬の姉の栄のものではないかというニュースが「高知新聞」などで報道された。



その墓石には「柴田作衛門 妻」「坂本八平 女」と2行で刻まれ、戒名が「貞操院栄妙」となっていたことから、この墓は栄のものであることが今では確実視されている。

この墓には被葬者の没年は弘化2年(1845年)9月13日となっていたのだが、この年は龍馬の脱藩よりも17年も以前の話で、栄は嫁いですぐに若くして亡くなったということが確実となった。
したがって、栄は柴田家を離縁された事も疑わしく、龍馬に刀を渡したこともあり得ない話だということになる。

では、誰が栄の自害説などを唱え出したのだろう。

龍馬のことを最初に書いた小説である明治16年の坂崎紫瀾作「汗血千里駒」では、乙女が龍馬に刀を渡したことになっているそうだ。

ところが昭和37年(1962)の司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、栄が刀を渡したと書かれていて、それ以降、栄が刀を渡して後で責任を取って自害した説が広まったということのようだ。

では、司馬遼太郎は何を根拠に栄が龍馬に刀を与えたという説を唱えだしたのか。


今はリンクが切れてしまって読めないのだが、「涼やかな龍の眼差しを」というサイトには、坂本家の本家に嫁いだ内田さわという女性の孫にあたる、宍戸茂という人物が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の連載を知り、祖母(内田さわ)から聞いた話を匿名で、「このエピソードは、(坂本家が龍馬の)脱藩に加担したことになるので、門外不出として(隠されてきた)坂本家の秘密」として司馬遼太郎に伝えた話と書いてあった。

その後宍戸茂は、昭和41年に発表した「『長路』喜寿編」という作品の中で、龍馬に刀を与えたのは乙女ではなく栄であることを書いているそうだ。

「龍馬歴史館」が建てられたのは昭和63年(1988)11月で、「坂本龍馬記念館」の隣の坂本栄の碑が建立されたのは昭和62年(1987)春だから、いずれも司馬遼太郎や宍戸茂の説に引っ張られたものであることは確実だ。
栄のものらしき墓が発見され、栄の墓であることが確実視されたのはそのあとの話なのでこれはやむを得ないだろう。

歴史小説の作家はフィクションなしには小説は書けないだろう。
したがって小説を読む読者は、歴史的事実に近い内容が書かれているがフィクションも多いことを注意する必要があることはわかる。
しかし、博物館や記念館の展示物は見学者はすべて歴史的事実であると考えるのが普通ではないか。後日展示内容に誤りがあることが判明した場合は、あるいは別に有力な説が生まれた場合は、展示内容を訂正するか、解説文に但し書きを入れるような配慮があるべきではないだろうか。そうでなければ、誤った歴史理解が広がっていくだけである。
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はじめまして。
ブログ村よりこちらの記事を見つけ、拝読させていただきました。
以前、私のブログでも栄のことについて起稿しており、勝手ながらTBさせていただきます。
私はこの「龍馬歴史館」なる蝋人形の館のオープン当初に訪れたことがありますが、その頃はまだ栄女伝説が通説だったため、何の疑いもなく見ていました。
その後、通説は覆り、あの蝋人形はどうなったのかなぁと思っていましたが、今でもまだあるのですね。

栄女伝説というのは、私も含め「竜馬がゆく」を入口とした龍馬ファンにとっては欠かせないエピソードで、通説が覆ったあともショックでなかなか受け入れられないものでした。
今でも信じている人がいると思いますよ。
実際、今回の大河ドラマで栄の存在がなかったことで、多くの不満の声がネット上に書き込まれており、それで私も栄女伝説について起稿した次第です。

また、ときどき読ませてもらいますね。
 
 
コメント頂き有難うございます。

坂の上のヒゲおやじさんのブログ読ませていただきました。
私が数日かけて調べたことを、わかりやすく簡潔な文章で明快に書いておられ、もっと早く読んでおけばと良かったと思いました。

記事をいくつか読みましたが、いずれもしっかり調べておられて感心しました。

私もこれからも時々訪問させていただき、応援させていただきますので、これからもよろしくお願いします。

毎度こんだけ書くのはたいへんやと思います。
情報量と下調べの時間、はんぱやないでしょう。読み応えあってためになります。
ポチポチ~
 
 
ぽんさん。コメントありがとうございます。

正直、毎回調べて書くのは骨が折れますが、いろんな発見があって楽しくもあります。
自分の文章で、いろんな方から応援していただくのはとても嬉しくて、こういうブログを書くのにとても励みになります。
ありがとうございます。

ぽんさんの本も面白かったですよ。文章が上手いのに感心しました。

 


お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

2010年10月10日 | 坂本龍馬

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。
お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。

ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。
この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂香」や、その後川田瑞穂が聴取して著した「千里駒後日譚」という文章の一部を、読みやすいように一坂太郎氏の解説とともにまとめたものである。 

前回も書いたように、お龍は龍馬暗殺の後しばらくは三吉慎蔵らの世話になり、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。



上の画像は坂本権平だが、私が気になったのはなぜお龍が坂本家を飛び出したのか、坂本権平夫婦に問題はなかったのかという点だ。
お龍の不幸の始まりは、龍馬の死も大きいが坂本家を出て行ったところにもポイントがあるようにも思う。
普通の女性ならば、誰かに養ってもらうしか生きていけない時代だったのだから、少々のことは我慢するのが普通ではなかったか。
坂本家も、お龍が一人でどうやって生きていくのかと心配して、説得して引きとめるべきではなかったのか。 どちらも悪かったのかもしれないが、お龍の言い分はどうなのか。

坂本家を出た点について、お龍は次のように語っている。(「わが夫坂本龍馬」p168)

「ところが私は義兄(権平)および嫂との仲が悪いのです。

なぜかというと、龍馬の兄というのが、家はあまり富豊ではありませんから、内々龍馬へ下る褒賞金をあてにしていたのです。

が、龍馬には子はなし、金は無論私より他に下りませんから、私がいては、あてが外れると言って、殺すわけにもゆきませんから、ただ私の不身持*をするように仕向けていたのです。
*不身持(ふみもち)…異性関係にだらしのない様子

すでに、坂本は死んでしまうし、海援隊は瓦解する。私を養う者はさしずめ兄より他にありませんから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違いない、その時はおりょうは不身持ゆえ、龍馬に代わり兄が離縁すると言えば赤の他人。褒賞金はこの方の物という心で始終喧嘩ばかりしていたのです。

これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるのでしょうが、元来きかぬ気の私ですから、

『なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる。私しゃあ金なぞはいらない。そんな水臭い兄の家に誰がいるものか。追い出されないうちに、こちらの方から追ん出てやろう』

という了見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借りました。」

と書かれてある。

またお龍は、龍馬の姉の乙女からは親切にしてもらったと言っている。次の画像が乙女の写真だ。 


「姉さんはお仁王という綽名(あだな)があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。
私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは、乙女姉さんでした。」

お龍はこう言っているが、お龍が坂本家を出た理由については、他にもいろいろな説がある。

一坂太郎氏は同上の著書の中で、
「また、権平は、おりょうを龍馬の「妾」として扱ったという話も伝わる」(p163)と解説しており、ちょっと気になってネットでいろいろ検索していくと

「しかし、そのお龍はその開放的な性格のために権平とそりが合わず、厄介視されたらしい。一説では、権平がお龍を「自分の妾」であると人に語ったので、お龍は居たたまれず、坂本家を去ったと伝えられている(「坂本竜馬の未亡人」-『報知新聞』明32・5・23付)。」

という新聞記事も見つかった。龍馬の「妾」として扱ったのか、権平が「自分の妾」と語ったのかはどうも話が違いすぎて違和感がある。

このようにいろんな説があるが、海援隊メンバーからもお龍の評判が悪かったことを考えると、お龍の回顧談についてもお龍の言葉をそのまま信用出来るものかどうかはわからない。お龍が自分自身を正当化するために、権平夫婦を悪しざまに言っているだけなのかも知れないし、龍馬あるいは権平の「妾」として扱ったという説も、もともとはお龍の口から出ているのではないだろうか。

坂本権平は龍馬の兄とは言っても、龍馬は五人兄弟の末っ子で龍馬とは年齢が21才も年上だ。
龍馬の母親は龍馬の11歳の時に亡くなったが、龍馬の父親の坂本八平が亡くなったは安政2年(1855)、龍馬が21歳の時だ。

それ以降坂本家の家督は長男の坂本権平が継いだのだが、龍馬にとっては権平は親の様な存在であったであろう。

坂本龍馬の全書簡を集めた「龍馬の手紙」(講談社)という本を見ると、あれだけ多く現存している龍馬が書いた手紙も、権平宛てに書いたものは少なく、慶応2年の12月4日付ので寺田屋騒動の事を詳しく伝えた手紙(権平および家族一同宛)、同じ日付で権平宛てに書いた坂本家に伝わる甲冑か宝刀を分けて欲しいと催促する手紙(権平宛)と、慶応3年6月24日付の坂本家伝来の宝刀を受け取った旨を書いた手紙(権平宛)と8月8日付の坂本家の二尺三寸の刀を所望する手紙(権平宛)、10月9日付の消息を伝える手紙(権平宛)くらいで、この中でお龍の事が少しでも書かれているのは家族に宛てた寺田屋騒動の手紙で、龍馬がお龍に助けられたことを少し書いているだけである。 

龍馬が家族に宛てて書いた手紙は大半が姉の乙女宛で、乙女宛の手紙にはお龍のことがしばしば書かれていて、お龍が姉の乙女と親しくなれるよう、龍馬がお龍を気遣っていることが読みとれる。
また龍馬の手紙の文体も、乙女宛の文章はかな交じりの読みやすい文章だが、権平宛てのものは最後の消息を伝える手紙以外はすべて「一筆啓上仕候。」からはじまる漢文調の固苦しいものばかりだ。
乙女とは仲が良かったが、権平とは気軽に何でも話せる関係でもなかったのではないか。

お龍にとってみても、権平は義兄といっても26才も年上で、自分の父親の楢崎将作は義兄の1歳年上に過ぎない。父親と変わらない年齢の義兄がお龍にとって気軽に付き合える存在ではなかったことは言えるだろう。

龍馬が最も心を許した友の一人である三吉慎蔵宛の手紙に、慶応三年5月8日付で、自分にもしもの事があれば、下関に居住するお龍について、

「愚妻儀本国(土佐)に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わされるべく候よう、万々御頼み申上げ候」

と、坂本家から迎えが来るまで、長府城下の三吉家で世話してほしいと頼んでいるが、坂本家にはお龍の行く末については何も書いてはいないようだ。

三吉慎蔵は龍馬との約束を守り、龍馬暗殺後しばらくお龍を引き取った。その際長府藩主はお龍に扶持米を与えたという話もある。

しかし龍馬が三吉慎蔵宛の手紙で約束したように国本の坂本家からお龍を迎えに来たということはなかったと思われ、慎蔵がお龍を龍馬の土佐の実家にまで送り届けたのではないかと考えられている。

龍馬は国事で奔走し大きな仕事を成し遂げたが、お龍に対する坂本家の対応やお龍の行く末までは考えが及ばなかったようである。
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坂本龍馬が「時代を超えていた」ように、伴侶のお龍も同様に「飛んでいた」女性であったことでしょう。

 龍馬が暗殺されたのは、143年も前のことです。2人は「飛んでいても」まわりの人間たちは一緒に飛んではいません。

 龍馬は「暗殺される予定」とみじんも思っていなかったはずです。政治的な中心に新政府が出来ても身をおくつもりは泣く、「世界の海援隊」としてビジネスで身を立てたいと本気で思っていた筈です。

 薩長連合と大政奉還を成し遂げ、新政府案の構想も提起したので、自分は「政界」からは引退した気分になっていたのでしょう。でも旧体制は龍馬を許してはくれませんでした。

 しばやんさんが言われるように、兄夫婦は「龍馬の見舞い年金」を新政府に期待していたのかもしれません。竜馬はっ靖国神社に祀られるぐらいですから。

 お龍は寺田屋に復帰できなかったのでしょうか?

 2人の間に子供でも出来ていれば、また流れは変わったと思います。それが残念でした。
 
 
お龍は「千里駒後日譚」の中で、龍馬が「一戦争済めば山中へ這入って、安楽に暮らすつもり、役人になるのは、おれは否じゃ…」とお龍に語ったと書かれています。

新官制擬定書に龍馬の名前がないことを西郷から指摘されて、龍馬は「世界の海援隊でもやらんかな」と応えたとされています。

本人は政治的野心があったわけではなかったのですが、周りが許してくれなかったのはその通りですね。

お龍は、その後明治7年に料亭の仲居として働いた時期もありましたが、翌年西村松兵衛と結婚します。
松兵衛との生活は初めの頃は母・貞を引き取り、妹・光枝の子・松之助を養子として、それなりに幸せだったと思います。

お龍はその後明治24年(1891年)に母・貞と養子・松之助を相次いで亡くし、荒んだ生活になっていったのはそれ以降だと思います。

寺田屋のお登勢は明治10年(1877年)に亡くなっており、もう相談できる相手はいなくなっていました。

確かに、龍馬との間に子供がいれば、坂本家の対応も全然異なっていたでしょうし、彼女の生きがいになっていたと思います。
 
 
お龍については、よくない話も多く、当時の常識からは外れた女性であったことは確かでしょうね。
そんな辺りも、土佐という田舎ではあだたぬ存在として、厄介者扱いされたということもあったのではないかと思います。
 
 
土佐藩の佐々木高行がお龍のことを日記に、
「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。
善悪ともに兼ぬるように思われたり」
と書いています。

美人で、若い時には自分が何も努力しなくてもチヤホヤされた女性が、次第に輝きを失って周りから受け容れられなくなることは今でも良くある話ですが、お龍もそのような人ではなかったかと考えています。
土佐の言葉も壁になったかもしれませんが、周りの人から慕われる努力はいつの時代も必要なのだと思います。

桃源児さんのブログ見ました。彦根城は三年前に行きましたが、素晴らしかったです。英語でブログを書かれるのには感心しました。 



坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

2010年10月04日 | 坂本龍馬

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。



この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。
ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。

この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明治元年から八年の間に浅草の写真家・内田九一のスタジオで撮影されたものだそうだ。内田九一という人物は幕末から明治にかけての写真家で、史上初の天皇の公式写真を撮ったとして有名な人物だ。



上の画像は内田九一が撮った明治天皇の写真だが、この写真は皆さんもどこかで見たことがあるのではないだろうか。

お龍のもう一枚の写真は、白髪混じりの晩年のものだ。
上の写真は、明治37年(1904)の12月に東京二六新聞に掲載されたものである。



お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなっているのだが、この写真はその1年1か月前のものだ。

晩年の写真は本人のものに間違いがないのだが、若い頃の写真は別人のものだとする説もあり、平成20年(2008)に高知県坂本龍馬記念館が警察庁科学捜査研究所に依頼をした。その結果「同一人物の可能性がある」との結論が出され、その旨の記者発表がなされているが、この件についてはWikipediaに詳しく書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D

しかし、警察庁科学捜査研究所は同一人物との断定をしたわけではない。ただ可能性があることを示唆したに過ぎない。
当時は写真を撮影料金は安価ではなかったので、お龍がこのような場所で写真を撮るようなことは考えられないとか、別の女性であると主張する説も根強くあるようだが、お龍の養女であった西村ふさも同じ写真を所有していたらしいという話もあり、この写真がお龍を写したものであるというのが多数説になっている。

晩年のお龍の写真を今の老人と同様に比較してはいけないのかもしれないが、この写真は65歳にしては晩年のお龍の写真はかなり老けた顔に見える。夫の龍馬が暗殺された後、お龍はどのような人生を送ったのかをちょっと調べてみた。

お龍の生涯についてはネットでいろんな人が書いているが、次のWikipediaの記事は内容も詳しく参考文献の紹介もある。龍馬死後のお龍について、他の記事も参考にしながらまとめてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D 

坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは慶応3年(1867)11月15日だが、その時お龍は亀山社中の活動拠点のあった下関におり、龍馬が亡くなった知らせがお龍に届いたのは12月2日とのことで、お龍はしばらく気丈に振る舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供えて号泣したと言われている。

その後お龍は、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した妹・起美を頼るも、覚兵衛の米国留学が決まったために明治2年(1869)に土佐を離れ、その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねてきたお龍を冷たく追い返したそうだ。

元海援隊士の間ではお龍の評判は悪かったらしく、田中光顕(元陸援隊士で宮内大臣まで出世)の回顧談によると、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際に、妹婿の菅野覚兵衛までが、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否したらしい。
お龍は後年、腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語ったそうだ。

明治7年(1874)に旅館の仲居として働いた後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなり、母の貞を引き取り妹の子・松之助を養子として横須賀で生活を始めるのだが、明治24年に母と松之助を相次いで亡くしている。

その後、坂本龍馬の活躍を書いた坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーになったこともあり、お龍にも取材が来るようになるのだが、明治30年に安岡秀峰という作家が訪ねた時には、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていたそうである。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたという。

その後、妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めるが、やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまう。

お龍は明治39年1月に横須賀の棟割長屋で亡くなった。死因は脳卒中だったらしい。

お墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあるが、長く墓碑が建てられず、田中光顕らの援助を受けて、お龍の死の8年後の大正3年(1914)に、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり、お龍の墓を建立したという。


画像でもわかるとおり大きなお墓だが、この墓碑に使われた石は海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうである。

墓碑には夫の西村松兵衛の姓ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのが確認できるが、何故施主が夫ではなく妹なのか。何故8年もたってから墓が建つのか。 結局、夫の西村家の墓にも、龍馬の坂本家の墓にも迎えられず、維新の元勲が資金を出して妹に墓標を作らせたと考えればよいのだろうか。

龍馬を失ってからのお龍の人生は、「自分が龍馬の妻である」ということを支えにして生きようとしたのかもしれないが、そのことが彼女の人生を非常に淋しいものにしたと思われる。
本人自身が周りの人から愛される努力をしなければ、本当の幸せを掴むことはできないのは、いつの時代も同じだと思う。 
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BLOGariコメント

龍馬とお龍の関係は、今風で言えば「事実婚」のようなものではなかったでしょうか。

 姉の乙女にはひんぱんに手紙を龍馬は書いているようですが、家長の兄に対しては何もしていなかったと聞いています。

 いわば「愛人関係」であり、龍馬の妻と言う位置ではなかったようです。そういう関係を龍馬もお龍ものぞんでいなかったかもしれません。

 お龍の性格やキャラクターも影響していたのかもしれません。プライドが高かったようですし、海援隊の仲間たちにもあまり好かれていたようにないし。

 その点長州の桂小五郎や伊藤博文などは、稽古出身の女性を妻にしているようですし。この違いはなんでしょうか。

 龍馬が思いも早く、予定外にこの世を去ったため、取り残されたお龍は気の毒であったとしか言いようはありません。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。

龍馬は慶応3年5月8日に三吉慎蔵に宛てて、自分にもしもの事があれば「愚妻本国に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わさるべく候よう、万々御頼み申上げ候」との手紙を書いています。
土佐の坂本家から迎えが来るまで、下関の三吉家で世話してほしいということですが、お龍の事を「愚妻」と言い、夫婦の認識は龍馬には間違いなくあったと思います。

お龍が坂本家と上手くいかなかった理由は、龍馬の兄の権平にあったとお龍は語っているようですが、権平はお龍を龍馬の妾として扱ったという話もあるようです。

龍馬とお龍は恋愛結婚であり、田舎の古い因習による正式な結婚の儀式をしたわけでもなく、そのために権平の古い常識を変えることが難しかったのかもしれません。
もう少し我慢して坂本家に留まる努力をすれば、もっと幸せな人生になっていたことと思います。
 
 
若い頃のお龍さんと言われている女性の写真は、お龍さんじゃないです。
後に子爵土井家の妾になった新橋芸者の写真です。
これ以上世の中に間違った情報をまき散らさないでください。
 
 
コメントありがとうございます。

文章をよく読んで頂きたいのですが、異説があることを明記していますし、この写真をお龍のものとして広める意図は最初から毛頭ありません。

新橋芸者説(お政)もありますがあの写真を似ているという人もいるでしょうが、似ていないという人も多いでしょう。誰もが似ていると思うような写真であれば、すぐに多数説がひっくり返っていてもおかしくありませんが、そうなりませんでした。
http://www.gouann.org/new_box/tokyo_suisyo/tokyo_suisyo.html

新聞の記事にもなったにもかかわらずこの説が拡がらなかったのはそれなりの理由があるのでしょう。少なくとも、近江屋の主人(井口新助)のご子孫の家になぜ新橋の芸者の写真があったのかを、読者が納得できるように説明する必要があると思いますが、いくら説明しても新橋芸者説も一仮説に過ぎません。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2

2010年08月25日 | 坂本龍馬

前回は、坂本龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。今回は別の黒幕説を書こう。

龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。



大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、藩主山内容堂の承認を得た後、慶応3年10月3日に、徳川慶喜公に進言した。1カ月後に土佐に戻り、山内容堂から破格の賞与を授かり家老格に抜擢されるのだが、当時は大政奉還の発案は後藤によるものと考えられており、龍馬によるものであることを知る人は少数であったらしいのだ。

後藤象二郎説は、龍馬のアイデアのパクリが山内容堂公らに発覚するのを恐れて龍馬を暗殺したという話なのだが、もしそのことが理由ならば、龍馬の発案であることを知る者全員を消さなければ筋が通らない。

一方、政治的な動機や個人的な動機ではなく、経済的動機で龍馬が殺されたと考える説もある。龍馬が暗殺されることによって巨額の富を手にした人物が臭いという考え方である。 この説を述べる前に、「いろは丸」事件の説明が必要だ。 

慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」右舷が大破して沈没した事件があった。下の画像は、今年長崎で見つかった「いろは丸」を描いたとみられる絵である。



龍馬は万国公法を持ち出して紀州藩の過失を追及し、船の代金3万6千両と武器その他の積み荷代金4万8千両あわせて、8万4千両を弁済せよと主張し、政治力を駆使し、世論まで味方につけて勝訴するのだが、最近4回にわたって実施された水中考古学調査では「いろは丸」の積み荷には、龍馬が主張したミニエー銃400丁はなかったらしく、龍馬が偽りの申告で賠償金額をかなり上積みした可能性が高いと考えられている。龍馬はミニエー銃等の銃火器の損失は船の代金と同じの3万6千両もあったと主張していたのだ。次の画像は広島県福山市の鞆の浦にある「いろは丸展示館」である。 



紀州藩の岡本覚十郎は「後藤象二郎応接筆記」でこのように書いている。
「…予も、該船に乗り込みしに慥(たしか)に南京砂糖を積み入れありたり。しかるに、彼はこれを打ち消し、絶えて武器、銃砲なりと主張せるなり。」
沈没する前に岡本が目撃したのは「南京砂糖」だったのだが、龍馬が、あくまでも武器と銃砲だったと主張したというのだ。

しかし、船が沈没して証拠がなくなってしまい、紀州側に反証の余地がなくなってしまった。また途中から土佐藩の後藤象二郎も出席し、事件は海援隊と紀州藩の問題から、土佐藩と紀州藩の問題に発展する。紀州藩は交渉打開のため薩摩藩の五代才助に調停を頼んだが、そもそも五代は龍馬とも交流のある人物であり、すべてが龍馬の思うままに進んで6月に8万4千両の賠償金で両藩は一旦合意している。

ところが、紀州藩より賠償減額のための交渉の申し入れがあり、龍馬は海援隊の中島作太郎を派遣し紀州藩士岩崎轍輔との交渉にあたらせている。交渉は10月26日から始まり、10月28日に7万両に減額されて決着している。土佐藩の受取り分の4万両は11月4日から22日までに「土佐商会」が受け取ったと推定されているのだが、ちなみに龍馬暗殺の日は11月15日とかなり近い。

ネットでは賠償金は龍馬の手にあったと書いている人もいるが、長崎で交渉した中島作太郎が長崎を11月10日に出航し神戸に到着したのは22日で、龍馬に金が渡っていたことは考えにくい話だ。

「土佐商会」とは、土佐藩が慶応2年(1866)に土佐藩の物産を売りさばくと同時に必要物資を買い入れる機関として大阪と長崎に作った藩の商社であり、海援隊士の給与や活動資金を融通する窓口でもあった。慶応3年(1867)6月7日、土佐商会の主任として後藤象二郎から長崎の土佐商会の経営を任されたのが、あの岩崎弥太郎である。

ところで、いろは丸は海援隊が大洲藩から借りた船であった。少なくとも船の代金は大洲藩に支払わなければならないところだ。
「龍馬「伝説」の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。
ネットで大洲藩が賠償金を受け取ったかを調べたが、受取ったことを大洲藩の正式な書類では確認できないらしく、受取っていない可能性の方が高そうだ。

ではこの7万両はどこにいったのか。まずは土佐商会に預けられたものと考えられるが、この金の行方を疑い、後藤や岩崎が私的流用したと考える人がネットでは随分多い。

龍馬が死んだ後海援隊は求心力を失い分裂。翌明治元年(1868)に海援隊は解散させられ、また長崎の土佐商会も閉鎖され、海援隊の事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、明治新政府が藩の事業を禁止する前の明治2年10月に、土佐商会は九十九商会と改称して個人事業となり、明治4年の廃藩置県の時に、岩崎弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けたことから、三菱財閥の歴史が始まるのである。

経済犯罪は「誰が得をしたか」という観点から犯人が絞り込まれるのだが、いろは丸事件で一番得をしたのは岩崎や後藤で、二人が龍馬暗殺に関わっていたという説はかなり説得力がある話だ。 



岩崎は龍馬が暗殺される少し前の10月28日から大阪に滞在し、龍馬が暗殺された後の11月22日に長崎に向かっている。岩崎が大阪に来た目的は後藤に会うためだが、長崎での紀州藩といろは丸の賠償金減額交渉に立ち会わずに、後藤と会って何をしていたのか。
岩崎は「岩崎弥太郎日記」を残しているそうだが、龍馬暗殺前後の10/29から11/17までが空白になっていると言う人もいれば、三菱グループが日記のこの部分を公開していないと書いている人もいる。いずれにしてもこの時、彼が大阪や京都で何をしていたかはよく分からない。

そもそも岩崎弥太郎は土佐藩の公金100両を使い込んだ前科がある男だ。渋沢栄一とは違い、もともと志のない男である。後藤も岩崎もいろは丸の交渉には協力したのだから、自分にも取り分があり、龍馬の自由には使わさせないくらいの気持ちはなかったか。あるいは、龍馬がいなければ、この金が自由に使えるという気持ちはなかったか。

先日飲んだ友人は、後藤象二郎や岩崎弥太郎説の可能性が高いと考えていた。
私も、その説の説得力は認めるが、証拠がないのでどの説が正しいかは正直なところ良くわからない。
いろは丸事件で紀州藩側に遺恨を残し、龍馬暗殺は紀州藩が絡んでいるとする説も可能性があるようにも思う。



しかし、この事件について明治政府は本気で犯人が誰かを調べつくしたのだろうか。私にはとてもそうは思えない。

追及できなかった理由があるのではないか。この事件の真相を知るものが明治政府の要人に近いところに何人もいたので、深く追及できなかったのではないかと考えるのは私だけだろうか。
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BLOGariコメント

はじめまして。大変興味深く読ませていただきました!
特に最後の後藤・岩崎説。。龍馬伝で、弥太郎にこれだけ焦点が当たってるのは、実はその布石なのでは!?なんて深読みしてしまいました(笑)

突然失礼致しました。
 
 
ヒカルさん、はじめまして。

「龍馬伝」では龍馬と岩崎弥太郎が、若いころから知り合いであったような筋書きですが、実際に二人の接点があったのは龍馬が暗殺された年の数か月程度ではないかと思います。

「大河ドラマ」は多くの人が見ていますから、なるべく事実に忠実に書くべきだと思うのですが、このドラマが龍馬の最後をどう描くは私も非常に楽しみです。
 
 
後藤説や、岩崎説もありますが、もしそうであれば、彼らは明治の世になって、土佐勤王党の残党によって暗殺されたでしょう。

 ある意味「大政奉還」は、龍馬が後藤象二郎と政治的な妥協をして内乱を最小限におさえるという.政治的な「ウルトラC]でした。

 この「功績」で、佐幕藩であった土佐藩は、勤皇藩に転身、「薩長土肥」の一角にちゃっかり入り込んだのです。

 土佐藩内部であれほど土佐勤皇党を弾圧していた後藤象二郎や板垣退助が、のちの自由民権運動のリーダーに成るのですから信じられませんね。

 岩崎弥太郎は、維新後は大久保利通に急接近し、政商として活躍し、三菱財閥の基礎を作り上げます。台湾出兵と西南戦争で政府軍御用達の海運業者となりました。

 その前には板垣や後藤は「征韓論」で西郷隆盛に加担しているので、岩崎弥太郎とは路線が違ったはずです。

 のちの道は分かれますが、岩崎弥太郎と後藤象二郎が坂本龍馬暗殺の黒幕であったとは考えにくいでしょう。

 歴史はのちの編者によって、あるいは時の権力者によって都合よく「上書き保存」されます。

 坂本龍馬の暗殺と、ケネディ大統領の暗殺の背景は未だに解明されていません。それだけ「影響力」のある人物であった証なのでしょう。
 
 
土佐商会は、土佐藩の貿易から海援隊の経理など幅広く活動していましたし、もっと大きな資金を動かしていました。当時は一切経理内容の公開などはありませんから外部からは資金の出入りはわかりようがなく、もし弥太郎が私的流用したとしても、可能性を疑うとしても時間がかかり、疑いはしても証拠がなければ確信が持てるはずがありません。

確かに海援隊のメンバーは紀州藩を龍馬暗殺の犯人と睨んで、天満屋にいた紀州藩の要人に斬り込む事件を起こしいますが、後藤と弥太郎に関しては、もし疑われても、口を割らない限りは安泰でしょう。

岩崎弥太郎には政治信条などはなく、後藤象二郎は「路線」の違いの有無はあまり関係ないと思います。ただ弥太郎は利のあるところに動いたのであって、そうでなければ、後藤象二郎の娘・早苗を自分の弟の弥之助の嫁にくれなどとは言わないはずです。弟と早苗の子が三菱4代目の岩崎小弥太で、後藤象二郎は三菱財閥とつながっているから、こういう説が流布するのだと思います。

弥太郎は明治4年に、政府が信用のなくなった藩札をすべて買い上げるという後藤象二郎からのインサイダー情報から10万両の金を用意して藩札を安く買い漁ってボロ儲けするのですが、この10万両はどうやって手配したのでしょうか。後藤象二郎が弥太郎に経営を任すまでは土佐商会は火の車だったようなのですが…。

とはいえ、すべて推測で特に証拠があるわけではありません。

ただ当時は、龍馬はいろんな勢力が命を狙っていましたから、自ら手を下さなくとも、居場所を教えるだけで目的を達することができる状況だったと思います。

ご指摘の通り、我々の知る歴史は時の権力者にとって都合のよい歴史です。明治政府が真相を知られたくない事件だという推理が正しければ、黒幕は薩摩の可能性が高いと思いますが、後藤・岩崎もグレーの様な気がします。
 
 
 動乱期では、一時期無政府状態になることもあり、しばやんさんの定期した問題は「闇の中」にある可能性が高いでしょう。

 幕末・維新期の最大の功労者である坂本龍馬ですが、明治時代には忘れられ、知っているのは関係者だけだという有様。

 大正時代に坂本龍馬像を若者たちだけで建立しようとした入交好保さんはその現実を嘆かれていました。

「西郷、桂が横綱クラスなら、龍馬は前頭の平幕の扱いにすぎなかった。」「薩長政府の歴史観では龍馬の功労は無視された。」と。

 「龍馬伝」で龍馬の暗殺をどのように描くのか。興味があります。
 
 
今後新たな資料でも出てくれば別ですが、143年を過ぎても解明されなかったこの事件は、これからもずっと「闇の中」にあるものと思います。

龍馬がもしいなかったら、薩摩や長州は西洋から武器を調達し、日本は内戦がもっと続いて疲弊してバラバラになり、他のアジア諸国と同様に西洋の植民地になりさがったかもしれませんし、国が割れていたかもしれません。第二次世界大戦までには世界中の非西洋の国々のほとんどが西洋の植民地となっていた中で、日本はずっと独立を維持出来た稀有な存在です。

「日本を守る」という見地から、薩長の同盟を導き、大政奉還につなげた龍馬という人物がこの動乱の時期に現れたことは、日本にとって奇跡のように思えるときがあります。龍馬の功績は、これからもっと評価されるときが来るのではないでしょうか。

今の政治家に龍馬のような大きなスケールで活動する人物が出てきてほしいものだと思うのですが、なかなかいい人物が出て来ないのが残念です。

「龍馬伝」で龍馬の最後がどう描かれるか、私も興味があります。
 
 
おはようございます。
大変興味深く拝読させて頂きました。
竜馬についての評価、暗殺についても諸説あって「竜馬伝」を殆ど欠かさずに見ていますが、これからの展開がどのように作られるのか、益々興味が湧いて来ました。
 
 
神戸の頑固爺さん、こんにちわ。コメントありがとうございます。

龍馬の暗殺の件は、私の飲み友達から是非このテーマで書いてほしいと言われて調べて書いてみたのですが、他にもいろんな説があります。龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎との抱き合い心中説から、千葉佐那の黒幕説やフリーメーソン説までいろいろあります。

昔だったら、こういうことを調べるには、まずは百科事典などで調べて、その上でどの本に詳しく書いてあるかを知って、その本を探してその該当部分を探して読む…というふうにして、文章にまとめるのに膨大な時間がかかったと思うのですが、インターネットのお陰で、簡単に様々な人の意見やその根拠を知ることが出来るようになりました。

もちろんすべてが真実であるとは限りませんが、調べれば調べるほど、通説というものも真実とは限らないということが見えてきたりします。

いつも長い文章で恐縮ですが、これからも時々覗いてみてください。
 
 
大洲藩に弁償金が払われていないというのは、いくつかの文献にも記されているようですね。
おっしゃるように、その金が海援隊の遺産として土佐商会へと引き継がれ、弥太郎の藩札の資金となったという説は私も概ね同意します。
しかし、そのことで龍馬暗殺の黒幕を後藤、岩崎とするのは少し早計のように思います。
同じような推理を説いているものも読んだことがありますし、完全否定はしませんが・・・。

岩崎はともかく、後藤にとって龍馬はまだまだ利用価値があったと思います。
それにもしそうであれば、中岡まで殺害する必要はなかったのではないでしょうか。
二人を失ったことで土佐藩は、維新に際して完全に薩長の後塵を拝することになります。
藩閥意識が強かったこの時代、薩長に太いパイプを持ち、土佐藩のスポークスマン的役割を果たせるこの二人を、土佐藩参政であった後藤が暗殺するというのは、ちょっと考え難いように思います。
それに、岩崎と違って後藤は金への執着はさほどなかったようですしね。

龍馬暗殺に関しては、現在では薩摩(西郷)黒幕説がもっとも主流だと思いますが、私は常々、歴史に極端な深読みはすべきではないと思っており、龍馬暗殺の諸説はどれもよく出来た説ではあると思いますが、私は単純に見廻組単独説を支持しています。
 
 
単純に考えると見廻組ということになりますが、何故龍馬の居場所がわかったのか、何故「才谷」という龍馬の偽名を知っていたのか、誰かが情報を洩らしたのではないかという疑問が残ります。

そもそも、近江屋事件に関して私が一番不自然に思うのは、なぜ明治政府は事件の首謀者を究めなかったのかという点で、背後に明治政府の要人が絡んでいるのではないかとついつい考えたくなってしまいます。もし見廻組が犯人ならば、明治政府が簡単に犯人を特定して決着できたはずで、決着できなかった背後に私は大きな権力闘争の影を感じます。

近江屋事件に関わった見廻組の今井信郎は西郷隆盛の働きかけで処刑されることなく釈放されていますが、これも不自然ですね。

この事件は、私怨レベルの単純な話なのかもしれませんが、大政奉還後の国家権力(あるいは国の財政)をどの藩が握るかといドロドロとした権力闘争のなかで捉えるべき事件であったのではないかと考えています。

諸説があって、説得力のあるものも少なくないのですが、個人的には薩摩が一番臭いと考えています。
早速のRESありがとうございます。

私も、もし黒幕がいるとすれば、西郷説をとります。
実際には小説などにあるような、西郷と龍馬の間に友情関係はなかったと思います。
お互いに利用し利用される関係でしかなかったと・・・。

ただ、今井信郎の釈放云々の話は、西郷がはたらきかけたかどうかは憶測にすぎないと思います。
実際にその件で働いたのは黒田清隆ですしね・・・。
西郷が黒田を動かして減刑させた、などという説が多く聞かれますが、その根拠は曖昧なものです。

それと、なぜ龍馬の潜伏先がわかったか、という件ですが、これについては歴史家・菊池明氏などもその著書で書かれていますが、そもそも暗殺前の龍馬の行動を検証すると、およそ潜んでいるとはいえないほど、危機管理意識が薄いんですね。
白昼堂々と近江屋を出入りしていますし、諸藩や幕府要人たちとも会見したりしています。
後藤象二郎や佐々木高行などはしきりに藩邸に来るよう勧めたといわれますが、龍馬はまったく受け入れることはなかったと・・・。
幕府要人・永井尚志も、龍馬があまりにも無警戒すぎたことをのちに語っています。
つまり、龍馬の宿泊先が「近江屋」であるということは、この時期公然と知られていたのではないかと。
なぜ龍馬の居場所がわかったか・・・というのは、のちの世が龍馬暗殺を多少ミステリー風に仕立てたもので、本来は、龍馬を殺そうと思えば、その居場所はすぐにで調べがつくものではなかったかと・・・。

いろいろ反論意見を言ってスミマセン。
私も「龍馬伝」の最終回近くになれば、この件は起稿しようと考えてました。
 
 
龍馬についてはいろんな人が小説や評論で書いているのはいいのですが、どこまでが事実と認定されていることで、作者が類推して書いているのがどこまでかが、わかりにくくなっていますね。

今井信郎の話もどこまでが本人が述べている事なのかが、余程古い本を集めないとわからない状況ですが、今井自身は西郷のおかげで釈放されたと思っている節があります。明治10年に西南戦争が勃発した時に今井は伊豆七島の巡視を依願退職し、昔の部下を集めて、官軍としてではなく、命の恩人である西郷の軍に合流しようとしますが、西郷の自決の報を受けて部隊を解散したということらしいのです。

龍馬が危機管理意識が低かったかという話は以前読んだことがあります。そうだったのかも知れませんが、この点についてはよくわかりません。危機意識が低かったという説の論拠もやや曖昧な気がします。

永井尚志は若年寄格でしたが龍馬とは近江屋事件の直前の5日間に二度も会っているようです。龍馬は他にも幕府の要人と会っているようですが、大政奉還をして徳川慶喜は新政府に入るべきだとの説であった龍馬を、幕府側が暗殺するメリットはないような情勢下ではなかったでしょうか。

もし龍馬の居場所や行動が把握されていた上で、京都見廻組が業務の一環として堂々と龍馬を暗殺したのなら、幕府は正式に発表し、記録に残されてしかるべきだと思うのですが、記録は何も残っていません。

徳川慶喜を完全に排除して新政府を作るという考え方の薩摩にとっては、龍馬は邪魔な存在で、いずれは排除したいという考えがあったのではないか…、という説になんとなく納得している現状です。

それにしても、坂の上のヒゲ親父さんのブログはとてもわかりやすくて歴史のいい勉強になります。勝手ながらリンクを貼らせて頂きました。

これからも、時々訪問させて頂きます。


お話うかがわせていただいて思うのですが、しばやんさんと私の持ってる知識はほとんど同じなんですね。
要は見解の違いですよね。
つまり、同じ情報でも人によっては様々な解釈ができる。
そこが歴史の面白いところですね。

リンクありがとうございます。
私もリンクさせていただきたいんですが、私のエキサイトブログは閉鎖的で、同じエキサイトブログ以外リンク出来ないようで・・・。
私もまた訪問させていただきます。
 
 
興味津々で拝見いたしました。
「龍馬」に関する記事は、今年は、特にたくさんいろいろなところで書かれて議論されました。
しかし、いずれも「史実」を根拠とした「確実性の高い記事」は少なかったように思えました。
私は、大洲市において街造りプロデューサーをいたしいておりますが、その傍らで、大洲市からの委託により地元博物館の学芸員や下関市の長府博物館、東京大学史料編纂所の研究者の皆様方と連携して、平成21年暮れに存在が確認された「いろは丸購入契約書」の翻訳を通して、契約書の中に「合意事項」として書き込まれていた一言に注目しました。
それは・・・
大洲藩は、英国「デント商会」の日本責任者「ロウレイロ」と購入契約を結ぶ際に、船価40,000メキシコパダカ(万延小判で34,000両)を支払っていることが明記された上で、「いろは丸に課せられたいかなるその他の債務からも売り主は免責となる」と書かれていました。
この「いかなるその他の債務」が何を意味しているか、このほど、薩摩藩がロウレイロに対して「安行丸=いろは丸」を売却する際に、ボードインというオランダ人がディーラーとして存在していたことが確認されました。
この「いろは丸」の売却の秘密を説明するには、当時の中国貿易で蓄財をして日本に進出してきた「ジャーディン・マセソン商会」と「デント商会」がライバル関係にあったこと等から説明していかなければならないことがわかってきています。
現在の「通説」は、「龍馬主人公」的な見方ですが、実際に「史実」を追い求める場合は、薩摩、長府、紀伊、土佐等の資料に大洲藩の資料を並べて見ると、意外な真実が見えます。
長くなりましたが12月1日に発行した「大洲歴史懐古帖」には上記の詳しいことを書いておりますからご案内しておきます。
 
 
街造りプロデューサーという仕事は面白そうな仕事ですね。出来れば大手資本に頼らずに、地元の人の力を引き出して、歴史と文化の価値が観光客を引き付けるような街づくりが出来ればいいですね。私も、そのような仕事に今でも憧れているところがあります。

四国の西部は今治までは行ったことがありますが、内子や大洲は古いものがそのまま残っていそうで、いずれ旅行で行ってみたいと思っているところです。

「いろは丸」の事はこの記事を書くときに、いろんな人のブログや菊地明さんの著書などを参考にして記事を書きましたが、「いろは丸購入契約書」の話は初めて聞きました。

「大洲歴史懐古帖」は是非取り寄せて読んでみたいと思います。良い情報をいただき有難うございました。 



坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1

2010年08月20日 | 坂本龍馬

先日友人と飲んでいたら、たまたま坂本龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれて少し興味を覚えたので、龍馬の暗殺事件についてちょっと調べてみた。



坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。

当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬ったのはその中の今井信郎であるというのが今では定説になっている。



上の写真は佐々木只三郎だが、京都見廻組とは幕末期に幕臣により結成された京都治安維持のための組織で、新撰組とともに反幕府勢力を専門に取り締まっていた。



上の写真が今井信郎だが、戊辰戦争を生き抜き箱館戦争で取り調べを受けた今井信郎の明治3年の証言では、自分は見張り役だったと主張し、禁固刑を経て釈放されている。

ところが今井は、明治33年に甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じて、自分が龍馬を斬ったことを詳細に話していることや、大正7年に死去する前に書き残した「家伝」には龍馬の額を真横に払うまでの具体的な経緯が書かれている。また今井はこの事件の件で京都守護職から褒状を貰ったという妻の証言もあるようだ。

では誰が京都見廻組組頭の佐々木只三郎に龍馬の暗殺を命令したのだろうか。このことは今井には知らされていなかったようで、今井証言では「お指図(幕府の重職者からの命令)」があったと語っており、命令したのは京都守護職の会津藩主松平容保か実質的な政策決定者の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の可能性が高いと言われている。下の写真は松平容保である。


ちなみに手代木直右衛門は京都見廻組組頭の佐々木只三郎の実兄であり、また手代木が死の数日前に語った証言が書かれた「手代木直右衛門傳」には「弟が坂本を殺した。当時坂本は薩長の連合を諮り、土佐の議論を覆して倒幕に一致させたので幕府の嫌忌を買っていた。某諸侯の命を受けて坂本の隠れ家を襲って惨殺した」と書かれているそうだ。

また大正4年に、同じ京都見廻組であった渡辺一郎が死ぬ直前に「懺悔したい。」と言い出し「坂本氏を暗殺したのは自分である。生涯隠し続けようと思っていたが、これを打ち明けて心置きなくこの世を去りたい。」と語ったそうだ。これも、京都見廻組説を補強するものであるが、龍馬を斬ったのは2人ということなのか。

しかし、今井の証言には信憑性がないという人もいる。
土佐出身の谷干城は、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた人物だが、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っているそうだ。谷干城は、土佐藩主山内容堂公や龍馬と異なり武力討幕強行派で、京都で薩摩の西郷隆盛や小松帯刀と武力討幕の密約を交わしていた人物である。谷干城の言葉もまた、そのまま信用することはリスクがある。

龍馬暗殺に関する史料や意見を素直に読めば、今井だけではなく京都見廻組の関係者複数の証言があることから、少なくとも実行犯は京都見廻組であることはかなり確度が高いと考えてよいと思う。

そこで次の問題は、龍馬の暗殺が京都見廻組の単独犯行であったかどうかだ。

もともと京都見廻組は寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていた。記録では京都見廻組は増次郎という人物に龍馬の居場所を探らせていたが、その報告があったという記録がないそうだ。
ならば、龍馬の直接近江屋の二階を目指して京都見廻組が入り込むのはどこか不自然ではないか。誰かが龍馬を裏切って、「才谷」という龍馬の変名と居場所を教えた黒幕がいるのではないかということになる。龍馬が近江屋に居所を移したのは、事件のわずか3日前のことだ。

そこで出てくるのが薩摩藩黒幕説だ。



かって坂本龍馬が同盟を仲介した薩摩・長州の二藩には、大政奉還のその日に倒幕の密勅が出されている。大政奉還後徳川慶喜を新政府に迎えて穏便に軟着陸させようとした龍馬と、大政奉還の後は幕府は求心力を失い武力討幕がやりやすくなったと考えた薩摩藩とはあまりにも方針が違いすぎて、薩摩が今後は龍馬が邪魔になると考えたのではないか。
龍馬の死後2日後に薩長は出兵協定を交わして結束を固め、12月9日の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを仕掛けているのだが、このままいけば、新政府の「大功」が龍馬に奪われかねないとの考えが薩摩藩になかったか。



また明治に入って西郷隆盛が龍馬暗殺容疑のあった今井信郎の助命運動に乗り出したそうだが、これは不可解である。
さらに薩摩藩は京都見廻組との接点もあった。薩摩と会津は文久三年(1863)に薩会同盟を結んでおり盟友関係にあり、また京都見廻組の佐々木只三郎と懇意な薩摩藩士が何人かいて、居場所を伝えたことは考えられる。
薩摩黒幕説は、証拠は乏しいがなかなか説得力がある。

龍馬暗殺については、紹介した以外にも多数の説があり、何が歴史の真実であるかは正直なところよく分からない。調べれば調べるほどいろんな説が出てきて、正反対の主張する人もいてまとめるのに随分苦労した。

黒幕については、土佐藩、紀州藩など他にも様々な説がある。今回はとても書ききれないので、次回にその他の黒幕説をまとめることとしたい。
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BLOGariコメント

 しばやんさんこんにちは。

 今年は「龍馬伝」もあり、ドラマでどう描かれるのかも焦点であると思います。

 「薩摩謀略説」が有力であると思います。戊辰戦争を長引かせ武力討伐で自分たちが主導権を握る戦略でしたから。

 明治2年でしたか大村益次郎も、これは薩摩ではなかったですが、不平士族に暗殺されました。

 彼も天才的な軍略家であり彼の登場で戊辰戦争がさっさと片付いたと言われていますので。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。

ネットでいろんな説を読みましたが、中岡慎太郎説、千葉佐那説からフリーメーソン説といった、ちょっと信じられないような説までいろいろあります。

私も薩摩説にかなりの説得力を感じる一人ですが、どの説を取るにしても証拠が乏しすぎるので、語る人の歴史観によって様々な説が乱立している状況にあります。

他にも可能性を感じる説があり、次回に別の黒幕説を書く予定にしていますので、またお付き合い頂ければと思います。

大村益次郎の暗殺の件はあまり知らなかったのですが、ネットで調べたところでは、薩摩ではなく長州の団伸二郎、神代直人等に襲撃されたようですね。これも諸説があるかもしれませんが…。
 
 
初めまして。昨日、ブログ村のトラコミュ「坂本龍馬」に参加して、こちらのブログを知りました。
私は、坂本龍馬の暗殺が未解決事件である、というところに大きな関心をもっています。
彼は、幕末~維新の時期に於いて、歴史上で、又、その同世代を生きた人々の中で、非常に重要な人物、即ち、有名人であったのに違いない筈です。そういう人間が、闇から闇に葬りさられてしまった、ということには、俗に云う、‘大きな力’(ー国家的暴力)、が動いた、という疑いを抱いても、それは然るべきである と、やはり 思います。
最も具体的に日本の新しい時代のビジョンを描いていながら、その目前で殺されてしまった悲劇の人物、という風に捉えられているところがあると思いますが、彼の暗殺が、国家的な力を持った組織の考えによるものだと考えた時、それが混迷の時代であっただけに、悲劇的な部分は微妙に変わってくると思うのです。
彼が暗殺されたのは維新の直前、そして、そのことを未解決事件としてしまった時に一番力を奮っていたのは、錦の御旗を掲げて登場してきた新政府です。
私は、王政復古の大号令、というのは、坂本龍馬を抹殺したからこそ発することが出来たものだったのではないか、と思う、そして、それは、思想的な問題だったのではないか、と、ちょっと考えています。
 
 
ブログを始めてもうすぐ1年になりますが、いろんな方からコメントを頂き、とても励みになっています。
龍馬暗殺について3回に分けて書いてみましたが、思った以上に反響があって驚きました。アクセス分析をしても古い記事まで読んでくださる人が多くて、とても嬉しいです。

龍馬暗殺の話はいろいろ調べてみましたが、結局武力討幕派が一番怪しい。とりわけ大久保や岩倉が一番怪しいという印象を持っています。

以前廃仏毀釈のことをいろいろ調べたことがあり、このブログにもいくつかの記事を書きましたが、調べれば調べるほど驚くような話だらけで、なぜこのような重大な事件が通史の中でほとんど書かれていないのかを非常に不満に思ったのですが、龍馬の暗殺事件も全く同様で、事件について充分調べつくされたとは到底思えず、むしろ隠されている事のほうがはるかに多いように思えるのです。

つまるところ通史というものは、いつの時代も、どこの国でも、勝者にとって都合の良いように書かれるものだということです。通史にこだわらないでいろんな史料に当たるようになって、結構歴史というものが面白く感じられるようになりました。
 
 
初めまして。
京都のお土産物屋でアルバイトをしている大学生です。
もうすぐ龍馬の誕生日&命日ということで、龍馬コーナーを充実させることをオーナーから命じられました。

大変興味深く拝見しました。
このブログがとてもわかりやすいので、
参考にさせていただけますでしょうか。
 
 
Yさん、コメントありがとうございます。
参考になるものであれば、利用していただいて結構です。

この記事を書いてから1年以上経つのですが、いまだによくアクセスいただいており、坂本龍馬という人物を愛する人がたくさんおられることを実感しています。

この記事を書くにあたり、いろんな人の記事を参考にしました。私の意見も少しは書いていますが、多くはいろんな人が書いているものでもあり、私が参考にした重要な記事はリンクさせていると思います。リンク先も目を通されることをお勧めします。
 
 
しばやんさんこんにちは。

ありがとうございます。分かりました。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだのは、中学生の頃で、
たぶん実家の本棚にはまだあるのでしょうが、もう1年近く前のことですし、中学生で司馬先生はやはり難しかったのだと思います。記憶が定かではないので。

その程度の知識で、龍馬コーナー担当するなんて…と
恐怖でしたが、このブログで理解が進みました。
読み物的に、暗殺者の説を有力説3つくらいを取り上げて、
お客さんが足を止めてくれるようなコーナーを作りたいと思います。
また結果報告させてくださいね。
 
 
Yさん、こんばんは。

私のブログを参考にしていただけるだけでもうれしいです。
京都だったら近くなので、ひょっとしたら見に行くかもしれませんよ。
しばやんさんこんばんは。

ご返信ありがとうございます。
本当は明日の時代祭に間に合わせたかったのですが…
本業は学生なので、なかなか厳しくて(泣)。
このブログは、本当に読んでいて興味深いです。

あ、私が中学生だったのは、10年以上前です!

おかげさまで構想はかなり練れてきました。
私は、しばやんさんの説にかなり迎合です。説得力があります。
ところで質問なのですが、ここに掲載されている人物の写真は使わせていただいてもよろしいでしょうか。近江屋とか、他ではみつからなさそうな画像も沢山ありますし…。
また教えてください。

ぜひ見に来ていただきたいです。
ちょっとプレッシャーですが、良いものを作る励みにできそうです。
 
 
すみません、龍馬の記事に関しては、寺田屋や桂浜などの写真は私が行って撮影したものが大半ですが、他のブログサイトから拾ったものを借用したものがかなりあります。

他のブログから画像を拾う場合は、厳密にいうといろいろ問題があるかも知れません。私はGoogleの画像検索で探すのですが、多くの人が使っている画像はリスクが小さいと勝手に判断して利用しています。
もし気にされるのでしたら、参照したサイト名を明示するなどされればいかがでしょうか。

ところで明日は天気が厳しそうですね。時代祭もありますが、鞍馬の火祭は雨だと大変ですね。
 
 
しばやんさん、ありがとうございます。

慎重にしてみます。

鞍馬といえば義経ですね。
私は実は、義経が一番好きなんです。
京都は常に歴史を感じられて、
本当に良いところだと思います。

いろいろありがとうございました。
またお願いします。
 
 
しばやんさん、こんにちは。

以前相談させていただいた、「龍馬コーナー」ですが、
おかげさまで、先日、完成させることができました。
今、お店にディスプレイさせていただいています。
遅くなってしまって、すみませんでした。

場所は、近江屋事件跡地にある「サークルK四条河原町店」です。正確には、河原町蛸薬師にあります。
しばやんさん、ぜひいらしてくださいね!

お店の外には石碑がありますが、お近くに来られた際は、読者の皆様も、ぜひ店内にお立ち寄りください。
末尾にしばやんさんのお名前も入れさせていただいています。
この記事をご覧になっている方々からすれば、私のコーナーが、どれだけしばやんさんの記事の助けられているか、お分かりいただけると思います。

私自身が浅学なので、不十分な点が多々あります。
また、うちのお店には、修学旅行の生徒さんも来られるので、生徒さん達にも読みやすいものを作るように心がけました。なので、簡略化しています。
これらの点は、どうかご容赦いただいて、現場で、坂本龍馬に思いを馳せていただけたら嬉しいです。
もし、読者の方々で、来ていただける方がいらっしゃいましたら、お越しの際にスタッフに感想を伝えていただけると励みになります(しばやんさんにはこれだけ助けていただきましたが、上記の理由がありますので、どうかお手柔らかにお願いします)。
イニシャルが「Y」であるスタッフは、私以外にもいますので、
Yで始まる名字であっても、私だとは限りません。すみません。

このようなご縁をいただけたことに感謝します。
一人でも多くの方々に読んでいただけますと、嬉しいです。
どうかよろしくお願い致します。
 
 
Yさん、ご苦労様でした。

龍馬にゆかりのある所で働いておられるのですね。
コンビニのお店の中とはいえ、近江屋事件の跡地で「龍馬コーナー」を作るのに、私の記事が参考になったと言っていただいてとても嬉しいです。

阪急河原町駅からかなり近いので、今月中に立ち寄らせていただきます。その時はかならず声をかけますよ。