しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

厳島神社と「雛めぐり」

2010年02月28日 | 広島歴史散策

昨年の春、桜の咲くころに宮島に旅行した。



鮮やかな朱色の鳥居や厳島神社の建物が青い海の色に映えて、あちこちで咲く桜の花がまた美しくて絵になる景色がいっぱいで、何枚も写真を撮った。

平清盛が厳島神社に平家納経を奉納したことからわかるように、この宮島も明治になる前は神仏習合の地であり、大聖院という寺院が宮島全体の僧を束ね、厳島神社の祭祀をつかさどってきた経緯にある。
ところが明治初期の廃仏毀釈で7つの寺院を残してすべての寺院を廃寺にし、厳島神社にあった厳島弁財天や千畳閣にあった釈迦如来坐像などを大願寺に移し、仏像や仏具がなくなった千畳閣は豊国神社の建物になったのだが、宮島ではあまり激しい破壊活動は起こらず、比較的古いものが残されているとのことだ。



上の写真は千畳閣の内部だが、この祠があるあたりに本尊の釈迦如来座像があったのだろうか。



上の写真は大願寺で、お寺であるのに狛犬があるのが面白い。厳島弁財天や千畳閣の仏像はここに移されたとのことであるが、今回は、廃仏毀釈の話題はこれくらいにしておこう。

厳島神社の参拝を終えて古い街並みを歩いているとたまたま「雛めぐり」というイベントが宮島民俗博物館ほか何か所かで行われていて、時間がなかったので2か所だけ訪問したが、江戸時代から伝わる立派な雛人形をいくつも見ることができた。

もうすぐひな祭り(桃の節句)の日なのだが、太陽暦ではこの日に桃が咲くことはない。旧暦の3月3日は太陽暦の4月初めにあたり、この時期ならば「桃の節句」という言葉が良く理解できる。
宮島では毎年旧暦の桃の節句前の10日間(3/25~4/3)に、この「雛めぐり」を行っているようである。宮島には古い雛人形を持つ家が何件もあって、毎年展示される人形が変わるそうである。今年のパンフレットが次のサイトに出ている。
http://www.miyajima.or.jp/new/wp-content/uploads/2010/02/e38381e383a9e382b7e8a1a81.pdf 




上の写真はある旧家で展示されていたものだが、手前の円卓に並べられているものが大正時代のもの。奥の7段のものが昭和時代でその左右の雛人形は江戸時代のものだそうだ。
良く見ると、お内裏様とお雛様の左右の位置が時代によって変わっているのに気がつく。

古来の日本の考え方では、「左」が上位を意味しており、宮中においては天皇と皇后との左右の位置は左(向かって右)が天皇と決まっていたので、雛人形も向って右に男雛を置くならわしであったそうだ。 ところが、西洋では国王と王妃との左右は逆であったため、日本もそれに合わせようという考え方となり、大正天皇の即位以降は天皇と皇后との位置が変更になったそうだ。それに伴い人形の位置も次第に変わっていったということらしい。



上の写真も江戸時代のもので、かなり豪華なものである。建物には「紫宸殿」とかかれた扁額が掛けられている。

「節句」というのは、伝統的な年中行事を行う季節の節目になる日で、年に五回行われるので「五節句」と呼ばれる。(人日(七草)1/7、上巳(桃の節句)3/3、端午(菖蒲の節句) 5/5、七夕7/7、重陽(菊の節句)9/9)

節句の伝統行事は古代中国から日本に伝わったとされるがで、ひな祭りは三月の最初の巳の日に行われていた上巳節(じょうしせつ)と室町時代の貴族女性の人形遊びである「ひないまつり」が合わさって、原型ができたといわれ、安土桃山時代に貴族から武家社会に伝わり、さらに江戸時代には庶民の間に広まったそうだ。
中国では桃の木は、悪魔を払う神聖な木と考えられており、桃の花を飾ることは子供の無病息災を祈ることとつながっているとのことだ。

子供の頃には雛人形は京都の実家でも毎年飾っていたし、友人の家でも雛人形を部屋に飾っている家を良く見かけたが今ではどうなのだろうか。
昔は、雛人形をあまり長く飾ると女の子の婚期が遅れると考えられて、節句が過ぎるとすぐに片づけていたが、昔はこんな伝統を守って子供と一緒に人形を並べながら、子供を思う親の気持ちを伝え、子供は自分を思う親の気持ちを知り、将来はよき伴侶を早く見つけて幸せに生きることを幼いながらも考える機会を持ちえたのだと思う。

言葉だけではなかなか伝えられないものを、このような家庭の行事を通して小さい子供に伝えていく日本の伝統や風習は本当に素晴らしいと思うのだが、最近の日本人はこのような昔のやり方をあまりに軽視してはいないだろうか。親がいくら子供にお金を使って物を買い与えても、肝心なことが子供に伝えられなければ意味がない。
伝統や風習には様々な先人の様々な英知が詰まっており、長い年月をかけて検証された成功体験があるからこそ、これだけ長く続いているのだということを、振り返るべき時に来ているような気がする。
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明治の皇室と仏教

2010年02月25日 | 廃仏毀釈・神仏分離

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。



暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。

昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。

色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。



明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html 



即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。

古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
https://archive.is/Obu7
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。

さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。 
http://naagita.hatenablog.com/entry/20090416/p1



「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、

「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
 日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。

この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。 
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BLOGariコメント

古い記事にコメントしてごめんなさい。

村雲御所の日榮尼さまのこと、調べていたのですが、今まで存じませんでした。
本当に、貴重な情報、ありがとうございます。

うちが調べているところでは、他にも、霊鑑寺の尼門跡様も還俗なさらなかったみたいです。
 
 
とても懐かしい記事にコメント頂き嬉しいです。

ブログを始めた頃は、歴史に話題を絞る方針はなくて、いろんなテーマで書いていましたが、その当時興味を持っていた廃仏毀釈のことを書き始めてから、更に詳しく調べることの楽しさを覚えて、次第に歴史に絞るようになっていきました。

日榮尼のことは詳しく知っていたわけではなかったのですが、「中外日報」の記事を見て興味を覚えて引用させていただきました。

しかし、みいにゃんさんは詳しく調べられているのですね。霊鑑寺の尼門跡様のことは、何も知らないので申し訳ないです。

廃仏毀釈に興味をお持ちでしたら、ブログ村の「廃仏毀釈」に、私の記事を置いています。良かったら立ち寄ってみてください。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html





一度神社になった国宝吉野蔵王堂

2010年02月21日 | 廃仏毀釈・神仏分離



3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。



ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。



上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。



このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること) 

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。



この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。 
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

2010年02月14日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。



ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。



廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。 
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BLOGariコメント

こんにちは。

またまた、素晴らしい話をありがとうございます。
廃仏毀釈の嵐は東大寺の大仏殿にも及んでいたのですね。
奈良には10数年前に行ってきりです。大仏殿も。今では良く覚えていません。写真やTVの映像の影響が大きいからでしょうか。

工事は、すると決めたれ早くしないと大変な費用になりますね。鉄道やダム、基地の問題など早く片付けてもらいたいと思います。長引けば長引くほどお金がかかれと云う事ですね。
 
 
hanasanさん、いつもコメントありがとうございます。

廃仏毀釈の嵐の中を、東大寺や法隆寺や東本願寺などの僧侶は、興福寺や妙楽寺や内山永久寺のように全員還俗して神官になるようなことはせず、お寺と文化財を守るために智恵を絞り体を張って頑張ったことが大きかったのだと思います。もし、当事者の頑張りがなければ、この時期にもっと多くの文化財が失われていたのだと思います。

私が明治初期の廃仏毀釈に興味を持ったのは、比較的最近のことで、それまでは、日本人は古い文化財を大切する国柄だから、これだけの古いお寺や仏像が残っているとばかり思っていましたが、最近は木造の文化財をこれだけの長い期間守ってきたということが、本当に凄い事なのだということがわかってきました。

昔の人がこんなに苦労をして、守ってきたことをもっと知るべきではないかと思って調べてきたことを、書きたくなったのがブログを始めたひとつのきっかけなのですが、いつも読んでいただいてうれしいです。

 

 


明治の初期に、鹿児島県で何があったのか

2010年02月07日 | 廃仏毀釈・神仏分離

以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。
薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。



江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。

「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。

そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。



上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。

久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」

こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。



上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」

通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。 
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BLOGariコメント

2010年02月07日(日) 22:53 by 順ちゃんの夫
こんばんは、しばやんさん。
いつも興味深い記事をありがとうございます。

廃仏毀釈は教科書では習っていても、文化財の喪失という観点から考えたことはありませんでした。これとは逆に、飛鳥時代に仏教が伝来してから、これを受容する過程も一騒動だったのでしょう・・・蘇我氏と物部氏が逆になっていたら???

ところで、うろ覚えなんですが。
「名所図会」シリーズは「都」「大和」「摂津」などは秋里某の筆になったが、「江戸」はまた別の作者が真似をしたんだ、と何かで呼んだ覚えがあるのですが・・・。

中途半端ですみません。また教えて下さい。
 
 
順ちゃんの夫さん、コメントありがとうございます。時々ブログを覗かせていただいていますが、落語の知識がなくていつも感心するばかりです。落語もいろいろ勉強するとおもしろそうですね。

御指摘の通り、都名所図会、大和名所図会、和泉名所図会、摂津名所図会などは秋里籬島という人が書いていますが、江戸名所図会という本は神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の三代にわたって書き継がれたものだそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A

ついでに、ブログで書いた薩藩名勝志は本田親孚という人が、三国名勝図会は橋口兼古、五代秀尭、橋口兼柄らが書いているようです。
 
 
こんにちは。

廃仏毀釈は鹿児島では凄かったのですね。
明治政府が単に寺院が多いので減らせ、さもなくば神社にせよと云った問題ではなかったのですね。
全く知りませんでした。
 
 
hanasanさん、コメントありがとうございます。

廃仏毀釈の激しさは地域によって差がありますが、津和野藩、隠岐、佐渡、松本藩、苗木藩、富山藩、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、高鍋藩、肥沃藩等では激しかったと言われています。

それ以外の藩でも、かなりの破壊活動が行われ、関東でも首なし地蔵があちこちで見られるのではないでしょうか。

このサイトでは川崎市の首なし地蔵の画像が出ていますが、全国レベルでこのようなことがあったのだと思います。
京都でもこのような地蔵を何度か見た記憶があります。

http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88
はい。首なし地蔵、確かに良く見ます。何も考えず、ただ何かの都合で首を折られたのかと思っていました。
これからはまた見方が変わって見える事でしょう。
勉強になります。 

節分の不思議

2010年02月03日 | 日本の四季の行事と伝統文化

子供の頃に家族と京都にある吉田神社の節分に行ったことがある。私の実家はお寺なのだが、節分の日は行事らしきものがなかったので、それ以来長い間、節分は神社の行事だと思っていた。
高校の時に、壬生寺などお寺で節分の行事を行うところがあることを知った。京都では壬生寺の他にも、六波羅蜜寺、廬山寺などのお寺で節分の行事がとりおこなわれている。一方、神社では、吉田神社、上賀茂神社、下鴨神社、伏見稲荷大社などでも節分の行事が行われている。
「節分」はなぜ、お寺でも神社でも行われているのか興味を覚えていろいろ調べたことがあったがその時はあまりよくわからなかったし、節分行事に神道とも仏教とも異質なものを感じた。

「節分」について、どこにでも書いてある内容は、
「節分」とは季節の変わり目のことで、正しくは立春・立夏・立秋・立冬の前日の4回あること。
各季節の終わりの18日間は「土用」と言われ、季節の変わり目で体調が不安定になりやすく、特に冬の時期は鬼門が開くと言われて、鬼が出没して人間界に悪さをすると考えられてきたこと。
これを封じるために、豆まきをして鬼を追い払い福を招く、あるいは鰯の頭を柊の枝にさして門戸に立てて邪気の侵入を防ぐというのだが、古代中国の「追儺(ついな)」といわれる厄祓いの行事が、日本に入って宮廷の越年行事として迎えられ、朝廷での追儺は陰陽師によって行われたということなどである。

古代中国では「鬼」が出てくることはないが、なぜ日本の行事では「鬼」が出てくるのか。なぜ「豆」が出てくるのか。なぜ、神社でもお寺でも行事が行われるのか。

中国の「五行説」によると季節と方角との関係が記されており、冬と春の間の「節分」は方角で言うと東北を指すそうだが、東北の方角は日本では「鬼門」と言われるので、鬼が出てきたという説もある。では、何故東北の方角を「鬼門」と呼ぶようになったのかがわからない。

また何故炒った豆を撒くことが、邪気を追い払うことにつながるのか。「豆」は「魔目」あるいは「魔滅」と解釈し、豆を持って鬼の目を潰し魔を滅するという説が有力だそうだが、どうもしっくりこない。何故年齢の数プラス1個の豆を食べるのかもよくわからない。

何故神社でもお寺でも行事が行われるのかについては、明治以前は、神社もお寺も神仏習合で境目がなかったと理解すれば少しは理解しやすい。旧暦で言えば、「節分」は「正月」と同じようなものだ。正月にお寺に初詣する人は神社ほどではないが、少なからずおられる。それと同じだと考えれば良いのではないか。

しかしながら、「鬼は外、福は内」などというのは、仏教の考え方とは何か違和感があるような気がする。仏教の考え方では、簡単に福が来るのではなく、それなりの努力をして福が来るとするのが普通ではないかと。

そんなことを考えて色々調べると、成田山新勝寺では「福は内」だけを唱えて、「鬼は外」を言わないらしい。東京の亀戸天神では逆に「鬼は外」しか言わないとのことである。雑司ケ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」、奈良県吉野山の蔵王堂では「福は内、鬼も内」、京都福知山の大原神社では「鬼は内、福は外」と言うそうで、どういう経緯でそう唱えるかはよくわからないが、日本全国のお寺や神社でいろんな節分があるようである。 
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コメント
おはようございます。
さすがですね。
私は、ただ単に巻き寿司を西南西の方を向いて齧り付いただけでした。
勉強になりました。
 
 
いつも大変興味深く読ませてもらっています。

「福は内」のほかに「鬼は内」など有るのですか。全く知りませんでした。
関東でも、最近は恵方巻を食べるようになりましたが、これも何か因縁が有るのでしょうね。
 
 
神戸の頑固じいさん、こんばんわ。
コメント頂き、ありがとうございます。とても励みになります。
お孫さんとても可愛いですね。

hanasanさん、はじめまして。
コメント、ありがとうございます。熱海ではもう桜が満開なのですね。

恵方巻きの話題がでましたが、子供の頃に節分で恵方巻きをかぶりついた記憶は私にはなくて、大阪出身の家内にもそのような習慣はなかったようです。

いろいろ調べると、大正期に大阪の花街で流行ったことが、何度か復活し、昭和52年に海苔業界がイベントを組んだことがマスコミで取り上げられてから年々拡大していったようです。
コンビニが売り出したのは、平成元年ですからかなり最近ですね。(他にもいろんな説があるようですが、要するにバレンタインのチョコレートと同じようなものですね。)

こんなサイトが参考になると思います。

http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20060124A/index2.htm

http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20070123A/index.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86

これからも、よろしくおねがいします。
 
 
返信ありがとうございます。

恵方巻は関西でも新しい習慣なのですね。

いろいろと珍しい話題をありがとうございます。

私の方のblogも見ていただきありがとうございます。