しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

2010年01月31日 | 廃仏毀釈・神仏分離

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。

西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。

ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御所の警護や討幕運動の資金調達に奔走し、多額の軍費や兵糧米を献納したようである。

しかし永年徳川幕府と親密であっただけに、慶応4年の年始に行われた宮中会議においては、東本願寺を焼き打ちにする案が出されたことがあった。その時は「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出して事なきを得たが、その後廃仏毀釈で全国の寺院がいくつも廃絶されるにおよび、東本願寺も薩長勢力を中心とする明治政府から冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識していたのである。

この難局を乗り切るために、東本願寺がとった方策は、明治政府に平身低頭し、ひたすら忠誠を尽くすことであった。

一方、成立して間もない新政権にとってみれば当時ロシアの南下政策の脅威に対抗するために、北海道の開拓と移民の入植が急務であったが、その資金と労働力の調達が困難であった。



そこで、東本願寺は北海道の開拓に協力することを自ら申し出て、新政府に協力する意思表示をするのだが、実態は明治政府からの圧力により協力させられたのだと思う。

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、悲願の旅が始まる。 一行は信者の寄進を呼び掛けつつ、越中、越後、酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は船で進んで青森に上陸するなど苦労しながら、函館にようやく7月に到着している。



東本願寺一行は尾去別(おさるべつ:現在の伊達市長和)を起点とし、洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸(ひらぎし:現在の札幌市豊平区)を結ぶルートの道路建設を開始し、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。工事は、明治3年7月から明治4年10月にかけて行われ、長さは約103kmで、これが現在の国道230号の基礎となったと言われている。



当時はもちろんショベルカーやダンプカーや電動機具のようなものはなく、すべて人力で土を掘り、石や土を運び、木を切り、根こそぎ掘るなどの作業がなされたことは言うまでもない。オオカミ等にも襲われながら大変な苦労をして出来上がった道路である。



上の写真は工事の最大の難所と呼ばれた中山峠に立つ、現如上人の銅像である。
実は、北海道の開拓はこの時期に東本願寺だけが協力させられたのではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると、政府は、東本願寺だけでなく明治2年9月17日に増上寺にも北海道静内郡および積丹等の土地の開拓を命じている。また12月3日には、仏光寺に北海道後志、石狩の地の開拓を命じている。

つまり明治政府は、廃仏毀釈で廃寺になるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用し、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめたということだ。

その後廃仏毀釈が下火になると、明治政府も寺院の協力を得ることができなくなり、その後は囚人やアイヌに過酷な労働をさせて北海道の開拓が進められることになる。

明治政府がこれだけ北海道の開拓を急いだのは、前述したとおりロシアの南下政策に対抗して国土を守るためにやむを得なかった背景がある。ロシアは1860年の北京条約により沿海州の一部を清から割譲され、極東を征服する準備を整えていたのである。明治政府が何もしなければ、北海道は容易にロシアに占領されていただろう。(沿海州の最大の都市「ウラジオストク」の名はロシア語で「極東を征服せよ」の意) 

通史を読んでもこれらの史実はほとんど書かれていないが、昔の人々がこんなに苦労して歴史ある寺院を現在に残していることや、国土を開拓した背景や努力は、いつまでも忘れるべきではないと思う。その先人の思いが理解できなければ、いつまでも我が国の文化や伝統を守ることも、ひいては国土を守ることも容易ではない。 
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幻の映画、「氷雪の門」

2010年01月28日 | 戦後の忘れたくない出来事

8月20日、霧の深い早朝であった。突如ソ連艦隊が現われ、真岡の町に艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎に包まれ、戦場と化した。この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、避難経路の指示、多くの人々の生命を守るため、彼女たちは職場を離れなかった。局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはやこれまでだった。班長はたった一本残った回線に、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と叫ぶと静かにプラグを引き抜いた」(映画「氷雪の門」パンフレットより) 



「真岡というのは樺太西海岸にある地名で、この映画は、最後まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

8月8日に突如として対日宣戦布告したソ連は、9日には南樺太に侵入し、戦車を先頭に南下を続け次々と町を占領していく。8月15日の終戦の日になってもソ連は攻撃の手を緩めず、日本軍が何度も「国際法違反だ」と停戦を申し入れても「負けた国に国際法などない」と拒否され、兵器を捨てた無抵抗の兵士は銃殺される。

そして8月20日早朝、真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始。上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺して、町は戦場と化していく…

樺太には40万人以上の日本人がいたが、映画のパンフレットによると「終戦の混乱期に10万人余の同胞を失った」とある。「九人の乙女」の話は聞いたことがあるが、樺太でこんなに深刻な被害があったことは映画を見て初めて知った。
当時のことを調べると、8月22日にはソ連軍は樺太から引揚者を乗せた船までも潜水艦で攻撃して二隻沈没させ、一隻を大破させ1708人が亡くなっている。
どうやら映画よりも現実の方がはるかに酷かったらしいのだが、非戦闘員を虐殺した明らかな国際法違反の史実がなぜ世に知られていないのであろう。ソ連軍の攻撃は樺太全土が占領される8月25日まで続いたとのことだ。

映画「氷雪の門」は昭和49年に完成し公開直前にソ連の圧力により葬り去られて、ずっと公開されなかった映画であるが、最近になってDVDが作られて各地で細々と上映会が開かれているようだ。私はインターネットで購入して鑑賞したが、見ていて何度も涙が出て止まらなかった。

しかし、新城卓氏が語っているように、映画よりも悲惨な現実があった。次のサイトを読めば、樺太の日本人がどのような目にあったかがわかるし、この映画の上映ができなかった新城氏の無念さがひしひしと伝わってくる。

http://sakurakaido.kt.fc2.com/shinjo.htm

たとえ、通史から消されたものであっても、長く語り継がれるべき史実があるのだと思う。



映画の題名である「氷雪の門」は昭和38年に北海道稚内市稚内公園に建てられた、樺太で亡くなった方の慰霊碑の名前である。同じ公園内にこの映画の主人公である「九人の乙女の碑」も建てられている。一度行ってみたいものである。 



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BLOGariコメント

スターリンの行った卑劣で残忍な行為をロシアの大統領は正当化し、開き直って、北方領土を「視察」しました。自ら車を運転して。その車は日本製。なんだかお笑いのような話です。

 「氷雪の門」は旧ソ連が、30年間も上映権を買いとったことで長期間日の目を見なかったそうです。最初に上映されたのは靖国神社であったとのことです。

 わたしたち日本人は「歴史ときちんと向き合う」ことが大事です。受け入れがたい現実もきちんと見ることです。
 
 
憲法前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という有名な部分がありますが、日本を取り巻く「諸国民の公正と信義に信頼」して相手に委ねては、国民の「安全と生存を保持」できないという当たり前のことが、誰でも理解できるような事件が我が国の周りでいくつも起こっています。

日本の国境を守るべきなのは日本なのですから、もっと毅然とした対応をしないと北方領土や尖閣諸島や竹島だけではなく、沖縄も対馬も北海道も狙われると思います。いつまでもアメリカには頼れません。

北海道は中国人をノービザで受け入れることを決めたようですが、こんな無防備な考えでは非常に危ない。
http://hibikan.at.webry.info/201010/article_510.html

私が特に気にしているのは、人口が減少し、高齢化が進んでいる地域。2年前の国籍法改悪で、偽装認定により日本国籍を取得している外国人が急増しています。
民主党は外国人参政権も認める方針でいるようですが、それだけは絶対に許してはなりません。

大手マスコミは「諸国民の正義」を洗脳させるための装置のようなものだったのですが、いまこそその洗脳を解くチャンスなのだと思います。
ロシアに限らず、諸国民の腹黒いところをもっと国民は知るべきだと思います。



若草山の山焼き

2010年01月24日 | 奈良歴史散策

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。

ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早目の夕食をとったが、ついでながらこのお店の「奈良茶めし」は素朴な味でとても気にいった。茶粥も有名なようで、また奈良に行くときは立ち寄りたい店だ。

この「茶坊ゆうすい」から20メートル程下ると、山焼きの松明が点火される場所があることをお店の従業員から聞き、早めに店を出て、松明点火場で陣取りをする。5時5分からこの場所で春日大社の聖火が点火される予定だが4時45分頃に着いた時にはまだ人は少なく、良い場所がキープできた。

5時過ぎに雅楽道楽―僧兵―奈良奉行所役人―法螺衆―興福寺―東大寺―春日大社の順に総勢30名の行列が点火場に到着。



用意されていた小さな火床に聖火が点火されると、次第に炎は大きくなり、そして松明の点火がはじまる。



松明の火の勢いが強くなると、行列は若草山に向かって進みだす。点火場にいた人たちも行列とともに若草山に進む。若草山のふもとにはすごい数の人が集まっていた。外国人もかなり来ている。



5時半ごろ行列は若草山麓にある野上神社に到着し、そこに用意されていたかがり火に点火してから、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が始まる。僧侶も山伏も柏手を打ち、玉串奉奠をするところがなんとなく面白い。続いて東大寺、興福寺による般若心経の読経がはじまり、かがり火から大きな松明に火が移されていく。



松明の火が勢いを増すと、松明を先頭に行列は野上神社を出て、山麓中央に設けられた大かがり火に進み、そのかがり火に火をともすと、炎が次第に大きくなり周りの人々の顔を赤々と照らす。

6時頃になると、中腹から花火が次々と打ち上げられる。
6時15分ごろ、花火が終わるといつのまにか、消防団が大かがり火から松明に火を移して若草山の正面の何か所かに火を運んで待機していた。



法螺貝の合図とともに、若草山に一斉に点火されると、あっという間に火は拡がり、しばらく火の美しさに引き込まれてしばらく動けなかった。火は見る人の心を一つにして時間を止める。なんとなく京都の大文字の送り火を思い出した。

ところで、この山焼きはどういう経緯でいつから始まったのか。

「若草山焼き2010ガイドブック」によると、若草山の「三重目の頂上は前方後円墳の巨大な鶯塚古墳で、江戸末期頃までは、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、ここからでる幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌1月頃までに焼かねば、翌年に何か不祥事が起こるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こりました。」
「元文3年(1738)12月に、奈良奉行所は…放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てましたが、…その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになりました。」
「それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべき供養のためでもありました。」
とあり、「山焼きは社寺の境界争いのためと一部伝わっていますが『俗説』です。」と、境界争い説を明確に否定している。

しかし、このガイドブックの説明で、今まで何百年もあいだ、奈良の奉行所と興福寺、東大寺、春日大社が、毎年人と資金を出して協力して山焼きを続けてきた理由として、どれだけの人が納得できているのだろうか。

少し気になったのでネットで調べると、2007年の秋までの奈良県のホームページでは「領地争いが元」と書かれていたらしく、それを春日大社や東大寺、興福寺が訂正要求を出したために奈良県が修正した経緯のようだ。ということは、それまでは若草山焼きの由来は領地争いと考えるのが通説だったということだ。
産経ニュース2007.12.5の記事が以前は読めたのだが、今はリンクが切れてしまっている。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071205/trd0712052153013-n1.htm 

次のサイトを読むと、鎌倉時代の「南都年代記」という書物に建長7年(1255)、東大寺と興福寺との間で領地争いがあった記録などの紹介があり、それから以降も東大寺と、興福寺・春日大社との領地争いがあった物証があり、私は3社寺の間の領地争いが由来と考えることの方が自然だと考えますが、皆さんはどっちの説が正しいと思われますか。

「奈良歴史漫歩No.047」
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html 
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BLOGariコメント

おはようございます。
私は、20数年奈良に住んでいて当時の住まいから遠くに山焼きを見たことがありますが、現場で見る迫力は素晴らしいと思います。
奥様とご一緒、羨ましい限りです。
 
 
神戸の頑固おじさん、こんばんわ。

奈良の自宅から見る山焼きもきっと素敵だったのだと思います。

私の実家は大文字山の近くでしたが、残念ながら家からは大文字山が見えなかったので、いろんな場所へ大文字焼きを見に行ったことがあります。
その中でも私が一番迫力を感じたのは、小学校の時に大文字山に登って山焼きを見た時だったので、今回の若草山も、つい山のふもとの方に行ってしまいました。

ガイドブックでは、点火場所が良く分からなかったのですが、たまたま入った「茶亭ゆうすい」の近くだったので、いい写真を撮ることができたのはラッキーでした。

これからも時々覗いてみてください。じいさんのブログも覗かせていただきます。 



文化財を守った法隆寺管主の英断

2010年01月20日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。



岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p) 

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。



この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。



ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。



当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_20_4.html
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次々に廃寺となった奈良の大寺院

2010年01月16日 | 廃仏毀釈・神仏分離

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前があるが、それらはいずれも明治時代に姿を消した寺院である。

多武峰寺(妙楽寺)は前々回に書いたが、今の談山神社である。
一乗院は興福寺の門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地は奈良県庁となり現在は奈良地裁となっている。
大乗院も興福寺の門跡寺院であったが、同様に廃仏毀釈時に廃寺となり、跡地は現在奈良ホテルとなり、現在は大乗院の庭園だけが残っている。

内山永久寺は天理市杣之内町にかつて存在し、「太平記」に後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている寺院でもある。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であり、芭蕉も若い時期に「うち山や とざましらずの花ざかり」という句を残しているが、こんな歴史のある寺も廃仏毀釈で潰されてしまった。今回はこの寺のことを少し書いてみたい。



内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が12世紀のはじめに創建し、後に本時垂迹説の流行とともに石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺大乗院の権威を背景に栄えた寺院である。

最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、建物だけでなく仏像などに見るべきものが多かったと言われている。

江戸時代寛政3年に出版された「大和名所図会」という奈良の旅行案内書に内山永久寺の絵図があるが、この図面だけでもかなり大きな寺院であったことがわかる。



しかしながら明治の廃仏毀釈によりこの寺院の僧侶は全員還俗し、堂塔・坊舎はことごとく破壊されてしまった。

次の図面は、現在の地図に当時の伽藍を復元したものだが、これだけの建物が失われてしまった。



仏像・仏具などの多くは破壊されたり、焼却されたり海外に流出したが、東京美術学校長であった正木直彦氏の「十三松堂閑話録」に内山永久寺のこの頃の事が書かれているらしい。

その中には、永久寺廃寺の検分に役人が出向いた際に寺僧が還俗した証拠として、この役人の目前で本尊の文殊菩薩を薪割で頭から割ったことや、役人が仏像や仏具は庄屋中山平八郎に命じて預からせたが、年月とともに中山氏の個人所有になっていき、藤田(伝三郎)家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは、中山氏の蔵から運んだものであったことや、金泥の経巻を焼いてその灰から金をとる商売が起こった話などが書かれているそうだ。

海外に流出したものも少なくなくボストン美術館蔵の「四天王図」は鎌倉時代を代表する作品で、日本にあれば間違いなく国宝と言われている。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)は内山永久寺の住吉神社拝殿を移築したものであるし、東大寺の持国天、多門天(いずれも重要文化財)、藤田美術館蔵の両部大経感得図(国宝)など国内に現存しているものの多くが重要文化財・国宝指定を受けている。 現在この寺院がもし残っていれば、超一級の観光名所になっていたことは確実であろう。



現在では当時の敷地の大半は農地となり、ビニルハウスが一杯並んだ光景が悲しい。わずかに内山永久寺の石碑と案内図や芭蕉の句碑、後醍醐天皇が一時この寺院に身を隠された「萱御所跡」という碑が残されていることがネットで確認できる。

詳しく知りたい方は、次のサイトを参考にしてください。古い貴重な資料や図面や現在の写真などが満載です。

大和内山永久寺多宝塔
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
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BLOGariコメント

おはようございます。
はじめまして。
私は、1976年から25年間奈良市百楽園に住んでいました。
子供達は、神戸では無く、小学校から大学、社会人まで過ごした奈良が故郷だと言っています。
興福寺、東大寺、談山神社など詳しい縁起には疎いですが奈良は懐かしいです。
これからも楽しみに、ブログを訪ねさせて頂きます。
 
 
神戸の頑固じいさん、はじめまして。
読んでいただいてありがとうございます。

奈良や京都に古い寺院や神社がのこっているのは、長い間日本人がずっと文化財を守ってきたからだとずっと単純に考えていたのですが、昨年来廃仏毀釈の頃に興味を覚えて、いろいろ調べると信じられないような話がいっぱい出てきて、文化財を何百年も守り通すことは並大抵のことではないことにきづきました。毀すことは簡単ですが、守ることは大変なことなのだと思います。

次回は法隆寺の事を書こうと思います。

阪神大震災の時は、吹田でも大変な揺れでした。ふとんをとっさにかぶって、ちかくの箪笥が倒れないように一生懸命支えていたことを思い出しました。

これからも、時々覗いてみてください。私も時々覗かせていただきます。
とても、良い記事です。
あたしも、宇治方面に付いて似たことを調べていて、難儀しています。
とても参考になります。
 
 
みぃにゃんさん、コメントありがとうございます。

とても励みになります。 



「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

2010年01月11日 | 廃藩置県

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。


「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。
明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。

明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし、明治4年の廃藩置県により、大和郡山、高取、柳生などの小藩がそれぞれ縣名をとなえた時期があったが、その年の11月には小藩がまとまって大和全域を管轄する「奈良縣」が成立している。

しかし、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまった。

その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発した。

そのころから奈良県再設置運動がはじまり、6年後の明治20年(1887年)11月に再び奈良県が誕生した。要するに明治9年から11年半にわたって「奈良県」が地図上から消えてしまったのである。

しかし奈良県の再設置は決して簡単ではなかった。

旧奈良県出身の恒岡直史・今村勤三議員らが中心となって内務省や太政官に何度も陳情をしたが却下され、元老院に二度にわたる建白書の提出も実らず、山形有朋内務大臣や松方正義大蔵大臣に直接請願して、伊藤博文総理大臣からやっと内諾をとるなど大変な苦労をしたことや、その後も大阪府の抵抗があり当時府会の議長であった恒岡氏は辞職勧告の建議案が出て議会は混乱し、恒岡氏は勧告が出る前に議長を辞任している。

このような詳しい経緯が「奈良県誕生物語」というサイトに書かれているが、このサイトは小説のように面白く、興味のある人は堺市編入以降の第三章から読み始めても結構楽しめると思う。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm 

今の奈良県は幕末の頃、郡山藩、柳生藩、高取藩の他にも小泉藩、柳本藩、芝村藩など1万石程度の小藩が乱立していたし、そう簡単に一つになれる素地は乏しかったと考えるのが自然である。まして、当時の大阪府の中では旧奈良県の議員は少数派でしかなかったので、大阪府の議会で奈良県が誕生することを容認する可能性は当初から極めて低かった。

何度却下されても、明治政府に対して奈良県再設置を求める恒岡直史議員らの粘り強い活動がなければ、奈良県の再設置はなかったかずっと遅くなったことであろうし、地域の発展がもっと遅れたのではないだろうか。

今の政治家にこのような人物がほとんどいないのは残念だが、このような明治期の政治家の努力があって現在の奈良県があることを忘れてはいけないのだと思う。

またここまで努力した先人がいたことを多くの人が知ることによってこそ、志のある人が政治家を目指すようになり、選挙民もまた志のある人を政治家に選ぶようになり、政治家が安易な対応をすることを許さなくなるのではないだろうか。 
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BLOGariコメント

2010年01月11日(月) 22:15 by 順ちゃんの夫
こんばんは、しばやんさん。

奈良は散策していて とても愉しいところですね。
同じように「古都」と呼ばれても、京都は妙に俗化されているというか、人擦れしているというか・・・。何よりも人が多くてくたびれます。

昔は地方の中高生の修学旅行でも京都~奈良がセットで大阪は泊まるだけ。いまは京都に泊まってUSJで遊び、奈良はスルーされるとか。

京都は歩いていてもあちこち案内板が立ち並ぶ。奈良はなんにも無いが、その分だけ想像をたくましくすれば知的に遊べるのが好ましいと思うのですが。

長々とすみません、また覗かせて頂きます。
 
 
順ちゃんの夫さん、コメントありがとうございます。「上方落語で『ちりとてちん』散歩」もよく覗かさせていただいています。

私の場合は週に2回書くのがやっとですが、毎日必ず1回以上のペースで書いておられるのに驚いています。大阪も知らない所だらけなので、これからもブログで勉強させていただきます。

私の場合、歴史に興味を持ちだしてまだ日が浅く、奈良も知らないところがいっぱいです。
京都で生まれたので京都は好きですが、奈良も好きです。どちらかというと京都よりも奈良の方が古いものが昔のままで残っていて素朴で力強いものを感じます。

今年は平城遷都1300年ですが、あまり奈良が俗化しないことを希望しています。

 




寺院が神社に変身した談山神社

2010年01月08日 | 廃仏毀釈・神仏分離

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。



事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。

昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。

このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に本堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。

江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れ、結局神社として存続することになり、談山神社と名前を変えて、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたらしい。

談山神社の名前の由来は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒す談合をこの多武峰で行い、後世この場所を「談(かた)らい山」と呼んだことによるとされる。



寛永3年(1791年)に出版された「大和名所図会」に、江戸時代の妙楽寺の案内図が書かれており、これと最近の談山神社の案内図と見比べると面白い。妙楽寺の建物が、朱塗られたり一部改築されて神社の建物に使われているそうだ。



たとえば妙楽寺の聖霊院は神社の本殿に、護国院は拝殿に、講堂は神廟拝所に変わっている。十三重塔が、神廟十三重塔などと名前が変わっているのも面白い。

談山神社のように寺院が神社に変わったものは、探せばいくらでもあるようだ。以前、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)の事を書いたが、有名なところでは宇佐八幡宮(福岡)、金毘羅大権現(香川)、大神山神社(鳥取)も廃仏毀釈の時に寺院が神社になったものである。

明治の廃仏毀釈は、日本全国の国家神道化をはかるクーデターのようなものだと最近思うのだが、神社のホームページを見ても寺院のホームページを見てもほとんどがこのことに触れられていないようだ。しかし、このことを知らずして、この時期になぜ多くの文化財が失われたかを理解することはできないと思う。 
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BLOGariコメント

 はじめまして~♪
 ちょこちょこ覗いていましたが、書き込み初めてです。いつも、系統的にまとめられた記事はとても勉強になります。古い写真など、貴重な資料ですね。
 それにしても、談山神社・・・なんとも不思議な位置づけの神社ですよね。興福寺と喧嘩していたのですか・・それは面白い♪
 鎌足の墓があって、彼が怒ると破裂する・・とかいうのは・・・子孫にとって・・威厳ある先祖だったんでしょうね。おもしろいですね。
 大昔!・・・学生の時、見に行った覚えがありますけれど・・しっとりとしたたたづまいのいい神社だったように記憶しています。 
 
 
乱読おばさん、はじめまして。

コメントいただき、ありがとうございます。

ブログを書き始めてまだ日が浅いのですが、いろんな方からコメントをいただくのはとても励みになります。

歴史は学校で学んだ程度の教養しかなかったのですが、昨年あたりから少しずつ興味を覚えたことをもう少し知りたいと思うようになりました。
今まで教科書のようなものを読んでなんとなく納得していたことを、少し掘り下げて調べると、意外な事実が見えてきてよりリアリティを感じることがあって、歴史を知ることの面白さがわかってきました。

自分が事実を知って驚いたことは、多くの人が面白いと思っていただけるのではないかという思いでブログを書いています。

こんなペースで書き続けていつまでネタが続くかわかりませんが、これからもよろしければ時々覗いてみてください。 

外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

2010年01月03日 | 廃仏毀釈・神仏分離

前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリー」というコーナーがあり、現在国宝にされている阿修羅像や無着菩薩立像、世親菩薩立像などが雑然と置かれている写真を紹介したが、今回も再掲しておこう。



このように雑然と置かれている状態がどれくらいの間続いたかはわからないが、信仰の対象であったはずの仏像がどういう経緯で野ざらし状態になったのかと、まず不思議に思う。

「五等 東金堂集合佛體」などという写真の表題も変だ。いかにも売るために等級をつけたような印象を受けるのは私だけだろうか。「佛體」という表現は、信仰の対象としての仏像に使う言葉とは思えない。

鎌倉時代に運慶が作った国宝無着菩薩立像は、現在興福寺の北円堂に安置されており、私も2年前に阿修羅像を見た日にしっかり鑑賞してきたのだが、この有名な仏像が以前は外国人が所有していたことを、昨年末にネットで知った。



アマチュアの仏像研究家で朝田純一さんという方が「埃まみれの書棚から」という素晴らしいホームページを立ち上げておられ、この経緯について次のサイトで、さまざまな古寺、古仏に関する書籍とともに紹介しておられる。
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana9.htm

このホームページによると、岡倉天心らが明治22年に発刊した「国華」という美術研究誌の創刊号に興福寺の無着菩薩立像が「ビゲロー氏所蔵」と書かれているらしい。

ビゲロー氏とは、明治14年(1882年)に来日したアメリカ人で、日本滞在の7年間で仏画から浮世絵や刀剣、漆器、彫刻など1万数千点を収集し、明治44年(1911年)にボストン美術館に寄贈した人物である。

「名品探索百十年、国華の軌跡」(水尾比呂志著:朝日新聞社刊)という本には、

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一に率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」という記述があるそうだ。

我が国文化の混乱期に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出してその世界的評価を高めたことは有難いことであったが、それらを安値で買い集めて海外に流出させた張本人という見方もあるようである。

しかしながら、王政復古・祭政一致の理念に基づく宗教政策や西洋世界に追い付くための富国強兵、欧風化政策が進められる中で、日本人自身が廃寺となった寺院の仏像などに価値を充分に見いだせていなかったこともあるのではないか。

明治30年に古社寺保存法が制定され、明治31年に岡倉天心が設立した日本美術院で仏像などの修復活動が本格的に始まるのだが、もしフェロノサやビゲローの活動がなければ、このような修復活動がもっと遅れて、この時期にもっと多くの文化財が失われたかもしれないのだ。 
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コメント

拝見させていただきました。
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アシュトンさん、はじめまして。

コメントありがとうございます。

歴史をいろんな角度から見ると、きれいごとばかりではない世界が見えてきて、すごくリアリティを感じるときがあります。

これからも、いろいろ感じたことや調べたことを書き綴っていきますので、時々覗いてみてください。