しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

2011年03月26日 | 自然災害

「日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。



「日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

「日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html 

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。



ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。



だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。 
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BLOGariコメント

大地震や大津波の記録は古くからあり、奈良時代にも高知は大津波が襲来し、いくつもの集落がなくなったとか。たぶん東海・東南海・南海地震がトリプルで起こり、今回の東北関東大震災規模であったとか。  

 その津波の記録は中国にも記録されているとか。高知大学の岡村眞教授は、古文書と地質調査を繰り返し、堆積層と昔の言い伝えなどを分析し、南海地震は100年周期に来ると言っています。

 しかし県や行政の想定は、せいぜいここ100年の記録で被害予想を立て防災計画をたてています。

 酷いのは原子力発電所です。古代からの地震の記録を詳細に調査すれば、地震列島の日本では原子力発電の立地が無理であったことは明らかです。

 彼らは逃げ口上に「想定外の津波があった」と言いますが、昔の伝承や記録を丹念に調べれば、すべて「想定内」の出来事なのです。たまたま原発が作られた日本は大地震がなかった50年だったんです。

 奈良時代には原子力発電所はありませんでした。実に厄介な制御不能な怪物を創り出したものです。s¥そうすればいいのでしょうか。
 
 
原子力発電のような施設は、過去最大の地震や津波があっても安全性が確保できるように設計されていなければなりません。「想定外」という言葉を何度も聞きましたが、これは「少々のリスクはあっても、発電所を作ることを優先した。住民にもしものことがあった場合の事は、何の対策も打っていなかった。」言っていることと同じです。

日本の原発は、ほとんどが海沿いにあり、津波に耐えられるかどうかは非常に心配です。特に浜岡原発などは、東海地震の震源地に近い所に建っており、立地からしてもかなり危険に見えます。

今回のことで、原子力発電所は二度と作れなくなるでしょう。危険な原発は廃炉を要求する住民運動が起きてもおかしくありません。

そうなると日本の電力供給が不足することになりますが、まずはバカな鳩山前首相が公約したCO2の25%削減をこのタイミングで反故にして、八ッ場ダムの工事も再開し、各戸の太陽光発電や冷暖房のガス利用等を推進して、電力の原子力依存を漸次減少させていくしかないように思います。
 
 
 そうですね。太陽光発電はもともと日本は世界1だったのに、原子力を優先したために、追い抜かれました。      

 世界に対して「日本は原発を廃止することにしました。しかしそれには最低30年はかかる。またエネルギー不足になると産業技術が維持できなくなり、世界に貢献できなくなります。

 10年間時間をいただきたい。その間火力発電所の建設を認めていただきたい。10年間の間に、太陽光、風力、バイオマス、地熱、潮力、水力などのエコな発電比率を高めます。

 同時に家庭用と業務用の蓄電システムを開発します。節電に努め、日本を地球にやさしい国に作り変えます。そういうことで世界の皆様ご理解をお願いします」とやるべきでしょう。

 でも菅直人首相では無理です。原口前総務大臣あたりが出てくるのでしょうか?

 ともかく1000年来の地震と津波の記録を全国的に再調査すべきでしょう。
 
 
私は風光明美な日本に水力発電のプロペラはあまり勧めて欲しくないという考えですが、原子力に頼らなくとも発電できる技術がこれから出てくる可能性を感じています。
例えば、オーランチオキトリウムという藻類は、かなり有力だと聞いています。培養には広い土地が要りますが、設備に大きなコストが要りませんので、今回被害にあった土地を使い、被災地の方を雇用して軌道に乗せれれば理想的だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

また、今回の災害で、企業は単一の電力会社にエネルギーを依存することの危険性を認識したはずです。生産施設の分散と自家発電化を進めていくものと思います。

また家庭レベルでも、企業と同様の理由で、太陽光発電の利用を進めていくことになると思います。

電力会社は役所以上に役人体質であることが良くわかりましたから、彼等にあまり仕事をさせないように企業や消費者の行動を変えていくことが重要です。
 
 
電力会社やNTTやJRや日本航空などは、民間企業でありながら顧客志向ではなく官僚的な硬直した会社でしょう。でなければこれほど大きな致命的な事故は起きないでしょうから。

 市民団体の津波に対する懸念を撥ね付け「原発は120%」安全だとか強弁してきたのですから。更に悪いのは、民間企業には役所のように情報開示請求をしても開示義務はありません。ですので責任追及ができないのです。

 株主総会へ乗りこんで発言するか、株主代表訴訟をするていどのことしかできません。1私企業に首都圏3000万人を人質にとられたも当然ですね。これでは困ります。

 しばやんさん推薦のオーランチオキトリウムは面白いですね。私らのグループも「アブラギリ」という燃料になる樹木の植林作業を推進しています。

http://itc-tosa.cocolog-nifty.com/blog/
 
 
「アブラギリ」という植物は初めて聞きましたが四国や九州の温暖な地域には面白そうですね。

オーランチオキトリウムはずっと前にテレビで知ったのですが、Wikipediaでは日本の年間石油消費量を賄うためにたった2万ha(200平方キロ=福島県の1.45%の面積)もあれば良いというのなら、放射能汚染で農業もできないようなところに生産許可を与えたり、津波被害で二度と家が建てられない空き地を政府が買い取ってその場所をオーランチオキトリウム培養のプラントにし、そこで被災者を雇用するなりすれば、充分被災地が立ち直るきっかけになるのではと個人的に考えていますが、単なるアイデアだけで何のコネもありません。

こういうことは、あまり大資本にやらせたくないですね。



「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実

2011年03月19日 | 自然災害

小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。
この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。

五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。
稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。
そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。


この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。 中井常蔵氏の「稲むらの火」の全文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/inamura.htm
ラフカディオ・ハーンの「A Living God」の日本語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/ikerukami.htm 

いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。

私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。

もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。

ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、ネットでいろいろ調べると、濱口儀兵衛が書いた手記が見つかった。
次のURLに濱口儀兵衛の手記の口語訳が掲載されているが、この手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/goryosyuki.htm 

安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。

「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。

  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」

と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。

「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」



というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。

ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。

この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。

いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。



濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。



濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。

その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。

濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。



この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。

儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。

濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。 ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。

今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。

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BLOGariコメント

こんばんは。  

しばやんさんのブログは新しいエントリーがあがるたびに拝見させていただいているのですが、なかなかコメントを残すことができず読み逃げさせていただいちゃっています ^^;  いつも読み応えのあるエントリーで、「ほぉ!」「へぇ!」と唸りながら、同時にしばやんさんのエントリーで初めて知ることができたことが多いが故に思わず本を手に取ったりPCに向かって検索を始めたりしています。

今回のエントリーはこんな時だけに、ご紹介いただいた濱口儀兵衛さんの偉大さに感銘を受けました。 

>地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今まさに起こっていることに対処すること、そしてそれに留まらず、一歩先、数歩先を見越して行動ができる人。  人を動かすことができる人。  そういう人が今ほど必要とされている「時」はないような気がします。
 
 
いつも私のブログを読んで頂き有難うございます。

ずっと昔愛読していた本が、たまたまKiKiさんのブログで紹介されているのをみつけ、話しかけるようなわかりやすい言葉で簡潔にまとめられるKiKiさんの文章に感心しました。それ以来KiKiさんのブログを時々覗くようにしています。

今回の地震は長期間の影響は避けられませんね。
大阪も一部消費者の買いだめ行動のために品薄になっている商品が出ていますが、東京はもっと大変なようですね。
仕事もガソリン不足や計画停電などがあれば、満足にできないのではと思います。

大きな災害が起きたことは仕方がありませんが、災害が起きたあとにやるべき事が充分にできているのでしょうか。
支援物資がいくら集まっても、どこかがリーダーシップをとり被災各地の情報を集約して被災者に適切に分配される仕組みを作ることが必要です。あわせて、今後何年かけて東日本の復興を図るのか、そのグランドデザインが描けていなければなりません。
今の日本は、「稲むらの火」の物語ではなく、濱口梧陵の事績から学ばなければならないと考えています。
 
 
今回の東北・関東大震災の揺れや津波は、私の地域では他人事ではありません。しばやんさんがとりあげられた南海地震がもし起きれば、私の地域はひとたまりもありません。

 海に近く、海抜0メートル。想定震度は7.地盤は最大2メートルも沈下。地盤は液状化し、そのうえに津波もやってくる。近くには石油タンクもあります。とても生存できる地震はありません。

 稲村の火の話は地元で4年ほど前に自主防災会を組織し始めたときに知りました。実話はしばやんさんが、後のほうでご紹介された逸話ですね。

 防災関係でアドバイスをくれている友人が「稲村の火は紙芝居を内閣府が貸し出ししているぜ」とも言ってくれています。

http://npowagaya.blog.ocn.ne.jp/nisiyann/2006/01/post_c2af.html

 自分も手に入れて地域の自主防災会にも貸し出しているようです。

 ただうちの地域は逃げ込める高台も山がありません。もっと深刻です。それで自主防災会と3階建て以上のマンションの所有者と交渉して「災害時1時待避所」として階段や投下に退避させていただく協定を町内の10箇所に退避場所をつくりました。

 2年後に地域に市民図書館分館がようやく立て替えに成、そこの3階に防災備品が置けるようになりました。それでも不十分です。

 この稲村の火のモデルになった人は、有効需要の原理をそのまま実践された経済人でもあるし、本当に尊敬できる数少ない人であると思います。
 
 
日本人は嫌な思い出を忘れようとしがちで、地震や津波の怖さを世代から世代に伝えてきているのは広川町のようなごく一部の地域しかないようです。
教科書に「稲むらの火」を復活させる動きがあると聞きましたが、地震の怖さを学ばせるには確かに良い教材だと思います。今回の津波の画像も、これからの世代にしっかり伝えていく必要がありますね。

高知市がそんなに地震や津波に深刻な影響が出ると言うことは初めて知りました。自然の高台がなければ、ビルやマンション避難できる体制と、非常用物資を備蓄する体制は必要ですね。
津波の規模によってどの地区にどの程度の影響が出て、被害を最小限にするためにはどのような投資が必要かなどを考えておくことがあとあと役に立つと思うのですが、政治家がもっと動いてくれないと困りますね。

高知市は壊滅的な被害が想定される都市の1つです。市街地2800ヘクタールが水没し、罹災者は13万人と想定されているからです。

 自主防災会は4年前にこしらえました。私が1番「若手」なので、ブログなど情報班長をしています。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/

 過去ログです。

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/

 「棄民」ではないかと思っています。
 
 
津波の規模にもよると思いますが、凄い数字に驚きました。

今のタイミングで、高知市民に広く知っていただいて対策の必要性を共有するところからはじめないといけませんね。

高知に限らず、大阪市や東京都、横浜市等の大都市も同様な問題があるのでしょうが、けんちゃんさんのような取組みをどれだけしているか良くわかりません。地域共同体の機能を失ってしまったこのような大都市の方が、大災害には脆いような気がします。

はじめまして。大阪在住のようこと申します。
昨日、ふと思いついて、湯浅で下車し、観光協会で自転車を借りて広川町の方まで行ってみました。
それで、興味を持ち、検索してこちらにたどりつきました。
湯浅、広川近辺でカルチャーショックを感じたのは、やはり過剰なほどの堤防と、そして、狭い港いくつかにひしめくように入っている小さな漁船。それを護るためと思われる開閉可能な水門でした。
このあたり、びっくりするほど海抜が低いのですよねえ。
ここは何メートルですと電柱などに書かれているのですが、高い所でもせいぜい5メートル。
津波が来たら、ひとたまりもないです。
町役場の前には濱口儀兵衛の像があり、駅などにパンフレットも置かれてました。
資料館などもあり散歩コースも整備されています。
興味を持たれた方は、いちど、行ってみられるとよいと思います。
いろいろと参考になる小旅行でした。
 
 
ようこさん、はじめまして。コメントありがとうございました。

3年前に湯浅に行きましたが、醤油屋を見学して食事をしただけでした。その当時は、すぐ近くの広川町に濱口儀兵衛の像や資料館があることは知りませんでした。

地震や津波のサイクルは人間の生命よりはるかに長いために、どこかの世代が次の世代に伝えることを怠ると、また同じレベルの大災害が起こってしまいます。そうならないように、昔の人はいろんな記録を残し、石碑に書きこんだりして注意を促したのだと思いますが、津波の怖さがもっと広く理解されていればもう少し人的被害が少なくできたのかもしれません。

昔の文章は今の日本人には分かりにくいかもしれませんが、今回の大震災は津波や地震は数多くの画像データがあるのですから、これらを用いて末永く伝えていくことが、現在を生きる世代の責務だと思います。
 
 
たいへんよくかけていて
感激しました。


7代目浜口儀兵衛の行いは
「リビング・ゴッド」以上の生ける神である
という考え方に基づいて
わたしも小論文を書いてみようという気にさせられました。
 
 
悠々美術館通信さん、コメントありがとうございます。

この記事を書いてから、もう3ヶ月にもなるのに、被災地ではまだ仮設住宅すら満足に建たず、今も避難所で多くの被災者が避難生活をしています。
あまり時間をかけ過ぎては、地域を支えていた仕組みや人と人との繋がりがどんどん崩れていってしまいます。時間をかけるほど、元に戻すことが難しくなると思うのですが、今の政治家のやっているのを見ていると悲しくなりますね。
濱口儀兵衛は「稲村の火」の話よりも、実話こそがもっと知られるべきだと思っています。濱口儀兵衛小論文、期待しています。
 
 
濱口儀兵衛はドラマ「仁」に仁先生のスポンサーとして登場していますね。実在の人物と初めて知りました。津波のことを後世に伝えるのに書くことのできない人物ですね。
 
 
ynakadaさん、コメントありがとうございます。

最近テレビドラマを見なくなったので、「仁」のストーリーは知らないのですが、番組のホームページを見ると実在の濱口儀兵衛とは異なる人物像として描かれているようですね。

実在の濱口儀兵衛はもっとすごい人物だと思います。
今回の地震を機に、もっと知ってほしいと思って東北大震災の後にこの記事を書きましたが、8か月近くたっても多くの人に読んでいただいて嬉しいです。 



永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

2011年03月04日 | 大航海時代の西洋と日本

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。



松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。



「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55) 
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。



キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71) 

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。



ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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BLOGariコメント

 明治の初期の廃仏毀釈もキリスト教的な世界観の影響なのではないでしょうか?

 明治以降の天皇制や大日本帝国憲法も、ドイツ帝国とバチカンを意識してこしらえたのではないかと思います。

 政府首脳は2年間にわたり欧州諸国を丹念に視察し、真似をする制度を研究していたはずです。

 豊臣秀吉の功績を正当に評価しないといけないですね。
 
 
次のURLは「浦上四番崩れ」と呼ばれる幕末から明治にかけてのキリスト教弾圧事件の解説ですが、こを読むと明治政府も江戸時代からのキリスト教禁止令をそのまま引き継いでいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

明治政府がキリスト教の禁止令を解くのは明治6年(1873)ですが、岩倉使節団が欧米諸国を視察し、キリスト教を禁止したままでは条約改正が困難であることを認識したことによります。

廃仏毀釈は隠れキリシタンが多くいた地域だけで起こったものでもなく、全国的なものですから、これは平田神道の影響によるものと考えられます。