しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

2011年06月02日 | 自然災害

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。

記事によると、
「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」
「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。

早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。



該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。
少し長くなるが、重要な部分であるので紹介したい。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、…突如大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫p196-197) 

とここまでは、フロイス自身が体験した地震のことを書いている。フロイスは主に堺に居住していたので津波については体験していない。この文章に続いて、フロイスらが目撃者などから聞いた近江や京都や若狭や美濃や伊勢などの情報が付記されている。

それぞれ興味深いのだがすべてを引用すると長くなるので、若狭の津波に関する記録だけを紹介したい。
「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198) 

東京大学の「大日本史料総合データベース」にアクセスすると、同時期の様々の史料を記録された日付けを絞込んで読む事が出来る。この地震の記録は新聞で紹介された「兼見卿記」だけではなく多くの史料で確認できるので、もし興味のある方は次のURLで確認することができる。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
このデータベースで、フロイスがイエズス会のインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡が「イエズス会日本書簡集」にでているが、ほぼ上に紹介した「フロイス日本史」と同様の文章だ。フロイスは地震の日付けを11月1日と書いているが訳注では(11月29日の誤記)と書かれ、若狭の記述部分の「長浜」は「(小浜」の誤記か)と訳注が付されている。

Wikipediaによると、この日の地震は「天正大地震」とよばれ、震源地は岐阜県北西部でマグニチュードは7.9~8.1と推定されている。現在の愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する地域に跨って甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、この地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。
具体的な被害として紹介されているのは、越中国木舟城が倒壊、飛騨国帰雲城が山崩れで埋没、美濃国の大垣城が全壊焼失、近江長浜城が全壊など城郭の損壊が中心である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87



フロイスの若狭国についての文章に戻るが、この現象は地震による「津波」であることは、誰でもわかる話だと思う。しかし、関西電力はこの記録が存在するのを知りながら「信憑性がない」と社内で判断し、地元民には「若狭湾は、津波による大きな被害の記録がない」と説明して、14基もの原子力発電所若狭湾に建設してしまった。
これでは関西電力は、近隣住民の安全よりも、原子力発電所を建てることにすべてを優先させたと言われても仕方がないだろう。また建設を許可した国にも、このような重要な史実を看過した責任はないのだろうか。



若狭湾に限らず、他の原発においても今後何も起こらないという保証は何もない。本来原子力のような、万が一の事態が発生した場足に国全体あるいは世界全体に多大な影響を及ぼすような物質を扱う場合には、過去の地震や津波などの記録を調査してそのレベルの災害にも耐えられる設計をしておくことが基本だと思うのだが、どこの原発も充分な検証がなされているのか。 過去の自然災害が耐えられる設計がなされていたとしても、もし「想定外」の地震や津波や火災があった場合においても、住民に被害を及ぼさないための二重三重の安全対策がなされているのだろうか。

今年度における政府全体の原子力予算は4330億円で、内約2300億円が研究開発などの原子力推進のために使われ、その内の核燃料サイクル関連の予算は520億円。一方で安全関連の予算は570億円なのだそうだが、この数字を見ても原子力推進にお金をかけ過ぎているように見える。

以前、他国と日本の原子力関連予算を調べて驚いたことがある。



原子炉の数が多い国は①アメリカ104基②フランス58基③日本54 基の順なのだが、原子力を考える会の「よくわかる原子力」というHPを見ると日本の原子力関連研究開発予算が他国比突出している。何故原子炉の多い国よりも日本の予算がべらぼうに多いのか。次のデータはやや古いが、日本の予算はアメリカの約8倍、フランスの約7倍もあるのだ。
http://www.nuketext.org/mondaiten_yosan.html

慶応大学の岸博幸氏は、今回の福島の原発事故については東電に責任があることは言うまでもないが、政府にも重大な責任があり、双方の責任を安易な電気料金の値上げや増税で処理するのではなく、東電は徹底的なリストラをし、政府も今まで蓄積してきた「原子力埋蔵金」を放出して返済原資に充てるべきであると説いている。
http://diamond.jp/articles/-/12124



その「原子力埋蔵金」は岸氏によると、「政府が原子力推進を当面の間棚上げにすれば、そして特にもんじゅや六ヶ所村再処理工場に代表される“核燃料サイクル”を断念すれば、数兆円単位の資金」があるのだそうだ。ほかにも「(財)原子力環境整備促進・資金管理センターには、電力会社が積み立ててきた2種類の積立金(再処理積立金、最終処分積立金)が合計約3兆5千億円」あり、さらに原子力関連の独立行政法人や公益法人は様々あって、それら法人の剰余金は賠償金に使えるとしている。

岸氏は続けて「甚大な原発事故が起きた以上、国民感情を考えれば原子力推進などとても無理なはずですので、予算の執行を停止して、原子力推進のための予算のうち全額は無理でも例えば半分を賠償に転用するのは、原発事故の責任を負うべき政府として当然の対応ではないでしょうか。」と説いているが、全く正論だと思う。

今回の原子力災害に関しては消費者には何の責任もなく、ただの被害者にすぎない。したがって、電力料金の値上げや増税で被災地の被害者の賠償金原資の捻出をはかるというの議論はどう考えてもおかしい。
ペナルティを課すべき対象は、第一義的には原子力推進を図って来た東電や政府ではないのか。この際原子力利権そのものに大きなメスを入れなければ、問題解決をすることにはならないと思う。
岸氏が主張する通り、政府さえその気になれば数兆円単位の賠償原資の供出が可能であり、東電も役員報酬や管理職の給与カットや厚生施設売却などまだまだやるべき事がある。また、既存の原発の安全対策にも大きな追加投資が早期に必要なはずだ。
そういう議論をほとんどせずして、電気料金の値上げや消費税増税の議論が先行すべきではないと思う。

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BLOGariコメント

しばやんさん、こんばんは!

今回の『兼見卿記』における天正大地震の際の若狭湾での津波発生の記事は、決して鵜呑みにはできない情報ですね。
私自身、ちょうど天正大地震の事も調べていたので、今回のこの情報は地震の範囲や規模を改めて認識させてくれる大きな要因となっています。

さて、しばやんさんは『大日本史料総合データベース』を上げておられましたが、私も入手した情報から

[古代・中世] 地震・噴火史料データベース(β版)
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/

というのを照会させて頂きます。古代から中世までですので、江戸時代初期までのデータベースですが、ご参考まで!
 
 
御堂さん、貴重な情報ありがとうございました。

いろんなデータベースがあるのですね。驚きました。歴史家が何年も史料を読んでやっと得られる情報が、素人でも即座に分かるのは凄いことです。データベースを公開してくれた静岡大学に感謝ですね。

『大日本史料総合データベース』と取扱っている史料が異なるようなので、両方を併用すればかなりの事が見えてきそうです。
 
 
しばやんさん、こんばんは!

追加の情報を1つだけ…

若狭・小浜地方に室町時代から活躍した豪商の組屋が代々残していた『組屋家文書』という史料があります。

組屋自身、日本海側の海運業を営んでいたはず、もしかすれば天正大地震の情報や被災状況を事細かに記載していたりするのではないでしょうか。

この時期の当主は組屋六郎左衛門宗円という人物です。

たぶん、『小浜市史』などに収載されているかもしれません。
 
 
御堂さん、これも貴重な情報ありがとうございます。

朝からネットで調べてみましたが、「組屋家文書」のテキストは見つかりませんでした。秀吉の頃から活躍した人物のようですが、天正地震の頃はどの程度活躍したか、文書はいつの時代から残されているか、どこに住んでいたかすら良くわかりませんね。
もし、天正地震の前から豪商として活躍していたら、海に近い商業の中心地は津波で流されて、文書も残されなかったかもしれません。

フロイスが津波らしき記録を残している「長浜」という地は「小浜」の誤りとされていますが、もしそれが正しかったとしても、地図で見る小浜は内外海半島と大島半島にはさまれて、津波の入り口は狭く湾が広いので、今回の東北のような大きな津波被害はなかったのかもしれません。

組屋家文書は小浜市が管理しているようですが、テキストを一度読んでみたいですね。
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekaiisan/Japanese/data/246.htm
 


日本は自分で国を守れないから、アメリカにたかられ、中国、ロシア、果ては韓国にまでいびられるわけでなぜ核武装しないんだろうって思っていました。 しかし、石破さんのTVでの発言をきいて、ちょっと考えが変わりました(どの番組だったかよく思い出せないのですが。。) 日本が核武装を目指すというと、ウランを売ってもらえなくなる、というのです。もし、ウランや石油を売ってもらえなくなってしまうと確かに日本は追い詰められますね。太平洋戦争前の日本の再現です。現在、ウランを燃やしてできたプルトニウムを再利用するべく大量に溜め込んでいるわけですが、これは諸外国の意向に左右されないエネルギー政策をとるのに非常に重要な役割を果たすと考えられているようです。太陽光発電など自然エネルギーが実用化されるまでのつなぎとして、核燃料サイクル(MOX燃料の使用)という考えがあってもいいんじゃないかという気がしています。
私もこの分野は知らないことが多すぎて、自分の考えに確信が持てないのですが、日本人は今回の原子力発電所の事故で、二度と原子力発電所は新設できないような気がしていますし、核燃料サイクルも同様ではないかと思います。
「絶対安全だ」と東電がいくら主張してもこれからは誰も信用しないでしょうし、それだけ安全というのなら東京で作れと言われても仕方がないと思います。そうなると東京の住民は反対するに決まっています。
万が一のことがあれば、何世代にもわたって住めなくなったり、賠償金を払い続けることを考えれば、別の方法で発電する方が正しいと思います。
日本列島の廻りには良質なメタンハイドレードがありますし、オーランチオキトリウムも有望ではないかと思います。
いずれも、発電コストはそれほど高くなくCO2の排出も多くはありませんし、現状の火力発電所の設備がそのまま使えるメリットもあります。その利用の目途がつくまでは、安全度の高い一部の原発の稼働を再開する程度の事は必要だと思いますが、政府はその移行スケジュールを明らかにすべきだと思います。
 
 
今後については、確かに原発の新設は難しいんでしょうね。ただ、MOX燃料の利用については、既存の原発でも計画されていました。WikipediaのMOX燃料の項にも記述があります。そのため白紙に戻していいかについては慎重な議論があっていいと思います。
今後の代替エネルギー資源の開発はもちろん、重要だと思います。しかし、そのどれも実用レベルになっていない以上、そのつなぎの技術として原子力に頼る部分があってもやむをえないのではないでしょうか。今後、何が有望かは私にもよくわかりません。
メタンハイドレードももちろん、今後、開発していく必要のある資源ではありますが、研究も始まったばかりで実用化にはまだまだ時間がかかると思います。
オーランチオキトリウムに関しては、私も最初、聞いたときはこれが実用化されればと思いましたが、計算してみると原料になる有機物がまったくもって足りないんですよね。日本全国の下水から有機物を回収してオーランチオキトリウムで石油を生産させたとしても輸入している石油の3%程度の資源回収にしかならない。それで筑波大学の渡邉先生に直接、メールをして聞いてみたんですが、ご心配は全くそのとおりです、という答えが返ってきてしまったんですよね。それで、渡邉先生からの回答では有機物はほかに植物を培養して得ることを考えているという話だったんですが、エネルギー保存則がなりたってますから、同じ太陽光からエネルギーを得るのなら、太陽光エネルギーを光合成をして有機物をつくり、有機物を分解して石油をつくり、石油から電力を作る、という周りくどいことをやるより太陽光エネルギーを直接、電力に変えたほうがロスが少ないと思われます。そのため、おそらく将来にわたってもオーランチオキトリウムによる石油生産が主要な電気エネルギー源になることは無いと思います。ただし、ジェット燃料などの高級燃料の代替としては希望がもてると思います。なにしろ量は少ないにせよ、今まで下水処理場で微生物に分解させて捨てるだけだった有機物を活用できるわけなので。
 
 
よく勉強しておられるのであまり議論にならないかもしれませんが、太陽光発電に関しては、変換効率がまだまだ低いので効率が良くないと言うことではなかったかと思います。
個人的には、福島県の一部のようにで放射能汚染数値の高い地域では当面農業生産も困難なので、電力会社が土地を買うなり借り入れて太陽光発電プラントを設置し、放射能汚染数値が低レベルになるまで電力生産して、被災地の地主に地代を払うかたち等で被害地域の人々の生活を援けるようなことができないかと考えています。
MOX燃料の件は、政治家がどう国民を説得することが出来るかがカギですね。他国の息のかかったマスコミも曲者です。

オーランチオキトリウムはテレビでは日本の石油需要を賄うレベルに持ち込むには遊休田の一部を利用する程度だとの説明ではなかったかと記憶していますが、藻に与える栄養素までは考えていませんでした。
太陽光発電の変換効率が低いのはおっしゃるとおりで、まだまだ研究レベルの段階で補助金で量産化を助成する段階ではないと思っています。いくつか参考になるサイトをご紹介します。 NEDOと呼ばれる組織が、エネルギー自給率を高めるための研究資金を提供しています。そこの報告書などに、現状や将来、どのようにエネルギーを賄う予定でいるのかについて書かれています。
NEDO再生可能エネルギー技術白書
http://www.nedo.go.jp/library/ne_hakusyo_index.html
技術戦略マップ2010
http://www.nedo.go.jp/library/roadmap_index.html
太陽光発電ロードマップ
http://www.nedo.go.jp/library/pv2030_index.html
彼らのロードマップでは、2030年で7円/kWh程度(これは現在の原子力発電のコスト6円/kWhに肉薄します)を目指すそうです。実際、理論上は75%まで効率をあげられることを示した最近の研究も存在します。
http://www.qdot.iis.u-tokyo.ac.jp/press.html
http://www.nanoquine.iis.u-tokyo.ac.jp/newspaper/news2011/news20110425-1.pdf

エネルギー密度が低いのは確かで、ケンブリッジ大のDr.Mackayの試算によると、 イギリスのすべての家屋・建物の南側の屋根に太陽光パネルを設置(1人あたり10m^2、20%効率の太陽光パネル)したとしても、 一人当たり1日5kWhの発電しかできないそうです。イギリスはピーク時(真冬)の電力消費は一人当たり1日24kWhとなるため、効率がたとえ倍になってもまだ足りません。イギリス全土の電力を賄うには膨大な面積の土地が必要になりそうです。日本はイギリスよりやや南側に位置していますが状況は似たようなものでしょう。 http://www.withouthotair.com/download.html

オーランチオキトリウムは、おっしゃるとおり休耕田(の一部)で培養できればという仮定の上での話しなので、培養に必要な有機物の調達については述べていないことに注意する必要があります。
 
 
詳しい情報ありがとうございます。

原子力のコストは含まれないコストが相当あるので私はあまりあてにはしていません。今回の原子力災害の様な事があっても債務超過にならないようにある程度引当を当てていなければ経営とは言えないでしょう。今回の損害賠償コストや除染コストや、廃炉コストなどを発生確率で乗じて原子力発電のコストに入れれば、火力発電や水力発電よりも高くなるのではないでしょうか。

太陽光発電も安くなればいいですね。今の効率と価格では、面積を食うばかりであまり魅力を感じません。
何度もすみません。いちおう、原子力発電にかかるコストに廃炉コストは含められていますよ。原子力資料情報室という原発反対側の人が計算した発電コストでは、原子力部会の計算で6円/kWh程度だったものが7円/kWhになっていますが、そう変わりません。火力と比較を難しくしているのは、燃料となる石油の価格、原子力発電所を何年で廃炉にするか、稼働率をどうするかに依存するからです。
http://cnic.jp/files/cost20060612main.pdf
日本は、安全管理が妙なところで厳しくって毎年、何度もいろんな部分を分解して定期点検する必要があり稼働率が低いそうです。妙なというのはその安全点検をやっても安全性に寄与しないと思われているからです。また原子炉の耐用年数も短いです。一方、アメリカは60年に延ばすことを決定しています。

今回の被害で4兆円の補償が必要になったと政府が試算しているそうですが、毎年、4兆円の補償が必要だとして、発電単価を計算しなおすと12円/kWh(太陽光発電の発電単価並み)になるそうです。また、この4兆円は大きく見積もられ過ぎではないかというふうにも書いてあります。福島県の農業産出額は年間2450億円でしかありませんし、4兆円という額は10万人に一人4000万円の慰謝料を出せるだけの金額だからです。
http://agora-web.jp/archives/1363422.html

それと、原子力発電所(3割→0)を停止して、火力発電所(6割→9割)を再開させると、大気汚染による死者が3000人、生じるという試算があります。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51817203.html
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51842863.html

太陽光発電は、基本的に屋根の上の3分の1ぐらいの面積にとりつけることが試算されていますが、それでも将来的には発電全体の2割以上を賄える量になるので、期待しています。蓄電も基本的には、水の電気分解で水素を作って高圧タンクに貯めておけば、燃料電池として利用できるはずなので発電コストが下がれば、いろいろな問題が解決するのではないかと思います。
 
 
原子力発電のコストはいろんな人が書いているのですが、私はもっと高いのにもかかわらず、安く見えるように操作されている印象を持っています。
次のURLでは20円/kWhを超えています。

https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B1xBQ3bNCL-XNDJhOGY1YjgtZjQ4Zi00ZjM1LTljMzctMGY0ZDZiYzk1ZTcw&hl=ja

それと、火力発電と水力発電のコストは、今までは稼働率がかなり低く抑えられていたので、減価償却費のウェイトが高くなっており、コストが高めに見積もられています。稼働率が7~8割であれば、もっと低くなるはずです。

原子力発電のコストの話にもどりますが、この損害賠償コストはもっと高くなってもおかしくありません。
農家は除染が完了しない限り、農産物は今後数十年間作れません。7年程度では済まないでしょう。
また今回の事故でいままでどれだけの国費が投入されたでしょうか。そのコストは加算されていません。
さらに、放射能汚染は魚にも影響が出る可能性があります。
岸博幸氏は海外から賠償請求されることを懸念しています。
以上を考えていくと、原子力のコストはもっと跳ね上がるのではないでしょうか。

次のサイトをぜひ読んでみてください。
http://diamond.jp/articles/-/13837
 
 
ご紹介いただいたリンク先に損害賠償の話がありましたが
同じ論法で、日本は大気汚染による損害賠償を求めることができます。
外国のほうが同じ火力発電でも、日本ほどの環境技術を用いていないのできれいな排気になっていませんし、
中国は特に大気汚染がひどい石炭による発電を行っています。
WHOの報告によると毎年100万人から300万人(そのうち火力発電が3割)が大気汚染が原因で死ぬと見込まれているそうです(2004年で世界174カ国の死者数が「年間」110万人。 http://apps.who.int/ghodata/?vid=34300# )。
その一方、チェルノブイリ事故による「将来にわたった」死者数は、
IAEA チェルノブイリ・フォーラム(2005) 3940人 (60万人中) (0.11/SV)
WHO(世界保健機構)(2006) 9000人 (740万人中 ロシア、ウクライナ、ベラルーシ) (0.11/SV)
IARC(国際ガン研究機関)(2006) 16000人 (5億7千万人中 ヨーロッパ全土) (0.1/SV)
NGOキエフ会議(2006) 3万~6万人 (全世界) (0.05~0.1/SV)
グリーンピース(2006) 9万3千人 (全世界) (0.15/SV)
と推定されています(http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/kek07-1.pdf)。
各団体の見積もる数字は違いますが、それは主に考える母集団の違いに依存しています。
上記の一番、右の数字は1シーベルトの被曝によって将来的に死ぬリスクを表しますが、
この数字は、各団体の間でそれほど違いがありません。
NGOキエフ会議の見積もりの6万人としても、火力発電所が原因の大気汚染による「年間」死者数30万人より少ないですね。
また、被曝による被害をいうのであれば過去の核実験による損害賠償も求めることができるでしょう。
http://search.kankyo-hoshano.go.jp/food/dekigoto.html
1986年のチェルノブイリ事故時と、それ以前のフォールアウトがかなり多いことがわかります。今回の事故でも放射性物質を撒き散らしましたが、放出量はチェルノブイリ事故の10分の1とみられています
 
 
原子力発電所のコスト計算を読んでみましたが、これは計算がひどいと思いました。
なぜ原子力発電所の発電コストの計算に、揚水発電所の建設費用を含めるのでしょう?
べつに使用済み核燃料の生成と再処理するMOXの燃料の数を等しくしなければならない理由はないと思います。
中間貯蔵施設で貯蔵しておけばよいでしょう。
それなのに再処理工場は2つ作ることにして、さらに再利用の難しいMOX燃料を使用した後の燃えカスからも燃料を取り出す前提で計算しています。
そもそも、これらの取り出した燃料は使うことなく、最終処分する計算を行っています。
使わないのであれば、最初から最終処分する価格だけを費用として計算すれば良いはずです。

また、どういうわけかガラス固化体にする価格が1本3530万円ではできないとし、1本2.5億円かけて作る計算を行っています。
明らかにおかしな数字です。ガラス固化体は、ステンレス製の容器に使用済み燃料を
ガラスを混ぜて保存するもので、1本500kg程度のものです。
どこに2.5億円かかるのかがわかりませんでした。
http://lib.toyokeizai.net/public/image/2011062000979041-1.jpg
また、この日本の試算しているガラス固化体にして最終処分するのにかかる費用は、
諸外国の試算と比べても決して少ない金額ではありません。
http://www2.rwmc.or.jp/pub/hlwkj201102ed-1.pdf
なぜその7倍もの価格を設定するのかの根拠が不明であり、その価格が妥当に思える合理性が見えてきません。

電源交付金も発電コストを大幅に上昇させる要因にはなりません。
Wikipediaに書いてありますが、出力135万kWの原子力発電所(環境調査期間:3年間、建設期間:7年間、建設費:4,500億円)の立地にともなう財源効果は、環境影響評価開始の翌年度から運転開始までの10年間で合計約391億円、その後運転開始の翌年度から10年間で合計約502億円。20年間では、電源立地地域対策交付金が545億円、固定資産税が348億円で、合計約893億円になると見積もられています。
これによる値上がりは、数十銭/kWhのレベルです。
 
 
福島の農林水産物が数十年間、食べられないのでは?、とのことですが、福島の農林水産物は9割がたは問題なく食べることができます。
ふくしま新発売。というページで調べられた検査結果が掲載されています。

基準値を超えたもの全リスト
http://www.new-fukushima.jp/result.php?start_year=2011&start_month=1&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=over&x=76&y=25

検査された全リスト
http://www.new-fukushima.jp/result.php?start_year=2011&start_month=7&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=78&y=10

牛肉が汚染されていたという報道がありました。
確かに汚染された牛肉は見つかっています。
クリでも汚染が見つかっています。このリストの中で1件だけあります。
http://www.new-fukushima.jp/result.php?kind_detail%5B%5D=%E3%82%AF%E3%83%AA&start_year=2011&start_month=3&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=79&y=15

しかし、例えば、モモでは1件も見つかっていません。
http://www.new-fukushima.jp/result.php?kind_detail%5B%5D=%E3%83%A2%E3%83%A2&start_year=2011&start_month=1&end_year=2011&end_month=9&search_area=&hyoji=all&x=49&y=22

福島県が正直に全ての出荷物の検査をしているかどうかはわかりません。
しかし、福島市でも伊達市でも検出限界レベル以下の放射能しか帯びていない農産物がたくさん存在することは確かだろうと思います。
安全基準も暫定値のレベルが高いといいますが、もともと危険性に関して無知であったため高く設定されていたと思います。世界には年間10ミリSVの自然放射線被曝がある場所もあります。そういうところでも昔から住民が住み続けていて問題がないことはわかっています。また現在では、1945年の広島・長崎の例のほか、1986年のチェルノブイリ事故、1970年代から商用利用されたX線CT検査などの例からかなり正確に危険性を見積もることができます。我々はチェルノブイリ事故のときと比べると遥かに多くの知見を得ています。その知見をもとに基準を設定することは科学的で合理的であると言って良いと思います。

日記本文と関係のないコメントを長々とすみませんでした。
 
 
deepwaterさん、コメントありがとうございます。

放射能の問題は、私も正直言って何が正しいのかよくわからなくなってきています。飛行機に乗ればもっと放射能を浴びているそうですし、少量の放射能であれば、健康に良いというデータもあります。私も多分そうなのだと思っています。

政府や東電の初動がいかにも重要な事実を隠しているようだったので、誰もがその発表内容を信用できなくなっています。そのためにテレビや雑誌でいろいろな説が垂れ流されて風評被害は拡がるばかりです。
たとえ福島県の農産物は食べても安全という数字が出たとしても、放射能汚染は同じ町内でも高い場所と低い場所があることは誰でも知っています。そう考えると、子供を持つ親の多くは福島県の農産物は避けようとしてしまいますし、流通業者は大量廃棄に廻る可能性が高い農産物を仕入れられません。結果福島県の農家は大被害を受けます。その被害は、東電や政府が補償しなければならなくなります。

風評被害を止めるのは政治家の役割が大きいのだと思いますが、今までの対応を見ていると、風評被害をむしろ拡大させたように見えます。風評被害を消す方法は、今となれば東電など今まで原子力を推進してきた人たちが、率先して福島の農産物を買って生産者を援け、食べても大丈夫であることをアピールするしかないと考えています。政治家が東電に買い取らせて彼らが食べるか、捨てるかで世論がきっと動きます。
 
 
私も同感です。政府が大規模停電や原子力事故で予想されるパニックを恐れて情報をわざと隠蔽しようしたのは事実だと思います。しかし、そんな小手先の隠蔽をやっても、パニックは防げるものではないと思います。
放射線を測る装置は、福島第一原発だけにあるわけではないです。
大学や国の研究所、民間の会社、研究所、病院、発電所で常時、測っていますし、
それをネット上にリアルタイムで更新しているサイトもいくつもあります。
それに、IAEAや米軍なども放射線量をはかっていました。
それらの全ての数字と整合性をとるようにストーリーをでっち上げることは不可能です。
逆に言えば、政府がどれだけ信用できなかったとしても、その周辺に漏れ出た放射線量の測定値をみれば
政府の言っていることが本当かどうかはすぐにわかります。
国内だけでなく世界中の研究者が各地の放射線量をみて、事故の規模を予想し、ブログ、Twitterなどでも情報を流していました。
原子力発電所での爆発も、観測する人や機械が無数にある現状では隠しようがありません。
その現状に即するならば、情報を隠蔽しようとして人々の信用を失うほうがパニックを誘発しやすいため、
道義的な問題だけなく、実際上も、情報をオープンにするのが一番、良いのではないかと思います。
実際、国民に全く信用されていない中国では、政府がとめようとしても塩の買い占めパニックを早期に収束させることができませんでした。
 
 
スリーマイル島の事故を起こしたアメリカは強い反対運動の中、事故後も原子力発電所の発電量は増大させていますし、
産油国のサウジアラビアでさえも原子力発電所を建設する計画があります。
そういう事実に基づけば、原子力発電所が火力発電所に比べてコスト高で割りに合わないという
話しは専門的な知識がなくとも説得力にかけると思うのですが、そういう話でさえも一般に流布するというのは
それだけ今の日本政府が国民の信頼を失っていることの証拠だと思います。

ふくしま新発売。のようなサイトは、国が立ち上げるべきだったと思います。
国が大規模な検査施設・検査体制を作って公開するべきです。
(東京都は、情報を公開するサイトが早い段階で作られていました。石原都知事の指導力は評価されて良いと思います。
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor08
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor07
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/datasheet/d-shelter/taiheiyooki_h22.html#anchor06 )
どういう形で検査を行っているかを明確にして検査過程を透明化し、
どういう形で検査済みであるかどうかを保証するかを考えて、消費者に安全を担保できるかを明確にするべきだと思います。
その上で、霞が関の食堂なんかで福島の農林水産物を優先的に使用するようにすれば、ずいぶん、風評被害も減るのではないかと思います。
これは、福島の農林水産物だけでなく、海外への輸出品についてもいえることで、同様な情報公開が重要だと思います。補償の金額についてあれこれ議論する前に、どうすれば失った信頼を取り戻せるのか、真剣に議論してもらいたいです。
 
 
同感です。

誰が何を言っても信用されなくなっている事態を収拾するためには、原子力を推進している人々が、率先して東北の農産物を買い、率先して食べる以外に道は開かないように思っています。

「補償」という加害者・被害者の関係でものを考えるのではなく、風評被害で売れなくて困っている農産物や地方の食料品などを買うことから始めて行くべきです。国や電力関係者がそういう取り組みをすれば、世論の風向きは変わるはずです。
汚染がひどくて当面使えない土地は、風力発電や太陽光発電用の土地として借りて地代を払うなど、地震の影響で打撃をこうむった人々に少しでも収入が入る方法をもっと政府や東電は検討すべきだと思います。 



関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)

2011年04月25日 | 自然災害

前回は関東大震災時における火災のことを書いたが、被害は火災ばかりではなかった。

震源に近い三浦半島から伊豆半島にいたる相模湾沿岸では、地震そのものによる家屋の被害のみならず、山崩れや土石流及び津波の大きな被害も記録されている。

まず、山崩れや土石流による被害はどうであったか。



神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)の根府川集落で、白糸川上流で発生した土石流により64戸の家屋が埋没し、406人が死亡したそうだ。上は、土石流により倒壊した根府川集落の写真である。
また、近くの熱海軽便鉄道の根府川駅では背後の山が崩れて、停車中の列車を海中に押し流して死者が300人出たそうだ。
他にも足柄下郡米神で土石流による民家埋没で死者62人、横須賀でがけ崩れによる民家埋没で100人を超えるなどの記録があるが、伊豆半島では伊豆山は山崩れでその七分を失い、多賀村、網代村の被害は激しかったとする記録だけで死者についてはよくわかっていないようだ。実際は、関東大震災による山崩れ・土石流に起因する死者が1000人近くいたと考えられている。



現在のJR根府川駅近くの岩泉寺というお寺に『大震災殃死者供養塔』が大正14年に建立されそこには
「大正十二年九月一日午前十一時五十八分俄然大震災アリ同時ニ山津波起リ老若男女二百餘人殃死セリ甚タ悲惨ノ至リニ堪ヘス茲ニ遺族一同共ニ丹梱ヲ協セ殃死者菩提ノ為大供養塔ヲ建立シ以テ永ク精霊ヲ祭ル者也」
と彫られているそうだが、死亡者数が「二百餘人」というのは、他の記録と比べれば少なく見える。また、なぜ伊豆半島の被害については記録らしいものが残されていないのが意外である。この問題はあとで考察することにして、次に津波のことを書こう。

この時の津波の高さは沿岸部一帯で低い所で2~4m、神奈川県の逗子で6~7m、静岡県の伊東で5~7m、熱海で12mとの記録があり、東京湾の津波は0.3~0.8m程度だったそうだ。

東京では津波襲来の流言が想像以上の早さで流布してパニック状態になった話を昔読んだことがあるが、結果として東京湾の津波は小規模で良かった。
津波の被害が大きかったのは東京都よりも神奈川県や静岡県である。

以前このブログで紹介した山下文男氏の著書『津波てんでんこ』に、『神奈川県震災誌』という本が紹介されている。

「津波は地震後約二十分後に鎌倉町、腰越津村、川口村の海岸を襲い、鎌倉町乱橋材木座に於いて家屋三十戸、長谷稲瀬川川尻に於いて二十四戸、同坂ノ下に於いて二十六戸流出し、以上の各所を通じて溺死三十名を出せり。なお当時は由比が浜海岸に於いて海水浴をなしいたる者百名内外ありしが、その生死は明らかならず。腰越津村には、七里ガ浜県道護岸十町が震災により大破し、更に海嘯の襲来を受けて壊滅し、これがために民家の倒壊せるもの少なからず。川口村には片瀬の山本橋及び江ノ島橋の流出あり。江ノ島及び片瀬に於いて溺死七名の外、当該桟橋を通行中なりし約五十名は橋梁とともに流されて行方不明となれり」(『神奈川県震災誌』) 

これによると津波の被害者がかなり出たことは確実で、地元の鎌倉市がまとめた『鎌倉震災誌』という本には、「理学博士・中村左衛門太郎」氏の「発表」として、由比が浜の海水浴客についてはこう書いている。

「この日天候不良のため海水浴をする者ほとんどなく、また海岸にいたものも地震に脅え、引き続く海嘯の襲来を予知することができたので、何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった。」(『鎌倉震災誌』) 

同じ場所で起こったことを書いているはずなのだが、なぜ『神奈川県震災誌』と『鎌倉震災誌』の記述内容が異なるのか。

別に『大正震災誌』という本には「折から海水浴に出かけていた老若男女三百名は波にのまれて行方不明になった」と書かれており、『藤沢市史』でも、「…大つなみの襲来は、湘南海岸各村に深刻な被害をもたらした。鎌倉、腰越とともに川口村もその対象となり、江ノ島桟橋の通行者約五〇名と、片瀬海岸での遊泳者七名が犠牲になった。」と書いてあり、『鎌倉震災誌』のこの部分はどう考えても不自然だ。

『鎌倉震災誌』には、鎌倉町の被害は全壊1455戸、半壊1549戸、埋没8戸、津波流失113戸、全焼443戸、半焼2戸、死者412名、重傷者341名なのだが、震災前の鎌倉町の全戸数は4183戸というから大変な被害だ。



ネットで津波被害を受けた由比が浜の写真(鎌倉市中央図書館蔵)が見つかったが、この津波で江の電長谷駅や由比ヶ浜駅以南はほとんど崩壊してしまったという話はこの写真で納得できる。記録によると、鎌倉大仏で有名な高徳院にも津波が押し寄せて庫裏が全壊し、長谷寺も庫裏や大黒堂・阿弥陀堂・念仏堂・書院などが全壊したそうだ。



鎌倉の大仏は今でこそ露座の仏像であるが、当初は文永5年(1268)に完成した大仏殿の中にあった。その後何度か倒壊・再建を繰り返し、明応7年(1498)の大地震と津波で大仏殿が倒壊した後はずっと露座になった状態だったのだが、関東大震災の津波で大仏像が35.8cm前に仏像が移動した記録があるそうだ。津波は何度も鎌倉を襲っているのだ。

鎌倉町の地域別被害の実数と鎌倉大仏の被害の写真を次のURLで見ることができるが、由比ヶ浜地区の住民が74名も亡くなっているのに、由比が浜の観光客が避難して全員無事であったということはありえない。
http://www.kcn-net.org/oldnew/sinsai02.html 

もう一度『鎌倉震災誌』を良く読むと「死者・行方不明になった者は全くなかった」と書いているのではなく「…何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった」と表現しており「死者がいないとは書いていない」と言いわけが出来る文章になっている。もし、そう言うつもりで書いたのであれば、「公式記録にバカなトリックは使うな」と言いたいが、被害を小さく見せるために何らかの圧力がかかったのかと勘ぐりたくなる。

鎌倉町の津波の高さは約三〇尺(約10m)であったのだが、この高さでこれだけの被害が出ている。ならばそれよりも津波が高かった熱海(12m)の被害はどうだったのか。

静岡県の被害については『静岡県震災誌』という本が作られたそうなのだが、被災状況については具体的な数字が書かれていないようである。でもかなり死者があったはずだが、記録が残されていないようなのである。たとえば熱海についてはこんな具合である。

「…海浜に避難せる者は、再び山の手方面に逃れんとして、溺死を遂げたるもの少なからず。熱海町新浜、清水、和田の家屋は全部が海上に漂い、あるいはこれに縋り、あるいは樹木に取り付き、救助を求めるもの海陸相応じ、阿鼻叫喚の声に満つ。…また伊豆山は山崩れのために埋没してその七分を失い、多賀村、網代村もまた被害激甚を極めたること、熱海、伊東に異なることなし。」とどこにも数字がない。

以後の災害対策を考える上では、市町村の地域別に被害世帯数、犠牲者数等の正確な記録を残すことは一番大切なことだと思うのだが、なぜこの程度の記録しか残っていないのか。 以前紹介した『津波てんでんこ』で、著者の山下文男氏はこのように書いておられる。

「関東大震災の際の津波による死者数や地すべり被害=山つなみによる死者数の記録は、概して不確かなものばかりであまり明確にはされていない。
 例えばここに『土方梅子自伝』(早川書房)というのがある。これによると、当時の華族・近衛秀磨の鎌倉の自宅で、子息の英俊が「家もろともに津波に呑まれてなくなられた」との知らせがあったと記されている。こうした犠牲者は他にもかなりあったと思うのだが、それらが果たして津波による犠牲者として数えられているのかどうか?いろいろと考えざるを得ない。」

「最近は熱海の海岸などにも「津波注意」のパネルや看板が見られるようになったが、この地域が鎌倉、熱海、伊東という、全国的な温泉地であり、観光海岸であることも、長い間「津波」を語り難くし、風化を早める原因の一つになっていたように思う。1984年のことだが、筆者が「関東大震災と津波」(『暮らしと政治』)という論考を書いた折にも、熱海の観光業者の方から抗議めいた手紙をもらっている。」

あまりに多くの焼死者が出たために、火災ばかりが注目されてしまい津波や土石流の被害者の事実が注目されなかったという面もあるのだろうが、一方で津波の真実を広められては困ると考える人が少なからずいて、そういう調査をすること自体を望まなかったし、津波対策のために移転することも望まなかったのではないか。

しかし、そのために被害の大きかった地域のほとんどが、たいした津波対策がなされないまま危険な地域にびっしり家屋や商業施設などが建てられてしまっている。
直接大きな被害があった地域ですらこんな状況なのだから、他の地域も同様に、大きな津波が来ることは「想定外」で開発がなされてきたのだろう。これでは有効な地震対策をとることは困難であり、結果として数十年単位で同じ誤りを繰り返すことになるのだと思う。

大きな災害を経験した国民はこの国で未来を生きる人々に対する責任があるのだと思うのだが、関東大震災を経験した世代は火炎旋風の怖さや津波の被害の事実をどれだけ我々に伝えてくれたのだろうか。どんな教訓を残し、それが今の町づくりにどれだけ活かされているのかと思うと、今の世代にはほとんど何も伝えられていないのではないかと不安になってくる。
せめて今回の東日本大震災を機に、それぞれの地域で過去の震災被害を学び、どうすれば被害が小さくできるかのか、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考えて、できることから実行してほしいものだと思う。
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BLOGariコメント

 なるほど今になって思うとよくわかります。

 わたしは東京で勤務していたときに、ある塗料メーカーの営業担当者で神奈川県を巡回していました。

 トタン用ペイントの販売が他の関東近県より神奈川、とくに鎌倉・藤沢。などで多いのでした。理由を先輩に聞くと「関東大震災の関係で日本瓦屋根がすくないのよ。それで民家はほとんどトタン屋根だよ。東北地方同様にトタン用ペイントの需要はあるね・」とのことでした。

 担当区域が湘南でしたからそれはなるほど確認しました。一方当然津波も襲来していたはずなのに、記録が殆どありませんし、親しくしていた人たちからも聞いたことがありませんでした。

 やはりなんらかの「圧力」があったんでしょう。でも命があっての観光。何かが間違っていますね。
 
 
コメントありがとうございます。神奈川県で日本瓦屋根が少なくトタン屋根が多い事は初めて知りました。

関東大震災では、観光業者などが風評被害を抑えこむために情報の公開や調査を隠そうとしたようなところがあったと考えています。

しかし今回は、政府や保安院や東電が自らの保身のために情報を隠ぺいしたり誤った情報を伝えることが、農業・漁業をはじめあらゆる生産業者、旅館などのサービス業者に必要以上の風評被害を与えてしまっています。

今回は放射能問題が余計でした。無能な政府を選んでしまったために、安全な地域までGWにもかかわらず観光客が激減しています。今の政府がやるべき事は、ほとんどの地域は安全であることを全世界にアピールし、放射線の高い地域は土壌改良を急ぎ、人々が一日も早く普通の生活ができる基盤を取戻すことに全力を尽くすことだと思います。
 
 
 しばやんさん今度鎌倉へ行かれる機会があれば、民家を観察してください。相当古い民家でも(戦前建築されたような洋館)や日本家屋でも、殆どがトタンや屋根です。

 関東大震災は、東京での火災の被害が印象に残っていますが、実は神奈川県一帯の被害が甚大であったと思われます。確か鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居も崩れたと思います。大屋根も倒壊したのではないでしょうか。

 湘南地域の塗装屋さんは日本1豊かでした。トタン屋根の民家は10年に1度くらいは塗り替える必要があるからです。海に近いので錆も来ます。

 横須賀などは戦前は海軍工廠があり、敗戦後は米海軍基地になりましたので、基地での仕事がたくさんありました。

 それと鎌倉文士といわれるように文化人やお金持ちが多く住んでいました。それと昭和40年代以降は日本を代表する大企業がたくさん工場を作りました。

 関東大震災から随分月日が経過しました。震災を知る人はいなくなり、伝承は消えました。

 神奈川県のトタン屋根にその影響を見ることだけになりました。

 東海・東南海。南海地震が起きれば、今回の東日本大震災クラスの地震です。大津波は静岡県御前崎の浜岡原子力発電所を破壊するでしょう。横須賀の米軍基地も壊滅します。全然津波対策してません。

 みなとみらい地区もそうです。横浜市の市街地は壊滅しますね。横浜市役所も神奈川県庁も海に近く、海抜も低いので、壊滅状態になると思います。

 関東大震災から何も学ばず都市づくりをしています。
 
 
いつもコメントありがとうございます。
ネットで調べると、関東大震災で鶴岡八幡宮の楼門が倒壊した写真が見つかりました。楼門だけでなく下拝殿も二ノ鳥居も三ノ鳥居も倒壊し、死者も出ているようです。旅館も多数倒壊しています。
http://www.kcn-net.org/oldnew/sinsai07.html

結局、観光に携わる人の多い地域は、前と同じ場所で前と同じ場所に戻すこと以外に考えたくなかったのではないでしょうか。観光産業は場所を変えては成り立たない産業なので気持はわからないでもないですが、結局ほとんど何の対策もとらずに現在にいたっていることは知るべきですね。
 
 
 ご紹介のサイトの画像を見ました。鎌倉は地震での倒壊被害だけでなく、津波でも大きな被害が出ています。

 小町や材木座など、お世話になった人の店舗と住宅のある地域です。まさに壊滅的な被害を受けています。

 結局もとの同じ場所に、店舗や住宅を建てたので、それを知らない人が移住してまちを形成したのです。お世話になった人も60年ほど前に、品川から鎌倉へお父さんが移住し、店舗を開きました。

 私が住んでいる高知市二葉町も同じことです。人間はどこも同じ事をするもんです。つくづくそう思います。
 
 
抜本的な対策はよほど大きな被害を受けて地域住民の意思が一つにまとまらなければできないのでしょうが、観光地や商業地のようにその場所でなければ生活が成り立たないような職業を生業とする人々が多い場所は、住民の考えを一つにまとめるということがかなり難しいことだと思います。
誰しもどうあるべきかという理想は分かっても、政府や自治体が目先の生活が出来る展望を住民に明確に提示出来なければ、抜本策を進めることは難しいでしょう。

せめて三陸海岸沿岸部の漁業中心の町はなんとかいい形でまとまって欲しいものだと思います。新しい街づくりのための事業に被災された人を優先雇用して生活できるようにした上で、危険な地域は国が買い上げ、一部の地域は私権を制限するなどの緻密なグランドデザインを考えて欲しいと思います。
 
 
 NHKのニュースで鎌倉の津波跡を検証する早稲田大学の教官の行動を追っていました。

 しばやんさんの記事のとうり鎌倉大仏殿まで津波が来ていたのです。現在の鎌倉市の中心市街地も壊滅しています。 
 湘南海岸は休日ともなれば、サーファーが1000人程度海岸に繰り出し、沖合いでは関東一円尾大学ヨット部の艇が100艇は帆走しています。

 仕事で江ノ島や葉山、油壺や厨子や佐島のマリーナを巡回しましたが、津波対策の表示はなかったと思います。

 やはり防災対策は神奈川でも必要です。
 
 
鎌倉や熱海などの観光地の関係者は、抜本的な津波対策をされると観光地としての価値が減じてしまうことを恐れたのでしょう。だから、以前のままに近い状態で建てなおし、詳しい記録は風評被害を生むので残さないようにしたのだと思います。

せめて今回の東日本大震災の被災地は、少しでも津波対策を立てて力強く復興してほしいですね。
 
 
 私がヨットを始めるきっかけになったのが、仕事で巡回していた湘南のマリーナでした。

 でも過去に津波被害があったのに、それを抹消し、同じ場所に市街地を復旧してしまったのです。

 それは現在の高知市二葉町も同じことです。そのことを調査もせず、31年前に土地建物を購入し、しかも建て替えまでしたのですから。

 東日本大震災は、そうした人間の浅知恵をすべて押し流しました。自然の猛威には人間はどうすることもできません。

 自分たちの愚かさと、人知を超える東北の被害を見ると、とても他人事とは思えません、

 しかし仕事の上でも、家族の生活も他に優先事項がいくつもあり、地震対策に集中できないもどかしさがあります。そのことがなかなか集中できない。精神が今ひとつ安定しない要因であると思います。
 
 
「浅知恵」ということになるのでしょうが、住民全てが納得できるような不公平のない案は誰も作れないし、作ろうとしても時間がかかりすぎるし、抜本的な対策工事がなされている間に住民の収入がなければ生活することもかないません。

場所を変えて同じ仕事で、今までと同様の収入が得られて生計が立つ保証もなく、かといって抜本策が出るのを待っていても、義捐金はそのうち入らなくなり、政府や地方公共団体もいつまでも税金で面倒を見てくれるはずがありません。

「理想」と「現実」のギャップはあまりにも大きく、結局ほとんどの地域で、一番安易な「原状復帰」の選択をしたということなのだと思います。 

 


関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1

2011年04月21日 | 自然災害

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。



多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、とても正視できるものではない。
http://ktoh-n.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16-1 

なぜそんなに火災による死者が多かったのかというと、お昼頃であったために多くの家庭で主婦が炊事のために竈(かまど)で火を使っているところに多くの木造家屋が倒壊したこと。さらに具合が悪いことに、この日は能登半島近くの台風の影響もあり、関東地方の風がかなり強かったという。

多くの焼死者が出た東京本所被服廠跡とは今の横網町公園のことだが、地震のあった前年に被服廠は赤羽に移転し、跡地を東京市が買い取って公園として整備したそうだ。

近くの人々がこの場所を絶好の避難場と考えて家財道具を背負って集まってきたのだが、午後4時ごろにこの公園に地震の火災が「火災旋風」となってこの公園を襲い、人々が持ちこんだ家財道具にも飛び火して、人々は逃げ場を失って焼死してしまった。

火災旋風」とは、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで局地的に生じる上昇気流のことで、Wikipediaによると、

「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」とある。

また「個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、 被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%97%8B%E9%A2%A8



上の画像はネットで見つけたイギリスの火災旋風の画像だが、関東大震災の時の火災旋風の大きさは100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後と推測されている。またこの風により、何百人もの人々が空中に巻き上げられ、石垣に顔と歯が叩きつけられたりしていたという証言もがあるようで、この現象は想像を絶するエネルギーを伴うものであり、「旋風」というよりも「竜巻」と表現した方が適切のような気がする。
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h2108/2108_24.pdf 



上の図は関東大震災の翌日の午前九時の段階で焼失した場所を赤く塗りつぶしたものである。焼失地域はこの日のうちに更に拡大したのだが、黒い○で囲った場所は焼けなかった。 この場所は神田和泉町と佐久町なのだが、この町内の人々は避難することよりも共同で消火活動に当たることで、町を火炎から守ったのだ。

『被害の激しかった下町地区の中で、ぽっかりと島のように白く浮かび上がる地域がある。一日午後四時ごろ、南風に煽られて神田方面から燃えてきた火は神田川南岸に及び、佐久間町一帯にも盛んに火の粉を振りまいた。この時町内の人々は結束して、避難よりも延焼を防ぐ努力を優先した。続いて夜八時ごろ、秋葉 原駅方面から襲ってくる火に対してもひるむことなく消火活動を続け、二日午前一時ごろには火をくい止めた。更に二日午前朝八時には蔵前方面から猛火で延焼 の恐れが出てきたが、長時間にわたる必死の消火活動の末、午後六時ごろまでに完全に消し止めた。実に丸一日以上に及ぶ町内の人々の努力が実り、この町を火災から守ったのであった。』(「新編 千代田区史」) 

この防火活動の感動的な物語が、「関東大震災のちょっといい話」というサイトに詳しく出ている。
http://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki2.html

町の大人たちが頭から水を浴び、ガソリンポンプ車を使って徹夜で火を食い止めた物語は多くの人に読んで欲しいと思う。こんな大規模な火事になれば電気はもちろんのこと、水道も断水して使えない。消防車も使えなくなる条件下で、住民がこのように団結して火と格闘して町を守ったことは、教科書に載せるなどして後世に伝えられるべきではないかと思う。



神田和泉町にある和泉小学校の脇には、この時の町の人々の消火活動を讃えた「防火守護地」と書いた石碑が建てられているそうだ。

関東大震災時に「火災旋風」により東京だけでなく横浜でも同様に多くの焼死者が出たのだが、詳しい事は良くわからなかった。



この時の横浜の火災区域の地図が見つかったが、横浜の市街地の大半が焼けていることがわかる。
次のURLでは東京と横浜の火災旋風の発生起点とその移動を示した図面が紹介されているが、「発表禁止」という赤い文字が横浜の図面にあるそうだ。おそらく長い間公表されてこなかったのではないだろうか。真実を一般に公表しないのは、昔も今も良く似ている。
http://www.ailab7.com/senpuu.html 

以上かけ足で関東大震災における火災を振り返ってみたが、今のわが国の都心部でこの大震災の教訓がどれほど活かされているかと考えると不安な気持ちになってしまう。
日本人の悪い癖で、嫌な思い出はなるべく早く忘れてしまおうとして、大きな被害が出た原因が充分に追及されないまま何世代かが入れ替わってしまって、今では、ほとんどの人は普段から何の準備も対策もしていないのが現実ではないか。

大正期よりかは家屋が燃えにくくなっているという人もいるかもしれないが、阪神大震災の時にも神戸市長田区で小規模ながら火災旋風が見られたらしい。
もし関東大震災のような地震が風の強い日に発生し、古くて木造の家屋が密集している地域の家屋を多数倒壊させたとしたら非常に怖い事が起こる。消防車は全国平均で人口10万人当たりに4.7台、東京では2.5台なのだそうだが、この台数では大規模火災の鎮火は難しいのではないか。

昔はいざという時に使える貯水池や貯水槽などがあったし、井戸のある家も少なくなかった。地域の消火用具も持っていたし、なによりも地域共同体が健全に機能して住民の団結があり、地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めるために機能することが期待できたが、それらのほとんどを喪失してしまった今は、住んでいる街をどうやって火災から守ることができようか。

大火災が発生すれば停電や断水が起こる可能性が高いし、消防署は一部を消火する能力しかない。水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために必要となり、水量不足となって蛇口からちょろちょろと出るだけでは使いものにならないだろう。
そのような悪条件下でも、住民が団結して、自主的に消火活動ができる地域が都心部にどれだけ存在するのだろうか。

先程のWikipediaには、最後に非常にいやなことを指摘している。

「東京湾を震源とする南関東直下地震が、 夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく 発生する可能性がある。」

今回の東日本大震災で東北地方の人々は何度も津波を経験し、同じ過ちを繰り返してきていると思った人がいたとしても、それは東京も横浜も同じなのである。また、関東大震災の被災経験から学ぼうとしない他の大都市も同じである。

東日本大震災を機に、都市の防災対策はどうあるべきか、あまりにもわが国の重要機能が集中している首都圏の脆弱さをどう改善させていくか、首都圏の機能分散化も含めて考えるべきだと思う。

次回は、関東大震災と津波などについて書いてみたい。

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コメント
 東京下町の町内会は凄いですね。自力で町内への類焼を食い止めましたから。「町民力」「市民力」と言うのでしょう。

 それをひるがえって今の自宅のある二葉町で考えてみても実に難しい。うちには91歳と85歳の両親がいるし、そちらのケアで手一杯です。息子の自宅は隣町ですので。

 「防災マップ」で消火栓の位置を表示しましたが、地盤沈下で水没すれば、無意味なこと。当時より耐火建築仕様になってはいますが、古い木造家屋も多いのは事実です。

 とても難しい。防災世帯調査をしましても、非協力的な世帯は町内会へも入会していないし、無関心。そういうひとたちまでどうこうという余裕は今の私にはありませんね。

「おせっかい」な下町の人情は、いざというときに役にタッ店エスね。うらやましい限りです。
 
 
大正期ならどこにも「地域共同体」と呼ぶべきものが存在していましたが、今はどの程度機能しているのでしょうか。東京の下町も昔のようにはいかないのではないような気がします。

自宅のすぐ近くで働ける場所が激減し、ほとんどが電車に乗って遠くにある企業に通勤し、またマンションなどが建って外からいろんな人が住みだして、今は都市部では「地域共同体」はほとんど消滅してしまったのではないでしょうか。

地方ではまだ商店街や地元の企業が共同体を支えているところがありますが、都市部において「地域共同体」が残っているのは岸和田だんじりや祇園祭など有名なお祭りを伝承しているような地域や、地場産業が強いような地域などに限られているような気がしますが、昔程の結束力があるでしょうか。

住んでいる地域に大きな火災が発生しても、人々が地元を愛しかつ結束力がないと、共同して火を消すこともできず、被災しても小さな利害対立が全面にでてきて、なかなか再興が前に進まないような気がします。

昭和の高度成長期に日本人は確かに豊かになったのですが、人々が和やかにかつ安心して住むために永年築いてきた世代間伝承の仕組みを喪失してしまったのかもしれません。
 
 
 「きずなの再生」というのが、3・11以降の日本社会のテーマかもしれません。

 ドアを閉めれば隣が何者か知らなくても社会生活ができるという、身勝手な都市生活が賞賛される時代から、再び「きずな」を深める時代になりつつあるかなとも思います。

 しかし実際には防災世帯調査に非協力的な人たちは町内には存在しているので、そういう傾向がでてきても、身勝手な都市市民の生活は変らないかもしれません。
 
 
けんちゃんさんも私と同じ事を考えておられるようです。私の言葉では「地域共同体」の復活ということになりますが、私の子供の頃には間違いなく存在した地域の人々との有機的なつながりがなぜ壊れてしまったのか。

一つはけんちゃんさんが指摘される、イオンなどの巨大商業施設。小売業の大幅な規制緩和がそれまで地域で循環していた経済を根こそぎ破壊して、今まで地域のお祭りやお寺や神社を支えてきた人々を経済的に疲弊させたこと。

一つは大企業優先の経済施策が地方の零細企業を疲弊させ、若い人の働く場所がほとんどなくなったために、地方から都心への人口移動が起こり、地方の高齢化が進んだこと。また地方に進出した大企業があっても、地方行事などとの関わり合いに消極的であることが大半であること。

もう一つは巨大マンションの建設ラッシュ。地域と関係のない人々が大量に流入し地域との関わりのない生活を始めていること。

穿った見方かもしれませんが、戦後GHQが一番破壊したかったのは、この地域住民の絆だったのかもしれません。この絆を崩壊させれば、国民から郷土愛を奪い愛国心を弱めていくことは容易なことですから。



「昭和三陸津波」の記録を読む

2011年04月09日 | 自然災害

昭和8年(1933)3月3日の午前3時ごろ、東北地方の日本海沿岸に震度5の地震が襲った。 震源は日本海海溝付近でマグニチュードは8.1と記録されている。

これといった地震の被害はなかったが、この地震から20分から40分後にまたもや大きな津波が沿岸を襲い、被害は岩手県中心に流失全半壊、焼失約六千戸、死亡・行方不明が三千人以上と言われている。この地震は前回書いた明治29年(1896)の大津波からわずか37年後のことであった。



前回の記事で紹介させていただいた「津波てんでんこ」(新日本出版社:山下文男著)に、「岩手県昭和震災誌」という本の文章が引用されている。

「人々は夢もなかばに驚いて起き出て、あるいは陰惨の空を仰いで、あるいは海を臨んで天災のなきかを懸念した。しかし、暫くして余震はおさまり、天地は再びもとのひっそりした夜にかえった。ようやく胸を安んじてまた温かな床に入り、まどろみかかろうとする時、海上はるかに洶湧(きょうゆう)した津波は、凄まじい黒波をあげわが三陸地方を襲った。

 見よ!ほのぼのと明けはなれゆく暁の光の下に展開された光景を。船端を接して停泊せる大小一万の船舶は、今やその片影さえとどめていない。軒を連ねて朝に夕に漁歌に賑わいし村落は、ただ一望、涯なき荒涼の砂原である。亘長八〇里(314㎞)、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の眺め豊かな海浜には哀れ幸いなくして死せる人々の骸(むくろ)が累々として横たわり、六親を奪われ、家なく、食なき人々の悲しい号哭(ごうこく)の声に満ちた」

では、この昭和8年の三陸大津波の波の高さはいか程だったのか。

前回書いた明治三陸大津波の時に最も大きい波を記録した岩手県綾里村の白浜の津波の高さは38.2mであったが、この時の記録は28.7mとかなり下回るが、やはり大きな数字である。
単純に双方の津波の高さを割ると昭和8年の津波の高さは明治29年の記録を100とすると75程度という計算になるが、山下文男氏によると他の被災地も波の高さの関係はその数字に近い値になるという。
例えば、田老村では明治が14.6mに対し昭和が10.1m、重茂村では18.9mに対し12.4m、釜石では7.9mに対し5.4mという具合である。

また山下文男氏は、浸水を除いた被災戸数についても、明治の数字を100とすると75程度の数字になるそうなのだが、死者数についてはどうかというと、これは津波の高さや被災戸数を考えると異常に少ないことを指摘しておられる。
明治の津波の死者は前回の記事で書いたが2万1千人であったが、昭和の津波では約3千人であった。確かに死者の数は、津波の高さや被害戸数の割には、幸いにも大きく下回っている。

死者の数が少なかったのは「不幸中の幸い」とも言えるが、この経緯について山下文男氏はこう書いている。

「明治の大津波から既に三七年も経って風化しかけてはいたが、それでも、ほとんどの家に、一夜にして家財を烏有に帰し、先祖の命を奪った津波の恐怖についての悲しい『津波物語』があって、親子の間で語り合われることが少なくなかった。…

 その体験者や津波の恐ろしさを聞き知っている賢い大人たちが、地震の後、氷点下4度から10度という厳寒の明け方にもかかわらず、自ら海岸に下がって海の様子を監視していた。そして異常な引き潮を見ると同時に、大声をあげたり、半鐘を叩いたりして集落に危急を告げて住民たちの避難を促した。この危急を告げる叫び声や半鐘の早鐘で、どれだけ多くの命が救われたか数知れない。」(「津波てんでんこ」p.89) 

「大船渡町では、消防の夜警たちが、震度5の地震の後、津波が来るかもしれないと直感、海岸通りを走って避難を呼び掛けている。そのためもあって大船渡では、明治の津波の時の死者110人に対して、55分の1の2人にとどまっている。」(同書p.90) 

一方、明治の津波の時に死者769人を出した唐丹村(現釜石市唐丹町)の本郷という地区では、325人もの死者を出している。
「何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしかその原因を探るに、本郷には明治二十九年の津波の遭遇者が少なく、ために海岸に下りて警戒する者少なく、大概平然として就床しあり、あるいは談笑しあり…。あの大地震の際不安を感じ、家財を背追いて高台に逃れしも、一度家へ来たりし時、古老曰く『晴天に然も満潮時に津波来るものにあらず』と頑迷なる言により安心をなし床にもぐりしと。警戒者も少なく(その後、引き潮を見て津波の襲来を教えてくれた人がいたけれども)寝つきし人なれば聞こえざりきか」佐々木典夫編「津波の記録」-昭和八年の三陸津波  (同書p.91) 

また、明治の津波で1800人以上が溺死した田老村(現宮古市田老町)も津波監視活動が見られず、昭和の津波でも900余人の死亡・行方不明者を出した地域だ。この地域では、明治三陸津波の体験談として「津波の前には井戸水と川の水が引いて空っぽになる」という話がまことしやかに伝承されていたらしい。そのために、昭和の津波の時に、せっかく逃げる準備をしながら、わざわざ井戸と川の様子を見に行って、変化がないのを確認して油断したという話が残っているそうだ。

岩手県は明治・昭和の津波襲来の浸水線を標準として、それ以上の高所に住宅を移転させることを決定し、津波後わずか二年そこそこの間に、岩手県だけでも集団的移転を含む約3000戸の高所移転が実現したそうだ。

例えば先程紹介した釜石市唐丹町本郷はこの時に山を崩して団地が作られ、この高台に移転した住宅は先月の東日本大震災の津波でも無傷だったようだ。ところが、土地がないためにその後低地に住宅が開発され、その50戸近くは今回津波の被害を受けたが、津波警報を受けてほとんどの住民が高台に避難し、犠牲者は1名が出ただけだ。



写真では高台にある住居は無傷で、低地の家が全壊している。



しかし現宮古市田老町は、昭和の地震の後、住宅の高所移転よりも防潮堤の建設という独自の道を選択した。戦争による工事の中断はあったが、昭和33年(1958)に、高さ10m、全長1350mという大防潮堤が完成。その後2433mまで延長されたのだが、先月の津波は非情にもその防潮堤の高さを超えて、田老町はまたもや大きな被害が出てしまったようだ。



今回の地震で田老町の津波の高さは37.9mというとんでもない高さだったそうだが、過去の記録では明治29年が14.6mに対し昭和8年が10.1mとなっていたので、10mの堤防を作ると言う選択は正しかったのか。
どんな大きな津波が来るかはわからないのだから、防潮堤などの施設だけでは津波を防げないと考えて行動すべきなのだろう。

漁業を営む人々にとっては、海に近い方が楽であることはわかるのだが、すべてを一瞬にして失う津波の怖さを思えば、野中良一前田老町長の提言のとおり「生産と生活の分離」「(土地利用の)規制」は必要なことだと思う。また、今回の津波で判明した特に危険な場所は、「規制」するだけでは遠い将来にわたって徹底することに限界があるので、国や地方が土地を買い上げるということも検討すべきではないだろうか。

今度こそ、数百年後に大きな津波が来ても人的被害がほとんどない町づくりを目指してほしいと思う。
そのためには住居や主要施設は高台に作ることを徹底し、低地は公園の他、一部の施設は残るも、津波に対して強い構造であり屋上や最上階に避難が出来る施設とし、津波避難シェルターも何箇所かに設置すべきだろう。
その上で津波の怖さと、そして津波の時にどう行動すべきかを、今後数百年にわたって新しい世代に伝承していく仕組み作りと、津波発生後の地域別の波の高さ、到達時刻の予測精度の向上が不可欠だと思う。
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NHKも東北の次は南海地震だということで、執拗に取材をしてきます。私の自宅と会社がある高知市二葉町は地震が来れば水没するどうしようもない地域だからです。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ced5.html

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat5681894/index.html

 まだ東北は逃げ込める自然地形の高台や山があります。二葉町には自然の高台は皆無。耐震の公共建築物も皆無です。

 その絶望的な地域ゆえに自主防災会を4ね年前に結成したときも苦労しました。結局町内の4階建て以上のマンションのオーナーと直談判し、協定を結びました。「災害時(津波)一時待避所」として、マンションの階段や廊下に近隣住民が24時間退避させていただくことです。

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat11908619/index.html

 1番新しい町内の穴吹工務店のマンションの管理組合はその退避を拒絶してきました。理由は「汚れるし治安に不安がある」ということ。呆れました。関係は断絶しています。

 なんとか町内に10箇所の一時待避所と、国道の橋を災害時要支援者待避所として認めてもらいました。

 NHKは「二葉町は地盤沈下して長期浸水するのにどうされるのでしょう」と執拗に聞きます。その問題は行政の対応の問題だと思います。ただこれからの話しですが、山間部の仁淀川町と連携しようと思っています。具体的な話はこれからですが、仁淀川町の野菜を二葉町で販売する。間伐ボランティアにいく。住んでいない家屋を借りる・などです。疎開先を日頃の交流でつくろうというものです¥」と言いました。

 月曜日にうちへ取材に来るそうです。そして22日の高知ローカルの番組で放映するようです。

 なかなか前途は多難なんです。東北のほうはある意味簡単です。高台があるし、奥尻島のように高台に住居をこしらえ、海で仕事をする体制にすればいいのですから。       
 二葉町の場合は街全体の移転を考えなければ根本的な解決にはなりませんから。
 
 
二葉町の位置を地図で確認しましたが、深刻に考えておられる理由が良くわかりました。

高知の事を何も知らない自分に、自信を持って言えるようなことはありませんが、山間部の仁淀川町と連携することは非常にいいことだと思います。仁淀川町の農産物は優先的に買って、間伐のボランティアという関係は素晴らしいです。

今回の地震で福島県や宮城県の農地の1割以上が耕作不能になったにもかかわらず、政府はどこにも米や農作物の増産指示を出していません。もうすぐ田植えの時期でありながら、これはおかしなことです。このままでは秋には国内で食糧が大幅不足になって、TPPの承認やむなしという方向に世論誘導がされることを懸念しています。

日本の農業を救うためには、都市生活者が農業生産者を理解してその活動を支援する。農業生産者は、良い状態で生産できた作物を協力者が中心に直接販売し、大手の流通ルートには良質な製品は流さないようにすることが一番いいと思っています。
また田舎の人々はなかなか都会で買い物をする機会がありません。高知市内の商店が共同で、仁淀川町の住民から電話やFAXの注文を受けてまとめて商品を届けるような仕組みを作ることも喜んでもらえるのではないでしょうか。
そのような都市と田舎との関係が日本各地で拡がれば、イオンのような業態は良質な農作物が入らず、客が激減して店舗の収支が成り立たなくなるはずです。

仰る通り、地盤沈下などの問題は行政の問題ですね。だけど行政に任せてもいつになるかわからないし、町毎移転するような話は難しい。いざという時に頼りになる地域と関係を構築することが民間でできるベストの選択だと思います。そのことが田舎を活性化させることにもなります。


自主防災会関係ブログには以下のことを書かせていただきました。

 仁淀川町と二葉町との交流事業について

 CSA農業支援事業。田舎の農業を都市部がサポート(直接野菜などを購入など)
文部科学省支援事業を活用しながら高知版CSAモデルにする。

 災害時の避難先・疎開先の確保も目的。費用はかからない。承認を受ければ、NPO法人土佐の森救援隊の中嶋健造氏が仲立ちすることになっています。。

 西森二葉町町内会長(酒屋・米屋)は「うちの店舗に仁淀川町の農産物を置き、販売することは可能です。ぜひ協力したい」とのこと。また森自主防災会会長も「うちの弁当屋で使用することも可能です。」と言われました。会議の参加者一同関心が深く、既に間伐ボランティアで荒木副会長や、福留幹事は仁淀川町とご縁があります。

 より親密な交流をしていこうと合意が得られました。具体的な交流の方法については、中嶋健造さんに連絡をし、交流していこうということになりました。

 同じ発音の福島県双葉町は原発にあまりに依存しすぎたまちづくりでした。まちづくりは「みのたけ」にあったことをしないと破綻します。

 CSAはコミュニティが農業をサポートするというしくみで、もともと日本から発祥しましたが、いまではアメリカが盛んで,逆輸入された考え方です。

 しばやんさんが言われるように、消費者がスーパーへ行くことを少し控えることです。知り合いのJASS認定有機栽培農薬農家も人も、スーパーに販売しているために、野菜を洗ったり、袋詰する作業に追われるとか。本末転倒なんですよ。

 ハゲタカ.イオンなんぞに優良野菜を販売する必要がないように市民が力を持たないといけないですね。
 
 
どんな生産者にとっても、消費者の顔がわかり、その喜びがわかるところに販売したいと思っています。もし田舎の生産者が都市住民とそのような関係が築くことができれば、大手流通対応に余計な手間をかけた上に安価に買い叩かれることもありません。

多くの都市住民が同様な関係を田舎と結ぶようになれば、大手流通に致命的なダメージを与えることは確実です。

イオンと言っても営業利益率は2%台です。仮に売上が1割でも低下すれば、赤字に転落する店舗が続出します。けんちゃんさんの嫌いなハゲタカを退散させることは、消費者の一部でも生産地と関係性を強化すれば、意外と簡単に実現できるような気がします。

前回コメントに書きましたが、今の流れでは政府の無策から秋以降に食糧不足になると思います。日本の製品を求める消費者が地域単位で生産地で繋がっていけば、大手流通は良質な農産物が一般消費者に供給できなくなりますし、売上はさらに縮小します。

地方の疲弊の問題の多くは、大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊するところにありました。消費者が前述した行動をとれば、世の中が大きく変わるきっかけになるのだと思います。
 
 
心強い励ましありがとうございます。
 出口のない防災対策をいくら考えても答えはなく、みなムードが暗かったんですが、「仁淀川町疎開案」「そのための日頃からの交流案」は、防災会役員の賛同があっさり得られ驚きました。

 案外進展するかもしれません。4月末から具体化しますが、なんだか少し希望がわいてきました。

 戦争中の疎開先を町ぐるみでこしらえる。町民同時の顔が見える交流でそれが実現すればそれにこしらことはありませんから。
 
 
防災対策は、自分の住んでいる地域を守るという対策と、自分の住んでいる地域にもしものことがあったらどうするのかという対策との両方が不可欠ですが、前者の対策に偏り過ぎればいくらコストがかかるかわかりませんし、他の地域とバランスがとれずになかなか意見がまとまらないでしょう。

他の地域と連携し、お互いの心配事を共有しお互いが助け合うことの方が、コストもかからず精神衛生上もいいような気がします。

どの地域も前者の対策にこだわってしまうのは、他の地域との交流がないために不安を覚えるからではないどしょうか。交流すれば、そのような不安は解消していくと思います。
 
 
こんにちは。
震災後の稿を続けて読ませていただき、三陸海岸の津波の歴史がよくわかりました。
私は「阪神・淡路大震災」を経験しており、この度の地震の映像を見ていると、地震そのものの“揺れ”の激しさだけを見れば、「阪神」の方が大きかったのではないかと思えました。
しかし、これほどたくさんの犠牲者を生んでしまった・・・津波に関しては、スマトラのときに見た映像は衝撃的でしたが、今回改めて、津波というものが如何に恐ろしいものかということを知りました。
前稿の明治29年の大津波が、実は震度3程度だったという話は驚きです。
おっしゃるように、歴史に対する認識が備わっていれば、助かっていた命はたくさんあったでしょうね。

前稿で紹介されていた、釜石市の小学生については、昨日の記事でより詳しく紹介されています。
http://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1104/13/news069.html
地域によっては、しっかりと歴史に学んで防災教育がなされていたんですね。
それが全ての地域ではなかったというのが、残念な限りです。

今回、被災者の方々が撮影された津波の映像がたくさんTVで映しだされ、その映像によって私たちも津波の恐ろしさを知ることができたわけですが、中にはかなり近くで撮影したものもあり、そう考えれば、他にも津波を甘く見て逃げずに撮影していて津波に巻き込まれた人もたくさんいたのではないか・・・と思ったりします。
ああいった映像が多く流されるというのも、考えもののような気がします。
 
 
津波は怖いものだと漠然と思っていましたが、自分があの時に北陸地方にいたとした場合に、とっさに高台に避難して助かっていたかというと、あまり自信がありません。
私も津波の怖さを甘く考えていたところがあり、もし現場にいたら、どちらかというと怖いもの見たさで津波を間近で見たいという衝動を持ったかもしれない性格なのですが、今回の映像を見て「逃げるしかない」ことを十二分に悟ることができました。

紹介いただいた釜石市の小学生のように防災知識を、今後何世代にもわたって叩きこむ教育がとにかく重要ですね。今回の大災害の経験を、決して風化させてはいけません。



震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波

2011年04月02日 | 自然災害

明治29年(1896)6月15日の三陸地方の夜は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎えて多くの村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわであった。またこの日は旧暦の5月5日でもあり端午の節句を親戚家族で祝う家が多かったという。
その日の夜7時32分頃に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表によれば震度2~3程度のもので、この地震に気がつかなかった人が多かったそうだ。しかし揺れは5分近く続いたという。

地震としての被害は全くなかったそうなのだが、地震後30分を過ぎた午後8時頃に、北海道から宮城県に至る太平洋岸一帯に突如として大津波が襲う。



この津波が北陸地方を中心に大被害をもたらし、この時の死者は岩手県で18,158人、宮城県で3,452人、青森県で343人、北海道で6人と合わせて22,000人近い数字にも及んだ。

津波の高さは、岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現・宮古市)で14.6m、同郡船越村(現・山田町)で10.5m、同郡重茂村(現・宮古市)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現・釜石市)で8.2m、気仙郡吉浜村(現・大船渡市)で22.4m、同郡綾里村(同)で21.9mと軒並み10mを超える到達高度を記録したという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87



岩手県綾里村の津浪は、38.2mという想像を絶する高さであったそうだ。
ネットで探した綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告) 

「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。晩暮帰潮に随って湾上に揚るもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり子の骸を抱き慟哭するものあり、多くは死体変化し父子だも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり。」



改めて書くが、これだけの大津波の被害が出ておりながら震度は2~3だったと言うのだ。 大きな揺れではなかったから、人々は津波を警戒しなかったところにとんでもない津波が来たために大きな被害が出たのだ。

山下文男氏の「津波てんでんこ」という本を読むと、津波の後、岩手県の釜石町長が郡役所に提出した報告書には「起災前、一、二回の震動アリタリト云フガ、甚ダ微弱ニシテ、知覚セザルモノ多キニ居レリ」と書かれているそうだ。(p.33) 
また当時の文書や記念碑の記述を見ると、事前の地震について記述しているものは大変少なく、いきなり津波の記述になっているものが大半だそうだ。このことは、地震の揺れそのものは大したことはなかったことを意味している。

こんな小さな地震でも大きな津波が来ることがあることを今回調べて初めて知ったが、明治の三陸大津波の時の地震の震度がこんなにレベルであったことをどれだけの人が知っているのだろうか。

このように、地震の規模に比して不相応に大きな津波を発生させる自信を「津波地震」と呼ぶそうだが、どうしてそのような事象が起こるのだろうか。

Wikipediaによると、こう説明がなされている。
「海底において地震が発生し、海底面に地震断層による地殻変動が現れると、それは海水の上下動を呼び起こし、津波を発生させる。通常は、津波を発生させる地震は大規模な地震であり、体感もしくは強震動地震計などにより、津波を引き起こした地震による揺れ(地震動)を感知することができる。一般的に断層運動の大きさ(モーメントマグニチュード)が大きいほど、地震動も津波の規模も大きくなる。
しかしながら、断層運動によって、地震動(揺れ)と津波(海底面の地殻変動に よる海水の上下動)がそれぞれ生じるのであって、地震動が津波を引き起こすわけではなく、地震動と津波は原因は同じだが別の現象であるともいえる。よって 地震動と津波の大きさがリンクしない場合もあり、極端なケースになると、体感もしくは地震計によって観測した地震動は比較的小規模であるにも関わらず、大きな津波が発生する場合もある。このタイプの地震を津波地震と呼称する。」

「大きな地殻変動が通常の地震よりも長い時間をかけて発生することで、有感となるような短周期の地震動をあまり生じさせることなく大きな津波を発生させるこ とで、津波地震となる。一般に地震断層の破壊伝播速度は、通常の地震ではおおむね秒速2.5~3km程度であるとされる。しかし津波地震では秒速1km程度の場合が多い。このような地震では強震動をあまり生じさせないが、津波の波源域は津波が拡散するよりも早く数分以内の短い時間で広がるため、津波が大きくなる。破壊伝播速度がこれよりさらに十分遅い場合は、津波の波源域が広がる前に津波が拡散してしまい、大きな津波も発生しなくなる。」

私は長い間「震度」と「マグニチュード」とは良く似たものだと解釈していたが、調べると「震度」とは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」で尺度は何種類かあるようだが、日本では気象庁が定めた尺度を用いているそうである。
ということは、同じマグニチュードの地震であっても、震度の測定地点が震源からその地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わると言うことである。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/sindo.htm 

もし震源地の地盤が軟らかければ、大きなマグニチュードの地震であっても震度が低くなることがあるということは重要なことだと思うのだが、あまりこういう事実は伝えられていないような気がする。
冒頭に書いた明治三陸大津波をもたらした地震の震度はわずか2~3程度であったのだが、マグニチュードは8.6程度と推定されているそうだ。「津波地震」の怖さは、もっと良く知られる必要があると思う。

「津波地震」の事例としては、この明治三陸地震津波のほかに、慶長10年(1605)駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフを震源とする慶長大地震もそうらしいのだが、この地震の記録は残念ながらほとんど残されていない。

はじめに「津波てんでんこ」という本を紹介したが、この「てんでんこ」という言葉は、「てんでばらばらに」という意味だそうだ。では「津波てんでんこ」というのは、津波が来た時は、家族や友人のことは一切構わずに、一刻も早く逃げなさいという教えなのだそうだ。 多くの災害では親は子を助けたり子が親を助けたりするのだが、津波の時はそのような行動をとると共倒れになるケースが多い。地域単位で犠牲を最小限にするためには、一人ひとりが「てんでんこ」になって少しでも高い所に逃げることによって、共倒れの悲劇を防ぐことがベストの選択になると言う昔からの言い伝えなのだ。

時事ドットコムニュースに、この「てんでんこ」の考え方で釜石市の小学生が高台に登って助かったとの3/11付けの時事通信社の記事が掲載されている。
https://www.jiji.com/jc/d4?p=flo100-jlp10703948&d=d4_quake


今回の東日本大震災で多くの犠牲者が出たが、もしマグニチュードが同程度でありながら震度が3程度の「津波地震」であったとしたら、どれだけの人々が高台に逃げようとするだろうかと考えるとぞっとする。



津波の画像を何度かテレビで見たが、津波のスピードはかなり早く、津波に気付いてから高台に登るのでは間に合いそうにない。

地震予知が正確にできる時代が来れば話は簡単だが、当面そのような時代が来そうにない。ならばせめて、海面や海中や海底のどこが適切かよくわからないが、海にいくつかのセンサーを設置して、津波の発生をとそのエネルギーや津波速度等を測定して、どの程度の津波がいつ頃どこに到達するかを正確に予想することが出来ないものだろうか。それが出来れば、多くの人の命を救うことが出来るのではないか。

次のURLを読むと、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に「大津浪記念碑」が建てられているそうだ。

写真の記念碑にはこう書かれている。

「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に 家を建てるな。
 明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来ては全滅し、生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。」
http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-1606.html 

明治29年、昭和8年の大津波の生存者が後世のためにこのような石碑を建てたにもかかわらず、津波を知らない世代がこの場所より下に家を建てていく。そして今回もまた大災害が繰り返されてしまったのだ。

これからは被災地の復興がわが国の課題となるが、今度こそはこの石碑を建てた先人の警鐘を受け止めて住民が安心して暮らせるよう、高台に学校や役場や住宅を建てて海の近くに低地は公園のほか農業用地、太陽光発電プラント、漁業関係者がいざという時に避難可能な高層の津波シェルターなどを配置するなどの再興プランをしっかりと立てて、今後もし津波が来ても、それが津波地震による津波であったとしても、後の世代がこのような悲惨な結果にならないように智恵を絞ることが、この怖ろしい津波を体験した世代の責務だと思う。
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 津波てんでんこは先人の知恵でしょう。高知の海岸にも各地に津波の慰霊碑や、到達点の碑があります。

 私がヨットで活動している香南市夜須でも、20メートルの高さに津波が来たという神社があります。江戸時代のことだそうでした。

 津波は難しいです。昨年などチリの地震の時に、津波警報が出るのが昼であると聞いていたので、午前中は海で遊べると思いぎ装してました。アホーです。

 結局9時半に津波警報が出ましたので慌ててぎ装解除したぐらいです、いかに自分が「おろかであったと思います。

 でも今回あの映像を焼き付けておけば、津波の怖さが皆わかったことでしょうから。

 でも揺れが小さいのに大津波が来ることは怖いです。対策のたてようがありません。
 
 
リアス式海岸や遠浅の海岸は津波に弱いと言われますが、高知県で20mの高さの津波の記録があるとは知りませんでした。江戸時代というと前々回の記事で書いた安政南海地震なのでしょうか。

私も、今回地震の映像を見て、想像していたよりも津波がはるかに怖いものであることを思い知りました。
また、揺れが小さくともとんでもない津波が生じることがあるということも、今回調べて初めて知りました。こんな津波を逃れるためには、人間の感覚や直感だけでは限界があります。

素人のくせに偉そうなことを書いてしまいましたが、地震の予測はできなくとも、地震が起こってからの津波の予測はもっと正確に出せるのではないかと以前から思っていました。それが出来れば、適切に避難命令が出せて津波の被害を最小限にできるはずです。若い地震学者や物理学者らにチャレンジしてほしいものです。

 高知県や徳島県の海沿いの市町村には、かつての南海地震での大津波の形跡を示す碑やいましめる碑が多くあります。図書館で「歴史探訪 南海地震の碑を訪ねて 石碑・古文書に残る津波の恐怖」(毎日新聞高知支局・2002年刊)を読みました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-f3d0.html

 10年ほど前の出版物でしたが、先人のいましめを軽視せず、きちんと検証しなkればいけないとつくづく思いました。

 福島原発は先人の戒めを軽視した結果の大事故となったのです。
 
 
 香南市夜須町の神社に残る津波の慰霊碑へ行きました。3年半前に行ったようでした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2320.html

 この種の碑は高知県の各地にあるようです。
 
 
三陸海岸だけでなく高知にも同様な石碑があるとは知りませんでした。

大津波を経験し九死に一生を得た名もなき人々が、被災して多くの資産を失いながら、後世の人々に警鐘を鳴らすために私財を費やして建てた石碑の意味をもっと噛みしめないといけませんね。

そのうえで、津波の怖さを次の世代にきちんと伝えていくことと、津波が来ても少ない被害で済む町づくりを推進していくことが重要だと思います。
 
 
 技術者というか科学者であるヨット仲間の先輩は、福島第1発電所の罹災の報道に、即座に「これはチャイナ.シンドロームになるよ。」と言われました。

 結果はそのとうりに。しかもスリーマイルやチェルノブイリは原子炉が1つの罹災でしたが、「福島第1原子力発電所は、GE製の性能のよくない原子炉が狭い敷地に並んでいる。1つの原子炉のトラブルが6倍になるわけで、設計思想が間違っていますね。」

「しかも津波の予想を異常に低く見ていた。これは技術者として失格。なんか絶対に津波は来ないという根拠のない自信にとらわれていたのでしょう。それだけで失格。」

「地下に電源を設置するのもおかしい。そうであれば防水処置はできたはず。原子炉自体は地震では安全に停止したのだから。それはいいが、冷却装置が破損すれば原子炉が危機に成るシナリオは原発設計者や運転者にはなかったようですね。完全な技術的な欠陥以外何者ではない。」

「ロボットをドイツから借りるそうだが、原子炉作業は危険なので開発してなかったことが信じられない。下請け、孫受けの原発労働者を安く雇用できるので、開発を怠っただろうね。怠慢以外ないね」といわれました。

 彼によれば「想定外」ということはありえない。大津波が仮に来ても冷却装置が破損しない工夫は可能であったはず。技術的な失敗を隠すための言い逃れに過ぎない。」といわれました。

 「1000年に1度の地震や津波」に日本の原子力発電所は耐えられるのか?検証を至急すべきでしょう。検証の結果耐震補強が無理であれば、原子炉を廃棄していくしかありません。

 思い上がった技術屋が昔の人たちの「言い伝え」を一笑に付し「原子力発電は120%安全」と強弁した結果が、今の悲惨な事態を招きました。本当に許されないことです。
 
 
中部大学武田教授がテレビでわかりやすく説明しています。
はじめから原子力発電所が安全性に万全を期して建設されているわけではないことは浜岡原発の立地を見れば明らかですし、今回のケースでも事故が起こった場合のことをそもそも想定していないことがよくわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=gW8pfbLzbas&feature=related
 
 
武田教授の説明わかりやすかったです。さっそくわたしの個人ブログにも貼り付けました。

 わたしのヨット仲間で、元国立大学教授の人がいます。専門は原子力ではありませんが、武田教授とほとんど同じ事を言われていました。

 科学者に「想定外」なんてことはありえないと。昔の古文書に大津波の記録があるならば、当然それを「想定した施設の設計をするのが科学者だろうにと。変な自信と思いあがりがあったんだろうね・と。

 しばやんさんが言われるように、昔の人が津波の記録を後世に残し、戒めとしたのに、現在の私達がないがしろにすればいけないのです。
 
 
今回のことで恐らく政府は、ほとんど東電に責任をかぶせるのでしょうが、想定津波2mレベルでの設計を許可した国の責任が一番重たいはずです。

武田教授の説明を聞いて、原子力発電推進派の無責任体質に腹が立ち、いくら日本の技術が優秀でも、こんな連中に原子力の許認可や推進を任せるわけにはいかないという気持ちになりました。

この連中の思考の原点はつまるところ自己保身で、自分に責任が及ばないように逃げることばかり考えている。
連中を全員福島に強制的に居住でもさせなければ本気で現地住民の安全性の確保を考えてくれそうにありません。
 
 
 関西は福井県にたくさん原子力発電がありますね。あそこは地震の巣。直下型地震の発生地域になります。

 今後日本では原子力発電は震度7で、30メートルの大津波でも耐えられる条件でなければ、稼働を許可しないようにしないといけないでしょう。でもそれでも100%安全ではありません。

 今回の事故では、テロリストに格好の材料を提供しました。原子炉がいかに丈夫でも、冷却水と電源を断てば原子炉はメルトダウンすることがわかりましたから。ミサイルで攻撃しなくても簡単に破壊できます。 

 地震・津波・テロには原子力発電所は弱いと思いました。
 
 
福井県よりも浜岡の方が危険という人もいますが、どちらも海から近く、海抜の低い位置に重要施設が設置されているという点は同じです。

大きな津波であっても、水深が深い位置で操業していた漁船が被害に合わないケースが多いように、深い海では高さ30mの波と遭遇するわけではありません。
三陸海岸で津波被害が多いのは、つまるところリアス式海岸の地形であることと関係があります。
今回の津波で被害の大きかったところは、陸に深く入り込んだ入り江でのような地形のところや、海の深さが急激に深くなるような場所がほとんどですね。

ですからそのような危険な地形でなければ、必ずしも30mの津波までの想定が必要なわけではないと思いますが、炉だけでなく非常用電源や冷却装置などはすべて安全な高さに設置されていることが必要ですね。
非常用電源の移設が望ましいと考えられる発電所は早目に工事をお願いしたいところです。

それができなければ、通産省の天下り役員は全員原発の近くに住ませれば効果てきめんだと思います。
 
 
現実論でいくと原子力発電をただちにすべて廃炉にすることはできないことでしょう。でも存続させるためには、1000年に1度の大地震と津波に耐えられる補強ができるところはとりあえず残し、無理なところは廃炉にする。          
 原子力安全委員会が権限がないのが問題。厚生労働省や環境省からも人員を出し、委員長に共産党の国会議員である吉井英勝氏(京大工学部原子核工学卒)の人を任命することをしないといけないでしょうね。

 吉井氏の話はとてもわかりやすい。原子力といっても「湯川秀樹博士にあこがれていた」という人だけに、冷静沈着に話されるのでとても落ち着いて話が聞けます。

 何を言っているのかいまだにわからない原子力学者をTVに出さないでほしい。
 
 
廃炉は簡単ではないですね。廃炉してからも安全になるまで、何十年も管理する必要がありますし莫大なコストがかかります。
そもそも原子力発電所は将来廃炉を検討されるような場所に作ってはいけないものであったにもかかわらず、危険な場所にいっぱい作ってしまいました。しかも、需要地とは関係のない場所に作ってしまうというのは一番危険な発想です。東北の方はほんとうにお気の毒です。

もし、東電が千葉県や茨城県に発電所を作る場合なら、万が一の場合は首都圏にまで影響が及びます。その時はガチガチの安全対策を施さなければ作れないでしょう。それと同じ思いで、福島の原発を作るべきだったのです。地域住民と運命を共同にする覚悟なしでは、どんなメンバーでも信用されないでしょう。

危険な場所から遠く離れた安全地帯でいくら議論がされても地元の人は信用できないでしょう。保安院も、安全委員会も原子力施設の中にでも作って、メンバーも地元民と共に住むくらいの覚悟がなければ、前に進まないような気がします。

東日本大震災直前まで、TVや新聞媒体を活用した電力会社や電気事業連合会の宣伝量は物凄いものでした。

 有名タレントや評論家(勝間和代など)を動員し、「原子力は環境にやさしく安全」「オール電化住宅は環境にやさしい」「経済のことを考えたら原子力発電でしょう・」と夜遅くのTV番組などほとんどこの種のCMでした。

 福島第1原子力発電所の大事故は未だに収拾のめどさえたちませんが、タレントも評論家も姿が見えなくなりました。歯切れの悪かった民放TV局も最近はようやく原発災害問題を本気で取り上げるようになりました。

 先人の諌めや教訓を無視した開発がいかに被害をもたらしたのか。あまりにも大きな犠牲でした。

 他人事ではなく、南海地震を迎えなければならない高知市に住むわたしなどどうすればよいのか思案中です。
 
 
高知市に限らず、東京も大阪も、低地に住宅が密集しています。日本の都市の多くは津波を想定せずに開発が進められていると言っていいでしょう。

かといって、今の大都市に設備投資して津波に強い町に変えることはほとんど不可能です。できることは、津波が来た時に、どの場所なら避難可能かを予め知ることと、20分以内にその場所に逃げることしかできません。避難場所は自然の高台だげではなく、ビルの4~5階以上のスペースや屋上を含むことになると思います。

収容可能なスペースがどれだけ存在し、それを近隣住民と近隣の勤務者とどう配分するかを予め決めることが必要な地域もあるかもしれませんね。



飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

2011年03月26日 | 自然災害

「日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。



「日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

「日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html 

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。



ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。



だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。 
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大地震や大津波の記録は古くからあり、奈良時代にも高知は大津波が襲来し、いくつもの集落がなくなったとか。たぶん東海・東南海・南海地震がトリプルで起こり、今回の東北関東大震災規模であったとか。  

 その津波の記録は中国にも記録されているとか。高知大学の岡村眞教授は、古文書と地質調査を繰り返し、堆積層と昔の言い伝えなどを分析し、南海地震は100年周期に来ると言っています。

 しかし県や行政の想定は、せいぜいここ100年の記録で被害予想を立て防災計画をたてています。

 酷いのは原子力発電所です。古代からの地震の記録を詳細に調査すれば、地震列島の日本では原子力発電の立地が無理であったことは明らかです。

 彼らは逃げ口上に「想定外の津波があった」と言いますが、昔の伝承や記録を丹念に調べれば、すべて「想定内」の出来事なのです。たまたま原発が作られた日本は大地震がなかった50年だったんです。

 奈良時代には原子力発電所はありませんでした。実に厄介な制御不能な怪物を創り出したものです。s¥そうすればいいのでしょうか。
 
 
原子力発電のような施設は、過去最大の地震や津波があっても安全性が確保できるように設計されていなければなりません。「想定外」という言葉を何度も聞きましたが、これは「少々のリスクはあっても、発電所を作ることを優先した。住民にもしものことがあった場合の事は、何の対策も打っていなかった。」言っていることと同じです。

日本の原発は、ほとんどが海沿いにあり、津波に耐えられるかどうかは非常に心配です。特に浜岡原発などは、東海地震の震源地に近い所に建っており、立地からしてもかなり危険に見えます。

今回のことで、原子力発電所は二度と作れなくなるでしょう。危険な原発は廃炉を要求する住民運動が起きてもおかしくありません。

そうなると日本の電力供給が不足することになりますが、まずはバカな鳩山前首相が公約したCO2の25%削減をこのタイミングで反故にして、八ッ場ダムの工事も再開し、各戸の太陽光発電や冷暖房のガス利用等を推進して、電力の原子力依存を漸次減少させていくしかないように思います。
 
 
 そうですね。太陽光発電はもともと日本は世界1だったのに、原子力を優先したために、追い抜かれました。      

 世界に対して「日本は原発を廃止することにしました。しかしそれには最低30年はかかる。またエネルギー不足になると産業技術が維持できなくなり、世界に貢献できなくなります。

 10年間時間をいただきたい。その間火力発電所の建設を認めていただきたい。10年間の間に、太陽光、風力、バイオマス、地熱、潮力、水力などのエコな発電比率を高めます。

 同時に家庭用と業務用の蓄電システムを開発します。節電に努め、日本を地球にやさしい国に作り変えます。そういうことで世界の皆様ご理解をお願いします」とやるべきでしょう。

 でも菅直人首相では無理です。原口前総務大臣あたりが出てくるのでしょうか?

 ともかく1000年来の地震と津波の記録を全国的に再調査すべきでしょう。
 
 
私は風光明美な日本に水力発電のプロペラはあまり勧めて欲しくないという考えですが、原子力に頼らなくとも発電できる技術がこれから出てくる可能性を感じています。
例えば、オーランチオキトリウムという藻類は、かなり有力だと聞いています。培養には広い土地が要りますが、設備に大きなコストが要りませんので、今回被害にあった土地を使い、被災地の方を雇用して軌道に乗せれれば理想的だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

また、今回の災害で、企業は単一の電力会社にエネルギーを依存することの危険性を認識したはずです。生産施設の分散と自家発電化を進めていくものと思います。

また家庭レベルでも、企業と同様の理由で、太陽光発電の利用を進めていくことになると思います。

電力会社は役所以上に役人体質であることが良くわかりましたから、彼等にあまり仕事をさせないように企業や消費者の行動を変えていくことが重要です。
 
 
電力会社やNTTやJRや日本航空などは、民間企業でありながら顧客志向ではなく官僚的な硬直した会社でしょう。でなければこれほど大きな致命的な事故は起きないでしょうから。

 市民団体の津波に対する懸念を撥ね付け「原発は120%」安全だとか強弁してきたのですから。更に悪いのは、民間企業には役所のように情報開示請求をしても開示義務はありません。ですので責任追及ができないのです。

 株主総会へ乗りこんで発言するか、株主代表訴訟をするていどのことしかできません。1私企業に首都圏3000万人を人質にとられたも当然ですね。これでは困ります。

 しばやんさん推薦のオーランチオキトリウムは面白いですね。私らのグループも「アブラギリ」という燃料になる樹木の植林作業を推進しています。

http://itc-tosa.cocolog-nifty.com/blog/
 
 
「アブラギリ」という植物は初めて聞きましたが四国や九州の温暖な地域には面白そうですね。

オーランチオキトリウムはずっと前にテレビで知ったのですが、Wikipediaでは日本の年間石油消費量を賄うためにたった2万ha(200平方キロ=福島県の1.45%の面積)もあれば良いというのなら、放射能汚染で農業もできないようなところに生産許可を与えたり、津波被害で二度と家が建てられない空き地を政府が買い取ってその場所をオーランチオキトリウム培養のプラントにし、そこで被災者を雇用するなりすれば、充分被災地が立ち直るきっかけになるのではと個人的に考えていますが、単なるアイデアだけで何のコネもありません。

こういうことは、あまり大資本にやらせたくないですね。



「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実

2011年03月19日 | 自然災害

小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。
この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。

五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。
稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。
そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。


この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。 中井常蔵氏の「稲むらの火」の全文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/inamura.htm
ラフカディオ・ハーンの「A Living God」の日本語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/ikerukami.htm 

いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。

私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。

もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。

ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、ネットでいろいろ調べると、濱口儀兵衛が書いた手記が見つかった。
次のURLに濱口儀兵衛の手記の口語訳が掲載されているが、この手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/goryosyuki.htm 

安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。

「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。

  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」

と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。

「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」



というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。

ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。

この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。

いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。



濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。



濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。

その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。

濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。



この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。

儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。

濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。 ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。

今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。

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BLOGariコメント

こんばんは。  

しばやんさんのブログは新しいエントリーがあがるたびに拝見させていただいているのですが、なかなかコメントを残すことができず読み逃げさせていただいちゃっています ^^;  いつも読み応えのあるエントリーで、「ほぉ!」「へぇ!」と唸りながら、同時にしばやんさんのエントリーで初めて知ることができたことが多いが故に思わず本を手に取ったりPCに向かって検索を始めたりしています。

今回のエントリーはこんな時だけに、ご紹介いただいた濱口儀兵衛さんの偉大さに感銘を受けました。 

>地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今まさに起こっていることに対処すること、そしてそれに留まらず、一歩先、数歩先を見越して行動ができる人。  人を動かすことができる人。  そういう人が今ほど必要とされている「時」はないような気がします。
 
 
いつも私のブログを読んで頂き有難うございます。

ずっと昔愛読していた本が、たまたまKiKiさんのブログで紹介されているのをみつけ、話しかけるようなわかりやすい言葉で簡潔にまとめられるKiKiさんの文章に感心しました。それ以来KiKiさんのブログを時々覗くようにしています。

今回の地震は長期間の影響は避けられませんね。
大阪も一部消費者の買いだめ行動のために品薄になっている商品が出ていますが、東京はもっと大変なようですね。
仕事もガソリン不足や計画停電などがあれば、満足にできないのではと思います。

大きな災害が起きたことは仕方がありませんが、災害が起きたあとにやるべき事が充分にできているのでしょうか。
支援物資がいくら集まっても、どこかがリーダーシップをとり被災各地の情報を集約して被災者に適切に分配される仕組みを作ることが必要です。あわせて、今後何年かけて東日本の復興を図るのか、そのグランドデザインが描けていなければなりません。
今の日本は、「稲むらの火」の物語ではなく、濱口梧陵の事績から学ばなければならないと考えています。
 
 
今回の東北・関東大震災の揺れや津波は、私の地域では他人事ではありません。しばやんさんがとりあげられた南海地震がもし起きれば、私の地域はひとたまりもありません。

 海に近く、海抜0メートル。想定震度は7.地盤は最大2メートルも沈下。地盤は液状化し、そのうえに津波もやってくる。近くには石油タンクもあります。とても生存できる地震はありません。

 稲村の火の話は地元で4年ほど前に自主防災会を組織し始めたときに知りました。実話はしばやんさんが、後のほうでご紹介された逸話ですね。

 防災関係でアドバイスをくれている友人が「稲村の火は紙芝居を内閣府が貸し出ししているぜ」とも言ってくれています。

http://npowagaya.blog.ocn.ne.jp/nisiyann/2006/01/post_c2af.html

 自分も手に入れて地域の自主防災会にも貸し出しているようです。

 ただうちの地域は逃げ込める高台も山がありません。もっと深刻です。それで自主防災会と3階建て以上のマンションの所有者と交渉して「災害時1時待避所」として階段や投下に退避させていただく協定を町内の10箇所に退避場所をつくりました。

 2年後に地域に市民図書館分館がようやく立て替えに成、そこの3階に防災備品が置けるようになりました。それでも不十分です。

 この稲村の火のモデルになった人は、有効需要の原理をそのまま実践された経済人でもあるし、本当に尊敬できる数少ない人であると思います。
 
 
日本人は嫌な思い出を忘れようとしがちで、地震や津波の怖さを世代から世代に伝えてきているのは広川町のようなごく一部の地域しかないようです。
教科書に「稲むらの火」を復活させる動きがあると聞きましたが、地震の怖さを学ばせるには確かに良い教材だと思います。今回の津波の画像も、これからの世代にしっかり伝えていく必要がありますね。

高知市がそんなに地震や津波に深刻な影響が出ると言うことは初めて知りました。自然の高台がなければ、ビルやマンション避難できる体制と、非常用物資を備蓄する体制は必要ですね。
津波の規模によってどの地区にどの程度の影響が出て、被害を最小限にするためにはどのような投資が必要かなどを考えておくことがあとあと役に立つと思うのですが、政治家がもっと動いてくれないと困りますね。

高知市は壊滅的な被害が想定される都市の1つです。市街地2800ヘクタールが水没し、罹災者は13万人と想定されているからです。

 自主防災会は4年前にこしらえました。私が1番「若手」なので、ブログなど情報班長をしています。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/

 過去ログです。

http://futaba-t.cocolog-nifty.com/

 「棄民」ではないかと思っています。
 
 
津波の規模にもよると思いますが、凄い数字に驚きました。

今のタイミングで、高知市民に広く知っていただいて対策の必要性を共有するところからはじめないといけませんね。

高知に限らず、大阪市や東京都、横浜市等の大都市も同様な問題があるのでしょうが、けんちゃんさんのような取組みをどれだけしているか良くわかりません。地域共同体の機能を失ってしまったこのような大都市の方が、大災害には脆いような気がします。

はじめまして。大阪在住のようこと申します。
昨日、ふと思いついて、湯浅で下車し、観光協会で自転車を借りて広川町の方まで行ってみました。
それで、興味を持ち、検索してこちらにたどりつきました。
湯浅、広川近辺でカルチャーショックを感じたのは、やはり過剰なほどの堤防と、そして、狭い港いくつかにひしめくように入っている小さな漁船。それを護るためと思われる開閉可能な水門でした。
このあたり、びっくりするほど海抜が低いのですよねえ。
ここは何メートルですと電柱などに書かれているのですが、高い所でもせいぜい5メートル。
津波が来たら、ひとたまりもないです。
町役場の前には濱口儀兵衛の像があり、駅などにパンフレットも置かれてました。
資料館などもあり散歩コースも整備されています。
興味を持たれた方は、いちど、行ってみられるとよいと思います。
いろいろと参考になる小旅行でした。
 
 
ようこさん、はじめまして。コメントありがとうございました。

3年前に湯浅に行きましたが、醤油屋を見学して食事をしただけでした。その当時は、すぐ近くの広川町に濱口儀兵衛の像や資料館があることは知りませんでした。

地震や津波のサイクルは人間の生命よりはるかに長いために、どこかの世代が次の世代に伝えることを怠ると、また同じレベルの大災害が起こってしまいます。そうならないように、昔の人はいろんな記録を残し、石碑に書きこんだりして注意を促したのだと思いますが、津波の怖さがもっと広く理解されていればもう少し人的被害が少なくできたのかもしれません。

昔の文章は今の日本人には分かりにくいかもしれませんが、今回の大震災は津波や地震は数多くの画像データがあるのですから、これらを用いて末永く伝えていくことが、現在を生きる世代の責務だと思います。
 
 
たいへんよくかけていて
感激しました。


7代目浜口儀兵衛の行いは
「リビング・ゴッド」以上の生ける神である
という考え方に基づいて
わたしも小論文を書いてみようという気にさせられました。
 
 
悠々美術館通信さん、コメントありがとうございます。

この記事を書いてから、もう3ヶ月にもなるのに、被災地ではまだ仮設住宅すら満足に建たず、今も避難所で多くの被災者が避難生活をしています。
あまり時間をかけ過ぎては、地域を支えていた仕組みや人と人との繋がりがどんどん崩れていってしまいます。時間をかけるほど、元に戻すことが難しくなると思うのですが、今の政治家のやっているのを見ていると悲しくなりますね。
濱口儀兵衛は「稲村の火」の話よりも、実話こそがもっと知られるべきだと思っています。濱口儀兵衛小論文、期待しています。
 
 
濱口儀兵衛はドラマ「仁」に仁先生のスポンサーとして登場していますね。実在の人物と初めて知りました。津波のことを後世に伝えるのに書くことのできない人物ですね。
 
 
ynakadaさん、コメントありがとうございます。

最近テレビドラマを見なくなったので、「仁」のストーリーは知らないのですが、番組のホームページを見ると実在の濱口儀兵衛とは異なる人物像として描かれているようですね。

実在の濱口儀兵衛はもっとすごい人物だと思います。
今回の地震を機に、もっと知ってほしいと思って東北大震災の後にこの記事を書きましたが、8か月近くたっても多くの人に読んでいただいて嬉しいです。 



アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉

2010年04月19日 | 自然災害

アイスランド南部のエイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山が14日噴火し、火山灰が風に乗って南東方向に広がり16日には欧州北部の上空を覆ってしまった。



ジェットエンジンが火山灰を吸い込むとエンジンが停止する危険性があるため、英国をはじめ欧州各国で空港が閉鎖されたり、旅客機の運航が停止されたりしている。

4/17(土)の日経新聞朝刊に気象庁・火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長のコメント欄が目に入ったのでなんとなく読んでみると、すごく気になることが書いてあった。

「… アイスランドでは1783年に大きな噴火が起き、8ヶ月ほど続いて酸性雨や冷害などの影響で凶作になった。牧草が枯れ家畜が死んだり世界の気温が下がったりした。」 「日本で天明の大飢饉が起こったのも、この噴火が影響と言われている。今回の噴火も、仮に(噴火口の)割れ目が広がるなどして長く続くと、日本に同様の影響が出ることも考えられる。」(引用終わり)

天明の大飢饉アイスランドの噴火の影響だったとの記事は初めて読んだ。浅間山の噴火が原因だという説明を何度か読んだことがあるが、日経新聞の藤井氏のコメントが正しいとすれば、今回のアイスランドの火山爆発が長引けば日本の農業にも深刻な影響を与える可能性があるということになる。地球の裏側の出来事がそんな影響を及ぼすものだろうか。

天明の大飢饉をネットで調べてみると、いろんな記事が見つかった。確かにこの時期は火山爆発の多い年だ。

Wikipediaなどの記事をまとめると、まず1783年6月8日にアイスランドのラキ火山が爆発し溶岩の噴出は5カ月続いた。次いでアイスランドのグリームスヴォトン火山も1783年から1785年にかけて噴火している。噴煙は高度15kmまで達し成層圏まで上昇した粒子が地球の北半分を覆い、日射量を減少させて、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因になったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある、と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89

ところで天明の大飢饉は天明2年(1782)から8年(1788)の7年間にかけて発生した飢饉である。
日本では天明3年3月12日に岩木山が噴火した記録があるが、浅間山は天明3年5月9日から8月5日まで約90日間活動し、7月28日には江戸で降灰があった記録や、8月3日には銚子の降灰があったなどの記録があるようだ。



ここまで調べてみると次の疑問点が浮かび上がる。
<疑問点1>天明の大飢饉はアイスランドや浅間山の噴火の1年前(天明2年)から始まっているのにもかかわらず、なぜ火山の噴火が飢饉の原因だというのか。
<疑問点2>なぜアイスランドの噴火が地球の裏側の日本にまで影響を与えることになるのか。
<疑問点3>浅間山やアイスランド噴火が終わってから、飢饉がそれから何年も続いたのはどう説明できるのか。

<疑問点1>は火山以外の原因なのだろうが今のところよくわからない。<疑問点2>は、いろいろ調べていくと「エアロゾル」と「日傘効果」という言葉に辿り着いた。

この点についてたとえばWikipediaの解説によると、
エアロゾル」とは大気中を漂う塵や埃などの微粒子のことを言うが、エアロゾルが多いほど地表に届く太陽放射の量を低下させるのと、エアロゾルを凝結核として作られる雲が増加し、同様に地表に届く放射量を減少させると考えられている。

「火山の噴火の場合、二酸化炭素などの温室効果ガスがエアロゾルとともに放出され、気温の低下が著しくなる。また、火山の大噴火の場合はエアロゾルが成層圏まで達し、成層圏の強い風によって地球全体にエアロゾルが拡散するために、地球規模で地上気温の低下が起こる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%82%98%E5%8A%B9%E6%9E%9C

また、次のサイトではアメリカに影響が出たのは噴火の翌年であったことが分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AD%E7%81%AB%E5%B1%B1

「北アメリカの1784年の冬は、長く、寒かった。ニューイングランドでは大雪になり、チェサピーク湾では氷点下の日が記録的に続いた。チャールストン湾 (en) ではスケートができるほどだった。南部も雪雲に襲われ、ニューオーリンズではミシシッピ川が凍りつき、メキシコ湾にも氷が浮かんだ。」
と影響がアメリカ大陸にも及んだことが記されているが、これはひょっとするとアイスランドのラキ火山よりも浅間山の噴火の影響の方が大きかったのかもしれない。

<疑問3>についてはたとえば気象庁の解説によると

「通常、対流圏のエーロゾルは発生から1~2週間で雨により大気中から除去される。しかし、激しい火山噴火によって火山ガスが成層圏に入り込み、そこで火山ガスがエーロゾルに粒子変換されると、対流圏に降下して降水によって除去されるまでに1~2年間を要する。すなわち、この間の気候に影響を与えることとなる。最も新しいところでは、1991年にフィリピンのピナトゥボ火山が噴火して、気候に大きな影響を与えた。近年、この百数十年間において、大規模火山噴火によりしばしば大気が数年にわたり混濁したことがわかってきた」と書いてある。

成層圏に入り込んだエーロゾルの除去にはかなりの年数がかかるのである。
1783年のアイスランドのラキ火山の噴火はその後数年にわたってヨーロッパに異常気象をもたらし、フランスでは1785年から数年連続で食糧不足が発生したらしい。
アイスランドと日本の2か所で起きた大きな火山爆発が大量のエーロゾルを長期間成層圏に送り続け、それが次第に広域に拡散していき、長い間太陽の直射日光を弱め、それが原因となって世界中に異常気象をもたらしたということなのだろう。

ということは、今回のアイスランドの火山爆発が長引けば、いずれは日本の農作物にも影響がくる可能性が高いということになる。

このまま火山活動が長引けば、間違いなく欧州は食糧不足となるだろう。もしそのようなことが起こると世界各国は自国民のための穀物を優先することは確実である。

ところが我が国の穀物自給率は28%しかないのだ。もし今年は我が国の農業に火山の影響がなかったとしても、有り余る農業適地を持ちながら減反政策で休耕地だらけにしている我が国が、市場から穀物を買い漁ろうとすれば世界中から非難を浴びることになるのではないか。いくらお金を積んでも買えないということが起こらないだろうか、などと心配になってくる。

江戸時代に何度か飢饉があったが、南部藩などでは人間の肉まで食べたという悲しい記録が残されているそうだ。本来自国民の食糧を他国に依存しすぎることは非常に危険なことなのだが、その怖さが忘れられてしまっている。

根拠のあやしい温暖化対策や子供手当などに税金を投入するべきではないだろう。今年は、国民の安心安全のために食糧自給率を引き上げる手を打つチャンスの年ではないのか。
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