瀬戸市民言論広場

明るい未来社会をみんなで考えるために瀬戸市民言論広場を開設しました。

垣隣の民意

2016年05月17日 | お知らせ
今回の追分通信は定形外増刊です。

「ことば」についてです。
私たちはことばを使って意思疎通を図ります。
もちろん文字やおしゃべり以外にも手話やボディーランゲージによる相手の意思や感情を受け止めることもします。

政治、行政、社会問題(地域問題)など「公」の議題について、大衆(市民)のひとりとして自分の意見を述べたり、他者の意見を聞いたりする場面で、「会話」として成り立っているのか否か疑問に思った経験はありますか。
話者と聴者間の疎通を図るうえで、「ことば」「単語」の定義付けを確認しあったことはありますか。

例えば「自助」「共助」「公助」。
いずれも{知っている}ことばですね。ではこれらのことばにどのような定義付けをしていますか、お手持ちの国語辞書に三語とも書かれているでしょうか。

ひょっとして、単語を{知っている}ということとお互いの{認識}は共通しているとの{前提}で会話してはいませんか。
「犬を思い浮かべましょう」といわれて、みな同じ{犬}を頭の中に描いているでしょうか。
犬種や色、雄雌、場所など条件を絞っていくと共有性が多くなっていきます。
上記の三つの単語も同じです。
参会者が議題を話し合う前に、お互いの共通{認識}となる定義付けをしなければなりません。
いずれの「単語」も違う概念を描いているかもしれないからです。

「ことば」「単語」を定義付けて概念の枠を固めるという確認作業をしないまま、往々にして「公」の議論をしています。
政治の世界でハヤリの「レッテル貼り」もこれが一因です。

日常でこのような確認作業をしなくても、営みに困ることはほとんどありません。
自治会、保護者会、議会議員との意見交換会、行政の審議会でさえ、議題の重要な「単語」を日常生活の会話のように{知っている}ことと{認識}は同じであるハズ。として会議は進んでいきます。

会議に登場する「単語」には囲いが必要です。
「ことば」を自由に羽ばたかせるのは、詩人や俳人がすることです。

なぜ「ことば」に拘るのか、それは重要な単語が「民意」であると考えるからです。
「民意」とは何か?

このブログは瀬戸市行政と市議会を取り上げていますので「民意」の対象を「市民」とします。
私たちの政治制度は民主主義である。と教えられています。(民主制度とはいいませんね)
なぜ「制度」が「主義」なのでしょうか。
「主義」はイズムですね。
ある方針とか思想の立場とか、あるいは政治の「体制」のことですね。
ならば「民主」つまり「市民」に主権があり、為政者に市民を統治させる体制のことです。

これには大きな前提があります・・。
主権者である「市民」は自立的、理性的判断によって行動し世論形成をして意思決定する。(ハズである。)
この主義(体制)で為政者となるには市民に選択してもらわねばなりません。
そこで考えてみましょう。
主権者は(前提のとおり)イズムで選択(意思決定)している(ハズ)のか否か。

民意を測るひとつに「世論」があります。
報道機関の調査は「個人の意見」を聴取したものを「世論」として発表します。
それはそのとおりなのですが、「輿論」とは違います。
正確な知識や情報をもとに「議論」と「吟味(言論)」を経て練り上げるのが「輿論」です。
議論と吟味を練り上げるという作業を行っているでしょうか。

どうやら市民意識を考えてみる必要がありそうです。

「お客さまは神様です」といった歌手がいました。
確かに商売にとって「お客さま」は飯のタネ。「神様」と崇めるのも理解できます。
「神様」にされたのは市民という消費者です。

「国民のみなさま」「市民のみなさま」「患者のみなさま」「保護者のみなさま」という神々の出現。
ではこれら神々を創り出したのは?
いくつもの原因があり、本稿で全てを考察できる見識を持ち合わせておりませんが、
大きく影響を与えている要因がマスメディア、報道機関であることは間違いないでしょう。

「国民からすれば・・」「国民の声は・・」とまるで己が国民意識を代表するかのように記事を書き、喋り、煽る、ジャーナリスト、文化人、タレントたち。
彼らがいうような「国民のみなさま」の実像はどこにもありません。
すべて彼らが創り出した「国民のみなさま」という虚像の神様です。
そして創り出された虚像の神様を見せられて、市民のほうが「国民のみなさま」という神様は実像であり、「わたしなのだ」と幻想してしまうのです。(これがやっかいなのです)

この神様は「思考」して誕生したのではありません。
虚像を創り出すことを「販売戦略」にしている人間たちが、市民たちに誕生させているのです。
こうして「市民」は政治や経済や文化に参加する(市民は参加しているつもり・・)より、消費者として納税者として「神棚」に祭り上げられたのです。

当然のように、行政機関、教育現場、医療現場にも神様は出現しました。
困ったことにこの神様は、未来よりも現在中心、情緒志向、余暇志向、私生活重視など「即時的価値感」という特性があるようで、
凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆるところで押し通そうとする。喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する(オルテガ・イ・ガセット)

しかし現実は「市民のみなさま」(神様)が直接行政に圧力をかけているわけではありません。
「民意」ということばであろうが「納税者の意向」といおうが、それは為政者や行政官僚によって解釈されたものであり、実在している「市民のみなさま」(神様)というよりもこの「ことば」こそが虚像であることを証明しているのですが、「仮想された民意」で動かしているのです。(そうせざるをえない)
「貴重なご意見をいただき、ありがとうございました」と為政者や官僚たちが言うしかない、神様たちの「民意」なのです。

さらに困るのは「市民のみなさま」たち、なかでも行政の意向を受け(補助金等税金を使って)活動している「市民」との会話です。元来「市民の活動」に「善悪の区別」はありません。「悪」なら当局により止められています。かといって「善」なのか、という議論がほとんど出来ない活動家が多いのです。
税を使うということは「使う目的と使った結果」が問われるのです。「なんのための活動ですか」「その活動により社会はどう変化しましたか」と。
「公のため善の活動に決まっている」と信じて止まない人々はこの次元で「思考」を止めます。
「悪いことをしているわけじゃないのに、あんたにとやかく言われる筋合いはない!」
あなたの周りにもいらっしゃいませんか。

「市民のみなさま」の意向を絶対化したようにする戦略は、この戦略を取り入れた側から取り下げることなどできません。
しかしその代償として「市民のみなさま」は、行政機関にも学校現場にも医療現場にも「消費者神」となって出現しました。
今や自治体は「サービスのコンビ二」と化してしまいました。
行政職員に対して、学校教職員に対して、医師看護師に対して、市民は「お客さま」という神様なのでしょうか。

日本社会を支えてきたのは「勤勉な堅気である」といわれてきました。
目立ちたいんじゃない。後ろ指をさされることもない。お天道様の下、恥じることなく暮らしていく。
こんな庶民たちが実像だった時代には、「どこでも消費者」神様はごくわずかな数しかいませんでした。

政治や行政に「民意」を発する作業は、お手軽で楽しいはずがないのです。

それから、行政職員は「市民」が選択した人たちではありませんが、政治家議員など為政者は「市民」が選択した人たちです。
お気に召さないのならば「お客様扱い」されて悦に入っていないで、イズムのいう「主権者」として選択するしかありません。

読了いただき、ありがとうございました。



















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