瀬戸市民言論広場

明るい未来社会をみんなで考えるために瀬戸市民言論広場を開設しました。

補正予算

2022年10月21日 | お知らせ
令和4年度 10月補正予算案概要

一般会計
(ア)事業者支援 事業目的はエネルギー・食料品等の物価高騰の影響を受けているためとしています。
   財源はすべて一般財源(財政調整基金からの繰入金)
〇アーティスト活動支援補助金・支援金給付 1020万円
〇障害者施設物価高騰対策支援金・支援金給付 1001万9千円
〇高齢者施設物価高騰対策支援金・支援金給付 2504万6千円
〇放課後児童クラブ物価対策支援金・支援金給付 280万円
〇民間保育所・私立幼稚園等物価高騰対策支援金 330万円
〇医療機関物価高騰対策支援金・支援金給付 3645万1千円
〇肥料価格高騰対策支援金 30万円
〇施設園芸用燃油価格高騰対策支援金 100万円
〇配合飼料価格高騰対策支援金 960万円
〇粗飼料価格高騰対策支援金 100万円
〇市内中小企業者省エネルギー促進補助金 1000万円
〇瀬戸焼販売促進補助金・補助金給付 2997万6千円 *この事業は瀬戸焼関連事業者を支援するため、瀬戸焼販売事業所で利用できるクーポン券を小学生1人当たり3千円分給付するもの
  
(イ)生活者支援 
〇電力・ガス・食料品等価格高騰緊急支援給付金・給付金給付 6億9183万円(財源は国・県支出金)*エネルギー・食料品価格等の物価高騰の影響により厳しい状況にある方々の生活・暮らしを支援するため、国庫補助金を受け、住民税非課税世帯等に対して1世帯当たり5万円を給付するもの。
〇愛知県子育て世帯臨時特別給付金・給付金給付 1億7882万6千円(財源は国・県支出金)*新型コロナウイルス感染症が長期化する中、食費等の物価高騰の影響を受けている子育て世帯を支援するため、県支出金を受け、児童手当の対象児童1人当たり1万円を給付するにあたり必要となる費用を計上するもの。
〇せと子育て世帯臨時特別給付金・給付金給付 9043万4千円(財源は一般財源)*新型コロナウイルス感染症が長期化する中、児童1人当たり5千円を給付するにあたり必要となる費用を計上するもの。(本市独自の事業)

(ア)は瀬戸市独自の支援事業です。

10月24日の臨時会において上程、審議、採決が行われる予定です。
これらの事業は一括して第58号議案として上程されますから、議会は各事業を分離して採決することはできません。
各事業の目的内容の評価は読者各位に委ねます。

以上
  
 
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秋の夜長

2022年10月05日 | お知らせ
今回は瀬戸市の行政、議会の話題から離れて綴ります。

今年も残すところ三カ月ほどとなりました。
コロナ禍にくわえ、ロシアによるウクライナ侵攻、急激な円安、元総理の暗殺、英国女王の死去などまさに激動の年となっています。
おそらく後年も語り継がれる年となるでしょう。

さて、「空気が読めない人だ」という言葉は今から15年前(2007年)ころからメディアも使うようになりました。
「KY 」kuki yomenai は女子高生だけの流行り言葉ではありません。大人社会でも使っています。
この「空気」を批判したのは、昭和43年(1968年)初代文化庁長官に就任した作家 今 日出海氏といわれています。
氏は『日本的世論』と題した論文のなかで下記のように述べています。
 石原莞爾作戦部長は不拡大方針を主張すると、いつの間にか首が飛び、予備役に編入されてしまったのだが、主戦論者は一体誰々なのか知る由もなく、それより強固な主戦論的空気がみなぎり、それにどうしても抵抗出来ぬものがあって、つい国民は批判力を失ってしまう。実際批判しようにもデーターがなく、軍部のつくった空気に押されて、却って和平論者を非難するという形が形成されていった。
(中略)
 私は戦争中の世論を知っている。竹槍訓練がどんなに不条理でそしてデタラメかを一切考えてみない世論が出来上がり、それに従わぬと近所付き合いから疎外されたり、非国民呼ばわりをされる世論では、社会生活は脅かされ、堪え難いものになる。

評論家 山本七平氏も昭和52年(1977年)に『「空気」の研究』を発表しました。
戦争末期に行われた戦艦大和の特別攻撃が「空気」によって決定されたことから論を起こしています。
元軍令部次長・小沢治三郎中将の「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」との発言を取り上げたものです。
氏は日本人が論理的判断と空気的判断のダブルスタンダードのもとに生きていると説きました。
 われわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。
大和の出撃はそのほんの一例にすぎない。と言ってしまえば、実に単純なのだが、現実にはこの二つの基準を醸成していくという形で、両者は一体となっているからである。
いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。

ところで、「世論に基づく政治こそ民主主義である」「国民の声をきくべきだ」という言葉をよく耳にします。
世論に基づかない政策は独断である。世論への批判は民主主義の否定である。
果たしてそれは現実的命題でしょうか。

仏国の社会学者 ピエール・ブルデューは1972年「世論なんてない」を上梓しました。
このなかで彼は、世論とはそれがあることで得をする人々が作り上げた意見であると定義しています。
世論の調査について、その正当性を支えるのは3つの公準であるとし、
1 誰もが何らかの意見をもちうる。
2 すべての意見はどれも優劣がない等価なものである。
3 それらの問題は質問されて当然だとする同意がある。
しかし、そもそもある問題について意見をつくりあげる能力、キャリア、専門性、生活環境等は平等に配分されているのか。
意見を醸成するために必要な情報を取得し、熟考した「見識」と、周囲の雰囲気に惑わされる「性向」とを数値で均質化できるのか。
ともすれば、設問をつくる者が選択肢を規定し、政治(政局)が必要とする争点をつくりだしていないだろうか。
ブルデューは「ある人が政治的知識を前提とした一切の質問に対して何らかの意見をもつ確率は、その人が美術館に行く確率とほぼ同じと見ていい」といいました。

高度に複雑化した現代社会で生きる私たちが、国際・国内を問わず、すべてとは言わないまでも、主だった問題について自分なりの意見を構築するために可能な限りの情報を集め、熟考するという手間をかける人はどれくらいいるでしょうか。
筆者はこの「意見を構築するための情報」に大きな問題点が潜んでいると考えます。
主な情報入手はテレビ・新聞といった従来の大手メディアからと、SNSでしょう。
ここでは大手メディアのデジタル版やYahoo!ニュースではなく、ツイッター等のツールをSNSとします。
問題は二つ。
ひとつはこれらから発せられる情報の質。もうひとつは入手(聴取)している情報源の固定化です。
これらにより、多様な論点を思考するのではなく、ある方向性に向かって意識が硬直化していく可能性が高くなります。
やがては「好き嫌い」「気に入る気に食わない」という感情論にさえなっていきます。
これでは「意見を構築するための情報を入手し、熟考して結論を得る」とは真逆の結果となってしまいます。

近年、大手メディアの紙面、あるいは一部のテレビ番組は製作者の政治的社会的な意図により、事象を一定方向のみで「解説する」ように構成し、読者視聴者を特定の意見へと誘導する傾向が強くなっていると思います。
報道業界(政治部)には『世論をさます』という言い方をする人もいます。
国民が強い関心をもっている問題も、そっとしておけば関心が薄れていくだろうという意で使います。

そもそもたいていの国民は自分の私事に直接関係しない事案は時を経ずに忘却します。
日々の生活に直接関係しない(と思っている)公的な問題は長や議員に委ねているというのが間接民主主義です。
もちろん有権者である国民は私事だけではなく公的問題にも関心を持つべきであるという論は否定できません。しかしそうであるなら重要問題は争点ごとに国民投票を行う直接民主主義が理想であるとなってしまいます。

それよりも忘れ去られようとしているのは「世論」と「輿論」の違いです。
いまでは「世論」をヨロンと読ませています。
中国文学者の高島俊男氏は、氏のコラムで次のように書いています。
 「世論」はどうしたってヨロンとは読めませんよね。もし読めるなら「世界」はヨカイで「二十世紀」は二ジュウヨキだ。
ヨロンは「輿論」。「輿」は「衆」と同じで「おおぜいの人」の意。(略)
対して「世論」はセイロン。あまり使われることばではないが、かつての軍人勅論には「世論に惑わず政治に拘らず」とあった。
また福澤諭吉の『文明論之概略』に「古今の世論多端にして」同じく『福翁自伝』にも「世論に頓着せず」云々とあり、これら諸例を見てもわかるように「世間の人たちがいろいろゴチャゴチャと言うこと」といった否定的な気分で用いられる。
元来「輿論」とはニュアンスのことなる語である。

公的意見は「輿論」であり、「世論」は世間の空気。
私たちはパソコンやスマフォ、フェイスブックやツイッターなど便利なツールを手にしましたが、個人的な意見を公的な意見に醸成する力は退化しているようです。

トマス・ホッブスは社会契約により主権は統治者(国王でも議会でもどちらでもよい)に委ねて、市民は私的活動にいそしむ姿を活写しました。
ホッブスが自然権の確保を統治者に全面委譲したのに対し、ジョン・ロックは自然権の一部を国家に信託し、市民各人が譲渡するのは自然法の執行権に過ぎないと主張しました。
つまりロックの描く市民は、時に公共に強く関心を持ち、武力で国家と闘うほどのコミットメントを保持していました。(抵抗権)
そしてジャン・ジャック・ルソーはロックの描く統治者と被統治者の二分性、時には対立する二者と捉えるのではなく、市民自らが統治者でもあるという強いコミットメントを持つことを唱えました。

民主主義による政治制度は同治性(共和主義)が大事とされたわけですが、どうやら私たちは私利私欲が生活の基本的な行動原理であり、役所の窓口でも教育現場でも医療現場でも「私はお客様です」、公共など関心もないし「私(市民)にサービス」するのがあなたがたの勤め。
とでも言いたいかのような人が増えてはいないでしょうか。

10月27日から11月9日まで読書週間です。
街談巷説に惑わされないよう、沈思黙考にチャレンジするのも悪くないと思いつつ、この辺りで筆を置きます。

今回も読了いただきありがとうございます。



















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