中原聖乃の研究ブログ

研究成果や日々の生活の中で考えたことを発信していきます。

父の思い出

2019-02-13 20:59:59 | 日記

2019年1月30日

ドバイに行く飛行機の中で、元気を出すときの私のテーマ曲ブラームスのピアノ協奏曲第1番が入っており、初めて涙が出る。

現地時間30日午後11時にドバイに到着。

京都から実家の岩国に駆け付けたら間違いなくバタバタとしていたと思う。父は家で亡くなったので、警察対応は母がこなし、通夜と告別式の準備は、すぐに駆け付けた弟夫婦がやってくれているはずなのだ。感謝。出張中の、というか出張に来て翌日のオスロからそのまま帰宅することになったので、私は長い時間一人父との思い出に浸ることができた。

とはいうものの、変な思い出ばかりだ。

父は典型的な昭和の男。女は男に口答えするものではない、女が賢くなるとろくなことがない、という考えのもと、私はすくすくと、嫌なものは嫌だとやんわりと言う、たおやかな性格に育った。おかげで小学校のクラスのクリスマス会をするかどうかの話し合いで、たった一人おだやかに反対意見をだし、クラスをプチ混乱に巻き込んだことがある(笑)成績が比較的良かった私は、先生や親から、弟と私が入れ変わるといいのにと常に言われて育った。まあ、弟はスポーツ万能だったからそれでもよかったけど。でも男に生まれたかったと思ったことは不思議と一度もない。

博士号を取得してからは、さらに嫌味が加わった。車の運転を教えてくれる時も、ビデオの録画を私に頼むときも、博士号を持っているのに、なんでこんなことがわからんのか、と余計なことを言うのである(笑)

もちろん、父に感謝したいこともちょっぴりある。年に一、二回の家族旅行だ。小学生のうちに、地図を片手に父の車で九州から東北まで北海道を除く全国を回ったと思う。ここで分かったのは、道が続く限り行けないところはないということ、迷ったら人に聞くということ、予定が狂ってもなんとかなる、ということだ。たぶん私が文化人類学に魅力を感じたのも、物心ついたころから頻繁に旅行していたからだと思う。家には家族旅行の写真が山のようにある。

もう一つ私は父の性格を引き継いでいると思うことがある。父は20年以上も肺がんだったが、3回目の肺がんの発見の時にはこれまでの手術ではなく抗がん剤治療を選択した。この時、問題になっていたイレッサを使った。効果はてきめん。半年でほとんどがんが消えた。それからは抗がん剤をやめると大きくなる。あるいは効かなくなってくると抗がん剤を変えるという生活が亡くなる直前まで続いた。しかし、父は、今度はこの抗がん剤をやってくれ、この抗がん剤が自分に合うのではないか、と雑誌、新聞、あらゆる情報を駆使して、医師に提案し続けた。父のがんはどうやら特殊らしく、ほとんど体に悪影響を及ぼさないということで、抗がん剤はやめた方がいいと最初の医者にも言われたが、抗がん剤を使いたい父はこの主治医と喧嘩して、決別し、別の大病院に転院した。。。ほとんど抗がん剤オタクである。。。看護師さんだったか、お医者さんだったか、「普通、がんって聞いたら、もっと落ち込むと思うんですよね。でも中原さんは何というか・・・」

原発事故直後、抗がん剤治療の真っ最中、金婚式の記念旅行として、和歌山の高野山に行きたいと言い出した。歩くのもままならず、抗がん剤で吐き気がある中、母を説得し、私を付き添いにつけ、3人で一泊二日の旅行を強行した。案の定、電車の中でゲーゲー吐き始めた。「だからいわんこっちゃない」という私に父は一言、「こんなの吐いたらしまいじゃ。あとは楽になる。なんちゅ~ことない」と用意してきたビニール袋を見せる。10分の道のりを歩行器を使って、休憩しながら、ふらふらしながら、途中の食堂で事情を説明して休ませてもらいながら、2時間近くもかかって、歩く。もう、本当になにしに来たんだかと思うほど、大変な旅でした。。。

あるときは、私が頻繁に海外調査に行くようになってから、本当に英語が話せるのかなどと聞いてきた。少しは話せるというと、自分も少し話せると、尋常小学校卒の父が言うのである。たしかこの時、父の話はこんな感じだった。初めて母と行った海外旅行先のアメリカで、地元の人にどこから来たか聞かれ、日本で生まれたと言った、と言うのである。何て言ったか聞くと、「ミー、おぎゃー、ジャパン」と言ったというのだ。もう私はおなかを抱えて笑ったが、あまりのおかしさに、私は知人に言いふらす日々がしばらく続いた。だいたい、英語ができないのに、なぜ外人さんが質問した内容を理解したのか疑問だが、いま思うと、私も結構そういう会話をしているかもしれない(笑)

なぜ喧嘩したか、今となっては思い出せないが、父から「わしゃー、お前が大っ嫌いじゃ~」と言われたことがある。売り言葉に買い言葉で「私もお父さん大っ嫌いじゃ~」と言った。そんな父も数年前からめっきり弱くなり、別人のようにおとなしくなった。どういう文脈か忘れたが、母と結婚してこういう家族で幸せかと聞いたことがある。「こうやって〇〇(私のことです。いい年ですので、私がなんと呼ばれているか書きません)も帰ってくる。孫も帰ってくる。みんなでご飯が食べられるけえ、たのしいじゃ~」と言った。父の両親は早くに亡くなり、家が経済的に苦しかったため、父の妹は養女として家を出ている。父は幼少のころには家族には恵まれなかった。そんな父だからこそ、家族を作りたかったんだと思う。

父の棺に入れるのは、やっぱり家族旅行の写真がいいだろうか。

初めて海外旅行したインド上空で夜が明ける。旅好きと人好きにしてくれた父に感謝しつつ、朝日に輝く雲を眺める。

これも帰国便の中で書きました。日数はだいぶ経っていますがほぼそのままアップします。


最新の画像もっと見る