「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

息長大姫大目命と倭迹迹日百襲姫の関係を検討する。1

2012-04-01 | 古代史

現在の古代学界を見ていますと、邪馬台国論争による、九州説と神武以来ずっと近畿であらねばならないと考える近畿説がぶつかりあったままの状況で、国(文部省)の方も模様眺めのように映ります。

しかし、大方の古代史を研究されておられる方々は、邪馬台国と呼ばれる地域は九州に違いないと想われております。(私もその一人ですが。)

 

邪馬台国を見つける論争の中で、一番ユニークで説得力を感じますのは、福嶋雅彦さまの「方言説」です。

{一般には『やまと、です。』と共通語で述べますが、筑後地方の方言では『やまと、タイ。』になり、それを普通に喋ると『やまッタイ』との表現になり、それを聴いた中国の筆記者が『邪馬台国』と認識したのだ。}と謂う説です。一般の方からは「そんな馬鹿な。」と思われるでしょうが、わたくしは、久留米市で生まれたので、幼少の頃からこの『・・・タイ。』と謂う表現を限りなく聞いて育ちましたので、此れが正解だと感じます。

日本の一切の書物に邪馬台国なる文字が無い事もあり、『やまと』と述べたつもりが、『やまたい』に録られたと想われます。

また、福嶋雅彦さま・古田武彦さまご両人も邪馬薹国(邪馬壱国)と謂う国は無かったと述べられています。(福嶋雅彦さまは、魏志倭人伝の卑弥呼は浮羽に居たとされておられます。)

方言説が本当ならば、邪馬台国の都は久留米市から八女市・大川市に架けてに存在したとも考えられます。

此処には、第6代孝安天皇とその兄の天足彦国押人(天押帯日子命)・宇那比姫命(宇奈岐日女命)・建田背・大倭久邇阿禮姫・倭迹迹日百襲姫の登場を考える事ができます。

 

邪馬台国畿内説の方々が挙って揚げておられるのが、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)であります。しかし、このお方は久留米市に在った御井宮に居られたと考えられる大倭久邇阿禮姫が福岡県みやこ市勝山町黒田に居られたと考えられる第7代孝霊天皇に嫁いで生まれた方であります。近畿とは縁の少ない方と考えられます。

この倭迹迹日百襲姫は、西側の山向こうに在る香春神社に祀られています、辛国息長大姫大目命と関係があるのでは。とも考えられ、検討してみる事にしました。

 


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