海部氏・尾張氏・紀伊氏の元が大分にあることは、解かりましたが、『海部氏勘注系図』にもあるように、何故、現在の京都府宮津の『籠神社』が、海部氏・尾張氏の根拠地と謂われているのでしょうか。考えてみる事にしました。
『おとくに』さまの『古代豪族』にて尾張氏系図(先代旧事本紀)を見ますと、建斗米の子に7人記入されています。一番上から順に建田背(たけだせ)・建宇那比(たけうなび)・建多乎利(たけたおり)・建彌阿久良(たけみあくら)・建麻利尼(たけまりね)・建手和邇(たけたわに)・宇那比姫(うなびひめ)です。
そして、建田背の説明として丹波・但馬国造・海部氏、と記入されており、建彌阿久良の後に大分国造と記入があります。また、建宇那比命の子として建諸隅が産まれています。
わたしの考えでは、大分に居た一族の内、長男と想われる建田背は第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇に仕え、後には近畿丹波・但馬の国造として渡って往ったものと考えられます。
建彌阿久良(たけみあくら)が大分の国造として残り、一族を束ねたものと考えられます。
建宇那比(たけうなび)と謂う人が居ますが、この人物は、大分県豊後大野市朝地町綿田の俵積神社(たわらつみじんしゃ)にて祀られています宇奈岐比古命のことであろうと、考えられます。俵積神社の由来は、『昔、二柱の神が天降り、草綿を植えた事により草綿発祥の地として伝えられ「綿田」の地名になり、綿俵を積み重ねた所が「俵積」と謂われる元になった。』とされています。
この二柱の神の一神が宇奈岐比古命であるとされており、もう一神は建彌阿久良か宇奈岐日女命であろうと考えられます。
そして、その建宇那比の子が建諸隅で、建諸隅の子が竹野姫になります。
{しかし、国宝「海部氏」系図では建田勢命の子が建諸隅命と大倭久邇阿禮媛(第7代孝霊天皇の妃)とされており、先代旧事本紀と異なっています。}
ですから、竹野姫(豊姫)が大分から福岡県春日市に居た第9代開花天皇に嫁に行ったと考える事が真実味を帯びて来ることになり、自然であります。
宇那比姫は由布院に宇奈岐日女命として痕跡を残しており、俵積神社の近くには、竹田市(たけだし)があり、この竹田市の由来も建多乎利(たけたおり)と関係を感じます。
祖母山近くにも健男霜凝日子神社(たけおしもごりひこ)・健男霜凝日子神社下宮もみ受けられ、「タケオ」とか「シモゴリ」とか尾張氏を特徴できます名称が見受けられます。此処、豊国に尾張氏(海部氏・紀伊氏)の本貫地があったとする考え方を補足する事にもなり、正しい考察と思えます。
と謂うわけで、京都府宮津市にある「籠神社」は第7代孝霊天皇の時代、豊後から遣って来た建田背から始まったものと捉える事が出来ます。
建田背は兄妹の一番最初に記入されており、長男とも想われ、尾張氏(海部氏)系図を記録していた?とも考えられます。
桂川光和さまの研究では、『海部氏勘注系図』を最初に編纂したのは、止羅宿禰(とらのすくね)で、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)(554~628年)の時代で、系譜をまとめたのは592~628年であろうと述べられておられます。
《その後の考察による追補》
第7代孝霊天皇は彦坐王(彦湯産隅命)と同一人物と考えられ、崇神時代に建田背は『彦坐王』と一緒に近畿(丹後~丹波~播磨)に渡ったもの。と考えられます。
《追補2》
豊後大分は、『豊後紀氏』と謂って全国各地に人々が拡散しました。『葛木氏』の本貫地と解釈をしています豊後明野『葛木』地区には、『高尾山』が在り、以前は『海部郡アマベグン』が在りました。和歌山県も奈良県も若狭湾も『豊後紀氏』が遣って来たものと考えられます。
建彌阿久良が大分に残ったのではなく、大和から大分に赴いたのです。
この一族の本拠地は葛城高尾張。その証拠にこの一族の多くが葛城氏の女あるいは紀伊氏の女性を妻とします。