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「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

古代史編年を試みる。その1 (高橋氏の本貫地は筑後國御原郡高橋邑。から推測出来ます崇神天皇)

2014-10-24 | 古代史

九州での『豊鍬入姫命』の意志を継いだのが『垂仁』と『日葉酢媛』の子であります『倭媛命』で有ります。『倭媛命』は近畿纏向で生れ、近畿一円を廻り、日本書紀に拠りますと垂仁25年3月『丙申ひのえさる』(西暦276年)(垂仁12~13年頃と考えますと西暦271年に勘定され、5年の差が出ます。)天照大神を三重県の伊勢に祀ります。

 

垂仁は24歳の時(西暦259年頃)狭穂姫と結婚し、26歳~27歳(垂仁5年=垂仁2~3年)で狭穂姫を失い、喪があけて、その後日葉酢媛と外3名を娶ります。

景行(大足彦忍代別命=次男)の誕生は垂仁31歳頃(西暦266年頃)(彦座王46歳位)と考えられ、当時としては晩い子造りであった。と考えられます。

ですから、九州で熊襲が叛いた時、(景行12年=景行6年)(22歳で皇太子になって6年後の28歳時と捉えます。)(西暦294年頃)景行は7年(三年半)も九州に滞在して、日本書紀では「日向の高岡宮」に六年滞在(3年位)した。と記入されて場所の特定が為されていませんが、此の「高岡宮」は、わたくしの解釈では鳥栖弥生ヶ丘から基山にかけての場所の事であろうと、思われます。

鳥栖市弥生ヶ丘から基山に行宮を造り、狗呉の娘?『襲武媛』(そのたけひめ)を娶り、『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)=『水沼の君』に任じます。外2人の都合3人を儲けて『狗呉族』と崇神派の押さえ込みを図っています。

しかし、句呉族同士での争いも起こっていたと考えられ、西暦367年には、佐賀市大和町川上峡の、景行と同じ、和邇氏の親族末裔と考えられます『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が、大善寺(師木)の玉垂宮(瑞垣宮)を占拠して、隈氏(狗古智卑狗)は高良山に1年程退避してその後368年に『瑞垣宮』を取り返しています。西暦248年に遣って来た魏の使者一行も、この高良山から高良台辺りに滞在をしていたものと考えられます。曲水の宴を行なった痕跡が認められた御井町辺りが候補として考えられます。

 

景行19年(景行9年半)に纏向(行橋市の勝山黒田~豊津か、日田と、考えられます)に戻り、景行20年(景行10年頃=西暦298年頃・景行32歳位)日本武尊(小碓命16歳)に佐賀県の川上タケル(息長氏親族の和邇氏)の討伐を命じます。(小碓命は、西暦282年頃の生れと考えられ、双子の弟です。小碓命誕生の時の景行は16歳、垂仁47歳・彦坐王62歳位と考えられます。)

日本武尊は川上タケル討伐の後、出雲タケルを討ち(古事記のみ)、纏向(日田)へ帰りますが、東国の遠征を命じられ、伊勢で天照大神を斎祀していた叔母である倭姫命から『草薙剣』を頂いて遠征します。最後は三重県亀山市の『能褒野』(のぼの)にて30歳で没したとも述べられています(日本書紀)ので、此れを信じますと日本武尊は西暦312年頃の没で有ります。此の時期は景行の年齢は46歳位が考えられ、垂仁(77歳)や彦坐王(92歳)はもう亡くなっていたと考えられます。

日本書紀では、『景行天皇』は景行60年まで生きたと述べられ、二倍暦で考えまして30年間と仮定しますと、西暦318年(53歳)の生涯であったと想われます。

 

日本書紀では、景行53年10月に日本武尊を偲んで「小碓が平定した東国(関東)を見てみたい。」と船にて、皇后の八坂入媛命や磐鹿六雁命(孝元天皇の子であります、大彦命の孫になり、筑後國御原郡高橋邑、現在の三井郡太刀洗町高橋区の高橋氏の祖とされています)等を連れて東國視察を2ヶ月間しています。(日本で最初の観光団体旅行?)とも考えられます。

磐鹿六雁命は蒲を襷に掛け、白蛤(うむき)と鰹(かつお)の、なます料理を出して景行ほか皇后の八坂入媛命が大層喜び、『膳大伴部』に命じられます。)磐鹿六雁命は褒美に『若狭國造』に任ぜられ舞鶴市『高橋郷』の地名が残っています。

此の高橋氏は、景行と伴に近畿纏向に渡り、奈良市に『高橋神社』を残していますが、磐鹿六雁命は、後年は筑後國御原郡にて生活をし、亡くなったものと考えられ『屋主太忍男武雄心命』が宣命使として景行天皇から派遣されています。

筑後川の南岸の田主丸(和邇氏)地区に『鹿狩』(ろっかり)区が在り(むつかり→ろっかり)に為った。と考えられます。

高橋』の語源は『高倉』に掛けた『梯子』からとされ、此の御原郡は筑後川の氾濫に苛まれ、穀物倉庫として、高床式家屋が必需であったものと考えられます。

 

この筑後國御原郡高橋邑は、崇神8年10月に高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせ大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)=大己貴命を祀り、宴を持った場所でも在ると考えられます。此処は太刀洗町『上高橋』に在ります『老松神社』での祀りと宴であったと思われます。此処の本殿左手には、『大己貴命』魂石を祀っています。

下高橋区に在ります『竈戸神社』は、後に、大蔵氏が『高橋邑』に遣ってきて『高橋城』(平城)を築いた跡地とされ、此処は筑後平野の中心に位置しており、遺跡が多くある由。

之の高橋邑の日本書紀崇神紀8年10月項の記述は、わたくしの説(崇神は玉依姫の子であり、久留米市城島の玉垂宮=師木の瑞垣宮に棲んで居た)の裏づけと成る。ものでもあります

 

景行55年2月5日には、宇佐島(由布院~安心院~院内)に居た『彦狭島』に(景行天皇の弟の『若木入日子命』の事で、記・紀では彼の業績が神武天皇の東征の業績に置き換えられています。『彦狭島』の生存年は大方西暦270年頃~西暦315年位の45歳没が考えられます。)東国15国の王に命じていますが、『彦狭島』は赴任途中で亡くなり、翌景行56年8月に『彦狭島』の子である26歳位であったと考えられる『御諸別命』が(生存年は西暦290年~西暦350年位が考慮できます)東国15カ国の王として命じられて、大勢、『宇佐島』や『愛媛』から関東へ赴いて往っています。

 

 《その後の考察による追補》

景行は彦坐王=彦湯産隅命のことで有ります。福岡県田主丸の和邇氏竹野姫と開花天皇(ホツマ伝では、太刀洗町春日地区の=ヰチヂ市千魂命=春日殿の子と述べられています。)間にて、西暦220年頃に誕生して、田川=鷹羽の地で西暦240年頃息長水依比売命=辛国息長大姫大目命=最初は日高彦穂穂出見命の妻となり、ウガヤを生みます。姪の玉依姫と新羅に渡り、スサノオ(天日矛・崇神)を新羅に置いて香春町に帰ってきます。後に景行(彦坐王)が娶り、田川~行橋~苅田町を中心に倭を治めて居た人であります。記紀に於いては神武東征での長髄彦命(ニギハヤヒの臣)と述べられ、捏造されています。

久留米の城島=シキの瑞垣宮=玉垂宮にて、 賀茂建角身命(豊玉彦の息子)と伊香古夜姫が生んだ玉依姫=伊香賀色謎命が、日田市日高ダンワラ地区出身の兵主命=日高彦穂穂出見命=孝元天皇=山幸彦との間にて、御真木入彦命=後の崇神天皇=スサノオ=神武天皇を儲けます。

此の崇神(スサノオ)が、アマテル=天火明命=ニギハヤヒ=瓊瓊杵尊の臣であった天児屋根命=彦坐王=長髄彦=景行天皇が居た田川~行橋黒田~苅田を西暦234年(甲寅)に攻めます。

海路で1回、陸路で2回試みます。之が記紀ではヤマトの地を奪う『神武東征』に為っており、和邇氏の郷  佐賀県神埼市『日の隈』の『柏原』にて崇神=神武が西暦241年(辛酉)即位を一方的に宣言したものと考えられます。

長髄彦=彦坐王は、西暦248~250頃近畿に渡って孝霊天皇として中国地方を主に活躍し、251年景行天皇として近畿纏向にて即位します。その後西暦258年(戊寅)8月=景行12年8月に崇神を討って国の統一をする為に倭(九州)に遣って来ます。

行橋黒田に行宮を作り、木綿の院(由布院)の宇奈岐日女命の後継者の速津姫(ホツマ伝では赤土の娘と述べられていますが、実態は住吉神の娘と考えられます)に崇神(スサノオ=神武)の情報を伺い(宇那比姫の兄の『建田背』若しくは『建宇那比命』の子が『建諸隅命』で、『大海姫』は『建諸隅命』の姉若しくは妹で、

『崇神』の妻に為って杵築市で暮らしていた。と考えられます。此の『大海姫』が『宇佐津姫』で有ったろう。とも、考える事が出来ます。

速津姫(ホツマ伝で、スサノオから求婚された人)から情報を聞いた景行は杵築で崇神(スサノオ)を討ち、

その後は熊襲(崇神の後ろ盾の志賀氏・八田氏・中臣氏)を誅し、崇神の取り巻き新羅人本拠地の城島=シキの玉垂宮近くの、鳥栖弥生が丘~基山で数年(6年?若しくは半分の3年?)暮らして国乳別皇子の他2人を儲けて、纏向(日田)に帰りますが、数年後には佐賀県川上峡の和邇氏(彦坐王の出身地田主丸と同属別れ)と考えられます川上タケルが叛乱を起こして、景行の子である倭タケルが派遣され収めます。

 

 

 

 

 

 

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崇神天皇の没年を考える。その2 爵位を受けたのは、『豊鍬入姫命』と『狗古智卑狗王』(隈氏)であった。

2014-10-15 | 古代史

「わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。」と述べて考察をしてきた訳ですが、一番の気懸かりは、初代卑弥呼(247~248年没)の後に13歳で二代目を継いだ『臺輿』(とよ)は、如何も『竹野姫』では無い。と考えられるのです。

竹野姫』は209年頃の誕生であります。と述べていますので、此のお方は当然該当を外れます。

崇神』(西暦220年生まれ)の子であります、杵築で生れた『豊鍬入姫命』が、西暦235年頃の生まれと考えられますので、時間軸と実績がぴったりと該当致します。

中国の史書であります梁書(636年完成)の『東夷伝』には『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』と記され、

晋書(648年成立)の『東夷伝』にも、『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』と同様に述べて在りますが、魏書(280年~297年の成立)の『東夷伝』との整合をしますと、

『倭女王(臺与)』と伴に、その後、爵位を受けた『男王』とは、以前に述べた『竹野姫』と『開花天皇』では無く、杵築に居た13歳の『豊鍬入姫命』と、『狗呉』(こうご)と組んで『彦坐王』(和邇氏)を追放した『崇神天皇』=『卑禰弓呼』(ひみここ)の事であった。とも解釈されますが、

崇神』は258年に亡くなっていると考えられ、此れが釈然と致しません。

爵位を受けたのは『崇神』が247年に即位してから生きている間(258年)でありましょうか?

張政が正始八年(247年頃)から266年まで倭に留まっており、その時、勝手に独断で爵位を授けたとも考えられます(魏は265年に晋に禅譲になっています)

が、爵位は『王』が与えるもので、張政が爵位を与えたとは考えられず、多分266年に帰国した時一緒に朝貢しており、「男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。」と記されています。

『西晋』の武帝司馬炎から拝受したものと考えるべきでしょう。

 

崇神』は258年没で考えますと、『其後復立男王』とは、『垂仁』であると考えられますが、『垂仁』は、『崇神』の15歳頃西暦235年頃)に生れ、24歳頃(西暦244年)に皇太子(垂仁10歳)になったと考えられますが、『崇神』が亡くなった時(西暦258年)は『垂仁23歳で、直に即位し、喪に服し、翌年(西暦259年)2月に狭穂姫と結婚し、その10月に久留米から纏向に渡っています。此れは慌しく感じられ、喪が明けて直の時期の行動である。と感じられます。何かが起きています

 

感じますのは(疫病は、253年頃には収まっています)狗呉族(狗古智卑狗)の叛乱を受けて、近畿纏向に渡って往ったと考えるべきでありましょう。

そうしますと、城島(師木)の『瑞垣宮』に居た王は『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』で有ったと考えられ、晋書『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』に記された『男王』とは『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』を指す事に為ると考えられます。

狗古智卑狗王』か、『開化天皇』が爵位を受けたのであれば、『古田武彦』氏が主張されています、白村江の戦まで続く『九州王朝』(狗呉王朝)の初めての天皇を意味しているとも、捉えられます。

 

『豊鍬入姫命』は杵築市で二代目卑弥呼として生き、亡くなったものとも考えられますが、わたくしには、如何も久留米市~北野~田主丸周辺に多く在ります『豊比咩神社』が気に為ります。此れの解釈は『豊鍬入姫命』とも考えられる事になります。

筑後平野へ来ていたもの。と考えられます。

墳墓の場所が気になります。

 

 《追補》

2015年5月11日の『崇神天皇は西暦258年10月に景行天皇に殺された。(倭の大乱第3幕)と考えられます。』の考察により、景行(彦坐王)は杵築にて、崇神を討伐した後、熊襲を討ち、その後高岡宮(鳥栖市弥生が丘~基山町と考えています)にて六年過ごして國乳別皇子ら三人の子を儲けて、倭(北部九州)平定を図ります。出身地(和邇氏)浮羽に最後の3日間を過ごして、其の時に高橋邑傍の赤司八幡宮に寄り、水沼(三潴)君の『猿大海』に多祁理比賣命を祀ることを命じたものと考えられます。田主丸町以真恵地区の息長氏(現在秋永氏が13軒有り)の隣の鹿狩(ろっかり)地区の磐鹿六雁命を連れて近畿纏向へ帰って行きます。(西暦265年頃)

西暦266年に爵位を授けられた『其後復立男王』とは『その後再び即位した男王』と解釈され、『狗古智卑狗王』ではなく、西暦251年頃近畿纏向に渡り、西暦258年に『崇神』の治める倭を統一した『景行(彦坐王)(長髄彦)』大王であった。と結論着けられます。

 

 

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崇神天皇の没年を考える。その1 (『卑禰弓呼』(ひみここ)は『崇神』で有った。と考えられます。)

2014-10-08 | 古代史

わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。

わたくしは、崇神の誕生を、宇那比姫命(卑弥呼)の誕生を基準に、西暦222年頃と仮定しましたが、『古事記』では没年干支は『戊寅』(つちのえとら)年に亡くなった。と記入されており、此れを信用した研究者に依ると西暦258年か、その60年後の318年の没であろうか。が検討されております。

単純に258年説に当て嵌めますと、36歳で亡くなった事になります。

318年説に当て嵌めますと、96歳で亡くなった事になります。

 

『崇神天皇』は開花10年に生まれ、崇神68年12月5日の崩御とされています。

 

わたくしの『崇神』の誕生の計算は、『開花』が17歳の頃に『崇神』が誕生したと仮定して西暦222年を導いていますが、開花10年に崇神が誕生したのが本当であれば、7歳繰り上げて西暦215年の誕生と謂う事になります。此れを258年説に当て嵌めて考えますと43歳で亡くなった事になります。しかし、開花の崩御は開花60年4月9日とされ、一般的な即位の形態(前王が崩御の後に皇太子が即位する)をとれば、崇神の即位は50歳である事になります。

318年説に当て嵌めると103歳で亡くなった事に為り、崇神68年没を当て嵌めれば118歳の生涯となり、如何考えても計算が合いません。

開花から崇神へは禅譲が在った。と考えれば、時間軸は合いますが、崇神68年没が邪魔をします。仮に、二倍暦で考えますと、崇神34年没になり、9~10歳で即位した事になります。此れだと納得が行きます。

 

改めて二倍暦を使って孝元(孝霊18年生~孝元57年11月12日没116歳)・開花(孝元七年生~開花60年4月9日没の110歳)・崇神(開花10年生~崇神68年12月5日没の118歳)

(以上ウィキペディアに拠ります。)の生存年齢を検討してみる事に致します。

 

わたくしの説では、『孝霊』は居なかった事になっていますので、孝元の部分の約58歳で考えますと、二分の壱の29歳で没と仮定します。

『開花』は110歳の半分の55歳の生涯。と仮定して考えれば、父である孝元が17歳の時に開花が生まれ西暦205年頃(伊香賀色謎=下照姫21歳)、開花が12歳の時に孝元が亡くなり即位(西暦217年頃)、21歳年上である、父孝元の妻の伊香賀色謎(玉依姫33歳)を見初め結婚。開花15~16歳位(西暦220年頃)(玉依姫命35~36歳)で崇神を生み、『開花』は即位後(60年の半分)30年4月9日(西暦247年)にて崩御(開花は12歳で即位して、その後30年生きたので42歳の生涯)。その時崇神が27歳で、即位する事になり(西暦247年頃)、此の頃より以前から後継を巡って高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)と政争が起きており、交戦状態に陥ったものと考えられ、西暦247年に宇那比姫(宇奈岐日女)が助けを求めて、その後亡くなります。

その後、『彦坐王』外、大勢の『和邇氏』とその支持者が(『安本美典氏』が述べられています)『地名』と伴に狗呉の居ない新天地(近畿)に渡って往った。ものと思われます。

此れは『魏』から『倭の大目』として遣って来た『張政』一行が調停に中り、高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)一族が『倭』(北部九州)から『大彦命』が居る近畿纏向へ移動する事で決着し、崇神紀12年(半分の6年後の崇神33歳の頃)(西暦253年)人民から『御肇国天皇』と褒め称えられます。と記入していますので、騒乱は治まり、平穏太平が訪れたものと思われます。

 

此の調停員の中に『天之御影神=高躬結び神』が、息子(日高彦彦穂穂出見尊)の嫁(息長水依比賣)と伴に通訳を兼ねて居たと想われ、『天之御影神=高躬結び神』は、須佐之男が連れて来た新羅人との交渉を行ったものと考えられます。

天孫族は遣り過ぎた『須佐之男王』を『倭王』から追放する事で事態の収拾を諮り、治まったものと考えられます。

『天之御影神=高躬結び神』の来る以前は、天孫族以前から居た『句呉』の『王』と考えられ、『狗古智卑狗』(氏)が考えられます。

 

 

わたくしには、『崇神』『玉依姫命』は『句呉』狗奴國(熊本県菊池市)の王(狗古智卑狗)を味方に付けて一緒に戦ったと考えています。『卑禰弓呼』(ひみここ)とは多分『崇神』と『玉依姫命』を指しているものと考えられます。

 

そう考えますと、247~248年の卑弥呼(宇那比姫)の死は『崇神』『玉依姫』に殺されたものと想う事も出来ます。

 

一方の近畿纏向に渡った『彦坐王』は、孝霊天皇=景行天皇として周辺に遠征し、天皇としての権威を示して豪族を従えていったのもと思われます。

こうして、倭と近畿纏向が分かれたものと考えられます。二倍暦説で考えますと、その後20年生きて『崇神』は61歳の生涯であった。(西暦281~282年没)と想像できますが、

古事記の『戊寅』(つちのえとら)を信じますと、258年説であれば38歳で崩御。318年説であれば98歳で崩御。何れも可能性がありますが318年説はちょっと不利です。、考えが迷われます。う~む。

 

垂仁』が近畿纏向に往った理由と時期が、気になります。考察してみましょう。

『垂仁』は、『崇神』29年1月1日に生まれ『垂仁』99年7月14日に崩御した。とされ、二倍暦説で考えますと、『崇神』14年~15年頃(西暦235年)城島(師木)で生れて、何時即位したかは不明ですが、

日本書紀に依りますと、『垂仁』は、『崇神』48年4月に皇太子に為ったとあり、此れは『崇神』24年4月と考えられ、10歳の時(西暦245年)に皇太子に為っていると思われます。そして、『崇神』68年(辛卯)没の『辛卯』(かのとのう)に拘りますと西暦271年没(51歳)に考えられます。が、『崇神』68年を二倍暦説での34年と考えますと西暦255年(乙亥)(きのとのい)没(35歳)になります。

 

もし、258年説を採りますと(垂仁23歳)の時期に『玉依姫姫』(74歳)が亡く為って居た場合は、『垂仁』と母『御間城姫』(大彦命の娘)は纏向に居る父『大彦命』(彦坐王の伯父さんになる)を頼ったと考えられます。『大彦命』は甥の『彦坐王』を説き伏せ、『彦坐王』が春日に残して居た『狭穂姫命』(彦坐王の娘)を『垂仁』と婚姻を結ばせる事を条件に、近畿纏向へ受け入れたものと考えられます。

 

如何も、258年没。であれば歴史の解釈が納得できます。

 

ですから、『狭穂彦王の乱』にて『狭穂姫』が焼け死ぬ時、『垂仁』が『狭穂姫』に向かって「お前を失ったら自分(垂仁)は如何したら良いのでしょうか?」と訊ねます。『狭穂姫』は、『彦坐王=景行天皇』と『息長水依比賣命=天鈿女命』の間の子である『丹波道主命』が儲けた『四人の娘』を娶りなさい。と助言して亡くなります。

此れは、垂仁の当時の立場が推察されます。日田纏向には、彦坐王(孝霊天皇)=景行天皇が『大王』として権勢を有していたものと考えられます。

 

垂仁』が、倭から近畿纏向への移動の理由は、疫病の流行と、其れによる風評に依る政情不安と熊本県菊池市の『狗呉王朝』の脅威であったと感じられます。城島(師木)の周りは狗呉人ばかりで、何時襲撃をされるか不安で、『崇神』は亡くなる時期には城島(師木)から政情の落ち着いていたと考えられます杵築へ移動しております(西暦253~254年頃)。(此処で、豊城入彦命・豊鍬入姫・大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛・十市瓊入媛命を儲けて育てています。)

 

『玉依姫』『下照姫』は、城島(師木)で孫の活目入日子(垂仁)と嫁の御間城姫と伴に居たものと思われますが、『崇神』の崩御の258年より以前に亡なって、『高良廟』貝塚古墳に埋葬されたのもと想われます

『崇神』の崩御にて、危険を感じた23歳の『垂仁』は『御間城姫』と伴に纏向に渡ったと考えられます。北部九州(特に筑後)には、矢鱈『隈』(句呉と考えられます)の地名が多いのです。此れは、狗呉族が北部九州を席巻していたと考える事が出来ます。

 

垂仁』は二倍暦説では即位後50年程生存しています。(西暦308年年頃の崩御73歳

 

崇神は258年に亡くなり、38歳での一生を終えたと想えます。

 

『垂仁』はその後、孝霊(彦坐王)=景行天皇の後を継ぎ、近畿奈良纏向の『大王』になり、父『崇神』の墳墓を、奈良纏向(行燈山古墳)と杵築(小熊山古墳)に築いたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

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『倭の大乱』には第二幕が有りました。(崇神は玉依姫の子であった。と考えられます。)

2014-09-19 | 古代史

わたくしは、『下照比賣命』が出雲から大善寺(師木の県)に帰って来た経緯を、『崇神』は知っていたと想像しております。

 

春日市に居た『開花天皇』が、大善寺の『伊香賀色謎』(いかがしこめ)=玉依姫を妻に娶っていますが、この『伊香賀色謎』(いかがしこめ)は『孝元天皇』の妃(正妻である皇后は『鬱色謎命』=豊玉姫で、『開花』は『鬱色謎命』=豊玉姫の子)で有ったと記されており、義理の母を娶った事になり、『孝元』=日高彦彦穂穂出見尊と『開花』=ウガヤフキアエズ=住吉神の年の差は少ないものと考えられます。

 

久留米市御井町の高良大社第一鳥居右手に在ります『高良下宮社』は中央の殿に『玉垂命』、左の殿に『須佐之男命』、右の殿に『孝元天皇』を祀ってあり、

ひょっとしたら、『物部保連』が『孝元天皇』の事で有ったとも考えられます。

 

『孝元天皇』が『玉依姫』を娶る条件を満たすものか、考えてみましょう。

 

前回のブログにて、卑弥呼(宇那比姫)の生誕(西暦179年~180年)と死亡(247年~248年)から兄の建宇那比命(西暦175年頃の生誕)の生誕年齢とその子である建諸隅命(西暦192年頃の生誕)とその子である竹野姫(西暦209年頃の生誕)の生誕年齢を推察し、竹野姫の夫『開花天皇』の誕生年齢を西暦205年頃と仮定しました。

『孝元天皇』の生誕は『開花』(西暦205年前後)の17年程前と仮定しますと、西暦188年前後が考えられ、『建諸隅命』(西暦192年前後)より少し年上で、184年頃と考えられます『玉依姫』より少し年下であったと考える事が可能です。

 

記紀では、『倭の大乱、』が終わった後、『大己貴命』が治める出雲の國譲り条項では、『天之穂日命』が三年経っても音沙汰無しで、つぎの使者の『天若日子命』も八年経っても仕事をせず、最後には『下照姫命』と結婚して出雲に根付こうとして、『高木神』の刺客に殺されます。最後に出てくる使者は、阿蘇氏の『建御雷之男命=健磐龍男命=豊玉彦』で、『建御名方命』を追って長野県の諏訪まで足を延ばして時間が掛かっています

 

『倭の大乱』の終了が184年頃と仮定しますと、『下照比賣命』は西暦183~184年頃に生れたものと考えられ、『宇那比姫命』より年が4~5歳下であります。14~15歳にて『天若日子命』と結婚し、直ぐに夫と死別、16歳~20歳(西暦200年~205年位)に師木(城島玉垂宮)に帰って来ているものと考えられ、仮に、西暦204年に帰って来たとしますと、二十歳であります。

この頃の倭王は、『孝安』(木綿の院=秋津島宮)から『孝元』(香春=軽)に成っていたものと考えられます。(わたくしの説では第7代『孝霊』は『彦坐王』で有りますので存在時間軸が違います)この頃における『孝元』の年齢は16歳~18歳が考えられ、もう『欝色謎命』(豊玉姫=天鈿女命=阿蘇津姫)を皇后に迎えていると考えられ、(当時は夫の『通い婚』で有ったと思われます)子である『大彦命』や『開花』になる『若倭根子日子大毘毘命』は春日(須久岡本遺跡周辺)にて養育していたものと思われます。前の倭王である『大己貴命』と(、前々王『須佐之男命』と『天照大神』の子)『多祁里比賣命』が儲けた、美しい二十歳の『下照姫命』は眩しい輝きに満ちて視えたものと考えられます。

 

『孝元』は4~5歳年上の『玉依姫』の居る師木(久留米市城島)へ通い、『彦太忍信命』(ひこふつおしのまことみこと)を儲けます。この『彦太忍信命』(ひこふつおしのまことみこと)が『屋主太忍男武雄心命』(やぬしふつおしおたけおごころのみこと)を生み、その子が『武内宿禰』であると日本書紀では述べています。

{古事記では、『彦太忍信命』が、由布院(木綿の院)に居たと考えられる(由布院には山下湖があり直ぐ傍の小田の池周辺から弥生~古墳時代の鏃が出土しています。)、木國造の祖、『宇豆比古命』の妹である『山下影姫』を娶り、『武内宿禰』を生んだと述べています。}

 

そうしますと、『彦太忍信命』は『崇神』の義兄で有った事になります。そして、『崇神』(西暦222年頃の誕生)より後に『屋主太忍男武雄心命』が誕生し、その後に『武内宿禰』が誕生している。と大雑把な捉え方が出来ます。

 

この様に『孝元』の妃の『伊香賀色謎』が『玉依姫』で有っても不可能ではない時間軸の環境が得られます

 

欝色謎命=天鈿女命=豊玉姫の居た場所は、『開花』が育ったと考えられる須久岡本遺跡(春日)周辺と想われます。香春(軽)に居た『孝元』は春日と師木(城島)を往来したものと窺い知れます。

『孝元』は早世したもの考えられ、『欝色謎命』の子である、『開花』が若くして即位したものと想像されます。

 

『伊香賀色謎』が『玉依姫』で有る。のであれば、『崇神』は『大己貴命』(耶蘇杵根命=瓊瓊杵尊の子)甥になり、師木(城島)の瑞垣宮(城島は当時クリークに囲まれて居たと想われます。)に、『倭大國魂神』(大己貴命)と『天照大神』を一緒に祀って居たが、疫病が流行って人民が大勢死に『天照大神』を『殿』の外に出した崇神5~7年条項は、大己貴命・高木神派と須佐之男命の取り巻き新羅人派が争い、高木神(和邇氏)派を『宮殿』から排除したとも解釈を考えられます。

 

此れは、『開花天皇』の跡目争いが、『崇神』と『彦坐王』(彦湯産隅命)=景行天皇との間にて起こったとも考えられ、権力争いに敗れた『彦坐王』(彦湯産隅命)=景行天皇は勝山黒田に暫く居た後、『大彦命』が先に渡った中国~近畿方面へ移動したものと考えられます。

 

日本書紀崇神紀8年10月に、國が治まったので崇神天皇は高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせて、大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)(大己貴命)を祀らせて酒を献上させた後、宴を催し次のような歌を謡したとされています。

 

此の神酒は、我が神酒ならず、倭成す、大物主の、醸みし神酒、幾久、幾久。

 

此れは、『崇神天皇』と『大己貴命』の魂が一体化しており、甘木朝倉田主丸一帯の高木神(和邇氏)の地を制圧した後の感慨の表現で有った。と想わせます。

 

何故なら、この『活日』の高橋邑は三井郡大刀洗町の高橋地区のことであろうと考えられます。直ぐ傍が『赤司八幡宮』(景行天皇がお見えに為って、比咩大神を『道主の貴』として祀るように述べられた宮です)があり、後に、『景行天皇』以降の食事を宮中にて担当する膳部臣(かしわでのおみ)『高橋氏』の発祥地と考えられます。北には朝倉があり、南は筑後川の向こう岸に『鹿狩』(ろっかり)地区があり、此処は田主丸になり、和邇氏の本貫地であります。

「むつかり」が「ろっかり」に変化したと考えられ、『磐鹿六雁命』(いわかむつかりのみこと)(『日本料理の祖神』と呼ばれています。)が亡くなった時、景行天皇は、『武雄心命タケヲゴリ』を宣命使として遣わした。と『高橋氏文』にあり、『武雄心命』は佐賀県武雄市で祀られており、『磐鹿六雁命』の父は『大穂輿命』(おおほこしみこと)その父が『大彦命』(おおびこみこと)でその父が『高良下宮神社』で祀られています『孝元天皇』であります。

高橋氏』は奈良や若狭(近畿)が発祥では無く、此処、筑後の御原郡(みいはらごおり)と当時呼ばれていたと考えられます『赤司八幡宮』近くが本貫地で在ったものと思われます。

高橋氏』は『垂仁』か『景行』と伴に近畿へ渡ったと考えるべきです。

 

ですから、『崇神』時、祀りと宴を執り行った場所は、一般的には甘木に在ります『大己貴神社』周辺とも考慮されますが、『赤司八幡宮』周辺は弥生時代の遺跡が多くあり、後に『景行天皇』も此処を訪れており、可能性があります。因みに、『赤司八幡宮』の神紋は『三つ巴』であり、此れは『須佐之男命派』(西アジアにルーツを持つ『鮮卑族拓跋氏』=物部氏)のルーツを意味していると考えられ『宇佐神宮』・『高良大社』・『大善寺玉垂宮』・『大己貴神社』・『志賀海神社』・『住吉神社』と同じであります。

 

と謂うことで、『大己貴命』の甥である『崇神天皇』が、出雲の神宝を視てみたいと考えるのは自然であり、老練で交渉術に長けた『建諸隅命』を派遣したものと思えます。

 

そして、『倭』を追い出した近畿の『彦坐王』=の居る近畿纏向へは行くことが出来なかった事情が有った事になり、杵築に居た頃の『崇神』は、『句呉』(隈氏)との戦いで追い詰められていたとも勘繰られます。しかし、近畿纏向に行った『垂仁』は崇神が亡くなった後、身重妻の『狭穂姫』を伴って久留米(久目)に里帰りを行なっており、『句呉』との争いは無かったものとも考えられます。

 

考えさせられますのは、『彦坐王』(景行天皇)は何故、崇神の子である『活眼入彦命』を近畿纏向に受け入れたのでしょうか?

此れは、『彦坐王』(景行天皇)が感情的に為らずに見識を持っていた証でしょう。

『崇神』との権力争いの時も、大きな争いを避け自分から身を引き、弟に譲り、大勢の人々が移動して新天地を目指したものと考えられます。

『倭』の土地の数倍の広大な中国~北陸~近畿~中部の土地を『孝霊天皇(景行天皇)』として治める事で、見識が広がり、國を平和に長く治める為には、自分の息子では無く、『狭穂比賣命』と結婚させ次の世を継がせたかったのかが、漸く理解が出来ました。

『倭』の正統な大王である『大己貴命』南九州曾於郡の太耳の血を受け継いだ『垂仁』の血が、平和維持の為に欲しかったので有りましょう。

 

 

 

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出雲『神原神社』古墳から出た、景初三年の鏡は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと思われます。

2014-09-12 | 古代史

今日は『建諸隅命』(建日方命)を考えてみたいと思います。

建諸隅命』は『鐃速日』ルーツがあり、先代旧事本紀や勘注系図では八代目に記入されています。(世代を重ねる一世代を16~17年で考えますと『鐃速日』が居たのは『建諸隅命』より128~135年前になります。)

 

建諸隅命』(武諸隅命)は『建田背命』の子とも、『建宇那比命』(先代旧事本紀)の子とも述べられ、系図上にて混乱を生じていますが、この『建田背命』『建宇那比命』の妹が由布院(木綿の院)に居た『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)=卑弥呼と考えられます。

建諸隅命』の母は、国宝の『勘注系図』では『葛木の高田姫』とされており、此れは大分市に在る『高尾葛木』に居た『高田姫』を娶った。と謂う事になります。此の葛木には『金の手』『高田橋』『鉾神社』があり、間違い無いものと考えられます。

由布院で生れた『建諸隅命』は、妹?(妹)に『大海姫』が居り、後に杵築へ移動して崇神天皇との間に能登國造祖になる大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛命・十市瓊入媛命を儲けています。

杵築は当時、紀伊(杵)国と以前は呼ばれていた様で、紀伊國荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)とも契りを結び、『豊城入彦命』と、『豊鍬入比賣命』を儲けています。崇神天皇は病に臥せっていたものと考えられ、『豊鍬入比賣命』に『天照大神の移動を託された』と記しています。

崇神は、此処杵築で亡くなった後、杵築の人々は『小熊山古墳』を築き、葬ったのでしょう。

 

活眼入日子命(垂仁天皇)との関係を考えますと、杵築で崇神が病に臥せって居た時は、久留米大善寺玉垂宮に居たものと考えられます。その後、嘉穂にルーツ(春日建国勝戸米命)を持つ、沙本之大闇見戸賣命と彦坐王の子である狭穂彦(日下部の祖)の妹、狭穂姫(嘉穂姫)を娶り、近畿纏向に居た伯父、彦坐王(彦湯産隅命・孝霊天皇・景行天皇)の元へ往ったものと考えられます。

亦、伯父である『彦坐王』(景行天皇)は生れ故郷の田主丸から行橋勝山黒田を経て『孝霊天皇』(景行天皇)として中国~近畿北陸を制して、息子(吉備津日子命)を岡山に配し、『彦坐王』(景行天皇)の伯父である『大彦命』が棲んで居た奈良纏向に居を構えたものと考えられます。

『彦坐王』(景行天皇)は日本の国家としての体裁を整えた『最初の大王』であったと思われます。

 

 

わたくしは、城島(師木)に居た『崇神天皇』が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ち出した出雲の『神宝』を見てみたいと『建諸隅命』を出雲に派遣した理由を考えてみました。

 

崇神天皇が『建諸隅命』に出雲の神宝を召し出す様に使者として遣わした経緯と顚末を日本書紀では次のように述べています。

六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔己酉(ついたち つとのとりのひ)に、群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命(たけひなてる)の、天より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む、是を見欲(みまほ)し」とのたまふ。則ち矢田部造の遠祖諸隅(もろずみ)を遣して献(たてまつ)らしむ。是の時に當りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり。・・・(『日本書紀』崇神紀より)

出雲臣の遠祖の出雲の『振根命』(ふるね)が、『建日照命』(たけひなてる)が天から持ってきた神宝を管理していたのですが、振根命が筑紫国に行っていた時に、振根命の弟の飯入根命(いひいりね)が崇神天皇の命に従って、神宝を建諸隅に渡してしまいます。振根命が筑紫から帰って来ると、すでに献上した後であり、弟の飯入根命に「数日待つべきであった。何を恐れて、軽卒に神宝を渡したのか」と謂って責めた。この事があって、幾年月を経ても振根は弟に恨を懐き、やがて弟を殺そうと思うに至り、弟を欺いて木刀を真刀に似せて取り換えさせ、殺したのである。

以上が事の成り行きであります。

 

 

先ずは、『建諸隅命』の生存時期の検討をしてみたいと思います。

当時は15歳から17歳位で世代を重ねていたと考えれば『建諸隅命』(湯垢離・由碁里)の子が、若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)の皇后となった竹野姫で、その子が彦湯産隅命(彦坐王・景行天皇)と謂うのであれば、崇神や彦坐王とは30~35歳の年の差が有ったと考えられます。

次に卑弥呼(宇那比姫命)です。

『倭の大乱』が起きたと考えられていますのが、後漢の霊帝の光和年間(西暦178~184年)とされ、宇那比姫命(卑弥呼)の即位は幼少(4~5歳)で有ったと考えられ、大乱の終了した時期の西暦184年頃となり、逆算しますと、生誕は西暦179~180年前後と想像されます。卑弥呼は247年か248年に亡くなったとされていますので、68~70歳程の人生で有ったと考えられます。

『宇那比姫命』(卑弥呼)の兄である『建宇那比命』(西暦175年頃の生誕と考えられます)の子が『建諸隅命』であります。(『建田背』の子とも記されていますが、『建田背』と『建宇那比命』は同一人物とも考えられており、わたくしも、その説を支持致します。)『建諸隅命』が生誕したのは西暦192年前後と想像されます。

 

そうしますと、『建諸隅命』の子である『竹野姫』が生れたのは西暦209年頃と考えられます。開花が『竹野姫』より幾分年長と仮定して西暦205年前後に生れたと考えれば、梁書通典(266年)に述べて在ります『倭女王』と伴に爵位を受けた『男王』とは、の開花天皇であった。と主張されておられます『桂川光和』さまの説が正解でありましょう。(開花61歳位

崇神・彦坐王の生誕は西暦222年頃となり、共に卑弥呼に遭う機会が有った事になります。崇神が開花の後を受け継いだ時期は不明ですが、仮に、開花が62歳頃に亡くなったと考えれば、崇神が45歳頃に即位した事になります。そして、出雲の神宝を視たいと述べた頃の『建諸隅命』の年齢は76歳位が考えられ、相当の老人の使者であった。と想像出来ます。

其れとも、皇太子の時から『建諸隅命』は崇神に使えて居て、もっと若いときに出雲へ出向いたとも考えられます。しかし、『建諸隅命』は開花天皇の時代(西暦239年頃・景初3年)卑弥呼の使者『都市牛利』として魏に遣わされたと考えられており、この時分の『建諸隅命』の年代は44~45歳と考えられ、油の乗った時期は開花天皇に仕えて居たと考えられ、崇神に使えたのは、『老後の最後の奉仕』であったと想われます。

逆に考えますと、この仕事は『建諸隅命』でなければ出来ないものであったと思われます。

 

実は、ホツマ伝では先代旧事本紀や勘注系図とは異なり、『ニギハヤヒ』と『建日照命』は兄弟と記入され、その『建日照命』(たけひなてる)の子が『建登米命』(たけとめ)とされ、『建登米命』の子が『建宇那比命』で、『建諸隅命』の父であります。

建諸隅命』から遡れば三世代前が『建日照命』になり、一世代を17年で計算をしますと51年程以前に生れたのが、『ニギハヤヒ』と『建日照命』(少名日子命?)で有った事になっており(西暦140年頃)、『倭』から神宝を持ち出した『建日照命』は曾祖父に当る事に成ります。

曾祖父の出雲へ持ち出したものを曾孫である『建諸隅命』には受け取る権利を有している。との『論』を張れる事になります。

建諸隅命』は手土産として魏から卑弥呼(宇那比姫)宛に頂いた景初三年銘の三角縁神獣鏡を『飯入根命』に渡して、代わりに『神宝』を受け取って城島(しき)玉垂宮(瑞垣宮)の『崇神』の元へ帰って来た。と考えられます。

其れが、以前は高良玉垂宮に『三種の神宝』(神璽・宝剣・鏡)が在ったとして記録に残っていますが、此れらの書物は、本来は大善寺玉垂宮に収められていたのを、江戸時代初期に有馬藩が高良山玉垂宮本殿造営時に大善寺玉垂宮から移動したと考えられます。{高良山玉垂宮の創建は履中元年(西暦400年)とされています。}

 

と、謂うことで、島根県の雲南市加茂町に在ります『神原神社』古墳から昭和47年出土発見されました景初三年銘(鋳出)の三角縁神獣鏡(通称、卑弥呼の鏡)は『建諸隅命』が『飯入根命』に渡したものと考える事が出来ます。

 

 

 

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高良神(玉垂命)は、出雲から帰ってきた『下照比賣命』(高比賣命)で有った。と考えられます。

2014-08-25 | 古代史

多祁理比賣命は『下照比賣命』を木俣に挟んで出雲から宇佐に帰って来ましたが、『下照比賣命』はその後出雲にて天若日子命と結婚をしましたが、天若日子命は高木神の返し矢にて亡くなります。『下照比賣命』は大いに悲しみ泣き腫らしたと記されていますが、その後の彼女の行方は記されていません。如何なったのでしょうか?

今日は、わたくしの想像を交えてその後の『下照比賣命』の行方を考察して見たいと思います。

 

多祁理比賣命の『倭』(九州宇佐)への帰郷への手助けは物部安曇族が行ったものと考えられ船を使っての行動で、国東半島奈多沖の岩礁(市杵島)に乗り上げ上陸した。との伝承があります。

下照比賣命』の場合も同様に、生誕地である『倭』(甘木朝倉)への帰郷を願望したものと想われますが、此処は高木神の本貫地でもあり、望みが叶わず、そう遠くない物部安曇族の拠点である有明海傍の『大善寺玉垂宮』周辺に匿れたものと想われます。

 

そして、『玉垂命』の本質は『下照比賣命』(=御井神)である。と考える事が出来ます。

 

高良玉垂命』の高良山への来臨は、高良山『古系図』内注記に『仁徳天皇治天55年9月13日』とあり、これは西暦367年になり、4世紀後半のお方として研究者は考えを始め、武内宿禰説や神功皇后に干珠・満珠を渡した安曇磯良(アズミノイソラ)説・物部保連(モノノベノヤスツラ)説等諸説があり、議論がありますが、確定されていません。

 

わたくしの説での、この『大善寺玉垂宮』には、3世紀後半~4世紀初頭まで『崇神天皇』が居られた事になっており、『崇神天皇』は社の殿にて、倭大國魂神(大物主命)と天照大神を祀って居たと日本書紀に記されていますが、『下照比賣命』が出雲から帰って来たと考えられますのは、崇神以前の時間軸でありますので、わたくしには、『大善寺玉垂命』の誕生した時間軸を西暦367年より古く考える必要があると思われます。

考察をしてみたいと思います。

 

ネットにて『玉垂宮』を開きますと古賀達也さまの研究ブログが有りました。

拝見しますと、

『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある。

『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。

平成九年、広川町郷土史研究会より稲員家文書五一通(近世文書)が冊子として発刊された。同書巻頭の佐々木四十臣氏(同会顧問)による解説「稲員氏の歴史と文書」では、稲員家のことが次のように紹介されている。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。

高良大社が三種の神宝を持つ社格であることは重要だ。伊勢神宮や熱田神宮でさえ三種の神宝すべてを持っているとは聞いたことがない。しかも高良大社では三種の神宝を隠し持っているわけではない。御神幸祭ではその行列中に堂々と並んでいるのである。天皇家以外で三種の神宝をシンボルとして堂々と祭っている神社があれば教えてほしいものである。

高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

(以上要点のみ転写記入しました)

 

と述べられており、

わたくしは以前に、大善寺玉垂宮にて大善寺宮司の『隈正實』さまに『高良玉垂宮』との関係をお訊ねした処、

『関係がない事はないが、高良大社より古く、明治36年に1800年祭を、昭和28年に1850年祭を執り行って居り、私が平成15年に創設1900年祭を執り行った。』と憮然とした表情で胸を張って強調された事を思い出しました。

 

上記の高良大社の記述は、高良大社(高良玉垂命)から大善寺玉垂宮が別れたかの様に印象附ける様に記述されており、大善寺玉垂宮の『隈正實』さまにとっては、異議のある記述だったようです。

 

わたくしの解釈では、『下照比賣命』若しくは、後の『玉依姫=息長帯比賣命=神功皇后』は大善寺附近で『物部保連』と再婚して九人の子を儲けた。

第一王子斯礼賀志命の末裔は大善寺瑞垣宮(玉垂宮)にて後の天皇(欽明)に遣えた。その後大善寺玉垂宮の宮司(隈氏)になって今日に至っている。

次男朝日豊盛命の末裔は高良山高牟礼で筑紫を守護した。

と謂う事になります。

 

高三潴に在ります『月読神社』内に、『高良廟』と刻まれた『額』の鳥居と『塚』は『玉垂命の墳墓』と謂われており、『下照比賣命』は此処に葬られているものと思われます。

(追補、月読命は大山祇神と同一人物と考えられており、大己貴命の父とも謂われています。高三潴の『月読神社』の古墳は江戸時代有馬藩が発掘して、剣を持ち帰った。とされており、此処に埋葬されていますのは大己貴命の父と考えられます『月読命(大山祇神)』であろう。と考えられます。であれば、下照比賣命は祖父の元に返ってきた。と、考える事ができます。

下照比賣命』の埋葬地はみやま市瀬高の飯江はえ近くにあります玉垂宮附近とも考えられます。)

 

わたくしの解釈では、西暦360年代大善寺玉垂宮から高良山玉垂宮の分宮に尽力したのが朝日豊盛命の末裔の人(物部安曇氏)であり、その末裔の『草壁保只』が802年に高羅山の北側の平地、北野町稲数に移り住み、姓を『稲数』に変え、『止誉比咩神社』(豊比咩神社)を造ったとも考えられますが、

其れならば、景行天皇が『止誉比咩神社』(豊比咩神社)に遣って来た時間軸と合わず、北野町稲数邑では『草壁保只』が遣って来るよりもっと古い時代(景行以前)から『止誉比咩命』(豊比咩命)を祀っていたものと考えられ、『止誉比咩神社』(豊比咩神社)の最初の祭神は『多祁理比賣命』で有ったろうと思われます。其れを訊いた『景行天皇』が『道主の貴』として祀る様に命じたものと感じられます。

 

 

『御井神』とは、『木俣神』とも呼ばれ『多祁理比賣命』と『大己貴命』の間の子の『下照比賣命』とされ、『高比賣命』とも呼ばれています。高羅山が高良山になったと謂われ、この『高+羅』の朝鮮語での意味は『高の國』の事である。と「宝賀寿男」さまが『御井神の系譜』の中で述べられています。

御井は「三つの井戸」とも解釈され、之は祭祀を行なう『巫女』の禊(清め)が想像され、高羅大社の『御手水の井』と朝妻に在ります『味水御井神社』と赤司八幡宮の傍、大城小学校内にある『益影の井』の三つの『井』をもって『三井』の始まりに成ったのではなかろうか。とも考えられていますが、わたくしには、素直に『御井神』(下照比賣命)を表す『御井』と思われます。

 

 

根拠の1、『大善寺玉垂宮』に祀られています玉垂命は、千木は外削ぎの『男神』となっていますが、口伝では、本当の祭神は『女神である』とされており、『謎』の女神となっております。

『大善寺玉垂宮』はその後、高良山にも進出して『高良玉垂宮』(筑後國一の宮)と為ります。(大善寺宮司の『隈正實』さまは、大善寺の方が古いと述べられていました。)

わたくしには、此の高良山進出した時期が、仁徳天皇55年(西暦367年)と思われます。

この高良山進出の理由は、肥前國水上悪党の『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が大善寺玉垂宮を占拠して高良山に一時避難を余儀なくされた為であろう。と考えられ、

其れを退治したのが下照比賣命(玉垂命)の末裔の『藤大臣』(玉垂命)であった。と謂う解釈になります。

 

※{玉垂宮の『鬼夜』祭り伝承では、仁徳天皇の御代56年(368年)1月7日に藤大臣(玉垂命)が、玉垂宮を占拠していた肥前國水上悪党の『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)を退治した事に由来している由。}

 

{『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)は句呉(こうご)の渾名と考えられ、水上の場所は。佐賀市大和町川上峡辺りとされ、此処は川上梟帥(カワカミタケル)が叛乱を起こした場所とも考えられております。現在は、『秦』から来たと謂われる『徐福』が上陸した地とも謂われており、『金立』(きんりゅう)の地名もあります。}

 

そして、高良山に其の儘鎮座したものと考えられ、『祖神』は大善寺玉垂宮に戻ったと思われます。

 

根拠の2、久留米市の東部にある高良山の下を御井町と称し、朝妻に在ります『味水御井神社』へ高良玉垂宮より『行幸』行事が行なわれていました。『味水御井神社』の現在の祭神は水神の『水波能賣命』とされていますが、『御井神社』の本質は『御井神』と思われ『下照比賣命』を影にて祭って居たと考えられます。

三井郡北野町大城(現在は久留米市北野町大城)に在ります赤司八幡宮(あかじはちまんぐう)は、以前は『止誉比咩神社』(豊比咩神社)と呼ばれ、『水沼の君』(三潴郡の大善寺玉垂宮を指すものと考えられます)が祀り守って居たとされ、『景行天皇』の九州遠征の折、「道主の貴(ちぬしのむち)」として祀るよう当時の『水沼の君』(師木の県主)であった『猿大海』に命じて『止誉比咩命』(豊比咩命)の御魂を祀ったとされています。

『豊比咩』とは、豊後の『比咩大神』、即ち『宇佐』に居られた『多祁理比賣命』を指すものと考え直さないといけないかもしれません。

 

根拠の3、10月は全国の神々が出雲に集り、出雲國以外は神無月となるのですが、高良玉垂宮の『神』は出雲へは行かず、『神有月』とされ、不思議とされています。此れは、わたくしの説での『下照比賣命』であれば納得が行きます。このお方の父は以前『倭』(北部九州)を治めていた『大己貴命』であります。出雲に行く必要はありません。

 

根拠の4、『下照比賣命』の母である『多祁理比賣命』は『宇佐神宮』に『比咩大神』として祭られており、勅使道筋に『宇佐大善寺』が存在します。これは『水沼の君』(久留米市三潴大善寺玉垂宮)からの往還があった事を意味しており、証拠として、安心院に在ります『三女神社』の由緒には「水沼の君(三潴大善寺玉垂宮)が此れ(三女神社)を守る」と記入されています。三女神とは、わたくしのブログでは『多祁理比賣命』(田心比賣命)のみの『一女神』で有った。事に為っています。

 

根拠の5、

「高良山には元々高木神(高御産巣日神、)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)とも呼ばれていましたが、玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座した」

 との伝説が残っていますが、これは『高木神』と『高良玉垂命』の関係を推考出来る貴重な伝承であると考えられます。

わたくしには、『高木神』と『高良玉垂命』の間は元々仲が良い関係ではなかったと感じられ、渋々『高良玉垂命』を受け入れた事が解ります。此れは『高木神』と『下照比賣命』の関係に置き換えると納得できます。

『高木神』と和邇氏は、『下照比賣命』の父母であります『大己貴命』と『多祁理比賣命』をクーデターにて筑紫より出雲へ追い遣った張本人です。

 

この様に、わたくしの説にて考えを進めますと『玉垂命』は『下照比賣命』で有った。と考えられる事が導かれます。

 

そして、『大善寺玉垂命』の誕生は、『倭の大乱』と『崇神天皇』の間に考えられます。

高良大社にあります『三種の神宝』は、三潴の大善寺玉垂宮で生れた『崇神天皇』が出雲の神宝十種を見てみたいと謂う事で、『建諸隅命』に命じて出雲の『飯入根命』から受け取っており、その神宝の一部と考える事が出来ます。

 

亦、以前にも述べましたが、久留米市御井町に在ります『祇園山古墳』は活眼入日子(垂仁天皇)の一番下の弟の『倭日子命』の墓であろうと考えています。奴婢の殉葬が視られます。

 

 《追補》訂正。

その後の調査にて、『比咩大神』(天之児屋根命=景行天皇の妻=水波能女命=豊玉姫=秋永氏の元)と『多祁理比賣命』(大己貴命の妻)は別人である事が判明しています。

亦、磯城宮に居た『崇神天皇』は、母親の『玉依姫=秋永氏の元で、豊玉姫の姪』(伊香賀色謎命)と一緒に居たものと考えられ、『玉依姫』も『玉垂命』の候補として考えられます。

2021年現在、わたくしの、考えでは『玉垂命』は、『玉依姫』(伊香賀色謎命=神功皇后=息長垂姫)であった。と思っております。考えが変わっていますので、訂正します。

 

 

 

 

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『小熊山古墳』は『崇神天皇陵』と考えられます。

2014-07-01 | 古代史

最近、田主丸に棲んで居られたと考えられます竹野媛(豊姫)から生れた彦湯産隅命の事を考えて居ります。

このお方は、古事記に於いては、開花天皇の皇后は丹波竹野媛(尾張氏)(伊香色謎は『妃』とされています)で、その子である彦湯産隅命は天皇になる筈でありますが、其の後の記述がなく行方知れずであります。

日本書紀にては後から娶った伊香色謎(物部氏)を開花の『皇后』にして、崇神天皇を生んだとし、先に娶った竹野媛は『妃』であると述べており、竹野媛の子である彦湯産隅命の其の後には何も触れておりません。

如何も、日本書紀の記述には捏造が感じられます。

開花天皇が3番目に娶る和邇氏の姥津媛は、わたくしの説での解釈では竹野媛と同じく田主丸に棲んで居た事になっており、彦坐王も彦湯産隅命・景行天皇も同じ田主丸地区で育った事になります。実は、わたくしには此の彦坐王と彦湯産隅命と景行天皇は同一人物に想えるのであります。

日本書紀にては、彦坐王と息長水依比賣命の間の子である丹波之道主命を『彦坐王の子とも、彦湯産隅命の子とも謂う』と曖昧に述べてあり、「此処が違っていますよ」と謂う暗示が感じられ、編纂者の良心の呵責を感じます。

と謂うことは、姥津媛(和邇氏)は竹野媛(尾張氏)の事になりますが、姓氏が違います。しかし、由布院に棲んで居た和邇氏元祖の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の嫁である『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)は尾張氏であり、このブログのきっかけに為った耶馬渓の雲八幡神社の宮司である秋永勝彦(息長氏)さまのご先祖も、応仁の乱時に武田氏(建田氏)=尾張氏と伴に行動をしており、古来より息長氏と和邇氏と尾張氏は関係が深いと考えられます。

もし、この様なわたくしの考えが正しければ、近畿纏向を造った大王は『彦坐王』が『彦湯産隅命』・『景行天皇』でもでも有った事になります。

どの様な理由にて、長男で有ったと考えられる『彦湯産隅命』(彦坐王)が勝山黒田に移動して、その後、《孝霊天皇》として中国地方や近畿地方に移動したのかが、崇神天皇との関係上で疑問が残りますが、『彦湯産隅命』(彦坐王)は崇神の子である活目入彦命(垂仁天皇)を纏向に呼び寄せ『狭穂媛』と結婚させていますので、良好な関係を持って居たものと想われます。

と謂うことは、如何も崇神天皇は近畿纏向へは行っては居らず、倭(北部九州)にて亡くなったものと考えられます。

そう謂うことであれば、『崇神天皇』の墓は九州に在る。とも考える事ができます。

わたくしの2012年3月30日のブログ『崇神天皇が豊鍬入姫命に天照大神を託した理由が明らかになりました』では、次のように述べています。

 

国宝の「海部氏」系図では建田勢命の子として、大倭玖邇阿禮姫が建諸隅命の兄妹?として記入されています。大倭玖邇阿禮姫の父が建田勢命になっています。そして、建諸隅命の子の日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)の子として大海媛{葛城千名媛・八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)}として記入されています。

 

また、一方『おとくに』さまの尾張氏概略系図にては、建宇那比の子として、建諸隅と兄妹として大海姫(葛木高名姫)が記入されています。そして、尾張氏詳細系図では、大海姫は師木の瑞垣宮(=久留米市大善寺玉垂宮)に居たと考えられる崇神天皇との間に大入杵命・八坂之入日子命を儲けています。この八坂之入日子命は岐阜県可児市へ渡っておらず、日田市美濃で八坂入姫と弟姫を儲けています。

また、日本書紀にて、{崇神天皇は紀伊の国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしめひめ)を妃(側室)として豊城入彦命、豊鍬入姫命を生んだ。あるいはこの妃は、大海姫の娘の八坂振天某辺とも謂う。}

となっており、豊鍬入姫命の母は八坂振天某辺であるとされています。

大海姫(おおあまひめ)は系図上にて矛盾があり、この事をどのように考えれば善いのか一考を要します。

建諸隅命を父に持つ日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)は竹野姫(豊受姫)の兄で、由布院で生まれたと考えられます。そして、日本得魂命の子が大海姫です。

 

わたくしは、系図上の問題とは別に、大海媛(の娘)が八坂振天伊呂辺である。と記入されている事に注目しました。もしも此の事が本当であれば、大海媛は杵築市に居たと考える事が出来ます。杵築は海部氏・尾張氏・紀氏の拠点であり、八坂・宮司・大神・真那井の地名が見受けられます。おそらく、八坂の名前の発祥は此処から広まったものでしょう。八坂振天伊呂辺は九州での痕跡と捉え、八坂入彦命も、九州と捉えるべきです。

 

と、述べており、『大海媛』は杵築市に居た事になっており、崇神天皇は杵築へ『通い夫』として久留米の城島(しき)より往来をしていたものと考えられます。

 

杵築市に在ります『小熊山古墳』は4世紀前半の前方後円墳とされ、朝顔形埴輪やヒレ付き円筒埴輪が発掘されており、首長墳墓としては近畿王権(彦座王)や吉備古墳(彦坐王《孝霊天皇》の子が吉備津日子命)との結びつきが強く考えられており、研究者には天理市柳本町に在ります『行燈山古墳』が崇神天皇の墓所と考えられておりますが、後方円墳部が三段になっており、墳墓の形が『小熊山古墳』酷似しており、之(行燈山古墳)は後に『垂仁天皇』が近畿で造り直したものと考えられます。

 

わたくしには、此処『小熊山古墳』に眠って居られますのが『崇神天皇』の実体であろう。と考えられます。

 

 

 

 

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熊襲の意味するところを考える。

2014-06-17 | 古代史

2013年5月28日のブログ『地名から紐解く古代史』にて、宮崎県の佐土原町や川南町の地名は由布院(木綿の院)から移動した人達が、川南古墳群や後に西都原古墳群を造ったものとの考えを示していますが、移動のきっかけは、わたくしには『倭の大乱』に有ったと考えられます。

わたくしの『倭の大乱』の解釈は、倭王で在った須佐之男命が高天原(木綿の院)の杵築を追放され出雲に渡った後、天照大神を祭祀する巫女と須佐之男命の間に生れた五男三女(2014年4月5日のブログ『同一人物を考える』にて三女神の実体は多祁理毘賣命一人であったと考えられます。)の内、多祁理毘賣命は天降りをさせられ、大分市に居た宗方氏のルーツである『宗像』の『沖の島』で祭祀をしたものと考えられます。

須佐之男命の取巻きである五十猛の豪族は成長した多祁理毘賣命を引き取り、娶ることを願望しますが、多祁理毘賣命は筑紫を治めていた大己貴命を選びます。多祁理毘賣命と大己貴命は甘木の『大己貴神社』附近で暮らして、阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を生んで生活をしていたと考えられます。

現在、筑前甘木の『大己貴神社』(おんがさま)と地元の方が呼びますのは、大神大明神(おおかみ→おおが)から、(おおがさま)→(おんがさま)に訛って変化したものと一般に考えられていますが、

わたくしには、『遠賀(オンガ)(宗像)さま』に聴こえ、『高木神と和邇氏の乱』によって筑紫を追放された『多祁理毘賣命と大己貴命への同情』に想えます。

第14代仲衷天皇の時代の甘木秋月野鳥で起きた(熊襲)『羽白熊鷲の乱』『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』とも考えられます。奈良纏向に居られた天皇は、将軍に任せずに帝自ら神功皇后を連れて戦をする様は尋常ではありません。

『羽白熊鷲の乱』を『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』と考えますと、『大国主命』の存在時間軸はそんなに古くは無く、仲衷天皇より精々2世紀位前と考えられます。

亦、『神武天皇の東征』で出て来ますニギハヤヒの家臣、登美の『長髄彦命』が占拠した『大和』とは行橋の『勝山黒田』の事で、第12代景行天皇の弟である若木入日子命が祖父である『彦坐王』が孝霊天皇として以前に棲んで居た『勝山黒田』を奪還する話である。とする、わたくしの説の根拠になる、日本書紀の景行12年の『熊襲乱』を翌13年収めた後『勝山黒田』に6年も行宮を置いて九州を巡幸し、最後に祖父『彦坐王』の出身地である浮羽(田主丸~吉井)に3泊した後、近畿奈良に帰っています。

このニギハヤヒの家臣、北九州登美の『長髄彦命』の占拠も『大国主命派の乱』と考える事ができます。

そうしますと、720年の『隼人の反乱』は、(663年の『白村江の戦』で敗れた倭は日本国として)国力増強を律令制に求めた『班田収受法』が原因であろうとされていますが、『根』に有る心理には『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』と捉える事が可能です。

 

『高木神と和邇氏の叛乱』にて、神産巣日神と少日子名命の居た由布院(木綿の院)も戦場になったと考えられ、湯布院町塚原には数多くの塚があり、傍を流れます川は『戦い川』と命名されています。

多くの神産巣日神(大己貴命)派の人達が由布院から宮崎(川南・西都原)方面へ避難したものと思われます。由布院の佐土原・川南・霧島の地名・神社が宮崎県に在ります。と以前のブログにて述べています。

 

わたくしは、音楽とオーディオが趣味ですが、宮崎県児湯郡都農町に『赤木』さまとおっしゃる先輩が住んで居られ、わたくしと同じ装置を所有されており、時々音楽を聴きに御邪魔いたしております。

都農町は日向市の南に位置して、都農川が流れており、その『赤木』さま宅の直ぐ傍に『都農(つの)神社』があります。

実は、この『都農神社』は『日向國』の『一の宮』の格式であり、『都農』は『』とも解釈されます。此処では、『大国主命』を祀っています。

九州では大国主命を祀る神社は中国~近畿地方と比べたら大変少なく研究者の疑念でありました。筑前甘木の『大己貴神社』と宮崎日向國一の宮『都農神社』で祀る『大国主命』は研究者にとって『謎』とされています。

亦、その南の西都市三宅に『印鑰神社』(いんにゃくじんしゃ)が在ります。この『印鑰』とは、印鑑(権力)鍵(倉庫)を意味するそうで、それを祀ったのが『印鑰神社』である由。全国的には九州に多く有り、国府が置かれた律令制(7~8世紀)より古く、以前から在ったものと考えられています。

この西都市の『印鑰神社』の由来は古く、成務天皇の時代に国府が置かれ、その時の創建であると伝えられ、日向國の総社とされていますが、此処でも大己貴命(大国主命)を祀っており、

これは、木綿の院より宮崎に来たのは神産巣日神(大国主命)派の人達である。とのわたくしの説を補完し、真実味を増すことになり、『律令制への反発』『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』へと繋がり、其れを収める為に血縁同族である豊後豊前の地の人々を派遣して対処しています。これが『隼人の反乱』の真の相であると考察されます。

 

この様に『記紀』に述べられています『熊襲』の意味は、時の大王(天皇)に従わない人々、即ち、以前の大王(大国主命)に繋がる人々の抵抗であった。とも謂える事ができます。

 

 

 

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何んと!!!杵築市には1000を越える夥しい古墳が在った。

2014-05-14 | 古代史

わたくしは、囲碁を打ちませんが、囲碁がお好きな方に伺いますと、囲碁で大切な事は『大局』を見る眼であると述べられます。之は『一事が万事』で、遥かなる古代を考える上でも同じ事であると思われます。

(研究者全員がその時代に遡り、同時に視て確認しない限り)完全なる証拠は在り得ず、現象である遺物を眺めたり、伝承を信じたりして「多分、想であろう」を元に歴史は語られている訳ですが、学者は往々にして「木を見て森を見ず」の感があり、現象面を重要視する余り、想像力を持ち合わせて居られない方が多いようです。

近畿説では納得の行く論理の繋がりが有りません。例えば『神武天皇の東征』の解釈であります。

(日本書紀では)神武天皇は難波から生駒山を越えて大和を目指したと解釈されていますが、その解釈によると、途中生駒山近くで長髄彦の軍と遭遇し、長男の五瀬命が矢傷を負い退却します。

その時に五瀬命が『われは日の神の御子と謂われているが、日(太陽)に向かって戦をしたのが良くなかった。この後は日(太陽)を背にして戦をしよう。』と述べて船にて南に向かい廻り込んだ血沼之海で傷を癒した後、更に船にて進み廻りり男之水門(おのみなと)にて亡くなるのですが、

近畿説では難波から生駒山へは、西より東へ行軍した事になり、太陽に向かって戦をしたとはとても考えられません。この事だけでも近畿説は矛盾が生じており、研究者を悩ましています。

亦、神武天皇が倒れた熊野の解釈は、紀伊半島和歌山県田辺市本宮の熊野本宮大社附近と解釈され、八咫烏が天(高天原)より遣わされて、此処熊野から奈良県吉野を通って大和の長髄彦の処へ行った事とされています。

しかし、多くの研究者の間にて八咫烏を遣わした天(高天原)の位置と元々八咫烏の居た場所の解釈が、論理上で疑念が残り、(疑いが)晴れていません。

血沼之海の(チヌマノウミ)の解釈は、地名であろうとして、大阪府和泉市辺りを古くは「チヌ」と呼ばれていた伝承があると考え出され、チヌは「茅渟」や「血沼」とも書かれる事で、ここら辺りの海を指すものと近畿説の研究者は信じて来ました。

しかし、確たる証拠は無く、古事記には船が廻り込むと述べられており、この辺りの解釈の説明が成されていませんし、地図上でも符合しません。

其れに対して、わたくしの『神武天皇の東征』は九州であった説では、神武天皇(その後の考察にて、崇神天皇の事)は北九州市小倉南区朽網辺りで

(古代は白肩の津とか難波と表現していたものと考えています。)

古事記に於いては、白肩の津に着いた時点にて北九州市登美の長髄彦軍が攻撃して来て、防戦の為上陸し楯を並べて、矢を防ぎますが五瀬命が矢傷を負う事になっています。

日本書紀にては、難波(朽網)から上陸して南下し、福岡県京都郡苅田町近衛ヶ丘(孔舎衛坂と書かれています。)にて矢が飛んできて五瀬命が傷を負い、

此処で、五瀬命が『われは日の神の御子と謂われているが、日(太陽)に向かって戦をしたのが良くなかった。この後は日(太陽)を背にして戦をしよう。』と述べた事になり、記紀の記述と合致致します。

退却して船にもどり、南下し、国東半島を廻り込んで別府湾に入り、血の池地獄(温泉)にて傷を治そうとした解釈であります。

此処でも記紀の記述と合致しており、腑に落ちます。

その後、傷が悪化して船に戻り、別府湾をぐるりと回り、大分市鶴崎坂の市の『王の瀬』(男の水門ミナト)にて亡くなり、取り敢えず、石棺にて近くに埋葬し、後に大分県で一番大きな前方後円墳である『亀塚古墳』を造ったものと考えています。

神武天皇(崇神天皇)は、その後、杵築市熊野に上陸しますが、病に臥せります。この場所が日出町大神の愛宕神社辺りと考えられます。

実は、地形的に視ますと、『高天原』である湯布院町塚原高原の北東先端から、日出町や杵築市が眺め下す事が出来、狼煙(ノロシ)を使っての連絡が可能であります。

であれば、高倉下や鴨建角身命(八咫烏)に連絡をするのは容易と考えられ、真実味が増します。

日本書紀にて記述の『名草』の地名も玖珠町森に認められ、遺跡も発掘されており、割られた内行花文鏡・勾玉等が玖珠町役場にて保管されています。

丹敷戸畔ニシキノトベは、大分市に錦町ニシキマチ地区が『大友氏屋敷跡』傍に在り、小墾田皇女=推古天皇や孝徳天皇=皇極天皇の弟が政務を行った。と考えられます『古国府』も、『大友氏屋敷跡』の傍です。大野川の傍に丹生川が在り、岡遺跡が在ります。

古代王朝近畿説を信じる学者は、記紀の記述を丸呑みにして、『神武天皇の東征』を信じ、自分の頭を使わず、考えず、明治天皇の勅許である橿原神宮を中心に論理を組み立て、無理やりに日本史を構成しようとしていますが、大方の研究者は近畿説に疑念を抱いていました。

邪馬台国が九州にあり、「高天原と姓氏の本貫地が大分県で在った。」と考える事で、歴史の論理が繋がり、九州王朝(倭)が中国~近畿~東海に移動した事は間違いないものと考えられます。

 

 

平成26年4月30日(水曜日)大分県立図書館に行きました。郷土史資料室にて、杵築在住の中世史の郷土史家で在られます久米忠臣さまの著『杵築史私考』昭和48年発行を手にして、文章に眼を遣りますと驚きました。

『千以上ともいわれる、わが杵築の古墳は何を物語るのであろうか。その分布は、奈狩江、大内、八坂に多い。そしてその場所は海岸よりあまりはなれていない、小高い山の平地に多い。・・・』と記述されています。大分県に報告した墳墓の数は109も在る由。

杵築市の観光ガイドパンフレットにも古墳の件は皆目記載が無く、わたくしも杵築市の中心部へは何度も行っていますが、途中、古墳らしき墳墓は見受けた記憶がなく、その数の多さに衝撃を受けました。

翌日久米忠臣さまに電話をし、確認した処、間違いなく在る由。何処かの某先生が調査をされたが、余りの数に飽きられ、調査を止められたとの事。呆れます

杵築の歴史は、九州最古の円筒埴輪を出土した全長130mにも及ぶ、大分県で2番目に大きい前方後円墳と謂われます小熊山古墳(4世紀初頭)や御塔山円墳が有名でありますが、

その外に数え切れない程の古墳が認められるそうです。1394年に『木付氏』が台山(杵築小学校附近)に城を築いたのが史書に現れる最初とされ、其れ以前のことが載っている書物が無く伝承として三河能見の『松平氏』(大屋氏)が覚えていたものと考えられます。

此処杵築が『紀氏』の本貫地である事を認識している人が少なく、増してスサノオや大國主命・少彦名命・多祁理比賣命・賀茂大神(高倉下)・大屋毘古命・鴨建角身命・神武天皇(若木入日子)も繋がっていたとは、誰も想像出来ないでしょう。{神武天皇(崇神天皇)と兎狭津比賣命は安芸(安岐)多祁理宮(奈多宮)で御諸別命を生んで、此処にて亡くなり、弥山(見立山か豊洋小学校横の亀山古墳)に葬られた。と宇佐公康氏の伝承があります。}

 

現在杵築市は江戸時代の城下町を観光の柱として、市長以下職員全員で努力され頑張っておられ、江戸時代の『城下まつり』が大変好評を得て居ますが、是からは古代の『紀氏の故郷、杵築市。』『須佐之男祭』『杵築古墳祭』『大屋毘古命祭』『多祁理宮祭』『神武天皇祭』『賀茂氏祭』も加えることも可能です。

天(海人)族(豊後紀氏)は此処杵築市より全国に散らばったものと考えられます。

 

 

 

 

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大屋毘古命のその後を考える。

2014-05-05 | 古代史

 

わたくしの説では、豊後杵築に棲んで居た須佐之男命が出雲へ移動した後は、紀(杵)氏の大屋毘古命(五十猛)が杵築に残って居た。

と考えられ、高天原(木綿の院)での戦いにて敗れた大己貴命・少彦名命・多祁理比賣命・味鋤高比古根命・下照比賣命・大勢の天孫族幹部を四国愛媛へ逃がしたと思われます。

根拠は、ゆふいん高天原(塚原霧島神社)傍に流れます、『戦い川』です。古代に戦が行われて、塚を造ったものと考えられます。

 

この大屋毘古命は、古事記では大勢の和邇氏に脅された事になっていますが、其の後は如何なったかが気になり、今日は皆様と一緒に考えて見る事にします。

 

インターネットにて、わたくしの記憶に有った大屋政子で検索しますと、『大屋晋三』氏がウィキペディアでヒットしました。『大屋晋三』氏は群馬県邑楽郡(おうらぐん)佐貫村で明治27年に生れ、政治家・実業家として活躍昭和55年に没されたお方で、大屋政子の夫とされています。

生い立ちの欄には、

「家は、代々川越の松平藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた」と記入されています。

次に「松平氏」を検索致しますと、

本姓は『賀茂氏』とされ、{松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である}、と記入されています。

 

『賀茂氏』の本貫地はご存知のように、須佐之男命が居たと考えられる豊後杵築です。鴨川・八坂川が流れており、付近の地名には藤原・大神・大内があり、愛宕神社・真名井・熊野も有ります。

 

如何も室町以前から『大屋氏』『松平氏』は親族関係があると考えられ、『大屋氏』から『松平氏』が分かれたものとも考えられますが、『松平氏』は、元は『賀茂氏』と称していた様ですので逆かも知れません。

 

このように、豊後杵築に居た『大屋毘古命』の子孫は三河(愛知県)に移動して、其の後、松平氏(徳川氏)と伴に関東の埼玉県川越市へ行き、群馬県へ棲み付いたものと考えられます。多分『大屋』も『大宅』も『大矢』・『大弥』も根は一緒と考えられますので、テレビにて活躍の『大宅映子』さまのご先祖は『大屋毘古命』であったと、想像されます。

 

豊後杵築は室町時代(1394年)に『木付氏』が治めますが、1600年に『細川氏』の所領になり、1632年『小笠原忠知』を経て、何故か『松平英親』が1645年に拝領し幕末まで治めています。

 

杵築には『三河』の地名もあり、何時頃からの名なのかが気になります。

 

 

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NHKのテレビ番組を見て感じた事。

2014-04-13 | 日記

 

先日の夜(平成26年4月10日)NHKにて、『卑弥呼』の1時間番組があったので、見る事にしました。

NHKは中立を守る英国のBBCを手本にしている。と伺っていますが、

こと、古代史の編纂・監修に関しては中立ではなく、恣意的とも感じられます近畿説の論者を起用されている様で、恰も当時(西暦230~240年代)の話は近畿纏向遺跡に求められる様に映像を出されておられました。一般の視聴者には無意識に邪馬台国は近畿大和で在ったかのように印象つけられます。この様な映像は流さないようにお願いを申し上げます。

わたくしの研究では、近畿纏向は、九州福岡県田主丸出身の『彦坐王』が孝霊天皇として居を構えたのが最初で、其の後、第11代垂仁天皇を九州福岡県久留米市城島(しき)の瑞垣宮から養子として迎え容れたもの。との考えを示しています。

ですから、纏向遺跡の箸墓古墳はこの『彦坐王』・『垂仁天皇』の両人のどちらかであろうと考えていますが、『垂仁天皇陵』は奈良市尼辻に在る『宝来山古墳』とされています。一方の『彦坐王陵』は岐阜市岩田西に在ります清水山山麓とされ、『伊波乃西神社』に息子の八瓜入日子命と伴に祀られています。

『彦坐王』は孝霊天皇として纏向で『垂仁天皇』を迎え容れたと考えられますので『彦坐王』は岐阜県へは往ってはおらず、纏向で亡くなったと考える事ができ、『箸墓古墳』は『彦坐王陵』と想われます。

そもそも孝霊天皇は記紀の捏造で、存在しておらず、倭迹迹日百襲媛(やまとととびももそひめ)は古事記では一節も述べられて無く、その存在すら疑念が生じています。、卑弥呼とは全く関係がありません。

卑弥呼は由布院に居た天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)(和邇氏元祖と謂われます)の嫁である『宇奈岐日女命』(宇那比媛命)で間違い有りません。

 

番組の内容は、当時の国際情勢から卑弥呼の置かれた立場を通して、政治決断を読み解こう。とする要旨で、『倭の大乱』を当時の『気候変動』と『鉄の輸入』に求めており、後漢から三国(魏・呉・蜀)に分かれた当時の中国の状態を示して、卑弥呼が『魏』と『呉』を天秤にかけて、何故『魏』を選んだのかを議論する内容でした。

わたくしの頭では、幾つかの考察の不足が気になりました。

一つには、『魏』と『呉』と『倭』の関係を、遼東半島を支配していた『公孫淵氏』を介して解釈されていますが、難升米一行の『倭』の使節団は『公孫淵氏』との戦いの最中の238年に行っており、この事をどの様に解釈するかであります。

 

卑弥呼は、狗奴国との対立の関係で(例えば、狗奴国と呉が手を結んだ事による危機感で)『魏』の協力を求めたものとも考えられ、『魏』はその要請を受けて使節団を、『倭』に正始元年(西暦240年)には帯方郡(たいほうぐん)から建中校尉梯儁(ていしゅん)と謂う使者が派遣されて来て、卑弥呼と会い、魏の帝の詔勅・金印・財宝を授けています。さらに、正始4年(244年)にも卑弥呼は狗邪国との不和の問題で使者を魏に送っており、そして、西暦247年魏の張政一行の使節団が調整の為遣って来ます。

この様に2回も使節団を遣わしており『魏』の『倭』に対する並々ならぬ想いを感じざるを得ません。此れは『魏』と対立する『呉』を意識しているものと考えられ、番組の考えと同意です。

考察不足と思われますのは、西暦107年帥升王が後漢に献上した『生口(しょうくち)』106人の其の後の考察が論じられなかった事であります。

わたくしの『生口』の解釈は『役に立つ人間』を意味するので、奴隷とは違います。

『後漢』から『魏』へは禅譲され、国土は『魏』『呉』『蜀』に別れ、『後漢』の首都である『洛陽』も其の侭『魏』に受け継がれています。

帥升王からの106人は『洛陽』に『倭人町』を形成して居たと考えられ、末裔は『魏』の高官になった。とも考える必要があります。そして、その通訳を兼ねた高官は『倭』への使者として遣って来ている。とも考えられます。

わたくしの考えでは、天之御影神が『魏』の『倭』に対する大目として来たものと解釈しています。その娘が辛國息長大姫大目命であり、息長水依比賣命の事であり、田主丸で生れた『彦坐王』が田川の『息長水依比賣命』を娶り、勝山黒田より近畿滋賀県へ『孝霊天皇』として移動して中国(吉備~出雲~兵庫)地方や越前に痕跡を残し、其の後『纏向』に棲んだものと捉えております。

此処勝山黒田は、後の第12代景行天皇が7年間行宮を置いた地でもあります。

わたくしの考察では登美(北九州)の長髄彦が占拠した『大和』は『勝山黒田』の事であり、其れを奪還したのが景行天皇の弟である若木入日子命であります。その若木入日子命の業績が神武天皇の東征の業績の事に置き換えられており、若木入日子命(神武天皇)は功労で由布院盆地(室の秋津嶋宮=第6代孝安天皇と宇奈岐日女命=卑弥呼が居られた場所)を頂いた事に為っています。

若木入日子命(神武天皇)の其の後は、『媛踏鞴五十鈴媛命』と由布院にて結婚、『神渟名川耳命』(宇佐稚屋命)と『神八井耳命』(御諸別命)を儲けているものと考えられます。そして、記紀は若木入日子命→神武天皇→彦狭嶋命に捏造していると考えられます。

『彦狭嶋命』の子である『宇佐稚屋命』(神渟名川耳命)が愛媛県の越智氏の娘との間に儲けた子が本当の第15代応神天皇(宇佐押人)で、神功皇后(息長帯比売命)の生んだ子では無かったと考えられ、応神天皇(宇佐押人)は直ぐに息長氏(秋永氏)から妻を娶り、身の安泰を図っています。

 

余談でありますが、『黒田官兵衛』の本貫地は兵庫県では無く、福岡県勝山黒田で在ったろう。と考えております。

秀吉から授領した豊前12万石は大名の間では余りにも冷遇であるのが指摘され、後に、筑前52万石を拝領しますが、これは、『官兵衛』は『黒田氏』の本貫地は勝山黒田である事を知っており、当時『宇都宮氏』が権勢を持って居た豊前の地を敢て望み、拝領したものと考えられます。

その根拠には、何故か『官兵衛』は、勝山黒田の『馬ヶ岳』216mに20万人の豊臣軍を配置し、九州の豪族大名に圧力をかけて、島津氏を追い詰めています。

 

話を戻して、番組での、卑弥呼が『魏』と『呉』を天秤に掛ける考え方の論は、『呉』と『狗奴国』の間には友好関係が既にあった。との推論が為されておらず、洞察に欠けており、もし、それが本当であれば卑弥呼の選択は『魏』のみであり、必然であった事になります。

 

日本人の祖は『三苗(さんみょう)の民』の末裔とも謂われ、『三苗』とは揚子江中流域に棲んで居た『苗族(ミャオ族)』が『呉』・『越』・『楚』の3つに分かれて『三苗』と呼ばれるようになり、現在の上海近くの地から紀元前473年以後『呉人』が稲作と伴に多く這入って来ているとされ、『呉』を創った『太伯』の号が『狗呉』『句呉』(くご・こうご)で有った為、『呉人』は『狗呉』『句呉』(くご・こうご)と呼ばれていました。その経路は沖縄~奄美~南九州鹿児島(熊曾)・熊本(狗奴国)で有ったろうと想像されています。その後、『越』『楚』『秦』も遣って来たと考えられております。

魏史の東夷伝にも、『倭』の王が「自分は太伯の末裔である」と述べた。と記されており、『倭』と『呉』は天孫族以前から深い関係があった。と思われます。

熊本県に在ったと考えられます狗奴国の『狗古智卑狗』は『狗呉』の末裔の『王』とも考えられ、熊本県山鹿市出身の現在政治家として活躍されておられます松野頼久(まつのよりひさ)さまの先祖は『呉』の王の末裔である。とも謂われており、『狗奴国』は三国志時代の『呉』とも友好関係を結んでいた。との推察は番組で論じられるべきであった。と感じました。

 

 

 

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同一人物を考える。

2014-04-05 | 古代史

古代史ブロガーに『綾杉るな』さま。と仰るお方が居られます。九州を中心とした『神社』に足を運び、研究を重ねて古代史に迫っておられて、『ひもろぎ逍遥』の名前にて全国に多くのファンをお持ちの方です。わたくしも、そのチャーミングなお名前に魅せられファンに成った一人です。笑。

先日、わたくしの故郷久留米にて『綾杉るな』さまの、神功皇后(息長帯比賣命)の九州での足取りを『神社伝承』をもって検証した講演が有ったので、興味が湧き聴講。初めてお顔を拝見致しました。

わたくしが想像していた40歳代より、少し年を重ねておられますが、想っていた通りのチャーミングな美人で、思わず、傍で発売されていた『神功皇后伝承を歩く』の本を手に取りサインをおねだり、年甲斐もなく浮き浮きして帰って来ました。(古代に興味の無い妻には内緒です。)

講演から受けた印象は、積極的で旺盛な仕事ぶりと慎重にじっくりと積み上げていく研究者としての意欲・熱意が伝わって来ました。

『るな』さま、ポチッポチッポチッと応援しています!!!

 

この『るな』さまのブログ『宇佐・安心院トレッキング』を拝見させて頂いていた所、『姫神の謎を追って3 二女神とは』にて、

前回にわたくしが述べた宇佐の『二女神社』の解釈{市杵嶋比賣命=瀛津嶋姫(おきつしまひめ)と多祁理比賣命は同一人物である。と考えられるので二女になっている}に対して、多祁理比賣命と田湍津比賣命が同一人物かも。と解釈されて、楯崎神社縁起のチャートを示されいるのに驚きました。

『るな』さまの考察は正しいと思われ、わたくしの考察を重ねますと、三女神{多祁理比賣命=田心姫・田湍津比賣命=高津姫・市杵嶋比賣命=瀛津嶋姫}は一女神であった。と考えられます。

多分、多祁理比賣命お一人で宗像から『沖の島』に渡り祭祀をしたものと考えられます。

そうしますと、思い浮かびますのが、『天道日女命』とその夫と謂われます『天火明命』であります。この『天火明命』は、本来の名前は(先代旧事本紀では)『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』と記入されており、研究者からは、『天火明命』と『饒速日尊』は同一人物であろう。と謂われております。

記紀では、『天火明命』は『邇邇芸命』の兄とされ、大物主命の国譲りにて平定された葦原中国に天降すべきは、長男の『天火明命』の筈なのに、何故か二男の『邇邇芸命』が天降して糸島に行っていると考えられます。

そして、『天火明命』についての其の後の行動には何も触れていません。

此れは怪しく、記紀の捏造と考えられ、『天火明命』と『邇邇芸命』は兄弟では無いものと考えられます。

如何も、わたくしには『天火明命』と『瓊瓊杵尊』と『アマテル』と『饒速日命』は、同一人物と考えられます。

ホツマ伝には『大物主命』と『少彦名命(豊祇彦命)』は筑紫(北部九州)を治めていたとされ、此れを信じれば『大己貴命』『大物主命』同一人物と考えられます。

 

『天道日女命』は『瀬織津姫=向津姫』の事になり、『天道日女命』『饒速日尊』の間に生れた『天香山命(尾張氏の祖神)』・『宇摩志摩治命(物部氏の祖神)』は『迦毛大御神』(味鋤高彦根神・阿遅須枳高日子命)と同一人物である事となります。

しかし、『先代旧事本紀』では『天香山命』と『宇摩志摩治命』は母神を異にする兄弟神となっており、『宇摩志摩治命』の母神は『長髄彦』の妹と述べられています『三炊屋媛(みかしきやひめ)』であります。

しかし、わたくしの思考では『長髄彦』と『神武天皇』の実像は第12代景行天皇時代のお方であり、『長髄彦』は時間軸の捏造が考えられ、『三炊屋媛(みかしきやひめ)』『天道日女命』と、同一人物。若しくは捏造と考えられます。

そして、『天香語山命』と『宇摩志摩治命』と『迦毛大御神』同一人物と考える事が出来ます。

ですから、新潟県の『弥彦神社』の『天香語山命』は『宇摩志摩治命』であり、『迦毛大御神』でもある。と考えられます。

その根拠は、出雲・宇佐と同じ『二拝四拍手一礼』の参拝作法であります。此の『二拝四拍手一礼』の作法は他の神社では伝承をしておらず、『出雲大社』が『大物主命=大己貴命』、『宇佐神宮』が『多祁理比賣命』、『弥彦神社』が『迦毛大御神=味鋤高彦根神』を表している。と考える事が出来ます。

 

『大物主命』・『多祁理比賣命』(天道日女命)・『味鋤高彦根神』・『少彦名命』等、大勢の衆は由布院より天降りをして、杵築の大屋毘古命に頼って四国伊予へ逃げていますが、

愛媛県松山市の『櫛玉比賣神社』には『天道日女命』と伴に『御炊屋姫命』が配祀され、『櫛玉比賣神社』と向かい合って在ります、『國津比古命神社』には『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』が祀られ、『宇摩志摩治命』が配祀されています。

此れは、『大物主命=大己貴命』とその妻『多祁理比賣命』と、其の子である『味鋤高彦根神(迦毛大御神)』と解釈でき、『大物主命』『國津比古命』『多祁理比賣命』『櫛玉比賣命』同一人物と考える事が出来ます。

 

「大物主命」は「葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを)」・「八千矛神(やちほこ)」・「杵築大神(きづきのおおかみ)」・「大穴牟遅神(おおなむぢ)」・「大穴持命(おおあなもち)」・「大己貴命(おほなむち)」・「大汝命(おほなむち)」・「国作大己貴命(くにつくりおほなむち)」・「大名持神(おおなもち)」等、多くの名前で称されています。そして、『國津比古命』も加わりますと、其の名前の通り『おおなもち』であり、

『多祁理比賣命』も同様に、『田湍津比賣命』・『高津姫』・『市杵嶋比賣命』・『瀛津嶋姫』・『天道日女命』・『櫛玉比賣命』が考えられます。

 

しかし、何故これだけ多くの名前が附けられたのでしょうか。

ひとつは、民衆の本来の『大王』への思慕と、同情、現在の(クーデター)王権への反発が考えられます。もうひとつは、7世紀の現政権(高御産巣日神と和邇氏の末裔)は、自分たちが、『古来からの王族』をクーデターで倭(北部九州)から追い出し、其の上、逃げ延びた出雲までも奪った事を、体裁を繕う為に、捏造を数多くして、大物主命や多祁理比賣命の影を倭の歴史から消し、須佐之男命から高御産巣日神と和邇氏へ王権が自然に繋がった様にしたかった。ものと考えられます。

 

 

 

 

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妻垣神社の『磐座』に『多祁理比賣命』の御霊魂が居られる。と考えられる。

2014-03-22 | 古代史

8世紀来、宇佐神宮に関係深い境外摂社八ヵ社を、四年もしくは六年毎に、宇佐神宮の神輿を担いで巡行する『宇佐神宮行幸会』があり、次のような八社を、順に廻って最後に宇佐神宮に行き着くのでありますが、

1日目、田笛神社 豊後高田市界→ 鷹居神社 宇佐市東上田→ 郡瀬神社 宇佐市樋田 
2日目、泉神社 宇佐市辛島泉→乙神社 宇佐市下乙女→大根川神社 宇佐市佐野
3日目、4日目、妻垣神社 宇佐市安心院町妻垣大門
5日目、小山田神社 宇佐市北宇佐→宇佐神宮

其の後、『宇佐神宮』から4日掛けて国東半島の『奈多八幡宮』市杵島まで行幸します。

注目なのは、「妻垣神社」だけが、2泊され、内陸の山の中であります。他の七摂社はすべて海岸に近い行幸に適した場所であり、『妻垣神社』だけが特別の意味を持った摂社であることが判ります。

この「妻垣神社」こそ、古事記・日本書紀にも記されています『足一騰宮(あしひとつあがりのみや)』で、「莵狭津彦」や「莵狭津比賣命」が「神武天皇」を歓待した場所とされています。

「妻垣神社」の創建は、765年石川朝臣豊成が、共鑰山(ともかきやま)の麓に比咩大神を祭神として社を造営し、一緒に八幡神も祀った由。後に神功皇后も祀った。とされ、共鑰山(ともかきやま)の頂上近くの磐座(いわくら)が比咩大神の本体と考えられます。此処に比咩大神の御霊魂が居られる事になります。

『比咩大神』については、「妻垣神社」の解釈では神武天皇が御出でになった事から、その母君である「玉依比賣命」ではなかろうか。としていますが、研究者の間では疑念が持たれています。

この『比咩大神』に関しては、以前のブログにて、わたくしも「妻垣神社」の解釈に賛同して、「玉依比賣命」である。としましたが、『大己貴命』と『多祁理比賣命』の人生を考察した結果、前回のブログで述べました様に、『多祁理比賣命』が安心院に帰って来ている。と考えられ、多祁理比賣命の暮らした場所を探しに行く事にしました。

 

安心院には『多祁理比賣命』の痕跡を疑われます場所が二箇所在ります。一箇所は宇佐神宮の元宮とされています『妻垣神社』であります。もう一箇所は『三女神社』です。このどちらかであろうと考えられます。

 

2014年3月18日(火)午後3時に由布院を出発、塚原(高天原)~天間~安心院の『三女神社』から覗いました。県道42号線安心院温泉の傍に流れています津房川の横の崖に沿って造営されており、最初に在ります鳥居には『ニ女神社』の額が掲げられています。

この『二女』の解釈は、日本書紀の本文では沖津宮が田心姫、中津宮が湍津姫(たぎつひめ)、辺津宮が市杵嶋姫(いちきしまひめ)、と述べていますが、第一の一書・第二の一書・第三の一書では解釈が区々(まちまち)異なっており、はっきりとは伝承をしておらず、瀛津嶋姫(おきつしまひめ)は市杵嶋姫(いちきしまひめ)の事とされ、この沖津嶋(おきつしま)は田心姫(多祁理比賣命)の事であり、仮に、瀛津嶋と沖津嶋を同一に解釈したとすれば、市杵嶋姫と田心姫(多祁理比賣命)は同体と解釈し、『二女』になったとも想われます。

 

『宇佐神宮行幸会』にて最後に訪れます杵築の『奈多八幡宮』は海の中に浮かぶ小島に瀛津嶋姫(おきつしまひめ)=市杵嶋姫(いちきしまひめ)が顕現され、上陸された。とされて、このお方が『比咩大神』 とされていますが、

本当は『田心姫(多祁理比賣命)』が上陸したものと考えられます。当時は田心姫(多祁理比賣命)を隠さないと活けない社会情勢であったので、辛島氏は八幡神と抱き合わせして『比咩大神』と曖昧にする事で時の政権からの目を逃れたものと考えられます。

 

『二女神社』の社殿は、津房川と並行に崖を300M程登った場所に南向きに造営されており、数キロ先の正面には竜王山(スサノオ)があり、之に向かって居ます様にも見えますが、本当はその先に微かに視えます鶴見山~由布岳、即ち高天原に向かっています。社殿にはオーラは無く、社殿に向かって右横には、何処からか移動して持ってきたと思しき石群があります。三柱石は男根とも考えられ、田心姫(多祁理比賣命)が此処で半生を過ごした様には思えません。

 

次に、竜王山の東となりに在ります共鑰山(ともかきやま)の麓の『妻垣神社』に行きました。安心院盆地からは50m程登った地に位置しており、社殿からは強いオーラが感じられました。大善寺玉垂宮を見た時と同じ霊感が有ります。社殿は『三女神社』と同じく、高天原に向いております

境内で、大分にお住まいで、祀りの準備に来ておられた禰宜の「妻垣常彦」さまに偶然お会いしました。

道を挟んだ共鑰山(ともかきやま)側の草薮は遺跡である由。

多分「比咩大神」を守っておられた方々の住居跡か、墳墓とも想われます。

共鑰山にある磐座玉垣「上宮」、社殿を「下宮」と称し、行幸会の二日目は「上宮」にて儀礼を執り行った由。

「社殿」は戦国時代「大友氏」に焼かれて其の後の造営で、古書籍は何も無い由。

 

わたくしの考えを述べました処、氏も『神武天皇』が此処に御出でになられた目的に疑念を持っておられ、共鑰山の『比咩大神』『多祁理比賣命』であるならば腑に落ち無くも無い。との言。

 

共鑰山の『磐座』に参拝し、物凄いパワーを受け、わたくしには、此処が『多祁理比賣命』が後半生を過ごされた場所である。と確信を持ちました。

 

共鑰山の『磐座』に『多祁理比賣命』の御霊魂が在るもの思われます。

 

辛島氏は、共鑰山にて『多祁理比賣命』の御霊魂を守って居た「莵狭津彦」の末裔である「宇佐氏」を説得して、『比咩大神』を安心院から宇佐へ持ち出したものと考えられます。

「宇佐氏」は、後に宇佐神宮の『宮司』を辛島氏から奪う事になりますのが腑に落ちます。

 

 《その後の考察による補追》

玉依比咩とは崇神天皇の母の事であり、神武天皇が共鑰山の『足一騰宮』へ来て歓待を受けた。と記・紀が謂うのは、『神武』の名を騙った『崇神』が歓待を受けた事を意味しており、

豊玉比賣命は市祁島比賣命=息長水依比賣命=天鈿女=猿女の事であり、伊可古夜比賣命は玉依比咩の母です。伊可古夜比賣命の夫が、八咫烏=賀茂建角身命で、豊玉姫の弟に為ります。

京都の上賀茂神社で祀られます『賀茂別雷命』とは、『崇神』を意味しており、『崇神』(神武=彦穂穂出見尊を名乗った人=実父が日高彦彦穂穂出見尊で孝元天皇です。)の母が玉依姫で有る事が理解できます。

 

 

 

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多祁理比賣命に涙する。

2014-03-15 | 古代史

最近、多祁理比賣命の人生を考えています。

このお方は、須佐之男命と天照大神の間に高天原(木綿の院)で生れて、須佐之男命の追放の後、由布院(高天原)より天降りを余儀無くされ、安心院~宇佐より宗像(刺国)の上八(八上)へと渡り、成長を遂げた後、甘木にて、(豊国を治めていたと考えられます少日子名命)と一緒に、筑紫治めて居た大己貴命と結婚をします。

阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を儲けて幸せな人生を送って居ましたが、須佐之男命の取り巻き新羅人の叛乱にて、高御産巣日神(朝倉)・和邇氏(田主丸)より、『大己貴命』が『大物主』に選ばれ、須佐之男命派新羅人と戦います。この須佐之男命(崇神)派の叛乱にて大戦乱が起きたものと考えられます。

{高良山から飛んできた石礫(いしつぶて)が基山の荒穂神社(五十猛命)にあり、高良神社(高木神)の床下には基山から飛んだ石礫(いしつぶて)がある由。と荒穂神社の由緒に記入されています。}

 

次第に戦況が悪くなり、高天原(木綿の院)の戦いの敗北を経て杵築の大屋毘古命を頼った後、船で四国伊予へ逃げます。

大己貴命一行は途中で日出町大神に在ります愛宕神社(高倉下)にて復権祈願を行い、須佐之男命の『ムラ雲の剣』を奉納したものと考えられます。(この『ムラ雲の剣』は其の後、垂仁天皇の子である若木入日子(神武天皇)が杵築熊野にて病に臥せった時、再び登場します。)

 

大勢の大己貴命一行は、多祁理比賣命の父である須佐之男命を頼って出雲に渡りますが、夫である大己貴命は、須佐之男命と櫛名田比賣命との間に出来た嫉妬心の強い須勢理比賣命を娶って、地位の安泰と出雲に根付く事を図り、多祁理比賣命の元に来なくなったものと考えられ、失望した多祁理比賣命は阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)と下照比賣命を出雲に置いて倭(九州)へ帰った。と、記されています。

 

倭(九州)には大己貴命多祁理比賣命への同情者が多く、天之穂日命・天若日子命が高木神の「國譲りの交渉の使者」として出雲に遣わされますが、前者は三年・後者は八年経っても仕事をしていません。

 

多祁理比賣命の生涯はこの様な激動の人生で有ったものと観えて来ます。

 

その後の多祁理比賣命は、一生を、故郷である『宇佐安心院』にて閉じたものと考えられます。

出雲大社の本殿の『大己貴命』は、西向きに坐しておられ、『大己貴命』の北部九州(倭)への思い入れが心に痛みます。

『大己貴命』は、その後は出雲から青森 ツガルへ移動したと、ホツマ伝で述べられています。

 

後に、その『多祁理比賣命』の心情を察して五十猛命の末裔の辛島氏が「宇佐神宮にて『比賣大神』として祀ったものと感じられます。  合掌。

 

そういえば、二拝四拍手一礼の参拝の方法は、宇佐神宮出雲大社も同じだったですね。此れも関係が有りそうです。

 

 

 

 

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『ホツマ伝』から大己貴命と少日子名命は兄弟であった。と考えられます。

2013-12-16 | 古代史

『ホツマ伝』解読ガイドより、

 

『先にツクシカンタチはソヲのフナツのフトミミヤスに娶りて、フキネ生む』

 

『後諸共に 神となる オオモノヌシはフキネなり トヨツミヒコと 治めしむ

 

ミモロの傍に殿成して 請えば賜はる儲けの子 クシミナカタと若妻のサシクニワカヒメ 諸共に 住ませてヌシは ツクシす』『ひたるの時に これを継ぐ 母子至れば 遺し言「このムラクモは生れ坐せる御子の祝ひに捧げよ」』『言いて 夫婦神となる ヤスに納めて 祭る後 ツクシヲシカの 御言宣』

 

前回のブログ(平成25年11月26日)にて『ホツマ伝』解読ガイドを引用しましたが、

 

古事記では天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)の子が大己貴命とされているのに対して、

 

『ホツマ伝』では筑紫の神立命(カンタチ)が曽ヲ(鹿児島県曾於郡大崎町)の※船津(船迫)の太耳(フトミミ)を甘木市夜須にて娶り、

 

※近くに、横瀬古墳・唐仁古墳群・神領古墳群が在ります。

 

つまり、豊受大神の息子のカンタチ(神産巣日神=古事記では、造化三神とされています)が、鹿児島県曾於郡大崎町船津近くに棲んで居た『太耳』(中国雲南省『耳族』の南粤國の『大=多』大将軍=玉璧を持ってBC110年頃串間市に遣って来た王の末裔)の娘を娶り、天之冬衣神=大己貴命=大物主を儲けた。

 

天之冬衣神(フキネ)を生んで、この天之冬衣神(フキネ)が大物主(大己貴命)である。と述べられ、

 

豊祇彦命(トヨツミヒコ)=少日子名命(=古事記では、神産巣日神の息子とされています)と一緒に統治していた。とされています。

 

『ホツマ伝』では具体的に、甘木三諸山の傍に殿を造って櫛御名方命(クシミナカタ)《=子(建御名方命?)親族と考えられます。》と大己貴命の若妻である刺国若比賣命(サシクニワカヒメ)を住まわせて居たと述べられ、

 

神立命(カンタチ)亦は天之冬衣神(フキネ)は須佐之男命より献上された剣(ムラクモ)を持っていて、

 

『日にちが過ぎて成長した時にこの剣を与えよう』と考えていた、と述べられています。

 

わたくしには、神立命(カンタチ)は神産巣日神と想われ、大己貴命と少日子名命は兄弟であったと考えられます。

 

と謂うことは、前回のブログでの解釈である、「神産巣日神や少日子名命を頼った」『他人の関係』では無く、「親子と兄弟」の関係となります。

 

平成25年1月25日のブログ『橿原神宮は由布院に遷宮しなければならなくなりました。』の条項では、次のように述べています。

 

 

『やまと』平定の後の行動として、神武天皇は糸島には帰らずに、大久目命の勧めにて高天原の佐士野(由布院の佐土原)にて『媛踏鞴五十鈴媛命』と出会い神八井命と神渟名川耳命を儲けています。

 

この『媛踏鞴五十鈴媛命』は出雲の事代主命(大己貴命と神屋楯比賣命の間に生まれたと謂われています。)、と三嶋溝杙耳(みしまのみぞくひみみ)の娘の『玉櫛媛』の子孫とされていますが、由布院から出雲へは天火明命や天道日女命とその子と考えられる天香語山・少彦名神・天鳥船神・天櫛玉命・天神玉命・天道根命等々多くの神が天降したり、係ったりしていると考えられます。

 

出雲に関わる姻戚を持つ方が高天原(由布院)に居ても不思議ではありません。

 

亦、古事記には、美和(三輪)の大物主神としか書かれてなく、島根の出雲と解釈するより、甘木・朝倉の『三輪』の『大己貴神』と繋いで解釈した方が自然かも知れません。

 

と述べたことが、真実味を増した事になり、

出雲に渡った人達は、筑前甘木朝倉及び由布院(木綿の院)からの人々であった事に為ります。

 

福岡県朝倉市林田蜷郷にある美奈宜神社(みなぎじんしゃ)の御祭神は須佐之男命・大己貴命・事代主命の三柱が祀られています。

 

近くに『余名持』ヨナモチと呼ばれる50軒程の集落が在り、内30軒の姓が『徳永』様で、『大己貴命=大穴牟遅命』との関連が詮索されます。

姓氏語源辞典で、『徳永』様の分布を調べると、南九州福岡県に集中しており、『大己貴命』を祀る神社の分布を頭に入れて考察しますと、『大己貴命』と『徳永』は関係がある。と考えざるを得ない。と、想われます。『大己貴命』は、新羅にも渡った。とも考えられ、『國引き神話』を残しています。

 

此処は高木神の本体である高木邑にも近く、後世、記紀では熊襲の叛乱と述べて第12代景行・第14代仲衷天皇自らが九州に遣って来ていますが、

天孫族の以前での内部分裂(倭の大乱)が原因であった事が理解出来ます。

 

 

 

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