随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

チボリ公園

2005-09-18 23:26:58 | 旅日記
妻と二人で、久しぶりの遠出のドライブを計画し、倉敷のチボリ公園へ行ってきた。
チボリ公園はデンマークのTIVOLI PARKと提携して、JR倉敷駅裏の旧倉敷紡績の広大な約4万坪近い工場跡地を活用して作られている。
謂わば公園のテーマパークというところである。

TIVOLI PARKは、1843年、デンマークの首都コペンハーゲンに、感動とロマンにあふれた都市型公園の建設を夢みて、ゲオ・カーステンセンが当時の国王クリスチャン8世から、約6ヘクタールの土地を借りうけ、のちに魔法の庭園とも呼ばれるようになったチボリ公園を誕生させたことに始まる。
世界最古のテーマパークが「TIVOLI PARK」である。

以下は、倉敷チボリ公園のホームページの一部抜粋である。
「多くの小説家や詩人たちからも愛され、なかでもあのアンデルセンはしばしば足をはこび、童話の構想を練った と言われています。都市型公園の基本を忘れず、つねに豊かに進化していくチボリ公園はデンマークの誇りであり、 創設以来2億7千人が訪れたという世界有数の観光スポットです。そして現在もなお、世界中から年間約350万人 の人々が訪れています。

伝統の中に新しい要素を採り入れてきた、歴史と文化の町・倉敷。
1997年7月18日に、デンマークのチボリ公園と提携したプログラムパーク、倉敷チボリ公園が岡山県倉敷市に誕生しました。 倉敷は、白壁の古い町並みを大切に保存し、大原美術館に代表される芸術と、毎年春に開催する音楽祭 で知られる観光都市。このような歴史、芸術、音楽、文化など、コペンハーゲンと共通 するところの多い 魅力的な街に、デンマークのチボリ公園の楽しさ、快適さ、美しさを生かしながら、同時に日本人の感性に フィットした倉敷チボリ公園が創造できることは、とても喜ばしいことです。
時代や年代を超えて、あらゆる人々がそれぞれに「心のやすらぎ」を探し出すことのできる空間を提供する、 新しいタイプのプログラムパーク。倉敷の町が伝統を積み重ねてきたように、倉敷チボリ公園という森も、この白壁の町で、歳月とともにさらに美しく豊かに成長していくことでしょう。」
とある。

出発が予定より遅れ、高速道路の連休による車の渋滞で、倉敷に着いたのは昼を大分過ぎた頃であった。
散策するルートを決めるために、メーンゲート近くにあったバームクーヘンの館で、生ビールを呑んで一休みした。

倉敷チボリ公園は、「約12ヘクタール(3万6千坪)の広大な敷地に豊かな緑と四季折々に咲き誇る花々や、 チボリ湖など「緑と花と水辺」の織りなす心あふるる公園です」とあった。

公園は、大きくは、四つのゾーンに分かれていた。
最初に脚を踏み入れたところが、オールドコペンハーゲンのゾーンであった。
コペンハーゲンに迷いこんだような所で、石畳の道の両側にヨーロッパ風の建物が並び、噴水があり、花壇がある。建物は殆どがお土産ショップであったり、カフェタラスであったりする。
一休みの後、洒落た作りの家に入って見ると、そこはお土産ショップであった。

やはり目的の公園の花々を楽しむべく、すぐに外へでて木々と花壇の間を散策し、沢山配置されている噴水や、ベンチや洒落た家の前で写真を撮りながら散策を楽しんだ。
秋晴れの清々しい天候で、公園の散策には最高の天候に恵まれた。
園内マップを貰っていたが、気分が良いので気儘に散策していると、やがてメーンゲートの近くに戻ってしまった。
公園を謂わば半周した結果になったので、改めて地図を見ながら、奧へ歩くと湖があり、帆船が浮かんでいた。これは、貸し切り専用の水上レストランで中には入れなかった。

随所にヨーロッパ風の建物があり、それがアトラクション施設であったり、レストランであったり、お土産店であった。
もっと森の有るような静かな公園と花壇を楽しみたいと思ったが、遊園地のような雰囲気が強く、日曜日が初日の連休でもあり、子供連れの家族が多かった。
思い切って童心に返り、アトラクションを楽しむことにした。
観覧車に乗ったり、3Dシアター館で動く椅子と連動した立体映像を楽しんだ。
湖の脚漕ぎボートにも乗るつもりであったが、待ち時間が長いので割愛した。

夕方六時から、公園の中央付近にあるコロニーガーデンで、チボリシンフォニーによる音楽イベントを楽しんだ。
秋晴れの気持ちの良い一日で、公園とコペンハーゲンの雰囲気と、アトラクションで遊園地の雰囲気を楽しみ、さらに夜のイルミネーションが灯った雰囲気の変わった公園で、食事を楽しんで帰路に付いた。

ソード・コンピューター

2005-09-17 12:55:01 | IT
ソード・コンピューター

役所や会社の事務所には、一人一人のデスクにノートパソコンが置かれている時代になった。無論家庭にもパソコンは今やかなりの家庭には普及し、学生のいる家庭なら100%
の普及率だろう。
私の家庭でも、デスクトップ一台とノート型が二台ある。毎日ダイニングテーブルで、ノートパソコンを開いて、ブログを書いている。
インターネットは光ファイバーのADSL回線だから、何か気になる事があれば、ネットで検索して情報を得ることにしている。

私が、このパソコンというものに出会った最初のメーカーが、ソード・コンピューターであった。1983年に発売された、Z80BCPU採用マルチ・ビジネス・パソコン「M243EX」 という機種であった。
のちのち迄、8ビットパソコンの名機と言われた機種であった。
ソードは、彗星のように現れ、また彗星のように消えていった、パソコンの黎明期の伝説のメーカーであったと思う。
ソードは、のちに経営不振に陥って、東芝コンピュータシステムズに吸収されて其の名は消えている。

ソード・コンピューターは、BASICより簡単な言語、ノープログラミング言語PIPSを発表していた。最初に出会った「M243EX」には、漢字処理機能をプラスした「PIPS-III」が搭載されていた。
当時の8ビットパソコン時代は、パソコンの黎明期であり、まだ後のMS-DOSが普及する以前であり、殆どがBASICを搭載していた。
パソコン用の市販ソフトなど一本も無い時代で、BASICで自作のプログラムを作って動かすという時代だったのである。

この当時としては、ノープログラミング言語PIPSは、まさにBASIC素人でもなんとか使える代物であった。
当時は、私はまだ本社から独立して、小さな販社を立ち上げたばかりで、資金が不足していたから、数百万もかかる大型のオフィス・コンピューターは導入出来なかった。
そこで、本社から発売されたばかりの小型のパソコン、ソードの「PIPS-III」を搭載した機種を送り込んで貰った。

プログラマーに、簡易言語であるPIPS-IIIを使って、販売管理のプログラムを組んで貰って、業務に使用し始めた。
送られてきたパソコンは、今のデスクトップと変わりのない大きさであったが、ハードディスクが大変大きな代物であった。40メガの容量なのに、その重量はゆうに30キロを超える超重量級で、デスクの四分の一を占拠した。
フロッピー・ディスクは、当時は8インチで、LPレコードのような大きなものであった。
あまり嵩張るので、翌年には5インチのフロッピー・ディスクへ変更した。

それまでは、コンピューターというものはオフコンであり、事務所でも別室の「電算室」という囲われた場所で、密やかに使われていたから、その正体を知る機会がなかった。
ともかくデーターを打ち込んで電算処理することで、個別の得意先の売上伝票を発行し、請求書を作るものであるという認識しかなかった。

そんな私の横へ、小型のパソコンが置かれた。
組まれた販売管理のソフトを使用する他に、何か使い道はないかと研究を始めた。
まずは、ワープロ代わりに使う事を考えた。
PIPSでは、今のエクセルのような、行と列の構成で60行使えた。無論フォントは明朝の一種類だけで、文字の級数も一種類しかなかったが、とにかく文字を連続して打つことができた。これで、ビジネス文書を作って狂喜したものである。

昔の映画で、タイプライターで文字をパチパチ打ち込んでいる姿を見て憧れていた。
が、日本語では漢字があるから絶対不可能と思っていた。
これより以前に「テレックス」が会社に導入された当時は、支店間の連絡にテレックスを打ちまくった。残念ながら、全て片カナ文字だけで、電報のような読みにくいものではあった。
それだけ、タイプライターに憧れがあったから、漢字が使えて文字がキーボードから打てるというのに狂喜したものである。

次ぎに、PIPSにはエクセルのような表計算が可能であったから、さまざまな統計資料や分析資料を作り、その数値を単純な円グラフか、横棒のグラフにすることができた。
営業担当であったから、得意先の実績をグラフ化したり、売れ筋分析をグラフ化して、得意先へ持ち込んだ。
当時は、営業担当がパソコンを使いこなす時代ではまだなかったから、注目を浴びた。
まだ当時の営業担当者レベルでは、手書きの見積書と、手書きの資料の時代に、見積書から、提案書、そして分析資料まですべてパソコンで仕上げた。
ただし、今のエクセルのような機能は無いから、文書に別に作った表や、別に作ったグラフを、文字通りカット&ペーストで貼り込みし、コピーして一枚の資料を作った。

出来上がった資料は、大型オフコンの特別のプログラムで作った資料のように見えて、バイヤー達の目を見張らせたものである。

マニュアルを見ると、ソードは、ノープログラミング言語PIPSを搭載しているから、簡単なルールに基づいて、作業コマンドを並べていくと、所謂プログラムができる。
そこで、次ぎにチャレンジしたのが、手書きの「総勘定元帳」を作るプログラム作りである。
PIPSは、エクセルのようなセル構造を持った、60行しか無いがページ型の表計算ソフトでもあった。
そこで、まず振り替え伝票の形式で、コード打ち込みする窓を作り、特定のページにそのデーターを書き込みさせる。例えば110とコードを入力すると、変換表のデーターから「現金」という文字が記入される。相手科目のコード5111と打つと「交通費」と変換される。適用欄はすべて手打ちする。
これが仕訳帳に一覧でデーターとして作成される。
この仕分け帳ページのデーターから、借り方と貸し方別に、それぞれのページに文字列照合で転記させるコマンドで仕分けした。
そして、各ページ毎に合計させる。その合計を、PLやB/Sに転記させると、目的の財務諸表が完成するという仕組みであった。

それまで、パソコンのプログラムには全くの素人であったが、プロが組んだ「販売管理」のプログラムで、コマンドの使い方を知り、またプログラム知識の浅い人間には難しいマニュアルと格闘しながら、試行錯誤て、プログラムを作りあげた。
なども試運転して、バグを取り除き、完成した時の喜びは未だに忘れられない。
しかし、最初はベテラン経理事務員は、なかなか算盤を手放しせず、私の作った経理プログラムをなかなか信用しなかった。

そこで、手書きの経理処理と、パソコンでの経理プログラムを平行して2カ月使用し、やっと切り替えに成功した。
後にも先にも、自作のプログラムはこれ一本のみであり、大変な思い出である。
その後、16ビットマシンが主流となり、バソコンもNECのPC-9801シリーズに切り替わってから、市販のソフトが次々に産まれ、素人が何日も徹夜同然の悪戦苦闘をする必要がなくなった。

この稿を書くにあたり、ネットで調べたら、この懐かしい「PIPS」は、東芝に引き継がれて進歩して、Windowsバージョンもあり、しかも、簡易言語「The PIPS」としてフリーソフトウェア化されている。
PIPSの名の由来は、
Pan(汎用)Information(情報) Processing(処理)Systemの頭文字から来ているという。
そして、PIPSクラブというホームページがあり、愛好家が独自に使い方を研究発表している事を知った。



DIYの勧め

2005-09-16 12:49:59 | 趣味
日本もアメリカなみのホームセンターが各地に出店している。
DIY用の素材と工具を中心に、園芸用品、ペット用品、そして豊富な家庭日用品まで品揃えしている。
特に大型ホームセンターの店内を見て回るのは楽しい。
素材も、職人が使うような専門的な物まで品揃えがあり、家一軒を自分で建てることが出来るくらいに幅広い。

それぞれの素材や専門的な工具、金具、接着剤などは、その使用方法を写真や図解で、実に懇切丁寧に説明している。
入り口付近には、実に多種多様のHOW TOシリーズの簡単な説明書を無料で配布してくれている。
じっくり素材や道具を見て回ると、家の各部分の構造がどうなっているのか、補修のポイントは何処なのかも自然と理解できるようになっている。

最近の素材は、専門家向けの素材でも、半加工されたものが増え、現場での施行を容易にしたものが多くなっている。特に現場で何工程も必要な施行や、高度な施行技術が必要なものは、殆ど工場で加工されたものになり、あまり高度な技術を必要としないように工夫されている。
建築関連の職人は、昔は親方に弟子入りして、殆ど無給で働きながら、親方の技術を盗むという伝統があった。
しかし、高度経済成長時代の建築ブームで、徒弟制度は崩壊した。
職人仕事の高報酬を目当てに、にわか職人が急増した。先輩について現場で仕事を覚えて、すぐに独立しても仕事に就けた。このため、職人仕事の質が落ちて、クレームも増大した。
いわゆる手抜き工事以前の、未熟職人の未熟な現場施行による不具合が多発した。

このような時代を背景に、まず電動道具がさまざまに改良された。
電動丸鋸、電動ジグソー、電気カンナ、電動ドライバー、インパクトドライバー、果ては電動の釘打ち機、電動サンダー、オートタッカーなど、さまざまな工具が販売されている。
測定器具でも、レーザーを使用した水準器、レーザー測距器など何でもある。

素材でもプレ加工した素材が殆どで、現場ではインストール(取り付け)作業が中心となっている。塗装でもスプレーガンによる吹きつけ作業となり、半素人職人でも施工可能となった。ペイントも扱いやすい水性塗料に切り替わっている。

木造建築の現場を見ていると、基礎工事の上に框や垂木をボルトで固定し、サイズ切りされたコンパネを並べて、インパクトドライバーでビス止めする。
柱や框も、工場でプレカットされた木材を、クレーンで吊り上げ図面の番号に合わせて、切り込みや枘(ほぞ)に差し込み、金具で固定するだけで、家の骨格がほぼ二日か三日で出来上がっている。
無論、様々な形をした耐震用のジョイント金具を、ビス止めしているから、高度な木組の技術も知識必要ない。
昔の様に、現場で職人が鋸を挽いたり、カンナを掛けたり、墨打ちして金槌で音をたてる事はまずない。
すべてプレ加工された材木を、共同作業でインストールするだけである。

昔のように網代を組んで、土を練り、左官が現場で、コテ塗りするという和壁も極端に減少している。
柱に垂木を通し、外側に建築合板をインパクトドライバーで取り付け、断熱材を貼り付けて、内側からも建築合板を取り付ける。
和風壁の場合は、合板の上から土壁を薄くスプレーガンで吹き付けする。水回りのタイルの場合は、既にシート状にプレ加工されたタイルを貼り付け、部分的な入り角や出角を調整施工するだけである。
外壁は、様々な意匠に工夫された見栄えのするサイディングを貼り付けるという、まさにインストールという感覚の建築工法に様変わりしている。

木造の家を一軒建てるのに必要な、上記のようなプレ加工された素材を殆どホームセンターで販売している。柱や框の材料だけはさすがにプレカットされたものは無いが、大概のホームセンターでは、パネルソーなどで材木をカットしてくれる。
難しい枘(ホゾ)加工は省略して、工夫された様々な木組用建築金具を使うことで、木組みも可能となっている。

つまりは、やる気を持ち、時間さえあれば、なんとか一部屋のリフォーム程度ならば、充分可能である。そのために必要な、最低限の知識も、施工方法も、重要なポイントも、素材を選ぶ選定基準さえも、ホームセンターの中で無料で手に入る。
素人に近い職人集団でも家が建つ便利な世の中になったために、逆に素人のDIYで、可成りのリフォームが可能となっている。

現在、悪質なリフォーム業者が横行している。しかし、住宅の構造について無知だから、そのような悪質リフォーム業者に騙されるのである。
家の補修が必要になったり、リフォームを考える場合、とにかく何日も大型ホームセンターに通うことである。
プロ向けの資材館がある店で研究すれば、まず素材や住設機器の種類や価格が分かる。また施行方法も知ることができる。職人の日当は高くても一日2万で計算すれば、大体のリフォーム費用の検討がつく。
そして、詳細な見積もりを取ることである。○○工事一式幾らというのは、見積もりとは言わない。見積もりで、ホームセンターの素材や住設機器より高い業者とは契約しないことである。

それよりも、気力体力があるならば、友人の協力や家族全員参加で、自分でチャレンジすべきである。家族の絆は深まるし、万一不具合があっても、何度でも手直しができる。
そして、ものを作る喜びは、何物にも代え難いのである。
さらには、もっとも安心な経済的なリフォームができるのである。

襖(ふすま)の語源

2005-09-15 09:53:06 | 建具の話し
     
障子という言葉は無論中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にもなかった。
当然ながら、日本人の命名である。        
「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。
寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」の意である。
このため、「衾所の衾(ふすま )障子」と言われた。
さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説がある。
「衾(きん)」を、「ふすま」と訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ている想像される。
いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるいう学説が正しいとされている。

ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦(ぜんきん)は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことである。
寝殿造りで多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり )などの縁取にも使用されている。
几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていた。

帳(とばり)は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情を作っていた。                        

「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用された。
襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられる。この衝立てを改良して、框 かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図った。

この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われる。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていた。
 
「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りであった。このため「ふすま障子」と称された。
のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていく。                       
 
一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようである。  
                                  
唐紙障子の考案からやや遅れて、「明かり障子」が考案された。    
今日の障子である。
 
時代を経るに従い、言葉がつづまり襖障子、唐紙障子の内、「障子」が脱落して襖、唐紙となり、明かり障子は逆に「明かり」が脱落し、障子が固有名詞となり、間仕切りの総称から地位を譲った。


水と和紙

2005-09-14 12:22:53 | 紙の話し
水と和紙

紙を抄造(しょうぞう)するには、植物から繊維を分離し、細かく砕いて水に懸濁(液体中に分散)させ、水だけを濾(こ)して、繊維を薄く平らに絡み合わせてシート状にして、乾燥させるという工程を経る。
近代的な洋紙の工業生産では、紙の生産量の約一〇〇倍もの水が使用される。
手漉き和紙の生産には、もつと多くの割合の水が使用される。

従って紙郷(手漉き和紙の生産地)は水に恵まれた所に立地しているが、その水は良質でなければならない。
大蔵永常の『紙漉必要』には、

「紙を漉くには山川の清き流れ有りて 泥気なく 小石にて浅く滞りなく 流るる川の浄地を佳とす。・・・ その所の水によりて 紙の善悪あれば まず水を見立てること第一なり。 」
とある。   

紙を漉く水は、浮遊物や鉄分やマンガンを含んでいないもので、しかもカルシュウム・イオンやマグネシュウム・イオンの含有量の少ない軟水であることが望ましい。
硬水は軟水のようには、粘剤(ネリ)を効果的に作用させることができない。
清らかな水から生まれる紙は、水に対して親和性があり、墨やインキで書くことができ、絵の具で絵を描いたり、染料で着色もできる。
また、紙に親水性があることは、水に対して極めて弱いという欠点も有している。
しかし、水によって紙が分解されるということは、一度使用した紙を何回も再生できるという長所にもなっている。

そして紙は、微生物によって分解されても、火によつて燃やされても、本来の炭酸ガスと水とに分解して行く。
(現代の洋紙では、さまざまの紙力増強剤により、単純に水だけでは分解しないものも多くなっている。)


紙はセルロースの水素結合

そもそも植物繊維の主成分のセルロースは炭水化物で、水と炭酸ガス(二酸化炭素)が太陽エネルギーを得て、光合成によって生成した化合物である。
分子中には無数の水酸基(OH)を含み、水となじみやすい特性(親水性)を持っている。セルロースは、非常に多数のブドウ糖(グルコース)が長く一列に連なった線上の高分子である。                        

この長い分子が多数集合してフィブリルという微細組織を作り、これがさらに多数集合して繊維を形成している。
このようにセルロース分子が集合するときに、分子が密接に平行した部分(結晶領域)と、分子が無秩序にまばらに分散している部分(非結晶領域)とができる。各分子は非結晶領域から始まり、いくつかの結晶領域と非結晶領域と交互に連なり、非結晶領域で終わる。

植物から取り出した繊維を、水の中で叩解(こうかい)すると組織が緩み、水が非結晶領域の中まで入り、セルロース分子の各水酸基は水分子と結合し、繊維の組織の結合が緩んで膨潤して柔軟になり、繊維表面はセルロースを最小単位とするフィブリルという微細組織に分かれ(フィブリル化という)、全表面席が増大する。

このように微細繊維化(フィブリル化)した繊維を、簀(す)ですくい上げて絡み合わせて、圧搾して水を除くと、微細繊維は相互に密着する。感想によって、膨潤していた繊維は収縮して硬くなり、繊維の接触点では水酸基の間に水素結合が行われ、紙全体が形状と強さを保つようになる。
紙はこのように、水を触媒としたセルロースの水素結合である。

楽天的に陽気に生きる

2005-09-13 12:10:43 | 哲学
人間明日のことは分からない。
いや、極端に言えば、今日一日無事に終わるかすら、分からない。
朝、元気に家を出た人が、自動車事故、列車事故、飛行機事故など悲惨な事故に遭遇して命を落としている。精神に障害を持つ人に、突然襲われることも多い。何時、何が、何処で起きても不思議ではない。
 
事故に遭遇しなくても、突然死を迎えることもある。
友人で、5月の連休に元気に山菜取りに出かけ、小さな川原で突然死んだ男がいる。警察も当然調べたが事故の可能性はなく、医師も突然死と断定した。
何の持病もなく、健康そのものであった働き盛りの男が、何の前触れもなく心肺が停止して、突然死を迎える事があるという事を知った。

そうで無くても、突然リストラを通告されたり、突然会社が倒産することも多い。
安定した収入がある事を前提に、家や車のローンを組、子供を大学に通わせている家庭には、経済的に大波乱が起きるであろう。
四十を超えた男性に、再就職の道は厳しい。特別な技能や、高度な専門スキルを有していれば、再就職は充分可能だろう。
しかし、特段の資格や技能を持たない営業職や企画開発、総務・人事・経理といった事務系の人の再就職は絶望的である。少なくとも、経済的には半分程度の収入を覚悟しなければ、再就職は困難である。

長い人生では必ず、一度や二度窮地に立ち、絶望に襲われることを誰でも経験するだろう。
倒産やリストラで経済的に追い込まれたり、大切な愛する人を亡くしたり、突然の事故に遭遇して身体に不自由を持つ身になったり、自身が病気で寝込んだり、子供が事件を起こしたり、さまざまな状況の中で、絶望的状況に突然襲われることがある。

そんな絶望的日々の中で、どう立ち直るかで人生の明暗が分かれると思う。
どんな悲惨な状況であっても、これは一時的な苦境であり、必ず希望の灯が点るはずだと、自己の未来を信じることである。

自己を信じることは、神を信じることに通じる。
自分は、自己の意志で生まれてきたのではない。
与えられた命を生きているに過ぎない。
与えられた命だから、どのような状況に陥っても、これは試練であり耐えられる範囲の試練である。与えられた体力、気力、知力、その他の能力で、耐えられる範囲の試練しか与えられない。
だから、この超えるべき、与えられた試練を乗り超えれば、輝かしい未来が必ずやって来る。そう楽天的に陽気に信じて、未来に明るい光を見つづけると、間違いなくその光が近づいてくる。

還暦を迎えるまでに、悲惨な「どん底」を何度か経験してきた。
会社の倒産も二度も経験している。家庭崩壊も経験した。
息子が薬物中毒で事件を引き起こして、何度も警察署に脚を運んだことも経験した。
何度か、一時的ながら「もう俺の人生はお終いだ」と覚悟した。

しかしながら、生まれつき楽天的にものを考える性癖があった。
どんな苦境に遭っても、自分を客観的に芝居の客席側から見ている自分がいた。
まだまだ、この程度なら「不幸中の幸い」ではないか。
もっと悲惨な人々がいる。
まだ気力・体力と知力が残されている。
やれるだけの事は、とことんやってみよう。
神は、まだ我を見捨ててはいないはずだ。

裏付けとなる根拠は何も無いが、そう覚悟すると考え方が変わり、悲惨な現状を、取り敢えず受け入れ、状況を分析する余裕が生まれる。
置かれた状況を客観的に観察し、何らかの対策や今後の方策を見いだす。
どん底では、それ以上に落ちることは無いから、開き直りがしやすい。
落ちるところまで落ちたから、後は這い上がるだけだ。
そのように、ポジティブに物の見方が変わると、何かしら努力する勇気が湧いてくる。

特定の宗教や宗派に帰依したことは一度もない。
しかし、「困った時の神頼みは」毎回実施している。
神社の初詣では、必ずお神籤を引いてみる。吉や、中吉、大吉がでると、よし今年こそは運が開けると信じる。
万一、小凶などのお神籤を引くと、これは何かの間違いだと思い、吉や、中吉以上が出るまで、お神籤を引く。少なくとも三回引いて、プラスマイナス合計で、プラスに転じるようにしている。

とにかく、自己を信じることは、神を信じることに通じる。
自分は、自己の意志で生まれてきたのではない。
与えられた命を生きているに過ぎない。
だから、一生懸命生きる努力をしていれば、必ず願い事は叶うと信じて生きてきた。
人生を振り返るにはまだ若い62歳ながら、真剣に願った事は叶えられたと思っている。
今実現していない夢は、まだまだ真剣に願っていない証拠だと、自身に言い聞かせている。

まだまだ、夢を追い続けて生きていきたいものである。

選挙結果を考える

2005-09-12 11:55:33 | 政治
昨夜八時のNHKの選挙速報の第一報を見て、一瞬耳を疑った。出口調査の結果「自民党圧勝」、300議席に迫る勢いと報じている。
その後の報道でなる程296議席を獲得するという、信じられない程の自民党圧勝となっていった。
私の予想が見事に外れた選挙結果となった。
今まで何度も国政選挙を経験して、これ程自分の予想が見事に外れた選挙結果は初めてである。

今までの国政選挙の結果、ようやく二大政党の流れができてきて、今回の選挙で政権交代の選択ができるところまで来ていると感じていた。日本人の政治意識もかなり洗練されてきたと、勝手に思い込んでいた。
しかし、今回の選挙結果を見て、いかに日本人の政治意識や選挙態度に対しての、私の判断がいかに素人であったかを思い知らされた。

今回の選挙結果をどう解釈すべきかと悩んだが、ふと日本人は農耕民族だったと思い至った。
農耕民族説を持ち出すことで、今回の意外とも思える「自民党圧勝」という選挙結果を解釈してみたい。

農耕社会で稲作を行うために、集団としての力が必要であり、村長(むらおさ)や指導者の指示で、一致団結して農作業を行ってきた。
稲作のためには、水田の潅漑工事のために、大規模な土木工事が必要である。
籾種を保管し、時期が来れば苗代田で苗を育成して、各田圃に配布して一斉に田植えを行う。天候に基づき水の潅漑を管理し、田の草を取りなど、さまざまな重労働としての農作業を果たす必要がある。

秋の稔りを迎えると、また集団農作業で収穫を行い、村長(むらおさ)によって平等な分配と備蓄が行われる。そして豊作の感謝として、村の鎮守の秋祭りの祭礼が行われる。
稲作を中心とした農耕社会では、個人としての能力は殆必要ではなく、村長(むらおさ)の指導のもとに、集団としての農作業に従順に従うことが美徳とされてきた。

農耕社会では、政りごとは、祭りであり、祀りでもあった。
村の鎮守の氏神に祈りと感謝を捧げ、鎮守の御輿を総出で担ぎ、お祭りで一緒にさわぐ事で村人との一体感を高める。
農耕社会の村で生きるには、個人の知恵や才覚は寧ろ邪魔なもので、村の掟に従順に従いうことこそが美徳であり、平和な暮らしを約束するものであった。
万一、村の掟に従うことを拒むと、村八分という凄惨な仕打ちに遇った。

縄文時代から始まる長い農耕社会を経験して、何事にも盲目的に属する集団に従順に従うことが骨身に浸みて、日本人の遺伝的体質となっているようにさえ思える。
つねに属する集団に「すべて右に倣え」で、はみ出すことを極端に恐れてきた。

明治以降、工業化社会として近代化し、商業社会を経験しても、情報を自ら収集分析し、自己の才覚で物事を判断し決断するという、新しい価値観を身につけた人々は極僅かしかいなかったと言える。
それらを身につけた人々は、殆どが官僚となり、政治家となり、企業家となり、新しい社会のリーダーとなった。

日本の経済は一流だが、政治は三流とよく言われる。
その国際的には三流政治家を、選挙で選び続けた国民は、まさに農耕社会で身につけた
「帰属する集団や、社会の動向に敏感に反応する、強い者への従順さ」で、政治的にはまだ未成熟な段階にあると言えるかもしれない。

政治的に未成熟という過激な言い方には、説明が要る。
一つの典型として、国政選挙で「地元への利益誘導」貢献を評価するというのは、まさに政治的に未成熟と言いたい。
国政選挙というのは、本来は国家の将来を託すという選択であり、我が村や我が町の公共事業を促進するための選挙ではない。
にも関わらず、今回も地元応援団は、中央に大きなパイプを持つおらが先生を、何がなんでも地元のために送り込む事に必死になった。
投票する人々は、帰属する地元組織リーダーの言いなりで、おらが先生へ従順に投票したと思える。

もうひとつの典型として、今回特徴的であったのは、刺客候補の擁立であった。
元々地元にあまり地縁血縁の無い、落下傘候補が思惑通りに当選した事である。このことは、政策が評価されてと言うより、やはり地域社会への集団的従順さと関係があると思う。
つまり、祭りには御神輿を担ぐが、今年は新しい華やかな御輿を与えられて、無邪気にそれを担いだと言えるだろう。
元来、担ぐべき御輿そのものを、詮議をするという事は恐れ多い事であり、帰属する組織が、今回はこの御輿を、と指示をだせば盲目に従うという図式であろうか。

さらには、都会の無党派といえる人々の政治意識のことである。
もともと世の中のブームや、流行に敏感な人々がいる。
自己の行動を規定付けるはずの、帰属する明確な集団が無いからこそ、流行を追いかけ、ブームに乗ることで、農耕社会の遺伝体質である「盲目的従順さ」を満足させていると思われる。
彼らの一部は、もともと政治的にはそれ程関心がなく、世の中の流れやブームに乗りやすい体質を持っているから、「勝ち馬」に乗る傾向が強い。

今回の選挙公示前から、「自民党優勢」という新聞報道があり、終盤にきてから更に電話アンケート調査結果で、「自民党が圧倒的に優勢か」の報道があった。
自民党では争点を単純化して「改革を選ぶか、抵抗勢力を選ぶのか」という構図を打ち出した。
そして劇場型選挙として、刺客まで送り込み「抵抗勢力討伐」のような構図を設えた。
マスコミ報道は、小泉政権のシナリオに飛びつき、劇場型選挙としてさらに扇動したから、野党の真面目な政策論は消し飛び、勝ち馬に乗る心理が大きくなり、ブームとして小選挙区で自民党の優勢が雪崩現象を生じたのではないかと考えている。
このことが、投票率が向上したにも関わらず、民主党という最大の野党の惨敗につながったと感じている。

このことは、日本人の農耕社会的政治感覚の未熟さと、日本のマスコミ報道の未熟さがもたらしたものだと思っている。
特に選挙結果について、マスコミ報道の影響が今回ほど出たのは初めてではないか。
このような経緯を考えていると、日本では二大政党化というのは、幻想にすぎないのでは
と思えてくる。

農耕民族は、劇的な変化を望まない。むしろ変化ではなく、安定と秩序を求めている。
それが例え一時的には停滞であっても、変化よりましと考えているのかも知れない。
昔の貧しい暮らしに比べれば、今は、取り敢えずは、日々の暮らしができている。だから、日本の遠い将来のことなぞは、いずれ先生方が善いようにしてくれるはずだ、と考えているのかも知れない。
日本は単一民族社会であり、未だに農耕民族としての掟に縛られている精神では、多民族国家であり、騎馬民族の末裔のような政治のダイナミズムなぞ望むべくものではないと感じた。

騎馬民族でのリーダーは、情報収集能力や対外的交渉能力が不可欠で、そのリーダーの才覚や的確な決断でその集団の運命が左右される。
万一、選んだリーダーがその資質に問題があれば、速やかに次のリーダーがとって代わることが出来なければならない。そのような騎馬民族の世界でこそ、二大政党が実現し、大きな政治ダイナミズムが実現したのであろう。





新聞の選挙予測報道

2005-09-11 10:46:44 | 政治
今日は衆議院選挙の投票日で、当然ながら投票してきた。
今夜遅くから開票が始まり、テレビは選挙報一色になる。刻々と開票結果が速報され、僅かな開票率で早ばやと当選確実が打たれる。出口調査などで有る程度の情報を得ているから、可成りの精度で、当確が打てるらしい。
楽しみでもあり、どのような結果がでるか恐ろしい気もするのである。

さて問題は、昨日までの新聞の、選挙予測調査報道のことである。
殆どの新聞の結果予測では、「自民党有利」、或いは「安定多数確保」となっている。
選挙予測調査の結果が、なんだか、少し違うのではという感じを持った。そんな筈はないはずだ、というのが正直な感想である。

今回の衆議院選挙は、解散からして郵政民営化が否決されたという事を理由とした、報復的とも言える異常な解散であり、従って自民党が分裂した選挙である。
この選挙で自民党が平穏に終わるはずがない、というのが私の読みである。
郵政民営化に反対したと雖も、自民党として実績のある政治家が、37人も自民党から非公認となった上に、対立候補を立てられている。
マスコミはこれを刺客候補、落下傘候補として取り上げ話題となった。しかし、この刺客候補が全員当選するなんて、日本人の良識からはあり得ないと思う。

一般国民にとって、緊急の課題でもなく、特段生活に直結するような重要課題でもない、議論の多い法案一つで国会が解散された。
「郵政民営化に賛成か、反対か」だけを絶叫する小泉首相に、国民の大多数が支持し、刺客候補が全員当選するなんて絶対にあり得ない。
考えられる事は、反対派議員が、同情と過去の地元利益誘導の実績が評価されて、かなり善戦すると思われる。

無論、刺客候補で人気が高く、マドンナ旋風で幾人かは当選するかも知れない。しかし、比例区を除く小選挙区ではせいぜい一人か二人ではないかと思う。
つまりは、旧自民党の反対派議員と、刺客候補の票の食い合いで共倒れとなり、民主党に有利になる地域がかなり出るのではないかと思っている。

私見ながらも、共産党はその特異な考え方から、凋落に歯止めは掛からないと思っている。社民党も、もう時代に取り残されていて、期待を担うパワーがなく惨敗すると思っている。
そして公明党は、自民党と連立を組んで与党化したことで、独自性が失われて魅力を失い、
学会員以外は投票しないだろう。だから、現状維持は困難で若干減少すると思われる。

そうすると、新党が思いの外善戦するとしても、どう考えても民主党が躍進しなければ辻褄が合わない。特に、良かれ悪しかれ、劇場型選挙として近来珍しく関心を集めた国政選挙となるはずである。
ところが、新聞のランダムな電話による世論調査では、どこも自民党有利の結果がでて、そのように報道されている。

選挙は毎回「浮動票」とか、「無党派票」の動向にかかっている。
その無党派の意見が世論調査に現れていないような気がする。無党派は都会に多く、現役のサラリーマンや自営業者などである。
ウィークデーに調査を行うと、共働き家庭が多くまず電話に出る確率が低い。日曜日に調査しても、朝から家族そろって出かける可能性が高い。

必然的に、電話による聞き取り世論調査で被調査者になるのは、圧倒的に保守的傾向が強い、時間的にゆとりのある年齢層に集中している可能性が高い。
その世論調査の結果を、選挙の投票日前に大々的にこぞって大新聞が報道すると、
「今度こそは、世の中を変えるチャンスだ」
と選挙に行く気になっていた無党派層が、
「やっぱり、自民党が強いな。期待して選挙に行っても結果は同じことか」
元々政治に不満を抱きながらも、結果としてまた政治無関心派になってしまう可能性がある。

選挙予測報道は、往々にして「アナウンス効果」があると言われている。
新聞の世論調査の結果を見て、勝ち馬に乗る心理が働き、さらに無党派層は、逆に無力感から選挙に行かないというマイナス行動を生み、結果として新聞報道が裏付けされる事もある。

小泉自民党に逆風が吹いている筈の衆議院選挙で、まるで自民党に追い風が吹いているような、自民党有利の選挙結果を予想して報道すれば、そのような結果になる確率が高まる。

日本の大新聞が、日本の未来を危うくする可能性がある。
なぜなら、結果に偏りが予想される電話世論調査の結果だけを取り上げて、選挙をする前に「自民党が有利」と報道すれば、ますます政治無関心派が増大し、独善的な政権がつづき、政治はますます利権癒着の構造がつづいて、政治の荒廃が続くだろう。

今回こそ、無党派層が立ち上がり、国民を小馬鹿にしたような、
「郵政民営化に賛成か?それとも改革に反対か、が問われているのです」
と叫ぶ、扇動的な詭弁を弄する小泉自民党へ、反対の意思表示をして欲しい。

本当の政治改革とは、やはり二大政党化を一旦成し遂げるべきだと信じている。
選ばれた政権政党が、もし公約に反して独善的になるなら、次の選挙で野に下るという選択肢が持てる二大政党ならば、国民の重要関心事項を政府が裏切ることは決してできない。
その二大政党化の流れに、水を指すような選挙予測報道は、流れを止める可能性がある。

どんなに知恵を絞った選挙予想の調査でも、必ず偏るという事実がある。大新聞が、その予測調査を大々的に報道するのは、世論形成につながる可能性がある。
つまりは、日和見の無党派層の出鼻をくじく結果をもたらす可能性があると思う。

今夜から明日にかけての選挙結果が、大新聞の選挙予想結果を覆して、良識のある無党派層が立ち上がった姿を見たいものである。

日本の紙幣

2005-09-10 10:38:47 | 紙の話し
日本の紙幣は、ひとつに「紙」に特徴がある。
つまり、三椏(みつまた)を主原料にした(詳細は機密である)「和紙」で出来ている。
和紙は長繊維で出来ており、肌触りがよく、しかも丈夫なのである。
和紙の主原料は、紙幣にも使われている三椏(みつまた)と、雁皮(がんぴ)、楮(こうぞ)である。

三椏は、春を告げるように一足先に、淡い黄色の花を一斉に開くので、サキサクと万葉歌人はよんだ、ジンチョウゲ科の落葉低木で、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、三枝、三又、とも書く。
古い時代には、植物の明確な識別が曖昧で混同することも多かったために、同じジンチョウゲ科に属する「雁皮」も「三椏」を原料としたものも、斐紙(ひし)(美紙ともいう)と総称されて、近世まで文献に紙の原料としての三椏という名がなかった。 
後に植物の知識も増え、製紙技術の高度化により、雁皮と三椏を識別するようになったとも考えられる。

「みつまた」の最初の文献は、徳川家康がまだ将軍になる前の慶長三年(1598)に、伊豆修善寺の製紙工の文左右衛門に三椏の使用を許可した黒印状(諸大名の発行する公文書)である
「豆州にては 鳥子草、かんひ みつまたは 何方に候とも 修善寺文左右衛門 より外には切るべからず」                         
とある。「かんひ」は雁皮(がんぴ)のことで、鳥子草が何であるかはよくわからないが、当時は公用の紙を漉くための原料植物の伐採は、特定の許可を得たもの以外は禁じていた。

和紙の原料の中では、楮の繊維が最も長く、肌触りやや荒いが丈夫さでは一番である。
雁皮の繊維は、楮の三分の一程度と短いが、その質は優美で光沢があり、平滑にして半透明でしかも粘性があり緊縮した紙質となる。
遣唐使と共に唐に渡った最澄が、わざわざ土産として筑紫の斐紙(ひし)を、二〇〇張りを持参している。紙の先輩国である中国に、土産として持参できるほどに高い評価を得ていたことになる。平安期の公家の女流詩人たちに、かな文字を書くのにもっともふさわしい紙として愛用され、中世から近世にかけて、「鳥の子紙」の名で紙の王としてその名を知られているのが雁皮紙である。
江戸時代の藩札は、殆どが雁皮で漉かれている。

明治になって、政府は雁皮を使い、初めての日本国紙幣を作る事を試みた。
しかし、楮や雁皮は古来、天然の物を使っており、栽培が困難であった。
天然の雁皮を原料として紙幣を作ると、天候に左右されて紙幣の安定供給ができない。
試行錯誤したが、どうしても雁皮の栽培が困難で有るため、栽培が容易な三椏を原料として、丈夫で平滑で印刷に適した紙幣として最適な紙漉の研究をした。
その結果、明治十二年(1879)大蔵省印刷局抄紙部で、苛性ソーダ煮熟法を活用することで、三椏を原料とした日本の紙幣が使用されるようになっている。 

それ以来今日まで、三椏を原料とした日本の紙幣は、その優秀性を世界に誇っている。
手漉き和紙業界でも、野生だけで供給量の限定されたガンピの代用原料として栽培し、現代の手漉き和紙では、楮に次ぐ主要な原料となっている。現代の手漉き鳥の子和紙ふすま紙は、三椏を主原料としている。

もうひとつの特徴は、黒透かしの技術である。
越前美術紙と呼ばれるさまざまな技法のなかで、透かし技術は生まれた。
和紙の透かし技術は、簀(すのこ)面に凹凸を付けて漉くと、凸の部分が薄く漉け、他の部分よりも光が透過し易く、透かし紋様となる。
普通は、渋紙を紋型に切り抜いて簀に縫いつけ、紗を用いる場合は、漆で紋を描いて凸部を造る。中国では、糸で編んだものを竹簀(す)に固定し、ヨーロッパでは銅線細工で紋型を造った。
越前では、黒透かしの技術も開発された。
一般の透かしは白透かしと呼ばれ、紙に厚薄をつけて、その薄い部分が透けて見えるというものである。黒透かしは、単に厚薄の部分だけで透けるのではなく、明暗のある透かしを特徴としている。
この黒透かしの技術は、明治政府が紙幣に贋造防止のため採用し、一般には黒透かしは禁止された。
この当時の黒透かしの技術者は、明治政府の大蔵省印刷局抄紙部に全員採用された。このため、越前和紙では白透かしだけしか造られていない。

このように、日本の紙幣は、世界に比類のない和紙で出来ており、手触りが良くて印刷適正に優れ、しかも抜群の耐久性を誇っている。折り曲げや引っ張り強度に関して、世界に誇る強度を持っている。
偽札を、例え外国で高度な技術で刷しても、この紙質だけは絶対に真似ができない。
お札を改めてじっくり触り、他紙と比較してみれば、自ずからその紙質の違いが分かる。
洋紙と和紙の違いは、やはり手触りである。目を閉じて、洋紙などの紙と、お札の紙質の違いを感じてほしい。
さらには黒透かしを確認する。そうすれば、一発で、偽札を見抜ける。

和紙については、詳しくは、http://sano-a238.hp.infoseek.co.jp
又は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「和紙」の項目を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


驕れる者久しからず

2005-09-09 13:07:38 | 流通
ダイエーと言えば、かって日本を代表するスーパーストアであった。
中内功が、1957年大阪千林にドラッグストアを開店し、1962年 7月 商号を株式会社主婦の店ダイエーに変更し、以後アメリカ仕込みのSSDS(セルフ・スーパー・デイスカウント・ストア)として、全国へ店舗展開をしていった。
1972年8月 三越を抜き、小売業売上高日本一を達成している。
1975年 4月 ダイエーローソン株式会社設立して、コンビニエンス業界へ進出。
1980年 2月 小売業界初の売上高1兆円を達成した。

同年12月には、自社開発商品「セービング」商品を他社に先駆けて発売している。このセービング商品の開発には、しっかりしたコンセプトがあった。
ダイエーでの月間販売実績で、その品群の中で上位を占めている売れ筋商品の中で、メーカープランドより四割安く価格設定できるものだけを、特に「セービング商品」として発売された。
これがSB(ストアブランド)の先駆けで、世間を驚かせる価格設定であった。以後各スーパーストアでもストアブランド開発競争となっていく。

この当時の「セービング」を始め他のSB商品も、殆どが大手の下請けメーカーと直接取引して開発したもので、世界から調達してきたものではなかった。或いは、大手メーカーに安売りすると圧力をかけて、無理矢理SB商品を作らせたりした。

この辺りまでは、小売業ダイエーは面目躍如たる風格があって、 流通革新の王者として君臨していた感があった。この当時の商品部のバイヤーには優秀な人材がいて、毅然たる商談姿勢があった。みな会社を背負っている自負が強く、「ダイエーとしては、品質や機能を犠牲にした低価格品はり扱いしません」と、バイヤーは常に「ダイエーとしては」を枕詞にして喋っていた。
中小企業のメーカーは、ダイエーの店頭に商品が並ぶというのは、一つのステータスでもあった。他のスーパーへ売込む時、「ダイエーで売れています」と言うのが殺し文句にさえなった時代があった。

ダイエーは、全国各地に店舗を展開し次々に地元流通業を吸収合併して、名実共に日本一の流通業として成長するのと平行して、経営方針がコングロマリット化へ方向が変わった。
ちょうど日本経済のバブル期に遭遇しており、銀行が融資を付けて物件や新規事業を斡旋するようになった。
レジャーランドの買収、ホテル事業、金融業、不動産業、建設業、リクルートの買収そして、1988年 11月 福岡ダイエーホークスを発足 させている。
中内功は、安売り王から、流通業の覇者となり、さらに財界人の仲間入りを果たしたように見えた。

ダイエーの経営者が、経営多角化に走っている間に、小売業としての本業に陰り陰りが見え始めていた。さまざまな業態開発に取り組んだ。
デイスカウントの新形態として「トポス」、「Dマート」会員制のホールセール「コウズ」、ハイパーの「ショッパーズプラザ」など、種々の店舗開発を手がけたが、どれも成功していない。
原点とも言える、「顧客ニーズのあるものを、そして最上の品質で、何処よりも安く供給する商品開発能力」に欠けていたからである。
ダイエーのSBなら安心して買える、という信頼を築くことに成功しなかった。
取引先へ無理を言うのがバイヤーの仕事となっていては、魅力のある商品開発は無理であった。

長年流通業界を指導している渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」の研修を、随分前に受けたことがある。当時でも三日間で50万円もするという高い費用であった。
出席者の名簿を見ると、イトーヨーカドーの商品統括部長、セブンイレブンの社長鈴木敏文氏(現在はイトーヨーカドーの会長)や、ジャスコの取締役クラス、その他西友ストア、ニチイ(現マイカル)など当時の錚々たる流通関係者が参加していた。
ただ、不思議なことに「ダイエー」の関係者はいなかった。

この時の研修事例として、アメリカ最大の小売業「ウォールマート」のマーチャンダイジングの原則理論を教わった。
そして、小売業成長の原点である、セルフ・スーパーストアが守るべき原則を無視している日本の流通業の典型として、「ダイエー」の品揃え分析が公開された。  

「ウォールマート」では、店がターゲットとしている顧客層が明確になっている。
あくまで、アメリカで最も人口構成比率の高い、中低位所得層にだけ焦点を絞って品揃えしている。つまり高級品は絶対に取り扱いしない、専門店分野の商品も絶対取り扱いしない。
そして、徹底して品質の良い物を、徹底して安く供給するシステムを構築している。
商品調達は、同一品質では、世界中で一番安い地域やメーカーから仕入れる。そのための情報網を世界中に張り巡らしている。
徹底してストアブランドを開発し、世界の最も優れたメーカー品質を、メーカーブランド品の40%オフ以下で販売する。
メーカーの作ったものに、単に自社の利益を上乗せするというような品揃えはしない。
まず顧客の潜在ニーズを、マーケットリサーチで的確に捉え、その顧客の満足するスペックを設計し、その仕様に相応し原料を何処で調達し、何処で加工するか綿密に計画する。
しかも、日本のスーパーやデパートでは考えられないような、ローコストによる本部運営を行い、本部利益は25%で利益が出せる態勢を作り上げている。

アメリカの「ウォールマート」で買い物をする人は、一番気に入ったものを手にしてレジに並ぶ。「ウォールマート」では、プライスゾーンの管理が徹底しているから、殆ど値札を気にしないで買い物ができるという。
例えば、10ドルのセーターが一番安い価格だとすると、一番高い商品でも30ドル以下しか品揃えしないという原則を徹底している。だから、安心して最も気に入った品質とデザインを選ぶ事ができるという。
「ウォールマート」で買い物をした顧客が、別の店で同じような物が安く販売していたというような経験はあり得ないという。

渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」の研修で公開された、「ダイエー」の品群別のプライスゾーンのグラフを見て驚いた。
例えば、デイスカウント店と同じような最も安い価格も品揃えされているが、アイテム数が一、二点しか無く、選択の余地がない。その隣に三~四倍する価格帯の商品が並び、さらにかけ離れた高級品が唐突に並んでいる。
例えば980円のセーターが有っても、色もサイズも少なく、とても買えない。隣に2980円のセーターや4980円のものが数種類があり、さらには9800円のセータや、なんと一万円を超える価格の商品まで品揃えされている。

どの価格帯の商品も中途半端で、一体誰を顧客に想定しているか不明な品揃えで、どの価格帯でも満足できる品揃えがない。これでは、顧客が他の店に流れるのは当然である。
創業当時の「良い物を、何処よりも安く」という原点が何時しか無くしてしまった結果である。
そして、品揃えの原点であるプライスゾーンが出鱈目となってしまった。もはや、見せかけの目玉商品の品揃えだけでは、お客はついて来なくなった。
バイヤーもSSDSとしての基礎的な研修も受けず、上司から「売上を上げろ、利益を挙げろ」と叱咤されるだけである。

挙げ句は、決算間近になると、取引先に「過大なリベート」を押しつけて辻褄を合わせるように堕落していった。
一方的なリベートの押しつけに始まり、ついには「リベートの前借り」まで行うようになって行った。これでは、正常な価格交渉はできず、取引先の言いなりで商品を調達する結果になった。必然的に競争力を失い、魅力のない店舗となり、衰退の一途を辿った。

無論当初は、渥美俊一の主宰する「ペガサスクラブ」にも参加していたが、やがて企業が肥大化して増長すると、我流の品揃えと我流の店舗作りに走った。
日本の流通業をリードしているという自負心が「慢心」を呼び、原点を忘れさせたと言えるだろう。
まさに、「驕れる者、久しからず」という、平家の没落と同じ運命を辿った。

創業以来、SSDSとしての原理原則を守る努力を怠らなかった「ウォールマート」は、世界の企業の中で、最大の売上を誇る企業集団となっている。
単に流通業の世界トップではなく、全ての産業を含む全ての企業の中で、2563億ドルというトップの座を達成しているのである。