随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

摂河泉の だんじり祭り

2005-09-21 10:09:57 | 社会批評
摂河泉(せっかせん)とは、大阪の広域を呼称する地域名で、昔の分国名の、摂津、河内、泉州をさしている。この摂河泉では、秋の祭礼として各地域で盛大な「だんじり祭り」が行われ、地車を勇壮に曳き回す。
「だんじり祭り」といえば、岸和田の「だんじり(地車)」が全国的に有名だが、摂河泉のだんじり祭りの先頭を切って、9月14日、15日に行われ、三十数万人の見学者が集った。

岸和田のだんじり祭りを皮切りに、摂河泉一帯で順次十月一杯、各神社の祭礼として地車を各町内の路地から商店街で勇壮に曳き回される。
青年団の若衆は、どんな重要な仕事でも休んでだんじり祭りに没頭する。
選ばれた若衆頭が、地車の屋根に登り、団扇を扇ぎ勇壮に舞いながら音頭を取る。摂河泉の青年団の、まさに晴れの舞台である。 
地車の長い牽引ロープには、町内の小学生低学年から青年団までの若衆数十人から百人ほどが取り付いて、町内を引き回して、町の辻で見せ場の豪快な辻回しを見せる。

摂河泉には大変な数の地車がある。
岸和田市だけでも十地区あり、それぞれの区内に数町があり、それぞれに自慢の地車がある。堺市にも、十一の地区があり、それぞれの区内にやはり数町がそれぞれの地車を持っている。
私が住んでいる鳳地区にも、大鳥、野田、北王子、新在家、野代、長承寺、石橋、上の八台の地車が、狭い鳳地区の町と鳳商店街を駆け抜ける。
泉州地区だけでも約二百台もの地車が、秋空の下を勇壮な捻り鉢巻きの若衆の法被姿に曳かれて行くのである。
摂河泉の町で育った若者は、その町内の青年団や若衆に、だんじり祭りを通じて、地域の連帯感を育まれ、さまざまな仕来りや儀礼を学んでいく。

摂河泉の「だんじり祭り」の起源は諸説ある。
大阪城築城の際に、各地域から切り出した巨石を運ぶための修羅を、各村対抗で競争して曳かせた事を起源とするという説がある。
別の説では、大阪城築城を祝って、各神社から地車を曳いて祝ったという事を起源としていると言う。
神社の祭礼という立場から、地車は神様を乗せて村を練り歩き、豊作を感謝したという説があり、また祭礼に神社への供物を運ぶ時に使う車を起源としていると言う説がある。
それに関連して、昔から神は海の彼方から来ると信じられていたため、「船だんじり」として、船型の地車が主であったという説などもある。今日でも南河内の太子町や橿原市十市町には、船型の地車がある。
 
「だんじり」の名の由来も諸説ある。
台尻(だいじり)説というのは、だんじりの台尻を引きずることから。台摺る、(だいずる)からきているという説である。
また、神聖な地車の壇の奥を「尻」と言い、最高に神聖な場所とされている事から、壇の尻を担ぐことから、(だんじりを担ぐ)となったという説もある。
あるいは、台をにじらせるように進んだことから、台にじりと称し、それが訛って「だんじり」となったという説もある。

 「だんじり」は漢字で書くと地車、楽車と書く。
「だし」は山車で、「担ぎだんじり」ともいい、神輿・布団太鼓・太鼓台などがある。
「牽きだんじり」として、の代表的なものが京都の祇園祭の鉾である。