みちくさ便り

日常の出来事や特別な事、思いついたり感じた事などをジャンルを問わずに書き込んでいきます。

「K2に憑かれた男たち」

2000年02月12日 | 乱読本

「K2に憑かれた男たち」本田靖春 文春文庫1985.7.25(お勧め度:★★★☆☆)

 

昭和52年(1977年)日本山岳協会隊のK2遠征をテーマにしたルポルタージュである。

 

 カラコルムの帝王と呼ばれる標高8611メートルのK2は、エベレストに次ぐ世界第二位の高峰である。K2のKはカラコルムの頭文字で、2は測量番号を意味する。

 

地方に住む無名の社会人登山家の集まりである、HKT(日本ヒンズークシュ・カラコルム会議)で、この計画が持ち上がった。この大遠征を行うためには、1億円を上回る資金を調達しなければならないと予想された。HTKでは、到底それだけの募金能力がない。そこで、日山協のお墨付きを得て、K2登山許可取得や資金調達を図ることになる。

彼らにとって、K2を落とすより、社会を落とす方が大事業だった。仕事を棄ててまでヒマラヤの高峰に挑む男達の情熱と、山岳協会の体面、面子へのこだわり・・・等が、遠征以前の問題として、詳しく書かれていて当時の海外遠征を知る上で貴重なものだと思う。

 また、実際のアタックにおいても、隊員は全国から集めた「一匹狼」であるため、誰がサミッターになるかという駆け引き、嫉妬、無念さ等が見事に描かれている。中でも、伝説である?森田勝の「第一次アタック隊」を外され、「第二次アタック隊」にされたことで、山を降りてしまう・・・当時の彼を取り巻く状況や「森カツ」の山への情熱・・・などは、登山には素人である著者が、山の技術的な面を別として、大規模遠征隊の中で繰り広げられる人間的なエゴや葛藤を見事に描いていて興味が尽きない。



「私の山 谷川岳」

2000年02月10日 | 乱読本

「私の山 谷川岳」杉本光作 中公文庫 昭和58年9月 (お勧め度:★★★★★)

 

 岩と雪を対象に、より高度な登山を追求する近代登山が、日本の登山界に芽を出したのは大正十年前後である。しかしそれは当時、恵まれた生活環境にある大学山岳部とその関係者のもので、一般社会人登山者にまでは入りこんでいなかった。しかし、昭和6年の上越線の開通は、それまで時間的、経済的にハンデキャップを負わされていた社会人登山者に、大きな展望を与えた。近代登山の舞台としての谷川岳が、一ノ倉沢の岩壁を中心に手の届くところに姿を現したからである。それは社会人登山者の情熱を、一気に爆発させるきっかけとなった。その先頭に立ったのが、杉本光作さん、山口清秀さんたちの登歩渓流会であった。

 本書には、著者が最初の谷川岳山麓を訪れた昭和6年1月から昭和15年5月までの、いくつかの山行記録がほぼ時を追って収められている。著者の山との出会いは大正11年15歳の男体山であり、それから約60年間山登りをつづけていて、谷川連峰には100回以上入ったと語られているが、著者にとって忘れ難いのは昭和戦前の谷川岳であった。

 著作の大半は谷川連峰の登攀、とくに東面の初登攀と遭難救助関係で埋まっている。本書は戦前の谷川岳を中心とした岩登りの貴重な記録的文献であり、あらゆる世代の登山者に深い感銘を与えることだろう。

 また本書の「松濤明君と北鎌尾根遭難」は一読の価値がある。


「スキー・ツーリングに乾杯!」

2000年02月06日 | 乱読本

「スキー・ツーリングに乾杯!」佐伯邦夫1989.1.20山と渓谷社(お勧め度:★★★☆☆)

 

 いつもの「山道具屋」で見つけた1冊の本が本書である。なぜ目に止まったかと言うと、あの「会心の山」の著者、佐伯邦夫氏が書いた本であったこと、それと、何よりも心引かれたのは、「半額」の値段が付いていたからである。

 

 スキーの本というと、殆んどが技術上達や、ゲレンデ案内のようなもので、心ときめく体験を綴ったものは数少ないと思う。本書は、スキーツアーの記録であるが、コースの選定とかは、昨今のBCブームにあっても、新鮮さを感じることができるし、何よりも雪山の楽しさが伝わってくる。


「会心の山」

2000年02月06日 | 乱読本

「会心の山」 佐伯邦夫 中公文庫 昭和60年5月 (お勧め度:★★★★★)

 

剣岳を中心とした北アルプス北部、頚城の山々などいくつかの山行記集。

山の嵐、におい、光、音が肌で感じられ、日本の山のよさを改めて教えられる珠玉の山行記集であるが単なる登行事実の報告や案内でなく著者の山への思い登山姿勢が表出されている。

 

「どんな山だって、大事なのは、それを、いかに登るかだ。もとよりぼくらは、山中にただ在るためにだけ来ているのではない。登山者でありクライマーである以上、いかにそれを為すかが問題ではないか・・・・・・会心の登山をしたい。静かに、自らのうちに湧き起こる意志と力だけで登りたい」



「朝焼け」

2000年02月01日 | 乱読本

「朝焼け」安川茂雄 朋文堂 昭和33年6月 (お勧め度:★★★★☆)

 

 「霧の山」から、1年足らずで書き上げた小説であり、前著作に比べ全体的に統一性のとれた物となっていて、一気に読み上げることができた。

過去の山を限りなく思慕するジャーナリストと、山にすべての情熱を捧げる2人のアルピニストをめぐっての「愛と死のロマン」・・・・著者が本格的なアルピニストであっただけに、山に対する的確な描写力は、他の「山岳小説」より抜きん出ていると思う。


「霧の山」

2000年02月01日 | 乱読本

「霧の山」安川茂雄 朋文堂 昭和32年9月 (お勧め度:★★★☆☆)

 

 登山家から小説家に転進した著者、安川茂雄(本名:長越茂雄)の本格的山岳小説である。

この小説には、戦前から戦中・戦後にかけて山に憑かれたアルピニストの様々な青春の群像が描かれている。青春をかけて山で散った青年、前穂高岳岩壁初登攀など見果てぬ夢を抱いて戦死した友、それらの姿が連作風に、時代を追って描かれている。著者が登山家であるということで、岳人の心理描写に実感がこもっている。

新田次郎に比較して、より前の山岳小説家ということになるが、本人が一流の登山家であった事と、実際の登攀を通じて感じた事や登攀記録を作品の中に生かしていて、迫力の点では新田次郎を圧倒的に凌いでいると思う。


「屏風岩登攀記」

2000年02月01日 | 乱読本

「屏風岩登攀記」石岡繁雄 中公文庫 昭和56年8月 (お勧め度:★★★★☆)

 

昭和22年7月前穂高岳屏風岩中央カンテ初登攀の記録である。一つひとつ落とされていく日本の岩壁の中で、フリーでは挑戦不可能とされた屏風岩正面壁があった。技術的な限界に挑み、当初パートナーとの決別と友情への懐疑と戦いながら、5度目の挑戦で自分の教え子を初登攀させる。筆者は最後の十メートルで力尽きて転落する。行動不能に陥った著者は教え子に、涸沢にいる当初パートナーに救助要請を頼み一人岩壁に留まる。そして翌日に仲間達無事救出される。まさに小説のような話である。

当時の初登攀争いや、登攀技術と呼べるか否か「投げ縄」「潅木登り」など興味深いものがあった。また、同日に筆者の山岳部員が横尾谷で遭難し、北穂高小屋建設中の小山義治氏(北穂小屋初代・穂高を愛して20年の著者)がその搬出をする・・・。また「ナイロンザイル切断」の遭難者は筆者の実弟でもある・・・。


「わが岩壁」

2000年02月01日 | 乱読本

「わが岩壁」古川純一 中公文庫 昭和55年7月 (お勧め度:★★★☆☆)

 

わが国における岩登りの歴史において、もっとも集中的にバリエーションルートの初登攀がおこなわれた年代は1955年あたりから1961年の約7,8年の間である。

この本に収録されている9編の登攀記録も、そのほとんどがこの期間におこなわれたものである。なかでも厳冬期の一ノ倉尾根の初登攀は第二次世界大戦という大きなハンディがあったとはいえ、冬の一ノ倉沢の登攀が絶えて20年後の成果であった。勿論この頃にも幾人かのクライマーが冬期の一ノ倉登攀をねらっていたことと思われるが実際の行動となっては現れなかったのである。したがってこの登攀は、当時の登山界はもとより特に岩登りを志す人たちにかなりの衝撃を与え、またこれが刺激となって谷川岳、穂高岳、あるいは剣岳の困難なルートが次々と開拓されるに至った。

筆者が冬の一ノ倉尾根を目標にしたことがそのまま登山界の活発な動きの先導的役割を果たしたのである。