そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

脱ルネサンス

2007-03-25 15:36:53 | 歴史
前回のイタリア・ルネサンス芸術論の続きで、近代絵画のお話を一つ。

ルネサンス以降のヨーロッパでは完全に写実主義が定着しまして、芸術以外の分野にも波及していきます。聖書を読んだまま理解しようとする動きから宗教改革が始まりましたし、実際に起こっている現象をありのまま表現しようとしてニュートン力学なんかが誕生し、現実をありのまま捉えようとするリアリズムはヨーロッパの特徴とも言えるまでになりました。

そんな状態が19世紀まで続いてたんですが、科学の発達によってカメラが誕生します。そうすると、写実主義の絵画は見向きもされなくなってきます。そりゃ、ただ単に見た物を写し取るんだったら、ワザワザ絵を描かなくても「ポチッとな」で済んじゃう写真に人気が集まりますよ。

そんなわけで絵描きさんたちが「何とかせなならん」と新しい方法を模索している中、1867年のパリ万博で日本の美術が紹介されました。

「ナンダコリャ!」

日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えたようです。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなりました。冗談でもなんでもなくて、「ジャポニズム」と呼ばれる日本趣味が、一過性の流行ではなく、30年に以上にもわたる一大ムーブメントとなります。

写真にはできないけど、絵画にならできる―ジャポニズムの影響を受けて、細部やタッチにこだわらず、新たな空間表現と明るい色使いを多用した「印象主義」が興隆します。

その印象派の中で、ワタシが最も象徴的だと思うのがこの絵。
 セザンヌ、「オレンジとリンゴ」

この絵の水差しと二つの皿をよく見ますと、それまで伝統的に使われていた遠近法が無視されているのに気付きます。

一般論として、同じテーブルの上の正円の皿は、斜めから見ると同じ楕円形になります。目の高さを変えればさっきとは違う楕円に見えます。

セザンヌは同じテーブルの上なのに2種類の楕円を描きました。水差しも斜めになってますね。つまりセザンヌは1枚の絵の中で、2つ以上の視点から描いています。

ところが描かれたオレンジとリンゴと皿と布と水差しは、絵の中で美しくまとまり、独特のリズムを生み出しています。

セザンヌは現実を正確に写し取ることに縛られていた絵画を、自由に向かって羽ばたかせるキッカケを作ったのです!

遠近法の呪縛から解放された絵画は、ピカソやマティスの手によってどんどん自由になっていきます。20世紀芸術の歴史は、先人達が作り上げてきたものの見方、価値観から、如何に自由になるかの戦いの歴史でもあるわけです。

・・・それにしても、キリスト教から人間を解放するための手段として誕生した写実主義が、後の世に人間を縛る側へ回っちゃってる、ってのは。芸術の世界だけでなく、革新のために立ち上がり、熱狂をもって受け入れられたモノが、抑圧の象徴になることはザラにあります。

「数奇な運命」と言えばドラマチックなんでしょうが、何となく、ね。自分にも関係する話であるだけに。

ルネサンス

2007-03-25 13:02:13 | 歴史
今回はイタリア・ルネサンスについて勝手な感想を。

中世ヨーロッパではキリスト教会の権力が強く、人間性というものが神の立場から規制されてました。極論であり正確ではないんですけど
「人間なんて神様の道具だから、神様の言うとおり動いてればいいんだよ。考えるな。」
という具合です。人間はキリスト教に縛り付けられていました。

そんな時代にメガトン級の死神、ペストが蔓延します。全人口の3割が死んだと言うから、そりゃもう大変なわけで。

そうなると、「もう神様なんか信じてられるか!」という風潮が自然と高まってきます。ルネサンス文学の「デカメロン」、実はこんな内容です。

街中を歩くオネーチャンたち。街中にペストで死んだ人の死体がゴロゴロしてて死臭が漂い、まともに鼻で息ができない。だから口から空気を吸い込んだら、飛び込んできた銀バエを2、3匹飲み込んだ!
「・・・どうせ私達ももうすぐ死ぬのだ」
そう思ったオネーチャンたちは若いオニーチャン誘惑してやりたいことヤッてから死んでやろう、そう決心したのだった。

う~む、こんな猥談が誉めそやされる理由がよくわかりませんが、とにかくそれまでのキリスト教的倫理観が崩壊し、チャランポランに性的欲求だとか退廃主義に結びついちゃった、そんな時代背景があります。

それと同時に、キリスト教以前のギリシア・ローマ時代の文化がイスラーム圏、およびビザンツから逆輸入されてきます。キリスト教の枠が取り払われ、キリスト教以前の人間が築いた文化が広まりました。

「なんだ、キリスト教さえなければ、人間はこれだけ素晴らしいじゃないか!」

以上のような視点でもって、人間はキリスト教を見つめ直します。

「ヲイ、イエスって実は神様じゃないんじゃないか・・・?」
これまで散々信じてきた「神」が実はニセモノだった。そう感じた民衆は絶望したようです。

一方古代ギリシア・ローマの文化に接触できた一部の文化人達は
「おい!イエスって実は神様じゃないんじゃないか!!!」
神だと信じていたものが、自分と同じ人間である!自分と同じように、悩み苦しむ人間である!その考え方は文化人達をたいへん興奮させたようです。神ではないイエスにこれまでにない親近感を抱くとともに、人間であることを極めれば、自分も神域に近づけるんじゃないか・・・?

そんなわけで、究極の人・イエスを限りなく人間的に、限りなく写実的に描こうとするムーブメントが起こりました。

で、ワタシが典型的だと思うのがこの絵。
 マンテーニャ、「死せるキリスト」

足元からイエスを書き、紙面の中では全身が短い。この遠近法はルネサンス期に発明された表現手法。徹底した写実主義の成果です。

と同時に、ルネサンス以前の宗教画に出てくるイエスはどう見てもバケモノなんですが、この絵の中では完全に人間。それどころか、磔にされてできた手足の釘の穴までが書き込まれています。

先日とあるブログを読みまして、何故「残酷」なまで徹底的に写実的な描写がされてるのかを考えてまして、そのワタシなりの答が上述したもの。イエスが人間であることに気付いた芸術家達の感動の叫びが写実主義なのかな、と。もっとも、一般民衆はただただ絶望の淵に沈んでただけのようですけど。


次回はルネサンスの後、現代美術のお話をしようかと。

・・・あ、ここに書いたのはあくまでワタシの私的な感想なんで、そんなに真剣に受け取らないでくださいよ。
(´σー`)ホジホジ