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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

初心忘るべからず

2012-06-04 07:42:41 | 身辺雑記

 ブログで知ったFさんという女性は時々詩を書いていますが、女性らしい優しい繊細なものが多いようです。先日は「初心」という詩でした、それを読んでいて、ふとそのことばの意味を考えました。

 このことばは、普通「初めてその事に携わった時の感動や意気込みを忘れずに物事に当たらなければならない」と解釈されています。例えば、私の次男は小学校の教師ですが、初任以来20年以上になり、もうベテランです。そういう彼が今でも教師になったばかりの時の新鮮な気持ちを常に思い起こして油断なく励まなければならないと、「初心」はこのように解釈されています。

 実はこれは「初心」を文字どおり解釈したもので、本来は「自分はまだまだ未熟だ」ということを自覚することのようです。この「初心不可忘」は現在の能を大成した世阿弥の著した「花鏡」の中にあることばです。世阿弥はこう言っています。

 「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

 このことばの解釈について、ネットのYahoo Japanの「知恵袋」というQ&Aのサイトに模範解答として載っていますが、おおよそその受け売りをします。 

 世阿弥のことばから言えるのは、三つの「初心忘れるべからず」があり、その一は「最初の時の芸の未熟さを忘れてはならない」ということです。これは私もかつて何かで知ったことがあり、このことばはそのように解釈するもだと考えていました、それはそれで当たっているのですが、第二、第三の「初心忘れるべからず」があることは知りませんでした。第二のものは芸が上達していく過程でも、その段階段階でそれぞれの「初心」があるはずだと言うのです。最後に、年老いてある程度の芸の極みにまで達しても、これで良いと言えるような到達点はなく、たとえ達人の境地に達したとしても、その境地に足を踏み入れた時点で、それはそれで新たな初心だというわけです。ですから芸事に限らず、何事においても向上を望むのなら、常に初心、すなわち自分は未熟であるという気持ちを持ち続けることが大切だということになります。

 教師として、またそれから後も私自身はどうだったのか、やや忸怩とした思いはありますが、初めて教職に就いた時はとても新鮮ではあったし、それまで勉強していたことがあまりにも乏しいことを痛感して、毎晩夜遅くまで勉強しました、だんだん慣れてきても、性格もあって、そんなに悪慣れしたことはなかったと思っています。たとえば教えるためのノートはカード形式にして毎年更新していました。そういうことで過去についてはあまり悔いがないのですが、しかし特に芸事をするでもない現在の自分の在りようを思うと、三つ目の「初心」は果たしてどうなのかと、今更のように思います。

 この「初心忘るべからず」についていつも思うことがあります。ある大新聞グループの本社代表取締役会長で主筆の人物は、ワンマンとしても傲岸であることでも知られていますが、この人も、入社したばかりでいわゆる「ペイペイ」の記者の時代があったでしょうが、いつからどんな契機で今のような性格、言動の人物になったのでしょうか。ひょっとすると「初心」ということには無縁で出世街道を歩んだのではなかったのかと思います。

 また最近は、あたかも首相になるかのようにもてはやされている大阪市長などは、その人も無げな言動を見聞きするたびに、そもそもこの人には最初から「初心」というものはなかったのではないかと思います。この人がテレビの茶髪黒眼鏡のタレント弁護士から、大阪府知事に転身した時に、果たして世阿弥の言う第一の「初心」があったのか疑問ですし、その後大阪市長になった時やそれ以後に、第二の「初心」というものを絶えず自覚していたかもまったく疑わしく思います。とかく人の耳目を集める言動のある東京都知事についても同じような疑問を抱きます。

 この人達だけでなく、政治家の中には同じような感想を持つことがあります。この近辺の市で大臣になったこともある、ある党のベテラン議員(故人)は、大臣になって日がたつにつれてだんだん頭(ず)が高くなってきたので知人と嗤ったことがありますし、市会議員のレベルでも、なぜそんなに傲岸不遜なのだろうと思うことがありました。特に市の職員に対しては目に余る態度をとる人物もありました。 今大阪では飛ぶ鳥を落とすかのように勢いづいている「大阪維新の会」の議員も例外ではないようで、ある職員は市長にメールを送って告発しました。「維新の議員からの接触が一番程度が低く、露骨」、「内容を言わずに呼びつけ、支持者を連れてきていきなり我々を詰問する」、「特に若い議員、社会人としてのマナーを再教育すべきだ」などです。わが世の春と浮かれている議員の姿が目に浮かぶようです。これに対して市長は謝罪のメールを送ったそうですが、どこまで徹底するのかは疑問です。いったん身に付いた議員根性というものはなかなか治らないような気がします。このような連中に「初心忘るべからず」などと言っても「何、それ?」と言われそうです。

 

(朝の散歩から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
花咲爺老師 (中国迷爺爺)
2012-06-05 07:51:21
「後段になるほど己の「地」が出てくるようじゃ、そこへ持って行きたいという、やむにやまれぬ執着じゃな」
 おっしゃるとおりですね。私はこのところ橋下徹氏や石原慎太郎氏の言動に我慢のできないものを感じていますので、彼らの「初心」について書きましたが、それを「執着」「醜悪」と言われても何も言えません。甘んじてご叱声を受けるばかりです。
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地獄 (花咲爺)
2012-06-05 14:35:42
はは、それぞれの生きてきた執着が積もっておるからなあ、しかしそうやって名前を出す方が、齢を経てきた爺殿として、スッキリしていて頼もしいではないか、遠慮はいらん、中途半端や悔いのないように。出し切れば、次の思わぬ展開が訪れる・・・それが達成点であり、次なる開始点じゃ。

「生まれるも、死ぬも、己一人」、長年連れ合った片割れでも一緒に死なん、まして子も友も・・・・

本当に醜悪なのは、物事をネガティブに観る心であり、その観る心とは、結局、己自身をネガティブに観ているからに他ならぬ。外に見えるものは、己の心の在り方の反映なるぞ。実は、齢が終わりに近づくほど、安泰で平和な心を保つ努力が必要な分けがあるのである。死に近くなってネガティブな心のままであれば、とんでもない醜悪な災難が己に降りかかる。それを地獄と称したのである。

説明せんが、本当に深い理由がある。
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Unknown ()
2012-06-05 18:49:14
結局、就職は決まらず、パート時給1350円のSE、まあ時世と考えガマンして様子見でっす。あきらめもポジティブの一種っすかね?
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汝自身を知れじゃ (花咲爺)
2012-06-06 00:24:50
あのな、お手前方一般人の問題はなあ、言葉が不明確なのじゃ。「あきらめる」と言っても真意がよく伝わらん。

嫌なこと、悲しいこと、悪いことを「忘れる」のが下手な人は、いつまでもそれを憶えていて、それがトラウマになる。その意味では「あきらめ、忘れる」さらりとした心、忘れ上手は実にポジティブな心のじゃ。

一方で「あきらめる」が根気や、忍耐や、集中力がない意味なら、向上心が弱いことになり、ネガティブな心じゃ。

お手前の場合は、一生懸命努力した結果、就職できなかった、無理に根を詰めてこれ以上失敗が続けばがトラウマになりかねんとすれば、一端は様子見をしての再挑戦、それならポジティブな方かもしれんな。

だから人生修行とは、自分をよく見ること、汝自身を知れじゃ。普通の人は人のことなどとやかく言っている暇などない。
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ご無沙汰してました (フムフム)
2012-06-06 15:06:43
いつも訪問してくださりありがとう~
私の詩から考えさせられる展開になってますね。
言葉に思う多様な考え方は人それぞれ違ってもいいと思います。
そして、それが自分と違うと思ってもそれを批判することはあっても押し付けはいけないと思います。
それと批判もさらりと流すつもりでうけとめてなんぼのものですよね。

私自身いつも迷走してますもの
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花咲老師さま ()
2012-06-06 18:44:31
了解です。

今回は完全に理解できました。
現在の自分に自信がつきました、
決してあきらめず、無理もし過ぎず、
着実に追いかける・・・これですよね。

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