中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

民主主義  多数決

2012-01-16 12:40:50 | 身辺雑記

 久しぶりに「民主主義」について考えてみた。

 

  私が高校生の頃に、文部省が作った「民主主義」という教科書が使われていた。かなり大部なもので上下2巻だった。文部省が作ったと言っても、つい何年か前までは軍国主義を鼓吹していたその頃の文部官僚にそのようなものが編纂できたとは思われない。当時は米軍の軍政下にあったから、おそらく総司令部(GHQ)の指導で作ったものだろう。当時のGHQには理想主義的なリベラリストがいたらしいから、この本も米国型民主主義を日本の若者に教え込むことが目的だっただろう。米国型であろうと何であろうと、私たち日本人の多くは、そもそも「民主主義」ということば自体にまったく無知であったから、それは当時の私たちにとっては、新鮮なものに聞こえた。そして、これからは「民主主義」というもので、日本の未来は明るく開けていくなどと思わされたものだ。

 

 それから60年以上たった今、欧米先進諸国に比べると歴史はまだ浅いが、日本は民主国家だということに疑問を持つ者はいないし、民主主義ということばは常識になってしまっている。政党も与党は「民主党」、野党第1党は「自由民主党」といずれも党名に「民主」を使っていて、それに違和感を覚える者はいない。では民主主義は日本の国に根付き、揺るがないものになっているのだろうか。

 

 言うまでもなく欠陥のない完全無欠な制度というものはない。民主制もそうだが、それでも人類が長い間紆余曲折した歴史をたどってたどり着いたこの制度は、今の段階では最高のものだろう。しかし、わが国の政治などのあり方を見ると、民主主義というものが皮相的に捉えられて、形骸化している面はないだろうか。

 

 例えば民主的ということは、成員の多数決で決めるものだと言う。しかしこれには前提があって、多数決で決める前段階では成員の十分な議論が必要だと言うことだ。しかし、現実には、例えば国会でも十分に審議を尽くさないままに多数党が数の力で押し切ってしまうことは、これまでによく見られたことだし、学校のクラス会などでは発言が少ないのに、早々に「採決します」ということで、挙手をさせて決めてしまう。こういう状態は民主主義というものが正しく機能していないものだ。だから内容はそっちのけにして、民主的とは多数決で決めるものと単純に決めてしまう向きもある。そこでは多数者は少数者をどのように遇するかはなおざりに、あるいは無視されてしまう傾向がある。 (続)


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