先日、牡丹と芝桜を観に行ったときのこと、どちらの園内にも人は多かったが、ふとあたりが静かなことに気づいた。園内が広いだけではない、大声を出す者がいない。みな静かな声で話しているし、子どももいたが騒ぐことはなかった。Hg君夫妻に「静かだなあ」と言い、「中国ではこうはいかないな」と笑った。
西安の邵利明(明明)の両親が1月から3ヶ月間、大阪の明明の家に滞在した。初めてだったので日本の印象を尋ねると、街はきれいで静か、人は親切だと言った。それに警官の姿をほとんど見かけないので治安は良いのだろうとも言った。日本の街が静かということは印象的だったようで、Hg君の家で夫妻が桂林に行ったときのVTRを見たときに、桂林の街の場面で父親は、こうやって見ると中国はやかましいと思うと言った。大阪も街中に出ると結構やかましいと思うのだが、中国の街中に比べると車のクラクションの音は少ないようだ。何よりも人声が小さい。10年ほど前に、新聞のコラムで、中国四川省から来た人が、東京の街が静かで怖いと言ったということを読んだことがある。
国民性の違いか、どうも中国人は声が大きいようだ。時には喧嘩でもしているのかと思うことがある。山西省大同の雲崗石窟を観に行った時に、入り口前の広場で後ろから大声で話しながら来る一行があった。広東語でまくし立てていたが、広い場所でも響くような大声だった。広州のホテルの売店にいた時、背後でとてつもなく大きな声が聞こえてびっくりしたことがある。これも広東語だった。どうも屋内でも声量を調節することがないように思えた。広東人が特に地声が大きいということはないようで、洛陽に行った時、その帰りに西安駅の改札口に向かう地下道を移動する乗客達の声もものすごかった。地下道だからそれぞれの大声が天井に反響して何とも言えないほどの大音響だった。西安の副食市場などで、それはそれなりに活気があるのだが喧騒もかなりのものだった。
これに比べると、確かに我々日本人の声は概して小さい。先日も昼食するためにあるファミリーレストランに入ったが、子ども連れが多かったのに店内は静かだった。皆ささやき声に近い低い声で話していた。電車内でも実に静かで、時折携帯電話で話す声が聞こえることもあるが、さして大声ではないのに少し眉をひそめることもある。かつては人前で大声を出すのは下品だと言われたこともあったものだ。
しかし日本は静かだとはとても言えないのが、最近のテレビ番組だ。お笑い番組やバライティーショウなどは騒がしさの極致だ。CMでも絶叫調のものがある。このような番組をずっと見ることはないが、ちょっとチャンネルを合わせただけで、鼻白むほどやかましい場面が出てくる。相手を指差して大げさな表情でがなりたてたり、さしておかしくないことにも手を叩いて馬鹿笑いをする。観客も観客で、特に若い女性達はよくあれほど笑えると思うほど嬌声を上げる。少しは抑制の効いた笑いを楽しめないものだろうか。まるで大きな笑いのない番組はつまらないとでも言うようだ。
また行楽地に行くと売店などがスピーカーで大きな音量の音楽を鳴らしている所もあるが、どんなに景色が良くても品が悪く思われて興ざめしてしまう。大阪の街の陸橋の上で、大音響で演奏しているストリートミュージシャンのグループがあったが、公共の場で自己陶酔しているような若者の姿が疎ましかった。たいした大きさの音ではないが、エスカレーターによっては、手すりを持て、足元の黄色の線の中に立て、ゴム靴は注意、坊ちゃんお嬢ちゃん危ないですよなど、うるさいことこの上ないのもある。都市騒音の一種だろう。こうやってみると、日本も結構うるさい、やかましいとも言える。
このように言うのは、私が年を取ってきたためかも知れないと思ったりするが、やはり騒がしいのよりも静かなほうがいい。私の家の近辺はさしたる住宅街ではないが、幸い道路が袋小路になっていて車が通り抜けることはないので静かなのが取り柄だ。人声もほとんどしない。静かなのはいいことだ。
西安の邵利明(明明)の両親が1月から3ヶ月間、大阪の明明の家に滞在した。初めてだったので日本の印象を尋ねると、街はきれいで静か、人は親切だと言った。それに警官の姿をほとんど見かけないので治安は良いのだろうとも言った。日本の街が静かということは印象的だったようで、Hg君の家で夫妻が桂林に行ったときのVTRを見たときに、桂林の街の場面で父親は、こうやって見ると中国はやかましいと思うと言った。大阪も街中に出ると結構やかましいと思うのだが、中国の街中に比べると車のクラクションの音は少ないようだ。何よりも人声が小さい。10年ほど前に、新聞のコラムで、中国四川省から来た人が、東京の街が静かで怖いと言ったということを読んだことがある。
国民性の違いか、どうも中国人は声が大きいようだ。時には喧嘩でもしているのかと思うことがある。山西省大同の雲崗石窟を観に行った時に、入り口前の広場で後ろから大声で話しながら来る一行があった。広東語でまくし立てていたが、広い場所でも響くような大声だった。広州のホテルの売店にいた時、背後でとてつもなく大きな声が聞こえてびっくりしたことがある。これも広東語だった。どうも屋内でも声量を調節することがないように思えた。広東人が特に地声が大きいということはないようで、洛陽に行った時、その帰りに西安駅の改札口に向かう地下道を移動する乗客達の声もものすごかった。地下道だからそれぞれの大声が天井に反響して何とも言えないほどの大音響だった。西安の副食市場などで、それはそれなりに活気があるのだが喧騒もかなりのものだった。
これに比べると、確かに我々日本人の声は概して小さい。先日も昼食するためにあるファミリーレストランに入ったが、子ども連れが多かったのに店内は静かだった。皆ささやき声に近い低い声で話していた。電車内でも実に静かで、時折携帯電話で話す声が聞こえることもあるが、さして大声ではないのに少し眉をひそめることもある。かつては人前で大声を出すのは下品だと言われたこともあったものだ。
しかし日本は静かだとはとても言えないのが、最近のテレビ番組だ。お笑い番組やバライティーショウなどは騒がしさの極致だ。CMでも絶叫調のものがある。このような番組をずっと見ることはないが、ちょっとチャンネルを合わせただけで、鼻白むほどやかましい場面が出てくる。相手を指差して大げさな表情でがなりたてたり、さしておかしくないことにも手を叩いて馬鹿笑いをする。観客も観客で、特に若い女性達はよくあれほど笑えると思うほど嬌声を上げる。少しは抑制の効いた笑いを楽しめないものだろうか。まるで大きな笑いのない番組はつまらないとでも言うようだ。
また行楽地に行くと売店などがスピーカーで大きな音量の音楽を鳴らしている所もあるが、どんなに景色が良くても品が悪く思われて興ざめしてしまう。大阪の街の陸橋の上で、大音響で演奏しているストリートミュージシャンのグループがあったが、公共の場で自己陶酔しているような若者の姿が疎ましかった。たいした大きさの音ではないが、エスカレーターによっては、手すりを持て、足元の黄色の線の中に立て、ゴム靴は注意、坊ちゃんお嬢ちゃん危ないですよなど、うるさいことこの上ないのもある。都市騒音の一種だろう。こうやってみると、日本も結構うるさい、やかましいとも言える。
このように言うのは、私が年を取ってきたためかも知れないと思ったりするが、やはり騒がしいのよりも静かなほうがいい。私の家の近辺はさしたる住宅街ではないが、幸い道路が袋小路になっていて車が通り抜けることはないので静かなのが取り柄だ。人声もほとんどしない。静かなのはいいことだ。