まっとうな人生を過ごしてきた人にとっての「嫌われていないかを気にする」というものは、
例えば、嫌な思いを感じさせているなら申し訳ないな、こちらが譲歩できるならば譲歩して、互いに利益があるようになるといいな、
そんな、互いを尊重したものだろう。
脅迫されて「嫌われたら死ぬ」と洗脳されて大きくなった人間にとっての「嫌われていないかを気にする」は、命が掛かっている。
例えば、テロ集団に愛する人を奪取されてしまい、こちらに「○○をしなければ、こいつを殺す」と言われてしまったのと似ているのだと。
問答無用で言われるがままにしなければ、自分も愛する人も殺されてしまう。
すなわち脅迫。
その脅迫は、子供時代に毎日毎日される。
相手の言動行動に敏感になる。相手のことを観察する能力が磨かれ、相手が何かする前に察知する能力も磨かれる。
毎日毎日。
間違ってはいけない。間違うと死ぬ。もしくは、死ぬ以上の「死の痛みと恐怖」を長時間、果てるともしらない長時間、与えられる。
それは、テロ集団からではない。
愛する人から与えられるのだ。
また、こうして磨かれた観察眼は、間違ったやり方を植え付けられている場合がある。
自分の親にしか通用しない方法を学びとっている。まさか、これが全人類に適応できないなんて、まったく夢にも思わない。
嫌われたら死ぬ、
この強迫観念が消えない限り、
悪口を言われたらダメ、嫌われたらダメ、となり、
悪口を言われたら壊れるほどの衝撃が毎回破壊してくる。
到底、政治家にも有名人にも芸能人にもなれないのか、と思いきや、実はまた違う。
愛する人から嫌われたくない、嫌われたら死ぬ、
この強迫観念がある場合、
愛する人がこちらに「政治家か有名人か芸能人になったら好きでいてあげる」と、たとえ嘘でも言ったなら、強迫観念だからこそ、必死に政治家か有名人か芸能人になろうとする。
そのため、愛する人以外からの悪口を言われても、まったく折れない壊れない。
私はこのタイプだったようだ。
そんな私が成長するにつれ、
18歳の時の彼と生木を裂くかのごとくに別れた頃を切っ掛けに、隠された親の思いに気付いてしまって、
親に対しての純粋な思いが破壊された時に、私は、他の人から悪口を言われて壊れるほどの衝撃を受けるようになった。
強迫観念の「嫌われたら死ぬ」が、初めて他者に転嫁されたようだと思う。
人間の数は80億人くらいいるらしい。
その人たち全員を相手に、いや、その中の1人以上に嫌われないなんてことはない。これは世の道理だ。
だが、そんな道理が強迫観念に勝つわけがなかった。
嫌われても死なない、
嫌われても生きていていい(なるべく互いに利益があるように生きていくことは必要だが)、
これを自分に植え付けるために必要なものは何か。
それをずっと模索した。
まず必要なものは、
私を好きでいてくれる誰か、だった。
一時でもいい、深く交流できて安心を与えてくれる誰か、とも言える。
いま思えば、親の代わりを探していたのだと思う。
親を好きでいた時の強さを発揮できる、そのためには、親の代わりになるくらいに大切な存在が必要となっていたということだと思う。
親を好きでいた時に発揮していた強さを必要としたのは、他者に嫌われたり悪口を言われて感じる激しい恐怖に、激しい苦しみを感じていたからに他ならない。
しかし私にとって誰かに依存するというのは、性分からして無理だった。
そのため、愛する気持ちをバッサリ切り捨てる、去るものは追わない、しかし誰かが去る前には脅迫的に謝らずにはいられない、他の人から陰口を言われないように気を病的にも配り続ける、しかし基本的に一匹狼、そんな私になったのだと思う。
この段階で、依存という性分が合っている人なら、恋愛依存や宗教依存や様々な依存が起きるかもしれない。
しかし私は、謝り依存だった。
悪口を言われても生きていていい、
すなわち、嫌われても生きていていい、
それを知ったのは、そういう生き方を貫いている人を近くで見続けることができたからだった。
考えたことを
とりあえずメモ。
例えば、嫌な思いを感じさせているなら申し訳ないな、こちらが譲歩できるならば譲歩して、互いに利益があるようになるといいな、
そんな、互いを尊重したものだろう。
脅迫されて「嫌われたら死ぬ」と洗脳されて大きくなった人間にとっての「嫌われていないかを気にする」は、命が掛かっている。
例えば、テロ集団に愛する人を奪取されてしまい、こちらに「○○をしなければ、こいつを殺す」と言われてしまったのと似ているのだと。
問答無用で言われるがままにしなければ、自分も愛する人も殺されてしまう。
すなわち脅迫。
その脅迫は、子供時代に毎日毎日される。
相手の言動行動に敏感になる。相手のことを観察する能力が磨かれ、相手が何かする前に察知する能力も磨かれる。
毎日毎日。
間違ってはいけない。間違うと死ぬ。もしくは、死ぬ以上の「死の痛みと恐怖」を長時間、果てるともしらない長時間、与えられる。
それは、テロ集団からではない。
愛する人から与えられるのだ。
また、こうして磨かれた観察眼は、間違ったやり方を植え付けられている場合がある。
自分の親にしか通用しない方法を学びとっている。まさか、これが全人類に適応できないなんて、まったく夢にも思わない。
嫌われたら死ぬ、
この強迫観念が消えない限り、
悪口を言われたらダメ、嫌われたらダメ、となり、
悪口を言われたら壊れるほどの衝撃が毎回破壊してくる。
到底、政治家にも有名人にも芸能人にもなれないのか、と思いきや、実はまた違う。
愛する人から嫌われたくない、嫌われたら死ぬ、
この強迫観念がある場合、
愛する人がこちらに「政治家か有名人か芸能人になったら好きでいてあげる」と、たとえ嘘でも言ったなら、強迫観念だからこそ、必死に政治家か有名人か芸能人になろうとする。
そのため、愛する人以外からの悪口を言われても、まったく折れない壊れない。
私はこのタイプだったようだ。
そんな私が成長するにつれ、
18歳の時の彼と生木を裂くかのごとくに別れた頃を切っ掛けに、隠された親の思いに気付いてしまって、
親に対しての純粋な思いが破壊された時に、私は、他の人から悪口を言われて壊れるほどの衝撃を受けるようになった。
強迫観念の「嫌われたら死ぬ」が、初めて他者に転嫁されたようだと思う。
人間の数は80億人くらいいるらしい。
その人たち全員を相手に、いや、その中の1人以上に嫌われないなんてことはない。これは世の道理だ。
だが、そんな道理が強迫観念に勝つわけがなかった。
嫌われても死なない、
嫌われても生きていていい(なるべく互いに利益があるように生きていくことは必要だが)、
これを自分に植え付けるために必要なものは何か。
それをずっと模索した。
まず必要なものは、
私を好きでいてくれる誰か、だった。
一時でもいい、深く交流できて安心を与えてくれる誰か、とも言える。
いま思えば、親の代わりを探していたのだと思う。
親を好きでいた時の強さを発揮できる、そのためには、親の代わりになるくらいに大切な存在が必要となっていたということだと思う。
親を好きでいた時に発揮していた強さを必要としたのは、他者に嫌われたり悪口を言われて感じる激しい恐怖に、激しい苦しみを感じていたからに他ならない。
しかし私にとって誰かに依存するというのは、性分からして無理だった。
そのため、愛する気持ちをバッサリ切り捨てる、去るものは追わない、しかし誰かが去る前には脅迫的に謝らずにはいられない、他の人から陰口を言われないように気を病的にも配り続ける、しかし基本的に一匹狼、そんな私になったのだと思う。
この段階で、依存という性分が合っている人なら、恋愛依存や宗教依存や様々な依存が起きるかもしれない。
しかし私は、謝り依存だった。
悪口を言われても生きていていい、
すなわち、嫌われても生きていていい、
それを知ったのは、そういう生き方を貫いている人を近くで見続けることができたからだった。
考えたことを
とりあえずメモ。