Pieces~私の独り言(HN緑茶猫)

※メンヘラブログにて閲覧注意

ときどき
いろんな気持ちを
勝手に書いてます

ひどい風邪

2012-04-30 03:55:55 | スポーツ・健康関係の独り言
先週半ばより、ひどい風邪で倒れている。
鼻水と痰が黄色だ。気管支の炎症もありそうな痛みがある。

ひどくなる前に内科に行った。その時は幸い肺のレントゲンは綺麗だった。血液も問題なしだった。

熱は微熱になった。しかしむせてばかりでフラフラだ。
毎日ボックスティッシュを1箱使いきっている。
首から胸にかけて、気管支に沿うように湿布を貼った。

足りないもの

2012-04-27 11:49:00 | AC関連
私が育った家族に足りないものは。

思いやり、だと思う。

あって当たり前の事が多すぎて、恵まれていることに気がつかない。

気がつかないから、感謝が出来ない。

感謝は、思いやりに繋がる。
感謝が出来ないから、思いやりが出てこない。


失って初めて気が付くのは、なにも私だけではないだろう。
こんな私でさえ失うものがあったということは、誰しも何らかのものに恵まれているんだと思う。

失って初めて、気が付く、

ありがたみや支えだったこと、

私は幸いなことに、人生の初期から気付かされたから、些細なことにも感謝ができるのかもしれないし、

たまたま近所のカトリック幼稚園に行ったから、ご飯の度に感謝の祈りをするように教えてもらったからなのかもしれないし、

しかし通わせた親は感謝が出来ないようだった。

「何かをしてもらったら『ありがとう』と言いなよ!」と、私は親軍団に怒鳴った。
やれるようになるまで怒鳴った。

そうしたら親は、心を込めない「ありがとうね」を、私にだけ言うようになった。

心を込めないことにイライラした私はまた聞いた。
「なんで心を込めないの!」
そうしたら親は「言わないとアンタが怒るから」と言った。

どうしようもない親だ。
心を込めない事が他人に伝わるはずがない、とりあえずお決まりフレーズを口にすれば良いんだと、人をバカにしている。

現在の親は、やっと人間らしくなってきた。色んなものを失ったから。失った事で人の痛みを実感できるようになった。

親自身が思い込んできた『自分の思い通りになることが幸せだ』という低いレベルの観念が砕けたようでもある。

風邪を引いたら、フラフラするし食欲も無くなるし、頭も回らなくなる。
しかしこれが理解できるためには、風邪を引いたことがなければ分からないし、引いたことがあっても忘れてしまえば分からなくなる。

自分が辛い体験をすると、同じように風邪を引いた人を見たとき、「大丈夫?寝てなよ」と心を込めて言うことができる。

ただし、やはりこの声掛けも、誰かから掛けてもらったことがなければ『何か言ってあげたいけど、どんなことを言えばいいのか分からない』になる。

私は以前、この状態だった。声を掛けたいのに言葉が浮かばない。また、どんなことをしてあげたらいいのか全く分からなかった。

随分と後になってなら、全く見返りを求めず献身的に尽くしてくれる人に出会ってやっと、どんなことをしてもらったら嬉しいのかを知った。
どんなことを言ってもらったら嬉しいのかも、何となく吸収した。

出会わないから、出来ない。
そんな事も沢山あるのだと。

下半身を骨折したことがない人は、骨折した人の事が分からない。
歩けなくなる不自由さ、誰かに頼まなければならない歯がゆさ、トイレも独りになれない。
銀行への振り込みでさえ、付き添いを頼まなければならない。

確かに、体験しないと分からないものは沢山ある。
私にも沢山ある。
男の人の野心や、子供を持った親の気持ちは分からない。

そんな私が心掛けるのは、インタビューだ。分からないからと言って放置したら余計に嫌な思いをする。
「私は子供がいないので分かりませんが、」と正直に白状して「でも、大変でしょうね、妹が子育てに追われているのを見ていると、なんだかそう思うんですよ。」と、相手の人が話しやすくなるフレーズを言葉にして発声してみる。

そうすると相手は『妹さんが、ね、それなら話しても分かるかも』と、話してくれる。
これが、妹の育児を見ていないとなれば、相手は1から話さなければならないと思うのだろう、話してくれない事が多い。

そう、わからなければ聞けばいい。
これは仕事に就いて初めて教えてもらった事だった。
それすらも、この家族には無かったのだ。

以前、雑談が出来るにはを考えた時、分からない事を人に尋ねる大切さを考えたことがある。

子供時代はなかなか質問が出来なかった。怖いから聞けないのだった。
分からないことが悩みなんだと気付く事さえ、殆ど無かった。同様に、何に悩んでいるのかも自覚できずに困っていた。
自分の気持ちを無意識のうちに押し込めることを強制的にやらされたからなのかもしれない。

自分なりの努力

2012-04-26 14:58:31 | 独り言
かつて私が助言した事に対して、人から「私はやったもんっ!」と、その人の至らなさを棚に挙げて逆ギレされると悲しくなる。

私はやったんだ、と、偉そうに誰かを見下して豪語する人は、何処が間違っているか。
『自分なりの努力』をやったのは偉いんだ、誰かを見下してもいいんだ、そんな勘違いをしていると思う。

自分なりの努力、それは確かに大切だと思う。何もしないでお煎餅をボリボリ食べながらお笑い番組を見てバカみたいに笑って時間を無駄に過ごすよりは、何かに努力したことは尊いと思う。
しかし、だからといって、『やったのは偉いんだ、だから自慢して、誰かを見下していい』とはならない。

私の周りにいる、面倒くさい勘違い野郎は『私はやったんだ。文句があるのか!』と食って掛かってくる。
やったやった、と騒ぎ立て、誉めてもらえなかったり認めてもらえなかったりすると激怒する。

こういった勘違い野郎は、何が間違っているか。
それは、自分しか見ていないから間違っているのだ。

その人はやったかもしれない。しかし相手の気持ちを無視して独りよがりだった場合、加えて『私はやってやったんだ』と自分が如何に偉いかを豪語するなら、それは『我よし』のみだ。
自分さえ良ければ他の人がどうなってもいい、そんな人は誰も近寄りたくない。

例えば。
ある医者がいたとする。
患者さんの手術をしたが、患者さんは死んでしまったとする。

もしこの医者が、そういったタイプだったらどうだろう。
「私は『自分なりの努力』をしたんだ!私は悪くない!」と、執刀したことを振りかざして、泣きじゃくる家族に自慢したらどうだろう。

手術をするなら、患者さんの命を救いたいという願いが最優先されているだろう。
一心不乱に相手の幸せを願うときは自分のことなど忘れているものだ。
いくら自分なりにやったとしても救えなかった場合、自分の至らなさと無力さを抱いて陰ながら落ち込んだりするから決して自慢しない。自慢する気持ちさえ起きないだろう。

他のケース。
占いの場合ではなく、親しい間柄の人に私が「ねぇ、こうするといいよ」と、善意から助言をしたとしよう。
相手がそれをヒントにして幸せになってくれたらいいと願って口にしたとしよう。

それに対し、
数日が経過した頃に様子を尋ねた時『私はアンタに言われたように言いなりになって自分なりの努力をした、それって偉いよね!』と食って掛かってくる人がいる。

私は言いなりになれ、と命令したわけではない。向こうが勝手に命令されたと思い込んでいるだけなのだ。
私は善意から助言をしただけだ。助言が不適切かどうかは相手が判断して決めることだ。嫌なら採用してくれなくて構わないのだ。

それに対し、「えーー!だって、言うこときかないと怒るじゃん!」と偉そうに見下して言ってくるヤツがいる。

何故、そこで怒るかと言えば。

言いなりにならなかった事を怒った事は一度もない。
言いなりになって全く自分で考えもしなかった挙げ句に、善意から助言した『私のせいにした』事があったから怒ったのだった。

挙げ句に「私は自分なりに努力したんだから!」と逆ギレされると悲しくなる。

自分なりの努力は素晴らしいと思う。だが、全て私のせいにして自分の意思で決めなかったこと、うまく行かなかった時にすぐに相談してくれなかったこと、

私がまるで支配者かのような扱いを勝手にした挙げ句に、責任だけ私に押し付けてくるのを見ていると、『こいつはバカか?』と思えて仕方がない(笑)

私は会話をしたつもりだった。
しかし相手は命令されたと受け止める。

その人は部下でもない。生徒でもない。
ましてや私は教祖でもない(笑)

自分なりにやったこと、それを認めろと迫るのは、親しい間柄では想定外なのだと言うことを理解できない人がいる。
ハートで会話をしたつもりだった。しかし相手は違った。笑えた。勝手に自分を下にしている。

私は対等に話をしているつもりなのだ。
会話をしたつもりだったのだ。
キャッチボールをしたつもりだったのだ。

言いなりになるのは、子供の頃に基本的な大切な事を叩き込んでもらえる時代だけだ。
あとは自分で考えられるようになっていくんだから、意見があるなら口にしていいのだ。相談すればいいんだ。

あの人は子供なのか?
いや、私は誰も産んだことがない。

もちろん自分なりの努力は、自尊心向上のためや自己肯定のために、自分を誉める材料にするのは大いに結構。
自分なりの努力をしたことは尊いことなのだ。がしかし、誰かを見下すために使うのは違うのだ。

飲み込まれる

2012-04-25 12:53:52 | 独り言
昨日はひどい1日だった
予定外に過去の怒りを口にしなければならなかった

せっかく落ち着いてきていたのに
メチャクチャになった

しかも私を攻撃してくる相手に話さなければならなかった
共感どころか攻撃されてメチャクチャになった



例えるなら、戦場で傷ついた兵士

前線近くの救護所で
包帯を巻かれてうなっている私がいるとする

被弾して、傷から弾を取り出して、手術が終わって仮の簡易ベッドに寝ているとする

そこに否定派の人がやって来て私を糾弾する
包帯には血がにじんでくるほど
被弾して命が助かっただけでも奇跡なのに
そんなことを無視して否定派の人が私を糾弾する

『傷を見せてください!』とその人は叫ぶ
医師と看護士がその人を止める
『今はこういう状況ですから出来ません……』と止める

しかし否定派の人は引かない
『見せてくれなければ暴れますよ』と脅す

私は何とか出た声で先生に言う
『先生、いいよ、包帯を取って』

先生は驚く
いま取ったら、まだふさがっていない傷から血が吹き出してしまう

笑った私は分かって言う
『いいですよ、先生、見せればあの人は帰るから』

医師は怒りを抱えたまま包帯を外す
包帯を外す度に傷が開いていく
血が吹き出してしまう

否定派の人は傷を見てやっと納得するが
暖かい励ましもなく、労りの言葉もない
『こんなに傷ついたなら、その時に言えばいいのに!』と怒鳴る

医師は怒りを堪えながらまた包帯を巻いていく
予定外に傷口が開いてしまったものだから
かなり難航しているようだ