私が育った家族に足りないものは。
思いやり、だと思う。
あって当たり前の事が多すぎて、恵まれていることに気がつかない。
気がつかないから、感謝が出来ない。
感謝は、思いやりに繋がる。
感謝が出来ないから、思いやりが出てこない。
失って初めて気が付くのは、なにも私だけではないだろう。
こんな私でさえ失うものがあったということは、誰しも何らかのものに恵まれているんだと思う。
失って初めて、気が付く、
ありがたみや支えだったこと、
私は幸いなことに、人生の初期から気付かされたから、些細なことにも感謝ができるのかもしれないし、
たまたま近所のカトリック幼稚園に行ったから、ご飯の度に感謝の祈りをするように教えてもらったからなのかもしれないし、
しかし通わせた親は感謝が出来ないようだった。
「何かをしてもらったら『ありがとう』と言いなよ!」と、私は親軍団に怒鳴った。
やれるようになるまで怒鳴った。
そうしたら親は、心を込めない「ありがとうね」を、私にだけ言うようになった。
心を込めないことにイライラした私はまた聞いた。
「なんで心を込めないの!」
そうしたら親は「言わないとアンタが怒るから」と言った。
どうしようもない親だ。
心を込めない事が他人に伝わるはずがない、とりあえずお決まりフレーズを口にすれば良いんだと、人をバカにしている。
現在の親は、やっと人間らしくなってきた。色んなものを失ったから。失った事で人の痛みを実感できるようになった。
親自身が思い込んできた『自分の思い通りになることが幸せだ』という低いレベルの観念が砕けたようでもある。
風邪を引いたら、フラフラするし食欲も無くなるし、頭も回らなくなる。
しかしこれが理解できるためには、風邪を引いたことがなければ分からないし、引いたことがあっても忘れてしまえば分からなくなる。
自分が辛い体験をすると、同じように風邪を引いた人を見たとき、「大丈夫?寝てなよ」と心を込めて言うことができる。
ただし、やはりこの声掛けも、誰かから掛けてもらったことがなければ『何か言ってあげたいけど、どんなことを言えばいいのか分からない』になる。
私は以前、この状態だった。声を掛けたいのに言葉が浮かばない。また、どんなことをしてあげたらいいのか全く分からなかった。
随分と後になってなら、全く見返りを求めず献身的に尽くしてくれる人に出会ってやっと、どんなことをしてもらったら嬉しいのかを知った。
どんなことを言ってもらったら嬉しいのかも、何となく吸収した。
出会わないから、出来ない。
そんな事も沢山あるのだと。
下半身を骨折したことがない人は、骨折した人の事が分からない。
歩けなくなる不自由さ、誰かに頼まなければならない歯がゆさ、トイレも独りになれない。
銀行への振り込みでさえ、付き添いを頼まなければならない。
確かに、体験しないと分からないものは沢山ある。
私にも沢山ある。
男の人の野心や、子供を持った親の気持ちは分からない。
そんな私が心掛けるのは、インタビューだ。分からないからと言って放置したら余計に嫌な思いをする。
「私は子供がいないので分かりませんが、」と正直に白状して「でも、大変でしょうね、妹が子育てに追われているのを見ていると、なんだかそう思うんですよ。」と、相手の人が話しやすくなるフレーズを言葉にして発声してみる。
そうすると相手は『妹さんが、ね、それなら話しても分かるかも』と、話してくれる。
これが、妹の育児を見ていないとなれば、相手は1から話さなければならないと思うのだろう、話してくれない事が多い。
そう、わからなければ聞けばいい。
これは仕事に就いて初めて教えてもらった事だった。
それすらも、この家族には無かったのだ。
以前、雑談が出来るにはを考えた時、分からない事を人に尋ねる大切さを考えたことがある。
子供時代はなかなか質問が出来なかった。怖いから聞けないのだった。
分からないことが悩みなんだと気付く事さえ、殆ど無かった。同様に、何に悩んでいるのかも自覚できずに困っていた。
自分の気持ちを無意識のうちに押し込めることを強制的にやらされたからなのかもしれない。