Pieces~私の独り言(HN緑茶猫)

※メンヘラブログにて閲覧注意

ときどき
いろんな気持ちを
勝手に書いてます

最近

2011-09-30 00:15:42 | 独り言
この1週間は目が回ったほど忙しかった。
職人さんたちが家の補修に来てくれた。これで仕事をしている自分の感覚が戻ってきた。

たくさんの思いが沸いてきてもメモが録れずに忘れていく。また、メモしたものをupできずに消すこと2回。
やはり庭に第三者がウロウロしているのは良い意味で気を使うし、良い意味で集中力を削がれる。

他には、必死に読書をすること毎日。南の家のMさんと車ですれ違ってワクワクウキウキしたこと2回。

今日は、手芸屋でネックレスのチェーンを買ってきた。先日誤って引きちぎれてしまったからだった。
アクアマリンのペンダントヘッドは無事だったから、帰宅してすぐに着けた。
アクアマリンは、書籍「宝石の伝説」によると、『抽象的な事柄を具体的にする』と書かれている。
心に溜まっているものをさんざん荷下ろしして動きやすくなっていたからなのか、片付けや掃除ができるようになってきた自分が現れた気がする。

症状としては。
先日、テレビ番組で警察の放送を見た。この時、酔っぱらいに対応する警察官の姿が映し出された。酔っぱらいは大声で「おいっ!!おいっ!!」と叫んで暴れている。
私はこれを聞いてまた反応した。あまりに鳥肌が立つくらい反応したため、私はいつものようにトイレに逃げた。
まだまだ反応してしまうトリガーが沢山埋まっているのだと思えた。

次の日の夜、お笑い番組を見ていた旦那が思わず吹き出した。確かにいきなり面白いシーンが映し出されたのだが、なんと私はその『突発的な』笑い声に反応し、心臓の発作が起きた。全くもって笑えない(苦笑)。
こうして思い出して書いているだけでも、また胸が痛くなってきた。

夢を見た 魔物篇

2011-09-22 07:21:44 | 見た夢記録
夢を見た

※これは実際に寝ているときに見た夢のメモです。
もちろんフィクションです。念のため。



私は隠れている

家の玄関には
ご近所の怖いオバサンたちがやってきている

オバサンたちがドアをバンバン叩いて
「起きている人はいない?」と聞いて回っている

ダメだ、もし玄関を開けたら
そこを捕まえて連れていかれるんだ

私は旦那の寝ているベッドの横の
狭い隙間に隠れた

そこで
新しい服に着替えて
ボタンをはめている

ギンガムチェックのブラウス
ブラウンとホワイトのチェック
生地はレース

ロングフレアースカートを履いてる

でもなかなかボタンが
はめられない

よく見たら
私はブラウスを2枚着ていた

私は下に着ているブラウスと
上に着ているブラウスの
ボタンをはめようとしていた

違うじゃん、と思って笑いが出た


表のオバサンは3人
ひそひそ話をしている
「どうやらいないみたいだよ」
私は息をひそめた
旦那は何も知らないまま幸せそうに
大口を開けて笑顔で寝ている

そうしたら
さっきまでのオバサンの後ろから
馬に乗った悪魔がやってきた

げげっ!
なんだなんだ

そいつらは引き戸を開けずに
すり抜けて入ってきた
そして「いるはずです」とか何とか話をしている

だんだん近づいてきた

私はベッドの横で
布をかぶって息をひそめた
カモフラージュした

しかし
やばい、見つかった

「いるぞ、寝てるか?」
私は瞬間、寝た振りをした
しかし狸寝入りなのがバレた
「おい!こいつ起きてるぞ!」

うわっと思った時に
私の頭にたくさんのビジョンが流れ込んできた

それは中世の魔女狩りの
あまりにも残酷なシーン
いろんな残忍なやり方で殺されるシーンが

わ、わ、わ、

私は慌てた

パニックになった

……と、そのとき

見せられていたその残忍なシーンが破れた
ど真ん中から神様が現れた

私はさっきいた旦那のベッド横にいた

我にかえった

神様は魔物たちに向いた

おおっ!
魔物が逃げていくぞ!

これだけ色々起きてるのに
旦那はイビキをかいて寝ている

思い出したことをメモ。中学時代& ご近所

2011-09-20 10:55:52 | 独り言
掃除をしていて、ふと思い出した事が2点あった。

1点目。
中学1年の時、私は学級委員長だった。立候補ではなく推薦されてなった。小学生の頃から学級委員長だったことと児童会をやっていたからだったと思う。

そんな毎日を送っていて、とあるクラスメイトから意見があった。「授業中にうるさい人がいて困る」と。
その頃、野球部のT君がよく騒いでいた。彼のことらしい。

私はたまたまT君の席の前に座っていた。休み時間、T君に「ねぇ、うるさいから静かにして」と言った。そうしたらT君は悪びれもせず「やだ(笑)」と言って、また他の男子とふざけていた。
当時の私は、みんなのお母さん役をやっていた感じがあった。今こうして過去のおさらいをしてみれば何のことはない、親のコピーをしていただけだった。

私は、どうしたらT君が静かにしてくれるか考えた。
そして次に取った行動は、『授業中後ろを向いてT君が騒いだら注意しよう』だった。要するに、騒ぐ前から後ろを向いて、陰険な笑顔でT君を見張ったのだった。

これを思い出して、自分の取った行動にヘドが出そうになった。
見張るとは、、、。

しかしながらT君は自己肯定の塊の、陽気で無邪気な野球部員だったから「おまえ(笑)なに見張ってんだよお」と一言言った。
お陰で私は「静かにしないと注意するからね」と言えて、私の『後ろ向き作戦』はすぐに幕を下ろせたのだった。
いま考えれば、長引かなくて本当に良かった。

中学1年の頃はまだ私は(その後の自分と比べて)まともだった。友達とも抵抗なく盛り上がったりしていた。
まぁ、見る人が見たら「心と体がバラバラ」だったかもしれないが、まだ全員中学生だから気付くことは無かっただろう。


2点目。
もうひとつ思い出したことがあった。
それはここに嫁いでからのことだ。

2年くらい前、近所に救急車がやってきた。昼間だった。家にいた私は表に出た。この時は、たまたま動けた。
そうしたら南側の家のお嫁さんのMさんも道に出てきていた。
ここのお嫁さんは美人で色白でしかもとてもオシャレな美女だ。彼女は私より少し年上だが、全く年齢を感じさせない。

私がいやいやながらも旦那に連れられて、この地域で買い物をするとき。たまたま彼女に会うとメチャクチャ嬉しくなる。
この私が「Mさぁん♪」といって明るく声をかける。Mさんも素敵な笑顔で返してくれて、雑談などしてくれる。
たまにしか会わないがそんな関係の、私にとって憧れの女性だ。

救急車が通って驚いて、Mさんから「ねぇ、どっちに行った?」と聞いてきた。私は『わぁ♪Mさんが声を掛けてくれた♪』と嬉しくなった。
そしてその感情を押さえながら「西の方に行きましたよ、大丈夫だといいですね」と答えた。

そんな風にして話をしていたらなんと。
例の、隣のアレが家から出てきて道路にやってきた。

私は今回、このときのMさんの姿を思い出した。
そうだ、そうだ、Mさんは、あんな姿をした……

その、例の隣のアレが道路にやってきたその時。
いきなりMさんの笑顔が消えた。そして害虫を見つけた時のような、怒りと嫌悪感の塊のような表情をしたのだった。

そうだ、そうだ、そうだった…

私はまだその頃、回復はし始めたが発作が続いていて、あまり他の人のことが自分の中に入ってこなかった。
いまこうして、状況説明する言葉を取り戻しつつある段階でこれを思い出したら、改めて気付いた事があった。

まさか隣のアレは、元々ご近所迷惑な人なのではないか……
ひどい目に遭わされて来たのは、何も私だけではないのかもしれないな……

あの時のMさんは、隣のアレが道路にやってきて、怒りと嫌悪感に満ちた表情をした。瞬間に変わった。
次にまた瞬間に表情が変わり、私には笑顔を見せた。視線を合わせ、そして「それじゃあ、またね♪」と言ってMさんの家に入って行った。

…まさか、Mさん、あの隣のアレのこと、知っているのかな…
迷惑かけられてきたのかな……
もしそうなら……



以上、思い出したことを忘れないようにメモ。


ふと思うこと

2011-09-19 23:31:45 | 独り言
交通事故で子供を失って涙に暮れる人に「気にしすぎだよ」と言えるだろうか。
地震と津波で家を失い、会社を勤め先を、先祖代々の土地を失い、家族も行方不明の人に「もう忘れたら?」などと言えるだろうか。

PTSDで心に深すぎる傷を負い、心の中にあるあたかも悪性腫瘍のようなものを、グリーフワークを通じ戦いながら治療している人は、まるで交通事故で子供を失った人のようであり、大震災で大切なものを失った人のようであるのだ。
これは大袈裟な表現ではない。

まさか、交通事故で子供を失った人に「気にしすぎだよ」と言う人はいないと思う。加害者への怒りに対しても、堪えようとしても溢れてくる炎のような思いに本人自身が翻弄されて苦しんでいるのだから、まさか「忘れたら?」と言う人もいないだろう。
しかしながらPTSD患者に対して「気にしすぎだよ」「忘れたら?」と平気で、時には怒りを込めてぶつけてくる人がいる。

何に対して悲しみが止まらなくなり自身が翻弄されてしまうくらいの苦しみと怒りが沸いてくるのか、それが伝わるなら人はひどい言葉を投げないだろう。
「自分も交通事故で子供を失ったら…」とか「自分も大震災で大切なものを失ったら…」と想像したとき、自分にも痛みが伝わるからかもしれない。

しかし虐待やDVという世界はたぶん体験した事が無ければ想像がつかないと思う。
しかも子供時代からメタメタにされた人は、多くの場合、自分を大切にしていいとは思えないから自己弁護も自分を守ることも難しい。自分自身の言葉を持つ前からメタメタにされてきた人なら尚更だ。

つまり「体験の悲惨さを伝える」ということに困難さが伴い、もし目撃した人がいるなら話は別だが、どのぐらい悲惨な事件が起き続けているのか伝わりにくい。

ましてやDVになると、まるで人質にされた人のように、大人でさえあたかも洗脳されたようにされてしまうから、自動的に加害者の都合のいいように振る舞わさせられるロボットのようになる事がある。
最後の砦である「無意識」の、命の危険から守る働きが最上級で動くようにも思う。私は記憶がまだ欠けているから詳しく分析して書けないが。

あの記憶が欠けているのは、私の場合は「あの記憶が顕在意識に戻ったら普通の生活が送れない」とか「個人を破壊するような激しい過去の記憶が顕在意識に戻ったら崩壊してしまうから」といった、『無意識』が判断した防衛機能が働いているからかもしれない。

そうまでして防衛しなければならないのは、記憶が存在することを裏付けることにもなる。
忘れたのではない、もし忘れたのであればいちいち反応して発作を起こす根拠が無い。

人というのは、余りにも個体がもたないような激しい経験は消すことが出来ない生き物なのかもしれない。
もし完全に忘れているなら、こんな発作を起こさないと思う。逆に言えば、発作を起こすからこそ水面下のずっと深い場所にあの記憶が沈められているのだと私は悟った。
余りにも深い場所に沈められているから、治療のために思いだそうとしても、たどり着くまでに困難が伴うのかもしれない。

ここで思い出す本の一節がある。
「PTSDは1度目の衝撃を起こすと次の時はもっとひどくなる。これが重なるとさらに悪化する」というような内容だ。

私の場合で言うなら、子供の頃の衝撃が1度目とするならば次はDVだろう。そしてDVは3人の男性からされた。そして今は同居の危険人物や近所のアレだ。
もしこれがDV以前の人生に於いて衝撃を受けていない人だった場合と比べると、私の方が治療に困難さが伴うと仮定できるようだ。

これについて言うなら、確かに私のトリガーの引かれるショックは、こうした事態が繰り返される度に過敏になっていったのだ。

これが自覚できたことで、『今度こそ絶対治りたい!』と決意できたのだった。
『ここで本格的に専門家に治療して頂かなくては、もう後がない!』といった背水の陣のような思いと言った方が合っているかもしれない。

また治療中にも、通っている病院の近くにある、妹の通っている病院で受けた急性ストレス障害についても他のショックについても、段々自分に起きてくる症状が過激になってくるのが自覚できたのだ。
それもあって『何としても今回ばかりは諦めたくない!』と決意を固めることができたのだった。

治療を継続していて『これって、なんだかアレルギーみたいだなあ』と笑いながら思い付いた時さえあった。まるでアナフィラキシーショックのようだな、と(苦笑)
スズメバチに刺された時、最初はまだそんなショック症状は起きないが、2回目に刺されたらショックで死んでしまうことさえあるとテレビで知った時、『まるで重なる心へのショックもこの免疫機能のようだな』と。

PTSDのカラクリを口にして伝えることが出来たなら。
虐待やDVの本当のひどさを伝えることが出来たなら。
自己弁護が出来たなら。状況説明が出来たなら。
二度と『支配』『コントロール』といった人間関係にならないための自己防衛、私の身に付くのだろうか。
失恋さえも他の人よりも深い衝撃となって私の中に残ってしまうくらい、子供の頃からたくさんの衝撃に襲われていたのだと、
たくさんの衝撃に襲われて来たからこそ、新たな衝撃に対して脆弱になってしまうようになってきたのだよ、

たくさんの思いが浮かんでは消えていく。

2週間前にある人から手紙を頂いて
「気にしすぎだよ」と書かれていて衝撃を受けて
やっと浮かんできた思いをメモ。

骨盤ガキッ!

2011-09-19 20:26:45 | スポーツ・健康関係の独り言
4日前だったか。
玄関先の鉢植えの世話をして立ち上がった時だった。
骨盤の何かから「ガキッ!」という音がした気がしたくらいの、激しい衝撃が下半身を襲った。
骨盤から左足にかけて雷に打たれたような感じになって動けなくなった。

たまたま近くに人がいたから、玄関の中にある杖を取ってもらった。
鉢植えの世話をしている時、杖を玄関に置いて世話をしていた。

う、動けない………

玄関の段差を何とか越え、倒れ込むようにベッドに横になった。左足は痛みで動かせない。曲げられない。しびれた足先も触ることが出来ない。

やばい、あの骨折時と同じくらいのキツさだ……
何が起きたんだ……

そう、骨折した時、全く動けなかった。痛みだけではない、左足が全く動かないのだ。
後から知ったのだが、それは骨折箇所から髄液が溢れだして止まらなくなったからでもあったようだ。

ベッドで痛みに耐えながら「あの時と似てるくらいの感じだな」と思った。
でも痛みの根幹は違う場所のようだと感じた。
たぶん仙腸関節のようだと。

筋トレしてるのに、なぜだ……
仙腸関節周りの筋肉も背筋も鍛え始めたのに、何故だろう……

しばらくして痛みが和らいできた。『良かった、骨折じゃないと思いたい』と思った。
そして湿布をベタベタ貼った。何とかゆっくりなら動けるようになってきた。


今日は旦那と買い物に行った。車に乗り込むのがキツい。足を曲げるのが痛くて仕方がない。
しかたなく車の中に着いている取っ手を握って、それにぶら下がるようにして乗り込んだ。
内心『頸椎ヘルニアになってから教わった、腕の筋トレやってて良かった』と思えた。

走行中、マンホールに乗り上げる時の振動で痛い。アスファルトの段差の振動でさえ痛い。ブレーキを掛けるときや交差点を曲がるときの横Gも痛い。
湿布を貼っているのに痛い。湿布を貼った場所は熱く感じる。しかし飲み薬は飲みたくない。限界まで飲みたくない。

今夜は何と、右の足まで痛くなってきた。

参った、勘弁してくれ。
それにしても一体何が起きたんだ?
ぎっくり腰になった人に似た症状なのか?
いや、物は持てるから、ぎっくり腰になった方よりはまだマシだと思う、

うう………

最近、骨盤のMRIは撮っていない。
もし撮るなら写るだろうか。

骨折した当時、労災認定の時に基準局の方が私のレントゲンを見て「あらっ。あなた形成不全?」と聞いた。
私は形成不全という言葉を初めて聞いた。帰宅してから慌てて調べた。かなりの数の女性患者さんがいることが分かった。

何故かこれを思い出した。

曾祖母は股関節が悪かった。しかし痛みを全く誰にも言わなかった。
曾祖母のお葬式で骨を拾ったら、股関節と大腿骨の部分が緑色になっていてボロボロになっていた。
火葬場のオジサンが「あぁ、このオバアチャンは股関節が悪かったんだねぇ~」と言った。

何故かこれも思い出した。

うう、それにしても痛い。
立ち上がる、座る、しゃがむ、スクワットをする、
股関節が動く動作は全部痛い。
歩くときも股関節可動範囲が狭くなるように、着物を着た女性のように動いて耐えている。

左足の痛みを伴うシビレは、ヒザ下は消え太ももより上のみになった。
それにしても痛い。気が遠くなる。