Pieces~私の独り言(HN緑茶猫)

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破壊力にあらがうために考察3

2015-11-12 12:56:47 | 独り言
前の記事の続き


別に、そんな生き方を貫いている人から、指南されたのではない。
ただ、見続ける。

すると何年か経過した時『そんな生き方があって当たり前なんだ』と感じられるようになる。慣れる。

そして、
そんな生き方があって当たり前なんだという考えさえ浮かばなくなるくらいに、意識しないでいるような状態になる、慣れを越えて、
歩くときに自然に考えずに手と足が出るような『当たり前』が得られた時に、インプットが終了している、ということだ。

インプットが終わっても、それがすぐに強迫観念に勝つという事ではない。
強迫観念による激しい恐怖に対抗する支え、例えば心の中で「大丈夫、生きていていいんだ」とかの、『己を支える自発的な支えの思い』を発生させる根拠になり得る、ということだ。

見本が自然に取り込めたなら、
次に『自分を支えていい』ということも、意識しないでも実行できるようになっていることが大切だ。
つまり「自分は幸せになっていい」という、親から与えられなかったものに対しても、見本がインプットされていることが大切だ。

これに対して考察をしていくのは、またの機会に譲る。


強迫観念に打ち勝ち、破壊力にあらがうためには、
必要とわかったものを、無理に焦って取り込むことが危険で不味いことだ。強迫観念によって脆くなっているにも関わらず、強い力が加わるようなものだからだ。
あくまでも、本人のペースで自然に取り込めなければならない。


私が近くで見続けることができたからだったというが、どんな人かと言えば。

悪口を言われてもヘラヘラ笑っているし、陰口を言われてもそれを気にする風もない。
自分のやりたいようにやる。
そんな人だ。

どこが私と違うのか。そんなことは一切考えもなしに接した。
だからこそ、かえって取り込めたのだと思う。


守られている安心感を得られることも大切だ。
私は、これを得るために、探し求めた。何十年も。

それが、私がたどり着いた医師だったりカウンセラーさんだったり、看護師さんだったり事務員さんだったり、県をまたいで出会った福祉関係者だったり、ほうてらすの人だったり、
DV被害者救済にあたる人だったり、交通事故被害者救済にあたる人だったり、
番外編としては、各地の大きな神社だったり。

神社は、場所によってはギトギトしていたりピリピリしたりする神社もあるが、
大抵の、神主がいて巫女さんがいて、綺麗に掃除されていて、森がある神社だと、暖かな空気が流れている。
数分で帰るのではなくて、由緒が書かれた立て札を見たり、お守り売り場でゆっくり見たり、人が少ない日に境内内にベンチがあればそこでゆっくりお茶を飲みながらスケッチをするとか、ゆっくり居続けると、
なにかが充填されていくような感覚を覚える。

そうしていると、時々、何を訴えているのか分からないが、何十分も祈っている人を見掛ける。
私もいつか何十分と祈ってみたい。そうしたらまた境内内でゆっくりできるだろう。
また、お百度を踏んでいる人も時々見掛ける。これもいつか、やりたくなったら、神主さんにお尋ねしてからやってみたい。

教会は、神社とは違って、屋根も壁もあるために入りにくいということがあって、ゆっくりしたことはない。
いくら私がカトリックに関係する幼稚園の卒園者でも、洗礼を受けていないから遠慮がちになっている。

お寺は、おどろおどろしいお寺は別として、お庭にてゆっくりすることが許された所でゆっくりすることがある。
それこそ、自分は絵が趣味でスケッチをさせていただきたい、と願い出たなら、大抵の場合、喜んで許可をくださる。

スケッチの画材は100円均一で揃う。椅子がないなら携帯椅子や、段ボール箱を塗ったものなどで代用できる。

スケッチをしたことがなくても、神主さんや坊主さんに「スケッチを始めてみたいと思い立った」と言えばいい。
そして「邪魔にならない場所はどちらでしょうか」と丁寧にお伺いして案内をしていただけばいい。
断られても、失礼の無いように後にして、別のところを探せばいい。

神主不在の神社は、最近は特に何かあった時に怖いから、近寄らないようにしている。

そんな風にして、安心を与えてくれる誰かや場所を増やしていくのも、立ち上がるために必要な、奪われてきたエネルギーを補充するために大切なことだ。



また思い付いたからメモ。

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