Pieces~私の独り言(HN緑茶猫)

※メンヘラブログにて閲覧注意

ときどき
いろんな気持ちを
勝手に書いてます

夢を見た 泣いてる子供篇

2013-02-28 13:52:40 | 見た夢記録
夢を見た

※これは実際に寝ているときに見た夢のメモです。
もちろんフィクションです。念のため。



小さい子供が転んで
床にミルクをこぼしてしまった
泣いていた

飲めなくなったから泣いたのじゃない
いつもこぼした時はお母さんが怒鳴るから

またこぼした
怖さにうち震えて泣いた


そこに
よき教育者と言われる人がやって来た

その人は
この光景をみて
とっさに引き返した

そしてまたやってきた
手にはコップに入ったミルクと
反対側の手にタオル

何気なく歩いてきた
子供に気がつかない振りをして

そして
泣いてる子が気がつくほどの
大きな声で「あっ!」と言いながら
派手に転んだ

当然
ミルクが床にぶち巻かれた

その人は子供に気がつかないままの素振りで起き上がり
「やっちゃったなぁ、もう…」と言いながら
持っていたタオルで
床のミルクを拭き始めた

子供は一部始終を見ていた
『こぼしたら拭けばいいんだ』と学んだ
やっと分かった

子供は嬉しそうだった
強い目の力が前を向いていた

優れた教育者に共通する要素は?2

2013-02-27 01:45:14 | AC関連
前の記事の続き


そう、苦手意識やコンプレックス、これが人生をダメにする要素なら、
こういった要素を外すことが、優れた教育者といった人に共通するところなのではないかと思ったのだった。
これは自身がカウンセラーさんから、態度を通じて教わったことのひとつでもある。

加えて、
私が被虐待児・ACの事を学んで分かってきたことや、意識しないで無意識にもやっている中で考えて、
『同等に扱う』が自然と出来ているのが優れた教育者に共通する要素ではないか、と気が付いたのだった。

※『私は優れた教育者だ』と言っている訳ではない、
そういった視点から言うなら、私は全くの無学である。教育課程など吐き気がして取ったことがない。
占いの鑑定に呼んでいただけて、「○○先生」と呼ばれただけで吐き気と鳥肌に襲われるぐらいに、自分が先生なのは駄目だ(笑)



もし『もしかしたら、こいつはダメかも……いやいや、違う、こいつは必ずできる!』と、無理やり信じ込もうとしている状態、だったとしても、
それを微塵も表に出さずに接する努力を重ねたなら、いつか自分が変わると思う。

いつか、相手の可能性を引き出すことが意識しないで出来るようになれる。
ダメな所に目が行く能力があるなら、良いところに目が行く能力だって同居している、と。
それは分析力であるからだし、観察眼だからだ。経験を積めば積むほど育つ能力のひとつだと。


もちろん、
自分がしまいこんで封印してしまった琴線に相手が触れたから、過剰に反応してしまうことだってあるだろう。
しかしそれは、『自分が幸せになるための材料を発見できたんだ』と、視点を変えてみたなら自分が幸せになっていくし、かつ、相手も幸せにできる能力に変わると思う。

ここには『自分の欠点から逃げないで、真っ正面から受け止めるようになる修行』が隠されているのかもしれない。

逃げない、嫌だけど見てみる、そおっと見てみる……すると、
『あの頃は、あれで自分を嫌ってしまったけど、でも今の自分の目で見たら、自分は頑張っていたんだ』と発見できたりする。

私の受けたひどい傷のように、カウンセラーさんの手を借りなければならないものもあるかもしれない、
だから無理には勧めないが、

しかし、自分のコンプレックスに引っ掛かる人物が目の前に現れるのは、もしかしたら、
自分の無意識が『今なら越えられるよ』とばかりに引き寄せたのかもしれない、と。



ちょっと熱がある、関節の節々が痛い、
ヘロヘロな状態で、メモ。

優れた教育者に共通する要素は?1

2013-02-27 01:26:58 | AC関連
周囲から、育てるプロと認められている人と、アマチュアの育てる人というのは、何処が違うか。
『「この人は、必ず○○できる」と、まごうことなく確信しているかどうか』ではないか。


私が、被虐待児という自覚をしていないままにこの人生を見てきているうちは、相手が自分をどう扱っているのか分からなかったが、
自分は被虐待児だったことや、ACだという自覚をもって、様々調べていってやっと分かってきたものがいくつもあった、
『相手から尊重されずに扱われている』、そこが自己否定感の温床であったことも理解した。


優れた教育者というものは何なのか、色んな意見があると思うが、
私が考え付いた共通するところは、
『この人は、必ず○○できる』と確信して接している所ではないだろうか。

これは、教育者が相手を『もしかしたらダメかも……いやいや、違う、こいつは必ずできる!』と、無理やり信じ込もうとしている状態のことを言うのではなく、
『もう既に出来た人』として扱っている、という次元だ。

例えば。

人に何かを伝えようとする。
心の根底に『もしかしたら鼻で笑われるかも……』という“不安”があると、
多くの場合は鼻で笑われる結果に終わる。

しかし、
人に何かを伝えようとする時に『この人なら真面目に聞いてくれる!』と、微塵も疑わずに話すなら、
かつ、相手が生返事でも構わず『この人なら真面目に聞いてくれる!』と思って話をしていくと、鼻で笑われることが少なくなる。
ただし、相手がこちらを見下していない場合のみ、だが。

最初から相手がこちらを見下しているなら、洗脳(相手がこちらに対して抱いている、すなわち見下しているイメージ)を解くのが先に立ち、理解をもらうのは大変だ。


話は変わるが、
自身の体験として、こんなことがあった。

30代の男性で『自分は漢字が読めない』と信じ込んでいる人がいた。
見ていると、発達障害ではないことが分かった。また、自分の名前や住んでいる場所を漢字で書いているのを見た。

私はひらめいた。そして、相手に伝えずに行動した。
何を行動したかと言えば、『自分が分からない漢字をその人に聞く』だった。
要するに、自分と同等として扱ったのだった。

最初は反発された。
しかし私はごく自然に「うーん、ゴメンよ、君も知らなかったんだね。……どうしよう。うん、辞書を引くよ……えっと辞書はどこだった?」と口にする。

『あなただけじゃないよ、私だって知っている漢字しか知らない。誰だってそうなんだ、だから君が自己否定に陥っているのを見ていると助けたくなるんだ』
これが、行動の裏にある思いだった。

しかし、これを言葉にして伝えたら余計に相手が傷付くのは明らかだった。
だからこそ、大切にしたのは行動だった。

いつでも同等に扱うこと。

知らないからといってもそれは、自己否定の材料じゃないんだと言うこと、
知らなければ調べればいいんだということ、
調べても覚えられない、それは普通なんだということ、
だから繰り返し書いたりして行くんだということ、

全部、自分がやっている姿を見てもらった、何も言わずに。


その男性は外国語が私より出来る。
会社に英語圏の人が来ても話をつけるし、なんと、イタリアのバイヤーとコミュニケーションをした話が彼の口から出てきた時には驚いた。

そこはもちろん、目を付けた。
本人がそれを自慢に思っていないから、余計に『使える』と思った。
本人が自慢にしている所は、あまり誉めすぎるといつか怒られたり、逆に鼻持ちならなくなって収拾がつかなくなることが多い。
そして、分からない単語があると、時々私は聞いてみることにした。
自尊心を高めてもらいたかっただけだった。

そんな風に、いくつも工夫を繰り返していったら、
今では「これって、どう書けばいい?」と、ごく普通に私に漢字を尋ねてくれるようになった。
苦手意識が吹き飛んで、過激な反応やコンプレックスが消えたと言えば妥当だろうか。


次の記事に続く

恩着せがましい人に愚痴を聞かされて思うこと 2

2013-02-25 14:00:51 | AC関連
前の記事の続き


恩着せがましい人は、感謝ができるなら、きっと幸せになるんじゃないかと思う。

『ありがとう』も言ってもらえなかったけど、私はやらせてもらえたこと自体が嬉しいことだな。
『ありがとう』も言ってもらえなかったけど、ニコッとしてももらえなかったけど、今度は何処を工夫したらいいか何となく分かったから良かったな。諦めないぞ。
『ありがとう』も言ってもらえなかったけど、きっと場所が悪かったんだな、ここに気を使わなかったことが分かったから良かったな。

こんな風に、
ひとつの出来事で何かを見つけた、という感謝というか、
『反応をもらいたかった人』からではないが、出来事を通して発見ができたことや気が付かせてもらえた事への感謝ができるようになっていったなら、
さらには、今後の工夫を諦めずに重ねていけば、いつか達人っぽくなれるだろう。

達人でなくとも、達人っぽくなれば。その時、以前の自分より自信がついて来ているだろう。これが増えると前を向きやすくなる。


もうひとつ、
恩着せがましい人というのは、もしかしたら傷を負ったことがあるのかもしれない。

まだその人が純粋であった時期に、親とか他の人から「こういう時には『ありがとう』っていうもんだ!」と、
『頭ごなしに怒鳴られた』という体験があるのではないか、と。

頭ごなしに怒鳴られたら、『ありがとうって思っていなかった自分は、いけないんだ』と、ゲッシュを自分にかけてしまう、と。
親からの『思いのナイフ』が刺さった横に、自分が自身で刺したナイフが刺さる、と。

だからこそ、そのナイフが動くような誰かの行動や言葉があると過激に反応を起こして、怒鳴り散らしたり激昂するのかもしれない、と。
そうして考えてみれば、それは即ち『誰か、このナイフを抜いてくれ』という叫びである、と。

ナイフが刺さっていることに気が付かないから、自分で抜けない。
気がつけば、一人では無理なものも時にはあるが、自分で優しく抜くことも可能なナイフがある。
それが、自分をいたわることのひとつではないだろうか。
ただし、固定観念を自分で打破しようと志さないと、これは難しい。

固定観念が絡まっている自分に気がつかないのも、恩着せがましい人の多くの方々に見受けられる。
固定観念が相手も裁き、自分も裁いてしまうから、自分も業火に焼かれる、苦しい。

海外旅行に行けるなら、行ってみて固定観念を打破する手もある。
海外旅行と行っても、沖縄の人が淡路島に行くとか、本州の人が香川県に行くとか、そういうのもカルチャーショックが得られて、固定観念が外れやすくなる。

『慣れ』が『固定』を生むのだから、慣れを打破すれば固定してはまずいもの、フレキシブルにしておくのが良いもの、それを、
あたかも洗濯物に柔軟剤を使って柔らかくするかの如くにフックラさせたらどうか、と。

写真やテレビではなく、自分の体を未体験の場所に連れていく。
これが柔軟剤代わりだ。

固定観念が打破されて、
感謝がもらえなかったとしても体験できたことに、より喜びを感じられたり、配慮のレベルがアップしたりしたなら、それは素敵なことかもしれないと思う。

恩着せがましい人に愚痴を聞かされて思うこと 1

2013-02-25 13:36:07 | AC関連
恩着せがましい人、というのはどういう人か。

ひとつに、
「俺は、○○『してやった』のに!」と、日頃からボヤいたり怒鳴り散らしている人のことだと思う。

『自分から』、
誰かにやってあげたことを『公言し(広言し)』、
かつ、やってあげたことに対して『感謝がもらえなかった』ということに『怒りを感じ』、
その怒りをベースに、『相手からの感謝』という『称賛』を搾取しようとする、

…冷静に分析してみると、ざっとこんな感じだろうか。

これらアイテムを並べて冷静に分析してみると、大事なことが抜けているような気がする。
そう、ACからの回復や、DV被害から立ち直ろうと尽力している人なら気が付くことができるだろうことが抜けている。
『相手が感じるものは、相手のもの』ということだ。

例えば、ある花を見て「綺麗だな」と思う人もいるし、「美味しそう」と思う人もいるし、
「あ、赤いのか。サクランボを食べたいな」と別のものを思い出す人もいるし、
何かの出来事を通して感じるものはパーソナルな個人的なものだということ。

DV加害者というものは、特性のひとつに
『相手に、自分と同じように感じることを強要し、それが出来なかったら(相手を)ひどい目に遭わせてもいいと勘違いしている生き物』という点がある。

恩着せがましい人、これも角度を変えてみてみれば、本当のDV加害者からしたら程度はひどくないが、
『相手に、自分と同じように感じることを強要している』のだろうし、
『それをしてくれなかったら(相手に)攻撃を加えてもいいと勘違いしている』のではないか?

何故、こう考えるのかといえば、

大概、自分が相手の幸せを考えて動くとき、『こうしたら相手は喜ぶだろうな』と想像して動く。
しかし、相手が喜んでくれるときもあれば、逆に困っているときもあるし、何も起きないことだって多々あるのが普通だ。

だからこそ『どうしたら喜んでもらえるかな?』と、工夫を重ねて自分が進化していくのだし、
時には残念ながら接しないようにしたりと距離を取ったりして、こちらも工夫していく。

しかし恩着せがましい人は、最初に『こうしてくれるのが当たり前』という感情が、無意識的にも意識的にもあって、
そのセオリー通りにことが進まないと激昂するのだろう。

無論、朝の挨拶でお早うございますを言うことや、寝る前にお休みなさいを言うことなど、世界共通の合言葉のようなものがあって、
そういった類いのものはセオリー化しているのだろう。これはまた別のジャンルだろう。

しかし多岐にわたる「人の思い」というものは、その人が置かれている状況、場所・時間など、様々なパラメーターで変わってくる。セオリーはその状況で変わる。
それを汲み取っていくには、かなりの経験を積まねばならない。
しかしこれを多く体得できたなら、素晴らしいことだ。

恩着せがましい人は、相手が自分の要求している『感謝しろ』という思いにばかり気を取られ、
『相手が感謝してこないのは、何故なんだろう?体を壊しているのかな?つらい思いを抱えているのかな?誰かとトラブルに巻き込まれているのかな?大丈夫かな?』といったような『相手への思いやり・気配り』が抜けているんではないだろうか。

そして、これが抜けているだけではない、
加えて『腹を立ててもいい』と思っているからこそ、それを表に出しているのではないだろうか。

もちろん、私も時々は腹を立ててしまうこともある。
しかし相手に伝えるかどうか、それを個別に判断してから、伝えるべきだと思ったら伝えるかもしれない。しかし恩になっていそうな事は殆ど伝えたことはない。
それは、落ち込んでいるからだ。

『喜ぶだろうな』と思ってやったけど、迷惑になっちゃったな。
『喜ぶだろうな』と思ってやったけど、場所が悪かったのかも。
『喜ぶだろうな』と思ってやったけど、寝起きの時だからダメだったのかも。
『喜ぶだろうな』と思ってやったけど、あの人が嫌ってる人がそばにいたことに気が付かなかったから、逆に迷惑になっちゃったのかも。

こんな風に反省ばかりしているから、落ち込んでいく。

最近では『反省は少な目と書くんだ』と聞いたこともあって、反省したら切り替えようと努力するようになった。
反省を全くしないのは、自分の向上阻止に繋がるんじゃないかと思うから、必ず反省は出来るときにやって、
しかし引きずらないように切り替えられるように、かなり無理してやっている。

余談だが、
元々、謝り始めたらひどく病的に謝り続ける私だったから、少な目な反省で収める事ができる回数が増えてきたことは、本当に劇的なことだ。