以前の記事で一度取り上げたことのある、
佐賀県伊万里市にある向山炭鉱跡。
その時は海岸線の遺構しかわからず、
小規模な炭鉱だったんではなかいと思っていました。
しかし、先日『向山』というタイトルの、
おそらく閉山時かそれ以降に編纂されたと思われるアルバムを発見し、
実は向山炭鉱が巨大な炭鉱施設だったことを知りました。
これがその表紙です。
閉山記念ともなんとも書かれておらず、
また奥付にも年号のクレジットがないので、
いつ何の為に作られたアルバムかはわかりません。
しかし表紙をめくると最初に織り込みの地図があり、
なんとそこに向山炭鉱の全貌が書かれてあります。
※クリックすると施設名が読めるサイズの画像が見れます。
※小さい場合は、拡大や「実際のサイズで見る」にすると見れます。
この地図を見る限り、海岸から内陸に向かって、
少なくとも3km奥まで炭鉱施設があったように書かれています。
また坑口もざっと見ただけで3つはあったようで、
その規模の大きさがうかがえます。
なお地図の中央左よりに制作者のかたのコメントがありますが、
それを見ると「昭和63年(1988)」の年号があり、
また地図の作成者の成坂さんは、
奥付に「撮影・複写・編集」のクレジットがあることから、
恐らくこの写真集はその頃印刷されたものではないかと思います。
向山炭鉱の創業は大正元年(1912)にまで遡ります。
写真集ではただ「坑口」と書かれ、向山の最初の坑口とありますが、
果たしてそれが何と言う坑口かはわかりません。
地図のほぼ中央に「本坑口」の表記がありますが、
この写真が本坑口のようで、
確かに入坑口のアーチ上には「本坑」と書かれています。
写真集には「一枚坑坑口」と書かれた写真もありますが、
地図を見る限り、そのような名称の坑口はみあたらず、
逆に地図には「西坑口」(下より) や「新坑口」(上部右より) などがあり、
坑口もかなり造られていたことが分かります。
なお巻末の略年表を見ると、一枚坑という坑道は、
閉山間際の昭和35年(1960)に開発された坑道のようなので、
この地図に描かれた様子は、造られる直前のものなのかもしれません。
坑内も複線軌道だったようですね。
降炭エンドレス軌道。
エンドレスとはエンドレス状態のロープを回転させ、
そのロープに付いた引っかけに車輛を連結して運搬する方法。
写真を見る限り、地上施設もかなりの規模だったことがうかがえます。
またトロッコが木製なのが時代を感じさせてくれます。
そのほか、主に女性が従事した、
掘り出された鉱石から、石炭とそれ以外の廃石を選り分ける、
手選と呼ばれる作業場の光景や、
バウム水洗機と呼ばれる、近代的な石炭の選別機など、
炭鉱施設の詳細がわかる写真が多く掲載されています。
残念なのは、全ての写真に撮影年月などが書かれていないので、
どれがいつ頃の写真かまったく分からないことです。
これは地図で言うと右上寄りに書かれた新坑口付近の様子だと思います。
画面中央から左に目を移すと、縦に黒いものが蛇行して並んでいるのが見えますが、
これが石炭等を運搬するトロッコの車列で、
その最下部のちょっとクネっと左に曲がった所が新坑口です。
そして海に向かって桟橋が延び、その先に船積み施設が見えますが、
これがまさに以前の記事でアップした、
海上に残骸として残る遺構の部分です。
また画面左上寄りに白く四角い建物のようなものが見えますが、
これが坑道からトロッコを引き上げる捲上機がある施設。
そして、以前の記事の2番目にアップしてある画像が、
その施設の土台だったところになります。
また写真集には炭鉱のものばかりでなく、
当時の生活を伝える写真も多数掲載されています。
写真の下には「川南工業各工場対抗」の野球大会とあり、
昭和21年8月25日の日付も見えます。
川南工業とは、通称「伊万里造船所」の名でも知られる、
伊万里湾に面した海岸沿いにあった巨大造船所のこと。
昭和12年(1937)に、向山炭鉱は、
川南工業に譲渡され、以降川南工業の経営下になります。
そしてこの記念写真の背景に写る建物が、
おそらく川南工業造船所の建物だと思いますが、
完全な迷彩塗装の跡が見てとれます。
川南造船所は、戦中、軍用船の製造を行ない、
特に末期には特殊潜航艇の製造を行なっていたので、
当然、迷彩塗装を施す必要があったのだと思います。
この造船所に関しては、拙ブログでは特に詳しくアップしていませんが、
iPadやiPhoneをお持ちの方は、
iOSアプリ廃墟百花『さよなら、川南造船所』
をご覧になって頂ければと思います。(無料です)
「配給所内部」と書かれた写真。
男性の服装、そして配給所という言葉から、
恐らく戦中のものではなかと思いますが、
随分と充実した品揃えの配給所のように見えます。
浴場の風景。
子供たちが入っていることから、住宅棟内の浴場だと思いますが、
なんと24時間いつでも入浴可、さらに薬湯まであったと書いてあります。
例えば拙ブログでもよく取り上げる軍艦島こと端島炭鉱などを例にあげると、
住宅棟内の共同浴場は16時から21時と時間制限があり、
ましてや薬湯があったとは、一度も聞いたことがありません。
向山炭鉱の裕福な暮らしぶりがうかがえます。
向山炭鉱は昭和38年(1963)に閉山しますが、
約50年にわたる操業ですから、その期間も決して短くはありません。
もし機会があったら、
地図を頼りに向山炭鉱跡を探索してみたいと思います。
佐賀県伊万里市にある向山炭鉱跡。
その時は海岸線の遺構しかわからず、
小規模な炭鉱だったんではなかいと思っていました。
しかし、先日『向山』というタイトルの、
おそらく閉山時かそれ以降に編纂されたと思われるアルバムを発見し、
実は向山炭鉱が巨大な炭鉱施設だったことを知りました。
これがその表紙です。
閉山記念ともなんとも書かれておらず、
また奥付にも年号のクレジットがないので、
いつ何の為に作られたアルバムかはわかりません。
しかし表紙をめくると最初に織り込みの地図があり、
なんとそこに向山炭鉱の全貌が書かれてあります。
※クリックすると施設名が読めるサイズの画像が見れます。
※小さい場合は、拡大や「実際のサイズで見る」にすると見れます。
この地図を見る限り、海岸から内陸に向かって、
少なくとも3km奥まで炭鉱施設があったように書かれています。
また坑口もざっと見ただけで3つはあったようで、
その規模の大きさがうかがえます。
なお地図の中央左よりに制作者のかたのコメントがありますが、
それを見ると「昭和63年(1988)」の年号があり、
また地図の作成者の成坂さんは、
奥付に「撮影・複写・編集」のクレジットがあることから、
恐らくこの写真集はその頃印刷されたものではないかと思います。
向山炭鉱の創業は大正元年(1912)にまで遡ります。
写真集ではただ「坑口」と書かれ、向山の最初の坑口とありますが、
果たしてそれが何と言う坑口かはわかりません。
地図のほぼ中央に「本坑口」の表記がありますが、
この写真が本坑口のようで、
確かに入坑口のアーチ上には「本坑」と書かれています。
写真集には「一枚坑坑口」と書かれた写真もありますが、
地図を見る限り、そのような名称の坑口はみあたらず、
逆に地図には「西坑口」(下より) や「新坑口」(上部右より) などがあり、
坑口もかなり造られていたことが分かります。
なお巻末の略年表を見ると、一枚坑という坑道は、
閉山間際の昭和35年(1960)に開発された坑道のようなので、
この地図に描かれた様子は、造られる直前のものなのかもしれません。
坑内も複線軌道だったようですね。
降炭エンドレス軌道。
エンドレスとはエンドレス状態のロープを回転させ、
そのロープに付いた引っかけに車輛を連結して運搬する方法。
写真を見る限り、地上施設もかなりの規模だったことがうかがえます。
またトロッコが木製なのが時代を感じさせてくれます。
そのほか、主に女性が従事した、
掘り出された鉱石から、石炭とそれ以外の廃石を選り分ける、
手選と呼ばれる作業場の光景や、
バウム水洗機と呼ばれる、近代的な石炭の選別機など、
炭鉱施設の詳細がわかる写真が多く掲載されています。
残念なのは、全ての写真に撮影年月などが書かれていないので、
どれがいつ頃の写真かまったく分からないことです。
これは地図で言うと右上寄りに書かれた新坑口付近の様子だと思います。
画面中央から左に目を移すと、縦に黒いものが蛇行して並んでいるのが見えますが、
これが石炭等を運搬するトロッコの車列で、
その最下部のちょっとクネっと左に曲がった所が新坑口です。
そして海に向かって桟橋が延び、その先に船積み施設が見えますが、
これがまさに以前の記事でアップした、
海上に残骸として残る遺構の部分です。
また画面左上寄りに白く四角い建物のようなものが見えますが、
これが坑道からトロッコを引き上げる捲上機がある施設。
そして、以前の記事の2番目にアップしてある画像が、
その施設の土台だったところになります。
また写真集には炭鉱のものばかりでなく、
当時の生活を伝える写真も多数掲載されています。
写真の下には「川南工業各工場対抗」の野球大会とあり、
昭和21年8月25日の日付も見えます。
川南工業とは、通称「伊万里造船所」の名でも知られる、
伊万里湾に面した海岸沿いにあった巨大造船所のこと。
昭和12年(1937)に、向山炭鉱は、
川南工業に譲渡され、以降川南工業の経営下になります。
そしてこの記念写真の背景に写る建物が、
おそらく川南工業造船所の建物だと思いますが、
完全な迷彩塗装の跡が見てとれます。
川南造船所は、戦中、軍用船の製造を行ない、
特に末期には特殊潜航艇の製造を行なっていたので、
当然、迷彩塗装を施す必要があったのだと思います。
この造船所に関しては、拙ブログでは特に詳しくアップしていませんが、
iPadやiPhoneをお持ちの方は、
iOSアプリ廃墟百花『さよなら、川南造船所』
をご覧になって頂ければと思います。(無料です)
「配給所内部」と書かれた写真。
男性の服装、そして配給所という言葉から、
恐らく戦中のものではなかと思いますが、
随分と充実した品揃えの配給所のように見えます。
浴場の風景。
子供たちが入っていることから、住宅棟内の浴場だと思いますが、
なんと24時間いつでも入浴可、さらに薬湯まであったと書いてあります。
例えば拙ブログでもよく取り上げる軍艦島こと端島炭鉱などを例にあげると、
住宅棟内の共同浴場は16時から21時と時間制限があり、
ましてや薬湯があったとは、一度も聞いたことがありません。
向山炭鉱の裕福な暮らしぶりがうかがえます。
向山炭鉱は昭和38年(1963)に閉山しますが、
約50年にわたる操業ですから、その期間も決して短くはありません。
もし機会があったら、
地図を頼りに向山炭鉱跡を探索してみたいと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/a425e7e74e48f2f4baa5033377eae8c3
トライスターさんのブログの情報をありがとうございます!
全然知りませんでした。
というか、最初に拙ブログに向山炭鉱をアップした2005年当時は、
たぶんウェブ上に向山の情報が殆どなかったと思います。
その時の記憶があったので、まったく検索してませんでした。
おかげで現存する坑口などを知ることができました。
そしてトライスターさんのような方がいらっしゃるなら、
わざわざ行かなくてもいいな、と思いました(笑)
以前から何度か見に行った事がある所だけに
驚きました。
また以前から配置など疑問がありましたが
スッキリしました。
今後とも是非よろしくお願いいたします!!
私等は海岸の遺構しか見てなかったので、
こんなでかかったんだー!と、ただただビックリするだけです。
地図をご参考頂き、新たな発見をされることを楽しみにしております。
こちらこそ、今後共よろしくお願いいたします。