幸せについての考察 【桐棺三寸】

桐鳳柳雨が贈る、幸せについての考察。
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ウルトラセブン

2005-04-15 | 価値観の基(もと)
DVD ウルトラセブン Vol.1

ハピネット・ピクチャーズ

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つい先日、「スカイパーフェクTV」で放送していた「ウルトラセブン」が最終回を迎えました。

男なら多かれ少なかれ「強い者に憧れる」という傾向があるかと思いますが、その傾向が比較的強い私にとっての最初の憧れが、このウルトラセブンでした。

ただ、当時リアルタイムで見た時の記憶はあまりなく、内容を理解したのは再放送時においてだったと思います。
今回の放送を見た私の息子が、ちょうど当時見ていた頃の私の年齢くらいでしょうか。
やはり、戦闘シーンには興味を示しますが、それ以外のところではちょっと難しかったようです。

今から見ると、ストーリーにやや「強引」と思われる部分もなくはないのですが、社会性を含んだ内容もあり、当時の大人たちが子供たちのために、一所懸命に創ってくれたという気持ちがとても伝わってきます。
今回改めて観ても、大人も充分楽しめるものでした。

昨今のヒーローものは、「いかにたくさんのオモチャを子供たちに買わせるか」というオトナたちの思惑が見え隠れしているような気がしてなりません。
オトナたちが考えていることって、案外、子供たちに伝わってしまうものではないでしょうか。

ところで、私は「ポインター号」が大好きで、いつか「本物」に乗ってみたいという夢があります。
どこかで乗れることって、できないのかな?


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「ムカつくぜ! 中国・韓国」?

2005-04-14 | 日記 Ⅰ

最近の報道を見ていると、つい、こんな感情に捕われることもあるかもしれません。
元来感情的である私も、そんな気持ちになることが正直言ってあります。

しかし私には、変に勘ぐって物事を見ようとするもう一人の自分もいるようで、
「誰かが意図的に、こういう感情になるよう仕向けているのでは」
などと考えたりもします。

例えば、ある県で「竹島の日」というのを策定したことをきっかけに増大した、韓国の日本に対する悪感情。
そして、それを見て逆に韓国に対して腹立たしく思う日本人…。
これなど、「韓国、ムカつく!」という「思想」を持った人たちが昨今の韓流ブームを「憂いて」、意図的に仕組んだ「作戦」というヒネた見方もしてしまいます。

今の世の中、全くの「デマ」が報道されることはないかもしれません。
しかし、伝わってくることが「真実の全て」ではないかもしれない…。
数ある「真実」の中から、それを伝える人にとって「都合のよい真実」のみを抽出して伝えているのかもしれない…。

或いは、元は100%真実であったとしても、それが私たちに伝わってくるまでの間に、それを伝える人の「感情」「思想」といったものが混入してしまっているのかもしれない…。

巷にあふれる様々な情報を取捨選択するための力を養うことと同時に、1つの物事になるべく多方面から光をあてることにより、その物事の「数ある真実」を浮かびあがらせることも必要になってくるような気がします。


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家事をしない女は離婚?

2005-04-13 | 日記 Ⅰ

「芸能ネタ」には疎い私ですが、「森夫婦別居」については、多少耳にすることがあります。
あまり詳しくは知らないのですが、森昌子さんが家事をするとかしないとか、そんな論争もあるようですね。

要するに、「家事をしない女は結婚生活が破綻してもしょうがない」ってことなのでしょうか。
私個人としては、それってちょっと論点がズレているように思います。

例えば、「家事を完璧にこなす女性が好み」だと思う男がいたとする。
そして、その男と交際している女が、「結婚したら家事をきちんとこなします」と言ったとする。
男はその言葉に惹かれてプロポーズをし、結婚したとする。
しかしいざ結婚してみたら、家事など一切しない…。
(「植木等」の歌の文句じゃありませんが、よくあることかも…?)

この場合問題となるのは、「家事をするかしないか」ではなく、「約束を守ったかどうか」ということであって、これについては争点となって然るべきかもしれません。

しかし、「家事は女がするもの」という「暗黙の了承」の上に立って、「した・しない」ということが問題とされるのは、ちょっと違うのではないか、と個人的には思います。

ただし、これは「家事は女がするべき、という価値観の是非」とは、また違う次元の話です。
「是非」を問うてしまうと、賛否両論いろいろあるかと思います。

私個人としては、「是非については分からないが、どうするかは当人同士の自由」といったところでしょうか。
このあたり、深く考えてゆくと長くなりそうですので、またの機会にでも…。


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「意志・哲学」を感じる体型

2005-04-12 | 日記 Ⅰ

私自身、以前は「人工的に鍛え上げられた美しい体型」というものに大変魅力を感じていました。
しかし最近どうも、「単に外見を意識しただけ」のそうした体型について、以前ほどあまり興味や魅力を感じなくなってきたように思います。
それよりもむしろ、「意志・哲学を感じる」ような体つきに魅力を感じるようになってきました。

例えば、映画「ダイハード」のブルース・ウィリス。
たくましい体型ではありますが、シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーのような鍛え込まれたそれではないように見えます。

しかし、ダイハードでのブルース・ウィリスの体型からは、「長年体を駆使して働き続けてきた男」という、それまでのその人の「生きざま」みたいなものが強く感じ取ることができるように思います。

またスポーツなどでも、単なる「見てくれ」だけではない、その競技に専念し上達を目指した結果自然と形成された、または上達するために意識して鍛錬した結果築き上げられた体型などに、魅力・興味を感じます。

例えばイチロー選手など、一見痩身ですが裸になると恐らく、そこまで到達するに至った強い意志、及び自分の目指す方向性といったものが感じられる肉体があるのではないかと思います。
或いは、大相撲の横綱・朝青龍関などでも、仮にパッと見、肥満体型に見えたとしても、その肉体の「底」に、鍛え込まれた「筋肉の鉱脈」が隆々と脈打っているのが感じ取れます。

昨日話題とした清原選手も、私個人としては、今のマッチョな体格ではなくむしろ西武時代の体型のほうが、特にバットを構えた後姿の肩から背中のあたりにかけて、「セクシーさ」を感じたものでした。

もちろん、「こういう体型になりたい」という明確な「意志」を持って鍛えられた肉体も、魅力的ではあると思います。
そういったものも含め、その人の体型というのは、大袈裟に言えばその人の「意志」や「人生哲学」が表れてくるものではないでしょうか。

いわゆる「デスクワーク」をされている方々も、その体型から、「自己管理能力」や「その人の価値観」みたいなものが垣間見えてくるような気がします。

追記:
事情があって、「ご自身の意志を体型として表現できない方」もいらっしゃることと思います。
今回の話は、「体型という外見」のみに限定した内容であり、決してそれ以外の部分についての善し悪しに関わるものではありません。 



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親愛なる「清原選手」へ

2005-04-11 | 日記 Ⅰ
(以下、4月11日に書いたものです)

以前、「プロ選手は観客とも勝負する」と書いたことがあります。
その点においては、巨人軍の清原選手なども「観客を喜ばせることができる」プロ選手なのかもしれません。

しかし、ファンの方には申し訳ないのですが、個人的にはどうも「物足りなさ」を感じてしまいます。
それは、「彼が貰っている年俸と実績の乖離」ということにも由来していることは否めないのですが、単にそれだけではないようです。

これは、「あの球団」独特のことと感じているのですが、チャンスにさんざん凡打を繰り返したり、与えられている年俸に実績がそぐわなかったりしたとしても、どこか「見出し」となるような場面で1本快打を放てば、それで全て「禊(みそぎ)」が済んでしまう…。

かつての原選手にも感じたことなのですが、それは、ファンを引き付けておくべく某TV局や新聞社が努力している賜物なのかもしれません。
もし仮に、某TV局の実況なく、球場で彼らのプレイを見るのみにとどまっていたとしたら…。
果たして、ここまで人気が維持できていたのでしょうか。
某TV局や新聞社は、「長嶋・王」の存在が忘れられず、原選手や清原選手を、第2第3の「長嶋・王」にしたかったのではないでしょうか。
(これは一企業のみではなく、業界全体の願いなのでしょうが)

西武時代の清原選手は本当に魅力的で、彼が打席に立つと思わず手を止めてTVに見入ったものでした。
そして、それがたとえどのような結果になったとしても、作業の手を止めたことを全く無駄に感じない…。
というよりも、たいていは快打を放ち、思わず「仕事してるなぁ」と唸ったものでしたが…。

個人的に、今の清原選手には、そういったものが感じられません。
そしてそれは、単に「加齢」が原因ということだけではないものと考えます。

私は、その根本的な成因が、彼の「目標設定」にあるのではないか、と推測しています。

清原選手は類稀(たぐいまれ)なる才能に恵まれ、そして、目標を実現するための努力もできる人だと思います。

しかし、どうも最近の彼を見ていると、
「望みの体格にしたい」
「バリー・ボンズみたいに見られたい」
「あと何本で2000本安打」
とかいうような目標設定にとどまっているような気がしてなりません。

そういう意味では今年など、「開幕4番という目標」を既に達したわけですから、彼の今期シーズンはもう終了した… と言ってしまっては皮肉に過ぎるでしょうか。
(…いや、まだ本塁打500本があるか…?)

西武時代の清原選手の目標は、もっと違う所にあったように思います。
「日本一を勝ち取る」
「そのために自分は何をすべきか」
こういった所に視点があったのではないでしょうか。
だから、タイトルなどには縁がなくとも、「仕事のできる魅力的な選手」に映ったのかもしれません。

しかし、もしかしたらその「モチベーションの源」は、実は更にもっと別のところにあったのかもしれない…。

それは…。
彼の小さい時からの願望・目標は、
「巨人軍に自分を認めてもらいたい」
ということだったのではないのだろうか… ということ…。

高校時代の活躍も、西武時代の活躍も、全て「巨人軍を意識したもの」だったとしたならば…。
彼の夢の実現は「巨人軍入団」で完結してしまった…。
そんな気もします。

私の邪推が当たっているかどうかはともかく、少なくともイチロー選手や松井選手とは、その望む目標が違う所にあるということには間違いないと感じます。
(「良し悪し」「高低」ということではなく、「方向性」という意味において)

個人的には清原選手に、長嶋茂雄選手の選手としての最晩年の時のような、「色気のある選手」になってほしいと思っているのですが…。



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4月8日メルマガ掲載分

2005-04-10 | 戯言 Ⅱ

女の「結婚したい」という願望と、
男の「金持ちになりたい」という願望は、
よく似たものである。
それらは共に、
「他者に対する見栄」という上に立脚し、
「それさえ叶えば幸せになれる」との幻想を抱かせる。


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受動か能動か

2005-04-09 | 戯言 Ⅰ

その苦悩の原因は、
受動的なものですか。
能動的なものですか。

不満の語尾は、
「してくれない」ですか。
「できない」ですか。

幸福も不幸も、
他人が運んでくるものと思っていませんか。

あなたが「チャンス」と考えてるものは、
実は「掴み取ったチャンスを活かした結果、初めて与えられるもの」ではないですか。

「与えられる存在」と「与える存在」
後者の方が
少し苦労が多いかもしれませんが、
少し幸福に近いような気がします。

そして、たとえそこに及ぶ権限に
限界はあったとしても、
どちらに立つかは、
あなたの自由ではないでしょうか。


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新渡戸稲造「武士道」

2005-04-08 | 価値観の基(もと)
武士道

岩波書店

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この本に書かれている内容が、真の「武士の姿」「武士としての道」を著(あらわ)しているかどうかは議論の分かれるところかもしれません。
私が、「『武士としての道』に感銘を受けたというわけではなく、「『武士道というタイトルのこの書物』に感銘を受けた」ということを、まずご承知おき下さい。

各宗教の教義から最近の「金持ち父さん…」等に至るまで、「既製の価値観」というものが数多くありますが、もし私が、自分の知り得るそれらの中から、自分が拠り所とする価値観を1つ選ばなければならないとしたならば、恐らくこの本に書かれている価値観を選択することとなるでしょう。

初めて読んだ時は、大変感銘を受けました。
日本人として知っておくべき「道徳・教育」とは正にこれだ、との思いがしました。
ただ、今では正直なところ、この価値観のみで「世界」と渡りあうことはちょっと難しいのかな、という気もします。

例えば「各種外交問題」など。
「日本人としての美徳」ということについては大変素晴らしく、その点堂々と「外国人」に誇るべきものではあると思うのですが、価値観の全く異なる「外国人」と「利益や権利」を交渉する場合等については、この価値観のみでは果たしてどうなのだろうか、と感じます。

或いは、これほど「金持ちになる」「トクをする」という価値観が大手を振ってまかり通っている現代、ヘタをしたら「正直者がバカを見る」ということにもなりかねないかもしれません。

とは言うものの、やはり日本人として生まれてきた限り、意識の片隅にでも「ひっそりと」置いておくべき考え方なのではないでしょうか。
またはこれを「土台」として、その上に必要に応じた様々な「知識」を積み上げてゆくべきものかとも思います。

因みに、今ではより平易に訳されたものもあるようですが、文体の美しさも含め、私はこちらを推したいと考えます。


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「考えるな、感じろ」 しかしまず最初に「考えろ」

2005-04-07 | 日記 Ⅰ

ブルース・リーの映画のセリフに、
「Don‘t think. Feel!」
というのがありました。
「考えるな。感じろ。」ということでしょう。

確かに、武道や格闘技などにおいては、「こうきたら、こうしよう」などと「考えながら」動くのではなく、とっさにその場の状況を「感じて」動くほうがよい結果になるかと思います。

ただし、それは鍛え込まれた、或いは修練を充分に積んだ後に初めて有効となるものであって、全くの「素人」が何も考えずに感じて動くだけでは、悲惨な状況になってしまうであろうことは目に見えています。

感じて動いてよい結果が出るようになる前に、どのように動いたらよいのか一所懸命に考え、それを自分の身体・精神・頭脳に徹底的に染み込ませるという「前工程」が必要なのではないかと考えます。
(ボクサーがコンビネーション・ブローを、空手家が「型」を稽古するように)

そして、それを無意識のうちに体現できるまでに至った後に初めて、考え込まず感じて動いてよい結果となるのではないかと思います。

大袈裟ですが、生きてゆくこともまた同様ではないでしょうか。
人間が、意識することなく「感覚のみ」で判断すると、たいてい本能に極めて近い部分に関わる「行動」につながってしまうものと考えます。

感じて動いて好結果を出すために、まず考え、能力の向上を図り、そしてそれを無意識のうちに体現できるまでにしておく、という前工程が必要なのではないでしょうか。

ただし「考えるだけで行動に移さない」ということになってしまっても困るでしょうが…。


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電話嫌いのメール好き

2005-04-06 | 日記 Ⅰ

NTTさん関連の場でこういうことを書くのも何なのですが、私は「電話」というものがあまり好きではありません。
(便利だとは思いますが)

固定電話の設置や携帯電話の所持も、必要に迫られようやく…といった感じでした。
今でも、固定電話はほとんど「留守電状態」、携帯電話も「ポケベル状態」といったところでしょうか。

どうも、こちらの状況に関わらず突然呼び出される、という点が気に入らないようです。
逆にこちらからかける際も、「相手は今、何をしているのだろうか」などと気にしてしまうこともあり…。

しかし、「Eメール」については大変気に入っております。
これでしたら送信する際も受信する際も、電話ほど「状況」を気にすることなく使用できますし…。
また、字を書くことが苦手で面倒くさがりの私には、文書作成や送信がボタン操作だけでできてしまう点もよいかと思います。

私が「異性への想い」に目覚めた頃には、「ケータイ」はもちろん「ポケベル」もありませんでした。
離れた相手に意志を伝える手段としては、手紙(手渡し・郵送)か、固定電話のみ…。
当然、その年代の女の子は自宅で生活しているわけですから、電話1つかけるのにも大変面倒だったりします。

なるべく先方の家族がいない頃を見計らって電話するわけですが、たいてい父親なんかが電話に出てしまいます。
「あの~、××子さん、いますか?」
「君ぃ。まず自分の名前を名乗るのが礼儀じゃないのかね?」
なんてことも、あったり…。

そばに先方の家族がいると思うと、電話で「ぼくとつき合ってもらえませんか?」などとも言いにくいですし…。
こちらも、ちょうどタイミングよく家族が留守とも限らないので、わざわざ寒い中、外出の理由をつけて公衆電話まで出かけたりして…。

或いは、通りすがりに「惚れた」などと一言書いた手紙をたたんで手渡したり…。
(本人には、それがカッコいいつもりでした…)

あの当時、今のように「ケータイ」とか「メール」があったら、どうだったんだろう?
便利だったろうな、とは思いますが、なければないなりに、それはそれでよかったのかな…とも…。


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神から授かりし究極の才能?

2005-04-05 | 日記 Ⅰ

あるところに、1人の女性がいました。
その女性は、生まれながらにして家は貧しく、頭も悪く、運動も苦手で、愛にも恵まれず、更には性格的にも決して良いとはいえず…。
とにかく「短所の塊(かたまり)」ともいえるような女性で、そしてそれらは、どんなに努力をしても改善されることはありませんでした。

およそ長所と呼べるものは何1つ持ち合わせていない彼女…。
…いや、たった1つ…。
神が彼女に授けた、ただ1つの飛び抜けた「才能」…。
それは、類稀(たぐいまれ)なる「美貌」でした…。

彼女が、このたった1つの「才能」である「美貌」を武器に幸せを掴もうとすることを、あなたはどう思うでしょうか。

例えば、いわゆる「ミスコンテスト」。
もちろん、男の欲望を満たすために、参加する意志のない人を無理矢理ひっぱり出すようなことがあってはいけないでしょうが、「美貌だけしか」持ち得ていない女性に、その「唯一の才能」を競い合う場を与えることはいけないことだと考えますでしょうか。
(今の「ミスコン」が、そういうものだというわけではありませんので、念のため)

それは、それが結果的に「女性差別・女性軽視」につながり、女性の地位向上に反するものだと考えるからでしょうか?

逆に、「美貌だけしか」持ち得ていない女性に、その唯一の「才能」である美貌を競う場を与えないということは、「差別」にならないでしょうか。

その他のありとあらゆる「才能・努力・長所」といったものを、たった一つ…、ただそれだけで凌駕してしまう可能性を持つ「美貌」という才能への「嫉妬」…? 
…そう言ってしまうと、「女性の敵」になってしまいそうですが…。

もし「究極の選択」として、
『「美貌」と「それ以外の才能すべて」』
のどちらかを得られるとしたならば、
貴女はどちらを選びますか?


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まず、理解することから

2005-04-04 | 日記 Ⅰ

(本日はちょっと長くなりますが、ぜひ最後まで読んでいただきたい内容です)

先日、「カイパパ」さんという方からトラックバックをいただきました。
拙文を、「新たな門出を迎えた方々への贈る言葉」として紹介していただいた、とのことです。
新しい門出の日に

私のコトバをこのように使っていただき、本当にありがたく感じました。
コトバを発信し続けていてよかった、と思った瞬間でもありました。

実は今まで私自身、何らかの「障害」を持ってらっしゃる方やそのご家族に対して、どのような言葉をかけるべきなのか、とても迷っておりました。

例えば、
「お元気で」「頑張って」「大変ですね」など…。
善意のつもりでかけた言葉が、かえってその方々を傷つけはしまいか、など…。

「カイパパ」さんもおっしゃっていますが、私自身、もし「公式に」発言するとなれば、
「勉強不足ですので、無責任な発言は控えさせていただきます」
ということになるのかもしれません。
そして、せいぜいが「わずかな金銭」、或いは「自分の生活に支障のない程度のお手伝い」などでフォローするに留まり、結果的には、その方々から距離を置いてしまうのではないかと思います。

しかし今回のご縁で、とても気付かされたことがありました。
「理解したいと思ってくれることが嬉しい」…
相手のことを真に理解しようともせず、聞き心地のよいコトバのみで取り繕おうとする小賢(ざか)しい私の心に、冷水を浴びせられたような気がしました。

確かに、「どんなコトバをかければよいか」など、全ての方に共通するものなどないでしょう。
また、たとえ同じ人だとしても、その人が置かれているその時々の状況によって、受け取り方はいくらでも変わってくることと思います。
そしてこれは、単に「対・障害者」ということに限ったことではないでしょう。

以前にも「戯言家宣言」という拙文の中で書きましたが、「コトバ」は確かに、
「時として道標となり、時として慰安をもたらす沃地となり、また時として荊門(けいもん)とも成り得る」
ものだと思います。
更には、「武器」や「薬」にも成り得るものでもあるでしょう。

しかし、「絶対的に万能なもの」ではない…。
「それ以前に」または「それ以上に」、大事な「何か」がある…。
「コトバの持つ力」に気付くと同時に「コトバの無力さ」にも気付かされた…。
そんな感じがします。

「自閉症」という病気について、私自身ずっと誤解をしていました。
だいぶ年齢を経てからたまたま見たTVによって、初めてその病気で苦しんでいる子供さんを見たのですが、字面(じづら)からは「閉じこもってしまう」ように捉えてしまいかねない病気…。
しかし、TVで見たその子供さんは、「とても明るく元気な子」でした。

自閉症は「情報を理解することに対する障害」なのだそうです。
いわゆる「五感」の知覚が正しく機能しないために、「自分の周辺についての情報処理」がうまくできず、不安や恐怖を抱いた状態でいる…。
問題だと映る行動は、それに対してその人が「苦しんでいる」という表現である…。
そして今現在、残念ながら決定的な治療法はない…。
(一夜漬けの拙い知識ではかえって誤解を招くかもしれませんので、より詳細に知りたいという方は、こちらをご覧下さい↓)
自閉症を知ってほしい

だからこそ「コトバ」などではない、周囲の方々の理解や愛情が、まず必要ということなのでしょう。

ところで、「発達障害者支援法」という法律が、2005年4月1日から施行されたそうです。
私は知らなかったのですが、ご存知だったでしょうか?

その「第四条」には、「国民の責務」として、
「国民は、発達障害者の福祉について理解を深めるとともに、社会連帯の理念に基づき、発達障害者が社会経済活動に参加しようとする努力に対し、協力するように努めなければならない。」
と、あります。

同じ4月1日からの、「ペイオフ」や「バイク2人乗り」の解禁、「個人情報保護法の施行」、「国民年金保険料の引上」等には強い関心を示す、私たちやマスコミ…。
(「中日新聞・東京新聞」には取り上げられていたそうです↓)
発達障害者支援法4月1日施行~中日新聞4月1日で報道

この世の事象の全てを知ることは不可能ですが、少なくとも「全てを知り得てはいない」という認識は持っておくべきなのかもしれません。


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4月1日メルマガ掲載分

2005-04-03 | 戯言 Ⅱ

結婚相手になる人は、
なぜか生涯で3番目に好きな人。
(↑これ、既出でしたね…)

結婚生活が存続しているのは、
それを断念させることの煩雑さよりも
それを継続させることの忍耐力の方が
上回っている状態であるということ。

結婚・離婚を繰り返す人というのは、
破綻した原因がいつも相手側にあると思っている人。

「結婚は人生の墓場」だというが、とんでもない!
墓場にはまだ「安らぎ」がある。


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剥がされた芝生

2005-04-02 | 戯言 Ⅰ

陽のあたる芝生。
団地の住人の共有物。
そこは子供らの格好の遊び場。
芝面を手で撫で擦(こす)ると、
芝草や刈り屑がバッタのように跳ね踊る。

ある者はバック転に挑戦。
成功すれば羨望の眼差し。
また、ある者はハンドスプリング。
各々の技を披露し競う。
たとえそこに、
でんぐり返りしかできぬ子があったとしても、
決してバカにされることはなく、
皆それぞれが、思い思いに楽しめる場所となる。

気付くと、端(はた)に男。
染めたような縮れた黒毛の、
黒メガネの、小太りの。

この芝は、いつもオレが手入れしてんだ!
入るな! 遊ぶな! バカヤロウ!
オレはケンカじゃこの辺で1、2くらいと思ってる!

そう言って半袖まくり、腕曲げる。
力瘤、出そうとするも、現れず。
たしかに太い、が、脂肪のみ。
子供はそんなのお見通し。

集合されて、立たされて、
頭小突かれ、皆、逃げる。
しかし子らの心中じゃ、
反省などは生まれずに、
バカオヤジと見下して、
あるのは唯々軽蔑のみ。

後年そこは大人のための、
集会所へと相成(あいな)りし。
子供よりも大切な、
芝生よりも大切な、
大人のための集会所。


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最後までお目通しいただき、ありがとうございます。
あなたに、良いことがいっぱいありますよう…
明日もまた、お会いできたら嬉しく思います。
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ゴッドファーザー

2005-04-01 | 価値観の基(もと)
ゴッドファーザー

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映画を観劇し終わった後の感想には、いろいろなものがあるかと思います。
面白かった、つまらなかった、楽しかった、興奮した、悲しかった、感激した、怖かった、きれいだった、カッコよかった、等々…。

この映画の場合、それらのどれにもあてはまらない、一種の「衝撃」がありました。
何だか「善悪」について、深く考えさせられるような…。

例えば、一般的に考えて明らかに「悪」であると思われる「殺人」についてさえ、その全てが果たして「純粋・完全な悪」と言えるのか…。
(もちろん、私は「殺人」を肯定する気は全くありませんが)
本当に全くの「悪」とは、「善」とは、この世にいったい如何ほどあるというのだろうか…。

この世に潜在する全ての「悪」を、白日の下に晒(さら)し撲滅することが、本当に「善」といえるのだろうか?
全てが「善」のみに満たされさえすれば、この宇宙は「完全」なものとなるのだろうか?

と、いう以前に、天地開闢(てんちかいびゃく)から終末に到るまでの間、完全な「善」のみに支配される瞬間などあり得るのだろうか。
で、あるならば、「善悪」即ち「表裏一体」、「悪」の在るも是れ必定?

…大袈裟ですが、そんなことにまで想いを巡らせてしまうような感覚でした。

以下、余談ですが、私は体型が小柄なほうです。
特に、小・中学生時分は殊更(ことさら)背が低く、そのため「背が低いから女の子にはモテない」という思い込みがずっとありました。

ところがこの映画で、マイケル・コルレオーネを演じるアル・パチーノを見てから、その意識がガラっと変化しました。
髪型まで早速「オールバック」にしたほど影響を受けまして…。

その他にも、外人にしては小柄なほうだと思われる、ハンフリー・ボガートや、ポール・ニューマン、更には、マイケル・J・フォックスなど…。

背の低いことがいいことだとは言いませんが、充分に「対処可能な懸案」だとの認識に至ることができるキッカケになった映画とも言えると思います。


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