伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

夜のヒットスタジオ・初出演データ(11) 前田・芳村時代後期(1972,1-1973,9)

2006-12-16 | 夜のヒットスタジオ/初出演歌手
1972/01/03:0165 シモンズ/ふり向かないで
1972/01/03:0165 本郷直樹/恋のときめき
1972/02/07:0171 古城都/愛があれば
1972/02/14:0172 鹿内孝/本牧メルヘン
1972/03/13:0176 朱里エイコ/北国行きで
1972/03/20:0177 大石悟朗/花のある坂道
1972/03/27:0178 浜村美智子/黄色いシャツ
1972/04/24:0182 牧葉ユミ/回転木馬
1972/05/01:0183 ペドロ&カブリシャス/別れの朝
1972/05/01:0183 李朱郎/あの人はいま札幌
1972/05/08:0184 青い三角定規/太陽がくれた季節
1972/05/22:0186 伊丹幸雄/青い麦
1972/06/19:0190 山本リンダ/どうにもとまらない
1972/06/26:0191 千葉マリア/恋は波まかせ
1972/07/03:0192 上條恒彦/あなたがいれば
1972/07/03:0192 山口いづみ/緑の季節
1972/07/17:0194 原美登利/小麦色の少年
1972/07/24;0195 あがた森魚/赤色エレジー
1972/07/24:0195 岸部シロー(四郎)/ポケナン・ポケタン・ポケット
1972/07/31:0196 チェリッシュ/ひまわりの小径
1972/07/31:0196 三善英史/雨
1972/08/14:0198 森昌子/せんせい
1972/08/21:0199 麻丘めぐみ/芽ばえ
1972/09/04:0201 石橋正次/雪国へおいでよ
1972/09/04:0201 奈良富士子/はだしの女の子
1972/09/25:0204 亜木ジュン子/さよならの街角
1972/10/02:0205 大和田伸也/友よ
1972/10/02:0205 牧村三枝子/少女は大人になりました
1972/10/23:0208 沖雅也/君と二人で
1972/11/13:0211 森田由美恵/潮風の吹く町
1972/11/27:0213 グラスロード/君は今青春
1972/12/04:0214 西城秀樹/チャンスは一度
1972/12/04:0214 つなぎ&みどり(三原綱木/田代みどり)/愛の挽歌
1972/12/25:0217 郷ひろみ/小さな体験
1972/12/25:0217 宮史郎とぴんからトリオ(ぴんから兄弟)/女のみち
1973/01/01:0218 アグネス・チャン/ひなげしの花
1973/01/29:0222 フォー・クローバーズ/冬物語◆
1973/02/12:0224 いずみたく・シンガーズ/ラララ青春
1973/03/05:0227 中川レオ/かもねぎ音頭
1973/03/26:0230 あのねのね/赤とんぼの唄
1973/04/02:0231 愛田健二/裏町酒場
1973/04/16:0233 山下雄三/荒野の果てに
1973/04/30:0235 あおい健(現・田中健)/君こそ奇跡
1973/05/07:0236 栗田ひろみ/初恋の散歩道
1973/05/14:0237 叶友子/初体験
1973/05/28:0239 桜田淳子/天使の初恋
1973/06/04:0240 アン・ルイス/わかりません
1973/06/04:0240 あべ静江/コーヒーショップで
1973/06/11:0241 方恰珍(ファン・イーツン/我愛你(ウォー・アイ・ニー)
1973/07/23:0247 ZOO/愛のピエロ 
1973/07/30:0248 山口百恵/としごろ
1973/08/06:0249 浅田美代子/ひとりっ子 甘えっ子
1973/08/06:0249 山本博秋/枯葉の少女
1973/08/13:0250 殿さまキングス/北の宿
1973/08/20:0251 里美ゆり/秋のささやき
1973/08/27:0252 小川みき/燃える渚
1973/09/10:0254 キャンディーズ/あなたに夢中
1973/09/17:0255 藍美代子/ミカンの実る頃

◆時期不詳(情報お願いします)
入江魔子、

◆原美登利、千葉マリヤ、亜木ジュン子、あおい健、山下雄三、あのねのね、フォー・クローバーズについては当時のシングル発売時期などを勘案して初登場回を推定の上、上記リストに列記しています。間違い等ございましたらご一報下さい。
 

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7 コメント

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72年7月24日初出演「岸部シロー」 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-29 21:32:34
72年の7月24日にソロ初出演している岸部シローの曲目が不詳となっておりますが、
この年の6月に彼にとって唯一のソロ・シングル「ポケナン・ポケタン・ポケット」を発売しております。
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どうもこのときは・・・ (resistnce-k)
2008-04-29 23:32:17
86年4月に短期間ですがユニットを結成して一緒に音楽活動をしていたブレッド&バターが「REMEMBER MY LOVE」で初登場をした際、当時の司会であった古舘伊知郎から冒頭で「初登場ですが、厳密には2度目の出演・・・」といった発言があり、また彼らの出番のところでご対面ゲストとして岸部シローが登場して、「実際にはシローさんとのユニットで既に1度出たことがある」といったニュアンスの話が出てきたんですよね・・・。
恐らく、厳密には岸部シロー単独という形ではなく、「シローとアルファベッツ」というグループで出たのかな・・・という感じなんですが、どうなんでしょうかね・・・。

でも、名義上としては岸部シロー単独名義で、しかもブレバタと違うフォークグループなどが演奏を担当した形でその「ポケナン・ポケタン・ポケット」という曲の製作が行われたとしても、このとき限定で応援ゲストとしてブレバタが演奏のために登場して、この曲を披露したという場合も十分考えられますからね・・・。これでも十分「ユニットとして既に1度出たことある」とか「実は2度目」といった趣旨の上記発言とは矛盾しないですし・・・。

それに新曲を直前の72年6月に発売しておきながら、「シローとブレッド&バター」として前年(71年)に出したシングル曲「野生の馬」「バタフライ」のほうをユニットのメンバーが勢ぞろいしたからといって優先するかというと、それもまた疑問がありますからね・・・。

そんなこんなで、ご指摘のコメを読んでいてその辺のところとの兼ね合いを色々考えたのですが(汗)、彼の初出演曲は「ポケナン・ポケタン・ポケット」ということで一応訂正させていただきます。曲目リストのほうにもどうしてもこの曲の情報がなかなか検索してもでてこなかったことと、「ブレバタとのユニットで出た」という情報を重視して「バタフライ」(71年11月発売のシングル曲)ということにしてあるんですが、それも訂正いたします。

こういった、ネット検索しても書籍を当ってもなかなか情報の乏しい部分のご指摘というのは本当に助かりますし、「不完全」がより「完全」に近づくという意味でも有意義な指摘でもあります。

これがリアルタイムでこの時代の歌を聴いていた方と、その後の時代に生まれ、「なつメロ」という認識でこの時代の歌を聴いていた人間との大きな「差」だという感じがします。色々と「昭和の名盤!アナログ日記」ブログの管理人さんから頂きます情報・エピソードは、リアルタイムではこの時代の歌を聞いていない、そしてこの時代のこの番組をみていない世代の私には驚きと発見の連続でして、ここ1ヶ月ぐらい頻繁にコメを頂くようになってからは、実のところ、そちらからのコメが来ていないかどうか、期待感を以てこのブログの新着コメント一覧のところをまずは確認する、というのがパターン化しつつあるんですよね・・・。

ぜひとも、特に70年代前半までの歌謡曲・番組のことに関連した話題、分かる範囲でこれからもコメントしてくださいね。よろしくお願いします。
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岸部シローについて (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-30 02:12:09
岸部シローについて、少し詳しく書かせていただきます。
タイガースを解散後、タレント業と並行して「ブレッド&バター」を従えて音楽活動も行いましたが、1971年が終わった時点で既にシローは彼らとの活動を完全に終えています。
ところが72年の3月に発表されたアルバム「ムーンライト」が発売された時、クレジットが「シロー、ブレッド&バター」になっていたので、当時ワタクシは驚きましたが購入してみるとシローは殆ど参加しておらず、名義貸しに近い状態のアルバムでありました。
ワタクシのGS関連の研究と記憶では72年の7月の時点では一切「シロー、ブレッド&バター」名義での活動及びTVラジオ出演等はありません。厳密に言うと71年の末あたりからグループとしての活動は行っておりません。
またこの時期72年7月に前年の71年8月にリリースした最後のシングル「バタフライ」を1年ぶりに唄うということは考えにくいことであると思われます。

それから「アルファベッツ」というグループは岸部シローではなく、元タイガースの森本太郎のバンドであります。1972年の7月には既に解散しており存在しておりません。

シングル「ポケナン・ポケタン・ポケット」はフォーク・グループなどが製作に係わることは無く、完全なるシロー単独による吹込みで、バックはポリドールのオーケストラによる演奏であります。

岸部シローとブレッド&バターの岩沢兄弟が、この時「夜ヒット」で共演しているのなら、ゲストでの応援という形か、ゲストとしてバックで演奏だけに参加したと思われます。
何故ならば、先にも書きましたが、この7月の時点では「シローとブレッド&バター」というユニットは完全に消滅しており、彼らは独自での活動しかしておりませんでした。(1972年の初頭には完全分裂)
1972年にはいってからのシローは、フォーク・グループの一員でもある岸部シローではなく、「タレント・岸部シロー」としてアピールすることに努めておりました。

ワタクシは記憶にありませんが、彼らが2度目の共演であるというのは、もしかしたら1971年に「シロー、ブレッド&バター」として「夜ヒット」に出演していたという可能性はないのでしょうかねぇ・・ナベプロ所属でもありますし。
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Unknown (resistnce-k)
2008-04-30 03:29:11
「アルファベッツ」は森本太郎のほうですね。これも誤りがありまして・・・・大変申しわけございません(汗)。

>>彼らが2度目の共演であるというのは、もしかしたら1971年に「シロー、ブレッド&バター」として「夜ヒット」に出演していたという可能性はないのでしょうかねぇ・・ナベプロ所属でもありますし。

その可能性もなくはないですね、確かに。まだタイガースが解散する以前の段階で、脱退して間もなかった加橋かつみもソロでヒットスタジオに出演しているようですが(恐らく70年2月頃ではないかと思います)、この時も、ラテ欄の出演者の中には彼の名前は出てこなかったんで、岸部の場合もそういう扱いの中で、ブレバタとのユニットで出た可能性はありますよね。
でも、他方でタローとアルファベッツに関してはラテ欄での表記が数度あったのが確認されていますからねぇ・・・。
この差は一体なんだったんでしょうかね?単純にその回の出演者の数が多くて全てを書ききれず、ユニット名が長いからということで削除されたのか・・・、真相は分からないですけど。

確か某サイトでは「Moonlight」で岸部が参加した作品は5作か4作程度しかなかったという話しを聞いていますし、そのうちの2作はシングルで出した「野性の馬」「バタフライ」だったので、アルバム単独での楽曲での参加は2~3作程度、従って事実上は「ブレバタ」単独のLPに岸部が友情出演したにすぎないと表現したほうが正しいのでしょう。

元々岸部はそれほどタイガースの活動(というよりも音楽活動自体)に対して真剣に取り組む考えはなかったという話をご本人が近年されておられるようですから(そもそも彼は楽器というものは何一つ演奏できなかったにも関わらず、どうしても欠員を埋めてほしいということで兄の一徳に色々と好条件を取り付けた上でしぶしぶグループに入ったという話らしいですからねぇ(汗))、音楽活動も自分の意に反していた、といいますか、他のメンバーもやってるから、惰性で真似してみるか、という程度の気持ちで始めたのかもしれません。それゆえ、長く音楽活動を続けていくことも最初から彼の考えにはなかったのでしょうから、「半年」という活動期間も自然消滅というよりかは当初からの予定調和で決められた期間といったほうが正確なのかも・・・と感じなくもないですがね(また事実誤認があったごめんなさい・・・)。

しかしながら、「ブレット&バター」となぜにユニットを組みことになったのか、その経緯もあまり私は分からないんですよね・・・。
思いつきで言えば、岸部シローとブレバタ、両者の接点が見出しにくいところではありますので・・・。その辺の話しは直接的にはヒットスタジオの本題とかかわりのない話ではありますが、そういった当時の歌謡界の裏事情・エピソードを知りたい私としては大歓迎ですので(笑)、是非教えてくださいませ。
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岸部シローとブレッド&バターの接点。 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-05-04 22:38:48
岸部シローがタイガース在籍当時からブレバタと親交があったというだけです。
タイガース後期はジュリーのソロ活動の為、メンバー各自もそれぞれ単独で活動を余儀なくされていた状況でした。
またメンバー個人の交友関係も時間の余裕と大人としての自覚から、それぞれ自由に行動していたため独自の友人関係を作っていたようです。
その為かタイガースのライヴでもブレバタは、シローのソロ・コーナーでは友情出演としてゲストに呼ばれて一緒に1,2曲を3人でセッションする形を70年以降はとっておりました。
解散後も気心の知れた者同士、この形態をそのまま続けたというだけのことです。
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安井かずみとジュリーの接点もこの頃からでは? (resistnce-k)
2008-05-05 15:38:20
話を聞いていて思ったのですが、多分、後にジュリーソロ作品の多くを作詞することとなる安井かずみさんとの付き合いが深くなったのもタイガースの後期あたりからなんだろうな・・・と思いますね。

安井かずみさんは当時、作家の川口松太郎氏が作った高級アパート、通称「川口アパート」に住居を構え、加賀まりこやかまやつひろしなども彼女の自宅を頻繁に出入していたそうです。当時の先端を行くクリエーターたちの拠点のように機能しており、その人たちが自由に行動をしている様は、かまやつに連れられてたまたまこの自宅に行った若き日の吉田拓郎も驚嘆したといいます。

沢田研二の後の「時代の先を読む目」の確かさを鍛えられたのも多分安井さんの鋭い感性との出会いが大いに影響していたと思いますね。「危険なふたり」とかは作曲の加瀬邦彦も含め、感性の合い、付き合いの深いクリエーターと歌い手により作られた作品だけあって、今聞いていても、等身大の当時のジュリーの魅力を全面に引き出している、という感があり、全く「無理をしている」という感がないんですよね。この頃と、阿久・大野コンビの作品を歌っていた時代がいちばんジュリーが音楽活動を自由気侭にできた時代だったんじゃないでしょうかね。
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ZuZuこと「安井かずみ」とJulieこと「沢田研二」 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-05-06 23:07:23
2人の接点のキッカケとして有名な話では、一流の作家や文化人、流行の最先端をいくモデルやタレント、芸能人の交流の場として当時人気を誇っていたレストラン「キャンティ」が有名です。多くのGSスターも通っていました。
タイガース全盛時代の68年頃からメンバーたちは入り浸っており(特にトッポやピー)そこには多くの俳優や歌手たちで連日満席の状態であり、やはりそこに「安井かずみ」も頻繁に出入りしていたようです。タイガースのメンバーたちも憧れの目で彼女を見ていたようで、かまやつひろしや加瀬邦彦、亡くなったレーサーの福沢幸雄などの紹介で親交を深めていきました。68年の7月には安井に大ヒットした「シーシーシー」の作詞が依頼されました。作曲はワンズの加瀬邦彦。
ジュリーがソロになってからの多くの作品を手掛けてきた安井×加瀬コンビでしたが、ワタクシはこの二人によるソロ初期のロック歌謡とでもいうのか、明るく楽しい和製ポップスの曲が一番のお気に入りであります。
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