伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

夜ヒット名シーン/中森明菜「難破船」・・・「人間・中森明菜」として流した一滴の涙 

2007-02-01 | 夜のヒットスタジオ/名シーン
今回の「夜ヒット名シーン」シリーズは、中森明菜の「難破船」を取り上げます。

この「難破船」は夜ヒットでは5回歌われていますが、今回取り上げるのは最後にこの曲を披露した1988年1月6日放送の時のシーンです。

中森明菜は「スローモーション」「セカンド・ラブ」「トワイライト(夕暮れ便り)」とデビュー当初の頃よりバラード調の曲を歌うかと思えば、「少女A」「1/2の神話」とアップテンポな歌も発表したり、と果敢にデビュー初期の頃から歌の幅を広げ続け、明らかに他の同期のアイドルとは一線を画した世界観を築いていました。特に1985年に「ミ・アモーレ」、そして1986年には「DESIRE」で日本レコード大賞2連覇という偉業を成し遂げてからは、アイドル路線を完全に脱皮し、「アーティスト・中森明菜」として「BLONDE」や「ジプシー・クイーン」「SOLITUDE」など大人びた女性像を描いた歌を発表し、若年層の男性ファンだけでなく、女性ファン、そして年配層にもファン層を拡大していき、自他共に認める「1980年代の邦楽界を代表する女性歌手」へと成長してゆきました。

このような飽くなき新領域への挑戦を続けていた中森明菜さんが87年秋に発表した新曲がこの「難破船」。彼女の歌、そしてパフォーマンスを絶賛していた加藤登紀子が是非とも、ということで中森明菜に提供したというこの歌は、「悲壮感」「壮大なスケール」が全面に打ち出された楽曲。単に歌が上手いというだけでは「料理」しきれないこの歌の世界観を、中森明菜はあえて感情を移入して歌うすることで表現してゆきました。

当時の中森明菜の曲にはまず「はずれ」などはあるはずもなく、この曲も瞬く間に大ヒットとなり、幾度となくこの歌を各局の歌番組で披露したわけですが、この1988年1月6日放送の夜ヒットでの「難破船」はそれら他の番組での「難破船」とは明らかに違う雰囲気がありました。

この回には、当時彼女と交際中だった近藤真彦、そしてこの歌の作者・加藤登紀子もゲスト歌手の一人として出演しており、この2人が見守る中で、着物姿でこの歌を披露しました。

常にカメラアングルとは違うところに視線を置きながら、語りがけるような感じで歌う、というのがこの曲における中森明菜の歌唱スタイルで、感情移入の度が強いせいか、間奏部などの部分になると、マイクを持つ手が震えていたのも印象深いところですが、この時の夜ヒットでの「難破船」は、この歌の「生みの親」と、自分の「恋人」が見守っているという特別なシチュエーションだったこともあって、より一層感情の起伏が大きかったように思います。

それを象徴しているのが、この歌を歌い終わるあたりで流した一滴の涙。このときの夜ヒットでの涙が一体何を意味していたのか。当時マスコミでも、また彼女のファンの間でもこの点についてちょっとした論議を呼びました。

後年フルコーラスでこのときのシーンを見返したときに感じたのは、「人間・中森明菜」としてこの「難破船」という歌を歌っていた、ということです。この翌年、彼女は自殺未遂騒動を起こし、近藤真彦とも破局を迎えてしまうわけですが、その後におきた「悲劇的」ともいえる事実と重ね合わせてこのシーンを見ると、かなり感慨深いものがあります。云うなれば、この時の「難破船」の歌唱シーンは、中森明菜が人気歌手としての鎧を脱ぎ去り、一人の女性としての今の心情を歌を通じている吐露している、一種の「人間ドキュメント」だったんじゃないのか、という気さえします。

そもそも、歌以外の、例えば歌番組で自分の出番が来るまでの間の仕草や、トークの部分でも至って業務的な話や素振りで終始してしまう女性アイドルが多い中で、彼女だけは自然体で臨んでいた、という印象が強いです。久米宏、芳村真理がそれぞれベストテン、夜ヒットの司会を離れたときも人目を憚らず泣き出してしまったり、「ミック・ジャガーに微笑みを」を夜ヒットで歌った際、歌詞を間違えてしまったことを悔しがり、歌い終わった後、エンディングまで楽屋に閉じこもってしまった、というエピソードからも中森明菜という人は実際にはいかに「人間味」のある人柄なのか、ということが分かるような気がします。それゆえ、この「難破船」の「涙唱」も人間臭さのある彼女だからこそ生まれた名シーンだったと言っても過言ではないと思います。

自殺未遂騒動以後、歌手活動についてはややトーンダウンしてしまった感が否めない中森明菜ですが、今でもこれほどまでにいい意味での「人間臭さ」と、それとは対極にあるはずの「歌を演じきる」という姿勢が巧く調和した女性歌手は彼女以外にはいないんじゃないのかなあ・・・という確信を持っています。
歌を単に演じるだけでなく、自己の今の境遇や、感情と照らし合わせながらそれぞれの歌が持つ世界観を表現してゆく。そこに彼女の歌手としての、唯一無二ともいえる個性があります。

数年前、紅白歌合戦に彼女が久々に出場し、「飾りじゃないのよ涙は」をアレンジを替えて歌ったシーンを見たとき、別に涙が流しながら聞くような歌ではないはずのこの歌で人の歌でめったに泣いたこともない私も、また一緒に見ていた家族もちょっと涙しました。その理由は未だに自分自身でも分かりませんが、恐らく彼女の歌の中にある「人間味」とか「強い想い」のようなものがといったものが半端なものではなかったからなのかなあ・・・と思ったりします。

バッシングを受け続けたという「苦労」、それらを跳ね除けたという「自信」、ベテランのアーティストとしての「貫禄」と「円熟味」。また、大人の女性としての「妖艶さ」も当然にあったり、と今の中森明菜の歌やステージングにも一筋縄ではいかない魅力があります。豊かな世界観を表現できる稀有な歌い手として是非とも彼女にはもう一花咲かせてほしいと思います。
(※動画リンクは下の番組ロゴ画像に貼ってあります。)


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6 コメント

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新事実! (ムスカ)
2007-02-02 21:56:25
お久しぶりです。最近思うのは、夜ヒットは本当に名シーンの多い番組だったということですね。明菜さんは田原と並ぶDELUXEの顔でもありましたからねえ。自殺未遂の事件についてはいまだにさまざまなうわさが飛び交っており、どれが本当なのかまったくわかりません。でも、彼女が今日もがんばって活動していることがほほえましいです。以前やっていた夜ヒットのページですが、多忙につき自然消滅してしまいました。ごめんなさい。というわけで、ただいま休止中です。
で、最近新しくわかったことがあります。
画箱で夜ヒットのスレを立てましたが、こんな意見が寄せられました。


渡邊光行がプロデューサーとなるとほぼ同時に構成担当も塚田茂(どんどんクジラ)が
一線を織り、古舘伊知郎に近い人物である若手の木崎徹が中心的なブレーンとなった。
その際に渡邊・木崎はまず「夜ヒットの様式美を壊してしまおう」という前提で製作・構成を
行っていたらしい(木崎のWEB上でのインタビュー記事で本人がそう証言している)。
それゆえに演歌も網羅するというスタンスを否定して、演歌排除・R&N路線中心の「スーパーDX」という企画も生まれた。
ただ、こういうスタンスで製作が行われていたためにあまりにも過度に夜ヒットにあった独特の様式美が破壊されていってしまったのも事実。
特に最後まで残っていた芳村真理が1988年に勇退してからは、若手スタッフへしっかりと苦言を呈することが出来る大物が誰一人番組内部から
いなくなったせいかその酷さが露わになっていったな。
生演奏・生歌・フルコーラスという大原則もこのスタンスのおかげで見事につぶされてしまった。
89年頃になると、随時総集編企画だの、細切れのメドレー企画だのをマンスリーでもない歌手にまで組んだりして何とかお茶を濁すこともしばしばあった。
司会者にも後に加賀まりこを起用した、というのもこの「様式美の破壊」というスタンスによるところが大。
加賀まりこの「魅力」(?)でもある「毒舌」で一気に夜ヒットの確立された番組カラーをぶっ壊して、一から新たな番組カラーを造ろう、という・・・・。
結局これも裏目に出てしまった。
20年近く、塚田・疋田・芳村体制で築かれた「牙城」をぶっ壊そうという時点で「無謀」な挑戦としか言いようがないな。
この番組の場合は特に「様式美」にこだわりをもっていたからこそ長寿番組となったという部分もかなりあるような気がするしな・・・。
塚田の総指揮の下に疋田の「厳しさ」、芳村の「優しさ」があってこそのあの独特の雰囲気だったような希ガス。
その辺をどうも後から入ってきた新参者たちは分かってなかったようだ。


とありました。そこで私は、その木崎さんのページを調べてみました。
http://www.musicman-net.com/relay/60/a_4.html
こちらのページです。見たことがありますか?
見たことがあったらごめんなさい。

要約すると
「87年に渡辺Pに変わり、構成作家として番組に参加。当時視聴率が落ちていたため1クールか2クールで終わらせる予定だったが、番組を終わらせるためにめちゃくちゃやった。」
とありますが、87年に番組打ち切りの話などあったのでしょうか?この木崎という人が、責任逃れで書いていると思えてしまいます。当時の視聴率はわからないけど、平均15%といううわさは聞きますが。

まあとにかく、当時のスタッフが、このような考えを持っていたことが残念でした。番組が続かなかったことに対して、開き直ってるだけならいいですけど。やはり番組は視聴者の期待に答え、終わるときはきれいな形で終わるのがいちばんだと私は考えますが、加賀まりこを呼んで、ゲストや視聴者に不快な思いをさせてまで、番組を壊そうという考えを持っていたならば残念です。言い過ぎかもしれませんが、悪く言えばスタッフが番組の私物化だと思います。

ただ、久保田やTMなどのニューミュージック系アーチストを多く呼び、スーパーDELUXEをやったことに対しては良かったと思っています。問題はそのあと、柴起用後に番組が違う方向へどんどん変わっていったことにあると思います。楠田枝里子などの女性司会者を起用し、番組の路線をそのまま維持していき、それでもダメなら打ち切りという考え方は当時のスタッフにはなかったのでしょうか。

長々とすいません。
更新のほうがんばってください。では。
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長寿番組の魅力・品格とは・・・? (resistance-k)
2007-02-02 22:45:15
本当にお久しぶりです。

上記のアドレスにある木崎徹氏のインタビュー記事は私も以前読んだことがありますが、1987年頃に夜ヒットが打ち切りとなるという噂があったことは全く記憶にありません。普通、夜ヒットクラスの大番組の打ち切りとなれば、局が表沙汰にしなくとも、芸能誌やスポーツ新聞のどこかがスクープとしてすっぱ抜いていてもおかしくはないんですが、当時のスポーツ紙にも芸能誌にも1度としてそんな打ち切りという話は出てきていなかったと記憶しています(但し、芳村真理降板の件に関しては、日刊スポーツが、バーニングプロ関係者から漏れた話としてスクープ記事として掲載し、急遽降板を公式に表明することになった、ということはありました。これも出来る限り、製作者サイドはギリギリまでは内密にしておきたかったようですが・・・)。

当時の夜ヒットの平均視聴率は15~20%の間だったそうです(当時のオリコンの視聴率ランキングのところでもそのぐらいの視聴率、トップテンやベストテンも同じぐらいの視聴率でした)。問題とするほどに低視聴率だったというわけでもないのですが・・・。というよりも今のゴールデンのバラエティ・歌番組に比べればこれでも十分に「優良ソフト」といえる数字なんじゃないかな・・・という気がします(今の歌番組で15%以上取れる番組って、それこそ演歌系のみのNHK歌謡コンサートぐらいしかいないような。Mステも10%程度しか視聴率がないですからねえ)。

木崎氏や渡邊氏の発想は、長寿化に伴うマンネリ打開という意味では別に何ら不自然な発想ではないと思います。何らかのカンフル剤的要素は長寿番組には必要なわけで・・・。ただ、それが度をすぎてしまうと、却って視聴者や芸能関係者からはそっぽを向かれてしまうことも当然にあるわけで、夜ヒットにおける「様式美の破壊」は結果的に「度がすぎた破壊」であったといわざるを得ないでしょう。

生歌・生演奏・フルコーラスの原則に反して、安易に過去VTRや、メドレー企画に依存しがちになったり、司会者にそれまでの番組カラーとはまるで違う人物を起用してしまって破壊をもはや原型を止めぬまでに進めてしまおうという・・・、これは「度がすぎている」としか言いようがないでしょうね。

私自身、夜のヒットスタジオという番組がなんで20年以上続く長寿番組となったか、その最大の要素は、番組特有の様式美を守り続けてきたからじゃないかな、という風に理解しています。「紅白歌合戦」を始め、主要なテレビ史に残る名番組の大半に関わった大御所放送作家・塚田茂を軸として、「裏」では名物プロデューサー・疋田拓の厳しさがあり、「表」では夜ヒットの「女帝」・芳村真理の優しさがあり、その半ば相反する要素が表裏一体となっていたところにあの夜ヒットの、他の番組とは明らかに違う、「カジュアルなのにどこか品格が漂う」という独特の雰囲気が築かれていたと思いますし、夜ヒットを毎週欠かさずに見ていたフリークの人々もその部分を気に入ってのだろうと思います。

木崎氏、渡邊氏、また彼らがスタッフ陣に加わる契機を造ったとされる古舘伊知郎も、彼らなりに新しい「夜のヒットスタジオ」を何とか根付かせようと頑張っていたことは認める(古舘が芳村真理の勇退記念公式本の中で、「真理さんがいなくなった後の夜ヒットに関しては、あえて「青写真」を作らずに司会をやろうと思う」といったような発言をしていたことからもそのような意識が現実としてあったのは推測できます)のですが、要には、どの程度までそれまでの偉大な前任者たちが築いてきた雰囲気・品格を残していくか、その頃合が分からなかった、故に番組の雰囲気が徐々に荒廃していってしまった、と解釈する他ないのかもしれません・・・。

軸に流れるものはたとえ関わる人間が変わっていこうとも一種の伝統として守り続け、それをベースとして新しい刺激を注入していく、そこに「長寿番組」としての良い魅力そして品格が生まれる、と夜ヒットの何とも寂しい終末に思いを馳せるにつけ感じます。

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Unknown (ベストテンマニア:K)
2007-02-03 22:51:25
1988年1月6日放送のこの回、生で見てました。
着物姿での「難破船」が未だに脳裏に焼きついてます。

この「難破船」は、明菜さんの曲の中でも名曲中の名曲だと思います。
特にこの頃は、カリスマ性も増して、女王と呼ばれてました。

自分もデビュー時代からの明菜ファンで、最近もコンサートに行ってます。
往年のヒット曲も良いですが、最近のマニアックなアルバム曲も魅力あります。

あえてヒット曲を狙ってないのかな?と思うようなマニア向けなシングルを出したり、アーチスト色が相変わらず強いシンガーだと思います。

数年前の紅白での「飾りじゃないのよ涙は」も印象強いですね。
抑えた歌唱でしたが、それが良かったです。

彼女には、他のシンガーに無い魅力があります。
とにかく昔から、テレビで歌ってるときも惹きつけられます。
深いと言うか、ドラマチックと言うか、一言では言い尽くせられませんね。
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中森明菜と松田聖子 (goo)
2007-02-04 12:02:04
中森明菜が話題に出てくると私の脳裏には松田聖子の顔が浮かんできます。他の方も中森明菜と松田聖子の二人は比較されると思いますがこの二人はアルバムとシングル曲とかでときおり同じ作家を起用している事(尾崎亜美、玉置浩二、財津和夫、来生たかお、林哲司、南佳孝、細野晴臣など)があるのですが同じ作家でもこれほど違ってしまうのか?というくらいに二人に対しての捉え方が異なるので二人の個性の違いが正反対なのを物語っていますね。

中森明菜がアルバムで松田聖子の「瑠璃色の地球」を収録した時は特にその違いに驚かされました。メッセージ色の強い曲ですが中森明菜バージョンはメッセージとともに何か過去を感じさせられたし、逆に松田聖子は未来に向けての事をより感じました。管理人さまよろしければぜひ二人の対比も特集して下さい。
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松田聖子VS中森明菜は「80年代アイドル系譜の縮図」と言っても過言でなし。 (resistance-k)
2007-02-04 13:02:10
やはり中森明菜とくれば、松田聖子もその対極として常に名前が出てくるんですよねえ・・・。

80年代は女性アイドル全盛の時代。その中でもこの聖子・明菜は別格中の別格(小泉今日子は歌手としてはやはりこの2人よりも格は下でしたね)でした。

とにかく、1980年代に出したこの2人の全シングルA面曲はおろか、B面・アルバムの曲の中でも、「硝子のプリズム」や「蒼いフォトグラフ」「黄昏はオレンジライム」(松田聖子)、「マリオネット」「OH NO,OH YES!」「約束」(中森明菜)などといったファンの中では伝説ともいわれる佳作も数多く知られている、
というのがなんとも凄い。それだけこの2人には他のアイドル歌手にはない魅力もあり、またパワーもあり、ゆえに何がバッシングがあろうとも現在まで生き残ってきた証とも解釈できるかもしれません。

私も小さい頃から明菜VS聖子という構図でこの2人を解釈するのが当然だと思っていました。「ドラマチックさ」を追及する中森明菜、対して徹底して「ポップさ」を追及する松田聖子。この2人の徹底的に被ることのないカラーの違いも面白いですよね。

明菜VS聖子は、やはり80年代夜ヒットの話題の中枢でもあるので、是非とも全出演回リストとの対比などの形で取り上げてみたいと思っています。彼女らの曲変遷だけでも「80年代アイドル系譜の縮図」のような雰囲気すらありますしね。
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明菜派=芳村真理・聖子派=黒柳徹子、でしたよね。 (resistance-k)
2007-02-04 13:18:40
あと、聖子VS明菜という構図で今思い出したんですが、当時の歌番組司会者がどちらを翻意にしていたか?というのもなかなかファンの間では関心事になっていましたよね。

松田聖子についてはどちらかというと黒柳徹子が翻意にしていた感じですが、明菜さんについては久米宏、そして芳村真理が相当翻意にしていましたというのは語り草になりつつありますね。
久米宏がベストテンを卒業したときに突然エンディングが近づれて明菜が号泣してしまったシーンはまだ自分が4歳頃のエピソードのに未だに記憶に鮮明に残ってますし、芳村真理の夜ヒット卒業のときなんかも、エンディングの最後の最後まで、一緒に居残って泣きまくっていた、という写真も確か「TVガイド」のスチールなんかで見たことがあります。
当時の女性歌手にとり、ファッション界でも重鎮である芳村真理から夜ヒットでも彼女から衣装を誉められることは一種の「名誉」でもあったわけですが、その中でも明菜は芳村に衣装のセンスやコーディネイト能力を相当高く評価されていた一人。とにかくステージ・歌の雰囲気を基調として、自ら衣装コーディネイトをやっていてどれも外れが無かった、というのも明菜のアーティストとしての才能の高さを感じさせるところでもあり、芳村にせよ、久米にせよ、別の事柄(ファッションとかそういった部分)を通じて実は彼女のその高い才能に「惚れた」のかもしれないですね。
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