物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190518-19 京都 鳥羽殿 六波羅

2019-06-04 | 行った所

5月18日土曜、昼食後、京都へ向かう。連れが六波羅で平家の屋敷跡が発掘されて、日曜午前中説明会が行われるという新聞記事を見つけ、行きたいと言い出したからだ。1泊し、ついでに鳥羽殿とか宇治川の戦いの場所でも見てくるか、ということでした。

京都市街地へ入るには京都西インターからが近いが、ナビには鳥羽離宮跡公園を目的地とし、南インターで降りる。
たぶん近鉄線で上鳥羽だか下鳥羽だかの駅があったように思うのだが、どこだか判然としないがその辺だろう。
この公園は運動場だ。子供たちが野球をしている。だが、案内板や碑もある。ここは南殿址、ほかの遺構は大半高速道路の下だろう。 


桂川鴨川の合流地点、白川上皇は景勝の地の別荘のつもりだったのだろうが、後白河が清盛に押し込められたのが鳥羽殿だというし、ここはまた明治維新前夜の鳥羽伏見の戦いの場所でもある。
石碑の図は見づらいが、幕府軍は大阪から淀川沿いにさかのぼり、桂川宇治川の二手に分かれて攻め寄せる。薩長方は京都から南下して迎え撃つ。



伏見へ向かう。伏見稲荷と伏見の町とはここからは方角が違うことを知った。以前、伏見で港があり宇治川の水運を示した場所を見たことがある。
そこへ行きたかったのだ。その時、黄桜の資料館にも一緒に行った覚えがあったので、取敢えずそこを目指す。
寺田屋があり、酒蔵が並び、水路が巡る伏見だ。屋形船、乗ってみたいな。 

 


ところが依然行ったはずの宇治川河川敷への出方が分からない。伏見港公園とあったので、ここだろうと言ってみたが、ここは運動場だし、雰囲気がまるで違う。
諦めて桃山城に上って戻る。
ホテルは京都市八条口。八条口でバル風の居酒屋とうどん屋へ行って夕食。
と、ここまではよかったのだが、ホテルに戻ると、猛烈に眠い。這う這うシャワーは浴びたものの髪を乾かす気力もなくベッドに倒れこむ。
すぐ眠れるかと思いきや、それからひどく気分が悪くなってきた。胃の中のものが逆流してくる。激しい吐き気に襲われる。一晩中眠れず、朝が来た時には消耗しきっていた。何だったんだろう?下痢はしていないので、食べ物であったったのではない。症状からすると飲みすぎの二日酔いが近いというか、たぶんそれなのだが、こんな目に合うほどは飲んではいない。さんざんであった。

ともかく、六波羅付近に出かける。東山五条を少し北西に入ったところのはずだ。実際には五条通に面した処に囲いがあり、現場はその中だった。
発掘現場の説明会なんて、よほどのことがない限り、数十人くればいいところだろうと思っていたらとんでもない、200人近く集まっていた。足場の悪い現場にこの人数だ。体力負けして資料だけもらって車で休む。 


せっかくここまで来たのだからと、六波羅蜜寺へ行く。清盛や空也もいいが、ここのお地蔵さんがイケメンで好きなのだ。連れと一度は一緒に来たことがあるはずだが、まるで覚えていないという。



再び南下し、宇治橋へ。要は平等院だ。大型連休の後だが、さすが日曜の観光地、結構な人出、修学旅行生もいる。平等院には入らず、宇治川沿いを散策。抹茶ソフトは胃に収まった。宇治橋を渡るが風が強い。
1180年(治承4年)以仁王のは園城寺に拠ったが、平家に追われ興福寺を目指す。ろくに寝ていない彼は(たぶん乗馬にも慣れてはいない)何度も落馬しつつ平等院までやってきた。源三位頼政は宇治橋の橋板を外し、ここで平氏を食い止め、以仁王を奈良に落とそうとする。橋桁を伝い、アクロバット的に戦う園城寺の荒法師、悪僧たちの繰り広げる橋合戦。平家は利根川をこうして渡ったという関東武士の馬筏で宇治川を押しわたる。
結局以仁王は殺され、頼政も死ぬ。頼政の墓は平等院にあったはずだ。
更に1184(年寿永3年)木曽義仲と頼朝に派遣された義経達が対峙する。頼朝から名馬スルスミ・イケズキをもらった佐々木高綱と梶原景季が先陣を争って宇治川に入る。


と回ってきたが、今回後半私は体調が悪すぎました


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