物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

五郎兵衛用水

2022-01-12 | 行った所

市川五郎兵衛真親というのはどういう人だったのか、いったいどうやって徳川家康から朱印状をもらう伝手を手に入れたのだろう。上野国甘楽郡の出身、信州や上州の武士団の多くがそうであったように、上杉、北条、武田と主を変え生き残る。武田滅亡後、信濃に移住し帰農する。文禄2年(1593年)徳川家康から分国内の山金、川金、芝間開発免許の朱印状を得る。というのがよくわからない。一介の武田浪人ではなかったのか?五郎兵衛記念館の説明はちときれいごとすぎる気がしてしまうのだけど。

初めはこの地にこんな大規模な用水を開く理由がわからなかった。すぐそこに川が流れているのだ、それも千曲川という大河が。恥ずかしながら説明されないとわからなかった。台地なのだ、千曲川は台地の下をめぐって流れ、水を引けないのだ。だから延々と山裾の方から引いてくる。

 

五郎兵衛用水は蓼科の山裾から延々20キロ、世界かんがい施設遺産登録の17世紀前半の遺跡であり、現在も機能している農業用水である。距離も長いが隧道もあり、工事・メインテナンス共に大変なものだった。とはいえ、地理地形に疎くかつ工法にも疎いとあっては、大変だったでしょうね、としか言いようもない。

目を引いたのは「人足札」だった。

 用水路の普請に出ると給金代わりに渡される。年末に金銭に引き換えられる。農村だから現金を手にできるのは一年に一度、その間をこの札でもって経済を回す。ということはこれは地域通貨ではないのか。
ミヒャエル・エンデで地域通貨を知ったが、提唱者とされるシルビオ・ゲゼルは19世紀から20世紀の人だ。信州の山の中、17世紀から江戸時代を通じて使われた人足札、信じられない思いであった。藩札などとは全く違うもののようだ。だが、収入を得るのが年1回という農村経済に貨幣経済が押し寄せたとき、自然発生的にできてきてもおかしくない気もしてくる。むしろ山の中の小さな村だからできたことかもしれない。

 五郎兵衛記念館の南西に甲州道の標識があった。

 甲州街道から北に浅間が見えた

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