昨日に引き続きの話なのでタイトルは「車の燃費(2)」ですが、
今日は直接的な車の話ではありません。
昨日の最後に、
「燃費という言葉の意味を知る事によって、
原油価格高騰の事態における、自分がコントロールできる範囲、
すなわち、自分が能動的に事態にはたらきかける糸口というものを
見出す事ができました。」と書きました。
ここを掘り下げるべく、今日は、動機づけの話を書きたいと思います。
上記の観点、つまり、「コントロール可能だったら能動的に動ける」
というのは、「原因帰属」の研究において共有されている考え方です。
そして、人の「やる気」についての研究領域、
「動機づけ」において大切にされているテーマでもあります。
ただし、「動機づけ」の研究は、
主に学業領域について蓄積されているので、
以下の説明では学業についての話が続きます。
まずはその点、ご了承ください。
たとえばテストで自分が思ったより悪い点しかとれなかったとき、
「勉強しなかったからだ」、「自分の頭が悪いからだ」、
「先生が悪い」などとその理由を考えます。
この「原因についての考え方」によって、
その後の学習行動や学業成績が異なることが報告されています。
ここに着目したのが、「原因帰属」理論です。
原因帰属とは、「出来事の成功、失敗の原因を何かに求めること」
と定義されます。
原因の次元として、まず考えられたのは、
内的-外的(原因が自分の内側にあるか外側にあるかの次元)と
安定-不安定(原因が時間を越えて安定したものかどうかの次元)でした。
そして、内的-外的の次元は生起する感情に影響し、
安定性の次元は次回への期待に影響するとされました。
たとえば試験で悪い成績をとって、
それを自分の頭の悪さのせいだと考える場合。
この場合、原因を自分の内側にあるとしているため(内的に帰属)、
自分に対する否定的感情(ダメだなあ、など)が起こります。
そして、頭の悪さ=能力は、時間的に安定したものであるため(安定性)
次回への期待をもつことができず、
その後の動機づけやその結果としての成績も低下するであろう
と考えられるわけです。
それに対して、試験に失敗した原因をがんばらなかったせいだと考える場合。
この場合も、自分に原因を求めるので否定的感情は起こるものの
がんばらなかった(=努力の有無)という要因は変動可能なものなので
次は高い成績をあげられるかもしれないという期待をもつことができ、
次回への動機づけが高まると考えられます。
実際、失敗を自分の能力の低さのせいと考えている子どもに対しては、
原因の考え方について訓練をし、
能力ではなく努力によるものと考えさせることによって
意欲の向上が見られるといった報告もなされており、
原因帰属研究の成果からは、
「たとえ課題に失敗したとしても、それが自分の力でなんともならない、
能力の低さによるものととらえるのではなく、
努力すればできるようになるという認知を促すことが重要」
といった知見が得られています。
私の車の燃費へのチャレンジも、自分が努力をすることで
結果を変える事ができると思っていたからこそ
楽しく取り組むことが出来たわけですね。
絶対的に燃費は変わらないと思っていたら、
何もなすすべなく、ガソリンの高さに泣いていた事でしょう。
こういう風に、自分が何の結果も導く事ができないと思うと
人はやる気を失います。
このような状態は「学習性無力感」という名前がつけられています。
ですが、「努力」に帰属すると常にやる気が出るのでしょうか?
努力したら常に成果が得られるとは限りません。
がんばってもがんばっても、それでもダメだった場合、
がんばった分だけ無能感は深くなるのではないか。
ならばいっそ、がんばらない方が傷は浅くてすむのではないか。
実際、努力した後の失敗は、努力しなかった時の失敗よりも
無能感が高くなるという報告があり、
いくら努力しても失敗を重ねてしまう場合には、
むしろ「努力したこと」が「能力の低さ」をより際だたせてしまう、
という可能性が指摘されています。
なので、「つねに努力に帰属すればよい」わけではない。
その時その時、次の活動にとって効果的な帰属の仕方を
検討する必要がある場合というのがあるわけです。
何事にも、万能薬はないのですね。
上記のような事態を先読みして、
あえて努力をしないというような行為を選択する人もいるでしょう。
「できなかった」としても「本気じゃないから」
それは自分の無能さを示すわけではない、と言い訳の余地を残すのです。
これはセルフ・ハンディキャッピングと呼ばれ、
自我を守るための方略とされていますが、
それが重なると『他人を見下す若者たち』にあるように、
架空の有能感にその人を導いてしまう可能性があります。
そして自分の能力を伸ばす機会をどんどん逸してしまい、
結果的に、本当に無力な存在になってしまうかもしれません。
当然ながら、若者に限らず、です。
ところが、この発想には、また、そもそも原因帰属理論には、
大きく修正可能な点があります。
それは、「能力は変えられない」としている点です。
動機づけ理論で有名なDweckという人は、
人々のもつ「能力観」自体に個人差があることを指摘し、
「努力によって能力は変えられる」と考える人と
「能力は変えられない」と考える人とがいるとしています。
(→これは昨年度のゼミ生の木村明日香さんが卒業論文で
取り組んだ議論です♪よくがんばりましたねー)
そして、そもそも、この能力観によって、学習への取り組み方が
違ってくるのだということを指摘しています。
当然ながら、能力は変えられると思っている人の方が
学習活動に能動的に取り組むことができると理論化されています。
さらに彼女は、学習の成果(結果)に学習の価値を見出す人と
学習過程自体に、学習の価値を見出す人
(学習したということそれだけでも成長できるとする人)とを
区別しています。
後者の立場に立つと、失敗しても、それは行動したからこその結果。
その行動過程それ自体こそが、学びであるととらえ直す事が出来ます。
その過程における様々な能力の変化や成長を汲み取る事が可能になります。
そこまで考えると、努力か能力か、ということよりも、
次の活動に関与するような帰属が最も効果的、という
結論が導かれてきます。
そして行動に移る際には、行動の仕方(方略)も吟味検討されるべきでしょう。
その1つとして、まずは、自分が取り組めるところから始める、ということが、
行動を起こす上ではやはり有効なのではないだろうかと思うわけです。
(参考文献:藤田哲也編『絶対役立つ教育心理学』ミネルヴァ書房)
今日は直接的な車の話ではありません。
昨日の最後に、
「燃費という言葉の意味を知る事によって、
原油価格高騰の事態における、自分がコントロールできる範囲、
すなわち、自分が能動的に事態にはたらきかける糸口というものを
見出す事ができました。」と書きました。
ここを掘り下げるべく、今日は、動機づけの話を書きたいと思います。
上記の観点、つまり、「コントロール可能だったら能動的に動ける」
というのは、「原因帰属」の研究において共有されている考え方です。
そして、人の「やる気」についての研究領域、
「動機づけ」において大切にされているテーマでもあります。
ただし、「動機づけ」の研究は、
主に学業領域について蓄積されているので、
以下の説明では学業についての話が続きます。
まずはその点、ご了承ください。
たとえばテストで自分が思ったより悪い点しかとれなかったとき、
「勉強しなかったからだ」、「自分の頭が悪いからだ」、
「先生が悪い」などとその理由を考えます。
この「原因についての考え方」によって、
その後の学習行動や学業成績が異なることが報告されています。
ここに着目したのが、「原因帰属」理論です。
原因帰属とは、「出来事の成功、失敗の原因を何かに求めること」
と定義されます。
原因の次元として、まず考えられたのは、
内的-外的(原因が自分の内側にあるか外側にあるかの次元)と
安定-不安定(原因が時間を越えて安定したものかどうかの次元)でした。
そして、内的-外的の次元は生起する感情に影響し、
安定性の次元は次回への期待に影響するとされました。
たとえば試験で悪い成績をとって、
それを自分の頭の悪さのせいだと考える場合。
この場合、原因を自分の内側にあるとしているため(内的に帰属)、
自分に対する否定的感情(ダメだなあ、など)が起こります。
そして、頭の悪さ=能力は、時間的に安定したものであるため(安定性)
次回への期待をもつことができず、
その後の動機づけやその結果としての成績も低下するであろう
と考えられるわけです。
それに対して、試験に失敗した原因をがんばらなかったせいだと考える場合。
この場合も、自分に原因を求めるので否定的感情は起こるものの
がんばらなかった(=努力の有無)という要因は変動可能なものなので
次は高い成績をあげられるかもしれないという期待をもつことができ、
次回への動機づけが高まると考えられます。
実際、失敗を自分の能力の低さのせいと考えている子どもに対しては、
原因の考え方について訓練をし、
能力ではなく努力によるものと考えさせることによって
意欲の向上が見られるといった報告もなされており、
原因帰属研究の成果からは、
「たとえ課題に失敗したとしても、それが自分の力でなんともならない、
能力の低さによるものととらえるのではなく、
努力すればできるようになるという認知を促すことが重要」
といった知見が得られています。
私の車の燃費へのチャレンジも、自分が努力をすることで
結果を変える事ができると思っていたからこそ
楽しく取り組むことが出来たわけですね。
絶対的に燃費は変わらないと思っていたら、
何もなすすべなく、ガソリンの高さに泣いていた事でしょう。
こういう風に、自分が何の結果も導く事ができないと思うと
人はやる気を失います。
このような状態は「学習性無力感」という名前がつけられています。
ですが、「努力」に帰属すると常にやる気が出るのでしょうか?
努力したら常に成果が得られるとは限りません。
がんばってもがんばっても、それでもダメだった場合、
がんばった分だけ無能感は深くなるのではないか。
ならばいっそ、がんばらない方が傷は浅くてすむのではないか。
実際、努力した後の失敗は、努力しなかった時の失敗よりも
無能感が高くなるという報告があり、
いくら努力しても失敗を重ねてしまう場合には、
むしろ「努力したこと」が「能力の低さ」をより際だたせてしまう、
という可能性が指摘されています。
なので、「つねに努力に帰属すればよい」わけではない。
その時その時、次の活動にとって効果的な帰属の仕方を
検討する必要がある場合というのがあるわけです。
何事にも、万能薬はないのですね。
上記のような事態を先読みして、
あえて努力をしないというような行為を選択する人もいるでしょう。
「できなかった」としても「本気じゃないから」
それは自分の無能さを示すわけではない、と言い訳の余地を残すのです。
これはセルフ・ハンディキャッピングと呼ばれ、
自我を守るための方略とされていますが、
それが重なると『他人を見下す若者たち』にあるように、
架空の有能感にその人を導いてしまう可能性があります。
そして自分の能力を伸ばす機会をどんどん逸してしまい、
結果的に、本当に無力な存在になってしまうかもしれません。
当然ながら、若者に限らず、です。
ところが、この発想には、また、そもそも原因帰属理論には、
大きく修正可能な点があります。
それは、「能力は変えられない」としている点です。
動機づけ理論で有名なDweckという人は、
人々のもつ「能力観」自体に個人差があることを指摘し、
「努力によって能力は変えられる」と考える人と
「能力は変えられない」と考える人とがいるとしています。
(→これは昨年度のゼミ生の木村明日香さんが卒業論文で
取り組んだ議論です♪よくがんばりましたねー)
そして、そもそも、この能力観によって、学習への取り組み方が
違ってくるのだということを指摘しています。
当然ながら、能力は変えられると思っている人の方が
学習活動に能動的に取り組むことができると理論化されています。
さらに彼女は、学習の成果(結果)に学習の価値を見出す人と
学習過程自体に、学習の価値を見出す人
(学習したということそれだけでも成長できるとする人)とを
区別しています。
後者の立場に立つと、失敗しても、それは行動したからこその結果。
その行動過程それ自体こそが、学びであるととらえ直す事が出来ます。
その過程における様々な能力の変化や成長を汲み取る事が可能になります。
そこまで考えると、努力か能力か、ということよりも、
次の活動に関与するような帰属が最も効果的、という
結論が導かれてきます。
そして行動に移る際には、行動の仕方(方略)も吟味検討されるべきでしょう。
その1つとして、まずは、自分が取り組めるところから始める、ということが、
行動を起こす上ではやはり有効なのではないだろうかと思うわけです。
(参考文献:藤田哲也編『絶対役立つ教育心理学』ミネルヴァ書房)