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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

車の燃費(2):動機づけ理論

2009-08-05 13:00:11 | 心理学こぼれ話
昨日に引き続きの話なのでタイトルは「車の燃費(2)」ですが、
今日は直接的な車の話ではありません。

昨日の最後に、
「燃費という言葉の意味を知る事によって、
 原油価格高騰の事態における、自分がコントロールできる範囲、
 すなわち、自分が能動的に事態にはたらきかける糸口というものを
 見出す事ができました。」と書きました。

ここを掘り下げるべく、今日は、動機づけの話を書きたいと思います。

上記の観点、つまり、「コントロール可能だったら能動的に動ける」
というのは、「原因帰属」の研究において共有されている考え方です。
そして、人の「やる気」についての研究領域、
「動機づけ」において大切にされているテーマでもあります。

ただし、「動機づけ」の研究は、
主に学業領域について蓄積されているので、
以下の説明では学業についての話が続きます。
まずはその点、ご了承ください。

たとえばテストで自分が思ったより悪い点しかとれなかったとき、
「勉強しなかったからだ」、「自分の頭が悪いからだ」、
「先生が悪い」などとその理由を考えます。 
この「原因についての考え方」によって、
その後の学習行動や学業成績が異なることが報告されています。

ここに着目したのが、「原因帰属」理論です。
原因帰属とは、「出来事の成功、失敗の原因を何かに求めること」
と定義されます。

原因の次元として、まず考えられたのは、
内的-外的(原因が自分の内側にあるか外側にあるかの次元)と
安定-不安定(原因が時間を越えて安定したものかどうかの次元)でした。

そして、内的-外的の次元は生起する感情に影響し、
安定性の次元は次回への期待に影響するとされました。

たとえば試験で悪い成績をとって、
それを自分の頭の悪さのせいだと考える場合。
この場合、原因を自分の内側にあるとしているため(内的に帰属)、
自分に対する否定的感情(ダメだなあ、など)が起こります。
そして、頭の悪さ=能力は、時間的に安定したものであるため(安定性)
次回への期待をもつことができず、
その後の動機づけやその結果としての成績も低下するであろう
と考えられるわけです。

それに対して、試験に失敗した原因をがんばらなかったせいだと考える場合。
この場合も、自分に原因を求めるので否定的感情は起こるものの
がんばらなかった(=努力の有無)という要因は変動可能なものなので
次は高い成績をあげられるかもしれないという期待をもつことができ、
次回への動機づけが高まると考えられます。

実際、失敗を自分の能力の低さのせいと考えている子どもに対しては、
原因の考え方について訓練をし、
能力ではなく努力によるものと考えさせることによって
意欲の向上が見られるといった報告もなされており、
原因帰属研究の成果からは、
「たとえ課題に失敗したとしても、それが自分の力でなんともならない、
 能力の低さによるものととらえるのではなく、
 努力すればできるようになるという認知を促すことが重要」
といった知見が得られています。

私の車の燃費へのチャレンジも、自分が努力をすることで
結果を変える事ができると思っていたからこそ
楽しく取り組むことが出来たわけですね。
絶対的に燃費は変わらないと思っていたら、
何もなすすべなく、ガソリンの高さに泣いていた事でしょう。

こういう風に、自分が何の結果も導く事ができないと思うと
人はやる気を失います。
このような状態は「学習性無力感」という名前がつけられています。

ですが、「努力」に帰属すると常にやる気が出るのでしょうか?
努力したら常に成果が得られるとは限りません。
がんばってもがんばっても、それでもダメだった場合、
がんばった分だけ無能感は深くなるのではないか。
ならばいっそ、がんばらない方が傷は浅くてすむのではないか。

実際、努力した後の失敗は、努力しなかった時の失敗よりも
無能感が高くなるという報告があり、
いくら努力しても失敗を重ねてしまう場合には、
むしろ「努力したこと」が「能力の低さ」をより際だたせてしまう、
という可能性が指摘されています。

なので、「つねに努力に帰属すればよい」わけではない。
その時その時、次の活動にとって効果的な帰属の仕方を
検討する必要がある場合というのがあるわけです。

何事にも、万能薬はないのですね。

上記のような事態を先読みして、
あえて努力をしないというような行為を選択する人もいるでしょう。
「できなかった」としても「本気じゃないから」
それは自分の無能さを示すわけではない、と言い訳の余地を残すのです。
これはセルフ・ハンディキャッピングと呼ばれ、
自我を守るための方略とされていますが、
それが重なると『他人を見下す若者たち』にあるように、
架空の有能感にその人を導いてしまう可能性があります。
そして自分の能力を伸ばす機会をどんどん逸してしまい、
結果的に、本当に無力な存在になってしまうかもしれません。
当然ながら、若者に限らず、です。

ところが、この発想には、また、そもそも原因帰属理論には、
大きく修正可能な点があります。
それは、「能力は変えられない」としている点です。

動機づけ理論で有名なDweckという人は、
人々のもつ「能力観」自体に個人差があることを指摘し、
「努力によって能力は変えられる」と考える人と
「能力は変えられない」と考える人とがいるとしています。
(→これは昨年度のゼミ生の木村明日香さんが卒業論文で
 取り組んだ議論です♪よくがんばりましたねー)
そして、そもそも、この能力観によって、学習への取り組み方が
違ってくるのだということを指摘しています。
当然ながら、能力は変えられると思っている人の方が
学習活動に能動的に取り組むことができると理論化されています。

さらに彼女は、学習の成果(結果)に学習の価値を見出す人と
学習過程自体に、学習の価値を見出す人
(学習したということそれだけでも成長できるとする人)とを
区別しています。

後者の立場に立つと、失敗しても、それは行動したからこその結果。
その行動過程それ自体こそが、学びであるととらえ直す事が出来ます。
その過程における様々な能力の変化や成長を汲み取る事が可能になります。

そこまで考えると、努力か能力か、ということよりも、
次の活動に関与するような帰属が最も効果的、という
結論が導かれてきます。

そして行動に移る際には、行動の仕方(方略)も吟味検討されるべきでしょう。
その1つとして、まずは、自分が取り組めるところから始める、ということが、
行動を起こす上ではやはり有効なのではないだろうかと思うわけです。

(参考文献:藤田哲也編『絶対役立つ教育心理学』ミネルヴァ書房)

記憶違いこぼれ話:ハリー・ポッターを楽しめる私たち

2009-08-03 10:58:45 | 心理学こぼれ話
ここのところ、記憶違いについて書いていましたが、
その中で、新しい言葉がどんどん生まれ、それをしっかり記憶して
使っていくという営みをやっているって実にすごいことだなあと
改めて感じた次第でありました。

そこで、『ハリー・ポッター』を事例に、
あれを十分楽しむには、いくつものステップが必要だということを
勝手に論じてみたいと思います。

『ハリー・ポッター』は、主人公ハリー・ポッターが
魔法学校で成長していく様を描いた物語です。
その物語のすばらしさを語り出しますと、熱く筆が空回りしますので割愛。

今日触れたい内容はというと、その物語においては、
(1)カタカナの人物名や地名を覚えなきゃいけない(人物相関も含む)
(2)これまでにない概念の名詞を覚えなきゃいけない
(3)これまでにあった概念の名詞を別の名詞で覚えなおさなきゃいけない
(4)呪文を覚えなきゃいけない
のように、実に多くの事柄を記憶する事が求められるということです。

まず、(1)カタカナの人物名や地名の問題。
これらは固有名詞と呼ばれますが、固有名詞は名詞の中でも
一番覚えにくいとされています。
なぜなら、その名詞の意味と、それが示す対象との意味の対応が
非常に見つけにくいからです。
たとえば、その人の職業名を聞いたら、その人について
多くの事柄を推測できるのに対し、
その人の名前を聞いても、その人についての事柄を
ほとんど推測できない。
だから、誰が何という名前か、ということは、
他の情報に比べてもっとも覚えにくいとされています。
(cf. 『なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか』日本経済新聞社)
普通名詞でも意味が分からなければ覚えにくいのと同じ。
ましてやカタカナです。
カタカナの名詞が覚えられない…という話についてはすでに書きました。
(→こちら
しかし、ハリー・ポッターを読み進めていくうちに、
ハリーの友人関係、魔法学校の教職員、さらにはそれぞれの親戚関係までも
しっかり覚えるようになっていくのです。

(2)これまでにない概念の名詞を覚えなきゃいけない

魔法学校が舞台ですので、当然、私たちの日常にはない概念が出てきます。
全編通じて楽しまれるクイディッチというスポーツ、
ラックスバードやヒッボグリフといった動物、
場所を瞬時に移動するためのポートキーなど。
映画化によって、かなりの部分が表象化されましたが、
本を読んでいる間は、日常にあるものと置き換えながら、
あるいは、一生懸命想像しながらその事物に輪郭を与えたり
概念を理解したりしながら、楽しんでいくわけです。

ちなみに、魔法界の政治家の魔法大臣も新しい概念ですが、
これなんかは、日常の政治家の役割のどれに当たるのだろうかとか
魔法界と私たちの日常との類似性と相違点を楽しむこともできます。
空を飛ぶための箒にいくつも差別化があって「ファイアボルト」という
最高級の箒をもらった時のハリーの喜びと友人達の羨望は
ただそれが魔法学校であり箒であるという違いだけであって
十分共感可能なシーンです。

そんなことを思うと、昔から見ると、現代における様々な機械化は
魔法と言ってもいいのかもしれないなと改めて考えさせられたりもします。

(3)これまでにあった概念の名詞を別の名詞で覚えなおさなきゃいけない

魔法使いの視点から世界が構成されているので、
普通名詞が私たちの用いているそれと異なる場合があります。
たとえば、「非魔法族(人間)」=「マグル」など。
これは、魔法界の単語を覚える作業になります。
あらかじめ意味する事柄が分かっているという点では(2)より
容易かもしれませんね。

(4)呪文をおぼえなきゃいけない

物語の中では、肝心な場面において魔法の呪文が使われます。
魔法学校の生徒でさえ覚えるのに必死なのに
一読者である私が覚えられなくても不思議ではないのですが
呪文の言葉が何のためのものかを理解していないと
その大切な場面の文脈が読み取れなくなることがあります。
なので、呪文も覚えなきゃいけないのです。

呪文は、(1)および(2)の側面を両方備えているようにも思います。
(1)全部カタカナで意味がなく、言ってみればその魔法の固有名詞である。
(2)魔法なのだから、私たちの日常にはない概念である。
からです。

でも、(1)については、『ハリー・ポッター』の場合は、
その意味をくみ取りやすいものになっているのでありがたい限りです。
動詞や名詞の語源を転用したり変化させたりして、
それを組み合わせて作られている、と理解することができます。

(2)についても、自分たちができないことであっても、
そうなってほしい、とか、ここは魔法ではこうなる、という
文脈を読み取りさえすれば、私たちの欲求を表す一つの言葉として
理解することができます。

なので、案外、スラスラ覚えられてしまうんですね。

それにプラス、これは素朴な感想ですが、
呪文というのは、なぜあんなに「覚えたい!!」という気持ちに
させるのでしょう。
他の言葉を覚える時とは違うワクワク感というのがあります。
これこそが、呪文の魔力!?

記憶違い(3)

2009-08-02 16:42:03 | 心理学こぼれ話
さて、記憶違いについてのコメントで
「空港」と「航空」を間違ってしまうというものをいただきました。
この場合は、「クーコー」と「コークー」という、音韻の類似性が
引き起こしている混乱だと考えられます。

なので、これは、意味を把握し、そこから連想を広げる事で
混乱を押さえる事ができるのではないかと考えられます。

具体的には、「空港」は「空の港」、つまり、「漁船の港」の「漁港」や
「宇宙の港」の「宇宙ステーション」と同じパターン、
「航空」は「空を航(わた)る」、つまり「車に乗る」から「乗車」、
「境界を越える」から「越境」などと同じパターンである、
としたら混乱は減るのではないでしょうか?
つまり、音韻が引き起こしているエラーならば、
音韻から離れて、概念で整理し直す、ということです。

たとえば大阪にあるテーマパーク「USJ」が「UFJ」と呼ばれているのを
私は何度も耳にした事がありますが、
これもその略語の意味を押さえれば(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)、
その音韻的類似性の呪縛からは離れ、「USJ」と覚える事が出来るでしょう。
もちろん、発音段階でどうなるかは分かりませんし、
スタジオが「S」から始まることを知っていないと
「USJ」にはたどり着かないのですが…。

略語に言及したので、1つ余談を。
「IT」は、略語だったが故に、意味が少々違っていても
皆が意味を共有し得た面白い言葉だと思います。
「IT」はInformation Technology、つまり情報技術を意味するのですが、
私は一時、Internet Technologyだと勘違いしていました。
どちらにしても、インターネットやパソコンに
関わる情報技術のことだったので、そのまま話が通じてしまっていたわけです。

さて、話を元に戻しますと。
このように、音韻から離れて意味を検討する事が可能ならば
対処のしようもあるのですが、別の人にいただいたコメント
「スパゲッティ」を「スカベッティ」としてしまう間違い。
これは、意味を検証しても無駄です。
新しい食べ物を新しい言葉で覚えなければならないからです。
あるいは「トンチンカン」か「チントンカン」か。
このレベルになるとどっちでもよいじゃないかと思うのですが
「トンチンカン」が正しいとされているのですから
言葉というのは不思議なものです。

その言葉を記憶する過程で、その言葉自体を正しく記憶するとなると、
難しい別の問題が生起してきます。

スカベッティやチントンカンというのは、
新しい言葉を覚えようとする際、もしかしたら、
何か知っている既存の言葉と結びついてしまったのかもしれません。
たとえば「チントンカン」の場合、
「チントンシャン」と結びついてしまったかもしれません。
私も「ペットボトル」と言いたいところを「ポットベトル」と
言ってしまいます。
ペットボトルは水筒なので「ポット」と勝手に結びついてしまうのでしょう。

ただ、純粋に、うまく発音できなくて、うまく発音しやすい音に
変えられてしまったということも考えられます。
たとえば「スカベッティ」の場合、
「スカート」をはいていた女性と一緒で、それと結びついてしまったとも
考えられますが、
同時に、「スパゲッティ」というより、「スカベッティ」の方が
発音しやすかったために起こった…とも考えられるように思います。
これが、「あ、また言っちゃった」となれば「言い間違い」ですが、
それが定着して「スカベッティ」と名詞自体が書き換えられれば、
記憶違いということになるのでしょう。

そうこうしている間にも、どんどん新しい言葉が生活の中に入ってきて、
こういう新しい言葉をどんどん仕入れていくことでしょう。
そんな人間の営みってすごいなあと思います。

記憶違い(2)

2009-08-01 23:58:45 | 心理学こぼれ話
先日、「記憶違い」について書きましたところ、
複数の方から「言いまつがい」(=言い間違い)に関する
コメントをいただきました。

これについて考えてみたいと思います。

まずは私の記憶違いの話を詳しく考えてみましょう。

普通名詞には、その名前の意味が分かりやすいものもあれば
そうでないものもあります。

たとえば、形が丸いから「卵(玉子)」、顔が赤いから「赤ちゃん」などは
その外見と名前がダイレクトに結びついており、分かりやすい名詞です。

たまごを焼くから「卵焼き」、肩が凝るから「肩こり」なんてのも
その意味がダイレクトに分かるので理解しやすい。

もちろん、なぜ丸いのは「玉」なの?肩はなぜ「肩」なの?
などというのは、かなり頑張って調べないと分かりません。
でもそれはそれとして、丸いのは「玉」、
体から腕が出ているところで、首からつながっているところは「肩」と
覚えていって、それで、例えば自分が覚えた「玉」と全く同じでなくとも
どうやらまん丸いものは「玉」と呼ばれるらしいと理解され、
「玉」という言葉を使いこなすようになります。
なので、形が丸いから「玉子」という説明に
「分かる分かる~」と同意できるわけです。

ところが、全ての名詞がこんなに理解しやすく
知識として整理しやすいものであるとは限りません。

コンピュータのマウスは、マウスといえど、ネズミには見えません。
その形態がネズミに似ているからマウスと名付けられたとか、
その動きがネズミのようだから、と諸説あるそうですが、
なんでマウス?という感じがあります。
日本では、マウスはマウス、ネズミはネズミ、といった感じでしょう。
ですが、フランス語や中国語では、マウスという英語には
ネズミを意味する言葉がそれぞれ当てられていると聞いた事がありますので
やはりマウスはネズミなのでしょうか。

話が逸れました。

新しい言葉は、そういうツッコミは入れられるとはいえ、
その意味を理解することはある程度可能だと思うのですが、
昔からある名詞は、語源を調べればなるほどーと思えるものはあっても
日常生活では、とにかく、その表象と名詞とを結びつけて覚える事が
課せられているわけです。
目に見えるものから目に見えないものまで、
ありとあらゆる名詞があって、それをいっぱいいっぱい覚えて、
ボキャブラリーというものを増やしていきます。

もちろん、全てを無秩序に丸ごと覚えているわけではありません。
その過程では、外見(視覚表象)や意味(概念表象)と
セットで、名前(音韻表象)が記憶されていくことが多い。
私たちの知識は外見や意味の類似性などによって
整理されて頭の中にしまいこまれていると考えられるわけですが、
これがおそらくエラーを引き起こすと考えられます。

たとえば、「定食屋」という言葉を思い出したいのに
その言葉が出てこない場合があります。
でもまあ、これは傷は浅いでしょう。

その概念表象(たとえば「ご飯を食べるところ」)や
視覚表象(たとえば「赤い看板があって、カウンターがあって」)を
言語化して、それでなんとかその場をしのぐことができます。
また、人に言えば相手がその意味から類推して
「定食屋」という言葉を思い出してくれることも多いでしょう。

ですが、固有名詞の場合は、事情が複雑になります。
固有名詞の場合、普通名詞以上に名前と概念や外見との結びつきが弱いので
自分で勝手なルールを作って、固有名詞を覚えていることがあるからです。

私の「あやとり」を「折り紙」としてしまった間違いは、
「あやとり」という店の名前を覚えるために
「子どものあそび」というカテゴリーで記憶していたわけです。
このお店の名前を覚えるために、「あ」から始まるという
覚え方をしていた人もいるでしょうし、そのまま特に意味を考えず
「あやとり」と覚えていた人もいるかもしれません。
もちろん、「子どもの遊び」という概念表象でとどまって
「思い出せない!」という状況にいれば、
「子どもの遊びの名前がついた定食屋ってなんだったっけ?」と
尋ねる事ができ、相手が教えてくれるかも知れません。

でも、「子どもの遊び」という概念表象から
「折り紙」にたどり着いてしまうと、もうそれを「あやとり」に
戻す事は難しくなります。
本人は記憶違いだと気づかないからです。
そしてたとえば何かおかしい?と思って別の名前を探しても
「子どもの遊び」という概念表象が常に働くため
「けん玉」「お手玉」「おはじき」「じゃんけん」なんていう
「子どもの遊び」として自分が思い出し易いものがどんどん思い出され
「あやとり」にたどり着かないまま「おはじきだ!」と
別の名前で記憶し直そうとするかもしれません。

こういう場合は、「「あ」からはじまる4文字」など
新しい情報を付加しないと、いつまでも子どもの遊び連想ワールドから
抜け出せないままになるでしょう。

というわけで、表面的には言い間違いともとれますが、
「なんで間違えようのない言葉に間違えてしまったんだろう?」
というような場合には、得てして、こういう記憶の旅の成果が
伴っていると思われます。

記憶違い

2009-07-27 20:55:48 | 心理学こぼれ話
友達に勧められて読んでいるエッセイが最高級に面白い。
その中で、記憶の中での言葉のすり替えに関するの話があった。
ちょっとそこから思い当たる話を書いてみようと思います。

記憶をする時、私たちは大抵「意味」をきちんと把握して
自分の記憶しやすいように頭の中に整理していきます。
情報を要約することで、記憶に定着させやすく、
しかもあとで検索しやすくするのです。

ところが、このメカニズムが時に間違いを引き起こします。

昨日、京都大学で研究会がありました。
お昼をどこで食べようかと頭をめぐらせていたのですが、
「折り紙」という単語がしつこく頭にへばりつく。
こういう名前の定食屋さんが京大の近くにあったのです。

しかし、この「折り紙」という店名は、学生時代から
しつこく私にまとわりついている記憶違いなのです。
本当の店の名前は「あやとり」。
子どもの遊びが店の名前になっている、という感じで
意味をとらえて、なぜか「折り紙」という単語が
いつも浮かんでくるのです。

その他に、以前、友達に大笑いされたのは「年金」のpension。
年金でペンションを建てるというイメージを勝手に連想させ
そこからそのイメージだけで記憶が進み、
私の中の年金ワードは、mansionに変貌を遂げていました。
ペンションというと老後のほのぼのとした余生が浮かびますが
マンションとなると、なんだか成金っぽいまだ欲の果てない老後に思えます。
(勝手に貸しマンションのイメージになっています。
 都心にあり、家賃は当然高いのだ。)

しかも、この手の記憶違いワードは、タチの悪い事に、
何度間違ってもその都度、正しいワードよりも真っ先に浮かんできます。
何度も間違ううちに、頭でチェックするのですが、
なぜか間違った方を「正しい」と判断してしまうのですね。
無理矢理後から「そうじゃなくて」というステップを踏んでも、
そういう覚え方での記憶は、検索の時に混乱を起こすみたいですね。

正常と異常についての考察とそこからの解放への志向

2009-07-17 08:17:32 | 心理学こぼれ話
昨日、「異常」という語を用いて話を書いた。
では、「異常」ってなんだろう。そして「正常」ってなんだろう。

その定義は実に曖昧だ。
まず、昨日書いたように、その境界が曖昧だということがある。
だが、「境界が曖昧だ」という問題の背後には、
それは、同一次元で議論される内容だという前提がある。
ところが、「正常」と「異常」には、いくつもの次元がある。
そして立場が違えば、あるいは時代や文化が違えば、
その正常と異常はまったく逆転することもある。
その観点からすると、「正常」と「異常」の概念それ自体が曖昧である。

たとえば、女性社員がせっせと男性社員にお茶くみをする場面。
それは日本では(特に一昔前の日本では)実に正常なふるまいとされた。
ところがたとえばオーストラリアなどでは異常に受け取られるらしい。
逆に、男性が女性にお茶をくむ場面はオーストラリアでは正常とされ、
日本では異常とされた。

食事の仕方にしても、
食事するときには無駄な会話をせず黙って食べるというのが正常で、
そこでわいわいと話をしながら食べるというのが異常だとする考え方もあれば
逆に、わいわいと話をしながら食べるのが正常で
そこに会話がないのは異常だとする考え方もある。

そこで、正常と異常について、その枠組みは一体なんなのか、
考えてみようと思った次第である。

『精神・心理症状学ハンドブック』(日本評論社)によると、
「正常」とは、①価値的正常value norm、②統計的正常statistical norm、
③個体的正常individual normがあるとされる。
この観点がとても整理に役立つので、この枠組みに則って、考えてみることとする。

価値的正常・異常の定義に従えば、
社会の構成員の多くが望ましいと考えられる状態が正常であり、
望ましくないと考えられる状態が異常である。

統計的正常・異常の定義に従えば、
その集団内の当該変数分布の平均値(あるいは中央値)の周囲の値をとるものが正常で、
それよりも低い値やそれよりも高い値をとるものが異常である。

個体的正常・異常の定義に従えば、個人のある時点の状態が
その個人の通常の値より偏っていれば異常といえる。

たとえば身長で考えた場合、ある程度の平均的な身長の範囲にあれば、
正常であるとされる。
(たとえば正規分布している場合、
平均身長±1標準偏差の範囲であれば68.2%の人が、
平均身長±2標準偏差の範囲であれば95.4%の人が入る。)
それより背の高い者も低い者も異常とされる。
これは統計的正常・異常による判断である。

それに対して、肌年齢などを考えた場合、その人の年齢の人が属する
平均的な肌年齢の周囲の範囲にあれば、それは身長の場合と同様、
正常とされる。これは統計的正常・異常による判断である。
ところが、その範囲を超えて若い肌年齢のところに位置づいていても、
それは異常とはされない。
これは、価値的正常・異常による判断である。
肌年齢は若いほどいいとされている価値が共有されているからである。
この場合、「“異常に”若い」と表現されたりするが、
ここでの“異常”という言葉は、その価値的正常を強調するために用いられる。

ところが、その、肌年齢が異常に若かった人、
考えやすくするために、たとえば実年齢より12歳くらい若かった人が、
ストレスか何かで急に肌が10歳も年をとってしまったとする。
つまり、実年齢より2歳若いくらいになったとする。

2歳くらい若い人というのは、おそらく、
その年齢集団の中で、平均的な範囲におさまるだろう。
なので、かえって、統計的には正常になったということになる。
また、2歳若いというのは、なお、価値的にも正常とされる。
しかし、その人にとっては大事件であり、異常事態である。
明らかに、その人の平生の状態とは異なっているからである。
これが、個体的正常・異常による判断である。

体温なども同様で、その人の平生の体温に比べて明らかに上昇があったとき、
たとえば平熱が34度くらいの低体温の人であれば
35.5度くらいでも発熱という。
これも、個体的正常・異常による判断である。

このように、どの軸をあてはめるかによって、正常か異常かの判断は異なる。
だが、どの変数にどの軸をあてはめるかに規則はない。

たとえば虫歯を考えてみる。
虫歯は放っておくとよくない。なので虫歯があるということは
価値的正常の観点からとらえると異常である。
しかし、成人人口中の半分以上は虫歯がある。
なので、統計的には虫歯がある方が正常であり、
虫歯がない人は異常だということになるのである。
また、それまで虫歯がなかった人に新たに虫歯ができてしまったというような場合は、
やはり虫歯があるということが、個体的正常・異常においても異常と判断される。

スピード違反にしてもそうである。
スピード違反は法律違反であり価値的には異常である。
しかし、多くの人がスピード違反をしている。
よって統計的にはスピード違反をしている方が正常である。
実際、速度制限を遵守して走っていると、
後ろからひどい攻撃を受けたりするものだ。
それが怖くて頑張っていつになく速度を上げて運転した場合、
そのスピード違反は個体的正常・異常においても異常とされる。

別の組み合わせも考えられる。
たとえば、オリンピックで優勝するとか、主役を射止めるなどは、
明らかに統計的には異常である。
しかしながら価値的には正常であり、多くの支持を集めることができる。
そしてそれは、個体的に正常か異常かは、その人によって異なる。
何連覇も更新していた人が優勝した場合は、そのことは個体的に正常であり、
シンデレラ的に主役に抜擢された場合は、そのことは個体的に異常である。
芸術家などもそうだろう。

個体的正常・異常というのは、そもそも、
それぞれの人の状態を考慮する必要があるものであるため、
その判断が個人によって異なるのは当たり前である。
だが、価値的正常・異常というのも、個人によって異なることがある。

たとえばティーカッププードルという犬がいるが、
あれは犬という種からみると異常な小ささに思われるのだが、
そのサイズが「小さくてかわいい」とされると価値的には正常とされる。
だが、自然ということに価値を置く人には、やはり価値的に異常とされるだろう。

冒頭で書いた食事の例も、価値的に正常か異常かという判断は、
文化によって異なると思われる。

さらに、日常においては、統計的正常・異常と、価値的正常・異常の軸は
そこまで独立しておらず、容易に入れ替わったり
相互依存的であったりするように思う。

たとえば冒頭のお茶くみの例。
昔の女性であれば、ほとんど誰もが(統計的正常)男性社員にお茶を淹れただろうし、
それは、価値的に正常な行為とされた。
そして、それは価値的に正常な行為とされたから、誰もがお茶を淹れ、
結果として統計的にも正常な行為とされるという状態が維持され続け、
そして多くの人がその価値を支持するということによって、
その価値的正常がさらに維持されるということもあるだろう。

一番分かりやすいのが流行である。
バブル時代、女性の眉毛は太かった。
そういう人が多くて(統計的正常)、かわいいとされた(価値的正常)。
かわいいとされたから、皆がそうしたとも考えられるし、
皆がそうしたからかわいいような気がしたのかもしれない。

だが今、バブル時代のような眉毛をしていたらただの手抜きとされる。
統計的にも異常であるし、価値的にも異常である。

ここから考えられることは、
絶対的な価値をおくことが難しい場合、統計的基準が
価値的基準を作り上げていくところがあるのではないかということである。

もちろん、新しい価値が統計的正常をもたらすこともある。
たとえばエコ。
エコという行為は、価値的に正常とされ、以前は少数の人しか意識していなかったが、
その価値が広く行き渡って、多くの人が価値的に正常とされる行為をするようになる。
それによって、エコにつながる行為をする人が、価値的にも統計的にも正常となる。

だが、この「価値が広まる」という過程では、
やはり、人に支持されるという、統計的正常に近づく過程が存在し、
それを支持する人が少数派である間は、やはりあまり普及せず、
少数派ながらもある分岐点にまで達すると、その後は爆発的に拡大するという
そういう流れがあるように思う。
その意味では、統計的正常というものは、
価値的正常を形成する力があるように思うのだ。

さらにいうと、以前から価値基準があったとはいえ、
それは正常・異常の判断を伴うものではなかったのに、
統計的正常・異常によって価値的正常・異常も判断されるようになるような
ケースもある。

現在、95%以上の人が高校に進学する。
よって、高校に進学することは統計的に正常であり、
また社会にも受け入れられるという点からみると、
価値的に正常でもあるわけである。
だが、社会が求めるからこそ高校進学が増え、
結果として統計的正常がもたらされたとも考えられる。
そしてその統計的正常がもたらされたことによって、
「高校に行かない」という決断が、
以前はさほど価値的異常としての意味をもたなかったのに
明確に価値的に異常であるとして否定されるということが
起こりうるのではないかと思う。

つまり、少数派であるということが、それ自体は、
価値的には正常でも異常でもないかもしれないのに、
少数派であるというそれだけで、価値的にも異常であるかのように
思われるということがあるように思うのだ。
判断基準がよく分からないとき、
「皆がいいと言っているならきっといいことなんだろう」と
統計的正常の判断をそのまま価値的正常の判断としてしまっているからだろう。

つまり、正常・異常を判断する次元は複数考えられるのであるが
それは明確に使い分けられてはいない。
そのことが、正常・異常の意味を余計に混沌とさせているようなのだが、
ひいては、自分のものの見方も偏らせているように思う。
よって、このこと、すなわち、価値的正常・異常の判断は、
統計的正常・異常の判断によって形成される可能性があるかもしれないということは、
自覚されるべきである。
それは、無意味な正常・異常のラベル付けを抑制してくれるかもしれないし、
さらに、自分がとらわれていることからの解放を促す副効用があるようにも思う。

自分がいいと思っていること、価値を感じていること、
でもそれは本当は、皆がそう思っているからそう思っているだけかも…。
そう思うことは、自分の価値を疑うことにつながるので、
自分を不安にさせてしまうことかもしれない。

だが、自分を苦しめている価値のいくつかからは解放してくれることかもしれない。
そこで求めているものは、本当に価値とされるべきものなのか、
統計的基準の正常に入りたいというだけであって
価値的にどうであるかどうかとはまったく別の話なのではないか、
その観点から見直すと、少し楽になるかもしれない。

それでも、社会で生きていると、統計的正常の呪縛から
解放されることは難しいことがある。
ここから先は、仲間のアイディアの借用であるが、
その場合は、最低限、「多数派を善」とする統計的正常の呪縛から解放されると、
楽になれるかもしれないということを指摘することが出来る。

たとえばプレミア商品などの例。
あれは、「数が少ないから価値がある」とされるものである。
これも、価値的正常・異常という判断が、
統計的正常・異常の判断によって左右されているという点では同様である。
しかしながら、統計的に異常であるということが、価値を形成している点では
逆の現象である。

もともと価値的正常・異常の判断のしようがなかったところに、
統計的正常・異常の判断によって価値的判断がなされるようになることは
日常では少なくない。
つまり、その価値基準自体に大した価値がないことも少なくないのだ。
それに気づくと、統計的正常から自由になれる。
だが、統計的正常は大きな力をもっているように思われるため、
そこから逃れきることは案外難しいかもしれない。
その場合は、もう1つの統計的正常からの解放、
統計的に異常だからこそ価値とされることもある、という発想の転換によって、
やはり私たちは自由になれるようである。

宝くじ売り場(解答編)

2007-12-15 21:13:33 | 心理学こぼれ話
朝、起きたときに、ひらめきました。

前回のブログで解けない、と書いてた部分についてです。

話を簡単にするために、例えば当たる確率が1/10とします。
具体的には、●○○○○ ○○○○○ といった玉が
箱に入っていて、その中から●を引き当てる確率ということです。

たとえば、5人目で当たるとする場合、当たる確率の推移は、下記の通り。

1人目:当たる確率 1/10→はずれると残りの玉は9個
2人目:当たる確率 1/9 →はずれると残りの玉は8個
3人目:当たる確率 1/8 →はずれると残りの玉は7個
4人目:当たる確率 1/7 →はずれると残りの玉は6個
であるため、
5人目:当たる確率 1/6 となっていきます。

この場合、明らかに、最初の1人よりも2人目、3人目に
なるにつれて、当たる確率が増えていきます。

*とった玉を箱に戻すというやり方であれば確率は
 何人目になっても1/10のままで変わらないけど、
 宝くじの場合、元に戻されることはないので
 この論でいきます。

となると、多くの人が並んでいる箱に並んでチャレンジするのと
1,2人しか並んでいない箱にチャレンジするのとでは、
やはり前者の方がよいように思われます。
なぜなら、前の人がはずれれば、
1/6,1/5,1/4のように、当たる確率が高い位置で
チャレンジすることができるからです。
それに対して、並んでいる人が少なければ、1/10,1/9の
位置しかとることができないと思われます。

ただし、ここで注意しなければならないのは、
1/6,1/5のように、当たる確率が増えていくには
それまでの人々が連続して外れなければならないという条件が
付加されるということです。

たとえば、先の例でいうと、

1人目:当たる確率 1/10→はずれ となる確率=9/10
2人目:当たる確率 1/9 →はずれ となる確率=8/9
3人目:当たる確率 1/8 →はずれ となる確率=7/8
4人目:当たる確率 1/7 →はずれ となる確率=6/7
5人目:当たる確率 1/6 →当たり 

のように、5人目が1/6の確率であたる位置を得るには、
それまでの4人が連続してはずれている確率
9/10 × 8/9 × 7/8 × 6/7 = 3024/5040
すなわち、3/5 を乗ずる必要があると考えられます。

結果、5人目が当たる確率は、3/5 × 1/6 = 3/30
なんと驚きの1/10のままではありませんか!!
鮮やかな数値です。。。

となると、やはり、何番目に並んでいても、結局確率は変わらない、
と考えられます。

…文体をそろえるため冷静に書いてはいるけど、
今、ちょっと興奮中だったりします。。。
連続してはずれる確率を乗算しなければならない
ということだけ閃いていただけで、
実際に計算してみたのは今がはじめてで、
結果がこうなるとは実は予測していませんでした。

では、ついでに検算しましょう。
6人目で当たる確率 1/5については?
これもそれまでの5人が連続してはずれていなければならないため
1/5に、15120/30240=1/2 を乗算します。
やはり、1/10のままです。

おおー。
そういうことだったのかー。
つまり、やはり、客の回転を考慮しても
確率論的には、どの売り場でも当たる確率は変わらないってことね!

ということで、昨日の仮説:
【当たりの出る宝くじ売り場は、分母(買う人数)が増えることで
 分子(当たった人数)が増えているだけであり、
 決してそこで当たりが出やすいという訳ではない。
 「当たりやすい」というのは、客がそこに並ぶことで
 成立している現象である。】
は、支持されました。

と、個人的には思っております。

とりあえず、自分の中での疑問は解消しました。
もし、何か手落ちがございましたら、教えてください。

宝くじ売り場(統計論)

2007-12-15 00:02:27 | 心理学こぼれ話
毎年、この時期になると気になっていることがあります。
それは、宝くじ売り場の件です。

「この売り場から1等が出ました!」という売り場がところどころにあり、
そこに多くの人が並びます。行列をなして。
そして実際に、その売り場は「あそこは当たりがよく出る」と認識され
口コミで情報が広まったりしているようです。

「当たりが出やすい」というと「当たる確率が高い」ように思われますが、
しかし、実際には、当たりが出た宝くじ売り場については
その確率ではなく、「当たったか否か」のみが問われます。

となると、たとえば同じ確率1/1000であっても、
分母(=買う人の総数)が増えれば分子の数(=当たり)も増えます。
「はずれた人の数」は問われず、
「当たった人の数」のみがクローズアップされるので
あたかもそこで買うと
当たる可能性が高いような錯覚に陥っているのではないでしょうか。
実際には、どの売り場においても当たる確率は一緒なのではないでしょうか。

当然、多くの人が買う売り場から当たりは出やすくなるわけで、
当たりの出やすい売り場というのは、もしかしたら、
人々がその売り場に殺到することで成立しているものかもしれません。
実際には多くのはずれ人も同時に輩出しながら…。

ただ、ここで、私の頭では分からない問いにつきあたります。
たとえば1/1000の確率で当たりがでると仮定する場合、
たとえば10人しか買わない売り場などについては、それも考慮して
数式が導かれるのでしょうか?
となると、やはり多くの人が買う売り場の方がよい、ということが
結論として導かれるのでしょうか?
つまり、「多くの人が買うならば、当たりの回転もよくなる」
と考えた方が妥当なのでしょうか?
→やはり、よく売れる売り場に並んだ方がよい、
 と確率論的にも導かれるのでしょうか?

まあ、多くの人は、縁起かつぎでその売り場に並ぶのだろう、とは思うのですが、
統計論的にはどのように整理されるのでしょうか。
どなたかご教示くださいますと幸いです。