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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

ディアナ・コンプレックス

2010-06-14 21:42:13 | 心理学こぼれ話
久々のギリシャ神話シリーズです。

ディアナとは、ギリシャの女神アルテミスのローマ名です。
アルテミスとは、ゼウスとレトの娘であり、アポロンの双子の妹。
狩猟が得意で、気位の高い美しい処女神です。

ところが、彼女が狩りに用いる矢はときに人間にも向けられ、
産褥の女性に苦痛のない死をもたらすとされます。

またこの女神は執念深い性質ももちます。
母親レトを侮辱したニオベに対しては、
その娘たちを殺戮することで報復し、
レトを犯そうとしたティティオスは射ち殺します。

巨人の狩人オリオンは女神の怒りを買ったため、
女神が贈ったサソリの毒で死んでしまいます。

アクタイオンは水浴する女神の裸身を見てしまったため、
鹿に変身させられ、自分が飼っていた犬たちによって食い殺されます。

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アルテミスは、一般に月の擬人化として解釈されていますが、
野獣を支配する女神としての性格も濃厚です。
「ディアナ・コンプレックス」とは、
アルテミス(=ディアナ)にみられるような、
男性的な強さと独立心を求める女性の心の葛藤のことをいいます。

たとえば、女性が職業的役割などの点で男性と対等でありたいと願い、
そのことにこだわり続けてしまうような場合など。

また、このコンプレックスは、
“女性の心のなかに潜在している男性性(アニムス) ”と関連していると
解釈されます。

パーソナリティは作られる

2010-06-07 23:59:59 | 心理学こぼれ話
心理学では、パーソナリティは、
その人の行動パターンの背後にあるものとして考えられます。

なので、他者との関係の中で、世界への関わり方として
発揮されるものというのが基本的な考え方です。
それら行動の背後に、その人らしさを規定する独自の構成要素がある、
それをパーソナリティと呼ぶのです。

(→詳しくはこちら

以前、「探偵!ナイトスクープ」に、こんな依頼が寄せられていました。

「私は京都の大学に通う女子大学生です。
 いつも不思議に思っていたのですが、
 大阪のおばちゃんは、いつから大阪のおばちゃんになるのでしょう?
 大阪のおばちゃんにも乙女の時期はあったと思うのですが、
 いつそれを捨て、大阪のおばちゃんになっていくのでしょう?」

何を思って"大阪のおばちゃん"とするのか疑問ですが、
"大阪のおばちゃん"は、ある複数の行動パターンの集合を示す
1つのパーソナリティ特性のように使われてもいます。
もちろん、それが本当にコンセンサスを得ているものであるかどうか、
また、真に概念の定義が可能なのか、学術的には疑問です。

それはそれとして。

担当探偵の石田靖さんは"大阪のおばちゃん"ぽい人を集めて
皆さんにこの疑問についての答えをディスカッションしてもらうという
座談会を開きました。

参加者の方には、九州出身の方もいらっしゃって、その方は、
1.自分はものすごい引っ込み思案だった
2.結婚後に大阪に来てものすごく気後れした
3.でもこのままではいけない、前に出ないとおいていかれると思った
4.とにかく人がしゃべってても負けずに前に出てしゃべるように心がけた
5.それがそのまま今になった
とご自身を振り返っておられました。

彼女は、自分のパーソナリティが変わった事を
「おとなしい」→「よくしゃべる」の次元でとらえて
説明してくれていました。

彼女が強調していたのは、とにかく
「そうしないと、周りとやっていけなかった」ということでした。

そして参加されていた方々は「今がとっても楽しい」と
お互い口々に承認し合っていました。

座談会の終了時、依頼した女子大学生が
「楽しそうだけど、私には無理そう…」と言うと、
お一人の方がこうおっしゃっていました。

「大丈夫大丈夫。周りが育ててくれるから

なんとも説得力のある言葉です。


パーソナリティは、他者との関係の仕方、世界との向き合い方についての
その人なりの行動パターンを規定するものとして想定されますが、
それは、他者や世界との相互作用の中で、形成されていくものなのです。
それを実によく説明してくれていました。

もう一度見たいですし、
授業でも皆に見せたいです。
録画していなかった事がいまだに悔やまれます

トッテスミマセンデシタ

2010-05-28 21:07:10 | 心理学こぼれ話
先日、インターネットでこんなニュースを見つけました。

こちらより転載。

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横須賀市大津町の山川潔さん(76)は30年以上、自宅の裏庭や土手でバラやアジサイ、梅などの花々を育てている。花が摘まれているのに気付いたのは昨夏だった。ハサミなどで丁寧に切り取った跡があった。四季折々に咲く花が、同じようにわずかずつ摘まれていった。

 取られるのは毎回1輪ほど。声を掛けてもらい、花を譲ろう。山川さんは今月10日ごろにバラの枝に添え書きを結んだ。

 「花が、ほしい方は申し出て下さい」

 掲示から約10日後の19日、メモが上から張られていた。

 「ツマガガンノタメ ボクニワハナオイッポンモカッテアゲルコトモデキナカッタノデ ダマッテハナオトッテスミマセンデシタ ツマガナクナリマシタ ホントウニスミマセンデシタ」

 縦20センチ、横4センチほどの薄色の紙に、黒いボールペンの手書きで80字ほどがつづられていた。

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ううっっっ

なんとも胸がキュッとしめつけられるニュースです。。。
なんだかキュンキュンきました。

でも、キュンキュン来ているだけでは
「心理学こぼれ話」ネタになりません。

気持ちを切り替えていきましょう。

あなたはこの事件、どう思いますか?

発達心理学に「道徳性の発達」というトピックがあります。
その中でも、「道徳的実践力」ではなく
「道徳的判断力」を重視する立場があります。
コールバーグによって代表される考え方ですが、
たとえば「ある人が正しい行動をした」という時、
「正しい行動をした」という行動においてではなく、
そもそも、その行動をどのような理由で「正しい」と判断したのか、
というところに、その人がどのような道徳性を有しているかが
発揮されると考える立場です。

なぜそう考えるか?というと、
私たちの日常では、「正しい」ということが自明ではなく、
何が正しいのか、何が善なのかを、
自分なりに判断し、思考し、それでも結論が出ずに苦しむ、
といったような場面も多いからです。

そのように道徳性をとらえようとする立場では、
道徳的判断において、ジレンマ状況に陥るような、
一元的に善悪や正否を決める事が難しい課題が
「モラルジレンマ課題」として提示されます。
そして、その課題に対してどのように考えたか、
結論に至るまでに(あるいは現段階までに)
どのような水準でその課題を考える事ができたか、
ということを道徳性の発達としてとらえるのです。

*授業では、その課題について深く考えることを通して、
 道徳性の発達を促進しようとされていると思います。

さて、冒頭のニュース。
何とも、切なくなるニュースですが、
まさに、モラルジレンマ課題です。

あなたはどう考えますか?

古今問わずのお悩み

2010-05-26 22:01:11 | 心理学こぼれ話
青年期においては、自分の身体をどうとらえるかという「ボディ・イメージ」が、
自分全体への満足感や評価を考える上で大きな問題となります。

そして、このボディ・イメージは、かなり主観的に歪められて
形成されている場合があります。
それについては、だいぶ以前に、「ボディ・イメージの理想と現実」で書かせていただきました。

さて、ボディ・イメージをめぐっては、その歪みと「痩せ志向」との結合が
心身の健康を阻害する問題としてとりあげられます。
そこには、メディアの影響などによって、
痩せている身体が望ましいというメッセージがくり返し流され、
過度に痩せている人を理想体型としてとらえるようになることによって、
自分を必要以上に太っていると認識してしまうという、
情報化された現代社会ならではのパスも指摘されています。

とはいえ、ボディ・イメージについての悩みは、
何も現代社会に限った事ではないでしょう。
『源氏物語』なんかでも美醜はその人の価値として大きく
クローズアップされています。
その社会の中では、自身の身体が美しくないということで
悩んでいた人もあったことが推測されます。
ただ、私はそれを資料で確認したわけではないので推測のレベルです。

ですが、ぐん、と時代が下りますが、大正時代においては、
ボディ・イメージに悩む人が確実に存在していたようです。

『大正時代の身の上相談』という本があります。
それは、タイトル通り、
大正時代、読売新聞で掲載された身の上相談を取り扱った本で、
その相談内容とそれへのお答えが抜粋された本です。
その悩みの内容は、大正ならではだなあというものもありますが、
平成の人たちも似たようなことで悩んでるよ…というものも少なくありません。

その中に、次のような記事がありました。
(大正6年(1917年)5月30日)

 私は21歳の女です。この頃、あまりに肥満しすぎてきましたので実に赤面の至りだと思います。自然と人様の前へ出るのもいやになってまいりました。そして、自分ながら容貌の醜いのを夜昼悲しみ通しております。これまではよく駆けっこなどをいたしましたのが、太ったためでしょうか、思うように走れないのです。
 しかし、身体には別に異常もございません。
 よく、やせる薬の広告が出ていますが、あれははたしていかがなものでございましょうか。
 (悲しむ女)


これに対する記者さんのお答えは下記の通り。

 お若いご婦人で、肥満して困る、という嘆きをおもらしになるのをずいぶんと伺います。ですが、あなたのように悲観しきっていらっしゃる方は、まあ、珍しいと申してもいいでしょう。
 お若いご婦人がお太りになるのは、ある程度までは生理上自然な現象で、肥満症でもなんでもないのですし、あなたぐらいのお年頃は、時期としてもお太りになってよろしいのです。
 太り過ぎとおっしゃるのは、あなた自身で誇張して考えていらっしゃるのではありませんか。(中略)やせる薬だのやせる方法だのよけいな気苦労をなさらなくてもよろしかろうと思います。しかし、肥満にも程度のあることですから、この上のことはいしゃでなくてはお答えができません。過度の肥満は体質と食物からくることが多く、内臓を概して、重い病気のもとにもなりますが、お若い婦人のお肥えになるのは多くの場合心配には及ばないでしょう。それとも、あまり期になるようなら、とにかく医者にご相談なさい。人は容貌よりも心の美しいのがよいのです。醜いなどと悲観するものではありません。


これを読むと、
・女性はこの時代から「痩せたい」と思い続けていた
・この時代から「やせる薬」が売られていた
ことなどに気づかされます。
また、記者さんのお答えは、ボディ・イメージの歪みの可能性も
指摘しながらのものとなっているのも今に通じるところがありますね。

青年期において女性は、脂肪がついた身体へと変化します。
それは自然なことなのですが、当人にとっては「太ってきた」という
身体への不満足感をもたらす事が知られています。
自然なことだ、と言われても、そうは思えないのですよね。

結局、身体をめぐる悩みの有無は、
客観的な身体の測定指標からは測る事が出来ず、
個人の主観的な身体イメージによって決められているとされます。
なので、客観的にどのような身体になるかということもさることながら、
自分自身が自分の身体をどう受け入れるか、ということが
向き合うべき本質的な問題であることが多いのです。

なりきりちゃんの心理

2010-05-23 22:24:58 | 心理学こぼれ話
授業から派生して考えたこととして、
以下のようなコメントをいただきました。

「私は○○である」のところで考えた事で、メディアなどで「ゆとり世代」「草食系」「A型」「勝ち組」などと人をあるカテゴリーに分類するようなことが時々ありますが、実際はある人の行動を見た人が勝手にそう名付けただけで、本人は自分が「ゆとり」であるとか「負け組」であるとかは考えてもいないこともあるのだと思いました。メディアではいかにも「○○っぽい」行動ばかりが取りあげられますが…。
ファッションで「森ガール」「ギャル系」などといった分類がありますが、あれは自分が森ガールっぽいと思うからしているのか、あるいは森ガールやギャルになろうとしてそのファッションを選んでいるのか、どうなんだろうと思いました。


「ステレオタイプ」という言葉があります。
それは、ある集団を表す社会的カテゴリーです。
たとえば女性とか教師とか、
ここであげられている様々なラベリングもそうですね。
つまり、「こういう特徴をもった人たち」として
集団に属する人たちを理解するためのカテゴリーです。
学校場面では「バレー部」とか所属も
ステレオタイプとして使われることがあります。
そして、ステレオタイプ的見方とは、
「女性だったらこういう人」「教師だったらこういう人」
「バレー部だったらこういう人」というように、
そのカテゴリーに属する人は、同じ性質であると見なす見方です。

一旦そのカテゴリーを与えられると、
そのカテゴリーに属する人に対しては、
そのカテゴリーの性質に合うところの性質ばかり目につく、
ということが起こってきます。
認知のトップダウン処理のなせるわざですね。
これは、人を理解する上で手っ取り早いやり方ですが、
そのカテゴリーの性質にあてはまらないその人の性質を
理解できないということが起こります。

同時に、人は、自己理解をする際、
他者からのフィードバック(「あなたは~~な人だ」というメッセージ)を
手がかりにしていくので、
たとえば、ステレオタイプ的な見方をされていくと、
それにあてはめるように自分を理解していくところがあるかもしれません。
結果、やっぱり○○っぽい、ということになるかもしれません。

その場合は、結果として、
自分が、自分自身をステレオタイプにあてはめてしまうということに
なるのでしょう。
でも人はそう思いこむと、実際にそういう人になることも、
確かにあるように思います。

また、その格好をすることで、そのカテゴリーの人としての役割を引き受けていき、
だんだんそのような性質になっていくところもあるでしょう。
役割を引き受けることで、人がどう変化するかについては、
スタンフォード大学の監獄実験を映画化したesをどうぞ。

エレクトラ・コンプレックス

2010-05-21 22:13:12 | 心理学こぼれ話
(画像はこちらからいただきました。)

心理学用語・ギリシャ神話シリーズの第2弾です。

これは、フロイトの弟子・ユング(後に決別)が、
女性にもエディプス・コンプレックスに対応するものがあると指摘し、
フロイトもそれを受け入れて、概念化されたものです。

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エレクトラは、ミケナイ(ミケーネ)の王・アガメムノンの娘です。
母親は、ギリシャ神話上・悪女と名高いクリタイムネストラ。
クリタイムネストラは最初、タンタロスという王に嫁いでいましたが
彼をアガメムノンに殺されて、そのままアガメムノンの妻となります。

アガメムノンは、トロヤ戦争でギリシャ軍の大将として活躍しました。
最期は、敵国トロヤ王の娘・カッサンドラを側女とし、2人の息子を生みます。
このカッサンドラという女性、アポロン神から預言能力を授けられた女性でしたが、
彼女の預言は人から信頼されないものと運命づけられてもいる人でした。
当たるんですけどね…。
トロイの木馬(写真)なども預言していたとされます。

さて、トロヤを攻略したアガメムノンは、
カッサンドラと共にミケナイに戻る事にします。
カッサンドラはこの時、帰ってはいけないと預言をするのですが
それもまた無視されてしまいます

その頃ミケナイでは、クリタイムネストラが、夫の留守中に
アイギストスと密通を行っていました。
2人にとってアガメムノンは邪魔者です。

ということで、その2人は共謀してアガメムノンらを暗殺します。

その時、あやうく死を免れたのが娘・エレクトラとオレステス。

エレクトラは復讐を恐れるアイギストスによって遠い村に嫁がされ、
長い間孤独で貧しい生活を送ることとなります。

ある日、彼女がアガメムノンの墓に詣でていると、
立派に成長した弟・オレステスが現れます。
かくして姉弟は再会を果たし、復讐を誓い、計画を練ります。
そしてオレステスは、エレクトラの手引きに従い、
いとこ・ピラデスと共に、
母クリタイムネストラとアイギストスとを討ったのでした。

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フロイトは、女性の場合、
2~3歳ごろまでは同性である母親を愛着・依存の対象とするが、
次第に、それまで愛着・依存の対象であった母親を
ライバルとして敵視するようになると考えたのです。
それは、異性である父親に対して愛着・依存が始まるからだと考えました。
エレクトラが母の殺害によって父への愛を全うした事から
この話に着目したのでしょう。

エディプスの話もエレクトラの話も、
預言の存在やらギリシャ神話における独特の血なまぐさい家族関係などが
背景にあります。その世界の中に生きた人々の話なので、
エディプス・コンプレックス、エレクトラ・コンプレックスという時、
その背景を無視してその意味だけが取り出せるのだろうか?と
やや疑問を抱きつつ、紹介させていただきました。

エディプス・コンプレックス

2010-05-13 22:20:13 | 心理学こぼれ話
昨日の予告通り、エディプス・コンプレックスのお話。


エディプス・コンプレックス:
20世紀の初め、フロイトによって明らかにされたものです。
このコンプレックスの命名のもとになったのは、
悲劇のギリシャ神話「エディプス王」です。


----------------

エディプスは、テーバイという国の王・ライオスと
その王妃・イオカステとの間に生まれた男の子でした。

ところが、国王ライオスは、神託によって

「あなたは、いずれ自分の息子に殺される運命になっている」と
告げられてしまいます。
つまり、将来、エディプスに殺されるということですね。
なので、家臣に命じて、生まれて間もない赤子のエディプスを
国境に捨てさせました。

その後、捨てられたエディプスは隣国で拾われて、
コリント王の子どもとして育てられました。

成長したエディプスは、コリント王の実子ではないことを
友人からほのめかされます。
それが本当かどうか気になったため、アポロンの神託を求めてみました。

すると、
「あなたは故郷に帰ると父親を殺し、母親と再婚することになる」
と告げられてしまいます。

エディプスにしてみれば、実子かどうか、なんて悩みを吹き飛ばすほどの
大変ショッキングな予言です。
お父さんを殺したくなんてありません。

なので、そんな予言を実現させまいと考え、
コリントに帰らず旅に出ることを決めました。
お父さんに会いさえしなければ、
上記の予言は実現されえないだろうと考えたからです。
エディプスはコリント王を実の父親であると思っていたので、
コリントの国を離れるのです。

旅に出たエディプスは、その途中である老人を殺してしまいます。
その後、デーバイヘと旅を続け、
その途中でテーバイを苦しめていた怪獣スフィンクスに出会い、
その謎かけに勝利するという活躍もします。
そのほうびに、エディプスはテーバイの王位につくこととなり、
その王妃を妻とすることになります。

ところがその後、テーバイの国には凶作や悪疫などが続いてしまいます。
それらは「神の怒りだ」と考えられ、また、デルポイの神託を求めることになりました。
すると、
「先王を殺害した者の汚れであるから、その犯人を探し出して国外に追放せよ」と
告げられます。

その信託をもとに、いろいろ調査をさせたところ、
エディプスが旅の途中で殺した老人は、
実はテーバイ王・ライオスであり、エディプスの実の父であったこと、
そして、テーバイ王妃であり今はエディプスの妻となったイオカステは、
エディプスの実の母であることが分かります。

これを知ったイオカステは首をくくって自殺し、
エディプスは自分の運命をのろって両眼をつぶして盲目になり、
放浪の旅に出たのです。

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フロイトは、このような神話の悲劇の近親相姦の心理と
それをめぐる同性の親への憎しみ・嫉妬・羨望が
男性の無意識内に基本的に存在すると考え、
神話の主人公の名を借りて、
「エディプス・コンプレックス」と名づけました。

ちなみに、
フロイトがこのようなエディプス・コンプレックスの概念を重要視した背景には、
自身がユダヤ人として父親の権力が強い家庭に育ったことが
大きく影響していると考えられています。

心理学用語と神話、および「コンプレックス」について

2010-05-12 23:29:40 | 心理学こぼれ話
心理学には、ギリシャ神話や寓話をもとにつけられた用語が多くあります。
神話や寓話には、人の心についての普遍的な動きが語られたりしていて、
人の心のあり方についての「ある!ある!」を
象徴的に示してくれるエピソードの役目を果たしてくれるからでしょう。

それの元ネタを知るのはとても楽しい作業です

そんな、心理学用語の元ネタになっているお話を、
ぼちぼち、紹介していこうと思います。

栄えある第1回目は、そんな例の代表格、
「エディプス・コンプレックス(=オイディプス・コンプレックス)」です


…と書いてみますと、「コンプレックス」を説明しないといけないという
壁にぶつかってしまいました。。。

今日は、予告編ということで「コンプレックス」の説明に
とどめざるを得ないようです


心理学、特に臨床心理の領域では、
特定の心理状態を表現するために、
コンプレックス(complex)という用語が使われることがあります。

これは一般に「あの人はコンプレックスが強い」とか、
「私には背が低いというコンプレックスがある」などとは意味が違います。
(それは「コンプレックス」の中の「劣等コンプレックス」と呼ばれます)


ものすごくわかりやすくいうために、
正しい言葉遣いから逸脱している可能性を恐れずに説明すると…
(ちゃんと正しく理解したい方は、河合隼雄著『コンプレックス』
 河合隼雄著『ユング心理学入門』などをご参照ください)


心の中にある色々な内容が、ある感情によって強く結びついてしまうと、
通常の意識活動を妨害してしまうものに変わってしまうことがある。
つまり、通常ならさほど悪さをしない心の中にある内容たちが、
ある感情のもとに集められて結束してしまったことによって、
いつも通りの行動を邪魔してしまうようなものに変身しちゃうことがある。
不適切な行動の背景には、そのようなものが潜んでいるのだと、
そう考えることによって、その行動の意味を理解しようとするわけです。

今言った、そのような、変身後のものを、スイスの精神科医・ユングは、
「感情によって色づけられた複合体(gefühlsbetonter Komplex)」
と名づけました。
これが後に略されて「コンプレックス」とよばれるようになりました。

「コンプレックス」には、いくつかの種類があります。
「米」と言えばだいたい、白米をイメージすると思いますが、
「白米」は「米」と呼ばれるものの一種であり、
「米」というと、その他にも、「玄米」「胚芽米」「黒米」「赤米」など
色んな種類があります。
それと同様、「コンプレックス」といっても先に述べたような
皆がイメージする「劣等コンプレックス」だけでなく、
色んな種類があるのです。


代表的な(有名な)ものだけでも、

・エディプス・コンプレックス
・エレクトラ・コンプレックス
・ディアナ・コンプレックス
→ギリシャ神話から命名されたもの

・カイン・コンプレックス
→旧約聖書から命名されたもの

・劣等コンプレックス
・メサイヤ・コンプレックス
→これは用語そのままかな

など。

というわけで、次回、エディプス・コンプレックスの元ネタ
「エディプス王の物語」についてお話ししましょう。

ネコの自己意識

2010-05-08 21:56:57 | 心理学こぼれ話
(写真はWikipediaからいただきました。)

昨年度、自己意識について講義した際、
授業終了時のコメントに、以下のようなものをいただいたことがあります。
今日はそれにお答えしましょう。

Q:ネコは登れないかもしれないくらい高い所に登りたい時、
  近くで人が見ていると気づいてジャンプしないことがあります。
  また、ジャンプに失敗してしまった時は、
  「しまった、見られた」と思っているかのような素振りをします。
  自己意識、ネコにもあると考えて良いのか…

動物を見ているとそんな気持ちになりますよね。
私も気になったので動物に詳しい妹に聞いてみたところ、
「自己意識ではないのでは?」ということで、以下の回答を得ました。

1)ネコが木に登るのは、本来、隠れてご飯を食べたりするためなので、
 人が見ている時点で、もう、登る必要がないから登らないだけでは?

2)落ちて「しまった」という感じになるのは、
 ただ落ちた瞬間、一番無防備な格好になって、
 そう見えてるだけなのでは?ということでした。

別の解釈の可能性も捨てきれない気がするのですが、
上記説明を聞くと、ある行動を、
「ネコの習性で説明できるかどうか」という観点で検討して、
その方法論がある程度可能であれば、
「習性によるもの」という判断を下すのかな、と思いました。

つまり、「絶対的に」というレベルにまでは確認できないと思われますが、
「“ネコの習性”によって説明可能であるとことによって、
自己意識があるという仮説を棄却する」という形式をとっているようですね。

でもネコが、帰宅時に「おかえり~」と言ってくれたり
帰宅が遅いのを「ばかやろう」と言ってすねたり
鳥を見て「あぶない!」と言ってたり
してるように思えるのは、
やはり我々がそういう言語をつかさどる人間だからなのでしょうねえ。

→でもこのような誤った理解は、人間が人間として育つ上で欠かせない
 すばらしき誤解です。
 (私の授業に出た方はわかりますね。
 またいずれ「心理学こぼれ話」で、書くことにしましょう

顔の類似

2010-04-26 12:26:29 | 心理学こぼれ話
昨年度の授業(「大人と子どもの発達心理学」)の中で、次のような質問をいただきました。

・遺伝に関して、外見と内面の関係はどうなっているのでしょうか?
顔が似ていると性格も似ていたりその反対だったり…、
相関があるのでしょうか?
また「夫婦は似てくる」という言葉も聞きますが、
環境は外見にも影響するのでしょうか?
そっくりな老夫婦をみかけたりしたこともありますが、まさか…。


「まさか…」の次が何なのか、とても気になるところなのですが
私にはその続きが浮かんできません。

外見と内面の関係はとても私の手に負えるものではないので、
後半のテーマ「夫婦は似てくる」は本当か?について
考えたいと思います。

まずはこの問いに答える前に、
ミスチルの歌「しるし」のフレーズを思い出してみましょう。

「おんなじ顔してる」って誰かが冷やかした写真
僕らは似てるのかなぁ?それとも似てきたのかなぁ?


これは、とりようによっては、
「遺伝か環境か」につながる深い問いです。

人の特質を決めるのは「遺伝か環境か」。
この問いは、かつて大議論が展開された問いですが、
成長した人の特質について、それが遺伝によるものか環境によるものか
厳密に区別して考えることは非常に難しい、
なぜなら、両者の影響が相まってその特質が現れたというのが現実だろう、
ということで、
「遺伝も環境も」という考え方に変わっていきました。
今は、そこからさらに進んで、
遺伝と環境がそれぞれ影響するのではなく、
相互に影響し合って人の成長に影響しあうという考え方になっています。

というわけで、長く付き合っている人たちの顔が似ているということについても、
1.もともとによるもの
という側面と
2.環境によるもの
という側面とを両方指摘することができるでしょう。

言い換えると、
1.もともと似ていた。その人たちが惹かれ合って一緒にいるようになった。
2.似てない人同士が惹かれ合った。一緒にいる間に似てきた。
ということになります。
当然ながら、
3.もともと似ていて、一緒にいる間にさらに似てきた。
ということも考えられますが、それは、1と2におけるそれぞれの
要因が複合したものと思われますので、ここでは1と2を考えます。

ここには時間経過を伴う変化が存在しますから、
そこも説明しないと冒頭の問いの答えとしては不十分ですね。
1.の場合には、「なぜ似ていた者同士が惹かれ合ったのか?」ということについて、
2.の場合には、「なせ一緒にいると似てくるのか?」ということについて
言及しないと不十分でしょう。

順にお答えしていきましょう。

1.の場合:

人は、そもそも、無意識的には自分のことが一番好きだという考え方があります。
なので、無意識的・意識的に、自分に似た者を愛するのだとされます。

また、自分と同じ程度のかっこよさ・美しさの人を選ぶことが
自分の自己評価を守るという考え方もあります。
優れた外見の人をパートナーにすることは
その人の自尊心を高めるという一面もありますが
かえって自身の外見に対する劣等感を喚起させたり、
相手を誰かに奪われてしまうのではないかと不安にさせられたりする。
結局、何となくかっこよさ・美しさの程度が同じような相手と
いるのが居心地がよい、ということになるそうです。

ちなみに、顔ではないですが、趣味や嗜好が似ていると、
たとえば何か計画を立てる際にも気が合いやすく、
居心地のよい時間を共有しやすいため、
結局、自分と似た人を選ぶということも指摘されています。

2の場合:
顔の造作が似ているとまではいかなくとも、
同じ時間を共有する者同士が、似た表情をもつようになることは
考えられると思います。

人は、普通、笑いかけられると笑い返すものであり、
深刻な顔をされると深刻な顔になってしまうものです。

そういった表情は、なんとなくの雰囲気を作り出し、
その人のイメージを抱くときに影響を与えます。

ひいていうならば、顔の表情は、それが長く維持されると
顔の筋肉や皺に影響してきますから、
基本的な顔の造作に影響してくることも考えられます。

また、食生活を共にすると、一緒に太ったりやせたりということが
あるかもしれません。

というわけで、いずれの方向からも説明が可能であるという話でした。

ですがもう1つ。

「『夫婦は似てくる』と言いますが」という下り。
これについては、一般論に展開していいのか?という疑問がわいてきます。
本当に似たもの同士ばかりなのか?ということについては、クエスチョンだからです。
でも、「夫婦は似てくる」という信念をもつと、
私たちはそれを証明する例にばかり、目が向くようになっていきます。

それについては以前のブログ、クリティカルシンキング入門をどうぞ。

「あんよ」の謎

2010-04-18 10:01:18 | 心理学こぼれ話
私にはとても優秀な後輩がいるのですが、
先日、彼女から教材DVDが送られてきました。

まずは、彼女の家でも見せてもらった衝撃映像の1つ、
ボリビアの「スウォドリング」と呼ばれる子育てを改めて見てみました。


ボリビアのある地域では、
赤ちゃんは、シュンピと呼ばれる布にぐるぐる巻にされ、
顔だけ出したような、ロシアのマトリョーシカみたいな状態で、
ほとんど1日中を過ごすのだそうです。

*これが「スウォドリング(Swaddling)」と呼ばれます。
*swaddle: [動]1 ((古風))〈新生児を〉布でくるむ. 2 …を(包帯・毛布などで)くるむ, 巻く. 3 …の手足をしばる. ━━[名] 1 ((米))うぶ着, おむつ. 2 包帯

お母さんは、その布ごと大きな布にくるんで背中に背負って
農作業などに出かけるのです。
シュンピを外されるのは、おむつを替える2時間ほどだとか。


そんな状態で1年を過ごすのです。


この1年の間、通常の赤ちゃんの場合、

・上から下へ:
  まずはくびがすわるようになり、上体を支えることができるようになり
  そして最後に足で支えられるようになる。 
・全体から部分へ:
  まず、胴体部分の運動ができるようになってから、手足の運動、
  そして指先の運動ができるようになる。

の方向に沿って、運動能力が発達していくことが観察されています。

なので、

・寝返り→上体起こし→おすわり→はいはい→つかまり立ち→あんよ

という過程をたどる、というのが一般的な理解です。
この過程はだいたい1年くらいかかります。


ボリビアの赤ちゃんの場合、この過程をたどる1年間、
ずっとシュンピでぐるぐる巻にされているのですが・・・

1年経って、シュンピを外された赤ちゃんは・・・

なんと、、、

ゆっくりと立って、歩き始めるのです
それまでずっとぐるぐる巻にされ、手足の自由もなかったのに


これはとっても衝撃的でした。

これについては、赤ちゃんの運動の発達は
このようにあらかじめプログラムされているのだ、と
説明されていました。
つまり、ある時期に来たら、あることができるように
プログラムされている、というわけです。
逆に、それ以前に何かをさせようとしても、
無理な場合もあるということですね。
子どもの発達には、やはり、時機というのがあるようです。


ただ、2つの点で、私は多少混乱いたしました。
以下については、もう少し調べていかねば、と思っています。


1つは、「歩行」というものが、それ以前の運動の発達過程を
スキップして成り立っていたということ。

先に示した、
「寝返り→上体起こし→おすわり→はいはい→つかまり立ち」の過程が、
シュンピを外された瞬間に、大急ぎにたどられるというわけではなく、
それらが全部スキップされて、突然、ゆっくり立ち上がり、歩き出す、
という行動が観察されていたのです。
つまり、それまでの段階を全速力で駆け上がったのではなく、
ひょいと突然あんよの段階までジャンプしちゃっていたのです。

ということは、歩くための準備だと思っていた過程は、
絶対に必要なものではなかったのか、ということです。


そしてもう1つは、発達がプログラムされていることは
十分理解できるとしても、その発達における
働きかけは必要なかったのか?ということです。

通常、発達に際し、適切な働きかけが重要であることは知られています。
たとえば、生まれてからずっと真っ暗な状態に置かれたサルの赤ちゃんは、
視神経になんの異常もないのに、その環境下にあって、
視覚を司る脳の神経細胞が発達することができなかったために、
視力を獲得することができなかったことが報告されています。

運動能力の場合、子どもが自ら行動を開始するにしても、
シュンピでぐるぐる巻にされていたら、
筋肉は発達しないのではないでしょうか?
つまり、手足が動かせない環境下にあって、
なぜ自分の身体を支えられるほどの脚力を
つけることができていたのでしょうか?

シュンピの中で、秘かに赤ちゃんは
何らかの筋力トレーニングをしていたのでしょうか?
それとも、映像の示し方で、突然歩けるように見えたけれど
それなりにちょっとタイムラグがあったのでしょうか?

あるいは、実は民族の知恵で1年後くらいにシュンピを外しているから
無事に発達しているだけで、あのまま何年もぐるぐる巻にしていたら
やはり歩けなくなってしまうのでしょうか?
→これは「臨界期」(=発達の締切日)に関わる問題です。


まあ、このような疑問を喚起されたりもしたわけですが、
それらはまたおいおい調べていくこととして、

まずは
「赤ちゃんは発達のプログラムをもって生まれてくる」ということについては
十分すぎるほどに納得させてくれる映像でした。


特に教育に携わる人は、環境の働きかけを絶対視してしまうことが
多いように思いますが(これは私見です)
そういう働きかけも、相手のもっているプログラムに支えられている
(あるいは規定されている)ところがあるということを
十分に自覚しながら、なおかつ、教育の可能性を探る、という姿勢が
重要なのではないかと個人的には思っています。

根拠は作られる

2010-03-22 12:08:41 | 心理学こぼれ話
以前の話題で、
ミカン箱に入れられて流されてきたと聞かされてきた方の話を書きました。

その方は、自分だけ、他のきょうだいが嫌いな青いミカンも大好きで、
そのことが、さらに、親の作り話
「ミカン箱に入れられて流されてきた」ということを
信じ込む根拠になっていたそうです。
ミカン箱に入れられていたから、こんなにミカンが好きなんだ…と。

きっと、その方は、親の話を聞いて、衝撃を受けたのでしょう。
でも親がそう言うからにはきっとそうなんだろう…
でもそう信じたくなくて、色々に考え、それを事実として
受け止めるための根拠を一生懸命探してしまったのかもしれません。

そしてある時、自分だけがきょうだいの中で
こんなにミカンが好きだという事実に出会います。
そしてそれは、ミカン箱に入れられていたことを裏づける根拠として
その人の心の中で機能し始めます。
そしてその子は、
ああ、だからあれはやはり本当だったんだ、
私はミカン箱に入れられ流されてきた子どもだったんだと
確信を得るに至ります。


これは何も子どもに限ったことではなりません。
私たちは、日常の中の「わからないこと」に対して
それを少しでも自分に分かる形で理解しようと努力をしており、
その努力の過程で、自分なりに根拠を作り出すことがあります。
そうすることで、「わからない」という不安定さから
脱することができるからです。


ここで忘れてならないのは、2つのことです。

1つは、その根拠を得たとしても、その根拠が支持する事柄が
事実であるとは限らないということ。
すべてが解釈によって成り立っていることもあるからです。(注1)

もう1つは、しかしながらその根拠は根拠として、
その人にとっては重大な意味をもっているということ。
客観的にどれだけ突飛なことであっても、その人の中では
非常に合理的な理解とされているということです。(注2)

そしてこの2つは、相乗効果をもたらします。
ある1つのことを事実だと信じ始めると、
その事実を確証する情報だけが日常の中で意識されるようになり、
記憶されるようになり、記憶として呼び起こされるようになります。
つまり、信じた事柄を事実とする根拠を次から次へと集め始めるのです。(注3)


さて。

このようなことは、何を対象とする場合においても起こりうるのですが、
自分についての考えだった時にはどうなるでしょう。

まず大原則として、
自己についての概念(=自己概念)というのは、
変化に対して抵抗するという性質をもっています。(注4)
そのため、一旦、自分はこうだという信念ができあがると、
それを変えることは容易ではありません。
なぜなら、それはその人が自分を生きる上での足場となっているからです。

でも、自分は悪い子だ、ダメな子だ、愛されてないんだ、と
確信を得るに至るまでには、
本当なのかな?でもやっぱり愛されてるんじゃないかな?と
不安に対して一生懸命疑問を抱く時間があるように思います。
それは…、そう信じたいからです。(注5)

ならば、その否定的メッセージを信頼するための根拠が
十分に集まってしまう前に、
まだ、「そうかもしれないけど、でも本当かな?」と信念が揺らいでいる間に、
言葉を変えれば、まだその子が「そうではないはず」と希望を持っている間に、
その否定的メッセージを否定するメッセージを与えることで、
否定的メッセージが自己概念として固まってしまうのを
防ぐことができるとも考えられるでしょう。

でもその時にも、そのメッセージを信じるには、
「やっぱりそうじゃなかったんだ」と信じるに足る根拠を、
たくさん集めていかねばなりません。
否定的メッセージを信じるための根拠を集めた分よりも大きな力をもつ根拠を。
加えてもう1つ。心理学の研究からは、
否定的な記憶は残りやすいということも明らかにされています。(注6)

なので、否定的メッセージが与えた衝撃を覆すには、
それまでに集めてしまった根拠と、
否定的メッセージであったが故の記憶の強さを凌駕するほどの意味を持つ
メッセージを与えてあげることが必要になるでしょう。

そしてその人は、それを信じるための根拠を
自分の中で集めたり作ったりしていくわけですが、
それには時間がかかり、それが十分でないうちは、
そのメッセージはまだ、脆く崩れやすい信念でしかないことも
知っておくことが必要でしょう。

でも同時に、やはり私たち人間は、誰でも、
自分というものへの素朴な愛着というものを持っているものである、
あるいは持ちたいと思っているものであるということをも、
知っておくことが必要でしょう。


-------


「心理学こぼれ話」のカテゴリーであることも考慮して、
私がこう述べる根拠を紹介すべく、注を入れつつ書いてみました。
たぶん、私が1人で作り上げた根拠ではないだろうと思っているので、
いずれも、そのうち、日を改めて紹介していこうと思います。

注1:コミュニケーション様式に関する初期の研究でモデル化されています。
注2:これは現象学的心理学などで特に明言化されています。
注3:記憶についてはこのブログでも何度か触れていますが、
 この話については意外にも触れていなかったようですね。
注4:これは自己概念の性質として、ロジャースという人が特に明言しましたが、
  その後、様々な実証研究でも支持されています。
注5:これは、まずは抑圧のメカニズムとして理解されます。
注6:ネガティブ・バイアスといいます。
  ネガティブ・バイアスにはこの他にもいくつかのチャンネルがあります。

スイスイ・ドライブ

2010-02-02 06:00:00 | 心理学こぼれ話
今日は平成22年2月2日ですね。
2並び!ということで、今日は数字のお話を。

* * * * *

「今日はかなりスイスイと走ることができた
と誰かが言ったら、皆さんはどんな風景を想像しますか?

「スイスイ泳ぐ」場面は、視覚的にもイメージしやすいですね
スムーズにすべるように進むことができている時、
私たちは「スイスイと」という言葉を使います。
スイスイと走ったということは、
進行を邪魔するものなく走ったということでしょうね。

* * * * *

ある日、大学へ向かって運転をしている時に、
「あれ?なんだか今日はかなりスイスイ走っているなあ」と
思ったことがありました。
かなりの距離を走ったのに、信号にほとんど止まらずに来ているなあと
思ったのです

なんだか嬉しい気分になってきました。
こういう気持ちは誰かと分け合いたいもんです

では、「スイスイ走った」ということをちゃんと伝えるには
どうしたらいいのでしょうか。

a.とにかく連呼する
b.どれだけ自分が気持ちよかったかを熱く語る

a.のような力業も、自分の感動を伝えるにはいいかもしれません。
b.も1つの手ででしょう。

共感的な相手ならば、その感動を一緒に味わってくれるでしょう。
でももしかしたら、
「この人は連呼する人だなあ」とか「この人は熱く語る人だなあ」という
印象をもたれるだけで終わってしまうかもしれません。

そしてもしも、「大したことないんちゃうん」と言われると、
「あ…そうかしら」とこちらが引き下がらないと
いけない事態になってしまうかもしれません。

そこで重要なのは、これが「大したことである事」を
どう伝えるかということです。
これを伝えるには、例えば「通常とは違うんだ」ということを
しっかり情報に盛り込む必要があります。

場合によっては、聞き手の側が「いつもと違う」ことを示すような
情報を付加してくれて、これがいかに通常とは違うかを味わう努力を
共に行ってくれる場合もありますが、
できることならば、自分の口で、
「いつも」はこうで、「特別だった今回」はこうだった、と
比較するということを説明に盛り込めるに越した事はありません。
それができていれば、「いつも」と「特別だった今回」との落差を
きちんと相手に伝える事ができ、自分がなぜいつもと違うように
感じたのかをよりよく分かってもらう事ができるでしょう。

* * * * *

さて、こうなると、
「いつも」と「特別だった今回」とを、どのような物差し上で表現するか。
これを考えねばなりません。

これが「測定」ということにつながってきます

心理学の場合、
測定するための何らかの物差し(心理尺度など)を使って数値を得て、
その数値を用いて、統計的手続きを進めて、
その数値に意味があるのかどうかを考えていきます。

たとえば、2つの違った数値を比較して、
数値は違うけど、まあ、大した違いではないや、という程度のものなのか、
違うんだと論ずるに値するような意味をもつ違いであるのか、
(その違いは、本当に意味ある違いとして扱ってよいのか)を
検討していきます。

心理学の調査や実験の結果は、
この手続きを経てはじめて、結果としての価値をもつと見なされます。
ですが、いずれにしても、数値がなければ
この手続きを踏む事はできませんし、
とった数値がおかど違いのものであれば、結果が出たとしても
結果の意味を考察することができません。

なので、どのようなものさしで測るかということは、
とても重要な問題なのです。

* * * * *

さて、では、どの程度スイスイ走ったかを伝えるために
測定すべき数値とは何でしょうか。
いくつか考えてみました。

(1)どれだけ長くノンストップで走れた距離があったかを示す。
学校までの道のりは30kmちょいです。
30kmをノンストップで行くのは無理ですが、
どの程度の長さをノンストップで走れたかを考えてみよう。
→信号で止まる度に走行距離をメモすることで可能になります。

その結果、スイスイ走れたなと思ったその日は、最長で6.5km、
ノンストップで走ることができていました。
ところが、同じ日の帰り(夜)、同様にメモをとってみると、
最長でノンストップ7.3km走ることができていました。

ただし、夜は信号が点滅信号に変わるなどといった
道路上の事情の違いがあります。
夜との比較は、かなり条件が違ったもの同士の比較になるので、
もう夜との比較は行わないことにします。

さて、6.5kmという距離ですが、
それがどのくらいすごいこととして伝わるか。
それが問題です。

60kmで走っていたとしたら、
だいたい6~7分も走ることができたわけですから、
単に6.5kmと言うよりは、
その情報も追加した方がいいかもしれません。

しかし、いつもはどの程度ノンストップで走ることが
できるのかの情報がないため、
「いつもと違って」という点については、やはりデータ不足のようでした。

(2)何個の信号を通過できたかを示す。
「スイスイ走れた」というのは、その走りを阻害するもの、
すなわち信号につかまらなかったということと意味が近いように思われます。
この観点ではどうでしょうか。

その日は、30kmちょいの道のりにおいて、
8回、信号につかまっていました。

ところが、この「8回信号につかまった」というデータは、
何個の信号を通過できたかを考えるには適切ではありません。
全体として何個信号があるかわからないと、
いくつ通過したかが計算できません。

なので、信号の総数を数えてみることにしました。
その結果、家から大学までの信号の数は、29個でした(たぶん)。
となると、その日は実に、21個の信号を
青で通過することができたということになります。
これはなかなかいい数字なのではないでしょうか。

しかし、「いつも」が分からないと比較ができません。
そこで、信号停止の総数と、連続して通過できた信号の数の最大値を
それぞれ記録することにしました。
すると、信号停止の総数は、10回とか9回とかの日が多く、
8回という回数が、本当にいつも以上に少ないものであったかどうかについて
なんだかあやしい気持ちになってきました。

ただし、連続して通過できた信号の数の最大値は
“5”である日が続きました。
スイスイ走れた日は、その数値が高かったのかも知れません。
たとえば信号3個くらい通過できてすぐ停まっていたけど
その代わり、7個とか8個くらいの信号を連続通過できていたとか。
しかし、それはメモされていませんでしたので比較できません。

そうこうしていたある日。
おどろいたことが起こりました。
その日は日中の時間帯にもかかわらず、4回しか信号につかまらず、
しかも、11個の信号、8個の信号を連続して通過するという
2つの大きなスイスイ体験も楽しみながら
大学に行けるということが起こったのです。

もしかしたら、こういうことは今までにも起こっていて
気づかずにいたのかも知れません。
ですが、記録をとっていたおかげで、
そのスイスイ体験には十分注意が向けられ、
おかげさまでいつも以上に自覚しながら楽しむことができました。
また、メモをとっていたので、「すごい!!」という、
そのスイスイ・ドライブの「いつもと違う」感じを別の角度からも
味わうことができました。
これは予期せぬ副産物でした。

* * * * *

さて。
そういうプロセスを経ながら、どう測定するかを考えたりしていたのですが、

(3)所要時間の比較
これがもしかしたら一番手っ取り早い!?ということに今更ながらに
気づいたりしています。
でもいつも「だいたい40分~50分かかる」と大雑把にとらえて行動しているので、
あまり時間のことを気にしていないんですよね…。
なのでメモの蓄積は皆無です。

これら一連のことを考えている時に、こういう場合の「通常」を
どう設定するかも難しいことだな、と思ったりしました。
何を通常の値とするかについては種々議論があるでしょうが、
(以前書いたブログもご参照ください)
このような場合、膨大にデータをとって、
平均を求めるという手法が王道でしょう。

なので、もう少しデータをとり続けないといけないのかもしれません。


* * * * *


前回のブログは、灯油ポンプについてでした。


名前が思い出せない時(2)

2009-12-17 15:24:11 | 心理学こぼれ話
さて、前回の続きです。
まずは伏線めいた補足から。


* * * * *


前回
> 日本語の「先生」というのは、本当に便利な言葉です。
と書きました。
これはもちろん、このような敬称がそのまま相手の呼び名として
機能する文化においては、
「先生」とか「社長」など、相手の敬称を用いるだけで
名前を覚えずとも対話がスムーズに進み得る、という点をさしていました。

それに対して、英語圏はどうかというと、そういうのがないから
名前を覚えておかないといけない…となるわけですが、
もちろん、英語の場合でも、店員さんなどが名前を知らない人に
呼びかけるというシチュエーションはあります。
そういう場合は、「マダム」や「サー」などが用いられます。

しかし、そのような呼び名は、心理的距離が遠い場合に用いられるので
前回のようなシチュエーション、にこやかに話しているけど
相手の名前が思い出せない…という場合には用いられません。

また、日本語の場合、
主語抜きでの対話が可能であるという特性を生かして
相手に対して聞いているという部分を言語化する過程は一切スキップして
「どう思います?」といった類の言葉を紡ぐことが可能です。
しかし、英語となると必ず主語を入れないといけない。

なので、英語圏では相手の名前を覚えておかないと大変…

となるかと思いきや、意外と1対1のシチュエーションでは
大した問題にはなりません。

なぜなら、主語といってもそれは、「you」でいいからです。
英語の場合、面と向かって話をしている相手に対して
わざわざいちいち名前を使うということはあまりない、というのが実感です。

しかし日本語の場合、「あなた」を「○○さん」に変えないと
なんだか違和感を感じてしまう…
いずれにしても、日本語で「あなたは?」「君は?」なんて言われると
やや公式的な対話にニュアンスが変化してしまうような感じを受けます。

…ただそれは、私が東京で生きた事がないからでしょうか。
東京の人たちは「君さあ~」とかって使う事は日常なのでしょうか。
私も「あなたはどうなの?」とか「君はどう思うの?」などと
使う事はありますが、それは、
「他の人はどうでもいい、“あなた自身”はどうなのよ?」というような、
二人称的意味合いを屹立させたい時にだけ使っている気がします。
他は大抵、「○○さんは?」とか「先生は?」とか、主語抜きとか。

大阪の人は、二人称として「自分」を使いますね。
「自分、どう思う?」って初めて言われた時には衝撃を受けましたが、
これはいわゆる「you」が、日常において他の呼びかけと対等の意味合いで
使用されている稀な例なのではないかと思います。
京都では「あんた」を使いますね。
これも心理的に最初はぐっさりきましたが大阪の「自分」よりは
使いやすい二人称でした。

これらの話は書いているといくらでもふくらみますし
限りなく脱線していきますので
あくまでも補足の今回はここで閉じましょう。
えー、ここまでのまとめとして、
日本語では「主語を抜ける」「敬称を使える」という特性を、
英語では「youで事足りる」という特性をそれぞれ生かすことによって、
a.を実現する術があるということができるでしょう。


* * * * *


さて、本題です。
以前、少し触れた事もありますが、
まずは、人の名前は覚えにくいものであるというお話から。

「パン屋のベーカーのパラドックス」という現象があります。
次の実験から見出されたものです。
第1グループには、見知らぬ男性の顔写真とその人の名前を、
第2グループには、見知らぬ男性の顔写真とその人の職業を、
それぞれ教えます。
その後、それぞれのグループに対して、顔写真の男性についての情報を
思い出すように指示したところ、名前よりも職業名の方が
思い出されやすかったという話です。

この場合、人名と職業名が同一だったので、
 ・Potter=ポッターさん(人名)、陶芸家(職業名)
 ・Baker=ベーカーさん(人名)、パン屋(職業名)
結果の違いは、単語自体の覚えやすさによるものではありません。

この結果について、
職業を聞いた場合は、その人について、
「職業」に関する様々な既有の関連情報と結びつけながら
記憶していく事をしやすいのに対し、
名前の場合は、その人個人についての情報を
ほとんどまったく与えてくれないため、
関連情報と結びつけにくいのだと考察されています。


* * * * *


さて。
以上のように、名前を覚えるのは難しいわけです。

だから、名前が思い出せない時というのは、
私やあなたにだけ訪れるのではなく、
恐らく多くの人に訪れています。
そして、そう、目の前にいる○○さんにも…。

なのに、名前を忘れた事にじたばたするということは
前回すでに延々と書きましたね。

そして、会話の中で何気なく相手の名前を聞き出すという
ローリスク・ハイリターンの方法を
なんとか採用できないものか?と問うていたわけです。


あります


それは、相手の名前を知っているふりをして
たとえば、○○さんに対して、
「あ~!△△さん!!お久しぶりですね~。
 以前××でお会いした中間です。」
と話しかけてしまうというものです。

すると相手は、「あ~久しぶり~。でも私、○○よ」と
教えてくれるというわけです。

「忘れていた」ということを「勘違いしていた」ことに
変えてしまうのです。
(本当に勘違いのこともありますよね)

「勘違いしていない時に適当に相手の名前を言ってしまう」
というのは、なかなかない発想でした。
しかし、これは特別な方法というよりは、英語圏では
とても自然なやりとりなんだそうです。
英会話の先生に教わりました。

その場で即興で適当に相手の名前を言ってしまうというのは、
難しいような気がしますが、当てる必要はないので、
名前が思い出せない時はそういう方法をとるんだ、
と決めてしまっておけばそんなに難しい方法ではないでしょう

それは失礼ではないの?と確認してみましたが、
その先生は、「誰も名前なんか覚えていない
こうやって相手の名前を聞き出すのはとてもナチュラルよ
と豪快に言っておられました。

さらに言うならば、そのとんちんかんな呼びかけから
「あら、変な勘違い」と、笑いが生まれ、
アイスブレーキングの役目も果たしてくれるとのこと
相手がムッとして「違うわ、私○○よ」って返してきても、
勘違い小咄をお披露目するチャンスだと思って、
お詫びの気持ちと共に、それらの小咄を手短にお届けしましょう。
もしもその時、「違うわ、私○○よ、徳川さん」なんて
私に返してきてくれたら、お互い様だったということで
双方共に、安心することができるでしょうし、
勘違い仲間として(あるいは名前忘れ仲間として)
より心理的に近くなれるかもしれません。
もちろん、相手が訂正してくれた時、お詫びと感謝は必須です。

右手にいざという時に発する名前のバラエティ
左手に勘違いエピソード小咄のバラエティ
そして顔には笑顔を携えてさえおけば
名前のど忘れなんてもうこわくありません
もしも相手が「ちげーよ」という態度をしてきても
大人の余裕で返しましょう。


* * * * *


しかしこれは、あくまでも英語圏文化でナチュラルさが
補償されたコミュニケーションです。
日本文化圏でどのくらいナチュラルにやれるのか、
まだ検証しておりません。
あしからず。

また、相手が
「この人勘違いしている。訂正したら悪いかしら…」と
困惑してしまい、会話の最後までこちらに気を遣って
△△さんのふりをしてくれつつも、
「訂正すべきかしらどうかしら…」と
気疲れしてしまうかもしれない
という心配がないわけでもありません。
そのような場合は、その方にこのブログを読むよう進めてください

※次回は12月22日です。お楽しみに

「目から鱗」の物語:機能的固着

2009-08-22 13:55:15 | 心理学こぼれ話
この数ヶ月、私を悩ませていた問題の1つに「電子レンジの皿」がある。
スープか何かをこぼしてしまったようで、
そのエキスのようなものがこびりついたままとれなかったのである。
スポンジで何度も洗ったり、
油落ちの洗剤を用いてみたりしてもなかなかとれず、困っていた。

仕方がないので、
「それだけ洗ってもとれないのだから、最悪の場合でも、
それが他のものに移るということもないだろう」
ということで、汚れがとれないまま、使い続けていた。

しかし、うちのレンジの場合、オーブンの時にもその皿がそのまま使われる。
オーブンを使うと、いつもより温度が高くなる。
そのため、だんだんその汚れは焦げ色を増してきた。
いやだなあと思い、その都度洗ってみるのだが、やはりとれない。

今日、ふと、100円ショップで買った
激落ちくん」というスポンジ洗剤でこすってみた。
これは、茶渋などをとるのに優れているので
私のお気に入りの家事用品の1つだ。
あまり頻繁に使うと食器地を傷めることがあるらしい。
実際、私の湯飲みは口に金箔で縁取りがあったのに、
結構まめにそれを使って洗っていたせいで、
金の縁取りはすべて消えてしまった。

そのような欠点はあるものの、
湯飲みやティーカップの茶渋がとれるのは
実に気持ちがよいので愛用している。

さて、電子レンジの皿であるが、なんと、汚れが落ちたのである。
これまで何度も汚れを落とそうとチャレンジしていたのに、
また、激落ち君は以前から我が家にあったのに、
なぜか試していなかったのだ。

おそらく、私の中に、
「激落ち君は茶渋などを落としてくれるもの」という思いこみがあり、
そして、電子レンジの皿は油汚れと思っていたため、
レンジの皿を激落ち君で洗うという発想が湧かなかったのだ。
なぜ今日激落ち君で洗ったかというと、
その汚れの一部がなぜかはがれており、その汚れの落ち方が、
茶渋の取れ方を連想させたからだ。

人は、生活の中で、知らないうちに自分の思考の枠組みを作ってしまい、
その枠組みの中を生きている。
そのため、ものすごく簡単なことでも、
その枠の中にないパターンだとなかなか思いつかないものだ。

心理学においては、考える働き、すなわち思考過程は、
「知覚によって獲得した情報や、長期記憶内の情報を、
ある目的のために利用、操作し、
新しい情報(問題解決のための解や推論の結果)を
生み出す認知過程」
とされる。
知覚の成立過程は、即時的で自動的で無意識的な過程であり、
その間で生じている諸段階を自分自身で感じることはできないのに対して、
思考過程はそれよりかなりの時間を要する。

しかし、知覚過程においてさえも
過去に獲得した知識などが関与していることが知られている。
思考過程においてはそれ以上に過去経験の影響が想定される。

問題が適切に解決されるために問題場面が新しく認識され直すことを
ゲシュタルト心理学では「再体制化」と呼ぶが、
それはなかなか難しい。
そのことは、我々が、ある特定の思考パターンや認知パターンに
固執しがちであることを示唆している。

中でも、ある特定の状況に対して予期をしたり、行動の準備状態をとったり、
あるいは、認知や反応の仕方にあらかじめ一定の方向を持ったりすることで、
個体特定の情報を認知しやすくなり特定の反応が生じやすくなる半面、
構えに合わない認知や反応は生じにくくなることは
「構えの効果」と呼ばれる。

今回私が陥ったような、既存の知識などによって
対象の機能を習慣的なものに限定してしまうことは「機能的固着」と呼ばれる。

いずれにしても、それらの問題が解けたとき、
我々は「なんでそれに気づかなかったんだろう」という反応をする。
言われてみれば当たり前で特段難しくはない解決法なのに、
なかなか思いつかないのである。

思考のパターンの枠組みをちょっとはみ出ることができたら、
もっと創造的なことができるのかもしれない。
思考パターンの習得は、言ってみれば手続きの習得だ。
それがあるおかげで我々は新たな場面に以前の知識を応用することができる。

だが、現在どうしても解けない問題がある場合、
その解けない要因は、
問題の難しさではなく解く側の思考の固着にあることも考えられるのである。

私の経験からいうと、それは解けてからでないと、
自分がそのパターンにはまっていたことに気づけないものだ。
だからそんな時はやはり他者の視点を借りるのが有効なように思う。

いずれにしても、今日は数ヶ月悩み続けていた汚れが落ちて
非常に満足だった。