goo blog サービス終了のお知らせ 

中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

修行の過程(3):仏様との出会いについて

2009-06-29 18:38:58 | 授業日記
前回のブログで、修行中に仏様を見るという話を書きました。
辛い修行に耐えているある日、修行僧は仏様に出会い、
仏様が何かありがたい言葉をかけてくれたり
あたたかいまなざしや微笑みを向けてくれたりして、
それによって大きな救いをいただくのだそうです。

実際に、仏様に出会えたわけではありません。
その人が仏様の幻覚を見るわけです。
幻覚自体は誰にでも起こりうることで、
人は、3日くらい眠らずにいると、
幻覚を見たり幻聴を聞いたりするようになることが知られています。

それはそうとしても、ここで考えたいのは、
たとえ幻覚であっても
「仏様」と出会ったというその出来事の意味です。

前回のブログで、この「仏様」に出会えることで、
その後、迷いなく修行に精進できるようになると書きました。
つまり、その経験によって、大きな変化を体験すると。
そして、なぜその修行に絶えられるかという問いの答えの1つとして
自分の行為に意味を感じる事が出来るという点にふれました。

これは、言い方を変えると、
自分がやっていることを自分で肯定する
あるいは納得することが出来るということです。
このような感覚を得るには
自分でその意味をつかみとる事も大事です。

アイデンティティ論で説明すると、
「他者からの承認によって確信がより強くなる」と
言う事が出来るでしょう。

かつて、アイデンティティ論者の西平直先生が、
学会発表論文集で書いておられた文言は詩的で
とても印象に残っています。
「進学するか就職するか迷っていた大学生。
自分の中ではもう結論は出ている。しかし、自信がない。
その時、信頼する先生にもらった言葉、「君ならやれる。」
その一言がほしかった。」

そしてこの時承認してくれる人は近所の人とかでは意味がない、
自分がこれから参入していこうとする社会における
意味のある他者であることが重要だとされています。
その意味で、仏様というのは、この上なく意味のある他者です。
その他者に承認されるということはこの上ない力となり、
自分が進んでいく上で大きな勇気をくれるでしょう。

ですが、ここでの仏様との出会いの意味は、先日書いた3点目、
自分が何かを選んだのではなく大きな力に運ばれてここにいる、
自分が世界の中に置かれている自分の定位置を定めることができる
ということを促してくれたという意味の方がすっきりする気がします。
自分以上の大きなものに支えられて生きているということを知ると、
自分自身をどこかに「委ねる」感覚が得られるのかも知れません。
そうなると、もうそれ以上、意味を問わずにいられるようになります。
自分の確信が正しいのかどうか、その次元も飛び越えるわけです。

私の学部時代の恩師であり自己意識研究者の梶田叡一先生は
自己意識の発達過程の中で、主体性や自己責任性など、
主体としての自己の意識の形成を重視しますが、
その確立の後、それを超えた存在との関係性の自覚ということも
重要なプロセスとして進められるべきであると言います。
個人を確立する事、自分で自分の主体を引き受ける事は
非常に大事ですが、それで終わりではなく、その後さらに、
それを再度世界に戻すプロセスがもたれるべきだと。

それを彼は、「垂直軸の自己意識」と呼びます。
現時点で色々な人と出会ったり、関係性をもったりして、
生活空間の中で無限に広がる自己意識を「水平軸の自己意識」と呼び、
それとは別次元の、自分たちの了解可能な範囲を超えた、
霊的な部分といってもよいだろうし、世界観を伴うといってもよいような
そういう自己意識を「垂直軸の自己意識」というわけです。
「自分は生かされている」という感覚です。

もちろん、主体が確立できない、流されてばかりいるような時には
この感覚は肯定的には作用しないでしょう。
また、垂直軸の自己意識の内容は非常に私秘的であったり
検証不可能であったりすることもあるでしょう。
でも、人は、何らかの神話の中に生きていると言われます。
その神話を得る事で、逆説的ではありますが
現実を力強く生きる事ができるようになることがあります。
(→このことを知りたい人はこちらをどうぞ。)

仏様に出会うというのは、この「垂直軸の自己意識」の
獲得なのではないかと思いました。

今回で修行の話は終わりにしようと思ってましたが、
これに関して、もう1トピックだけ付け加えます。
続きをお楽しみに。

修行の過程(2):永遠に続く修行をどう生きるか

2009-06-26 10:32:20 | 授業日記
さて、前回お話しした修行の話の続きなんですが。

 その先生によると、仏教の修行の中で、一番厳しい修行というのが比叡山の修行なんだそうです。
 とりわけ、つらいのは、墓守の修行だそうです。墓守の修行というのは、最澄の墓をずっと守って掃除をし続けるというものです。墓場なので陽の当たらない場所でずっといないといけなくて脚気をはじめ体調が悪くなったりするし、しかも、死ぬまで代替わりできないという決まりになっているんだそうです。つまりその修行は死ぬまで続くんですね…

 これを聞いたとき、ぞっとしました
 人は、どんなにつらい状況になっても、「いつかここを抜け出せる」「未来は変わる」と信じることでその状況に耐えることができます。現状のつらさに終わりを仮定することによって、つらい現実を生きるに足る希望をもつことができるのです。

 しばしば引用されるのは、フランクル, V. E.の話です。フランクルは、第二次世界大戦中に収容所体験をしたユダヤ人です。そしてその時の経験が『夜と霧』、『死と愛』に詳細に報告されていますが、こんな下りがあります。うろ覚えですが、趣旨は伝わると思いますので書きますね。

-----
 ある時、収容所内に「クリスマスになったら解放される」という噂が流れた。それを聞いて人々は喜び、仕事に精を出すようになった。とりわけ、その噂を強く信じて希望に満ちて日々を過ごした者があった(彼をAとする)。非常に不衛生な上に慢性的な栄養不足、その状況で過酷な労働を強いられる収容所の日々であったが、Aはその話を聞いてから生き生きと働き始めた。ところが、クリスマスが近づいてきても一向に解放の気配はない。それでもクリスマスまではその噂を信じることができた。だが、クリスマスがやってきた。いつもと変わらない日常。そしてクリスマスが過ぎ、まだ解放されずにいる自分に気づいたとき、Aは死んでしまう。
-----

 フランクルは、「ある意味、彼はクリスマスに解放された」と述べています
 この話は、いつかこのつらい現実に終わりが来ると信じることが、そこを生きる人たちにあたえる力の大きさを、私たちに教えてくれます。

 さて話を元に戻しましょう、比叡山の墓守修行です。墓守修行に就いた人は、死ぬまで代替わりできないのです。どれだけつらくとも、これは自分が生きている限り続く
 つらい現在を生きているとき、その現在が永遠に続くと考えてしまうことは、人を絶望させるに十分な気がします。でも修行だから耐えないといけない。
 
 そうやって墓守の修行を続けていると、ある日、仏様が現れるのだそうです。そして、励ましてくれるわけです。よくやっていますね、とか、これからも精進しなさい、とか
 そして仏様に出会えた墓守は、その後は、墓守の修行に迷いなく打ち込むことができるのだそうです。

 これを踏まえて考えると、修行過程の場合、現実が辛くて仕方ない状態にあり、しかも、「死ぬまで代替わりできない」という決まりがあるためその現状は決して変わらないとしても、その人にとっては、絶望すべき状況ではないのかも知れません。
 たとえ状況は変わらないとしても、日々が重ねられるにつれて、自分自身のあり方が変わっていくからです。考えてみれば、そもそも、そうなることをめざして修行に励むんですよね。そして、修行を続けていれば、本当に変われる日がやってくるのですね。全員が全員そうなのかどうかは分かりません。でもそう考えないと、つまり、その人たちは、「今考えている現状は自分の変化という形で終わりが来る」ことを知っているのだ、と考えないと、そのような修行を続けられるという現実を説明しがたいのです。

 とはいえ、別の説明も可能です。たとえば、その苦しみこそが修行であるとあらかじめ意味づけを与えられている場合には、その苦しみは味わうに足るものだと受け止めることができるかも知れません。自分の行為に意味を感じる事ができる限り、その神話の中に生きることができるでしょう。でも、「○○だから自分はこれをやっているんだ」と言い聞かせながらやっているならば、意味を感じていてもなかなか苦しいんじゃないでしょうか。
 
 あるいは、自分が望むと望まないとにかかわらず、それをすることになっている、と了解している場合も大丈夫かも知れません。これもフランクルが言っていました。「なぜ自分はこの過酷な状況の中でそれでも生きているんだろう」「生きる意味はどこにあるのか」と問い続けていたところから、「自分は生かされている」、たとえば家族が自分が生きることを望んでいるから生きるのだと感じるところへ変化する。この発想の転換を、フランクルは「コペルニクス的転回」と呼び、自身が生き延びられた理由をこの観点で説明しています。

 「なんでそれに耐えられるんだろう」ということをあれこれ考えてみると、苦しい状況の中で力強く生きていく術というものは複数考えられるものですね。宗教的な文脈の中でなされる修行であれば、今まであげたことに加え、また別の次元で、その状況を耐えていく力を与えられているかもしれません。でも、宗教的な背景をもたない中でも、「なんでそれに耐えられるんだろう」という問いに対する答えは、私たちの日常とリンクする形で見つけることができるようです。

 あと一回くらい、修行の話を書こうと思います。最終回をお楽しみに。

修行の過程(1):何を習得しているのか

2009-06-25 10:13:16 | 授業日記
 私が兵庫教育大学で所属している教育コミュニケーションコースは、「教育コミュニケーション論」(火曜2限)という授業をもっています。この授業は、オムニバス形式になっているのですが、授業全体の構成をお互いに把握すべく、自分の担当しない回も出席するようになっています。

 先週と今週は、歴史を専門とする先生の回で、主に芸道におけるコミュニケーションについて話がなされました。

 その中で、お寺の坊さんになる修行の話になりました。その内容があまりに衝撃で、講義中はただただ驚くばかりでした。でも、その後でそこから色んな事を思いめぐらしておりましたので、今日から何回かに分けて紹介していきたいと思います。

適宜、先生の話された内容を紹介していきますが、私の記憶が定かでなくて不正確なところが出てくるかも知れません。お気づきの際はご指摘下さい。

* * * * *

 修行の間は、1年間かけて、色々な教えを伝授されていくのだそうです。教えられる内容は、仏様を呼び出すためのヒンドゥー語や、「印」の結び方など。しかも口頭伝承だそうで、大抵は1度で覚えねばならないそうです。

 日本語でさえも、一度ですべて覚えるのは難しいだろうにヒンドゥー語…
 記憶研究では、意味の分からないものを丸ごとしっかりと(長期にわたって記憶できるほどに)覚えることは非常に難しいことが知られています。
 たとえば、外国の小説を読むと、その登場人物や地名や組織の名前をなかなか覚えられず、その都度その都度、「誰だったっけ…」と確認しに前のページに戻ってはイライラ…なんてことが私にはよくあります。日本が舞台になっていたら、なんとなくでもそれらの名前や名称を知らず知らず記憶することができているのに、外国の場合は一生懸命繰り返し確認したりしないとなかなか覚えることが出来ない。なぜ??

 大抵の場合、私たちは、覚えるべき内容の意味をなんらかのレベルで把握して、既有知識と結びつけるということをしています。そうすることによってその内容は記憶されやすくなるからです。受験の際、皆さんも意味の分からないものを覚えるときにも意味を付けるという作業をしたのではないでしょうか。たとえば、水平リーベ僕の船(私はこれだけ覚えていて肝心の化学式がまったく思い浮かびません)、いい国作ろう鎌倉幕府(この覚え方のおかげでなんだか源頼朝は明るいいい人のような気がしてしまいます…)など。これらは、記憶を定着させるための方略です。

 さて、話を元に戻しますと、修行で伝達される教義の内容ですが、ヒンドゥー語…。想像もつきません。しかも例として先生が示された文言は、単語レベルではなく、「結構長い…」と思うに十分な長さのものでした。それを丸ごと、しかも一度で覚えるなんて大変です。当然既有知識はないでしょうし(その修行に来るくらいの人なら少しはあるのかもしれませんが、それでも日本語のようにはいかないでしょう)、一度きりならば語呂合わせする余裕もありません。語呂合わせしていて罰当たりなフレーズで覚えてしまったら煩悩が増えて修行過程がかえって悪化しそうですよね

 加えて印の記憶となると、動作です。目で覚えた内容を身体でそのまま覚えねばならないのですからますます大変そうです。見て分かっても身体がついていかない、そのうちに忘れてしまうなんてこと、ないのでしょうか…

 いずれにしてもかなりの集中力を要する過程で、そういう日々を1年間延々と重ねるのだそうです。神経がはりつめている状態での1年間って大変そうです

 さらに、身体鍛錬もあって、たとえばヒンドゥースクワットというのがあるのだそうです。スクワットを108回。炎天下の中でも袈裟を着てやるため汗はダラダラ…。それを100セットというのを続けるんだそうです…。これは大変そうです。
 
 そして、そんな過酷な修行の1年間を過ごした後の集大成は、最終試験。
 最終試験と言ってもペーパーテストではなく、やはり口頭伝承だそうです。秘伝の伝承になるのでしょうか、とにかくこれだけは徹底した一発勝負だそうで、その時にしっかりと文言と印を一度で覚えることができなければ、またもう一年間、同様の修行をすることになるそうです
 その場で一発で覚えねばならないというだけでも大変なのに、それがもう一年の修行をするかどうかを決定づける瞬間になるとなれば、相当な緊張を強いられることは想像に難くありません。

 しかも、その最終試験の前、3日間は、なんと、飲まず喰わず眠らずで過ごすんだそうで…。朦朧状態ですよね。普通で考えたら、まずはしっかり休息をとって…と言いたいところですが、決まりだからそうも言ってられません。とにかく、その状態で一発勝負に臨むわけです

 ところが先生曰く、「結構覚えられるんですよね」。80%の人は通るらしいです。普段では考えられないようなことも、その時に高い集中力を発揮することでできるのだそうで。つまり、極限状況にまで追い込まれると、人のコンセントレーションというのは我々が思っている以上にすごいことを可能にするらしいのです

 人の可能性ってすごいと、まずそのことに驚嘆するのですが、いえいえ、この話の本質はそんなところにはありません。

 なぜそれが可能になるかというと、「普段からそれをやっていた」から。
 常日頃から、一度きりで口頭伝承や身体の動きを丸ごと覚えねばならないという状況に置かれていたからこそ、できたというわけです。つまり、1年かけて教義を習得していくわけですが、その時習得されていたのは教義のみではなく、しかるべき時に集中できるという身体でもあったわけです。そういう自分になっていったわけですね。決して、何かを獲得したわけではない、自分自身がどういう人であるかの様式も変わっていっていたのだと考えられます。修行というのは、何かを得る(have)過程ではなく、何かになる(be)過程なのだなあと思いました
 そしてそういう身体を獲得すると、もしかしたら意志ではなく身体が、活動をひっぱるということも起こっていたのかも知れません。

 話をかなり卑近なレベルにもっていってしまうのですが、たとえば、新しい環境への移行もそれにあてはまるのかな。修行ほどの話ではなくても、職場が変わったり、新しい環境に置かれたりしたとき、私たちは、最初は戸惑い、あらゆることにつまずき些細なことがストレスとなります。ですが、時間が経つにつれ、その戸惑いやつまずきは克服され、ストレスもだいぶ少なくなっていきます。それを、「新しい環境に慣れた」と私たちは言い、たとえば「仕事のやり方が分かった」「物や部屋の配置が分かった」など、何を習得したかという内容で自分の変化を語ります。ですが、そのようなレベルと同時に、おそらく、その新しい環境で動ける身体というものも獲得しているのでしょう。

 ここからさらに話を飛躍させると、何かをするためには何かになっていなければならないということも言えるかもしれません。たとえば、「その時になったらやる」と言って普段何もやらない人は、大抵、その時になってもできない。動くべき時がせっかく来ているというのに、動ける人になっていないため、まずは動ける自分になるための時間を必要とするからです。
 非常に多忙な人ほど、メールや手紙の返事が早いなあと感じることがあるのですが、おそらく、その人たちは普段から「動く」という様式の中で過ごしているため、「さあ動こう」というワンクッションなく動けるんだろうなあと思ったりします。
 だから何かをやりたいんだったら、しかるべき方向性が見えていなくても動ける自分にはなっていた方がいい。その中で、まずは様式を作るというのも大事なことのように思います。そしたらきっとしかるべき時にすぐに活動できるのではないでしょうか。

 ちょっと話がとびましたが、私たちの行動や活動を考えるとき、特に主体性の問題を考えるとき、身体の問題ってどう考えたらいいんだろう、身体に意志は想定していいのだろうか、あるいはやはり無意識という言葉で語るべきなのだろうか、身体性っていう言葉があるけれど、あれはどういう意味だったかな、など思いました。
 さらに言うならば、ここで今、私が身体ととらえた内容さえも、身体と言ってしまっていいのかどうか、疑問が残るところです。

 とにかく非常に面白い過程だなあと思って興味津々で聞きました

 さらに修行の話は続きます。次回をお楽しみに。

コミュニケーション過程

2009-06-04 12:46:12 | 授業日記
今週と来週、オムニバス授業「教育コミュニケーション論」の担当をしています。
今週は、コミュニケーションについてのごくごく基本的な理解の枠組みを提示し、そこでやりとりされているものは何か?という問いのもと、授業を展開しました。

その最初の方の段階で、やりとりしている「情報」には、言語レベルのものと非言語レベルのものがあるという話をしました。
言語レベルとは、「何を伝えるか」に関するものであり、非言語レベルとは、「どのように伝えるか」に関するものです。後者には、声のトーンやスピード、間の取り方など“準言語”とよばれるものから、表情やしぐさなど個人の内面を表現あるいは表出するものや、服装や装飾品といったレベルでの自己表現などが含まれます。さらには、相手との距離感や場面なども含まれます。

さて、コミュニケーションにおいて違和感を感じるときはどのような時か。
その1つとして、「言語と非言語のギャップ」をあげることができると思います。私たちは、大抵の場合、言葉とそれにふさわしい声や表情、しぐさなどを、トータルに1つのメッセージとして受け取っています。でもたまに、「口ではああ言っててたけど顔が笑ってなかった」とか、「嫌だといってたけどまんざらでもなさそうだったよね」とかいう場面に出会います。
そしてそれが極端だと、むしろ笑えてくる・・・なんてこと、ありませんか?

それをうまいこと作品にしているのが、竹中直人さんの初期の芸「笑いながら怒る人」です。これは、話す内容と声色は統一されているのですが表情がズレている。なんかそれがおかしいのです。
また、ちょっと趣向は違いますが、「感情をこめてあいうえおを言う人」という作品もあります。これは、「あいうえお」と棒読みで言ったらいいところをむしろ過度に非言語表現で盛り上げていて、それがなんかおかしい、と言うものです。

授業でこの説明しましたが、よろしければご覧ください。

「笑いながら怒る人」
→最後の10秒くらいにあります。これしか見つけられませんでした・・・。
「感情をこめてあいうえおを言う人」は見つけられませんでした。

ところで、言語と非言語のギャップではなく、私たちの日常では、投げた言葉それ自体がうまく受け取ってもらえないということがあります。
相手が自分勝手に解釈したり、自分自身もうまく言葉にできていなかったり…。
なぜそんなことが起こるのか?私たちは、自分たちなりの見方で世界をとらえているのであり、その世界の中で、言葉を解釈したり言語化を行ったりしているからです。言うまでもなく、解釈の様式や言語化の様式は人それぞれ。もちろん、社会化過程の中で、多くの人に共有可能な解釈の様式、言語化の様式というのを身につけていくので大抵ほぼ問題なくやりとりができています。ただし、それは決して、当たり前のことではないのですね。

だから、誤解やうまく伝わらないということは当然起こってくるわけです。
それを前提にしながら、解釈が自分の独りよがりなものになっていないか、自分の言い方で相手に伝わるか、ということを考えないと、永遠に理解し合えないということも起こってきます。
身近な問題でも色々思いつくところ、ありそうですね。「そんなつもりじゃなかった…」など、互いに意味を知っているはずの言葉でも、解釈されて誤解される。
森鴎外の『阿部一族』などは解釈の悲劇の物語といえるでしょう。行動すべてが相手に誤解されてしまって苦しむ姿が描かれています。

結局、コミュニケーションでの情報のやりとりは、お互いの解釈や世界観の中の共有できる部分に支えられて、初めて可能になるわけですね。
そう考えると、互いの自己と自己とがふれあう過程だと考えることもできるでしょう。

このように、コミュニケーション過程がもつ前提故に、私たちは日常においても時に悲しい誤解をしてしまったり、不要な諍いをしてしまったりすることがあります。

でも、その誤解が解けたとき・・・何とも言えない気恥ずかしさやらおかしみやら、感じたこと、ありませんか?

お笑いやコメディには、コミュニケーションの齟齬のおかしさを巧みに作品にしているものが多々あります。
誤解が誤解を生み、とんでもない方向へと展開していく…といった現象も、笑いの種として多く用いられていますね。

お手軽に楽しめるのは、アンジャッシュ「相席」(または、「同業者」)

そしてその手の職人、いや、名人といえば三谷幸喜さん。
「ラヂオの時間」もかなり好きな作品ですが、舞台「君となら」こそ珠玉の作品といえるでしょう。
DVDなどが出ていないのが本当に残念です。出たら絶対買うのに…。

マスター・セラピスト

2009-04-21 17:36:21 | 授業日記
※これは、福島大学の4年生が
卒業論文提出を控えた1月31日に
記載したブログです。
別のところに載せていたのですが、
福島大学中間ゼミ卒業生への敬意を込めて
再掲します。

皆、本当によくがんばりました
現4年生、先輩に続くのだ
君たちならやれる

以下、1月31日に時間を合わせてお読みください。

-----------

先週、インフルエンザにかかり、
それが治るか治らないかのういに今度はひどい風邪をひき、
ここのところ、ほとんど学校に行けない日々が続きました

卒論提出締切目前だというのに・・・

しかし、その間、私の卒論生たちは、火事場の馬鹿力を発揮し、
仲間同士で卒論を添削しあい、構造改革しまくり、
金曜日に学校に行った時には、
それぞれの卒論が、見違えるほど素晴らしいものになっていました。

きっと私が元気でバンバン指導し続けていたら。
「自分たちでなんとかしなきゃ!!」という情熱は、
そこまで燃え上がらなかったでしょう。

ゼミ生の1人が言ってました。
「自分たちの卒論って感じが強くもてるようになった」と。
さらには、この危機を乗り越えたことで自信も獲得
「うちら今、めっちゃ冴えてますよ頭はたらきまくりです」

なんてすばらしいゼミ生たちなのでしょう
やれる子たちだなとは思ってましたが、
ここに来て、彼ら彼女らは飛躍的な成長を遂げています
本当に感心するばかり。

「自分はこんな卒論書いた」と達成感を抱いて
自分の卒論に愛着をもってくれること。
自分の卒論を好きになってくれること。
究極のところ、
私の卒論指導において、それ以上の目的はありません。
なので、上記のような話を聞くことは、この上ない喜びです。

それにしても、私ってえらいと思いませんか。
あえてインフル&風邪のダブルパンチをくらい、
体をはって彼女たちが成長する機会を提供するとは。
なんて高度な教育をしているのでしょう。

心理臨床において、
自分にできることを、あえてできないふりをして
クライエントの成長を導くことができるセラピストは
マスター・セラピストと呼ばれるそうです。

無意識のうちに、インフル菌をあえて吸い込み、
無意識のうちに、風邪菌をあえて吸い込み、
結果、無力となって、結果、相手を成長させたってことは、
私って無意識的にマスター・セラピストなのかしら

いやいや、冗談ではなく、

正直、今まで指導しすぎていたのかもと反省したのです。
問われるままに答えを与えすぎていたのかも・・・
上記目的達成のためには、“「自分の」卒論”だという感覚を奪うことは、
あってはならないことです。
なのに、私の方が度を越してしまっていたように思います。
で、挙句の果てにダウン、ね。

今回のインフル&風邪のダブルパンチは、
彼女たちが“「自分の」卒論”という感覚を取り戻すために、
私が一時的に姿を消すために、罹ったのかもしれません。

いやー、うまくできているもんだね。

卒論中間発表会

2008-11-17 08:27:09 | 授業日記
昨日は、日曜日返上でゼミの「卒論中間発表会」を行っていました。

13:00から延々18:00までの5時間に及ぶ長丁場。
3年生5名(うち1名は就職セミナーのため欠席)、4年生7名が全員発表するので 次から次へと「わんこ研究」状態でした。ですが、3年生は1人15分、4年生は1人30分の持ち時間をフルに使って、それぞれ、自分の問題意識を発表し、それぞれ質問し合ったりアドバイスし合ったり意味や意義や方向性を考えたり、とても濃密な時間でした。

全員の発表が終わったときには、疲れと達成感と充実感で言葉がなく、閉会の挨拶をしようと思ったのですが、思わず「みんな、がんばったやった~~」と発声し、そのまま皆で大拍手!!
本当に皆がんばりました。(でもこれで終わりじゃないのよっ)

3年生はレジュメ形式で、4年生はパワポで発表させたのですが、やはりこういう場を設けるとなんだか違った感じになりますね。

3年生は、いつものゼミと同じ形式での発表だったのですが、やはり緊張感があったためか、これまで考えてきたことの全体像を見直し、これからの方向付けを模索する上で、意味のあるレジュメを作ってきてくれたなと思いました。
改めて大局的に問題意識を聞くことで、教員としても「あ、結局、そういうことがやりたいのか!」と、改めてつかめたところがありました。

それにしても驚いたのは4年生の発表。
後期からプレゼンテーション演習という授業を行っており、分かりやすいプレゼンの仕方というものをめざしてトコトンがんばっていますが、その成果が早くも現れ、プレゼン技術は格段に向上!
自分の問題意識を正確に分かりやすく伝えることができていて、親バカならぬ教員バカは、いたく感動しました。

それはもちろん、プレゼン技術以前に自分の問題意識を分かっていないとできないことです。
これは、4年生の研究を新鮮に感じたこととも関連するかと思うのですが、ツールを変えたことで、自分たちの研究をしっかり見直す機会となったようで。
これまでのファイルを改めて見直したことで、これまでに見えてなかったものが見えてきたり、もともとあった問題意識を今更ながらに思いだしたりして、同じ研究なのに、新鮮に聞こえるほどに、これまでとは違った、しかも、格段に整理のついた研究になってまして。
この作業のおかげで、自分が何をやりたいのか、とても明確になったようで、そのため、伝える力も格段に伸びたのではないかと思いました。

すばらしい!!
ものすごい充実感に満ちた日でした。
どうぞ、これで燃え尽きてしまわず、卒論提出まで2ヶ月ちょっと頑張って進んでいってください。お願いします。というか頑張ろう!!

追記:その後の打ち上げでは、4年生の1人が誕生日だったのでサプライズパーティーを仕込み、ケーキの登場とハッピーバースディの大合唱!
「なかまゼミのなかま」の皆、本当に君たちは素晴らしい!!
この気持ち「頑張ったらものすごく楽しい!!」ということ、
そして、「仲間どうしで励まし合っていける!!」ということを忘れず、
これからも頑張っていこう!!

自分とは(1)

2008-05-07 08:54:06 | 授業日記
キャリア形成論第2回、「自分とは(1)」の回のコメントをようやく読み終えました。

「自分について考えるのは難しいと思っていたけど楽しかった」「少し自分について分かった気がする」「過去とのつながりの中で自分をとらえることができた」など、積極的に作業に取り組んでくれた感想が多く見られて、あのやり方できっとよかったんだ~(とりあえず今は)とホッと胸をなでおろしています。

さらに、「この方法はいろんなことに使える」「今後も必要な時にはやってみたい」など、今後使える自分のツールとして認識してくれた人もいて、嬉しい限りです。

「自分についてわかっていなくてダメだと思った」「自分についてもっと考えないとダメだと思った」といったコメントも見られましたが、それに対して補足。

今回の授業では、「自分のことを理解する」ということを目的にしていたわけではありません。「自分のことを理解する1つの方法・視点」を学び、その結果、何か見えてきたらいいねー、くらいのスタンスでやっています。
なので、「絶対に自分を見つけろ」とか「自分のことが書けないなんてダメだ」という気はさらさらありません。でも、自分について分かっていた方が何かと足場を得やすいし、強く生きていけるとは思っています。また、どうしても自分について何らかの理解をしていなければ進めなくなる状況というのに出会うこともあります。
なので、自分について理解する必要が出てきた時のために、今回、こんな方法でやってみましょう、という提案でした。

自分について考えろ、自分について書け、などと突然いわれても、なかなか難しいもので、しかも、
「そんなことしなくてもこれまで生きて来れたのにー」
「そんなこと言われなくても自分でやってるー」などと思う人にとっては「自己理解」をテーマとする課題はなかなかめんどくさかったりイマイチのれなかったりするものでしょう。
かくいう私もそうでした。やれと言われるとやりたくなくなる…。
しかも、「自分に向きあいましょう」とか「自分を見つめましょう」などという、あたかもそれが至上の価値のようなメッセージを伴って課題を呈示されるととたんにしらけてしまいます。

しかし、今になって、あのときあのワークにもっとちゃんと取り組んでおけば良かった…とか、あのワークの意味はなんだったんだろう(きっと取り組んでいればわかったはず…)とか考えることが実に多い。自分のしらけた気分のために、「食わずぎらい」だったのではないか、とりあえずもっと柔軟に取り組んでおけばそれなりに何かあったのではないか、どんなものにも意外と学ぶ点はあるものだ…。
などと考えることもあり、それで今になってあれやこれやと勉強したりしているわけです。ですが、やはりその時の感覚はその時にしか得られないわけで、できることなら、当時の私に「もっとしっかりやれよ」と言いたい。そして当時と今の変化を楽しみたい。
でものれなかった私も確かにいるわけで。それはそれでその時の感覚であり率直な気持ちです。それ自体が当時の私。

まあ、でも、できるなら、同じく嫌うにしても、「食わず嫌い」ではなく食べた後で「嫌い」と言ってほしいなあ。一生懸命やっている人もいるわけだし…。
ということをやはり授業者としては考えるわけで、当時の私でものれる課題にするにはどうしたらよいのか??ということを基準に、あれやこれやと考えた結果の課題たちでした。

こういう作業は、特に必要のない時(余裕をもってとりくめる時)に一度実践しておけば、きっと後で役に立つ!と私は思っているわけです。必要な時にやると仕事になってしまいますが、今は遊びとしてとりくめるはず。でも子どもは一生懸命遊びますよね。遊びはけっして手抜きという意味ではない。自由度が高い、義務ではない、ということです。一生懸命、遊んでください。

そして、コメントを読む限り、皆さんの多くが一生懸命遊んでくれたんだなーと思って、とても嬉しかったです。

教育相談心理学ガイダンス

2008-04-16 09:52:01 | 授業日記
昨日、「教育相談心理学」の授業ガイダンスを行いました。
36名収容の教室に36名いたので、
昨日出席した皆さんがそのまま授業登録するなら、
もう少し広いところに引っ越しますね。

この授業は昨年から始まった授業なのですが、
昨年も暗中模索の中で、受講生の皆さんにワークやロールプレイを
してもらったりすることを少しずつ取り入れてみました。
今年度は、もっと積極的にワークやロールプレイをやってみようかなと
思っています。
なので、昨日授業で言った2つのルール、お願いします。

ワークやロールプレイは、意外と機会がないとやることがないし、
また、実際に自分が動いてみないと分からないこともあります。
今年度も若干手探りなところがあることは否めないのですが
まあ、それもその時間に起こる「体験」です。
それも含めて味わってもらえればいいなあと思っています。

キャリア形成論ガイダンス

2008-04-14 18:16:55 | 授業日記
福島大学人間発達文化学類1年生の皆さん。
いよいよキャリア形成論の授業が始まりました。

今日あいさつされた先生方の話。
私はまだまだ聴いていたい!と思う話ばかりでした。
皆さんも窮屈な環境の中、かなり集中して聴いてくれていましたね。
私はこの授業、担当回だけでなく、毎回出席します。
一緒に先生方のワールド、楽しんでいきましょうね!

月曜1限、皆さんにとって意味のある時間になるようにお手伝いをしたいと思いますので、
是非、皆さんも積極的に取り組んでいってくださいね。

★今日の報告事項おさらい
・日程変更:4/28は休講なので、それは最後の方に入れ込みます。
・ワークシートは必ず来週(4/21)2枚ともに提出してください。
・毎回、授業終了時にワークシートを回収します。
 自分の学びの軌跡となりますので、しっかりと提出してください。

★次回に関連する重要事項
・教室の件、今、交渉中です。明日以降、掲示板を注意してチェックするようにしてください。

キャリア形成論の振り返り

2008-02-24 10:49:14 | 授業日記
先日、福島大学のFDシンポジウム発表のため、
今年度キャリア形成論の振り返りを行いました。

今年度から、キャリア形成論では
学びの可視化と授業への取り組み促進をめざして
自己評価方式を導入していました。

そこから分かってきたことは色々あるのですが、重要な結果の1つは、
「意識化する」ということはとても重要だということでした。
ここでいう「意識化」とは、自分の方向性をしっかり理解し、
それについて現状評価し、さらに今後の見通しを考える
ということです。
今回、この作業があったものとなかったものとでは、
内容についてはだいたい授業でふれていたという点では共通していたのに
変化の度合いが異なっていたのです。

心理学研究のように十分な研究計画を立ててのものではなかったので
誤差などについてはこれから検討していく必要がありますが、
今回、検討した変数は
A.授業で学ぶことと直接関連するもの(意識化作業なし)
B.自己理解に関するもの(意識化作業あり)
C.自己理解に関するもの(意識化作業なし)
の3つでした。
そのうち、変化の度合いはB.が最も著しかったのです。
B.についての変化は、あまりにきれいな結果として表れて
分析間違ったのではないかと何度もやり直したほどでした。

もちろん、これについては、測定の方法の違いも含め、どれが
最も重要な要因なのかはこれから細かく検討しなければなりません。
また、研究計画をもう少ししっかり立てないといけません。

ただ、キャリア形成論のような、知識を獲得すること以外の側面での学び
(モニタリング能力とか、メタ能力とか、さらには意思決定能力とか、
いわゆるコンピテンシーと包括されるような側面)
がとても重要になる授業では、
それらの側面についての能力をどれだけ意識化させるか、
またそこから、
自分なりにそれをどう伸ばしていくかを考えさせることが
やはり、とても重要なのでは??と実感させていただきました。

★そこから、キャリア形成論受講生へのメッセージ。
どう動いたらいいのかわからない、とか、まだ見えないところへと進む時は、
とりあえずの目標を立てて、そことの関連で自己を定めて
日々を送っていくことは、とても有効みたいですよ。
皆さんは、そういった作業をした側面については、自分が進みたい方向へと
とても変化していました!!

テキストのお知らせ(心理学Ⅱ)

2007-11-19 14:23:46 | 授業日記
心理学Ⅱ②および心理学Ⅱ02受講生へ

本日より、大学生協にて、『あなたとわたしはどう違う?』が販売されます。
いつ納品されるか、ヒヤヒヤしていましたが、来週からはばっちりテキストを
使用しますので、皆さん、購入してください。
http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=408
原油高の影響で、当初の予定よりも値段が上がってしまって申し訳ないです。。。
生協は1割引ですので、是非、生協で買ってください。

今週は、前回からのテーマである「思考のエラー」を説明した後、
パーソナリティ認知(人のパーソナリティをどうとらえるか)の過程で
どのようなエラーが起こっているのかを説明する予定です。
前回配ったプリントの課題をよーく考えてみてくださいね!

家・個・街…の次は?

2007-10-28 17:04:32 | 授業日記
木曜2コマ目は、「家族心理学(社会化の心理)」です。
少人数授業なので、皆の意見を聞きながら進めていけるのがとても楽しみな授業です。

さて。
「家族が変化した」とはよく言われますが、その変化をどうとらえるか、
それをとらえる視点として、目黒(1999)から
①集団性:集団というまとまりを守ること
②両親性ジェンダー:男性・女性である夫と妻、父親・母親が揃っていること
③永続性:家族集団のメンバーシップが交替しないこと
の3点をあげました。ですが、これ、いずれも制度上の問題というよりは、
メンバーシップのあり方ですよね。

では、どのようにしてそのメンバーシップのあり方が変化するのか?について、
カジチバシイの仮説モデルを紹介しました。
「産業のあり方」→「コミュニティが家族に求めるニーズ」→「家族のあり方」
という、一連の流れを追ってみました。
これ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的ですが
1つの仮説モデルとしては面白いと思っています。
(前々回やった「家族の起源」も同じですね。)
このような考え方をたたき台にしながら、
「他に、どんな流れが考えられるのか?」を考えることも、
現在の家族のあり方を考察を深める1つの視点かなー、などと思っています。
どんどん自分なりに考えていってほしいところです。

前回は、そのようなソフト面のみならず、
空間としての家族も変化していることを紹介しました。
「家→個室→街」と、人の居場所が変わってきているということ。
これについては、皆の意見が聞けてとても面白かったです。

何でも携帯できるようになっているということは、
家でしかできなかったことがほとんどどこでもできるようになっているわけで、
家族という空間を守る意味では難しいが、
便利になったという面もやはりあるということ、
その上で、考えるべき問題が新しく出てきているのだということ
や、
携帯電話に対する態度:便利になってきているけど、
生活がおびやかされもする、つまり、侵襲性も高いと感じていること
など、色々考えを聞けて勉強になりました。
空間が枠組みがかわると時間の枠組みも変わる、というところを再認識したのは
とても印象的で、これからも考えていきたいところだなと思います。

また、家→個→街、さてその次は?というところ。
皆さんはどう考えましたか?私は「虚」と言いましたが、どうでしょう。
もう少し皆さんの意見を待てば良かったなーと思っているところです。

実在の対面のコミュニティと、こういったネット上のコミュニティ。
「実」と「虚」と対比的に喋ってしまいましたが、
このネットを介したコミュニティというのは、純粋に「虚」と言い切れないところがありますね。
となると…。
「個」と「公共」の境界のみならず、「実」と「虚」の境界も曖昧になっている??

また、皆さんの意見を聞けるのを楽しみにしています。

ボディ・イメージの理想と現実

2007-10-22 20:05:55 | 授業日記
久しぶりの投稿です。
後期よりはじまりました「青年心理学」。
前回(10/19)は、青年期の身体発達~ボディ・イメージの歪みの話をしました。

いくつも伝えたかったポイントはあるのですが、特に、
ボディ・イメージについて特に理解して欲しかった点は、以下です。

★自分の身体について悩むとき、本人は自分の身体について
 一生懸命考えているつもりでいる。
 しかし、自分の身体を全く見ずに悩んでいることがある。

自分の顔がいやだ、スタイルがいやだ、と悩むとき、
実は、「こうなりたい」「ああいう顔、スタイルがいい」と
そこに意識が集中していることがあります。
本人としては、自分について一生懸命考えているつもりでも、
その思いが強いほど自分が見えてこないというパラドキシカルな面があります。

「理想」は「現実」を引き上げるために機能してほしいもの、あるいは、
「現実」に空想的広がりを与えるために存在してほしいものですが、
ここでは「現実」を否定するために「理想」が存在していることになります。
「理想」に「私」をあてはめて自分を見てしまうとき、
焦点化されるのは、「理想にそぐわない私」の部分。
それ以外のところは見えていない。

なかなか、この辺り、大人になった今でも難しいです。
特に身体についての「理想」は、どこかの他人であることが多い。
その理想的とされる他人との比較において自分をとらえるとき、
実は、自分よりもその比較対象となる他人のことばかり
考えている可能性もありますよね。

つまり、そんな時って、自分について悩みながらも、まったく自分を見ていない。
憧れの、理想の、あの人しかみていない。
そこにあてはまらない私なんか、きらいだー!となってしまうわけです
まあ、外見というのは、いつまでたっても気に入ることはなく
むしろ、気にしなくなることでしか乗り越えられないようにも思ったり。

「理想にそぐわない私」と、「私」そのものとは質が違う。
でも、「現実」を見るということが、なかなか難しいのですよね。

まあ、ボディ・イメージのみならず、自己理解というものは往々にして
歪んでいるわけで。
言ってしまえば、何が歪んでいて何が正しいかも、議論していけばきりがない。

ただ、その歪みが、現実や現在を否定することにつながったり、
否定の根拠になったりする場合には、やはり、その知覚を是正する方がいいように思います。

要は、現実を見るって難しいよね、自分が見ているつもりでも、
その状態を抜けたら、「見てなかったなー」と感じることもあるよね、
という話でした。

つまり、「身体に悩む」という場合であっても、
「身体に」悩んでいるとはかぎらないということ。
「身体」それ自体はちっとも本質的な問題ではなく、
「観念」に悩まされているだけなのかもしれません。


---------------------<ちょっと余談・はじまり>----------------
もちろん、否定的感情を抱くからこそ、その先に成長がある場合もある。
ただこの場合でも、現実吟味は大きな問題となります。
「理想」へと「私」を変えていく段階においても、
もちろん、一足飛びの跳躍がなされる場合もありますが、
どちらかというと、自分の現実を見据えた上での理想接近ストラテジーの方が
有効である可能性は高いでしょう。

それをどう見極めるのか?

ちょっと視点を変えて、どのような時に自分を変えていけるのか、を考えてみましょう。
自分を変えたいと思うとき、変わっていく自分を支えるだけの「足場」があるのか、
が問われるように思います。
変容は、変容しない部分があってこそ、可能になる。
部分的な変化ならそれを支える安定した基盤としての自己肯定感があること
(たとえば、どんなに現在を否定していても、変化可能性など、未来の自己への信頼があるなど)
全体的な変化を求めるならその過程を支える安定した他者がいることなど、
足場を確保することができてはじめて、その変容プロセスは進むでしょう。
(もちろん、ワープという変容もあるでしょう。
 ここではその例外はいったんおいておきます)

そう考えると、結局、動くことができるのか、また、その動きのプロセスを
支えられるだけのものをもっているのか、ということが1つの指標になるのかな。
…トートロジーに陥っていますね。
---------------------<ちょっと余談・終わり>----------------

ナルシストなカルガモ?

2007-04-25 19:12:15 | 授業日記
記事書きが遅れてしまいましたが、月曜日の「精神保健」にて。
現在、発達をメインにやっていて、そこで余談としてカルガモの
インプリンティングの話などをしました。

インプリンティング(刻印づけ、刷り込み):
ニワトリ、アヒル、かもなどのように孵化直後から開眼し、歩行可能な離巣性の鳥類の雛では、孵化後の特定の時期に目にした「動くもの」に対して後追い反応を示す。親だけでなく、多種の動物や人、動くおもちゃ、あるいは点滅光であっても、後追い反応が生じる。この現象を刻印づけ、あるいは刷り込み、インプリンティングという。ローレンツ(Lorenz,K.)によってこの現象が味目手詳しく報告された。(以上、中島義明他編『心理学辞典』より)

これ自体は、おそらくどこかで聞いたことがある方も多いでしょう。

さてさて。授業が終わってから学生が、
「前からずっと気になってたんだけど、
 カモが生まれてすぐ鏡を見たらどうなるんだろう?」
→おもしろい!!そんなこと、考えたこともなかったー!

「絶対、ナルシストになるって!“俺、毛艶いいぜ”とかさー」
→おもしろすぎるっ!毛並みじゃなくて毛艶なんだ!!
あの置物のモデル、俺だぜ、とか言い出すのかな??
卵も産むぜ!とか…あ、今はオスの前提か。

などと皆で大爆笑して楽しい時間を過ごしましたが、
結構、奥の深い質問だなあと思いました。

鏡といえば、鏡の中の像を自己と認識できるのか?という
鏡映実験は伝統的に行われてきましたが…

カルガモ…。確かに、どうなるんだろう??

本当に、ナルシストなカモに成長してしまうのだろうか。
その前に、鏡に突進して死んでしまうのだろうか。
カモの毛が生え替わっても大丈夫なのだろうか。
(→同一だって分かるのだろうか?)
問いは尽きません。
気になって夜も眠れません(…なわけないけど)。
誰か知ってたら教えてください。

入学おめでとう!

2007-04-16 21:13:42 | 授業日記
この4月に福島大学生となった、約300名の新入生の皆様。
改めて、入学おめでとうございます。
月曜1限はキャリア形成論ですね。とうとう始まりました。

世の中はどんどん便利になっています。
少しの動作で、実に色んなことができる、
そういう高度な道具がたくさん開発されています。
「道具が複雑で高度になればなるほど、
それを使う主体の形成が求められる」
これは、私の先生である梶田叡一先生が
『子どもの自己概念と教育』という本で書かれたことです。
すごく印象に残っているフレーズです。

そして、この世の中にあふれており、私たちに与えられている「自由」。
その自由の海をどう泳いでいくのか、一緒に考えていきましょう。

3月のとあるフォーラムで聞いたお話:
教員が電車に乗っていると、学生がいたので声をかけてみた。
彼は、自衛隊になることを決めたという。
「自衛隊って規則が多くて大変だろう」
と教員が尋ねると、彼はこう答えた。
「いいえ。僕にはそれがいい。大学での自由はとても辛かった。
 だから僕は自衛隊に行く。自由がない世界の方が居心地がいい。」
教員にフォローをするように、彼は続けた。
「でも大学で自由を味わったからそれが向かないことがわかった。」

私はこの手の話は、心に留めておくべきだといつも思います。
自由というのは、あるレベルまでは、とても辛いことです。

しかしやはり、大学では、皆さんに自由を、
そして同時に責任を与えていこうと思います。
自由の中を適切に泳ぐということを試行錯誤してほしい。
自由の波をもがいているのは、私も一緒。
皆さんに向き合いながら、自分自身もきっと成長していく気がします。

一緒にがんばっていきましょう!
皆の大学生活がハッピーに展開していくことを祈っています。