前回のブログで、修行中に仏様を見るという話を書きました。
辛い修行に耐えているある日、修行僧は仏様に出会い、
仏様が何かありがたい言葉をかけてくれたり
あたたかいまなざしや微笑みを向けてくれたりして、
それによって大きな救いをいただくのだそうです。
実際に、仏様に出会えたわけではありません。
その人が仏様の幻覚を見るわけです。
幻覚自体は誰にでも起こりうることで、
人は、3日くらい眠らずにいると、
幻覚を見たり幻聴を聞いたりするようになることが知られています。
それはそうとしても、ここで考えたいのは、
たとえ幻覚であっても
「仏様」と出会ったというその出来事の意味です。
前回のブログで、この「仏様」に出会えることで、
その後、迷いなく修行に精進できるようになると書きました。
つまり、その経験によって、大きな変化を体験すると。
そして、なぜその修行に絶えられるかという問いの答えの1つとして
自分の行為に意味を感じる事が出来るという点にふれました。
これは、言い方を変えると、
自分がやっていることを自分で肯定する
あるいは納得することが出来るということです。
このような感覚を得るには
自分でその意味をつかみとる事も大事です。
アイデンティティ論で説明すると、
「他者からの承認によって確信がより強くなる」と
言う事が出来るでしょう。
かつて、アイデンティティ論者の西平直先生が、
学会発表論文集で書いておられた文言は詩的で
とても印象に残っています。
「進学するか就職するか迷っていた大学生。
自分の中ではもう結論は出ている。しかし、自信がない。
その時、信頼する先生にもらった言葉、「君ならやれる。」
その一言がほしかった。」
そしてこの時承認してくれる人は近所の人とかでは意味がない、
自分がこれから参入していこうとする社会における
意味のある他者であることが重要だとされています。
その意味で、仏様というのは、この上なく意味のある他者です。
その他者に承認されるということはこの上ない力となり、
自分が進んでいく上で大きな勇気をくれるでしょう。
ですが、ここでの仏様との出会いの意味は、先日書いた3点目、
自分が何かを選んだのではなく大きな力に運ばれてここにいる、
自分が世界の中に置かれている自分の定位置を定めることができる
ということを促してくれたという意味の方がすっきりする気がします。
自分以上の大きなものに支えられて生きているということを知ると、
自分自身をどこかに「委ねる」感覚が得られるのかも知れません。
そうなると、もうそれ以上、意味を問わずにいられるようになります。
自分の確信が正しいのかどうか、その次元も飛び越えるわけです。
私の学部時代の恩師であり自己意識研究者の梶田叡一先生は
自己意識の発達過程の中で、主体性や自己責任性など、
主体としての自己の意識の形成を重視しますが、
その確立の後、それを超えた存在との関係性の自覚ということも
重要なプロセスとして進められるべきであると言います。
個人を確立する事、自分で自分の主体を引き受ける事は
非常に大事ですが、それで終わりではなく、その後さらに、
それを再度世界に戻すプロセスがもたれるべきだと。
それを彼は、「垂直軸の自己意識」と呼びます。
現時点で色々な人と出会ったり、関係性をもったりして、
生活空間の中で無限に広がる自己意識を「水平軸の自己意識」と呼び、
それとは別次元の、自分たちの了解可能な範囲を超えた、
霊的な部分といってもよいだろうし、世界観を伴うといってもよいような
そういう自己意識を「垂直軸の自己意識」というわけです。
「自分は生かされている」という感覚です。
もちろん、主体が確立できない、流されてばかりいるような時には
この感覚は肯定的には作用しないでしょう。
また、垂直軸の自己意識の内容は非常に私秘的であったり
検証不可能であったりすることもあるでしょう。
でも、人は、何らかの神話の中に生きていると言われます。
その神話を得る事で、逆説的ではありますが
現実を力強く生きる事ができるようになることがあります。
(→このことを知りたい人はこちらをどうぞ。)
仏様に出会うというのは、この「垂直軸の自己意識」の
獲得なのではないかと思いました。
今回で修行の話は終わりにしようと思ってましたが、
これに関して、もう1トピックだけ付け加えます。
続きをお楽しみに。
辛い修行に耐えているある日、修行僧は仏様に出会い、
仏様が何かありがたい言葉をかけてくれたり
あたたかいまなざしや微笑みを向けてくれたりして、
それによって大きな救いをいただくのだそうです。
実際に、仏様に出会えたわけではありません。
その人が仏様の幻覚を見るわけです。
幻覚自体は誰にでも起こりうることで、
人は、3日くらい眠らずにいると、
幻覚を見たり幻聴を聞いたりするようになることが知られています。
それはそうとしても、ここで考えたいのは、
たとえ幻覚であっても
「仏様」と出会ったというその出来事の意味です。
前回のブログで、この「仏様」に出会えることで、
その後、迷いなく修行に精進できるようになると書きました。
つまり、その経験によって、大きな変化を体験すると。
そして、なぜその修行に絶えられるかという問いの答えの1つとして
自分の行為に意味を感じる事が出来るという点にふれました。
これは、言い方を変えると、
自分がやっていることを自分で肯定する
あるいは納得することが出来るということです。
このような感覚を得るには
自分でその意味をつかみとる事も大事です。
アイデンティティ論で説明すると、
「他者からの承認によって確信がより強くなる」と
言う事が出来るでしょう。
かつて、アイデンティティ論者の西平直先生が、
学会発表論文集で書いておられた文言は詩的で
とても印象に残っています。
「進学するか就職するか迷っていた大学生。
自分の中ではもう結論は出ている。しかし、自信がない。
その時、信頼する先生にもらった言葉、「君ならやれる。」
その一言がほしかった。」
そしてこの時承認してくれる人は近所の人とかでは意味がない、
自分がこれから参入していこうとする社会における
意味のある他者であることが重要だとされています。
その意味で、仏様というのは、この上なく意味のある他者です。
その他者に承認されるということはこの上ない力となり、
自分が進んでいく上で大きな勇気をくれるでしょう。
ですが、ここでの仏様との出会いの意味は、先日書いた3点目、
自分が何かを選んだのではなく大きな力に運ばれてここにいる、
自分が世界の中に置かれている自分の定位置を定めることができる
ということを促してくれたという意味の方がすっきりする気がします。
自分以上の大きなものに支えられて生きているということを知ると、
自分自身をどこかに「委ねる」感覚が得られるのかも知れません。
そうなると、もうそれ以上、意味を問わずにいられるようになります。
自分の確信が正しいのかどうか、その次元も飛び越えるわけです。
私の学部時代の恩師であり自己意識研究者の梶田叡一先生は
自己意識の発達過程の中で、主体性や自己責任性など、
主体としての自己の意識の形成を重視しますが、
その確立の後、それを超えた存在との関係性の自覚ということも
重要なプロセスとして進められるべきであると言います。
個人を確立する事、自分で自分の主体を引き受ける事は
非常に大事ですが、それで終わりではなく、その後さらに、
それを再度世界に戻すプロセスがもたれるべきだと。
それを彼は、「垂直軸の自己意識」と呼びます。
現時点で色々な人と出会ったり、関係性をもったりして、
生活空間の中で無限に広がる自己意識を「水平軸の自己意識」と呼び、
それとは別次元の、自分たちの了解可能な範囲を超えた、
霊的な部分といってもよいだろうし、世界観を伴うといってもよいような
そういう自己意識を「垂直軸の自己意識」というわけです。
「自分は生かされている」という感覚です。
もちろん、主体が確立できない、流されてばかりいるような時には
この感覚は肯定的には作用しないでしょう。
また、垂直軸の自己意識の内容は非常に私秘的であったり
検証不可能であったりすることもあるでしょう。
でも、人は、何らかの神話の中に生きていると言われます。
その神話を得る事で、逆説的ではありますが
現実を力強く生きる事ができるようになることがあります。
(→このことを知りたい人はこちらをどうぞ。)
仏様に出会うというのは、この「垂直軸の自己意識」の
獲得なのではないかと思いました。
今回で修行の話は終わりにしようと思ってましたが、
これに関して、もう1トピックだけ付け加えます。
続きをお楽しみに。